(5) 日本の社寺の猪像,虎像,鼠像,狐像

 

日本の社寺には獅子以外の様々な動物,具体的には猪,虎,鼠および狐の像が恰も獅子狛犬のように置かれた例が存在します

 

 

猪像

猪が見られる神社は和氣淸麻呂(733-739)を祀った神社であって,京都御所蛤御門前に存在する護王神社が有名です。

 

護王神社前景。(2018年10月10日,筆者撮影)。

 

 

 

護王神社は元々和氣淸麻呂が天応元年(781)に高雄山に創建した神護寺の境内に,公の没後,公の霊を祀るために建てられた護法善神(仏法および仏教徒を守護する神々)の社殿が濫觴とされています。[1]淸麻呂は,江戸時代末の嘉永4年(1851),に孝明天皇によって淸麻呂公の歴史的功績を讃えるべく正一位護王大明神の神階神号が授けられ,護法善神は明治7年(1874)に「護王神社」と改称されて別格官幣社に列せられました。明治19年(1886)明治天皇の勅命によって現在地に社殿を造営して高尾山から遷座,和氣廣虫姫(淸麻呂の姉)も配祀されました。[2]和氣淸麻呂と猪の因縁が生じた宇佐八幡宮神託事件は,日本後紀,續日本紀など[3]によれば凡そ以下のことのようです。

 

時は平安時代,和氣淸麻呂は元々備前(現岡山県の一部)の人で姉廣蟲と共に孝謙天皇(在位:749-758)となった阿部内親王に仕えていた。孝謙天皇は一旦は皇位を退いて上皇となったが,藤原仲麻呂の乱が治まった天平寶字8年(764年)に稱徳天皇(在位:770まで)として重祚した。その数年後の神護景雲3年(769年)のこと,以前から彼女の寵を受け,権を恣にして法王を名乗っていた僧道鏡のもとに,太宰の主神習宜阿曾麻呂(しふぎのあそまろ)から「道鏡をして帝位に輝かしめば,天下自太平ならん」との神託が報ぜられ,道鏡は大いに喜んだ。天皇は淸麻呂を召して「夢に八幡神の使と稱する者が現れ『事を奏せんが爲に尼法均(廣蟲の法名)を請ふ』と曰ひしが,法均軟弱にして遠路に堪え難し。汝代りて宇佐八幡宮に赴き神の真意を聽くべし」と曰った。淸麻呂が宇佐に着いて神前に祈ると,身の丈三丈許,満月の如き相の神が忽然と現れて「我國家開闢以来君臣の分定れり,臣を以て君と爲せしことあらず,天日嗣は必皇絡を立つべし。而るに道鏡悖逆にして,輒(たやす)く神器を望む,無道の人は宜しく早く除くべし。」宣った。淸麻呂が帰ってこの託宣を復奏すると道鏡は大いに怒って淸麻呂を大隅國へ,姉の廣蟲を備後國へ流配した。然るに翌年称徳天皇が薨じて光仁天皇(在位:770-781)が踐祚すると後盾を失った道鏡は下野國に貶せられた。淸麻呂と廣蟲は召し還されて終生皇室のために盡した。

 

猪 は流配された淸麻呂が大隅國へ向う途中に現れました。若干の記述は日本後紀に記されていますが,詳細は『和氣清麻呂忠義傳』[4]にありました。「道鏡は都を下る淸麻呂の足の筋を切り,更に追って生駒山で淸麻呂を殺さんとしたが,雷雨晦瞑し,俄かにして勅使が来て免れ得た。淸麻呂が大隅國への途上,宇佐神宮に報賽(ほうさい)のため豐前國宇佐郡若田村に差しかった時,野猪(やちょ)三百餘頭が迎えて淸麻呂の輿を警護,前駈すること十里許にして,山中に走り入った。神前に祈ると淸麻呂の脚は忽ち治癒し,彼は乗馬して帰路につくことができた。」

 

猶,『和氣清麻呂忠義傳』には,称徳天皇が宇佐八幡宮への使者を当時若干35歳の和氣淸麻呂に決めた裏には,先輩で孝謙天皇が阿倍内親王であった頃から彼女に仕えた吉備真備の推薦があったことも書かれていました。

 

 

護王神社境内の案内板に描かれた淸麻呂公を護る300頭の猪(案内板)。

 

 

野猪出現の故事の謂れや如何? 多分地元の豪族が付添ったのであろうとの渡部昇一氏の推察[5]を興味深く読みました。

 

護王神社には大鳥居前,拝殿前の2対のほかにも様々の猪像がありますが,奉献された年は意外にも最も古い拝殿前のものでも明治23年(1890AD),大鳥居前のものは僅か十余年前の平成18年(2006AD)と刻まれていました。

 

 

   

護王神社大鳥居前(左)および拝殿前(右)の猪像。(2018年11月6日,筆者撮影)。

 

 

     

護王神社の様々な猪像。左から,正門右,拝殿前右手手水所,拝殿裏の手水所,御神木招魂樹前。(2018年11月6日,筆者撮影)。

 

 

序ながら護王神社の社殿と和氣淸麻呂の肖像は明治32年(1899)に発券されて昭和14年(1939)まで通用した「日本銀行兌換券拾円」に描かれました。同券の裏面には猪が描かれ,同券は「裏イノシシ」と呼ばれていたそうです。筆者は子供の頃伯父の家で失効したお札を見たことを覚えています。

 

 

 

日本銀行兌換券拾円。複写元: https://www.npb.go.jp/ja/museum/tenji/gallery/ura-inosisi.html

 

 

 

和氣淸麻呂を祀る「和気神社」は和氣氏の所領のあった備前国の和氣(現・岡山県和気郡和気町)ならびに鹿児島県霧島市牧園町宿窪田にも存在します。和気の神社は,創建は不詳ながら,和氣氏の祖先は垂仁天皇の皇子・鐸石別命(ぬてしわけのみこと)に遡り,命の曾孫・弟彦王(おとひこおう)がこの地に土着したと言いますから,同氏の氏神として建てられたに相違ありません。主神は鐸石別命,弟彦王以下,淸麻呂,廣蟲を含む子孫を配神し,大正8年(1919年)県社に列せられたそうです。現在の社殿は明治期以来のものと言いますが,拝殿前の猪像は意外に新しく,インターネット上の記事によれば平成になってから奉献されたもののようです。

 

霧島市の神社は,この地が淸麻呂の配流地であったことが,嘉永6年(1853年)鹿児島藩主島津斉彬によって確定され,昭和14年(1939)に至って神社創建の請願が行われ,同18年(1943)に起工されたが,鎮座が行われたのは戦後の昭和21年(1946年)とのことです。インターネット上の写真によれば猪像は参道にも拝殿前にもあるようですが,詳細は筆者には未だ不明です。

 

 

 

左: 和気神社(備前)拝殿正面。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE

右: 和気神社(霧島)拝殿正面。http://kirishimakankou.com/guide/2013/06/post-62.html。 

 

 

寺院にある猪像は摩利支天に因みます。古代インドの女神,摩利支天(サンスクリット:Marīcī,マリーチ)は陽炎が神格化されたものとされ,『佛説摩利支天經』に「大神通自在力有て,常に日天の前に行く,日天月天,彼れを見ることなく,彼れは能く日を見る,人の能く見ることなく,人の能く知ることなく,人の能く捉ることなく,人の能く 縛することなく,人の能く害することなく,. . 」[6]とあるように,実体がなく傷つけられることも捕らえられることもない存在であるが為に武家の信仰を集めたそうです。同經にはまた摩利支天像の作り方を説いた行があって,「天女の形の如くにして長け半寸ばかり,或は一寸,二寸巳下なるべし。蓮華の上に,或は立ち,或は坐し,頭冠瓔珞種々荘厳して,極めて,端正ならしめよ。左の手に,天扇を祀り,その扇は,維摩詰前の天女の扇のごとく,右の手は,垂下して,掌を揚げて外に向ひ,五指を展べ, 與願 の勢に作れ。... この像を作り成んなば, 頂上に戴き,或は背上に載せ,或は衣の中に置かば,菩薩威神力を以て,災難に逢はず。怨家(仇敵)の處に於て,決定して勝つことを得,. . .」[6a]とあります。楠木正成や前田利家は兜の中に摩利支天の小像を入れて出陣したと言われている[7]そうです。

 

摩利支天と猪の関りは「大摩里支菩薩經」にあって,天女とは別の相が説かれている。具体的には「三面六臂の忿怒相で,1面は菩薩面を,もう1面は童女面をなしている。持物は天女では天扇だけであったが,この場合,6本の手に弓,箭,針,線,鉤,羅索,金剛杵などの武器を持ち,猪の上に乗っている」とされています。作られた像には八臂のものもあり,また猪は1頭の場合も7頭のものも見られます。[7a]

  

  

   

左および中: 天女相および三面六臂の摩利支天図。高野山霊寶館蔵。同館ホームページ(http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/ten/marishi.html

右:葛飾北齋漫画に基づく摩利支天圖。https://www.ensenji.or.jp/blog/2478/ より複写。

  

  

寺院の山門前あるいは境内に置かれた猪像では,摩利支天は省かれています。敢へて理由を考えるならば摩利支天は本来的に不可視でありますから矛盾がありますまい。

 

京都東山の臨済宗建仁寺塔頭のひとつに摩利支天を祀る禪居庵(鎌倉時代末年1333年に元からの来朝僧,大鑑淸拙正澄禅師が創建)[7b]があります。ここの本尊の摩利支天は三面六臂で7頭の猪の上に座しています。6本の手に色んな武器を持っていますが,光背のように見える車輪のようなものはスダルシャン・チャクラ(108のエッジを持つ円盤兵器)に相違ありません。

 

猪像は本堂前,山門(南門)からの参道,西門前,西門からの参道の4カ所に各1対配置されていましたが,他に西参道脇および手水所に単独の像がありました。デザインは様々で猛きもののほか愛くるしく見えるものもありました。異る時期に奉献されたに相違ありませんが,年次の刻まれた「狛猪」は西参道のもののみで昭和2年2月とありました。

  

  

 

禪居庵山門(南門)および西門(2018年11月6日,筆者撮影)。

  

  

 

左:禪居庵本堂前景(2018年11月6日,筆者撮影)。

右:本尊の三面六臂摩利支天像。禪居庵ホームページ http://zenkyoan.jp/about_marishiten/#c02 から複写。

  

  

 

禪居庵本堂前(左)および南参道(右)の「狛猪」(2018年11月6日,筆者撮影)。

  

  

 

禪居庵西門前(左)および西参道(右)の「狛猪」(2018年11月6日,筆者撮影)。

  

  

  

禪居庵西参道脇(左)および手水所(右)の「狛猪」(2018年11月6日,筆者撮影)。

 

 

建仁寺では有名な俵屋宗達筆「風神雷神圖」の本物を鑑賞させて貰いました。

 

建仁寺本堂内。俵屋宗達筆,風神雷神圖。複写元:同寺ホームページ https://www.kenninji.jp/gallery/

 

 

猪像は,京都の南禪寺境内北西部にある塔頭,聴松院の本堂前にもありました。

 

  

 

聴松院山門前からの眺め(2018年10月10日,筆者撮影)。

  

 

 

聴松院本堂前の「狛猪」(2018年10月10日,筆者撮影)。

  

  

摩利支天は日蓮宗においても護法善神として認められ,例えば,東京上野の妙宣山徳大寺には聖徳太子の作と伝わる摩利支天像が祀られ[8],京都西陣の叡昌山本法寺には本堂前に対の猪像があるそうですですが,筆者は未だ実物を拝する機会を得ておりません。

  

 

 

虎像

虎像は毘沙門天を祀る寺院に見られます。毘沙門天(別名:多聞天)は,そもそも持国天,広目天,増長天とともに仏教世界の東西南北を護る四天王の一員ですが,虎と因縁を持つのは日本においてのみです。

 

信貴山真言宗朝護孫子寺の寺伝によれば[9],時は6世紀後半,敏達天皇御代の西暦582年,「朝敵(廃仏派)物部守屋を討伐せんと,聖徳太子が大和國の此の山に來り戦勝の祈願をされるや,天空遙かに毘沙門天が出現され,必勝の秘法を給った。その日は奇しくも寅年,寅日,寅の刻であった。太子はその御加護で敵を殲滅(用明天皇2年の西暦587年),世治まりて後,自ら天王の御尊像を刻まれ,伽藍を創建して,信ずべき山貴ぶべき山『信貴山』と名づけられた。」この後,聖徳太子によって法隆寺を含む七大寺が創建され,仏教を国教とする体制が確立した。200余年経た九世紀初,醍醐帝の御病,命蓮上人の祈願に依りて平癒せられば,朝護孫子寺の勅号を賜る。

斯様に解釈すると神聖さが損われるますが,聖徳太子が信貴山で見られた毘沙門天はブロッケンの妖怪(独: Brockengespenst)でなかったかと想像されます。

信貴山には,朝護孫子寺本堂に至る参道の其処此処,筆者の見た限り4ヶ所に様々の虎像がありましたが,何れも対になった「狛虎」ではありませんでした。

  

     

大鳥居から朝護孫子寺本堂を望む。  

  

 

左:大鳥居をくぐったところにある張子の大寅;右:次に現れた子連れの雌虎(何れも 2021年11月筆者撮影)。  

   

  

左:成福院手前の檻に入った虎;右:成福院前の檻に入った虎の家族(何れも 2021年11月筆者撮影)。

   

  
京都北山の鞍馬山鞍馬寺(1947年に天台宗から独立し鞍馬弘教の総本山)も虎に因みます。寺伝には以下のようにありました。

「宝亀元年(770)唐招提寺鑑真和上の高弟鑑禎上人,正月4日寅日夢告を受け,白馬に導かれて鞍馬山に登られし時,鬼女現れたれど毘沙門天に祈りて難を逃れらる。鑑禎上人が結び毘沙門天をば祀りたる草庵,該寺の濫觴と傳はる。」本殿金堂前には一対の「狛虎」がありました。

  

 

鞍馬山鞍馬寺本殿金堂(2021年11月筆者撮影)。

 

 

鞍馬山鞍馬寺本殿金堂正面左右の「狛虎」(2021年11月筆者撮影)。

 

   

「狛虎」は真言宗のほか臨済宗,日蓮宗の寺々に多々ありました。以下に撮影した写真と簡単なメモを示します。

   

・多聞院毘沙門堂(真言宗豊山派),埼玉県所沢

多聞院毘沙門堂(真言宗豊山派)前景(2018年10月16日,筆者撮影)。

埼玉県所沢市中富1501番地に所在。元禄9年(1696)川越藩主柳沢吉保が多福寺,毘沙門社(別當寺多門院)創建。寺傳に依れば本尊毘沙門天は武田信玄の守護神,戰の折には兜に納めた。

 

  

 

多聞院毘沙門堂の「狛虎」。(2018年10月16日,筆者撮影)。

狛虎には,慶応2年(1866)丙寅9月吉祥日,願主江戸呉服橋外川越屋新藏と刻まれている(インターネット記事に慶応3年とあるは誤り)。

 

 

・建仁寺塔頭 両足院 毘沙門天堂(臨済宗建仁寺派),京都

 

両足院 毘沙門天堂正面(2018年10月9日,筆者撮影)。

 

   

 

両足院 毘沙門天堂の「狛虎」(2018年10月9日,筆者撮影)。

昭和13-14年(1938-39),松原烏丸の武内伊助,祇園花見小路佐々木秀奉納,石工辻平四郎と刻まれている。

 

 

・多聞山天現寺(臨済宗大徳寺派),東京南麻布

多聞山天現寺庫裏(右手前)および多聞天堂(左奥)。(2018年10月15日,筆者撮影)。

東京都港区南麻布4-2-35に所在,享保4年(1719)開創。

 

 

 

左:多聞山天現寺,多聞天堂前の「狛虎」(2018年10月15日,筆者撮影)。

天保6乙未歳孟夏月吉(1835), 京橋・太刀売藤兵衛, 奉納:富澤町講中。

右:多聞山天現寺庫裏前の「狛虎」(2018年10月15日,筆者撮影)

明和3丙戌年4月8日(1766),長兵衛, (左)相模屋,(右)黒木氏の刻印。

 

 

・鎭護山善國寺(日蓮宗),東京神楽坂

 

鎭護山善國寺正面および「狛虎」((2018年10月13日,筆者撮影)。

善國寺は 文禄4年(1595年)徳川家康の意を受け,池上本門寺第12代貫主日惺上人により馬喰町に創建される。度々火災に見舞われ、麹町を経て寛政5年(1793年)には現在地へ移転。「狛虎」には,嘉永元年(1848)奉納,石工:平田四郎衛門,柳沼長右衛門の銘。

 

 

・松流山正傳寺(日蓮宗),東京都,芝

 

松流山正傳寺大毘沙門天堂および「狛虎」(2018年10月15日,筆者撮影)。

東京都港区芝1-12-12。慶長7年(1602年)第107代後陽成天皇(在位1586-1611)晩年一時期の草庵に創まる。本尊の毘沙門天像は傳教大師(最澄,767年‐822年)の作と傳わる。「狛虎」には昭和6年(1931)奉献の刻印。

 

   

上に掲げた「狛虎」は全て奉献年次が記録されていて,古いものは江戸時代後期(18世紀末)ですが,その頃の作られた虎像の容貌は実際の虎とかなり異って見えます。生きた虎は既に安土時代の1572年(元亀3年)に日本に輸入され[9a],江戸時代には見世物小屋もあって,伊藤若冲(1716-1800)や長澤蘆雪(1754-1799)の絵には迫真的な姿が描かれていますが,「狛虎」の作者は実物を見たことがなかったかと想像されます。

 

「狛虎」は京都鞍馬の鞍馬山鞍馬寺(1947年に天台宗から独立し鞍馬弘教の総本山)にもあるそうで,またの機会に参詣したいと思います。

 

鼠像

大國主命を祀る神社に置かれた鼠像は,古事記の故事に因みます。要約するに「須佐之男命(すさのをのみこと)の坐せる根堅州國(ねのかたすくに)に舟で着いた葦原色許男命(あしはらしこをのみこと,後の大國主命)は,須佐之男命の娘須勢理毘賣命と目合(まくあ)ひ,相婚(あ)ひ給った。須佐之男命の試練を受けることとなり,蛇の室,蜂の室を寝所に與へられたが,ヒメのから領巾(ひれ)を渡され,それを三度振るやうに言われた通りしして難を逃れ,競泳にも勝利した。更に射的に誘われ,須佐之男命が放った火矢で野火に包まれたが,群鼠に導かれて地中の穴に避難され給った。社で須佐之男命からの髪虱を取れと命ぜられた葦原色許男命と須勢理毘賣命は,彼を騙して彼の睡眠中に社を脱し,舟をに漕出した。云々。」[10] 斯くして鼠は大國主命の神使(眷族)となったとのことです。因みに,上述の話は芥川龍之介の歴史小説「老ひたる素戔嗚尊(すさのおのみこと)」[11]に書かれています。

  

京都東山(左京区鹿ケ谷宮ノ前町)にある大豊神社の末社「大國社」は大國主命を祀る神社として知られています。訪れてみると社殿前にお目当ての鼠像一対があって,相当に古いもののように見えましたが,意外にも奉納年は昭和44年(1969)とありました。右の鼠像の抱く水玉と巻物は,インターネット記事によれば,酒(不老長寿薬)学問を象徴する[12]そうです。

 

 

 
大豊神社末社「大國社」正面および「狛鼠」(2018年10月9日,筆者撮影) 。

建立;昭和44年(1969)5月5日,奉納:氏子中,御屋根葺替記念,考案:宮司・小林常喜の記録あり。

 

 

横浜市内戸部の杉山神社も大國主命祀る神社であって,社伝[13]によれば,創建は古く飛鳥時代の652年,出雲大社の分霊を祀が祀られたと伝えられ,地域の祖神として崇められてきたが社殿も宝物も幡も全て1923年の関東大震災で消失,現在の社殿は昭和31年(1966)になって漸く再建されたそうです。参道に置かれた鼠像は左右一対で何れも右手に打出の小槌を持っていました。台座の前後に「創建1350年記念」,「式年事業実行委員会奉賛者一同」とありましたから,奉献年は2002年でありましょう。拝殿前には唐獅子型の狛犬がありました。また境内の脇には右手に打出の小槌を,左手に袋を背負って三俵の米俵に坐した大國主命の像があって,俳優黒沢年雄氏奉納と刻まれていました。米三俵は人ひとり一年分の食扶持であると昔老人から聞きましたが根拠不詳です。

 

 

   

戸部杉山神社正面および鼠像(2019年2月7日,筆者撮影)。  

 

  

   

 戸部杉山神社の狛犬および大国主命像(2019年2月7日,筆者撮影)。

 

大國主命を祀る神社としては大阪浪速区の大國主神社(おおくにぬしじんじゃ)も有名と聞きました。最近(2019年9月)近くに赴く機会があったので参詣してまいりました。同神社は素盞嗚尊あるいは 大国主命を祭る敷津松之宮(しきつまつのみや)の境内にあって社格は摂社,社殿には大国様(だいこくさま)と書かれた表示板がありました。最寄り駅は地下鉄の大国町,この駅名は「だいこくちょう」と読まれるそうで,一瞬戸惑いました。また同境内には末社・楠稲荷社もありました。鼠像は意外に新しく,基台に昭和59年(1984)建立とありました。

 

   

左:大国主神社社殿。右手前の狛犬は右側に存在する本殿(敷津松之宮)のもの。中および右:鼠像。2019年9月29日,筆者撮影。

 

 

 左:敷津松之宮本殿。右:楠稲荷社。2019年9月29日,筆者撮影。

 

鼠像は大黑天を祀る東京杉並堀ノ内の正住山福相寺(日蓮宗)にも見られます。 何故仏教寺院に鼠なのか。その理由は単純で,大國の字音が大黑に通ずるが故に大國主命と大黒天の両神が習合せられたとの解[14]がありました。鼠は大国主の神使でありましたから,自動的に大黒天にも引継がれたのでありましょう。

  

大黒天はヒンヅーのシヴァ神の化身である暗黒の神,マハーカーラ(Mahakala)に由来,7世紀に義淨によって唐に伝えられ大黑天と訳された[15]そうです。日本で最澄上人が大黑天を祀った次第は『比叡山三面大黒天縁起』[16]にあって,次の趣旨が書かれています。「最澄が根本中堂創建の折(延暦7年,788年),一人の仙人が現れたので誰かと問うと,彼は法華経の文言を唱えた。最澄が僧侶への援助を乞うと,仙人は『日々三千人分の食料を與へん。余を拝する者に福徳延壽を與へん 』と曰った。この人こそ三面大黑天に違いないと思った最澄は,身を浄めて一刀三礼しつつ三面六臂大黒天の像を彫って堂に安置した。」
 
正住山福相寺の沿革は『東京市史稿』[17]に詳述され,天正17年(1589)法華僧日重が下谷に草創,後鶏聲ヶ窪(小石川白山前)に移る[改選江戸志],開運祖師像は日親上人の御作なり[法華霊場記」,寺門素木造,扉に井桁の紋章あり,本堂北に面す,堂前に俵を踏まへたる鼠像一對を置く,堂後に小池あり.[新撰東京名所圖會]などと書かれています。現在地へは昭和12年移転したそうです。

 

鼠像は,此処堀ノ内では山門が本堂正面にないためか入口脇に据えられていました。鼠像の彫りは精緻であって体毛までが表現されていましたが,髭は付けられていませんでした。2基の台座の側面および背面には,寄進者と思われる大坂16名,京都3名,泉州堺1名,江戸8名の名前と, 世話人:大阪・泉屋吉右衛門,釘屋重兵衛,願主:江戸橋(大坂)・今津屋平右衛門,嘉永三戌年四月吉日の刻印があり,此の寺が嘗ては関西の商家にも支えられていた証左であろうと思いました。

 

鼠像の隣の幟立と思われる石柱には「南無妙法蓮華經願満大黑天神」,「鶏聲久保福相寺」と刻まれていて,此れも小石川白山前から移されたものであることが分りました。境内にはほかに古いものと見られる小さな石製の三重塔がありました。[新撰東京名所圖會]に書かれた井桁の紋章は山門の門扉にはありませんでしたが,それと同じと目される紋,蓮華を井桁で囲った紋が本堂入口両脇の青銅張天水受(昭和35815日奉納と刻印)にあるのが目に入りました。更に探すと山門および本堂屋根の棟および鬼瓦や賽銭箱にあしらわれていました。境内の南側(右側)に庫裏あり,裏側と北側は墓地になっていて同圖會に書かれた小池はありませんでした。願満大黒天は,「福相寺一六世日元が大阪で長病の人の家に所在した傳教大師作と伝わる像を見て,それを清めて祈ったところ病気が全快した。この縁でこの御像を譲り受け大黒堂に安置した」との伝承が案内板にありましたが,拝観は叶いませんでした。この御像は,鼠像,寺に遺る数多の版木とともに杉並区有形民俗文化財[18]に指定されているそうです。

 

猶,大黒様に代わって鼠が俵に載った像のある寺院は筆者の調べた限り`他になく,貴重なものに思われます。

  

   

  

正住山福相寺山門および本堂(2019213日,筆者撮影)。

  

  

 

左:正住山福相寺の本堂前。狛鼠,幟立,天水受が見える。右:狛鼠および天水受の拡大。2019213日,筆者撮影)。

  

  

 

正住山福相寺狛鼠の詳細。左像(正面,裏面),右像(正面,裏面)。2019213日,筆者撮影)。

  

  

正住山福相寺の願満大黑天。複写元:http://www.city.suginami.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/031/586/75.pdf

  

  

  

狐像

狐像は全国其処ここにある稲荷神社は(3万社以上と言われる)に見られますが,祭神は稲荷大神であって狐は神使(眷族)だそうです。神使になったのは平安時代,その所以は狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ているから,また稲荷大神は元来稲を象徴する農業神であるから穀物を食荒らすネズミを捕食する狐は眷族に相應しいからなどと謂れている[19]そうです。

  

稲荷神社の総本社は比叡山を最北にして始まる東山三十六峰の最南端に位置する京都市伏見区深草の伏見稲荷大社,711年,稲荷大神が稲荷山に鎮座したことに由来すると社伝にあるそうです。訪ねたのは平日の午前でありましたが,参道から境内までは参拝客で溢れていて,ふと森鷗外の「護持院原の敵討」[20]の中で文吉が霊験を賜るため玉造豊空稲荷に詣る場面が思い出されました。人混みが疎らになるのを待って写真を撮るのに忍耐を要しました。

  

  

  

左: 伏見稲荷大社の大鳥居,右:千本鳥居の一部(上側からの眺め)。(2018年10月10日,筆者撮影)。

  

  

     

伏見稲荷大社の狐像。左:本殿前,右:本殿脇登り口脇。(2018年10月10日,筆者撮影)。

  

  

写真に示した4体の狐像は,左から,巻物,玉,稲穂および鍵を咥えていますが,これらはそれぞれ,知恵,稲荷大神の霊徳,五穀豊穣および米倉の鍵(または霊徳への願望)を象徴している[21]そうです。

  

稲荷神社は関東にも数多ありますが,東京都文京区根津にある根津神社(主祭神は須佐之男命)境内にある乙女稲荷神社に詣でたときの写真を掲げます。ここの2匹の狐は阿吽の口型で,何も咥えていないように見えました。

  

  

根津神社参道(2018年10月13日,筆者撮影)。

  

  

   

根津神社内,乙女稲荷神社正面および狐像(2018年10月13日,筆者撮影)。

  

  

 

牛像

東京都内小石川(文京区春日1丁目)に所在する北野神社は牛天神なる異名で知られる通り牛に因縁があって,境内には本殿を護る一対の牛像があります。境内の案内板によれば,由緒は大略次の通りです。

 

『壽永三年(1184)春,右大將源賴朝卿東國追討の折,此處の入江の松に船を繋ぎ和波を待つ間,夢に菅原道眞公神牛に乘りて現はれ,賴朝卿に二つの幸あらんと告ぐ。賴朝卿夢覺めて傍を見れば,一岩石ありて夢に見し菅神の牛に似たり。果して同年秋賴家卿誕生あり,翌年平家の追放,國の鎭定なる。然して此處に天滿宮を勸請,御神領等を寄進す。時に元暦元年なり。』

 

菅神は神格化された菅原道眞のこと,案内板に神社の祭神は菅原道眞公とあります。「此處の入江」の文言に疑問を抱かれる向きもありましょう。今は海岸線から遠く距っていますが,江戸時代以降に干拓や河川の改修が行われる前の江戸の海岸線は複雑に入組んでいました。

 

道灌時代の江戸湊。黒田基樹『図説道灌』,戎光祥出版 2009 の図面をベースに作圖。

道灌(太田道灌,1432-1486)は室町時代(1336-1573),上杉氏配下の有力な武将。1457年に江戸城を築城。

 

『小石川區史(1935)』[22]によれば,この界隈は『江戸名所圖會』に書かれているように頗る繁華な地で,歌川國貞『江戸名所百人美女(1857)』にも取上げられた歓楽街でもありました。

 

齋藤長秋(編),長谷川雪旦(画)『江戸名所圖會』卷之四,天權之部,天保5~7年(1834-1836)刊(須原屋伊八蔵版)の絵図。複写元:https://jinjamemo.com/archives/ushitenjinkitanojinja.html

 

   

左: 歌川国貞:「江戸名所百人美女」 「小石川牛天神」,1857,東京都立図書館蔵。https://ja.ukiyo-e.org/image/metro/025-C001-035. 右:同左カット拡大。

 

『江戸名所圖會』の図右側に描かれた参道は取壊され,今は左側「裏門」の石段を登ります。社殿前向って左側の手水場で手を清めて獅子狛犬で護られた門を入ると,左右に一対の牛像あり,左手隅には賴朝が夢に見たと伝わる牛石がありました。この牛石は『江戸名所圖會』では裏門の左に見られますから,後世に丘の上に持ち上げられたに相違ありません。

 

 

北野神社-牛天神,社殿前景。2020.07.27. 筆者撮影。

 

   

北野神社-牛天神,社殿前の牛像。2020.07.27. 筆者撮影。

 

北野神社-牛天神境内,賴朝が夢に見たと伝わる牛石。2020.07.27. 筆者撮影。

 

境内には中央辺りに御神木「木檞」の大樹あり,南の崖上には明治初期の著名な歌人で,和歌と書を教える私塾「萩の舎」を主宰した中島歌子の歌碑がありました。因みに樋口一葉は彼女の弟子のひとりでした。

 

 

左:北野神社-牛天神の御神木「木檞」。右:明治の歌人,中島歌子の歌碑。2020.07.27. 筆者撮影。

 

境内には他に芸能の神を祀る太田神社,五穀の神を祀る高木神社(何れも末社)がありましたが,記述を省きます。

 

 

  

参照文献

[1] 高雄山神護寺ホームページ,http://www.jingoji.or.jp/

[2] 「神まうで」,鐵道省1933,p.89-90。

[3] 荻野由之『註釈日本歴史』,東京博文館 1919; 黒板伸夫,森田悌『日本後紀』,集英社 2003; 林陸郎『完訳注釈続日本紀:第5巻』,現代思潮社,1988; など。

[4] 内藤彦一(編)『和氣清麻呂忠義傳』,内藤彦一出版,1887。

[5] 渡部昇一『日本史百人一首』,扶桑社 2008。

[6] 塚本賢曉(編)『国訳密教: 経軌. 第1』,国訳密教刊行会,大正9-12(1920-23)。

[7] 禪居庵ホームページ,http://zenkyoan.jp/about_marishiten/ 

[8] 摩利支天徳大寺ホームページ,http://www5b.biglobe.ne.jp/~marisitn/marisiten.htm

[9] 信貴山朝護孫子寺ホームージ(http://www.sigisan.or.jp/)によれば,敏達天皇御代の西暦582。

[9a] 打橋竹雲選並蔵「長崎年暦兩面觀」,文政十一戊子(1828)發行の元亀3年(1572)の欄に「唐船豊後臼杵浦ニ着す。此時虎四疋大象一疋孔雀鸚鵡麝香其外種々器物有り。」の記録。

[10] 山口佳紀(訳),神野志 隆光(訳),『新編日本古典文学全集 (1) 古事記』,小学館 1997。

[11] 芥川龍之介,『老ひたる素戔嗚尊』。大正9(1920)年3月から6月にかけて,45回にわたり「大阪毎日新聞」に掲載。

[12] http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/fukuda/nezumi/nezumi-2.html 

[13] 戸部杉山神社パンフレット。
[14] 宮田登(編),『神仏信仰事典シリーズ1:七福神信仰事典』,戎光祥出版 1998。
[15] 谷戸 貞彦,『七福神と聖天さん―民間信仰の歴史』 大元出版 2005。
[16]  比叡山延暦寺ホームページ。https://www.hieizan.or.jp/wp-content/themes/enryakuji/pdf/daikoku_engi.pdf

[17] 東京市役所編『東京市史稿』宗教篇第三,1940。

[18] http://www.city.suginami.tokyo.jp/kyouiku/bunkazai/sitei/1032395.html

[19] 中村 陽(監修),『イチから知りたい日本の神さま[2]稲荷大神』,戎光祥出版,2009。
[20] 森鷗外,『護持院原の敵討』。初出:「ホトトギス」1913(大正2)年10月。
[21] 複数のウェブサイト(原典不明)。

[22]小石川區編,『小石川區史』,小石川區 1935.

 

  

  

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