4. 獅子

 

 

(1) 起源

百獣の王であるライオンを神殿の守護として据える発想は古くからのもので,アッシリアの繁殖,性愛,戦の女神イシュタルを祀る神殿の獅子像が大英博物館に収蔵されていますし,古代ギリシャ時代 前8世紀末にアポロ神に捧げられた獅子像6体がエーゲ海デロス島 (Delos)の「ライオンのテラス」に遺っているそうです。 獅子像が仏教寺院に置かれたのは,ヘラクレスをドゥワラパーラ (門番)に採用したのと同様にガンダーラを濫觴とすると見られ,インターネット上に幾点かの画像がありました。

 

 

   

左: アッシリア王国アッシュールナツィルパル2世(在位 883-859 BC)の宮殿に連結したイシュタル寺院の入口に置かれた守護ライオン像(対のひとつ)。大英博物館蔵。2017年4月,筆者撮影。(2019年3月追加) 

右:ガンダーラ・スワット,ブトゥカラ仏塔前のライオン像。アショーカ王の御代(前268年頃-232年頃)の創建とみられる。

http://tabi70.pro.tok2.com/tabi/paki/paki10.htm  (画像オーナーと連絡不能)。

 

 

    守護としての獅子像はインド周辺に広まりました。取分けスリランカでは,11世紀初めにチョーラによって侵略を受けるまで恒久の都であったアヌダラープラのアバーヤギリ・ダーバガ (Abhayagiri dagoba,ドーム型寺院)やシンハラ王朝復活後12世紀後半に新都ポロンナルワ (Polonnaruwa)に建てられたキリ・ビハーラ (Kiri Vihara)には獅子像が置かれましたし,ヤパフワ (Yapahuwa)の王城跡には,恰も日本で見慣れた獅子狛犬のように1対の獅子像が遺されているそうです。因みにスリランカの人口の大半を占めるシンハラ人は語源的にライオン・ピープルを意味するほどライオンと所縁あり,ライオンは現在のスリランカ民主社会主義共和国の国旗に象徴されています。

 

 

クシャナ朝マトゥーラの獅子像。

左,中: 西暦1世紀,マトゥーラ国立博物館所蔵。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Half_Engaged_Lion_Standing_with_His_Mouth_Open_-_Circa_1st_Century_CE_-_ACCN_0-2_-_Government_Museum_-_Mathura_2013-02-24_6646.JPG;http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lion_-_Kushan_Period_-_ACCN_00-04_-_Government_Museum_-_Mathura_2013-02-24_5884.JPG

右:西暦2世紀,クリーヴランド博物館所蔵。

http://ignca.nic.in/asp/showbig.asp?projid=ac25

 

 

左:スリランカの古都アヌラダープラのライオンレリーフ。

http://www.flickriver.com/photos/chintaka/tags/anuradhapura/

右:スリランカ,ポロンナルワ公会堂入口の獅子像[11-13世紀」。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Polonaruwa,_lion_Audience_Hall%28js%29.jpg

 

 

スリランカ,ヤパフワ (Yapahuwa)王城の獅子像,13世紀。

http://legacy-site.lasith.lk/historical/pre-colonial-era/yapahuwa-rock-fortress/  (画像オーナーと連絡不能)。

 

 

 

(2) ジャワのライオン像

ジャワにはサイレンドラ王国の時代に建てられた仏教寺院が数多存在しますが,ライオン像の見られるのは,筆者の知る限り,ボロブドゥール寺院のみです。そこでは,地面から上階に上る階段脇のほか,回廊のある方壇や上部の円壇にも置かれています。

    先ず参道先の東側地面のものですが,顔貌に威圧感はなく寧ろ愛嬌を湛えている,目は手塚治虫の漫画「ジャングル大帝」に似て真丸,頬は虎のように膨らみ,鬣は短く逆立って驢馬のそれを想い起させます。首の周りの毛は先端が丸まった風に著しく図案化されています。

 

 

ボロブドゥール階段前地面のライオン像 (東側)。2015年2月,筆者撮影。

 

 

    寺院南側に廻ってみると,そこのライオン像は相当に風化されているものの実際の動物の顔に近く見えますが,鬣は矢張り短く驢馬のものに似ています。西側の像は南側のものに似ていますが,俯き加減で外敵を威嚇する風にではありまません。北側にライオン像はありませんでした。上部第一円壇および第一回廊のライオン像のデザインは,細部は微妙に異なるものの,南側地上のものに似ていて,このタイプのものがボロブドールライオン像の典型と申せましょう。

 

 

ボロブドゥール階段前地面のライオン像 (南側2体)。2015年2月,筆者撮影。

 

 

左: ボロブドゥール階段前地面のライオン像 (西側)。2015年2月,筆者撮影。

右: ボロブドゥール第1回廊階段脇のライオン像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

ボロブドゥール上部第1円壇のライオン像 (2体)。

左:2015年2月,筆者撮影,右:2007年2月,筆者撮影。

 

 

    幾度かボロブドゥールを訪ねた後,ここのライオン像の特徴がスリランカのものに似ていることに気付きました。それもその筈,ボロブドゥールの建設前にジャワを訪れてサイレンドラ王家のプラモダワルダーニ王女に出逢い,父のサマラトゥンガ王からボロブドゥール寺院の設計を任されたと伝わるグナダルマ師はスリランカ・アヌラダープラの出身とみられるので[1],彼がスリランカ伝統のライオン像を描いてジャワのアーティストに示したと考えても不自然ではありますまい。

     ボロブドールの獅子像のデザインが一定でないことは,それらが同じ時期に作られたのでないことを窺わせますが,更に四方階段脇への配置が不揃いであることに気付き,最近(2019年6月)訪れたときに同行の友人の助けを借りて調査した結果を下に示します。後世に銷失した可能性も否定できますまいが,最初から疎らに置かれたのであったかも知れません。

  

チャンディ・ボロブドールの獅子像の配置(赤印)。2019年6月調査。

 

 

    何故ボロブドゥール以外のチャンディにライオン像がないのか。ライオンの生息域は古代と云えども西はアフリカから北はバルカン半島,コーカサスまで,東はインドまででしたから,ジャワの人々はライオンという動物に親しみがなかったというのが理由であったかも知れません。

    チャンディの門前に守護として置かれたのとは趣旨を異にしますが,ボロブドゥール或いはセイロンのものに似たライオン像はプランバナン平野のヒンヅー寺院,ロロ・ジョングラン寺院群 (俗に云うプランバナン寺院)の主堂チャンディ・シヴァおよび中央手前のチャンディ・ナンディの基壇壁面を飾る,所謂「プランバナン・モチーフ」の中央に置かれています。サンジャヤ王国のラカイ・ピカタンによってロロ・ジョングラン寺院群が建設されたのは,ボロブドゥール完成の30年余り後の西暦856年のこと,筆者はボロブドゥールの彫刻に携わった芸術家集団がボロブドゥールのライオンを踏襲したと想像しました。

 

 

プランバナン・モチーフの例 (中央のライオンは共通,左右のレリーフの樹下の動物は様々)。

2015年2月,筆者撮影。

 

  

    ロロ・ジョングラン寺院群の造営された9世紀後半以降,チャンディを見張るライオン面に代ってカーラ面 (怪物面)が採用された事実,13世紀以降の東ジャワのチャンディでは上屋を支える人像 (アトラス)に代ってライオン像が置かれた事実については,前の節で述べました。

     付録として,スラカルタ(ソロ)のマンクブミ宮殿で見た実物を模した金張りのライオン像を示します(2019年10月)。

 

  

 

スラカルタ(ソロ)のマンクブミ宮殿の実物を模したライオン像。2019年6月,筆者撮影(新)。

 

 

(3) 日本の獅子像

日本の獅子像の最古のものは東大寺南大門のもので東西一対、座高は右側 (東側)のものが1.8m、左側 (西方)のもの1.6mで,何れも高さ1.4mの台座に置かれています。寺伝によると、この石造獅子は、南宋から訪れた4人の石匠によって1196年に制作されたもので,最近の研究に依れば,材料となった石も中国の寧波から運ばれてきたものであることが分かったそうです[2]。事程左様,像のデザインは後世の彫師によって作られた個性に溢れた獅子像と異なって,顔に幾分愛らしさを湛えているものの全体は純朴な唐獅子で,台座にも異国風の彫刻がみられます。当時の日本と南宋の間には政府間の使節の交換はありませんでしたが、僧侶や商人といった民間人の交流が盛んで、そのゆかりが今も奈良に残っているそうです。

 

 

東大寺南大門背面の唐獅子像 (左: 西側, 右: 東側)。2014年9月,筆者撮影。

 

 

    今日一般に云う獅子狛犬 (または略して狛犬),口を開いた阿形の獅子と口を閉じた吽形の狛犬の対が現れたのは平安時代のことで,寺院のみならず神社にも置かれるようになりました。平安,鎌倉時代には素材には石でなく木材が主に用いられていたそうです。

 

 

   

大宝神社の木造獅子像 (滋賀県栗東市), 京都国立博物館蔵。

http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/choukoku/item09.html

 

 

   

東寺の獅子狛犬。

http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/choukoku/komainu.html

 

 

鹿沼東高野山醫王寺獅子狛犬 (仁王門裏側)。2016年6月,筆者撮影。

銅製,平成4年 (1992年) 佐藤健次郎氏作[3]。飾り気のない唐獅子であるが,口は「阿吽」となっている。

 

 

日光東照宮獅子狛犬 (陽明門裏側)。寛永年間 (1624-25 AD),恐らく法眼康音作 (未確認),狩野養川下絵[4]。2014年8月,筆者撮影。

 

 

    日光にあって徳川第3代将軍家光の廟である大猷院を訪れたとき,二天門と夜叉門の梁に,前脚を折って座した姿を模った唐獅子があるのを見ました。これらは,山門と同様,金,朱,緑で彩られていました。

 

 

二天門の唐獅子。

夜叉門の唐獅子。

日光大猷院山門の唐獅子。2015年7月,筆者撮影。

 

 

    これに似た獅子の彫物は,山梨県勝沼の大善寺の山門に幾体もありました。山門の内部天井左右のものは普通の唐獅子でしたが,入口梁の両端および軒下四隅木鼻の獅子では,鼻が象の鼻のように前に突出ていました。振返って観察すると,日光大猷院夜叉門の獅子も同様でした。

    山門は武田氏の滅亡後,徳川家康によって助命されて常陸土浦に封ぜられた旧武田氏の家臣土井氏によって元禄17年 (1746年)によって建立されたが,現存するものは焼失後の寛政10年 (1798年)に第7代土井英直によって再建された由ですが,全体の設計はもとより飾り物も江戸初期のものを踏襲したと見られます。そうであれば,木鼻の獅子が日光大猷院のものに似ていて不思議ありません。

 

 

仁王門中央上部。

仁王門内部天井下の獅子 (左右)。

左: 仁王門入口梁左端の獅子。右側にも同じデザインの獅子あり。

右:仁王門軒下西南隅の獅子。他の3隅にも同じデザインの獅子あり。

柏尾山大善寺山門 (仁王門)の木彫獅子。

2015年10月,筆者撮影。

 

 

    文献[5]によれば,唐獅子を模った「獅子鼻」の如き装飾が木鼻に付けられたのは並べて鎌倉時代以降のこと,長い鼻を持つ獅子を模ったものは「獏鼻」は呼ばれます。インターネット上の包括的な記事[6]には,この場合の「獏」は実在の獏ではなく,シナの伝説に悪夢を払うと謂う架空の動物で,象の鼻と牙,犀の目,牛の尾,虎の掌を併せ持つとあって,数多の絵画や彫像の写真が掲げられていました。

    象の鼻をもつ獅子には,ヒンヅー神話にあると謂われるガジャシンガーまたはエレファントライオン (象獅子の意)と呼ばれるものがあって,例えばカンボジアの国章には左に象獅子が,右に獅子が描かれています。肝腎のガジャシンガーに纏わる神話を見付け得ておりませんが,意味するところは獅子の強さと象の忍耐または柔らかさを象徴するもののようです[7],[8]。シナの獏は,恐らく,このガジャシンガーの伝承でありましょう。

    梁に取り付けれれた「獅子鼻」と「獏鼻」が,闖入者に睨みを効かすためのものであることは獅子狛犬と同じでありましょう。

    この関連で思い出されるのが奈良法隆寺金堂の1階軒下4隅にあって屋根を支え獅子像の中の東北の1つ,「アトラス」の節には記しませんでしたが,長い鼻を有していました。想像に過ぎませんが,獅子の姿は唐獅子でありましたから,由来の元はシナの「獏」であったかと思われます。

 

 

奈良法隆寺金堂の1階軒下,東北隅の長い鼻を持つ獅子。

2015年9月,筆者撮影。

 

 

    姫路書寫山開山堂軒下にある左甚五郎作の力士型の束のついては『2. 建物を支える人像またはアトラス』の章で述べましたが,この御堂の正面 (東向)左右の木鼻には,やはり左甚五郎作と伝わる唐獅子を彫った獅子鼻がありました。望遠レンズで撮った写真を観察した彫像の特徴,顔貌,体型,体を覆う渦巻く毛などは,日光大猷院二天門のものを想起させました。日光では東照宮の『眠り猫』が左甚五郎の作品として有名ですが,彼は棟梁の一人として建築に参加した由[9],若しかすると日光大猷院二天門の唐獅子などの彫刻も,左甚五郎あるいは彼の流れを汲む者の作品でなかろうかと想像しました。

 

 

南東木鼻                                        北東木鼻

姫路書寫山開山堂にある唐獅子。2016年6月,筆者撮影。

 

 

獅子鼻や獏鼻は訪れた多くの社寺でも見ました。以下に2ヵ所の画像を追加します。

 

 

上河内羽黒山神社拝殿獅子鼻。2016年6月,筆者撮影。

 

 

鹿沼東高野山醫王寺金堂の獅子鼻および獏鼻。2016年6月,筆者撮影。作者は同じ金堂梁上で隅木を支えるフィギャア同様,下野の彫師石原藤助の作かと想像される[10]

 

 

    京都市下京区の西本願寺の御影堂 (寛永13年/1636年再建)および阿彌陀堂 (宝暦10年/1760年再建)の正面玄関梁両端には,「象鼻」あるいは「獏鼻」と呼ぶべき彫刻がありました。これらは日光大猷院や甲州柏尾山大善寺山門のものと異って,頭部だけを模ったもの,阿彌陀堂のものは架空の動物である「獏」であろうと見られますが,御影堂のものは,実在の象に近いかたちに彫られていました。象の日本への渡来は以前にもありましたが,1728年に安南から来た象は京都を経て江戸に送られたといいますから,作者は実物の象を見たのかも知れません。

 

 

左                                                   右

西本願寺阿彌陀堂正面玄関梁の「獏鼻」。2016年5月,筆者撮影。

 

 

左                                                   右

西本願寺御影堂正面玄関梁の「象鼻」。2016年5月,筆者撮影。

 

 

参照文献


[1] 異論がない訳ではない。Unesco, The Restoration of Borobudur, Unesco Publ. 2005。

[2] 奈良県民だより 平成22年8月号

http://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2010/tayori2208/tyu_kan_yukari2208.htm: 岩波講座・日本歴史6 (中世2),1975

[3]  平成4年 (1992)の仁王門再建に併せて医王寺総代福島文雄氏が寄進,製作者は栃木県出身の彫刻家佐藤健次郎氏。 (鹿沼市教育委員会事務局文化課文化財係からの私信[2016年6月])。

[4] 日光東照宮社務所 『日光東照宮百話』,日光東照宮社務所,1925

[5] 近藤 豊,『古建築の細部意匠』,大河出版 1972。

[6]  Mark Schumacher, “A to Z Photo Dictionary of Japanese Buddhist Statues”. http://www.onmarkproductions.com/html/buddhism.shtml

Folk-lore (India). Vol. 18-19  p.357 1977 (Google eBooks)

[7] Arts of Asia, Vol. 38, Arts of Asia Publications, 2008  (Google eBooks)

[8] Folk-lore (India). Vol. 18-19  p.357 1977 (Google eBooks)

[9] 左光挙著,『名工左甚五郎の一生 』,新人物往来社 1971。

[10] 鹿沼市教育委員会事務局文化課文化財係からの私信 (2016年6月)。