〔現代史] 戰死日本兵慰霊碑
数ヶ月前,ジャカルタ・ポスト紙の特派員であるダンカン・グラハム氏が最近彼が出會(でくは)した戰没日本兵慰霊碑の寫眞を添へたメールを呉れて,私がその記念碑について幾許かの知識を持合せてゐるかと尋ねられました。私は些少の調査を行ひ,以下のやうに回答しました。
(1)
貴兄がその慰霊碑に遭遇されたのは,タナー・アバンの石碑公園博物館(Taman Prasasti Museum at Tanah Abang)であったと存じます。嘗て私も,『ジャワ・エッセイ』執筆のため,特に Pieter Erberveld[1]ならびに Michiel T' Sobe[2] (Fig.1(左) および Fig.1(右))について調査すべく,タナー・アバンを含むジャカルタ市内の要所を訪れていたときに,その慰霊碑を見ましたが,私自身は寫眞を撮らずに遣り過しました。
Fig.1 (左)ピーター・エルベルフェルドの晒首のある石塀(レプリカ)。タナー・アバンの石碑公園博物館に所在。井口撮影 2006/09/22。[3]
(右)ミヒール・T’ソウベイの墓碑。F. de
Haan, Oud Batavia - Gedenboek uitgegeven Genootschp van Kunsten en
wetenschappen naar aanleiding van het driehonderdjarrig bestaan der stad
1919 (Eerste Deel), G.Kolf & Co., Batavia 1922[4] より複寫。
(2)
貴兄から受取った寫眞(Fig.2)の慰霊碑の前面の碑文は,詳しくは『廣安梯隊戰没者三十勇士の碑』と読取れます。 背面には1行目(右端)に「昭和十七年三月三,四日 於當地付近戰死者」とあり,次行以降に「陸軍少佐 伊藤今朝長」以下の名前が刻まれてゐます。
Fig.2 日本軍三十兵士の慰霊碑の寫眞。Mr. Duncan Graham から送られてきたもの,2022年六月。
台座上,石碑手前にあるパネルには,インドネシア語で次のように刻まれてゐます。
Pasukan Tentara Complex Bataliyon 16, Divisi2 dari Kota Shibata, prop. Niigata, Jepang, yang gugur melawan tertara sekutu di Sungai Ciantung, Desa Leuwiliang, Bogor Jawa Barat. Tgl. 3-4 Maret, Tahun 17 Showa (1942). [nama 30 orang] Leuwiliang ,Juni 1942.
(日本語訳): 第二師団歩兵第十六聯隊(新潟県新発田町編成)兵士,西ジャワ州ボゴール縣リューウィリアン村のチアントゥン川で聯合軍により戰死。 日付:昭和十七年(1942)三月三,四日。
(30名の名簿,略)。リューウィリアン 1942年6月(建立)。
墓碑の聯合軍は,オランダ/オーストラリア聯合軍と思はれます。
(3)
私は,10年前に『ジャワエッセイ』を書いていた頃に知遇を得た西見恭平氏のブログ『ジャカルタ新旧あれこれ』を調べ,2006年5月13日付の記事「日本軍戦没兵士30人の碑」[5]を見つけました。西見氏は寫眞(Fig.3)を示し,大意,以下のやうに記されてゐました。
「1996年8月頃の話である。 ジャカルタ市内の数ある博物館の中で,余り知られていない博物館の一つ,石碑公園博物館(Taman Prasasti Museum)を訪ねてみた。ここはオランダ人を中心としたキリスト教徒のお墓や石碑を集めた公園であるが,その中に一つ異質なもの,ジャワに上陸した日本軍の最初の戦いで没した兵士のための碑が無造作に横たえられている。碑文にある1942年3月3日といえば,バンタム湾,バンドン北部のエレタン,スラバヤ近くのクラガンなどで日本軍上陸作戰が行われた翌日である。... 碑石は,長さ1メートル,幅60cm,厚さは25cm位であったろうか。案内人の話では,最近ボゴール辺りの開発で邪魔になり,止むなくここで持ってきたそうである。碑石は,それが置かれた状態から,重い石をここまで運ぶのがやっとであったように見える。...」
Fig.3 西見恭平氏のブログページ掲載のタナーアバンの慰霊碑の寫眞[6]。 著者の好意に依る。
草稿を書終へてから西見氏に聯絡を取ったところ,本記事に關して,後日,同ブログに2件の関連記事,『日本軍上陸最前線部隊全滅の記念碑(2007年2月7日)および『廣安悌隊30勇士の碑(2007年2月8日)』を書かれた旨,御教示がありました。
前者は上述の記事の後日談であって,石碑公園博物館を再訪したところ,同氏が日本大使館に善処を求めたのに応じて,「廣安梯隊戰歿者三十勇士の碑」が(ダンカン・グラハム氏の写真に見られるやうに)新しく設えた台座の上に真面(まとも)置かれてゐるのを見たとありました。猶,同氏は,碑は元々ジャワを占領した日本軍政府によって建てられたことが明らかになったと記されてゐました。
後者は,上記の慰霊碑の存在を知らぬ戰友会が戰闘のあった場所付近に建てた「もう一つの」碑,『廣安梯隊戦歿者慰霊碑』についての記事でありました(下の(6),(7)参照)。
(4)
私は,近くの公共図書館で,『戰史叢書: 蘭印攻略作戰, 防衛研究所編』なる書を見付け,新潟縣新發田町で編成の廣安梯隊は,第二師団歩兵第十六連隊第三大隊第九中隊であったこと知りました。第九中隊は1947年3月3日にムラク(Merak)に上陸,バイテンゾルフに向けて進軍しリューウィリアンに到着したが,チアントゥン川渡河を試みたときに,對岸の丘陵に布陣した蘭印軍の射撃によって殲滅させられたと書かれてゐました(Fig.4)。
Fig.4 (左)ムラクからバイテンゾルフに至る日本軍進路(赤色を付けたのは廣安部隊のルート)。(右)オランダ守備隊の布陣。
(5)
慰霊碑の由来については,インターネット上のウェブサイト『大東亜戰争遺跡』に,「廣安梯隊戰没三十勇士之碑」なる記事 [7]がありました。
「廣安梯隊はジャワ攻略戰に參加した第二師団歩兵第十六聯隊第三大隊第九中隊であった。隊は昭和17年(1942年)3月1日に西ジャワ・ムラクに上陸し,ボゴールに向けて進撃した。ボゴールの西約25kmのリューウリアンにおいて,雨季で水量の増えたチアントゥン川の前で立ち往生しところに崖上の銃座から蘭印軍の射撃を受け,隊は全滅に近い損害を受けた。昭和17年(1942年),ボゴールに慰霊碑が建てられたが,戰後長年に渡って放置されていた。自然石を削って作られた碑の前面には『廣安梯隊戰没三十勇士之碑』と刻まれてゐる。ボゴールの開発に伴って行き場がなくなったところ,1998年頃に當博物館に寄贈された。その後3年ほど放置状態にあったが,インドネシア在住の日本人が戰友會などに呼びかけて募金を集め,インドネシア語の碑文を付けた礎石の上に再建された。(Fig.5)」
(文中の,明白な年号,地名の誤り等は,筆者が適宜修正)
(1)全貌 |
2)前面 |
(3)背面, |
(4)礎石 |
Fig.5 インターネット上のウェブサイト,『大東亜戰争遺跡』,「廣安梯隊戰没三十勇士之碑」[8]に掲載の寫眞。
慰霊碑の場所が具体的にボゴールの何處であったかは,この記事では不明ですが,縣廳または市廳に記録が殘ってゐるかも知れません。
(6)
全滅した廣安部隊について,もう一つ慰霊碑が存在するといふニュースが,2021年10月28日付「じゃかるた新聞」[9]に寫眞付き(Fig.6)で載ってゐました。
Fig.6 (左) 10月26日。會長 Her氏(中央)が,日本大使館武官・Mr. Mizuno に慰霊碑の移轉について説明する模様。(右)黙禱を捧げる參會者,右端は村長 Hj. Odah 女史。兩寫眞とも,「じゃかるた新聞(2021/10/28)」より複寫。
碑の前面には『廣安梯隊戦没者慰霊碑,日本国新潟県新発田・旧第十六歩兵聯隊戦友会之建』(字体碑文のまま),背面には『平和と友好の証として』と刻まれてゐます。
ニュースには,碑は川の浸蝕によって倒壊寸前の場所にあったので,ここに移されたとありました。
(7)
新慰霊碑については,2021年11月3日付 KOMPUS 紙[10]に寫眞入りの詳細な記事(インドネシア語)がありました。
“Mengenang Pertempuran Leuwiliang di Situs Purbakala Pasundan: Monumen di Taman Peringatan Cianten di Leuwiliang, Bogor, untuk memperingati Pertempuran Leuwiliang 2-4 Maret 1942. Saat itu, pasukan Jepang menghadapi pasukan Sekutu dari Australia, Inggris, dan Amerika Serikat.
(和訳)「パスンダン遺跡においてリューウィリアン會戰を偲ぶ:リューウィリアンのチアンテン記念公園における1942年3月2-4日の會戰慰霊碑。当時、日本軍はオーストラリア,英國,米國の聯合軍と對峙してゐた。」
同ニュースは,移設の際に執行われた式典の模様を報じてゐます(Fig.7)。
Fig.7 (左)第二次世界大戰時に,ボゴール縣リューウィリアンで聯合軍と對戰して戰死した日本兵士の慰霊碑。チアンテン・メモリアルパークに所在。(右)チアンテン・メモリアルパークを訪れたジャカルタ・日本大使館一行の記念寫眞。何れも KOMPUS紙,2021/11/03[11] より複寫。
チェンプラン村は,Fig.8 に示すやうにチアントゥン川を挾んでリューウィリアンの對岸に位置します。
Fig.8 チェンプラン村の地理的位置(Google Map を基に作成,2022/07/31)。
KOMPUS のニュースには,記念碑のほかに,戰争の最中に撮影された古い寫眞とともに,オランダと同盟國の側から見たリューウィリアン會戰の歴史が書かれてゐます。
チアンテン記念公園の正確な場所は同記事では定かでありませんが、村を訪れれば簡單に見つけられると思ひます。
(本文中,引用部分は新假名/新漢字)
参照文獻および註
[1] 1722年,オランダ政府に對してクーデターを試みたオランダ/ジャワ混血の男。
[2] 大航海時代の日本人居住者, 1663年付の墓石が1911年にプラパタンで發見されたが,その墓石は獨立宣言後の混沌とした時代に喪失した。
[3] http://www.maiguch.sakura.ne.jp/ALL-FILES/ENGLISH-PAGE/JAVA-ESSAY/default-java-essay-e.html → Chapter 2.
[4] http://www.maiguch.sakura.ne.jp/ALL-FILES/ENGLISH-PAGE/JAVA-ESSAY/default-java-essay-e.html → Chapter 1.
[5] http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/30_b944.html
[6] Ibid.
[7] http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/indonesiajakarta/area114.html
記事には,筆者名,日付,文獻等が書かれてをらず,引用するのを躊躇しが,原典は後に知った上記,西見氏の『廣安悌隊30勇士の碑(2007年2月8日)』或ひは同氏が觸れられた書(加藤裕,『大東亜戦争とインドネシア』,朱鳥社,2003年1月)かと推定される。
[8] ibid.
[9] https://www.jakartashimbun.com/free/detail/57252.html
[10] https://www.kompas.id/baca/nusantara/2021/11/03/mengenang-pertempuran-leuwiliang-di-situs-purbakala-pasundan,