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第3章 動く対象のイメージを瞬間的に捉える力

(2023.05.25. 改訂)

    

北斎の「神奈川沖浪裏」は筆者に様々の疑問を投掛けた。別稿 [1] で論じたそのオリジナリティは別にして,一つは江戸湾のやうな内海で如何して左様な高波が生ずるかにあったが,その答は,オックスフォード大學/エディンバラ大學の研究グループの實驗によって明らかにされた。具體的には,高波は2つの波が60°の角度で衝突させたときに發生する[2]。Fig.1 を參照。

    

    

(1) (2) (3)

Fig.1 (1) 大波の写真(撮影條件不明) [3] ; (2) 北斎の浪 [4] ; (3) オックスフォード大學/エディンバラ大學の研究グループによって實驗的に生成された大波のスチル(靜止畫)[5].

    

    

もう一つの疑問は,北齋によって描かれた波濤の萎れたヒトデの如く圖案化された波頭はさておき,「畫家が動く対象を瞬間的に脳裏に記憶する能力は如何ほどであったか」と云ふことにあった。

    

インターネット上で探した19世紀以降の畫家によって描かれた波の繪を Fig.2 に示す。

    

    

(1) (2) (3) (4) (5)

Fig.2 画家によって描かれた波.

(1) “The Shipwreck(難破)”, Joseph Mallord William Turner (1805)[6];

(2) “La vague verte (緑色の波)”, Claude Monet (ca. 1865)[7];

(3) “La Vague(波)”, Paul Gauguin (1888)[8];

(4) “La Mer. études de vagues(海. 波の研究)”, Henri Rivière (1900s ?)[9];

(5) “De Branding(寄せ波)”,W. O. J. Nieuwenkamp (1916)[10].

    

    

筆者は,先づ,波を間近に見て描かれたHenri Rivière による(4)と W. O. J. Nieuwenkamp の(5)に魅かれた。前者では飛沫が色んな形の小さな斑点(fleck)で描かれてゐる。また,後者では,流れる水が幅を持つセグメント(線分)で描かれ,波頭辺りでは,それが不定形の塊どなって,更には引き伸ばされたれた様相を呈し,千切れたセグメントは球状の水滴になってゐる。(1)~(3)の3点はかなり遠くの波のスケッチであるが, Joseph Turner の (1)も,擴大すると,波の描寫は Nieuwenkamp の版畫に似てゐるように見える。

    

次に,瀧を描いた繪は意外に少なかったが,調べた中の4点を Fig.3 に示す。

    

    

(1) (2) (3) (4)

Fig.3 画家によって描かれた波.

(1) “瀧”,James Burrell Smith (1874), o/c, 50.0×69.0 cm [11]

(2) “テル二の瀧”,Camille Corot (1826), oil/paper/wood [12]

(3) 『西遊旅譚 第5巻』 の中 「箕山瀑布」,司馬江漢(1803)[13].

(4) 『諸国滝廻り』の中 「美濃国養老の滝」, 葛飾北齋 (1833) [14]

    

    

James Smith の (1) は,滝口を描いたもので,水流が砕ける様子は Turner の Shipwreck の繪に似てゐる。Camille Corot が,イタリア半島中部,アペニン山脈の中にあるテル二の滝を描いた(2)は,瀧の離れた位置からの描寫としては一般的なもので,普通の人間の目にも斯様な風に映る。滝口から落ちる水塊は重力の加速度を得て下に行くにつれて速さを増し,疎らになる。司馬江漢が長崎行の歸途に立寄った攝津國・箕山(きざん)瀑布のスケッチ(3)は,左様な水の落下の線畫である。

    

北齋の『諸國滝廻り』は有名ではあるが,實物を見ないで描かれた想像畫であって,彼の落款ゆへに商品価値は高くとも,繪畫としての価値は低いと思はれる。子供の頃を岐阜県西濃地方で過ごした筆者は,1950年代に養老の滝を幾度か訪れたが,描かれたほどに幅広で滝口に段差のある瀧ではなく,付近も小屋を建て得るやうな地形ではなかった。

    

以上の觀察から,畫家達が,網膜に映る動く畫像を何ミリ秒で切取ったか,カメラに譬へるならば彼らの目の“シャッタースピード”は如何ほどであったか,を推定してみたくなった。

    

動く水の寫眞はインターネット上でも澤山みることができるが,近年に取られたものでも撮影條件の記されていないものが大多数である。そこで,自分でシャッタースピードを段階的に変えた撮影を試みることにした。デジタルカメラの進化のお陰で,筆者の所有するカメラでも,絞り,露光時間およびイメージプレート感度を廣範囲で連動させることができる。

    

しかし,海岸に出掛けても高波が繰り返されるのを至近距離で,良いアングルで撮るのは必ずしも容易でないので,先ず手近なところで東京上野恩賜公園の噴水に行ってみたが,望み通りの撮影はできなかった。理由は,水の噴出が間歇的かつランダムと思えるほど不規則であったからである。次に東京都内・北区の「名主の滝」に行ったが,これも適した対象でなかった。滝口から落ちる水はポンプで循環されてゐるので一定であったが,岩肌および滝壺で飛散して生じたミストが辺りを覆ってゐて,撮影のためには瀧から10數メートル離れねばならないうえに,カメラを構へる足場も惡かった。結果を Fig.4 および Fig.5 に示す。

    

    

   

Fig.4 東京上野恩賜公園の噴水。Pentax K-3ii/f=270mm で撮影 (2019.02.18.)。

    

    

   

Fig.5 東京都北区,名主の滝の「男滝」。Pentax K-3ii/f=270mm で撮影 (2019.10.02.)。

    

    

とは云へ,普通の目には連續した平行な線の集合にしか見えない流水が,1/20~1/40秒(50~25ミリ・セカンド)で斷續的,1/320~1/640秒(3.1 to 1.6ミリ・セカンド)で短い線分あるいはドット状に見えるやうになることが分った。

    

別の折に訪れた埼玉県浦和の調(つき)神社境内の神池で Fig.6 のやうな噴水を見付けた。吐出口は小さく,水面までの落差は目測で約60cmと小さいが,水流が安定してゐる。然も噴水は岸から4~5mの近さにあった。結果を Fig.7 に示す。

    

    

Fig.6 浦和・調神社境内,神池の噴水。

    

    

   

      

Fig.7 浦和・調神社の噴水。Nikon Z6/f=200mm で撮影 (2022.11.14.)。

    

    

觀察結果を Table 1 に纏める。

    

        

Table 1 選択した16ショット觀察

露出 空中 (水面より上) 水面付近
1/秒 ミリ秒
1 1000 水が白色の細線の緻密な束に見える。 落下した水が水しぶきとなって飛散してゐるやうに見える。
1/2 500    
1/4 250 束状の水の結束が若干緩み,周りに獨立した細線が現れる。  
1/8 125 細線が途切れて見えるやうになる。  
1/15 66.7    
1/30 33.3 細線の途切れが顕著になる。 水しぶきが殆ど消える。
1/60 16.7 途切れた細線の集まりのやうに見えるやうになる。  
1/160 8    
1/250 6.25    
1/320 4    
1/640 1.56 不定形の長い塊が略々透明となり,棒状の水滴は球状になる。 水しぶきなし。水面近くに微小な球状の飛沫が見られる。
1/800 1.25    
1/1000 1    
1/1600 0.625 不定形の長い塊は下部が途切れて見える。水滴は球状である。  
    

    

この觀察で特筆されるのは,常識的には低粘度の水 [15] が,シャッター速度 1/160~1/250秒(6~4ミリ秒)で撮ると,不定形で細長い透明なプラスチック,恰もおもちゃのスライム(PVA+硼酸)を捏ねて長くしたやうな形で,円い水滴も見える,1/1600秒(0.625ミリ秒)では,動きの速い下部では切斷されてゐるやうな様相を示すことである。

    

    

前掲の畫家によって描かれた波浪を再見すると,Figure X,(5) の W. O. J. Nieuwenkampの版畫(5)がこれに近い。その下繪が描かれた 1916年と云へば,2年前に發売された Kodak 1A [16] のシャッタースピードが 1/100秒までであった頃のこと,それ以下の露光時間で撮った寫眞はなかった筈であるから,彼が寫眞を參考にした筈はない。寫生家(draftsman)として網膜に映った畫像を正確に描くことに長けていた彼は,今日の上級カメラに匹敵する動體視力をも持ってゐたのであらうか? 前述のやうに,Henri Rivière および Joseph Turner の繪(それぞれ 1800sおよび1805)も,白色で塗られてゐるが,Nieuwenkamp の描寫に似てゐる。

    

北齋も,『北齋漫畫』に示されたやうに[17]良い動體視力を持ってゐたには相違ないが,「神奈川沖浪裏」と云へども,相當に圖案化されてゐるので判定困難である。

    

最近,インターネット上で,玩具レベルの製品ではあるが,Fig.8 に示す Smithsonian Wave Machine を見付けた。

    

    

Fig.8 Smithsonian Wave Machine。

    

    

觀察結果は Fig.9 に示す通りで,予想してゐたこととは云へ,畫家の眼力を推定するための參考にならないことが分った。

    

    

   

Fig.9 Wave Machine によって發生する波の露出時間を変えた寫眞。Nikon Z6/f=70mm で撮影 (2022.11.28.)。

    

    

波濤は,露光時間1秒では見られなかったが,1/2 秒で現れ始め,1/8 秒では肉眼で觀察した通りとなり,それ以下にシャッタースピードを下げても差異は認められなかった。

    

Fig.4, 5 および 7 の觀察によって得られた結論は,以下の通りである。

    

落下する流水をカメラで撮影すると,筆者の如き普通の人間の目に細線な束として映る水は,露光時間 1/8秒(125ミリ秒)で線に途切れが見え始め,1/60秒(16.7ミリ秒)では途切れた線分の集合體のやうに見える。露光時間を短くすると,1/160秒(6.25ミリ秒)辺りで略々透明で不定形の長い塊に見えるやうになり,所々に楕円状の水滴が見える。1/250秒(4ミリ秒)以下では,不定形の長い塊が完全に透明となり,棒状の水滴は球状になる。

    

これを19世紀初め頃以降,高速度シャッター付きカメラが普及する以前に描かれた繪畫に照らすと,W. O. J. Nieuwenkamp,Henri Rivière,Joseph Turner らは,網膜に映ったイメージを,1/160秒 以下の瞬間で記憶,再現する能力を持ってゐたと想像される。

    

波濤については,液・液界面でそれを發生させる Wave Machine は參考にならなかった。若し,「北齋の神奈川沖浪裏」の波濤を實驗的に再現したオックスフォード大學/エディンバラ大學グループが,露光時間を速めた寫眞を撮って呉れたなら,浪裏および波頭の眞の姿が明らかとなり,彼らの研究は著しく価値を増すと思はれる。殘念ながらインターネットに掲げられた動畫のフレームレート(コマ数,不明)は波の詳細を見るためには不足してゐる。

    

(以下2023年5月28日修正/追加)

インターネット上で見付けた2件の造波實驗水槽の動畫から取ったスチルを,Fig. 10 に示す。

    

    

  

Fig.10 インターネットに掲載の造波實驗水槽(wave tank)の動畫から取ったスチル。
左: 造波實驗水槽(I) [18], 右: 造波實驗水槽(II)[19]

    

    

動畫(I) のフレームレートは 50 fps と低速で,高波の詳細を見るには不十分である。 他方,(II) の フレームレートは不明ながら相當に高く, 高浪は,Fig.7 に見られたやうな,恰も透明プラスチックを引延ばした如き単位で構成されてゐるやうに見える。

    

最近茨城県境町にオープンしたサーフィン用施設 “Citywave Tokyo Sakaimachi” の公式サイト [20] の動畫から取ったスチルを Fig.11 に示す。

    

    

   

Fig.11 “Citywave Tokyo Sakaimachi”の公式サイトの動畫から取ったスチル。
   

    

水が恰もネットワークのやうに砕ける様子は, Joseph Mallord William Turner の “The Shipwreck(難破)” (Fig.2 (1)や, James Burrell Smith によって描かれた“瀧”(Fig.3 (1)) を彷彿とさせ,改めてこれらの画家の動體視力の凄さに驚かされた。 Fig.12 に,それらの部分拡大を示す。

 

   

  

Fig.12 Joseph Mallord William Turner の “The Shipwreck(難破),Fig.2 (1)” および James Burrell Smith によって描かれた“瀧,Fig.3 (1)”の部分拡大。

   

    

    

    

參照文獻


[1] “[美術考]葛飾北齋の浮世繪,就中「神奈川沖浪裏」の獨創性についての疑問”. http://www.maiguch.sakura.ne.jp/ALL-FILES/JAPANESE-

[2] “Famous freak wave recreated in lab mirrors Hokusai’s ‘Great Wave’”, https://www.ox.ac.uk/news/2019-01-23-famous-freak-wave-recreated-lab-

[3] https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/wave

[4] “Famous freak wave recreated in lab mirrors Hokusai’s ‘Great Wave’”, https://www.ox.ac.uk/news/2019-01-23-famous-freak-wave-recreated-lab-

[5] “Famous freak wave recreated in lab mirrors Hokusai’s ‘Great Wave’”,

[6] https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-the-shipwreck-n00476

[7] https://pt.wikipedia.org/wiki/Ficheiro:Claude_Monet_-_La_Vague_Verte.jpg La_Vague_Verte.jpg

[8] https://it.wikipedia.org/wiki/File:Gauguin_1888_La_Vague.jpg

[9] https://en.600dpi.net/henri-riviere-0004930/

[10] https://www.dbnl.org/tekst/_onz021191701_01/_onz021191701_01_0020.php

[11] https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=54

[12] https://www.metmuseum.org/art/collection/search/438635

[13] https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558223?tocOpened=1

[14] https://hokusai-museum.jp/modules/Collection/collections/view/61

[15]水の粘度:8.9ミリポアズ/25°C。

[16] Kodak No.1 Autographic. レンズ シャッター: Zeiss Tessar f4.5/90mm, Optimo B(T), 1, 1/25, 1/50, 1/100.

[17] 「[美術考]葛飾北齋の浮世繪,就中「神奈川沖浪裏」の獨創性についての疑問」參照。

[18] DIY Wave Tank - Physics of Tsunami Wave. https://www.youtube.com/watch?v=nzSNOaLtlAM,フレームレート:50 fps

[19] https://www.youtube.com/watch?v=3yNoy4H2Z-o,フレームレート:不明

[20] https://citywave-tokyo.jp/