3. ドゥワラパーラまたは仁王像

 

 

(1) 縁起

拙著『ジャワ探究』[1]の「第5章:マタラム―神仏の坐します母なる大地」の中で「仁王の起源はガンダーラに伝わったヘラクレスにあり」との通説に触れましたが,書物やインターネットを調べてみて,ガンダーラ出土品に中でドゥワラパーラ(Skt, Dvarapala または Dwarapala,門衛)と謳われているものは意外に少なく,目に触れた中のニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵の倚像は,容貌がギリシャ彫刻で見慣れた美しい肉体のヘラクレスとは異なって,武器として執金剛神常用の金剛杵ではなく,弓を持ったものでした。また,5-8世紀に造られた西インド・ムンベイ沖エレファンタ島(別名ガーラプリ島)遺跡で撮られた「エレファンタ洞窟コンプレックスのリンガム寺院のひとつ」と題する写真の中のドゥワラパーラもギリシャのヘラクレスとは体型が異なっています。

     とは申せ,この事実は,ヘラクレスをイメージした仁王像がガンダーラに存在したであろうことを否定するものではありますまい。ギリシャ神話の英雄ヘラクレスを仏陀の守護者たる執金剛神に見立てて描いたガンダーラのレリーフの断片は大英博物館他に複数現存しますし,彼に門衛を託した例は,小アジア西端のヘレニズム都市,現トルコ,エフェソス(Ephesus)のヘラクレス門にもありました。

 

 

左:ガンダーラ出土のドゥワラパーラ [4世紀]。ニューヨーク,メトロポリタン美術館蔵。http://www.metmuseum.org/collection/the-collection-online/search/38498。

右:リンガム寺院のドゥワラパーラ [5-8世紀,奥にシヴァ神の象徴であるリンガ(男根)が見える]。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Elephant_Lingam_shrine_1.JPG。

 

 

左: 仏の守護者執金剛神として描かれたヘラクレス。2世紀ガンダーラ。大英博物館所蔵写真。

http://en.wikipedia.org/wiki/Greco-Buddhist_art#mediaviewer/File:Buddha-Vajrapani-Herakles.JPG

右: ヘラクレスとネミアンのライオン[ヘラクレスに討取られたライオン」のレリーフ。メトロポリタン美術館蔵。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Met,_gandhara,_hercules_and_the_nemean_lion,_1st_century.JPG

 

 

 

(2) ジャワのドゥワラパーラ像

ジャワに存在する最古のドゥワラパーラ像は,筆者の知る限り,8世紀後半の780年頃,サイレンドラ第4代インドラ王の時代に建立されたとされるプランバナン平野のチャンディ・セウ寺院群(Candi Sewu Complex,782 AD)門前のものであって,少し離れた場所にあって彼の父,第3代ヴィシュヌ王の時代に建てられたチャンディ・カラサン(Candi Kalasan, 778 AD)や,次いでクドゥ盆地に建てられた3寺院,即ちインドラ王の時代に竣工したチャンディ・ムンドゥ(Candi Mendut, 782 AD),息子で第5代サマラトゥンガが完成させたボロブドゥール(Borobudur, 824 AD),孫娘プラモダワルダニが建立したチャンディ・パウォン(Candi Pawon, 820s AD)には,元々存在したか後世に消滅したかはいさ,仁王像は存在しません。

     何れにせよ,寺院の門前にドゥワラパーラ像を置くインドの慣習が,例えばボロブドゥール他の寺院への訪問者あるいは招待者によってある時点でジャワに齎されたと想像してよいでしょう。

 

 

チャンディ・セウ正門のドゥワラパーラ。本チャンディは,サイレンドラ期の782年(サカ暦704年)建立。2007年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・プラオサンのドゥワラパーラ。2008年6月,筆者撮影。

  

  

     チャンディ・セウのドゥワラパーラ像は,同じ時期,820年頃に建てられたチャンディ・プラオサン(Candi Plaosan)のもの(『ジャワ探究』に収録)に似た肥満体のラクササ(Raksasa, 羅刹天)を象ったもので,日本の法隆寺や東大寺にある仁王像が如き筋骨隆々たる力士像とは似ても似つかぬ体型ですが,矢張り闖入者を打据えるための金剛杵と捕縛するための縄またはナガ(蛇)を手にしていますから,執金剛神像であることに間違いありますまい。 

    上述のように筆者の知る限りクドゥ盆地のチャンディにはドゥワラパーラ像が存在しませんが,最近(2019年6月)にジャカルタの国立博物館を訪ねたとき,コレクションの中に 「ドゥワラパーラ, 寺院の門衛。 出処:中部ジャワ・クドゥ。時代:8-9世紀。インヴェントリー番号:210」 と銘板に記された一対のドゥワラパーラ像があるのを知りました。詳細は不明ですが,何時の時代か,多分19世紀に考古学的調査が始まった頃に収容されたものと想像されます。8世紀後半―9世紀前半の同時期に作られてチャンディ・セウやチャンディ・プラオサンに現存する像に比べて彫刻が鮮やかであるのは,屋内にあって近年問題視されている酸性雨による腐蝕を免れたからでありましょう。

 

  

 

ジャカルタのインドネシア国立博物館コレクションのドゥワラパーラ像。銘板に "Dvarapala, The guard of temple gate, Origin: Kedu, Central Java, Century: 8th - 9th, No. Inv. 210" とある。2019年6月,許可を得て筆者撮影(新)。

   

   

     『ジャワ探究』の中で述べたジャワにおける仏教の歴史を簡単に振り返ってみましょう。

中部ジャワに仏教,取分け大乗仏教が栄えたのは申すまでもなく8世紀前半から9世紀半ば,サイレンドラ王国の時代でありましたが,ヒンヅー教を奉ずるサンジャヤが西ジャワから移って興したサンジャヤ王国,時にマタラム王国と呼ばれる王国も仏教をある程度は受入れたと思われます。事実,サンジャヤが中部ジャワに移って儲けた息子ラカイ・パナンカランはサイレンドラの娘タラプラマタナ(Tarapramatama)娘を娶り,仏教寺院チャンディ・カラサンに土地を寄進しましたし,上述のチャンディ・セウは,サイレンドラ王家の要請によってパナンカランが建設したと伝っています。次の王となるラカイ・ピカタンは,当時絶頂期にあってボロブドゥールを完成させたサイレンドラ王サマラトゥンガの娘,プラモダワルダニと結婚しました(850 AD)。彼女は女性ながらチャンディ・パウォン,チャンディ・プラオサンを建立したほどの人物でしたから,父親譲りの器量と仏への強い信仰心を持っていたと筆者は考えます。この結婚によって宗教の異なるサンジャヤ,サイレンドラ両国は前者が後者を吸収する形で実質的に合邦化されたと歴史は見ています。プラモダワルダニの弟のバーラタプトラデワがジャワに於けるサイレンドラの存続を望んで義兄ラカイ・ピカタンに戦を挑み(846 AD),敗走してか和睦してか[2]スマトラの母の生国スリーヴィージャヤに移って,そこでサイレンドラ王を名乗りました。

     7世紀ジャワに存在したと舊唐書にあって,謎の王国とされた訶陵國は,筆者の考察によれば,西ジャワの史書「列島列王記」および「チャリタ・パラヒアンガン」に書かれたケリン(Keling)王国に相違なく,少なくとも同国を建国,あるいは発展させたカルティケヤシンガー王(648-674 AD)の死後王位を襲った妻の悉莫(シマ,674-695 AD)の御代にはサウラ(ヒンヅー教の一宗派)を奉じていました。彼女は彼女に懸想したスマトラの仏教国スリヴィジャヤのスリ・ジャヤナサ王を忌み嫌って求婚を拒絶,周辺国が彼女に味方したのでジャヤナサ王はジャワ攻略を断念するに至りましたが,ケリンは後の時代にはスリーヴィージャヤの影響下にあったと謂われていますから,その頃にはある程度は仏教が行われていたと考えられます。

     時代下って13世紀前半の東ジャワで,ヒンヅー最下層スードラから身を起した立志伝中の人物ケン・アロックは,クディリ支配下トゥマペルの領主トゥンガル・アメトゥンをクーデターで斃し,遂にはシンガサーリ王国を建国し,彼はアメトゥンが拉致して妻としていた仏教聖者プールヴァの娘ケン・デデスを妃としました。文豪プラムディア・アナンタ・トゥールの歴史小説[3]の中の言葉を借りれば,彼の目指したものは,「異なる宗教を持つ人々の融合した社会」でした。そこでは当然ながら仏教も尊重され,現在のマラン市北郊に主院の遺るチャンディ・シンゴサーリ・コンプレックスには巨大なドゥワラパーラ像が置かれました。

   

   

シンガサーリ時代,チャンディ・シンゴサーリ(西暦1268年/サカ暦1190年建立)の巨大なドゥワラパーラ像。2010年6月,筆者撮影。

  

  

     インドネシアの国是,「多様性の中の統一(Bhinneka Tunggal Ika)」の由来は後のマジャパヒト時代に書かれた「スタソーマ物語」の中の「仏とシヴァは本質的に一体なり」の文言にあるとされていますが,ヒンヅー・仏教の共存混淆はケン・アロックの時代,或いはサンジャヤのラカイ・ピカタンとサイレンドラのプラモダワルダニの結婚を機に始まったと見て良いのかも知れません(私見)。

     中部ジャワのマタラムから遠く離れた東ジャワにケン・デデスの父プールヴァの如き仏僧が何故に存在したか,筆者の想像ですが,サイレンドラあるいはスリーヴィージャヤ統治下にあったケリンの流れを汲む仏教徒が移住し,何代にも亙って定住していたのかも知れません。東ジャワ,マラン郊外には,後のマジャパヒト時代,14-15世紀に建立されたと見られる仏塔チャンディ・スンブラワン(Candi Sumbrawan)も遺っています。

     マジャパヒトの時代にはヒンヅー,仏教およびタントラ教の混淆が進んでいましたから,ブリタル市北方に位置するパナタラン寺院群の建造物には数多の仏教に因むレリーフが彫られ,門前には小振りながら立派な一対のラクササ像が配置されていましたし,境内内部にも複数対の同じタイプの像がありました。

 

 

パナタラン正門を護るドゥワラパーラ。2009年5月,筆者撮影。

 

 

パナタラン本堂基壇最上階からの西方の眺望。中央に見える塔屋がデイテッド・テンプルで,その先に正門がある。手前右側の四角な建物はナガ・テンプル。正門からの参道わきに数対のドゥワラパーラ(ラクササ像)が点々と見える。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     現在3層の基壇のみを遺すパナタラン本堂前には一対の立像あり,何れも金剛杵を保持していますから執金剛神に相違ありますまいが,肥満体のラクササとは異なった均整のとれた体型で,長髪を後に垂らし,脇に女子とも見える小柄の人を伴っていました。これらの像に関して筆者が見つけた唯一の記述はインターネット上の写真の説明で[4],それには「本堂階段を護る4体のタンタル的ドゥワラパーラ。それぞれ頭蓋骨のある台座に立ち,片手に棍棒を持ち,肩に蛇を掛けている。傍らの小さい像はドゥワラパーラの配偶者である。」と書かれていました。

 

 

パナタラン寺院本院前のドゥワラパーラ像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     境内の中央部のデイテッド・テンプル(現地語で Candi Angka Tahun,年号寺院の意)前に,一対の細身の神像があり,近寄って見ると,風化が激しくて面貌は判然としませんが,四臂の男神と女神でありました。これらの像について記した文献を見付け得ておりませんが,若しかする男神は仏陀守護神の一人である毘沙門天,女神は彼の妻または妹とされる吉祥天かも知れません。この対の像は武器を持たず,胸の前で合掌していますから,腕力でもって仏陀を護るドゥワラパーラの範疇には入りますまい。

 

 

 

パナタラン,デイテッド・テンプル前の男神・女神像。

上:全容。2009年5月,筆者撮影。下:上半身。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     パナタラン博物館(第1節に既述)所蔵のコレクションの中から,幾つかのドゥワラパーラ像を例示しましょう。容貌は何れも伝統的な肥満体のラクササと全く異なっていました。また前庭のドゥワラパーラが手にする金剛杵には縦に筋があり,彼が冠った帽子の鍔には角(かど)がありました。この像は,インターネット上で見付けたサンフランシスコ・アジア美術館所蔵の「東ジャワ由来の一対のドア・ガーディアン像,1300-1400年頃,安山岩製,東ジャワ,マジャパヒト期」と題するものに幾分似ています。 

     何れにせよ,この時代には,チャンディ・セウの頃以来の伝統に捉われず,芸術家のイメージが反映された個性的な彫像が作られたと考えられます。 

     サンフランシスコ・アジア美術館所蔵の像の説明の中の「1300-1400年代,東ジャワの中心であったマジャパヒト王国のヒンヅー寺院入口脇に据えられていたものであろう。」の行は恐らく正鵠を欠き,「ヒンヅー寺院」は「仏教色を帯びたヒンヅー寺院」と読むべきであろうと思われます。筆者の間違いでなければ,多くの仏教の神がヒンヅー神に由来する中で,ドゥワラパーラ像のモデルとなった執金剛神は仏教固有の神であって,事実,筆者が訪れた純ヒンヅー寺院にはドゥワラパーラは見られませんでした。

 

 

パナタラン博物館収蔵のドゥワラパーラ像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

左:パナタラン博物館前庭のドゥワラパーラ像。シリアルナンバーが付されているように,模造品ではなく純正の発掘品であるが由来不詳。2015年2月,筆者撮影。

右:サンフランシスコ・アジア美術館所蔵のドゥワラパーラ像。

http://searchcollection.asianart.org/view/objects/asitem/id/26073。

 

 

     マジャパヒト王国の後退期の1437年イスラム教がジャワ海沿岸から内陸に広まる中でラウ山西側中腹に建てられたチャンディ・スクーに関しては,「カーラ面とマカラ」の節で山門のカーラ面(獅子面)を見ましたが,境内には様々な彫刻の中に,一体のドゥワラパーラ像がありました。容貌はパナタランのもののような伝統的な肥満体のラクササ像とは異なって頭が首から下と同じくらいに大きく,顔面には上下の歯並を見せた大きな口が彫られていました。風化が進んで彫刻の細部は判然としませんが,右手に金剛杵を持っていますから執金剛神をイメージしたものに相違ありません。

 

左: チャンディ・スク―境内全景。右: ドゥワラパーラ像。

何れも,2006年9月6日,筆者撮影。

 

     チャンディ・スク―からラウ山の頂に向けて500mほど上った斜面に,マジャパヒト末期の1450-70年頃に建てられたチャンディ・チェトがあります。「ジャワ探究」で述べたように,このチャンディは石積みではなく,延々と続く階段状の参道両脇に木造の修行場や僧坊などがあり,行着いた先に木造の本堂がありました。その途中には何体かの様々な人像(ひとがた)がありましたが,何れも執金剛神の通常の持物である金剛杵と縄を持たず,座して神に祈りを奉げている,あるいは瞑想している風で,腕力でもって寺を護るドゥワラパーラを意図したものとは見られませんでした。この寺院は,周辺にイスラム化を免れてヒンヅー教を代々引継いでいる信徒が暮しているそうで,神像には香華が手向けられていますから,往時の輝きはなくとも廃寺という語は当らないでしょう。参道の登り口には近年に建てられたという,バリで良く見かけるタイプの石造の割れ門があり,その手前にも古色を帯びた人像がありましたが,この像もまたドゥワラパーラらしくはありませんでした。

 

 

左: チャンディ・チェト参道途中の平地。巨大な亀をモチーフした敷石のほか幾体かの人像が見える。右: 人像の一例。何れも,2006年9月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・チェト参道登り口の割れ門(左)と,人像の拡大(右)。何れも,2006年9月,筆者撮影。

 

 

 

(3) バリのドゥワラパーラ像

以前にバリを訪れたときのアルバムに,プーラ・プセー寺院で撮ったドゥワラパーラの写真がありました。この寺院の創建はサカ暦944年(1022AD)と言いますから,ジャワではアイルランガが王国再興に立上った時代,バリは彼の実家であったワルマデワ王朝の時代に当ります。ドゥワラパーラのモデルはジャワで採用されたラクササではなく,バリ神話で聖獣バロン(Barong)の永劫の敵とされる魔女ランダ(Rangda)であって,バリでは一般的のようです。写真のドゥワラパーラは恐らく寺院創建時のものでなく,後世の作と思われますが詳細は筆者には不明です。

 

 

バリ,バトゥアン村,プーラ・プセー寺院のドゥワラパーラ。2005年2月,筆者撮影。

 

 

 

(4) 現代風ドゥワラパーラ像

16世紀の新マたラム王国建国を機にイスラム化以前のジャワ文化が見直され,ドゥワラパーラ像も復活しました。

スラカルタ(ソロ)のハディニングラット王宮(19世紀末-20世紀初頭造営)内およびジョクジャカルタ王宮(20世紀前半造営)ドノプラトポ(Donopratopo)門前のドゥワラパーラ像の容貌は何れも古典的な肥満体のラクササ像でありました。ジョクジャカルタの像は表面が滑らかで金属製のように映りました。

   

 

スラカルタのハディニングラット王宮。2019年6月,筆者撮影(新)。

  

 

スラカルタのハディニングラット王宮前のドゥワラパーラ像。2019年6月,筆者撮影(新)。

  

  

ジョクジャカルタ王宮ドノプラトポ(Donopratopo)門。2019年6月,筆者撮影(新)。

    

   

ジョクジャカルタ王宮ドノプラトポ(Donopratopo)門前のドゥワラパーラ像。2019年6月,筆者撮影(更新)。

 

 

     ドゥワラパーラ像はインドネシアの其処此処の公共施設や古いホテルの玄関脇で見掛けますが,例えばジョクジャカルタのホテル・インナ・ガルーダ(Hotel Inna Garuda)のものは立派な口髭を蓄えています。ブリタルのホテル・トグゥのものは動物風に尖った耳を持ち口には牙があります。斯様に装飾用に作られたドゥワラパーラ像のデザインは様々です。

 

 

ジョクジャカルタの由緒あるホテル,ホテル・インナ・ガルーダ玄関脇のドゥワラパーラ像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

ブリタル市の古いホテル,ホテル・トゥグウのドゥワラパーラ像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

 

(5) 日本の寺院の守護像

本節の最初に,8世紀以来の伝統である筋骨隆々たる日本の仁王像の例を掲げます。

 

 

奈良時代,法隆寺中門の金剛力士像(西暦711年製作,塑像)。2014年11月,筆者撮影。

 

 

鎌倉時代,東大寺南大門の金剛力士像(西暦1203年作,木彫)。2014年10月,筆者撮影。

右:阿像。大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて製作。

左:吽像。大仏師定覚および湛慶が小仏師12人と共に製作。

 

 

鎌倉杉本寺の金剛力士像(木彫)。2014年6月,筆者撮影。

鎌倉時代運慶の作と伝わるが,真偽不明[5]

 

 

山梨県勝沼・柏尾山大善寺山門の仁王像。

2015年10月,筆者撮影。

 

 

日光東照宮陽明門の金剛力士像。寛永15年(西暦1638年),大仏師法眼康音作。2014年8月,筆者撮影。

 

 

鹿沼東高野山醫王寺仁王像。2014年6月,筆者撮影。

木造,古色。13世紀鎌倉時代,作風から慶派の作と想像される[6]。仁王門は1992年再建。

 

 

浅草寺宝蔵門の仁王像。1964年,仏師村岡久作製作。

2015年6月,筆者撮影。

 

 

     浅草寺には宝蔵門の手前に雷門があって,そこでは,その正式名称である風神雷神門が示すように風神像と雷神像が向って右と左に配置されています。風神,雷神はヒンヅー神話でヴァーユ(Vayu),インドラ(Indra)として知られます。[IV. 伝承と物語前節]の『ガルーダ神話』には,インドラがガルーダを射落とさんとして雷光を放った逸話がありました。これらの神と仏教との結付きはクシャナ王国などにもあったそうですが,日本では浅草寺などの門の像のほか,京都三十三間堂内の彫像,俵屋宗達の屏風画が普く知られています。

     風神雷神門の背面には龍神男女一対(天龍神と金龍神)の像も置かれ,寺院の守護に加っています。龍神は水を司る神でありますから,火消し役でありましょう。また,浅草寺本堂東側の二天門には,増長天と持国天の像が配置されています。

 

 

 

浅草寺風雷神門(通称:雷門)の守護神像。

左上: 正面左(南面西) 雷神像。 右上: 正面右(南面東) 風神像。

左下: 背面左(北面東) 金龍神像。 右下: 背面右(北面西) 天龍神像。2015年6月,筆者撮影。

     雷神,風神両像は,元は江戸期1600年代後半の作と目されるが[7],慶応元年(1864)の大火で頭部を残して消失,体部は明治7年(1874)に補刻され,昭和35年(1960)に補修,彩色。

     金龍神像,天龍神像は,それぞれ平櫛田中氏,菅原安男氏作,1978年寄進。

 

 

浅草寺二天門の増長天(左)および持国天(右)。慶安2年(1649)頃の作。2016年6月,筆者撮影。

 

 

     日光中禅寺の山門にも,正面に一対の仁王像があるのに加え,背面に風神雷神の像がありました。

 

 

 

上: 日光中禅寺山門正面の仁王像。下: 同山門背面の風神雷神像。

2015年7月,筆者撮影。

     山門を含む中禅寺の建物は1902年(明治35年)の大山津波の後に再建された。

 

 

日光輪王寺大猷院(1653年完成)仁王門の仁王像。

2015年7月,筆者撮影。

 

 

日光輪王寺大猷院二天門の持国天像(左)と広目天像(右)。

http://blogs.yahoo.co.jp/kassy1946/51585011.html より借用。

 

     日光輪王寺にあって徳川第3代将軍家光を祀る大猷院には,仁王門,二天門,夜叉門の3つの門があります。持国天と広目天が護る二天門は目下修復中のため,像を見ることは叶いませんでした。夜叉門には,毘陀羅(びだら),烏摩勒伽(うまろきゃ),阿跋摩羅(あばつまら),犍陀羅(けんだら)の4体の像がありました。

 

 

毘陀羅(びだら),正面左, 北。         阿跋摩羅(あばつまら),正面右,東。

烏摩勒伽(うまろきゃ),背面左,西。犍陀羅(けんだら),背面右,南。

日光輪王寺大猷院夜叉門の4体の夜叉像。2015年7月,筆者撮影。

 

 

     斯様に近世以降の日本では,山門の守護神に仁王のほか様々の神々が登場しました。

 

 

 

参照文献


[1] 井口 正俊「ジャワ探究―南の国の歴史と文化」,丸善プラネット 2013; Masatoshi Iguchi, Java Essay: The History and Culture of a Southern Country, Troubador Publishing 2014。

[2] Naskah Pangeran Wangsakerta によれば, Balataputridewa は 甥である Kayuwangi(姉 Pramodawardani と Rakai Pikatan の息子)のよって排斥された。Edi S. Ekadjati (Editor), Polemik Naskah Pangeran Wangsakerta, Pustaka Jaya 2005。

[3] Pramoedya Ananta Toer, Arok Dedes, Hasta Mitra, 1999/Trans. by Max Lane, Arok of Java, Horizon Books 2007 (A story of Ken Arok and Ken Dedes)。

[4] http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Candi_Panataran_Guardian _Java_1303.jpg

[5] 「美術手帖 第869号: 全国社寺・仏像ガイド」,美術出版社 2005 (Art Handbook No. 869: A New Guide to Statues in Shrines and Temples in All Japan, Bijutsu-Shuppansha, Tokyo 2015).

[6] 鹿沼市教育委員会事務局文化課文化財係から受けた私信[2016年6月]。

[7] 「民部申せしは浅草雷神門の風神、雷神は民部が父の細工也。」 網野宥俊,『浅草寺史談抄』,金龍山淺草寺 1962