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[美術考] 人間の目とカメラの目

第1章,圖面および參照文獻を追加して改訂, 2023/01/15; 2023/03/06.

    

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第1章 カメラオブスクラ

    

子供の頃過した家では,朝起床すると雨戸の檜板の節穴を通して,庭の景色が擦硝子の窓に逆さに映ってゐた。その模様は再現できないので,インターネットから借りた類似の畫像を Fig.1 に示す。

    

    

Fig.1 會津藩校日新館の節穴像[1]。この場合,スクリーンは擦硝子でなく障子である。

    

    

學校では工作の時間にピンホールカメラを作った。ピンホールを少し大きくして虫眼鏡を貼付けると映った像が鮮明になった。

    

中學生になって兄の使ってゐた古いカメラで初めて寫眞を撮った。小西六の “Pearlette” と稱する1940年製,レンズは F6.3,75mm,シャッター B,1/25,1/50, 1/100 といった簡単な仕様の機械で,フィルムはヴェスト判(127 Film,4x6.5/4x3 cm)モノクロであったが,撮った寫眞に大いに感動した。大學生の時に買求めた身分不相應の “Asahi Pentax S2” は,一般的用途のみならず,文獻複寫にも大いに活躍した [2] 。若い人には想像し難いかも知れないが,ゼログラフィーの生れる以前,複寫にはカメラを用ひるのが一般的で,圖書館で撮ったフィルムを暗室で現像,ページ毎にキャビネ判程度に引伸ばして燒付けた。1960年頃の話,退官される教授の部屋を整理してゐたとき,書棚の抽斗から雜誌のページを寫した幾百枚もの乾板が出てきたのに驚嘆し,前人の苦労を忍んだ。

    

    

カメラの歴史には,一般に,バスラに生れ,「近代光學の父(the father of modern optics)」 [3] と稱せられたファーティマ朝アラブの天才學者,イブン・アル・ハイサム(Ibn al-Haytham,965 - 1040)が最初に登場する。伝説によれば,或る日,彼は光が外壁の小孔(ピンホール)を通して暗い部屋に射し,室内反對側の壁に外界の景色が映るのを知って,その光が目に入って視覺が生ずると結論した [4] 。一般に謂う「カメラ・オブスクラ」の濫觴である。イブン・アル・ハイサムに因む畫像を Fig.2 に示す。

    

    

(1)  (2)  (3)

Fig.2 (1)イブン・アル・ハイサムの業績を顕彰する郵便切手 [5]; (2)イブン・アル・ハイサムのカメラ・オブスクラのイラスト[6]; (3)イブン・アル・ハイサムによる視覺の圖解 [7]

    

    

上述の事実にカメラ・オブスクラ(camera obscura)なるラテン語を充てたのはヨハネス・ケプラーであると云ふ説があるが, ラテン語の camera, obscura は,それぞれ,英語の chamber, dark の意の意であるから,熟語としては「暗室(または暗箱)」である。従って寫眞を撮るカメラは,語源的には,カメラ・オブスクラの省略形である。因みに,ラテン語の camera は,ドイツ語の Kammar,オランダ語の Kamer,インドネシア語の Kamar のやうに,原語に近い形で現代語として使われてゐる。

    

カメラ・オブスクラの實演を描いた作品の例として,曲亭馬琴「 阴兼阳珍紋圖彙 ( かげとひなたちんもんずい ) 僊鶴堂 ( せんかくどう ) ,享和3=1803年)」の中の「節穴から射込む光と風景」の圖(木版) [8]および葛飾北齋の版畫集『富嶽百景』の中の「 薐穴 ( さいけつ ) の不二」(天保5=1834年頃)[9]を Fig.3 に示す。他人の作を屡々眞似た北齋は,曲亭馬琴に倣って「薐穴の不二」を制作したのかも知れない。

    

   

(1)   (2)

Fig.3 (1) 曲亭馬琴「 阴兼阳珍紋圖彙 ( かげとひなたちんもんずい ) 」の中の「節穴から射込む光と風景」の圖,1803 [10]; (2) 葛飾北齋著『富嶽百景』の中の「薐穴の不二」,天保5=1834年頃 [11]

    

    

インターネットを繰って,カメラ・オブスクラの現象を記録したひとは古代中國にもゐたことを知った。思想家として知られる戰國時代の哲人,墨子(ca.470 - 390 BC)は科學研究をも行った。著書『墨子』の中に,「小孔成像」に係る次の意の一節がある。

    

「篝火の光は直射して人を熱する。光源の位置が低い場合には人の影の位置は高く,高い場合には低い。足元ほどの下側から光を放てば,影は上に出來るし,頭ほどの上側から光を放てば,影は下に出來る。影には遠近があり,また,上端下端長さは,光源の位置の條件に従ふ。」 [12] 圖解をFig.4 に示す。

    

    

Fig.4 墨子の観察の圖解 [13]

    

    

北宋時代中期の政治家であり學者でもあった沈括(1031 - 1095)は,『圖解夢溪筆談』の中に,大意として次のやうに書いてゐる。

    

「鳶が空中を水平に飛行する場合,影は鳶の飛行に伴って移動する。頭上に小孔のある天井がある場合,鳶の像が床面に左右逆に映り,飛行方向と逆に移動する。館の壁に小孔があると,外界の樓塔の像が内部の反對側の壁に上下逆に映る」[14]。圖解を Fig.5 に示す。

    

   

(1)     (2) 

Fig.5 沈括の記述の圖解。(1) 鳶の飛行,(2) 樓塔の像の投影。文獻の圖 [15]に倣って CorelDRAW 上で再製圖。

    

    

これらを遥かに遡る西漢の時代, (179 - 122 BC)が編集した『淮南萬畢術(えなんまんひつじゅつ)』には,凹面鏡を用ひた恐らく世界最初のペリスコーブ(潜望鏡)が記載されてゐる。想像圖を Fig.6 に示す。

    

    

Fig.6 『淮南萬畢術』にある凹面鏡を用ひた世界最初のペリスコーブ [16]

    

    

『墨子』 [17] にも,凹面鏡による集光着火,凸面鏡凹面鏡の鏡面における光の反射・屈折に関する様々な現象が書かれてゐる。然し,それらの現象が,イブン・アル・ハイサムによってなされたやうに公式化されることはなかった。

    

ルネッサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452 - 1519)は,『Codex Atlanticus (アトランティコ手稿 1515)』に記されてゐるやうに,カメラ・オブスクラを詳細に研究したとされる(Fig.7 參照)[18]

    

    

Fig.7 ダ・ヴィンチの『アトランティコ手稿』にあるカメラ・オブスクラのスケッチ [19]。ミラノの Biblioteca Ambrosiana 所藏。

    

    

17世紀英國の偉大な科學者 ロバート・フック(Robert Hokke,1635 - 1703)は,彼の死後に友人の ウィリアム・ダラム(William Derham)によって出版された 『Philosophical Experiments and Observations of the Late Eminent Dr. Robert Hooke 』 [20]の中,“An Instrument of Use to Take the Draught, or Picture of any Thing (19 Dec. 1694)” と題する記事に,彼がデザインした携帯可能な寫生装置(カメラ・オブスクラ)を示し,特に地形の正確な畫像記録に有用であると提唱してゐる(Fig.8 參照)。但し,彼は別の著 Micrographia の中に微小生物などの精密なスケッチを載せてはゐるが,元々畫家ではないから,風景畫の類を遺していない。

    

    

Fig.8 ロバート・フックがデザインした携帯可能な寫生装置(カメラ・オブスクラ)[21]

    

    

カメラ・オブスクラを作畫に用ひたことの確かな畫家は,ベニスの ジョヴァンニ・アントニオ・カナル(Giovanni Antonio Canal,1697 – 1768),通稱 カナロット (Canalotto) であって,彼の使ったとされるカメラ・オブスクラが現存し(Fig.9) [22] ,遠近法に叶ったスケッチや繪畫を見ることができる(Fig.10 および 11)[23][24]

    

    

Fig.9 Canaletto の カメラ・オブスクラ [25]

    

    

Fig.10 カナレット,ヴェニスの Campo San Giovanni e Paolo の線畫 [26]。Venice, Gallerie dell'Accademia 所藏。

    

    

   

Fig.11 カナレット,ヴェニス,「Saint Mark's Square から Basilica を望む」。左:原畫 [27]。右:Casper J. Erkelens による解析[28]

    

    

先に述べたレオナルド・ダ・ヴィンチにも,カメラ・オブスクラに基く遠近法を自身の繪畫に適用したことを暗示する解析結果がある(Fig.12) [29]

    

    

   

Fig.12 レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」(c.1495–1498) [30] 。左:原畫。右:水平線(赤),消滅線(黄)および垂直/水平線(青)を引いた圖 [31]

    

    

カメラ・オブスクラを使ったのではないかと想像される最も有名な畫家は,バロック期オランダを代表した畫家,ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer,1632 - 1675)であろう。彼が修業した工房が何処であったかは定かでないらしいが,20代半ばにして遠近法に叶い,且つ注がれた光の濃淡を見事に表した畫法を確立した。Fig.13 に Prof. Philip Steadman によってデジタル技術を駆使して解析のなされた 「The Music Lesson」 の畫像を,同教授の著書[32]から複寫して示す。

    

    

         

Fig.13 ヨハネス・フェルメールの 「Music Lesson」 (c. 1662–1665)。左:原圖。 中:解析圖。右:再現された圖。何れも Prof. Philip Steadman の著書 [33]からカメラ (NikonZ6) で撮影。

    

    

人間は網膜に映ったイメージを腦細胞にパターンとして記憶し,それを表現したいときには,記憶を呼び戻して,紙やキャンバスの上に再現する。記憶能力は言うまでもなく人によって異なり,畫家と呼ばれるひとは,それに秀でてゐる。嘗て研究協力のためインドネシアのバンドンに在住したときのこと,バンドン工科大學芸術學部の學生がポートレートを描いて呉れるといふ。彼は愚生を椅子に座らせて,15分ほどスケッチブックに鉛筆を走らせた。一週間後に届けられた 15号(652x530)の油繪は上出來で,愚生の少し緊張した表情から,着てゐたバティック(﨟纈染)の柄までもが如實に描かれてゐた。

    

    

カメラは,原理的に「凸レンズを通して焦点面に映った外界の實像を記録する装置」である。此処で記録方法の歴史を簡單に振返ってみよう。1839年1月7日にルイ ジャック マンデ ダゲール (Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787 - 1851) によって發表された最初の方法は,銀メッキされた銅板を沃素蒸気に晒して表面に沃化銀を形成することによって得られるダゲレオタイプであった。このニュースがウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot,1800 – 1877)に届くと,彼は,彼の發明になるカロタイプまたはタルボタイプ,ハロゲン化銀の溶液に浸して感光性を持たせた薄い紙を用いる方法が先行すると主張し,1935年に撮った寫眞を王立協会へ送った。ダゲレオタイプは直接ポジ畫像を生成したものの畫像は左右反轉であった。これに對して,カロタイプには燒付けによってポジ畫像への変換が可能なネガ畫像が得られるといふ利点があった。[34][35] [36]ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット および ルイ ジャック マンデ ダゲール の肖像および彼等の最初の寫眞をFig. 14 および Fig.15 に示す。

    

   

 

Fig.14 ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(1864)の肖像 [37] および ラロック・アベイ,南回廊の窓(1935年8月)[38]

    

    

 

Fig.15 ルイ ジャック マンデ ダゲール の肖像(1844) [39] およびタンプル通り(1838年後半または1839年初め) [40]。特にダゲールの上着のボタンから分るやうに,寫眞は左右逆であることに注意。

    

    

1851年,フレデリック・スコット・アーチャー(Frederick Scott Archer)とピーター・ウィッケンズ・フライ(Peter Wickens Fry)は湿板を發明した。これは透明なガラス板に硝酸銀を分散させたコロジオンを塗布したもので,使用直前に湿板を調製する必要があったが,得られた畫質はカロタイプよりも良く,ダゲレオタイプと同等であった。1871年,リチャード・リーチ・マドックス(Richard Leach Maddox)は,乾板,即ち硝酸銀をゼラチン溶液に分散させたエマルジョンでコートしたガラスプレートを發明した。これは湿板より遥かに感度が高く,製造プロセスと品質は漸次改善された。乾板は透明ロールフィルム(後述)の登場後も,20世紀初期まで集合寫眞や文献のコピー(前述)など,大判の感板を要する用途に重用された。 [41]

    

感光板の形態は,1888年,イーストマン コダック(Eastman Kodak)が,オリジナルのコダック カメラと共にセルロイド ベースのロール フィルムを發賣した後,ロール・フィルムが主流となった [42]

    

    

    

天然色写真へのアプローチは,1861年,著名な物理学者であったジェームス・クラーク・マックスウェル(James Clerk Maxwell,1831 –1879)と,初の單眼レフレックスカメラやパノラマカメラの發明で知られるトーマス・サットン (Thomas Sutton,1819-1875)の協力によって1861年に開拓された。電磁理論を確立したジェームズ・マクスウェルは,色覚にも興味を持ち,全ゆる色は赤,緑,青の3つの光の重ね合せで表現できると推論,それを証明するために,トーマス・サットンに,3色のフィルターをかけて撮影した透明畫像の作成を依頼した[43]; [44]。二人の肖像を Fig.16 に示す。

    

    

     

Fig.16 左: ジェームス・クラーク・マックスウェル (1831 –1879) [45]。 右: トーマス・サットン (1819 –1875) [46]

    

    

サットンは,平らな液体セルをレンズの手前に置いてフィルターとすることにし,赤,緑,青に,それぞれスルフォシアン化鉄,塩化銅,および硫酸アンモニウムの水溶液を用ひた。光の吸収率が異るので溶液の濃度と露光時間を様々に調整する必要があったが,彼はタータン模様の蝶結びリボンを被写体として,兎にも角にも3枚の畫像を得た。Fig.17 サットンの単眼カメラと彼が用いた型の液体フィルターを示す。感光板には湿板が用いられた。Fig.18 にサットンの撮った3枚のポジと,それらを重ね合せた畫像を示す。マックスウェルは,実際には3枚の畫像を3台の幻灯機でもって,撮影に用ひられたと同じフィルターを通して,スクリーン上の同じ位置に投影した。[47]; [48]

    

    

Fig.17 左: トーマス・サットンの單眼レフレックスカメラ [49], 右: 液体セルフィルター[50]

    

    

     

Fig.18 トーマス・サットンによって作成された3色のポジと,それらを Corel PaintShop Pro 2021 を用ひて重ね合せた畫像 [51]

    

    

マックスウェルは,重畳された色が実際のリボンの色と著しく異ったことに失望した。問題は,一世紀後の1960年,イーストマン・コダック社のエヴァンス博士(Dr.R. M. Evans) によって解明された [52]。先づ,湿板が可視光の長波長領域に感受性を持たなかったことに加へ,サットンが用ひたと目されるレンズのガラス(恐らくソーダガラス)では,430mμ以上の長波長の光は吸収によってカットされ,湿板に届かなかったに相違ないことが分光分析によって示された。この事実からすると,サットンの3色のイメージのうち,まともに写ったのは靑のみであって,緑についてはスペクトルの430mμより短波長の部分と靑の一部が写ったと推定された。では赤については如何か? サットンのリボンに使われたと想像される染料で染めた布の分光分析で紫外域に吸収がみられたことから,恐らくサットンの赤の畫像は実は紫外光に反應したものであらうと推定された。エヴァンスの論文には収差などの問題も論ぜられてゐるが,詳しくは原著に譲る。マックスウェルの理論自体は正しく,後のデジタル写真の礎となった。

    

    

可視光全域に感光性を持つパンクロマティックな感光板實現への契機は,1873年,ヘルマン・ウィルヘルム・フォーゲル(Hermann Wilhelm Vogel, 1834-1898)によるコラリン(coralline)を添加した湿板が黄色光に反應すること,即ち染料分子がハロゲン化銀に対して増感作用を有することの發見にあった。彼はまた,アニリングリ―ンを添加した臭化銀が赤色光に感應すること,黄色のガラスフィルターが青色光を吸収するが黄色光の透過には影響しないことを見出した [53]。1874年,エドモン・ベクレル(Edmond Becquerel,1820 – 1891) は,葉緑素による赤光への増感を報告した [54]

    

天然色寫眞黎明期の寫眞家で特筆されるべきは,ロシアのセルゲイ・プロクディン・ゴルスキー(1863 – 1944)であらう。1901年,サンクトペテルブルクに寫眞館を開いた彼は,翌年ドイツ・ベルリン工科高等学校のアドルフ・ミーテ(Adolf Miethe)教授の下でカラー寫眞術を學んだ。Fig.19 に彼の肖像と3色カメラを,Fig.20 に レオ・トルストイおよび彼自身を撮ったスナップを示す。

    

    

   

Fig.19 セルゲイ・プロクディン・ゴルスキーの肖像[55],および3色カメラ [56]

    

    

   

Fig.20 レオ・トルストイ(1908)およびセルゲイ・プロクディン・ゴルスキー(1912)のスナップ [57]

    

    

1909年ニコライ2世からロシア帝國を寫眞で記録するやう命ぜられ,暗室鉄道車両を与へられて,1915年までの間に帝國内各地を巡って膨大な數の寫眞を撮った。その多くは,アメリカ議会圖書館に保管されてゐる。インターネットで見つけたブハラのアリム・カーン(Alim Khan)首長を被写体とする R,G,B 3枚セットの畫像と,それらを重ね合わせた畫像を Fig.21 に示す。

    

    

Fig.21 セルゲイ・プロクディン・ゴルスキー撮影のブハラ保護領・アリム・カーン(Alim Khan)首長を被写体とする3枚セットの畫像(左から R,G,B)[58] および,それらを Corel PaintShop Pro 2021を用ひて重ね合わせた畫像。3枚の畫像は背景の右上ドアの1点と左下壁隅に1点を基準点として位置合せ済。

    

    

重ね合せは,Corel PaintShop Pro 2021 のカラー・チャンネル結合機能を利用して行った。それに先立って,インターネットからダウンロードした3枚のグレースケール畫像には,背景の右上ドアの1点と左下壁隅の1点を基準点として位置合せを施した。筆者は,100余年前のブハラ首長の泰然とした姿が,自分のコンピューターディスプレイ上に鮮やかに現はれたのを見て甚く感激した。

    

Corel Paintshop のカラー・チャンネル結合機能が有効であることを知って,上述の,トーマス・サットンによって作成された蝶結びタータンリボンの3色のポジ畫像をネガに變換,それらをグレースケール化して重ね合せると如何なるかを試した。結果を Fig.22 に示す。

    

    

   

R

G

B

   

Negative of R

Negative of G

Negative of B

     

Negative of R, Grey

Negative of G, Grey

Negative of B, Grey

Greyscale of R, G and B superimposed

Fig.22 トーマス・サットンによって作成された3色のポジ畫像(上段) [59],それらのネガ畫像(中段),グレー化像および重ね合せた畫像(下段)。

    

    

元のタータンの色合いは知る由もないが,元畫像は赤,緑および靑の光を正確に反映したものでなかったものの, 重ね合せた像は Maxwell の投影より遥かにカラフルである。若し Maxwell がこれを見たならば,彼は結果に失望しなかったかも知れない。

    

ワンショットで可視光全域をカヴァーする最初の コダカラ―(Kodacolor,ネガ) は 1942年に登場した [60]

    

1920年代以降,フィルムベースは徐々に不燃性のセルロースアセテートに,1960年代以降は安定性の優れたポリエステルに置き換えられた。 [61]

    

1900年代後半に CMOS(Complementary Metal-Oxide-Semiconductor)イメージセンサーが發明され,カシオから液晶パネルを備へた小型カメラ「QV-10」が發賣されて,デジタルカメラが一般に普及した。イメージセンサーとしては,現在,CCD(Charge Coupled Device)が主流となってゐる。

    

愚生が前述のカメラの原理,「カメラは,凸レンズを通して焦点面に映った外界の實像を記録する装置である」ことを再認識したのは1998年,愚生にとって初めてのデジタルカメラである コダック製の“DC-210 Zoom”[62] を手にし,畫像をコンピューターディスプレイ上で精査したときであって,(1)カメラが捉えた像が遠近法に叶っていること,(2) 動く物體のイメージを瞬時に捉え得ることを得心した。

    

    

謝辞
筆者は,オリジナル版の原稿,特に寫眞術の歴史の部分についてコメントを呉れたオランダの Doetze Sikkema 博士ならびに英國の Richard Ranson 氏に感謝の意を表する。 また,自らを Your buddy-in-art(君のアート仲間) と曰ふて,筆者の拙い[美術考]記事を讀み給ふスイスの Paul Smith 教授に謝意を表する。

    

    

    


 

參照文獻


[1] https://m.facebook.com/aiduhankounisshinkan/posts/2682519195391596/

[2] 小西六の “Pearlette”および “Asahi Pentax S2” の畫像ならびに仕様を Fig.A1,Fig.A2 に示す。

Fig.A1 小西六の “Pearlette” (1940)。レンズ: Optor f/6, クロムコート, シャッター: B, 25, 50,100,フィルム:ヴェスト判(127 Film,4x6.5/4x3 cm)モノクロ。 http://camera-wiki.org/wiki/Pearlette。

Fig.A2 “Asahi Pentax S2” (1959)。35mm フォーカルプレーン一眼レフカメラ,ペンタプリズムファインダー付。シャッター: T, B, 1, 2, 4, 8, 15, 30, X, 60, 125, 250, 500, レンズ: Auto-Takumar F1.8/55mm。 https://www.ricoh-imaging.co.jp/japan/pentax/pentaxhistory/archives/

[3] https://historyofislam.com/ibn-al-haytham-alhazen-father-of-optics/

[4] ibid.

[5] https://commons.wikimedia. org/wiki/File:Qatar_stamp_islamic_figure_(1971),_Ibn_al-haytham.jpg;

[6] https://historyofislam.com/ibn-al-haytham-alhazen-father-of-optics/

[7] https://en. wikipedia.org/wiki/Ibn_al-Haytham

[8] https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_02946/he13_02946_0139/ he13_02946_0139.pdf

[9] https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8942999?tocOpened=1

[10] https:/archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_02946/he13_02946_0139/ he13_02946_0139.pdf

[11] https:/archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_02946/he13_02946_0139/ he13_02946_0139.pdf

[12] 『墨子』 巻十 経下及び経説下。原文は「景,光之人煦若射,下者之人也高,高者之人也下。足敝下光,故成景於上;首敝上光,故成景於下。在遠近有端與於光,故景庫內也。」 https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/fc2ad2f74c7229ff2a44353973f7f77d; https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1904140

[13] https://qwcyg.com/yesg/xiaoshiyan/z4em0.html

[14] 原文「若鳶飛空中,其影隨鳶而移,或中間為窗隙所束,則影與鳶遂相違,鳶東則影西,鳶西則影東。又如窗隙中樓塔之影,中間為窗所束,亦皆倒垂。」 https://www.books.com.tw/web/sys_serialtext/?item=0010650423&page=5

[15] http://140.117.153.69/ctdr/files/508_1025.pdf

[16] https://light2015blogdotorg.wordpress.com/2015/02/18/optics-in-ancient-china/

[17] https://qwcyg.com/yesg/xiaoshiyan/z4em0.html

[18] Massimo Guarnieri, https://www.researchgate.net/figure/The-camera-obscura-sketched-by-Leonardo-da-Vinci-in-Codex-Atlanticus-1515-preserved-in_fig1_291379167

[19] ibid.

[20] Philosophical Experiments and Observations of the Late Eminent Dr. Robert Hooke ,W. Derham, London 1726 (Google Books).

[21] ibid.

[22] https://italia-sumisura.it/eventi/bernardo-bellotto-toscana/1_canaletto_camera-ottica/

[23] https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/04/Canaletto4fogli.jpg

[24] Casper J. Erkelens. https://brill.com/view/journals/artp/8/1/article-p49_49.xml?language=en

[25] https://italia-sumisura.it/eventi/bernardo-bellotto-toscana/1_canaletto_camera-ottica/

[26] https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Canaletto4fogli.jpg

[27] https://artuk.org/discover/artworks/saint-marks-square-venice-looking-towards-the-basilica-211001

[28] Casper J. Erkelens. https://brill.com/view/journals/artp/8/1/article-p49_49.xml?language=en

[29] Trang Nguyen, 2019. https://medium.com/@tuyettrangnguyen95/the-art-of-perspective-and-symmetry-in-cinematography-one-point-perspective-47158772a23e

[30] https://en.wikipedia.org/wiki/The_Last_Supper_(Leonardo)#/media/ File:%C3%9Altima_Cena_-_Da_Vinci_5.jpg

[31] Trang Nguyen, 2019. https://medium.com/@tuyettrangnguyen95/the-art-of-perspective-and-symmetry-in-cinematography-one-point-perspective-47158772a23e

[32] Philip Steadman, Vermeer's Camera: Uncovering the Truth Behind the Masterpieces , Oxford Univ. Press 2001.

[33] Philip Steadman, Vermeer's Camera: Uncovering the Truth Behind the Masterpieces , Oxford Univ. Press 2001.

[34] A Concise History of Photography: Third Revised Edition Paperback , Helmut Gernsheim 1986.

[35] Stefan Hughes, eBook: 'Catchers of the Light' - A history of astrophotography , August 18, 2012. p.33. https://britishphotohistory.ning.com/profiles/blogs/catchers-of-the-light-an-ebook-on-a-history-of-astrophotography

[36] TThe Invention of Photography at Lacock Abbey, Wiltshire。 https://www.royal-oak.org/2017/01/09/the-invention-of-photography-at-lacock-abbey-wiltshire/ 

[37] https://commons.wikimedia.org/wiki/File:John_Moffat_William_Henry_Fox_Talbot,_1864.jpg

[38] https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Latticed_window_at_lacock_abbey_1835.jpg

[39] https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Daguerre#/media/File:Louis_Daguerre_2.jpg

[40] https://en.wikipedia.org/wiki/File:Boulevard_du_Temple.jpg

[41] A Concise History of Photography: Third Revised Edition Paperback , Helmut Gernsheim 1986.

[42] 透明でフレキシブルなセルロイドの發明は,アレクサンダー・パークス (Alexander Parkes,1813-1890) ,ダニエル・スピル(Daniel Spill,1832-1887)およびジョン・ウェズリー・ハイアット (John Wesley Hyatt,1837-1920)によってなされた。1862年,アレクサンダー・パークスは,硝酸セルロースと樟惱を混合して得た最初の人造熱可塑性物質「パークサイン」を發表した。パークスの特許を受繼いだダニエル・スピルとジョン・ウェズリー・ハイアットはそのプロセスを改善し,1870年代にイギリスおよびアメリカで,それぞれ「ザイロナイト」および「セルロイド」の名で製品化した。(以下の拙著参照:Masatoshi Iguchi, Gutta Percha - A Journey, Third Edition, Appendix 1: A Brief History of Xylonite (Celluloid). http://www.maiguch.sakura.ne.jp/ALL-FILES/ENGLISH-PAGE/ACADEMIC/default-academic-e.html)

[43] R. M. Evans, Some Notes on Maxwell’s Colour Photograph, Paper read at the Maxwell Colour Centenary organized by the Colour Group and the Inter-Society Colour Council of America on 16-18 May 1961, in London.

[44] https://filmcolors.org/timeline-of-historical-film-colors/

[45] W.D. Niven, ed., The Scientific Papers of James Clerk Maxwell (1890).

[46] A. L. Henderson, The British Journal of Photography, April 30, 1875, 211(google book)

[47] R. M. Evans, Some Notes on Maxwell’s Colour Photograph, Paper read at the Maxwell Colour Centenary organized by the Colour Group and the Inter-Society Colour Council of America on 16-18 May 1961, in London.

[48] https://filmcolors.org/timeline-of-historical-film-colors/

[49] https://vkinventions.blogspot.com/2015/11/single-lens-reflex-camera.html

[50] https://www.elter.ca/alizarin/2021/12/7/ebkt9istvpqp3bnhzk3sn5q1l78wvg

[51] https://filmcolors.org/timeline-of-historical-film-colors/

[52] R. M. Evans, Some Notes on Maxwell’s Colour Photograph, Paper read at the Maxwell Colour Centenary organized by the Colour Group and the Inter-Society Colour Council of America on 16-18 May 1961, in London.

[53] H. Vogel, “On Sensitizers”, Year-Book of Photography and the Photographic News Almanac for 1874, Piper & Carter, London.

[54] B. Meldola, “Recent researches in photography”, The Popular Science Monthly. Conducted by E. L. Youmans, Vol. V, May to October, 1874. D. Appleton and Company, New York 1874.

[55] https://en.wikipedia.org/wiki/Sergey_Prokudin-Gorsky (Image held in US Library of Congress's Prints and Photographs division)

[56] https://thelawlers.com/Blognosticator/?p=96

[57] https://en.wikipedia.org/wiki/Sergey_Prokudin-Gorsky

[58] ibid.

[59] https://filmcolors.org/timeline-of-historical-film-colors/

[60] https://en.wikipedia.org/wiki/Kodachrome

[61] Masatoshi Iguchi, Gutta Percha - A Journey, Third Edition, Appendix 1: A BriefHistory of Xylonite (Celluloid). http://www.maiguch.sakura.ne.jp/ALL-FILES/ENGLISH-PAGE/ACADEMIC/default-academic-e.html.

[62] コダック製 “DC-210 Zoom” の畫像ならびに仕様を Fig.A3 に示す。

     

Fig.A3 コダック製 “DC-210 Zoom” (1998)。レンズ:光学ガラスレンズ(8枚/8群,2群ズームレンズ),CCD:1/3インチ,1,090,000ピクセル,感度:ISO140,シャッタースピード:1/2~1/360秒,絞り:f4。 0~f13.5(広角),f4.7~f16(望遠),焦点距離:29~58mm(35mm判換算),撮影距離:ノーマルモード 50cm~∞(広角),100cm~∞(望遠) ;クローズアップモードで20cm,電源:単3電池4本,メモリー:CFカード,寸法(幅×高さ×奥行き):131×48×82mm,重量:320g(電池などを除く)。https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970916/kodak.htm

 

   

        

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