(4) 日本の近現代の獅子像


ジャワにおける寺院建築はイスラム教の流布とともに終りましたが,日本では仏教および神道が連綿と続きましたから,近現代においても数多の社寺が建立され獅子像が制作奉納されました。

先づ東京築地にある築地本願寺(旧称:本願寺築地別院)を訪ねてみましょう。日本古来の寺院とは異ったユニークなスタイルのこの寺院は明治大正昭和の時代に活躍し,今に多くの価値ある建造物を遺した偉大な建築家伊藤忠太教授(1867-1954)の設計によって昭和9(1934)年に建立されました。施主は浄土真宗本願寺派第22世法主(伯爵)にして所謂「大谷探検隊」を組織してインドおよび中央アジアの仏教遺跡を探検した大谷光瑞師(1876-1948),旅の途中にインド訪問中の伊藤教授と邂逅されたと云いますから,独特の建築様式は二人のイメージを合せて生出されたものと想像されます。[1] 中央の丸屋根はアジャンタ風,両翼のストゥーパはアンコールワットを,建物随所に施された彫刻はボロブドゥールをも想わせます。

 

築地本願寺前景 (2018年5月7日,筆者撮影)。


獅子像も当然ながら伊藤教授のデザイン,正面階段左右手摺りの上下部に2対あって寺院を護っています。獅子の容姿は多少なりとも東大寺南大門の獅子に似た唐獅子風でありますが,下部の2体は立派な尾を持つのに加えて,ペルシャ神話で描かれ,聖マルコの象徴ともなった有翼獅子に似た翼を有してゐます。古代ヨーロッパおよび西アジアの芸術に通じた作者のイメージに依るに相違ありますまい。


 
階段手摺り上部の獅子像(2018年5月7日,筆者撮影)。

   


左像(前),(後)。 右像(前),(後)
階段手摺り下部の獅子像(2018年5月7日,筆者撮影)。



伊東教授作の獅子像は靖國神社(東京都千代田区九段北)駐車場入口鳥居前両脇にもありました。銘板には,昭和8年(1933年)片倉同族奉献と刻まれていました。因みに片倉家は信州岡谷に発し製糸業で財をなしたファミリー(戦後財閥解体)でありました。獅子の容姿は唐獅子風ですが,口の形は阿吽で尾を有し,鬣と肩先のデザインが特徴的であると見ました。

 
 

左像(前),(後)。 右像(前),(後)。
駐車場入口獅子像。伊東忠太作(2018年5月7日,筆者撮影)。


靖国神社南門前には青銅製獅子像対がありました。同神社発行のニュースレター[2]に製作:越智綱雄,鋳造:内山嘉一郎,昭和三十八年二月,井関農機株式会社奉納とあって,滋賀の大寶神社の獅子像を模して造られたとの説があるそうです。

 

   
靖国神社南門および左右の南門青銅獅子像(2018年5月7日,筆者撮影)。


靖国神社には他に正面参道および大鳥居手前に2対の獅子狛犬がありました。靖国神社百年史[3]によれば前者は先の大戦中に陸軍省が彫刻家後藤良氏に制作を依頼したが未完,戦後昭和39年(1964)衆議院議長清瀬一郎氏が八柳恭次氏に完成を依頼,昭和41年(1965)に奉納したもの,後者は日清戦役中,野戦病院が置かれた遼寧省海城三學寺に存在したものを譲り受けて明治天皇に献上されたもので,靖国境内最古の狛犬であるそうです。


靖国神社正面(2018年5月19日,筆者撮影)。



 
正門参道獅子像(2018年5月7日,筆者撮影) 。



 
大鳥居手前獅子像,遼寧省海城三學寺から移設されたもの(2018年5月19日,筆者撮影)。



東京都墨田区向島の三圍神社の参道には伝統的な獅子狛犬像に加え,真のライオンを模した石像が置かれています。実はこのライオン像は嘗て三越池袋店の入口にあって,同店の閉鎖後,筆者はライオン像の行方を案じていましたが,ここで懐かしく再会して安堵しました。

 


 

三圍神社参道および此処に移転された旧三越池袋店のライオン像(2018年5月11日,筆者撮影)。

 


 
参道の獅子狛犬像(2018年5月11日,筆者撮影)。


境内には稲荷神社ならびに恵比壽大國社があり,それぞれに狐像ならびに獅子狛犬像がありました(狐像について詳しくは次節(5)日本の社寺の猪像,虎像,鼠像,狐像』を参照)



 
境内稲荷神社の狐像。左像の背後に鳥居が見える(2018年5月11日,筆者撮影)。

 

 

恵比壽大國社前景(2018年5月11日,筆者撮影)



 
恵比壽大國社の獅子狛犬(2018年5月11日,筆者撮影)。


恵比壽大國社は向島七福神巡りのスタート地点ともなっていて,筆者も嘗て七神を巡って参詣したことがあります。

三圍神社の草創は定かではないが平安時代初期(9世紀)に遡ると伝わります。[4] 伊勢の商家三井家が1673年に江戸日本橋に越後屋(1928年三越と改称)を開業して以来,神社名三圍の『圍』の異字体,『囲』が三井の『井』を囲むことから三井の守護神として崇められるようになり,三越を含む三井財閥系企業グループは今も本神社の大庇護者であるそうです。日本初の近代的百貨店三越の礎を築いた三井家の大番頭日比翁助は1906年ロンドン視察中にトラファルガー広場ネルソン記念柱を護るライオン像を見て,その模像を三越のシンボルとすることを欲して著名な彫刻家 L. S. メリフィールド(1880-1943)に制作を依頼,完成して日本に届いた像を大正3年(1914)に日本橋本店に設置しました。以後,レプリカが各支店に置かれました。池袋店にあった像は2009年の閉店後,三圍神社に寄贈されたそうです。[5]

   
左:ロンドン・トラファルガー広場のネルソン記念柱基台のライオン, アンティークプリント 1867。
https://picclick.co.uk/LONDON-Lions-at-the-base-of-Nelson’s-Column-351535413569.html

右:完成時のポスター 1867。“The Lions at last! ‘Thank you, Sir Edwin! England at last has done her duty.’”(
遂にライオンが! 「有難う,サー・エドウィン殿。イングランド遂に其の義務を果たせり。」)の文言がある。https://picclick.co.uk/The-Lions-At-Last-Edwin-Landseer-Trafalgar-Horatio-232044645752.html。上述の文言はネルソン提督がトラファルガーでの戦闘に先立って旗艦から兵士に手旗信号で送った名文句“England expects that every man will do his duty.”に対応するものと解せられる。

 

記念柱自体は,1805年10月21日トラファルガー海戦に戦死したホレーショ・ネルソン子爵提督を顕彰するためウィリアム・レイントンの設計によって1840-1843年に建設,サー・エドウィン・ランズセール設計の4体のライオン像は1867年に付置されました。[6]

実体的ライオン像の例は上野公園内東京国立博物館表慶館にもありました。帝国博物館と呼ばれていた同博物館は大正天皇(当時皇太子)御成婚の明治33年(1900) 5月10日に東京帝室博物館と改称されましたが,御成婚奉祝のため東京市中に美術館を建設して献納することが決まり,ライオン像は美術館設計者であった宮内省技師片山東熊とフランスに学んだ彫刻家沼田一雅によって製作されました。[7]



東京国立博物館表慶館全景(2019年1月16日,筆者撮影)。


   
東京国立博物館表慶館入口にライオン像(2019年1月16日,筆者撮影)。



ライオン像を博物館の守護として置くアイデアは,大英博物館,ルーブル博物館などの例を真似たものと想像されますが,口の形は日本の獅子狛犬の伝統に倣った阿吽となっています。



参照文献
[1] http://tsukijihongwanji.jp/
ほか
[2] "南門手水舎・青銅狛犬",『やすくに』,靖国神社百年史編纂室発行, 昭和59年3月1日の記事。
[3] 靖国神社百年史資料篇 中巻 (1983)。
[4] 三圍神社パンフレット。.
[5] 三井広報委員会ホームページ,http://www.mitsuipr.com/special/spot/09/

[6] The Victorian Web, http://www.victorianweb.org/...
; https://en.wikipedia.org/wiki/Nelson%27s_Column.
[7] https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=151
ほか。
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