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第2章 カメラの目 ― 景色の正確な記録   

    

1. 太宰治の「富嶽百景」

大正・昭和の著名作家太宰治は,随筆「富嶽百景」[1] の冒頭に次のやうに書いてゐる。

「富士の頂角,廣重の富士は八十五度文晁(ぶんてう)富士も八十四度くらゐ,けれども,陸軍の實測圖によつて東西及南北に斷面圖を作つてみると,東西縦斷は頂角,百二十四度となり,南北は百十七度である。廣重,文晁に限らず,たいていの繪の富士は,鋭角である。いただきが,細く,高く華奢(きゃしゃ)である。北齋にいたつては,その頂角,ほとんど三十度くらゐ,エッフェル鐵塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども,實際の富士は,鈍角も鈍角,のろくさと拡がり,東西,百二十四度,南北は百十七度,決して,秀抜の,すらと高い山ではない。たとへば私が,印度かどこかの国から,突然,鷲にさらはれ,すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて,ふと,この山を見つけても,そんなに驚嘆しないだらう。ニツポンのフジヤマを,あらかじ(あこが)れてゐるからこそ,ワンダフルなのであつて,さうでなくて,そのやうな俗な宣傳を,一さい知らず,素朴な,純粋の,うつろな心に,果して,どれだけ訴へ得るか,そのことになると,多少,心細い山である。低い。裾のひろがつてゐる割に,低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば,少くとも,もう一・五倍,高くなければいけない。」

    

肖像寫眞からはデカダン風に映る太宰治が,電燈の下で等高線圖に定規を置いて富士山の断面圖を作成してゐる,また繪畫に分度器を當てて山の頂角を計ってゐる様子は,想像するだに興味深い。    

    

文豪によって書かれた文章を批評するのは聊か烏滸がましいが,上記のくだりには自己矛盾のあることが否めない。太宰は畫家が富士の山容を強調するために實際より鋭く描ゐたのを上段(あげつら)ひながら「あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば,少くとも,もう一・五倍,高くなければいけない。」と結んでゐる。

    

文學作品の中に書かれた結果を檢証することは良い趣味とは言へないが,過去に科學研究を生業とした愚生の癖から,敢へてそれをやってみた。地形圖は最新のGIS (地理情報システム) のデータから作成,頂角の解析は CorelDraw 上で,半手作業的に行った,結果を Fig.1 に示す。

    

    

Fig.1 QGIS によって作成した富士山の等高線圖 (2022年10月作成)。

    

    

測定した富士山の東西断面の頂角は 124.0±0.5°,南北断面の値は 121.0±0.5° で,前者は太宰が陸軍實測圖に基いて得た結果に一致したが,後者は太宰のそれより少し大きかった。

    

太宰が計った歌川廣重,谷文晁および葛飾北齋の繪畫の頂角 (それぞれ,84°,85°および30°) が,それぞれの畫家の複数の作品の中のどれかは不明だが,適當な作をピックアップして CorelDRAW 上で解析してみたところ,實際の富士より鋭く描かれてゐるという太宰の觀察が確認された。Fig.2 參照。

    

    

(1)  (2)  (3) (4)

Fig.2 太宰治の「富嶽百景」に書かれた畫家の作の富士山の頂角。 (1) 歌川廣重「不二三十六景」の中,駿河富士沼 (1852)[2], (2) 谷文晁「富士山」 (1802)[3], (3) 葛飾北齋「富嶽百景」の中,深雪の不二 (1834)[4], (4) 葛飾北齋作「富士越龍圖」,肉筆畫 (1849)[5]

    

    

因みに富士山の略々眞北に位置する河口湖畔から撮った寫眞について調べてみたところ,頂角は 124.0° で,GIS による地形圖から得た値に一致した。Fig.3 参照。

Fig.3 富士山の北に位置する河口湖畔からの寫眞 (2015.04.24,筆者撮影) の富士山の頂角。

    

    

序に近現代の畫家數名の作品について調べた (Fig.4)。

    

    

(1) (2) (3) (4) (5) (6)

Fig.4 近代畫家によって描かれた富士山の頂角。

(1) 横山大觀「神嶽不二山」 (1940),紙本着色[6]; (2) 梅原龍三郎 「三津浜富士の圖」 (1949),855×985,油彩・キャンバス,[7]; (3) 平山郁夫「小泉富士」 (2005),紙本彩色,80.3×116.7, 平山郁夫シルクロード美術館[8]; (4) 棟方志功「金富士の柵」,板画[9]; (5) 棟方志功「富嶽頌・赤富士の柵」,版画[10]; (6) 草間彌生「富士」 (1982), アクリル・コラージュ,15.8×22.7[11]

    

    

平山郁夫の作では頂角 122.5°であって,寫眞との差は −1.5° であった。横山大觀の繪もそれに近いが,他の作者の作品では,高さが相當に強調されてゐる。取分け草間彌生の作では富士山が極端にシャープに描かれてゐて,正しくエッフェル鐵塔のやうな富士である。

    

インドネシアのジャワ島は,島全体が恰も火山によって形成されたと思へるほど,島中に無数の火山がある。それらの姿は例外なく富士山型のコニーデ (Konide,円錐形火山) である。Fig.5 參照。

    

    

Fig.5 ジャワおよび周辺島嶼の火山 (2022年11月,QGIS により筆者作成)

    

    

最高峰は東ジャワのスメル山 (別名:マハメル山,3.676m) であるが,中部ジャワ・ジョクジャカルタ北にあるムラピ山 (2,930m) は,有史以来絶え間なく噴火を續ける山として有名である。以前に,ジャワの歴史と文化を勉強したときに集めたバリ島やテルナテ島 (北マルク諸島) を含むインドネシア各地の火山のデータから,ムラピ山を選んで,繪畫に描かれた,あるいは寫眞に撮られた山の頂角を Fig.6, 7,および 8 に記す。

    

(1) (2) (3)

Fig.6 ムラピ山,西方クドゥ盆地・ボロブドールからの眺望。

(1) F. C. Wilsen によるスケッチ (ca.1850)[12]; (2) スケッチ (作者不明)[13]; (3) ボロブドゥールの日の出。筆者撮影 (2004.6.19,5:34′32″)[14]。左 (北) がムルバブ山,右 (南) がムラピ山。

    

    

(1) (2)

Fig.7 ムラピ山,南東のプランバナンからの眺望。

(1) H. C. Cornelis によるプランバナン・ロロジョングラン寺院のスケッチ (1807)[15]; (2) Panoramio による寫眞[16]

    

    

(1) (2) (3) (4)

Fig.8 ムラピ山,南方あるいはジョクジャカルタからの眺望。

(1) Walter Spies による繪畫 (1824)[17],部分; (2) F.W. Junghuhn による繪畫 (1836),「南方より見たムラピ山」[18]; (3) Raden Sareh による油繪 (1965), 「ムラピ噴火,夜景」[19]; (4) ジョクジャカルタ・Hotel Inna Garuda からの寫眞[20]

    

    

ムラピ山は歪んだ円錐形であるから,頂角は觀る場所によって異なり,寫眞上で解析したところ,西のボロブドールからで 107°,南東のプランバナン平野からで 104°,南のジョクジャカルタからでは 121° であった。個々の繪畫についで言及することは省くが,オランダで学んでインドネシア近代繪畫の祖と呼ばれた貴族出身のラデン・サレー (Raden Saleh Syarif Bustaman,1811 –1880) のジョクジャカルタからの眺望「ムラピ噴火,夜景」(Fig.8 (3)) では,頂角 87°と,山容が最も鋭く描かれてゐる。

    

他の作家の作品でも,山頂は實際より狭く描かれてゐるが,注目すべきは,イギリスのジャワ侵略時期 (1811-15) に英領インド副総督スタンフォード・ラッフルズに命ぜられて土に埋もれた中部ジャワ古代遺跡の清掃に携った H. C. コルネリス (Cornelis) 中佐 工學士のロロジョングラン寺院のスケッチ (Fig.7 (1))スタンフォード・ラッフルズ『ジャワ史』に収録) の背景に見られるムラピ山の頂角で,寫眞からの値,104° に一致した。因みに寫眞術が發達する以前,コルネリス中佐が持合せたやうな寫生技能は事物のイメージ記録に不可欠であった。

    

以上が太宰治の觀察のフォローアップである。本稿で例に取上げた山の形について言へば,「畫家は網膜に映った實像より,その特徴である高さを強調して描く」というのが上述の調査から得た結論である。

    

とは云へ,Fig.9 に示すやうに,等高線圖を色んな方位角で切った斷面圖を作ってピークを見てみると,頂角が必ずしも山の傾斜が嶮しいかなだらかなのかを表す指標とにならないことに氣付く。別法として,等高線の積み上げを楕円錐にシミュレートして偏差を計算するやうな方法も考えらるが,左様な指標は学術的に意味がないので保留した。

    

    

   

Fig.9 QGIS によって作成したの富士山等高線圖 (右に再掲) 色んな方位角で切った斷面圖のピーク頂角と方位角との関係。右は依存性。右は富士山等高線圖 (再掲)。

    

    

2. 司馬江漢

草稿をここまで書いてから江戸時代の畫家司馬江漢 (本名:安藤吉次郎または安藤峻,1747 - 1818) を思ひ出した。彼については日本における銅版畫の創始者であったくらいのことしか覺へてゐなかったが,調べて驚嘆,好奇心の塊のやうな人物であって,池内了教授の著[21] に副題で「江戸のダ・ヴィンチ」と称せられたほどの鬼才であった。

    

江戸時代の年代記『武江年表』[22] を紐解いたところ,次の2件の記述があった (句讀点は適宜修正)。

    

(1) 増訂武江年表 巻之七, 享和年間 (1801-1803) の項:

「浮世繪師二代の鈴木春信といひしもの*,長崎に至り蘭畫を學び,後江戸に歸り世に行はれ,名を司馬江漢と改む。又銅板**を日本に草創せるも此人の功也。此頃迄山水の遠景を畫 (えがき) たる一枚繪を浮繪と云,今此稱なし。」 [筆者註] もの* = 者; 銅板** = 銅板畫,ここでは腐食銅版畫。

    

彼は若くして浮世繪師・鈴木春信に師事,師の没後に描いた浮世繪に「春信」の落款を付したが,誰にも見破られなかったと言う。蘭畫に関しては長崎行の前に平賀源内から教はり,「秋田蘭畫」を創始した久保田主藩主佐竹曙山 (義敦) や藩士・小田野直武の知遇を得たと傳はる。

    

(2) 増訂武江年表巻之八, 文政2 (1819) 年の項:

十月二十一日,司馬江漢峻卒,七十二歳,不言道人と號す。江戸にて西洋畫をなし行はる。文才もありし人にて長崎の紀行をあらはし,西遊旅譚と號し刊行せり。

筠庭云,司馬江漢はじめ町繪師なりしが,長崎へ行き蘭畫を學び,江漢と改名して江戸に顯はる。文才もあり。西遊旅譚は鯨を獵る事(けやけ)くはしくかきたり。いつの頃にか,佛國歴象編の作者に,その著編の事をいひけるは,今漢土も我國にも,暦法は西洋の法を御用ひなるに,天竺の暦日の事をいはるゝは如何とて,彼是論じたりとぞ,彼作者もこれを恐れて,東叡山にたより首尾よく刊成るよし聞て,江漢またこれを恐れ**,いづちへかうせたり,程へて又出たりといへり,度々出没したるこそおかしけれ。 [筆者註] 尤* = 異常に; 恐れ** = 恐れ入る (江戸語)。***佛國歴象編 =文化7年 (1810) 刊の須弥山宇宙論,作者 =普門円通 (1754 - 1834)。天竺の暦日 (ヒンヅー暦) = 太陰太陽暦。東叡山=上野寛永寺の山号。

    

喜多村筠庭は,葛飾北齋を酷評したやうに忌憚ない評論家であったが[23] ,江漢には好意的であったと讀取れる。補足するなら,畫才,文才に長けた江漢は,窮理學 (科學),天文學,気象學,地學,醫學など全ゆる分野に興味を持ち,様々の装置の自作や測定を行った。また平賀源内との縁で前野良澤からオランダ語を學んだ。彼のオランダ語は初級レベルであったとの説があるが,一定程度の力量はあったと想像される。例へば,當時の世界の地理,地政を解説した『地球全圖』および『地球全圖略説 (寛政4,1792)』,太陽と衛星の関係,蝕の現象などを解説した『和蘭天説 (寛政8,1796)』等は,蘭書の正確な譯書と目される。また,後述するやうに,彼は長崎の阿蘭陀商館では,商館長とオランダ語で會話した。『地球全圖』のコピーを Fig.10 に示す。

    

    

  

Fig.10 『地球全圖』[24]

    

    

『武江年表』の記事にある『西遊旅譚』は,天明8年 (1788年) 4月に江戸を發って長崎に赴き,翌年帰着するまでの長旅の繪筆記 (1803年刊) であって,同中随所のスケッチには,視野の中の要所要所が,恰も現代の科學記事の挿入圖であるかのやうに,擬遠近法でもって克明に描かれてゐる。參考のため,その4点を Fig. 11 に示す。鯨については,全248ページ中,實に41ページを割いてゐる。

    

    

     

Fig. 11 司馬江漢『西遊旅譚 (1803) 』の中のスケッチ。左より,「京都・三条橋より四条を望む」; 「長崎阿蘭陀商館・商館長の部屋」; 「生月島・異なる鯨の詳細」; 「生月島・肉納屋/鯨肉加工場」。国会図書館デジタルコレクション。[25]

    

    

 彼の天文學/気象學ならびに科學に関する蘊蓄は,自著刻白爾(コペルニクス)天文圖解(文化5年,1808)』および『天地理譚(文化13年,1816)』に集成されてゐる[26]。  

     

 司馬江漢が工夫自作したものには,銅版畫はもとより,和蘭茶臼 (コーヒーミル),トンケルカアモル (donkerkamer, 暗箱=カメラオブスクラ),ヲルコル (orgel,オルゴール),エレキテル,オルレレイ (天球儀),タルモメーテル (温度計),バルモメーテ ル (乾濕計),耳鏡 (補聴器) から,銅版畫覗眼鏡までに及んだ。実際,彼は金属加工から硝子細工までもを熟した器用人であった。精巧な機械や洗練された材料がない状況下で,彼は自分の目的に叶った道具を作り,材料を探し求めた。現存する和蘭茶臼を Fig. 12 に示す。江漢が硝石と水銀で作った温度計および乾濕計を Fig. 13 に示す。

     

    

Fig. 12 司馬江漢制作の和蘭茶臼 (豊田産業技術記念館藏)[27]

    

    

 

Fig. 13 左:『天地理譚(文化13年,1816)』の中に描かれた司馬江漢自作の寒暖計ならびに氣壓計[28]。右:自著刻白爾天文圖解(文化5年,1808)』の中の圖解[29] 。左圖の右端は「鉤股弦の法(ピタゴラスの定理)」の解説。

    

    

醫學の分野では『種痘傳法(文化8年,1813)』を著した。薬研に代へて用いられた和蘭茶臼および耳鏡(補聴器)もこの範疇に入れて良いであろう。

    

繪畫に関しては,自著『春波樓筆記抄 (1811) 』[30]の中で,次のやうに述べてゐる。

    

「畫は其物を眞に寫さざれば畫の妙用とする處なし。富士山は他國になき山なり,之を見んとするに畫にあらざれば見る事能はず,然りといへども只筆意筆法のみにして,富士に似ざれば畫の妙とする處なし。之を寫眞するの法は蘭法なり。蘭畫と云ふは我日本唐畫の如く筆法,筆意,筆勢と云ふ事なし。只其物を眞に寫し山水は其地を踏むが如くする法にして,寫眞鏡と云ふ器あり,之を以て萬物をうつす。故にかつて不見物を描く法なし,唐畫の如く無名の山水を寫す事なし。

    

又畫を作るに五彩の畫の具は皆膠水を用いず臘油を以て調和して之を作る。

貴人の席上酒遊の傍にて畫く事能はず,文字と同じく戯に畫く法に非ず國用の具なり。吾國の人は萬物を窮理する事を好まず,天文,地理の事をも好まず,淺慮短智なり。予此日本に居て吾國の人に(たが)ふは甚しき(あやまり)なり。

    

吾國畫家あり,土佐家狩野家近來唐畫家あり,此富士を寫す事を知らず。探幽富士の畫多し,少しも富士に似ず,只筆意筆勢を以てするのみ。又唐畫とて日本の名山勝景を圖する事能はず,名もなき山を畫きて山水と稱す。唐の何と云ふ景色何といふ名山と云ふにあらず,筆にまかせておもしろき様に山と水を描きたるものなり。是は夢を畫きたると同じ事なり,是は見る人々描く人も一向理のわからぬと云ふものならずや。 (句読点修正)」

    

江漢に掛れば,狩野探幽も形無しである。參考のため Fig. 14 に數点の探幽による富士山の圖を示す。

    

    

(1) (2) (3) (4)

Fig. 14 (1) 狩野探幽「富士畫賛」 紙本水墨[31]; (2) 狩野探幽「富士山圖」,103x44cm[32]; (3) 狩野探幽 「富士図」松岡美術館[33]; (4) 狩野尚信 (探幽の弟) 「富士圖」[34]

    

    

確かに江漢(のたま)ったやうに,西洋の風景畫は対象を見て描かれたのに対して,日本には対象を見ずして揮毫された色紙や詩軸畫が存在する。筆者は,この當り前の事實を彼のコメントを讀んで初めて氣付かされた。

    

猶,文中の寫眞鏡はカメラ・オブスクラのことである。参考に,平賀源内著『蘭説辨惑・磐水夜話 (1799) 』に書かれた寫眞鏡のページを Fig. 15 に示す。

    

    

Fig. 15 平賀源内著『蘭説辨惑・磐水夜話 (1799) 』の寫眞鏡のページ[35] 。原文讀下し:「問曰く,箱のうちに硝子の鏡を仕懸け,山水人物をうつし畫ける器,此方にて寫眞鏡と呼べる者あり。 本金製のよし,何と云ふものにや。答て曰,これは『どんくる・かあむる』といふ器なり。此方好事家も往々擬製する者あり,甚だ工夫したる器なり。實に共所を得たりと云ふべし。黄履莊が臨畫鏡は此物なるべし。 (漢字原文のまま,変体仮名→平仮名に変換)」 [筆者註] 「どんくる・かあむる」は,donkere kamer (英・dark room) の訛。黄履莊は清朝初期の科學者。

    

司馬江漢作の繪畫の中,遠近法に則した例として,Fig. 16 に「縁側二美人圖」および「楊弓場圖」を示す。

    

    

   

Fig. 16 司馬江漢「縁側二美人圖」[36] および「楊弓場圖」[37] 。落款は何れも「春重」。それぞれの右側は,筆者により透視線および水平,垂直線の加えられた圖であって,兩圖が「1点透視圖法」に叶ってゐることが分る。「縁側二美人圖」は,引用元の註に明和年間 (1764-1772) 作とあり,長崎から江戸に帰って後に作られたものと推定される。「楊弓場圖」も同じ頃の作と思はれる。

    

    

江漢自身,数多の富士山の繪を描いた。Fig. 17 に,『西遊旅譚 (1803) 』にある数点の中の1点と,1796年作の「相州鎌倉七里浜圖」を示す。

    

    

  

Fig. 17 左:司馬江漢『西遊旅譚 (1803) 』[38] の中の蘆ノ湖畔賽の河原から見た富士山。右:司馬江漢「相州鎌倉七里浜圖」の富士,絹本油彩。神戸市立博物館藏[39]

    

    

両畫とも遠近法的に描かれてゐるが,富士山の頂角は,測ってみたところ,101° および 110° であって,實際よりは可成り狭かった。

    

司馬江漢の肖像は,Fig. 18 に示す自著刻白爾(コペルニクス)天文圖解 (文化5年,1808) 』にある自畫像,江戸末期から明治に掛けての油繪畫家・高橋由一が敬恭を込めて描いた「司馬江漢像 (1875-1876頃)」等に見ることができる。

    

    

  

Fig. 18 左: 『刻白爾天文圖解』にある司馬江漢晩年の自畫像[40]。右:高橋由一「司馬江漢像 (ca. 1875-1876) 」,油彩,東京藝術大學美術館所藏[41]

    

    

司馬江漢に関する書物は現代に至るまで数多出版されてゐるが,彼の人となりおよび業績が客觀的に書かれた本として,ドナルド キーン,『二つの母国に生きて』1987[42] および池内了『司馬江漢;江戸のダ・ヴィンチの型破り人生』 2018[43] を筆者は挙げたい。

    

ドナルド キーン教授は,上記の著の「江戸の洋画家・司馬江漢」の節で,彼は「基本的には画家であったが,同時に西洋科学の紹介者でもあった。とても面白い日記や随想集も何冊か上梓しているし,晩年には哲学者でもあったと言へるだろう。」と述べ,「黄泉の国から日本人を一人だけ招いて会話を楽しむことが許されるとしたら,私は司馬江漢を選びたいと思うことがしばしばある。」とまで仰せられた。

    

因みに,ドナルド・キーン教授の別の著,The Japanese Discovery Of Europe, 1720-1830: Revised Edition[44] に次の行がある。

    

オランダ人は外見だけでなく,非常に奇妙な生き物と見なされていた。 ... ある大名が,本多利明に,にも拘らずオランダ人は,斯様な素晴らしい美術品を作り得るかと尋ねたことがある。本田は 「動物でさえ驚くべき能力を發揮できる。」と皮肉を込めて答えた。同様の質問に,司馬江漢はは,「貴殿の言うことが本當なら,人間は獣ほど賢くない」と答へた[45]

    

彼は商館長の部屋への訪問について記録した。「椅子の列があり,それぞれの傍らには,花瓶の如き高さ約2フィートの銀の痰壷が立っていた。フロアマットの上には花柄のラグが敷かれ,天井からはガラスのシャンデリアが吊下っていた」。司馬が少し馴染めない風に部屋を眺めてゐると,所長が長いパイプを手に入ってきて,「ここは素晴らしい場所ではありませんか?」と満足そうに叫んだ。司馬は「目が眩む」とだけ答えた[46]

    

池内了教授によれば,司馬江漢は畫家としては「町繪師」であって,土佐派,狩野派などの繪師が幕府や諸大名などの庇護を受けたのに反して,生涯パトロンを持つことのない自由人であった。

    

司馬江漢に關する調査の結論は以下の通りである。日本では,「この道一筋」が尊ばれる慣習があって,多藝多才の司馬江漢が學者によって正當に論ぜられることは少なかった。例へば昭和の著名な評論家・中野好夫教授の著『司馬江漢考』[47] では,虚言癖のある傍若無人な人物として一蹴されてゐる。

    

本稿のテーマから外れるが,司馬江漢には「東海道五十三次」が存在し,廣重のそれの元繪でなかったかと云ふ説が1990年代に提唱されたが,眞面な反応はなかったやうである[48] 。學会や業界が,廣重の價値を下げられては困ると考へたからであらう。

    

    

    

 參照文獻  

[1] 初出:『文体』1939年2月号,3月号

[2] https://jmapps.ne.jp/spmoa/det.html?data_id=2217

[3] https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tani Bunchō 谷文晁 - Mount Fuji - TL42147.36 - Harvard Art Museums.jpg

[4] https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8942999

[5] https://en.wikipedia.org/wiki/Hokusai#/media/File:Hokusai-fuji-koryuu.png

[6] https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=1609

[7] http://www.nakata-museum.jp/collection/category3.php

[8] https://silkroad-museum-collection.jp/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%AF%8C%E5%A3%AB/

[9] https://miraika-art.jp/buyingitem/a831/

[10] http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2016/07/post-e796.html

[11] https://www.fujiyama-museum.com/exhibition/collection/kusama-yayoi-huji.html

[12] http://www.namaste.it/brbdr/drawings/xc5.htm

[13] http://www.kew.org/mng/gallery/636.html

[14] http://www.maiguch.sakura.ne.jp/ALL-FILES/ENGLISH-PAGE/JAVA-ESSAY/default-java-essay-e.html

[15] Antiquarian, Architectural, and Landscape Illustrations of the History of Java 1844/John Bastin (preface), Plates to Raffles's History of Java, Oxford University Press,1989.

[16] http://www.panoramio.com/photo/44352831

[17] http://homepages.shu.ac.uk/~scsgcg/spies/spies8.html

[18] https://researchrepository.murdoch.edu.au/id/eprint/65001/1/Mount%20Merapi.pdf

[19] https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Raden_Saleh_-_Merapi,_Eruption_by_Night_ (1865) .jpg

[20] https://i.pinimg.com/564x/82/33/16/82331609c979522a82de9c0c80f95d6b.jpg

[21] 池内了『司馬江漢 「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』,集英社新書 2018

[22] 廣谷雄太郎(編), 『増訂武江年表』, 國書刊行會 1925 (Yutaro Hirotani (ed.), Buko Chronicle - Revised Edition, Kokusho Kankoukai 1925)

[23] An article about the “Originality of Katsushika Hokusai” in this website. http://www.maiguch.sakura.ne.jp/ALL-FILES/ENGLISH-PAGE/ESSAYS-ETC/default-essays-etc-e.html

[24] https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru11/ru11_00809/

[25] https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558223?tocOpened=1

[26] 中井宗太郎(著)『司馬江漢』,アトリヱ社 1942

[27] https://www.tcmit.org/wp-content/uploads/4dec859a1dc0b77f1cd129483c951586.pdf

[28] Ref. 26.

[29] Ref. 26.

[30] 司馬江漢『春波樓筆記抄』: 坂崎坦編,『日本画談大観. 上・中・下編』目白書院, 1917,p.120-124/ 国会図書館デジタルコレクション,https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954090

[31] 江戸前期 鍛冶橋狩野派祖 永徳孫 臨済宗 大徳寺百八十一世 掛軸 書画. https://aucfree.com/items/n352171877

[32] https://www.matsumoto-shoeido.jp/collections/457

[33] https://twitter.com/matsu_bi/status/1445964963168673792

[34] https://aucfree.com/items/o335751828

[35] https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=蘭説弁惑

[36] http://studium.xsrv.jp/studium/archives/2013/01/_20122.html。1764-71,明和年間.

[37] https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/378657。 18世紀後半,木版色摺,24.9×18.6 cm.

[38] https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536981

[39] 文化遺オンライン. https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/205989.

[40] https://www.ndl.go.jp/nichiran/data/L/114/114-001l.html

[41] https://ja.wikipedia.org/wiki/司馬江漢

[42] ドナルド キーン,『二つの母国に生きて』,朝日選書,1987

[43] Ref. 21.

[44] Donald Keene, The Japanese Discovery Of Europe, 1720-1830: Revised Edition, Stanford University Press Stanford, 1969.

[45] 原文:Not only in the matter of personal appearance were the Dutch considered to be very strange creatures; ... A daimyo once asked Honda Toshiaki how it was that the Dutch were nevertheless able to produce such fine articles. Honda answered wryly that even animals are capable of surprising skills. Shiba Kokan (1747–1818), …, replied to a similar query, "If what you say is true, human beings are not as clever as beasts.

[46] 原文:He recorded a visit to the factory director's room: "There was a row of chairs, next to each of which was a silver spittoon standing about two feet high, looking like a flower vase. On the floor-matting was a rug with a flowered pattern, and a glass chandelier hung from the ceiling." While Shiba was contemplating the room with faint distaste, the director came in, a long pipe in his hand, and greeted the Japanese. “Isn't this a splendid place?" he exclaimed complacently. Shiba replied "I am dazzled," ...。

[47] 中野好夫,『司馬江漢考』,新潮社 1986

[48] 對中如雲,『司馬江漢「東海道五十三次」の真実』,祥伝社 2020

   

   

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