イントロダクション ― 著者,本書および歴史的背景について 

     (翻訳者識,日本語訳)

 

 

彼の称号から気付かれるように著者は華族の一人で,17世紀の始めに幕府を樹立し,明治維新(1868)まで年近く日本を統治した德川家[1]の分家,尾張徳川家の第19代当主であった。以下は彼の孫に当る徳川義宣氏から与えられた彼の略歴である。

      義親(幼名:錦之丞)は 1886年10月5日,越前藩主松平春嶽の五男として出生された。彼は尾張徳川家を継ぐために 1908年に養子に入り,翌年先代の娘米子と結婚した。彼の経歴は武家出身の華族にしては寧ろ稀であった。同じ出自の人の多くが政治家,外交官,或いは軍人になる中,彼は東京帝國大學で史学と生物学を修め,彼自身が 1918年ならびに 1923年に設立した徳川生物學研究所および德川林政史研究所で研究を継続した。これらの研究所は金持の道楽室の類ではなく最高レベルの研究機関であって,前者の所長には著名な生物学者であり彼の恩師であった服部廣太郎教授を大学から引抜いて据えた。彼はまた,尾張家の膨大な財宝を寄付して一般公開するため1931年に徳川美術館を設立した。同美術館は上述の研究機関とともに同年に設立された財團法人徳川黎明會[2]に組入れられた。

      左様な学者の最大の趣味が狩猟であったこと,然も対象が雉や狐ではなく熊,虎,象であったことも,彼自身が述懐されたように異常であって[3], このことによって彼はジョホールのサルタンと知己を得られることとなった。マラヤは,1921年にアレルギーの転地療養のため,当時流行のハワイを排して選ばれた地であって,その途上,ジャワの地を初めて踏まれた。同年,彼は夫人同伴でヨーロッパに旅され,そこに1年間滞在された。ジャワへの2回目の訪問は 1929年,バタフィア-バンドンで開催された第4回太平洋學術會議の折であって,日本代表団の一員として参加,日本への帰途にはボルネオ,セレベス,マラヤに足を伸ばされた。これらの旅は令孫仰せの通りの『大名旅行』であったが,可能な限り一般人と同様に振舞われたことは驚きである。例えばシンガポールで御一人のとき,彼は安宿に泊まって食料は通りの屋台で賄われた。マラヤのジャングルでは土地の人と一緒にキャンプし,召使の料理を何でも食された。彼は通訳を雇うことなく,後年,『馬來語四週間(徳川義親,朝倉純孝共著,大学書林 1937)』を著された。

      義親侯はリベラリストであり,且つ自身の回想録のタイトルに付けられた如く『最後の殿様』であった。貴族院議員としての彼は,第二次大戦後にアメリカによって強制される遥か以前に,華族制度の廃止を提唱して日本の社会を驚かせた。実際,彼は名古屋にあった尾張家の膨大な土地を 1931年に市当局に寄贈された。

      彼はヒューマニストでもあった。1941年12月,第二次大戦が太平洋地域で始まるや否や,彼は自身を文官として捧げてシンガポールに飛ばれたが,占領軍に単純に協力するためではなかった。占領軍の最高顧問として,サルタンおよび土地の人々や,12年前に第4回太平洋學術會議の際に共にジャワへ旅した植物館長 R. E. ホフマンらの彼の学者仲間を厚く処遇すべく,彼は軍の司令官より遥かに高い自身の位階勲等をフルに活用された。彼は日本からの科学者や彼の命令で牢から解放された英国人スタッフと協力して,ラッフルス博物館を略々完璧に保護し,研究活動が継続されるよう図られた。彼はまた占領地域に派遣された日本人科学者をコオーディネートする会議を企画された。シンガポール滞在中,彼は3回目のジャワ訪問をなされたが,エッセイを書く気分ではあらせられなかったと思われる。

      斯様な尽力にも拘らず,義親侯は戦後マッカーサー将軍の東京裁判で日本の軍事体制に協力したと審判され,一時期公職追放の憂目に遭われた。

      戦後,彼は社会党の設立のパトロンとなられたが,後に地元名古屋の市長選挙に保守党から立候補し,準備不足のために落選された。彼は数多の学校の校長,多くの会社の社長となられた。彼は狩猟を愛されたが,有害獣と無害獣の区別に自らの基準を持たれ,野生生物保護のリーダーとなられた。彼は身体障害者の福祉に格別の懸念を持たれ,長期に亙って尽力された。令孫に依れば,彼を動かしたものは常に自分以外の何かであって,国家,人類,科学,文化,家族,更には電車に乗合せた人にまで及んだ。彼は 1976年9月6日,89才11ヶ月で逝去された。

      1931年に上梓された『じゃがたら紀行』の序文で,義親侯は出版の目的は,日本の帝国主義者および資本家が進出範囲を極東から拡大する中,一般人が南洋(現在の東南アジア)に目を向けるのを促すことにあると述べられている。彼はフリーランスの日本人の活動の意が削がれ,日本人居住者の数が減少している事実を嘆き,当局による規制を非難された[4]。彼は若者に対して,皮肉にも彼の先祖の幕府によって鎖国[5]が布かれる前の 16-17世紀に同地域で活躍した自由貿易者や傭兵を思い出すよう促された。彼はまた,ジャワおよびマラヤで会われた人々に思いを向け,南洋を偏見なく見るよう願われた[6]

      彼の著は日記のモードを遺して口語調で書かれた平易な旅行記であって[7],彼が見聞き,考察されたことが可能な限り詳細に,正直にユーモアを交えて書かれている。彼の考察は鋭く且つ深く,科学者であり歴史学者の透明で反射的な眼を通して得られたものであることを証明している。このことは,嘗て火山爆発によって砂漠化したクラカタウ島に如何にして植物と動物が復活したかの説明のみならず,プランバナンのヒンズー遺跡の芸術,サルタンの水上宮の廃墟などについての見解などに如実である。彼のユニークな見方のハイライトはボロブドールに関する記述であって,「これ(佛跡の修復)に費消した歳月と費用と時間と根氣とを考へると,此佛蹟は更に貴いものに思はれます。」とある。彼のレポートは時に詳細を極め,現代の読者には冗長であると感ぜられるかも知れないが,それは彼が完全主義者であって,勝ち得た事実を端折ったり調整したりすることなく全てをペンでもって表現されたかった故と思われる。事実,(旅行者がカメラを持つことは贅沢な趣味であった時代)彼自身によって撮影された数多の素晴らしい写真は,本文と参照されるこのなく,独立に挿入されている。

      彼が限られた短期間に案内書のレベルを超える膨大な知識を如何にして得られたかは,彼が宮廷内を訪問して王侯貴族らと直接話ができる高位の華族であったという有利性を考慮しても驚嘆に値する[8]。彼が東西の文化に深く通じてをられたことは,歴史および文学の引用や彼の記述に用いられた直喩と隠喩に明らかであり,彼の学術的分野である植物学用語については申すまでもない。彼はまた,戦後アメリカの影響で引き起こされた国語簡単化政策によって一般的でなくなったシナ起源の節や句の使用を好まれた。

      現代の読者には奇異に映るかも知れないが,第4回太平洋學術會議の場面にネイティヴは現れず,事実,会議録には2,3の名前が記録されているに過ぎない。これは若干のインドネシア人が「オランダ人はネイティヴの教育に熱心でなかった」というのに符合するのか[9]。反対の立場の人は「当時は先進国にあっても科学に関るのは極く限られた人たちであって,オランダ帝国全体に,ジャワに設けられた3つの高等学校を含めて,最高教育機関は1ダースほどしかなかった。[10]」と言うであろう。この議論はさておき,バイテンゾルフ(ボゴール)植物園の  手際良いスタッフやチボダスの高地植物園の有能な助手はネイティヴであって,国の独立後あるいは1950年代のヨーロッパ人排斥ののち,施設と研究の伝統を引き継いだ。事実,バイテンゾルフ農科高等学校ならびに蘭領インド獣医学校,およびバンドン工科高等学校の若いスタッフは,それぞれボゴール農科大学ならびにバンドン工科大学の教授となった。

      ジャワに関するエッセイ全体を通じて,徳川侯は政治または東インドのオランダ統治について何らコメントなされなかった。1921年の訪問の際,オールド・バタフィアにあって,他の1門の大砲と結ばれたときジャワの独立が齎されると信じられている大砲について,多くの人々は独立の問題はさておいて,この大砲に願を掛けると子宝を授かるという,も一つの迷信のためにここを訪れていると述べておられる。彼はまた,18世紀の反逆者ピーター・エルベルフェルドの頭骸骨についての議論で,「もし阿蘭陀に對して謀反するならば,又首が此様にかんかんに爲せられるのださうで,迚も怖ろしいことです。」とユーモラスに述べられた。 1929年の2度目の旅行中,彼は次の10年間に現実となる変化の兆しについて何も語られなかった。ジャワでは,彼は国家主義者および共産主義の活動の増大について聞かれていたに相違ない[11]。満州では彼の国の軍部が動きを強めていた[12]。彼は斯様な事柄に無関心であられたのか。決してそうではなかろう。何故なら貧困なアジアと繁栄するヨーロッパの両方を目にし,植民勢力の厳しさを知っておられたから。事実,彼はジョホールのサルタンの顧問が英国統治の激しさに不平を漏らすのに同情を示された(この部分は本翻訳には含まれない)。とは申せ,回想するに,当時は第一次世界大戦が終わって,アジアは全くリラックスした状況にあった。

      大の読書家である徳川侯は自然学者の先達であるアルフレッド・ラッセル・ウォーレスの書を読み,見方を共有されていたに相違ない。1869年刊の名著『マレー諸島(The Malay Archipelago)』の中でウォーレスは,J・W・モネーの『ジャワまたは如何にコロニーを管理するか(1961)』に完全に同意,「オランダのシステムは,ヨーロッパの国が勤勉で反未開な人々の棲む国を征服または所有したときに適用されるべきものとして最高最善のものと信ずる。」と記し,ムルタトゥーリの『マックスファーヘラールまたはオランダ貿易会社のコーヒーオークション (Multatauli, Max Havelaar or The Coffee Auctions of the Dutch Trading Company(1860), Penguin Classics 1987)』を「散漫な余談に満ちた,冗長で長たらしい物語。」と扱き下している。モネーは時に悪くいわれる栽培制度を評価し,「下層のネイティヴは朗らかで幸せそうであり,北アメリカを除き,私が見たどの国の農民より豊かである。」と述べている。ジャワ史の権威,ドナルド・M・キャンベルは「様々のことが言われなされもしたが,栽培制度は計り知れない規模の利益をジャワに齎した(D. M., Campbell, Java: Past and Present, Vol. I, William Heinemann, London 1915)と結論している。.

      ジャワが豊かな国であったことは,幾世紀にも亙って真実であったに相違ない。シナ人は1172-78に『嶺外代答』の中で「諸外国の中で最も繁栄しているのは闍婆國,次三佛齊國。」と評しているし,『島夷志略』には,「国土は広大で東洋で最も人口密度が高い。田地は肥沃且つ平坦で,コメの生産性は他に倍する。これが大平な闍婆と云う所以である。」と記している( 和田正彦「近現代の東南アジア」, 放送大学教育振興会 1991)。徳川侯が訪れられたときのジャワは未だに豊か且つ平和な国で,土着民と外国人との関係は,フランク・G・カーペンター(1926)[13]とジョン・C・ダイク(1929)[14]が異口同音に賞賛したように,概ね良好であった。

      斯様なコメントは,学校で「植民地主義は無条件に悪であり,外国支配下にあった人々は常に苦痛を強いられていた」と教えられた植民地のみならず旧宗主国の第2次世界大戦後の世代には矛盾と響くかも知れない。また,歴史家の中には,オランダはインドネシアの独立前,全ゆるものを搾取し,国の発展に殆ど貢献しなかったと曰う者もいる。彼らは鉱石や化石資源が重要となる以前の東インドの富は毎年再生産可能な農産物のみから齎された事実 ― アステカやインカの金銀がスペインのコンキスタドール[征服者]によって強奪されたのと異る ― を故意あるいは無意識的に無視しているのか。オランダにとって全東インド,就中ジャワは,少なくとも19世紀にスエズ運河が開かれてオランダから1万マイル超の航海が容易となり,より多くの女性が男性とともに定住するようになって以降は経済的利益だけのための植民地ではなかった[15], [16]。彼らはインフラストラクチャ―のために膨大な投資を行い,当時のジャワはアジアで最も進歩した国であった[17]。彼らが完璧な鉄道網を敷設したのは20万人のオランダ人居住者たけのためではなかった。人々の福祉は20世紀初頭にウィルヘルミナ女王によって急ぐように命ぜられた『倫理政策』[18]のよって大いに向上した。斯様な貢献は,[当然ながら]インドネシアの独立後,国の発展や人々の生活にお構いなく,自分たちの経済的利益のために舞い戻った外国人によって与えられることはなかった。徳川侯のじゃがたら行と同時期に日本からの訪問した一人は,オランダの統治は, 「質の高い官吏を持つ屈指の誠実な人々に与る」との意を述べている(鶴見祐輔の『南洋遊記(大日本雄辨會,1917)。著者の令孫は,徳川侯は単純な反植民地主義者ではなく宗主国の正の面を評価し,最早攻撃的なワールド・パワーでなく,東インドの近代化に集中していたオランダに好意的であったと指摘された。

      少なくとも確実なことは,徳川侯は国または国家より,人々ならびに人々の文化と歴史に興味を持っておられたことである。彼はオランダによって建設されたバタフィア(現ジャカルタ)を 「流石に住宅の設計に獨得の技倆を有するオランダ人の計畫だけあって,翠光の滴る緑陰の市街です。その間に小ぢんまりした白堊の,周囲の緑によく調和する様に彩られた家が點々と建ってゐます。」と賞賛し,他の都市についても同様にコメントされた。彼は田舎の住民の茅葺で竹壁の家々を[構造的に]虫籠に譬えられたが,居心地良さそうだと述べ,汚いとは言われなかった。ジャワへの途上,徳川侯はオランダ客船の心地よい航海を楽しまれ,清潔好きのオランダ人によって設えられた雰囲気を賞された。彼は繰返し,「車は砥の様な道を矢の如く駛ります。」と記されたが,この状況はヨーロッパからの訪問者をも羨望させた。生物学者としての彼は植物園の研究室に感嘆し,「實驗室の設備の良いこと,ここで暫く.落ち着いて.研究が出來たらばと思ふのでした。」と記された[19]。彼は,然し,経済的理由で薪[まき]を焚く機関車,毛布の備わっていないホテルのベッドにユーモラスには苦言を呈された。

      著者は或る距離から観察した客船のジョンゴス,ホテルの夜警,伝統的音楽奏者,ワヤンダンサーなどのみならず,土着の人々について多く記した。彼はある湖畔で花束を呉れた可愛い村娘にコインを上げられた。彼は見すぼらしい少年から,高いと知りつつ玉虫を買われた。彼は老女と彼の仲間のトラブルを喜劇として眺め,問題を解決した巡査を尊敬できる人物と目された。候は,彼らを決して見下さなかった。彼は人種に全く偏見を持たなかった。彼は「(前略)他の地方の開闢以来炎熱に曝されて魂が抜けて水ぶくれになった木偶の様な人種...」と評されたが,それはスンダ人少女の美しさを強調するためであった。

      ボロブドゥール仏教遺跡において,徳川侯はその芸術のみならず,その知られざる歴史に関心を持たれた。事実,ジャワおよび周辺の島々には,イスラム到来以前の古文書や記録は殆ど遺っていない[20]。シナからの帰途,1292(?)年に小ジャワ(スマトラ)に逗留し,イスラム化の模様を詳しく書いたマルコポーロは,ジャワには到らず,船乗りからの伝聞として,人々は大きく豊かな国で強力な王によって支配されているとだけ述べている(Polo, Marco (translated by R. E. Latham), The Travels, Penguin Classics, London 1958)。仏教に関し,7世紀後半,シナの仏僧義淨は,仏書(根本説一切有部百一羯磨・巻五)の中に「三佛齊の都では學問が尊ばれ,千人の僧が托鉢をしている。学問のレベルと僧の質は中部インドに於けると同等である。唐の僧で佛教を勉強せんと欲する者は,西方の印度に行く前に,其処に一,二年滞在するのが良い。」と記している(和田久徳『東南アジア諸民族の歴史』,放送大学教育振興会, 1987)。その雰囲気は,多くの文学や絵画からイメージすることの可能な日本の古代の京都のようであったのであろうか。義淨の記述から,9世紀のジャワにおける仏教は,同等またはそれ以上に栄えていたと想像される。

      プランバナンのヒンヅー遺跡で,著者は「歐州の名高い彫刻に比して,決して遜色のない雄大な藝術を此伽藍に殘した,今は名も知れず時代も明らかでない爪哇の巨匠」に思いを馳せられた。ボロブドゥールの仏跡で,彼は孤独な研究者(東京美術學校の三浦秀之助助教授)の「面白いでせう。ここに刻まれてある千年以上前の爪哇の風俗は千年の後,現在吾々の目の前に展開してゐる爪哇人の生活の有様と,どれ程も變ってゐないです。」との言に印象付けられた。イスラムがジャワ全土で優勢となったが,それ以前の宗教および精霊信仰の伝統は保たれ,人々はマハーバーラタやラーマーヤナを愛し続けている。この状況は中東または近隣国とは全く異なる。それはヨーロッパ人の到来によっても変わることがなかった。手を伸ばして触れば願いが叶うという仏像に触り得ずに落胆したであろう多くの巡礼者に同情された。彼自身は成功したが,「中には遂に及ばずして,失望して歸ったものもありませう。」と言い,彼の願いが何であるかは読者の想像に任せられた。

      バタフィアの立派な総督官邸や豪華なソロのススフナンの宮廷は,明治維新後に天皇に捧げられ(1945年5月14日の空襲で焼失することとなる)彼の家族の名古屋城と心中で重なったと思われるが,それには触れられなかった。もし『民主政治』を貴族政治の反語とするなら,彼は常に民主主義の感覚を持ち,視線を一般人のレベルに置かれた。

      ジャワの文化についての彼の好奇心は,ジョクジャカルタの兵隊の古風な行進を見たとき頂点に達した。彼は『調練』と云い,パレードとは仰らなかった。これは半世紀以上も後,独立国インドネシアにおいても真実であり,近年翻訳者自身によって偶然目撃されたように,同じドラマは毎年繰返されている。

      事実,伝統への愛はジャワ人あるいはインドネシア人の最たる特徴的性格であるということができよう。徳川侯訪問後の 70年間,彼らは千年の歴史の中で最も掻き乱された時期を経験した。日本による全土的侵略あり,独立への苦闘あり,政治の混乱あり,経済的困難があった。スハルト大統領のもとでの『新秩序(New Order)』は,人気歌手ローマ・イラマが歌ったように「富める者は益々富み,貧する者は益々貧する」状況を生み,近年の経済危機へと連なった。然し度重なる事件や社会構造の変化は,現代の旅行者が徳川侯の記述にあると同様な情景を見るように,インドネシアの人々のライフスタイルや物の考え方にさして影響しなかったように思われる。

      インドネシアの人々は古い物を維持し,また再現することを好む。ジャカルタの新たに開発された地域に摩天楼が立ち並ぶ一方,オールド・バタフィアの街は昔通りに保存され,以前のウェルテフレーデンでは総督公邸を含む建物が保存且つ利用され,変ったのは通りの名前のみである。彼らは太平洋學術會議会場に使われたバンドン工科大学や中部ジャワのプカロンガン鉄道駅に見られる木造トラスアーチの屋根 ―20世紀建築特徴の粋― を変更しようなどとは決して考えない。ボゴール植物園は,研究室は往時の光彩を失ったものの,敷地内にあるオランダ墓地を含め,清潔且つ整然と保たれている。プランバナンは,オランダ人の遺した宿題であった三次元ジグソウパズルを解く努力のなされた結果,最早無残な姿ではない。加えて,インドネシア人は彼らの遺産を向上させることを好む。それはハイネケンの遺産であるビンタン・ビールに留まらない。パルテノン・スタイルのフロントデザインを持つ国立博物館の新館は,1868年建設の旧館と双子のように見える。西ジャワ州政府庁舎として利用されているバンドゥンのクドゥン・サテ・ビルディングでは,1920年代の元の建築にマッチしたデザインの新会議場を見ることができる。最近バンドン工科大学に加えられた研究棟は,高層且つ近代的ではあるものの,徳川侯が御覧になったと同じ型の屋根と石柱を備えている。とは申せ,近年多数の古い建物や道路までもが失われたことは否定できない[21]

      斯様なインドネシア人の伝統は,彼らが誇りにするか否かに拘らず,アジアの典型ではなく,400年に亙るヨーロッパ人との接触において影響を受けた。シンガポールは徳川侯によって記録された過去のイメージを全く留めていない。アジアの或る国では,過去の壮麗な植民地本部ビルディングが,解放の 50年後に,文民大統領によって国家の恥辱であると見做され,破壊撤去された。ジャワと日本の文化の共通点を指摘した徳川侯および同時代の海外からの旅行者は,若し第二次大戦後システムのみならず,人々の伝統的な心までもが毀された日本を見たならば,異ったコメントを呈するであろう[22]

      ジャワで行われた第4回太平洋學術會議について,読者は,とりわけ科学者であれば,著者が会議の目的について熱情的に説明されたように,科学的活動が絶対的自由の下で行われ,科学者が多くの国で尊敬を受け,他の社会から独立であることを許された『古き良き時代のイベント』であったという翻訳者の見方に同意されるであろう。事実,著者は自身および仲間を「呑気な學者連中」と評し,「各自,自分の専門の學門を守ってをれば,それ以外の事には先ず無關心でゐられます。」と述べておられる。.オランダ政府は,略々300名の客を1ヶ月間ももてなすのに非常に寛大であった。前にオーストラリアおよび日本,後にカナダと仏領インドシナで行われた会議への参加者も同様な歓待を受けたのであろう。

      左様なエリート科学者は,単なる「呑気な」人々ではなく,第4回太平洋學術會議の開会の辞の中で,東インド総督デ・フラーフ博士が期待を込め,いみじくも宣わった通りの,「政治を超え,狂信的愛国主義や他の多少なりとも利己主義的な運動から離れて,問題を討議し解決する備えと意思を持つ」高潔な心を持つ人々であった。1942年2月,シンガポールが日本軍によって陥落したとき,火山学者であり地質学者であり,会議の正会員であった田中館教授は,別の任務で滞在していたサイゴンから,公的命令が曖昧なまま,そこへ急行された。ラッフルス博物館,図書館及び植物園において,彼は自身を館長に任じ,ホルタム博士および若いコーナース博士を,それぞれ副館長と秘書に任じ,1942年3月に到着された徳川侯を館長になられるよう説得して 1942年9月にホストを譲るまでの占領初期の期間,英国人スタッフと協力して,これらの研究機関を保護するのに決定的役割を果された[23] (田中館秀三著;田中館秀三業績刊行会編『田中館秀三: 業績と追憶』,世界文庫 1975)。

      彼らは放棄された家屋から書籍を回収し図書館に運んだ。田中館教授と徳川侯は植物学者によってなされた未発表の仕事のことを聞くと,原稿を直ちに印刷設備が爆撃を免れたクアラルンプールで,彼ら自身の負担でもって印刷された。彼らは当時当局が禁止していた英語を構わず使はれた。1929年の会議メンバーのひとりであって,後に来た郡場京都帝國大学名誉教授は,2人の前任者が去った後,1945年9月にシンガポールが英国に返還されるまで,任に当られた。科学者はコスモポリタンであって,彼らの間には敵はなかった。これらの話の幾つかは,コーナース教授著『侯爵:ショーナントー物語 ( E. J. H. Corners, The Marquis: A Tale of Shonan-to, Heinemann Books (Asia) Ltd. 1981)に含まれている。

      日本人科学者による科学保護への寄与はアジアの他の地域においても顕著であった。第4回太平洋學術會議日本代表団団長であった畑井教授はフィリピンに赴き,マニラ・サイエンス・ビューローの長となられた。ジャワとスマトラでは,オランダ降伏の直後,徳川侯の要請を受けて赴いた田中館教授が,バタフィア,バンドゥン,バイテンゾルフ,メダンほか全土の研究機関を封印保護し,[軍部によって]収容所に入れられていたオランダ人スタッフを解放し,任務に復帰させられた。田中館秀三『南方文化施設の接収』,時代社 1944)。エピソードの一つに次のものがある。それぞれバイテンゾルフ植物園長,腊葉館長を務めた T. 中井東京帝國大學教授,R. 金親九州帝國大學教授は,植物園の樹木を伐採して材木にしようとする日本軍部に対抗して,植物園を護られた[24]

      『じゃがたら紀行』は久しく絶版となっており,最近の旅行者はハウ・ツー情報の盛られた手近なガイドブックを好むゆえに,日本でも読まれることは無いに等しい。本書は,著者が遠い昔に希はれたたように,未だ参考書として有用であり,『時代遅れ』でないと翻訳者は信ずる。

 

 

註 


[1] 徳川家康(1542-1616)は16世紀 ‘戦国時代’の武将,1600年の最終戦争に勝利し,1603年に江戸に幕府を開いた。この幕府は1868年の明治維新で政権が天皇に奉還されるまで続いた。家康は名古屋(尾張),和歌山(紀伊)および水戸(常陸)に分家を設けた。徳川は,清和天皇(858-876)に発する源氏[清和源氏]に由来し,12-13世紀に有力であった松平家に連なる。由って,著者の実父の血統は松平に連なる。彼の父,越前藩主松平慶永(1828-90)は幕末の重要人物であって,明治政府では大蔵卿を務めた。

 [2] 徳川黎明會は1931年に設立された。徳川美術館は日本における最高の美術館の一つであって,尾張徳川家によって過去300年間に蓄積された全宝物が集められ分類されている。研究は現在に至るまで継続されている。徳川林政史研究所も数少ない私的研究機関として存続し,彙報を刊行している。徳川生物学研究所は1970年に閉鎖された。

[3] マレーの野に旅して」の中で,義親は,シンガポールで妻から手紙を受取ったときのことを次のように記している。

「封を切ると寫眞が二三枚ぱらぱらと落ちました。實驗室で寫して,時日がなく燒かずに殘して來たものです。現像の失敗で汚染(しみ)をつけましたが,とにかく面影だけは分ります。かうして寫眞をみると,研究所で實驗室に閉じ籠って顯微鏡を除いてゐる自分と,今ここに熱帶の炎熱を冒し,危險な象や虎を相手に戰を仕様としてゐる自分とは,同じ一人でありながら,二つの異った世界に住んでゐるひとの様な氣もして,どちらが本當のじぶんであらうかといふことを疑ふのです。かなり極端に異った性格を持ってゐる自分,といふことが考へられます。」

[4] 明治維新後,多数の日本人が海外に移民した。ハワイ,カリフォルニア,ブラジルへの移民の殆どが貧しい農村からのグループであった一方,東南アジアへ渡った人々は個人であった。彼らの中の幾らかは商人であったが,多くは料理人や労働者として働いた。多くの女性は夜のビジネスに従事した。:「マレーの野に狩して」に徳川侯は以下のように記している。「(前略)兩三年前迄馬來街所謂ステルツには天草邊りから乘り出した娘子軍が跋扈してゐて,新嘉坡(シンガポール)に一名物となってうぃたさうですが,如何にも不體裁で國辱なので,山崎平吉領事が撲滅を企て,遂に悉く退去させて,今は其影も留めぬ様になりました。然るに皮肉にも,これを劃期として,日本人は南洋から影を沒しつつ有ります。此儘にしておいたならば,やがて日本人は全く根拠を失ふ様なことになりはしないかと思はれます。」

[5] 1639年に第3代将軍によって鎖国が布かれ,海外との交流がきんしされる以前,東南アジアには相当数の日本人居住者がいた。傭兵の中で最も有名なのは山田長政であって,部下とともにアユタヤ王の衛兵に任ぜられた。VOCは1620年までに300人以上を雇いバタフィアと他の東インド地域に送った。男は商人および侍,女は好んでオランダ人配偶者となった。侍は1919年のバンテン‐イギリス連合の奪取に重要な役割を果した。1623年オランダに敗れたイギリスのアンボン守備軍にも9人の日本人がいた。(和田正彦「近現代の東南アジア」, 放送大学教育振興会 1991)。

[6] 徳川の『じゃがたら紀行』と対象的に,竹腰與三郎の『南國記(二酉社,1910)』および鶴見祐輔の『南洋遊記(大日本雄辨會,1917)』は幾分国家主義的視点で書かれている。2人の著者に,30年後に現実となるような軍事活動を示唆する意図は全くなかったが,これらの書は,所謂『南進論』の発展に影響をあたえたかも知れない。他の国も豊かな東インドに潜在的関心を持っていたことは真実であろう。カーペンターの書(Java and the East Indies, Doubleday, Page & Scott Co., Garden City-New York 1926)には,「私が本書を書いているバンドンは,若し合衆国の手に落ちたとすれば,人気のある保養地となろう。」との文がある。

[7] 本翻訳に含まれない『馬來獵記』は平易ではあるが,文語調で書かれている。

[8] 日本人たる徳川侯がジョクジャカルタのサルタンおよびソロのススフナンに謁見できた事実は,戦前の全機関を通じ,オランダ植民地政府が,日本人と土着君主との接触が彼らの勢力基盤を揺るがすと怖れた中で,寧ろ例外的であった。政治家であり著述家であった竹腰與三郎および鐵道省の高官であった鶴見祐輔は,それぞれ,「スルタンは娘の結婚の準備のため多忙である」,「総督からの書状が,彼(鶴見)がソロを離れる日に漸く届いた」との理由で面会することができなかった(竹腰與三郎,『南國記』,二酉社,1910),鶴見祐輔,『南洋遊記』,大日本雄辨會,1917)。徳川侯の謁見は問題なく設定されたが,多分,彼は高位華族に与えられた貴族院議席を持つものの,政治家でも高官でもなく,純粋な心を持つ学者であったからである。

[9] 「オランダ人は土着民を『半子供』と見做し,彼らをそのレベルに留めようと欲した。」と言われている。このことは植民初期においては否定できないが,19世紀後半以降,バタフィア政府が以前の政策を翻し近代教育の導入を試みたときの一つの困難は,伝統的イスラム学校,プサントレンの宗教に即したカリキュラムと如何に調和させるかにあった。もう一つの困難は,25年間で1.8倍という急速な指数的人口増加に応じた学校の建設にあった(アブドゥラー・タウフィック編(白石さや,白石隆訳),『インドネシアのイスラーム』,めこん 1985)。高等教育に関しては,上流階級の親の多くが,子供たちを大学や高等学校に送る価値を未だ見ていなかったと謂われている。

[10] バンドン高等工業学校(1920),バタフィア法学校(1924),バタフィア高等医学校(1927)。バタフィア医学校の起源は1852年に遡る。総合的なバタフィア大学の設立のスキームでは,文学部と農学部が1940年と1941年に加えられた。

[11] 例えば,インドネシア共産党は1920年に設立され,1926年に暴動を起こした,インドネシア国民党は1927年に設立され,スカルノが1929年に投獄された,『インドネシア』を国名,民族名および言語名とするという若人の誓いが1928年に発せられた等。

[12] ロシアから取得後,旅順に駐留していた日本軍は1919年以降半独立的軍事ユニットとなって満州鉄道保護のため満州に進駐した。1932年7月7日,盧溝橋事件を切っ掛けとしてシナとの戦争が始まった。軍部が優勢となって,共産主義者のみならず自由人をも支配拘留する目的で,治安維持法が1925年に布かれた。

[13] Frank G. Carpenter は,Java and the East Indies, Doubleday, Page & Scott Co., Garden City-New York 1926: に,次のように書いている。

   「ジャワの小さな褐色に民は,日本以外の有色人種の中で最も愛すべき民である。」; 「私は既にジャワ中を旅行したが,未だ空腹そうに見える土着民に遭ったことがない。この国は自給しているおみならず,毎年幾百万ドルもの価値の産物を国外に送り出している。...」; 「ジャワ人の官吏はヨーロッパ人と同等に扱われ,首長の妻は理事官の妻と同じ地位にある。理事官とレヘント(現地人の長)は公式晩餐会で席を並べ,同格のように見える。...」;等。

[14] John C. Van Dyke は, In Java and the Neighbouring Islands of the Dutch East Indies, Charles Scribner's Sons, New York and London 1929 に次のように書いている。

   ジャワおよび[周辺の]島々におけるオランダ行政の些細な誤りについて,あれこれ言うのは価値がない。オランダ東インドが良好に管理され,地図上のどの植民地よりも好く管理されていると言うのが事実である。植民保護領のアメリカ行政もオランダに倣うのが効率的であるが,財政的損失を伴う。オランダはジャワから利益を得ているが,土着民にも金を儲けさせている。更に彼らは何百万ドルを還元している。彼らは公正かつ均整な政府と繁栄ある植民地の樹立を目指している。この目的のため,彼らは土着民の土地所有権を確認し,灌漑と牧畜に進んだ方法を導入し,森林に配慮し,現地民学校と大学を設立し,都市,道路,橋梁を建設し,新たな交通ルートを拓き,都市と村を良くすることを見通して全ゆることを行っている。その結果,土着民には十分な食料があり,住居と衣服があり,彼らは幸せそうに見え,満足しているように映る。そしてジャワは旅行者の喜びであり,全ての熱帯の国々の中で最高である。これに対してオランダは賞賛を受けるべきである。何故無条件に左様に言わないのか。

[15] 憲法上,東インドならびにスリナムとキュラソー島は,1922年にネザーランドと同格となった。このことは他のアジアの領土,例えば英領インド,スペイン領/アメリカ領フィリピンとは全く異なっていた。従って,1941年にネザーランドがドイツに占領されたとき,時の東インド総督 Mr. A. W. L. Tjarda Van Starkenborgh Stachouwer が,翌年日本に占領されることを予想せず,ロンドンに亡命中のウィルヘルミナ女王と政府をバタフィアに移すよう提案したのは不合理なことではなかった。(この案にはウィンストン・チャーチルおよび女王が同意しなかった。)

[16] オランダ人の多くは定住者であった,これに反して,例えばインドの英国人は退職後本国に帰る傾向にあった。男女両方の移住とそれに伴う純白人の再生産は,例えばケープ植民地では一般的であったが,遠方のジャワへは航海が難儀であったために,[蒸気船が就航し,スエズ運河が開かれる」19世紀後半までは限られていた。初期においては,男はポルトガル時代に既にキリスト教に転向していたアンボン人やブギス人,またはハーフ・カースト(ユーラシアン,インド[Indo])にパートナーを求めざるを得なかった。17世紀の前半に日本が鎖国する以前,日本人は高度に文明化され,彼らの宗教である仏教はイスラム教と異って他の宗教信者との結婚に寛容であったため,日本女性を歓迎したothers (Boxer, C. R., The Dutch Seaborne Empire 1600-1800, Penguin Books-Hutchinson, London 1990, and other references)。

[17] バタフィアおよび他の都市ならびに全土にわたる道路網の建設は,1808-1811年の間に,フランス占領下のホランドから総督として派遣されたH. W. Daendels 元帥によって始められた。前年のウィーン平和会議の合意によって東インドがオランダに返還された1816年以降,ジャワの近代化が加速された。最初の電信の導入は1858年,外島との間の海底ケーブルの敷設は1858年,郵便制度の開始は1862年,公共鉄道の導入は1867年,バタフィアのタンジュンプリオク近代港の建設は1870年代,全政府オフィスへのタイプライターの導入は1900年など,ネザーランドから遅れること僅か10-15年で行われた(Torchiana, H. A. van Coenen, Tropical Holland, An Essay on the Birth, Growth and Development of Popular Government in an Oriental Possession, University of Chicago Press, Chicago 1921, 白石隆 『プラムディア選集2:人間の大地—パンフレット』メコン 1986, および他の資料)。

[18] デン・ハーグからバタフィアへ,更に地方当局への行政権の移転が猛スピードで行われた。土着民のための初等中等レベルの学校が開かれ,最高教育機関3校が1920年代までに設置された。参議院(Volksraad)は1918年に設けられた。斯様な政策は行政に従事するエリートを生んだが,反植民地運動を揺籃した。

[19] J. W. B. Money は 1861年,Java or How to Manage a Colony  の中に,東インド政府は,家々の洗浄と修理を年に2回行うことを課す政策を,ヨーロッパ人のみならず土着民にも適用した。結果,土着民も清潔な環境に住まうことを喜んで学んだ。

[20] 不幸にも,ジャワへのイスラム教の到来は,古代ギリシャ,インドおよびシナの知恵を尊んだアッバース朝(750-1258)が終った遥か後のことであった。また,ジャワに来たイスラム教徒の殆どは文化や芸術に興味を殆ど,または全く持たない商人であった。ジャワの古い時代の寺院,.僧院,書籍および文書は,イスラム征服(15-16世紀)の過程または後に,無視されたか,さもなくば意図的に破壊されたと考えられる。

[21] 一例は1815年に土着民業者によって建設されたハルモ二―・ビルディングである。1985年,歴史的価値を知らぬ国家官房の命によって,単に道路を拡幅し,駐車場を作るために破壊撤去された(Heuken, SJ Adolf, Historical Sites of Jakarta, 6th Ed., Cipta Locka Caraka Foundation, Jakarta 2000)。古い格式のあるホテル,Hotel des Indes, Hotel der Nederlanden および Hotel Koningsplein も最早存在しない。バンドンでは,嘗て瀟洒な家々と日蔭を落す樹々の並ぶ美しい通りであったジャラン・ダゴ(正式にはJalan Ir. H. Juanda)とジャラン・チハンプラスは,過去15年の間に喧騒なショッピング・ストリートに転じた。パストゥール通は高架道路建設のために破壊されつつある。

[22] 典型的な例は Scidmore の観察である。

「ジャワ人はマレー人種の中で最も美しい華であって,ムハンマド教徒およびヨーロッパ人による征服以前に,文明,芸術および文学を持っていた。... 彼らは柔らかな声,柔らかな行儀および繊細で表情ある特徴を持ち,外国人にとって真の可愛らしさと魅力のある日本人と並ぶアジア人である。... 彼らの言語は柔らかく音楽的であり,『熱帯のイタリア人』である。彼らの発想は誌的であり,彼らの花と香水,音楽,英雄劇の舞踊への愛および情熱的形式の芸術は,彼らが,数多の混合マレー人種の中の遠い祖先と同様に (難解:原文 “as their distant cousins, in whom there is so large an admixture of Malay stock”),先天的に審美的である。地位と年齡への尊敬および他人に対する手の込んだエチケットと几帳面な好意は,日本人と同様,一般人の間でさえ認められる。...」 (Scidmore, E. R. Java - The Garden of the East (first published in New York 1899), Oxford University Press Pte, Singapore 1984)”。

[23] 「新館長を迎ふ」 の項に,田中館教授は以下のように書いている。

    守成は余の仕事ではない。折角育て上げたる博物館,圖書館に.如何はしい館長を迎へて昭南の伏魔殿とも化する様ならば吾が努力も水泡となるべきを思ひ,先づ徳川侯爵を是非顧問として毎日御來館を願上げたのである。然し侯爵を招聘するに適當な部屋がない,そこで先づ元圖書館主事室をマーケース・ルームと名づけ,館に沒收しおきたる家具中最も美麗なるものゝみにて飾った。そして近く侯爵の秘書として日本より來昭さるゝ妙齡のニ嬢も圖書館員とすることとし、その席をもマーケース・ルームの侯爵の傍に設けた。そこへ大達市長も見えて昭南第一の居心地よき室と賞められたのであるから室は先づよい。其室には侯の好まるる書を並べ毎日候の御來館を願上げたところ、八月より毎週一,二度御來館され「こゝへ來て勉強しよう。」と云はるゝに至った。そして八月二十八日になって、「私は博物館、植物園長をやります。」とのことてあった。侯爵は日本にては美術博物館も主宰され、圖書館も持たれ、又植初學研究所をも御自分で建てられて居る。それ故侯爵の博物館適任者たるには異論はないが「何にしろマライ軍政監部顧問從二位動三等*侯爵徳川義親閣下を野に下し博物館長にすることは。」と度々余の申出は拒絶されて居たのであるが,今や余の希望は建せられた。蓋し博物館を吾が物として育て上げた私としては今徳川侯を新館長に頂いたことは最大の成功である。これを以ての新領土における學術研究機關の地位が高まり一層権威あるものとなったのである。九月一日より新館長は午前丈け來らるゝが、然し事務は全部後任主事の來るまで余がとって居たのである。

*)此の位階勲等は正鵠を欠く。徳川侯は1924年に勲三等を受けられたが,当時の位階は正四位であった。1940年に勲二等瑞寶章を,新嘉坡に赴任の前年の1941年に從二位に上られた。「從二位動二等」が正しい。

[24] 翻訳者は阿部知二の “The Islands of Fire - An Account on Java and Bali (1944)” へコメントすることを差し控えたいが,1942年2月28日のバタフィア沖海戦で沈没させられた軍艦でジャワに着いた彼が日本による統治を正当化せねばならなかったとは申せ,著名な作家であり英文学者であった彼が,何故に宗主国オランダを左様に嫌悪感をもって批判し得たかに疑問を持つ。個人的には,阿部は占領下のオランダ人に寧ろ同情的に接していたと思われ,戦後,或るオランダ人の運命を題材とする小説『死の花(新文藝社,1946)』を著した。阿部とともに派遣された北原武夫による随筆『雨期来る:ジャワ従軍記(文体社,1943)』 は全く客観的であって,オランダ統治および日本の占領について,批評もコメントも皆無である。多くの作家や芸術家は日本占領地域での滞在を彼ら自身の生活スタイルで享受したように思われる(神谷忠孝,木村 一信(編)『南方徴用作家 ‐ 戦争と文学』,世界思想社1996)。