2. 建物を支える人像またはアトラス

 

 

(1) 初見

クディリ郊外にある14世紀マジャパヒト時代の遺跡,チャンディ・ティゴワンギ,チャンディ・スロウォノという名の2つの寺院を訪ねたときのこと,当初の目的は各々の基壇に彫られた説話レリーフを観ることでありましたが,それぞれの基壇の下部に建物上部を支える人像(ひとがた)を見ました。

 

 

 

チャンディ・テコワンギの基壇を支える人像。

左:遠望,右:クローズアップ。2009年5月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・スロウォノの基壇を支える人像(2ヵ所)。2009年5月,筆者撮影。

 

 

     これらの人像を見たとき,ギリシャ神話のアトラスが思い出されました。申すまでもなく,アトラスはオリンポスに戦を挑んだタイタンのひとり,伝説によれば,彼はゼウスの怒りに触れ,天(または地球)を肩に担いでいるよう,あるいはホメロスによれは天と地を隔てる柱を荷うよう処罰されました。17世紀オランダの地理学者メルカートルが地図帳に載せたアトラスのイメージをお借りしましょう。爾来,アトラスの語は地図帳の代名詞となりました。

 

 

左: アトラス像(Atlante Farnese,ファルネーゼ・アトラス)。大理石,2世紀頃。ナポリ国立博物館蔵 inv. 6374。

http://brunelleschi.imss.fi.it/galileopalazzostrozzi/object/FarneseAtlas.html

右: 1634年刊,メルカートルの地図帳に描かれたアトラスが地球を担う図(中央上部)。http://www.vhu.cz/book/mercator-gerardus-atlas-minor-gerardi-mercatoris/

 

 

     後で調べて見ると仏教建造物を支えるアトラスの彫刻はガンダーラにも存在したそうです。

 

 

左:仏教建造物を支えるタイタン・アトラス。ガンダーラ・ハッダ(Hadda)。

http://en.wikipedia.org/wiki/Greco-Buddhist_art

右:翼を持つアトラスの灰色片岩レリーフ。ガンダーラ,2-3世紀。

https://www.flickr.com/photos/33255628@N00/5497032509

 

 

     上の第2例の翼を持つアトラスは,アトラスに有翼神エロースのイメージが重ね合わされたものかも知れません。

     チャンディ・テゴワンギとチャンディ・スロウォノは,マジャパヒ時代に夫々の地域を治めたラジャサワルドゥハーナ(ラジャサネガラ=ハヤム・ウルクの従兄弟)を祀るために1358年に,ウィジャヤラジャサ(ラジャサネガラの叔父,1388年没)の廟として1390年に建てられたもので,この時代にはヒンヅー教,仏教,タントラ教の混淆化が進んでいましたから,ヘレニズム文化の影響を受けた所謂グレコ仏教の流れを汲むアトラス像があっても不思議ではないと思われます。チャンディ・テゴワンギとチャンディ・スロウォノの人像とも顔貌は異なっても,姿勢はガンダーラの2例と同じ,またチャンディ・テゴワンギの人像には翼がありますが,これもガンダーラの第2の例に見られます・

     調べを進める中で,建物を支える人像は,ジャワの其処此処の遺跡にも存在すると知りました。何故以前に気付かなかったかと問われれば,プランバナン平野やクドゥ盆地などのチャンディでは,立派な上屋ばかり目を奪われ,不肖にも基壇に目が行き届かなかったと告白せざるを得ません。因みに,チャンディ・ティゴワンギもチャンディ・スロウォノも上屋は全く失われて,基壇を遺すのみでありました。以後,ジャワの遺跡を訪ねたときには,斯様な彫刻にも注意を向けました。建物を支える人像は,外敵からというより天変地異から寺院を護ることを願ったもので,標題の守護神の範疇には入らないと思いますが,以下に観察記録をチャンディの建設年順に呈します。

 

 

 

(2) ジャワのチャンディの人像探索

チャンディ・ムンドゥ(クドゥ盆地),仏教,西暦782頃

     御堂に上る階段の側桁裾のマカラ像の下に人像がありました。風化が進んでいるため顔貌は判然としませんが,人物は片膝を浮かせて胡座し,腕は肩から垂らして手を膝に置いている,ガンダーラの2番目の例のように,腕でなく頭でもって上部を支えているように描かれていました。

 

 

チャンディ・ムンドゥ階段裾の人像(左右)。2012年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・セウ(プランバナン平野),仏教,西暦780年頃

     この寺院群本堂正面のデザインは豪華であって,幾人もの人像がありました。先ずカーラマカラの基部にカーラマカラを持上げるかたちで左右3人づつ,また内側のホール入口左右の柱上部にも楣を基上げるように1人づつの合計8人の人像が配置されていました。人像の体型は何れもガンダーラのアトラスに似た筋肉質の剛力風,その姿勢は重量挙スナッチ競技の第一段階で,しゃがんだ状態で,腕を伸ばしてバーベル上に差上げる姿に似ています。

 

 

チャンディ・セウ正面入口の人像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

ロロ・ジョングラン寺院群チャンディ・シヴァ(プランバナン平野),ヒンヅー,西暦856

     ロロ・ジョングラン寺院群の本堂であるこのチャンディのカーラマカラも手が込んでいて,最下部にカーラの頭(獅子頭)が据えられ,その上にしゃがんだ人像が,チャンディ・セウのものと同様の姿勢でカーラマカラを持上げるかたちで配置されていました。ロロ・ジョングラン寺院群はプランバナン・アーケオロジカルパーク内チャンディ・セウから程遠からぬ場所に80年ほど後に建てられましたから,チャンディ・セウの人像が模倣されたのかも知れません。彫刻の保存状態は良好で,力を込めた顔の表情のみならず,冠,首飾り,褌までがはっきりと見て取れて,筆者は,その美しい姿に強く魅かれました。

 

 

ロロ・ジョングラン寺院群本堂チャンディ・シヴァ正面入口の人像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・バロン(プランバナン平野南部),ヒンヅー,9世紀後半

     このチャンディはプランバナン平野南部に9世紀後半,恐らくロロ・ジョングラン寺院群の後に建てられた小規模の寺院で,本堂側面の龕のカーラマカラ下部に今は存在しない神像を持上げるかたちで人像が配置されていました。姿勢はチャンディ・シヴァのものに似ていますが,彫刻の質は劣ると申さざるを得ません。

 

 

チャンディ・バロンの人像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・キダル(マラン東郊),ヒンヅー,西暦1248

     ジャワの王国の中心が東ジャワに移ってから2世紀余を経てシンガサーリ王国によって建設されたこのチャンディでは,上屋を支えるフィギュアが一変していました。基壇コーナーには人像というよりライオンらしき動物の像が,左右および後側の基壇中央には神鳥ガルーダの像3体がありました。

     このガルーダ像はガルーデヤ(Garudeya)の名で伝わる神話の3場面を象徴するものといわれています。この神話の元はインド由来の有名な古典文学「マハーバーラタ」の序章,「アディパルワ」にあって,抄訳を本節末尾に付しますが,端的には次のような話です。

 

     「聖者カスヤパ(Kasyapa)の8人の妻の中にカドゥル(Kadru)とウィナタ(Winata)の2人があった。カスヤパが所望する賜物を問うと,カドゥルは千匹のナガ(蛇),ヴィナタは2人の男児を希望した。カドゥルの産んだ1000個の卵は500年後に孵化して千匹の蛇が生れた。ヴィナタの産んだ2個の卵は孵化せず,痺れを切らしたヴィナタが1個を割ると未熟のアルナ(後に太陽の馭者)が出でて,母が卵を割った事実に怒り,「母はカドゥルの奴隷になるであろう。然し500年後にもう1個の卵から誕生する屈強な息子によって解放されるであろう。」と告げた。或る日,カドゥルはウィナタを賭けに誘い,奸計によって勝利してウィナタを奴隷とした。この時期に生れた翼を持つガルーダは,母をナガの束縛から解放つには神界にあるアムリタ(amrita,生命の水)が代償として必要と知った。ガルーダは困難の末にアムリタを入手し,ナガのもとに届けて母を解放した。」

 

 

チャンディ・基壇コーナーの獅子像。左:遠望,右:クローズアップ。

2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・キダルの左右および後側の基壇中央のガルーダ神話3場面のレリーフ。

左:蛇どもに仕えるガルーダ,中:アムリタを手に入れたガルーダ,中;母を救済したガルーダ。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     この話の中で,ガルーダは永遠の生命を授けられることを条件にヴィスヌの乗物になりました。因みに,ガルーダはインドネシアの国章,ガルーダ航空公社の名称に採用されたように,同国では頗る有名です。古くはウィシュヌの化身と崇められたアイルランガ王が跨った彫像にも見られますし,2005年に開園したバリのガルーダ・ウィスヌ・クンチャナ公園には高さ18メートルの巨大なガルーダ像(頭部)が,同20メートルのヴィスヌ像(上半身)が公開されました。

 

 

パナタラン寺院群(ブリタール北,パナタラン),ヒンヅー・仏教・密教混淆,14世紀

     ヒンヅー教,仏教(およびタントラ教)の混淆が進み,ジャワ独特の文化が成熟したマジャパヒト時代に造営されたこの寺院群では,建造物を支える人像にも,様々な独自のものが見られます。

     先ず三層の基壇のみが遺る本堂3階の壁面は,多数のガルーダの如き翼を持つ彫像で飾られていますが,像の中心はチャンディ・キダルで見たものに似た耳のあるライオンでありました。元々基壇に似た低い建造物であったと推定されるペンドポ・テラスには,未確認のパンジ物語を描いた壁面のコーナーに人像がありましたが,これにも翼がありました。巨大なナガ(蛇)が飾られていることからチャンディ・ナガと呼ばれる立方体状の建物のコーナーには天井を支える女神像がありました。斯様に変化した像を観て,確かに上屋を支えているように見えはするものの,建造物の安全を,地球をも担う強力なアトラスに託すという願望は二の次となって,寧ろ様々な彫像が装飾のために配置されたのではないかとの印象を筆者は受けました。

 

 

チャンディ・パナタラン,本堂基壇3階壁面の翼を持つライオン像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

 

パナタラン,ペンドポ・テラス壁面脇の人像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

パナタラン,チャンディ・ナガ壁面の人像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

 

(3) アトラスは何時ジャワに伝わったか

     以上で筆者の見たジャワのチャンディの人像についての報告を終りますが,建造物を支える,或いはその安全を願う人像またはアトラス像が,何時の時代にどのようにジャワに齎されたかは,筆者にとっての未解決の疑問です。実はジャワ島内で最も古くチャンディが建てられたディエン高原を過去に2度訪れましたが,何れも十数年以上も前のこととて気付きもせず,況して自前の写真はありませんが,インターネット上の「神々の坐所ディエンの美の鑑賞(Mencicipi Keindahan Dieng, Tempat Tinggal Dewata)」[1]と題する記事の中に,チャンディ・シヴァやチャンディ・バロンで見たのに似た人像の写真がありました。説明は皆無でありましたが,インターネット上の別の写真から[2],この彫像はガトゥットカチャ寺院群の中,チャンディ・スティヤキのものに間違いありません。

 

 

左:「神々の坐所ディエンの美の鑑賞」の中のアトラス似の彫像の画像。http://www.life.viva.co.id/news/read/354988-mencicipi-keindahan-dieng--tempat-tinggal-dewata。

右:「チャンディ・スティヤキ,ディエン」基壇の画像。https://zanu90.wordpress.com/author/zanknoerzaman/

 

 

     ガトゥットカチャのヒンヅー寺院群の造営は西暦650―730年頃とされ,中部ジャワ平野部で仏教が栄え,アトラス似の人像が現れた8世紀後半より遥か以前のことでした。従って,チャンディ・セウなどの仏教寺院の人像が真似られた可能性はありません。インドにヘレニズム文化が東方に及んだとき,アトラスが採用されたのは仏教の栄えたガンダーラ地区に限られたと思われます。そのアトラスが如何にしてディエンのヒンヅー寺院に齎されたのでしょうか?

 

 

 

(4) 日本の寺院のアトラス

奈良の法隆寺(607年建立)を訪れたとき,金堂および五重塔の小屋束(こやづか)に動物の像が用いられていることに気付きました。金堂では,一階軒下の四隅に前肢下肢を折って梁上に座した獅子があって,頭で隅木を支えていました。二階の軒下には縦に畝った蛇が居て,頭部または折り曲げた首の部分でもって母屋を支えている風でした。五重塔では,第一層屋根の軒下四隅に猿とも鬼とも見える擬人化された動物があって,しゃがんだ姿勢でもって,翳した両手,或いは頭でもって母屋を担っていました。

 

 

 

法隆寺金堂および五重塔小屋束の動物像。2014年11月,筆者撮影。

左上: 金堂1階東南角,右上:同2階東南角,

左下: 五重塔第1層東南角,右下:同東北角。

 

 

     これに類する小屋束を筆者は日本の他の寺院で見たことがありませんでしたが,後で調べて,擬人化された動物は隅鬼(すみおに)と呼ばれ,奈良時代(西暦 710-794)に建てられた岩船寺(729 または 749年)や唐招提寺(759年)などにも採用されていることを知り,次回奈良,京都を訪れたときに詳しく観てまいりました。

 

 

第3層

第2層

第1層

             南東                                                     北東

岩船寺三重塔の隅鬼。北東,南西隅にも似たデザインのものがあり.,計12体ある。2001年に塔ともに修復丹塗完了。

2015年9月,筆者撮影。

 

 

岩船寺五重塔のオリジナルの隅鬼の一つ(本堂内陳列棚)。

特別の許可を得て,2015年9月,筆者撮影。

 

 

北西                                                                北東

南西                                                               南東

唐招提寺金堂の隅鬼。南西のものは江戸期元禄時代の作。それ以外は建立時のもの。2015年9月,筆者撮影。

(インターネット上には,2000-2010年に行われた金堂平成大修理事業の際に下され,間近に撮影された画像がみられる。)

 

 

北西                                                                北東

南西                                                                 南東

東寺五重塔第1層の隅鬼。2015年9月,筆者撮影。

この五重塔は寛永11年(1644)に再建された。

 

 

     飛鳥時代(西暦 592-710)建立の法隆寺にはドーリア式の円柱が使われ,明治時代,アメリカの美術史家アーネスト・フェノロサによってガンダーラの影響を受けたものであろうと指摘されました。小屋束の彫像もアトラスを真似たものに相違ないと思いましたが,意外にもこれを論じた,或いはこれに言及した文献を探し得ず,今日に至っています。

     以上の例に似た隅鬼は,近世になって寛永13年(1636)再建された西本願寺(京都市下京区)御影堂にもありました。金網越しで撮った写真では明確でありませんが,平成大修復の時の写真には角がみられ,お寺のウェブサイトの説明に「邪鬼」とありますから,鬼の類であることに間違いありますまい。

     西本願寺を訪問後,同寺の牧野光輝氏から,邪鬼は御影堂南北妻飾の蟇股(かえるまた)にも存在するとのお便りを頂きました。写真には怖い形相の鬼が見られます。

 

 

南広縁東隅                            北広縁東隅

西本願寺御影堂邪鬼。2016年5月,筆者撮影。

四隅に存在するが,観察可能なのは2点のみ。

 

 

西本願寺御影堂邪鬼,平成大修復の時の写真(南広縁東隅)

http://www.hongwanji.or.jp/hongwanji/goei/dayori95.html

 

 

西本願寺御影堂南妻飾内,左右蟇股の邪鬼。

同寺の牧野光輝氏提供。

 

 

     建物の構造を支える類のもののほか,日本の寺院には重量物を担ぐ邪鬼もありました。筆者の見た第一例は日光中禅寺境内中央に立つ燈籠で,邪鬼が両手と頭と肩でもって火袋を担っていました。第二例は同じく日光の輪王寺三佛堂前地面に置かれた大香炉,3匹の邪鬼が同様に香炉を担っていました。

     但しこれらの燈籠と大香炉は,それぞれ大正2年(1913年)および 昭和61年(1961年)奉納と刻字されていましたから,古代からのものでないことは明白です。それぞれの寺のお坊さまに由来を尋ねたところ,毘沙門天が天邪鬼を踏付けている周知の像に見られると同じで,天邪鬼が悪事の懲しめのために重量物を担がされている図である由,しかしギリシャ神話のアトラスとの関係については御存知ありませんでした。

 

 

 

上: 日光中禅寺境内中央の燈籠(常夜燈)。棹背面に大正2年(1913年)奉納の刻字。下: 火袋を担ぐ天邪鬼。

2015年7月,筆者撮影。

 

 

 

日光輪王寺三仏堂前の大香炉(上)および邪鬼足(下)。炉の背面に昭和61年(1961年)奉納の刻字。

2015年7月,筆者撮影。

 

 

     前に奈良,京都を訪れたとき,未だ意識が薄かったので見過ごしましたが,重量物を担う天邪鬼は東大寺の大香炉,西本願寺の天水受などにもみられるようです。但しインターネット上の写真で見る限り,これらも近代の作のように見受けられます。

     後に奈良を訪れたときに撮影した東大寺大仏殿並びに同二月堂の香炉の写真を追加します。これらの香炉も左程古い時代のものではなく,江戸中後期に奉納されたものでした。

 

 

左: 東大寺大仏殿中門の香炉。側面に「戎香定香解脱香,光明雲臺遍法界.供養十方無量佛,見聞普薫證寂滅.延享三歳[1746]臘八月大觀進沙門公拜」の刻字。

右: 東大寺二月堂の香炉。奉納者名(複数)および「寛政七[1795]」の刻字。

2015年9月,筆者撮影。

 

 

     西本願寺御影堂には,四隅を天邪鬼に支えられた天水受が正面玄関左右に一対ありました。これには『天邪鬼』と題する立札があって,御影堂建築の寛永13年(1636)年から存在とありました。作者には触れられていませんでしたが,彫像の丸坊主で愛嬌のある姿に無名の石工のユーモアに想いを致しました。この天邪鬼および前述の広縁の隅鬼の由緒について宗務所で尋ねましたが,記録がないとのことでありました。

 

 

 

北西                                                                 北東

南西                                                                南東

西本願寺御影堂正面玄関前の天水受(北側のもの)。全景(上)および四隅の天邪鬼(下)。2016年5月,筆者撮影。

 

 

     江戸時代になると,建物を支える人像に,古来の「隅鬼」,「邪鬼」よりも人間の姿に近い「力士像」あるいは「力神像」などと称せられるものが現れました。

     1箇所は,播州(現兵庫県)姫路にあって西の比叡山とも呼ばれる書寫山,1671年建立の開山堂[3]で,左甚五郎作のものがあると聞いて訪ねてきました。ケーブルカーで上った海抜371mの山頂は東西400m,南北200mほどの緑濃く起伏ある丘陵で10余の建物が点在,開山堂は西谷奥の院にありました。四隅の梁上に座して両腕と背でもって隅木を支える力士像は流石に名工左甚五郎の作と思わせる迫真的な姿を呈していました。彫は精細で,面相は異れど,波打った髪は西洋人を想わせました。

     左甚五郎(1594-1651)は幕府に招かれて日光東照宮建設の棟梁の一人を務めた人,またオランダ人と接触して,国外の建築や彫刻文化や様式などについても学んだ人[4]でありましたから,メルカートルの地図帳に描かれたアトラスを見る機会のあった,それをモデルとして力士像を製作したというのが私の仮説であります。残念ながらお寺には詳細を伝える文書は存在しないとのことでした。因みに左甚五郎の生地は播州東部の明石とされています。

     開山堂には,梁の前面に浮彫があるほか,左右の端に立派な獅子鼻がありましたが,これについては 『4. 獅子像』 の節で述べることにします。

     開山堂の近くには平安中期の歌人和泉式部が開祖性空上人に送った和歌「暗きより暗き道にぞ入りぬべき,遙かに照らせ山の端の月」に因む歌塚塔が寂然と立っていました[5]

 

 

書寫山圓教寺開山堂正面(東)。    開山堂東南隅軒下(画面中央に力士像,右端中央に獅子鼻が見ゆ)。

 

 

南東                                                                北東

南西                                       

書寫山圓教寺開山堂の力士像(北西のものは観察出来ず)。

2016年6月,筆者撮影。

 

 

   左甚五郎作と伝わる人像は,山形市緑町(旧・寺町)の浄土真宗大谷派最上山専称寺本堂にもありました。この御堂は文禄年間(1593-1596)に最上義光公によって山形の別の場所に天童から移築,慶長3年(1598年)に現在地に移転された由,本堂屋根下四隅に4体の力士像が梁上に蹲んで隅木を支える風に配置されていました。望遠レンズを通して観察すると姿は個性的,彫は精緻であって,名工の作に相応しいとの印象を受けましたが,書寫山圓教寺開山堂の力士像とは風貌も姿勢も全然異っていました。

 

 

全景

北西                                      北東

南西                                          南東

山形市最上山専称寺本堂全景および屋根下四隅梁上の力士彫刻。2016年9月,筆者撮影。

 

 

     力士型の人像は東北地方,就中,秋田県および山形県北部に夥多あることをインターネットで知りました。[6], [7],何時か訪ねて自分の目で見てみたいと欲しますが,ここに,秋田市の民俗研究家,柴田寿文氏から贈呈を受けた写真集の中から,秋田市雄和田草川の八幡神社拝殿の力士像を一例として掲げます。この写真集には実に50余の社寺で撮られた写真が含まれていました。

 

 

 

秋田市雄和田草川字本田151-1,八幡神社拝殿の力士像。

秋田市,柴田寿文氏の好意による。

 

 

     ざっと調べたところ,東北地方の力士像の製作時期は並べて江戸中期,18世紀中葉以降,作者は殆ど不明でありました。彫刻の巧拙は様々ですから,恐らく多数の彫師が制作したに相違ありません。私の想像に過ぎませんが,幾つかの秀作は立派な元絵に基づいて上手によって彫刻されたもの,それらを真似たものが周辺各地に広まったと考えて良いのかも知れません。秋田といえば,平賀源内から蘭画を習った久保田藩士小田野直武(1750-1780),藩主佐竹義敦(画号:曙山,1748-1785)らが数多の『秋田蘭画』を描いた土地柄,若しかすると彼らの誰かが力士像の下絵作者であったのかも知れません。小田野直武は腕を買われて『解體新書(蘭書 Ontleedkundige Tafelen 翻訳書,1774年刊)』の図版を任された人物でありましたから,前野良沢,杉田玄白と親交あり,メルカトールの地図帳の表紙に描かれたアトラスを見たとしても不思議でないと思います。

      福島県二本松市五月町の天台宗観音寺本堂にはユニークな人像がありました。御案内下さった住職によれば,此処の像は力士というより鬼か何か架空の類を象ったものであろうとの由,その証拠に本堂内部にあって保存状態の良い1体には尻尾がありました。この御堂は元々安達郡東和町治陸寺にあった護摩堂(元文4年,1739年建立)が明治初期に移築されたもの,像も創建当時のものと考えられるが,作者などの詳細は不明とのことでありました。

 

本堂全景

北西                                        北東(本堂内)

南西                                        南東

二本松市五月町天台宗観音寺本堂全景および屋根下四隅の人像彫刻。2016年9月,筆者撮影。

 

 

     安房および周辺には「波の伊八」で知られ,彼の浮彫が葛飾北斎の有名な版画「神奈川沖浪裏」にヒントを与えたとされる江戸後期の彫刻師,武志伊八郎信由(1751-1824年)作と傳わる人像が数点あると知りました。東京都杉並区堀之内にある日圓山妙法寺祖師堂の妻にある人像も伊八作の作と推定されるという記事[8]があったので,參拜を兼ねて訪ねてまいりました。然し丸々と太った体型,気楽に座して頭を傾げることなく正面を見据えた姿勢は,ギリシャ神話のアトラスあるいはメルカートル地図帳のアトラスには似てゐないように映りました。事実。お寺で尋ねたところ,伊八作と記録あるのは同堂玄関梁の龍五態および堂内の欄間三面のみで,力士像のついては不明との由でありました。

 

 

東京都杉並区堀ノ内妙法寺祖師堂正面(南),龍五態の彫刻。2016年6月,筆者撮影。

 

 

東                             北                             西

東京都杉並区堀ノ内妙法寺祖師堂妻の力士像。2016年6月,筆者撮影。

 

 

     然らば伊八作の真正の力士像や如何。千葉県市原市飯給に所在する曹洞宗最勝山眞高寺山門第2層の妻に飾られているという力士像を,同寺のホームページから借りて見てみましょう[9]

荷重に耐える表情,全身の筋肉が如実に彫られ,流石に名工と謳われた伊八ならではと得心させられる作品ですが,ギリシャ彫刻のアトラスを連想させる風ではなく,伊八独自のデザインであろうと思われます。裏面に「武志伊八郎信由」の名とともに「寛政三辛亥八月吉祥日」の日付が書かれていることから,40歳という職人として油の乗りきった頃の作品と知られます。

 

 

北側

南側

最勝山眞高寺山門第2層の妻に飾られた武志伊八郎信由作の力士像。http://ichihara-shinkouji.jp/ihachi/ より複写。

 

 

     上州上河内(現・宇都宮市内)の羽黒山神社には,ジャワで数多見たように建物の土台にあって上部を担う型の,日本には珍しい力士像がありました。一説に康平年間(1058-65)に創祀されたというこの神社は近世になって代々の宇都宮藩主の崇拝を受け,現在の本殿は焼失後の文政13年(1830)に再建された,建築を担当したのは塩谷郡高根沢の棟梁山本飛騨であったといいます[10]。力士像のある本殿は,拝殿背後に密接した伽藍堂のような建物の中に恰も厨子であるかのように存在していました。斯様な二重構造が建設当初からのものであったか否かは,今のところ筆者には不明です。本殿本体は網入りガラス窓を透してしか観察できず,上部の構造は定かでありませんが,恐らくなだらかな曲線を持つ神社屋根を持つものと想像しました。

     力士像は,南東,北東,北西,南西の各コーナーと,東側,北側,西側の中央の基壇下に計7体見られましたが,南側(正面側)の様子は観察できませんでした。力士の姿勢は様々で,顔貌,筋肉までもを豊かに表現した彫刻の詳細は棟梁入魂の作に相違ありません。人像を基壇の下に置くという発想も棟梁自身のものであったでありましょう。

     拝殿梁には獅子鼻あり,境内には,獅子狛犬のほかに,神社には珍しく梵鐘堂がありました。これらは明治以前,羽黒山神社が神仏混淆の権現社であったことの名残であると想像しました。事実,文献[11]にも左様に書かれていました。

     羽黒山神社は四方を見渡せる海抜458m の羽黒山山頂に位置し,近くには下野新聞社,NHKなどの無線中継所のアンテナ林立していました。

 

 

上河内羽黒山神社拝殿(右)および本殿(左)。2016年6月,筆者撮影。

 

 

北西角                                         北東角

真北

上河内羽黒山神社本殿基壇の力士像(全7体)。2016年6月,筆者撮影。

 

 

     栃木県内鹿沼市郊外(鹿沼市北半田1250)の古刹,大同4年(809)空海が道場を開いたのが濫觴と伝わる東高野山彌勒院醫王寺にはユニークな人像4体がありました。宝永2-4年(1705-07)[12]に再建,2012年に修復再塗装された茅葺屋根寄棟造の金堂は色鮮やかで,人像は堂宇四隅の梁上に蹲踞して,背でもって隅木を支えていました。容貌は古来の隅鬼とも近世の力士とも異って可愛らしくも見ゆるもの,それにも増して四体が緑,黒,白,赤に塗分けられていることに瞠目し,ふと日光輪王寺大猷院夜叉門で見た,4体,4色の夜叉像を想い出しました。鹿沼市文化財係からは,4色はシナの伝説にある「四神」,東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武,に倣ったものと推測されるとの見解を頂きました[13]。この金堂の人像は何を代表したものか,四夜叉か,四神の四獣か,あるいは架空の「力神」か,筆者には計り兼ねられます。作者については,本寺の唐門の彫刻を担当したと記録のある下野の彫師,石原藤助あるいは或いは藤助の師,石原弥兵衛と推測される[14]とのことでありました。

 

 

金堂前景

北西                                            北東

南西                                            南東

鹿沼東高野山醫王寺金堂前景および四隅人像。2016年6月,筆者撮影。

 

 

 

参照文献


[1] http://www.life.viva.co.id/news/read/354988-mencicipi-keindahan-dieng--tempat-tinggal-dewata。

[2] https://zanu90.wordpress.com/author/zanknoerzaman/; http://f.hatena.ne.jp/uchikoyoga/20140430%E3%82%BB%E3%83%88%E3%83%A4%E3%82%AD/。

[3] 開山堂は開祖性空の廟として彼の没年,寛弘4年(1007年)に創建,寛文11年(1671年)に再建されたとされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%93%E6%95%99%E5%AF%BA)。左甚五郎の生存期間が1594-1651年*であるとすれば,「力士像」などの彫刻は,再建時に旧堂から移されたものと想像される。*) 次の文末註。

[4] 左光挙著,『名工左甚五郎の一生 』,新人物往来社 1971。

[5] 立札には,歌塚塔には天福元年(1233)の刻字あり,歌は1002-05年に悟りへの導きを願って詠まれたもの,性空上人からは「日は入りて月まだ出ぬたそがれに 掲げて照らす法の灯」なる返歌と袈裟を賜ったとある。和泉式部の生年,没年は不確かであるが,一説に(973~1040?)とある(http://osaka-ikeda.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html)。

[6] http://www.geocities.jp/akitasaisei/rikisi-gazo/riki-map.html

[7] http://blogs.yahoo.co.jp/mistral1416/36041335.html

[8] 鴨川市郷土博物館石川丈夫氏講演。http://fukuchanck.exblog.jp/25464641/

[9]  http://ichihara-shinkouji.jp/ihachi/

[10] 「上河内地区の地名と歴史散歩」http://www7b.biglobe.ne.jp/~kenbuka/rekisi.html。

[11] 文末註8

[12] 医王寺金堂の建立時期は,大工永野万右衛門の請負記録によれば「宝永2年(1705 )造立開始,同3年上棟,同4年より彫物・彩色を行う。」と記されている。このことから彫刻の製作時期は宝永4年(1707)頃と考えらる。通常、大工と彫物師は分業され,唐門で発見された棟札に,永野と同郷の彫師,石原藤助の名前が見られることから,金堂の彫刻も同人物或いは藤助の師,石原弥兵衛の作と推測される。力士あるいは力神の色彩については,四神相応に東=青、南=朱、西=白、北=黒に塗り分けられたと推測される。(鹿沼市教育委員会事務局文化課文化財係から受けた私信[2016年6月]要旨)。

[13]  同上。

[14]  同上。