I. 社寺の守護神

 

 

1. カーラ面とマカラ

 

(1) キルティムカ―伝説

7世紀半ばから15世紀の間にかけて建てられたジャワのチャンディ(古寺)では何処でも,厳めしい怪物の面が入口の上方から,闖入者を見張っています。

     ジャワで「カーラの頭」の名で知られるこの面はインドの寺院に存在したキルティムカ―(Skt. Kirtimukha)に由来するに相違ありません。因みに「カーラの頭」は現地語のクパラ・カーラ(kepala kala)の直訳であって,モンスターの頭の意でありますが,一般には頭の前面,つまり顔だけを彫った彫刻でありますから,ここでは場合によって「カーラ面」のと呼ぶことにします。

    キルティムカ―の語は,辞書などを繰ると,フェイス・オブ・グローリー(face of glory),つまり栄光の顔の意であると書かれていますが,その所以や如何。12-13世紀に書かれたスカンダ・プラナ(Skanda Purana)というヒンヅー書の中に次のような話があるそうです[1], [2]

    「ダイチャ(Daityas)にジャランダーラ(Jalandara)という名の頗る強力な王あり,彼は全三世界を征服した。その頃,万物の創造,維持,破壊を司る最高神シヴァは暫く天界の居所を離れ,その間にヒマラヤ王の娘として甦った妻パルワティを娶ろうとした。彼女は豊満柳腰の美人であった。自尊心を燃やしたジャランダーラは怪物ラーフを使者としてシヴァに送り,パルワティとの結婚を諦めさせようとした。彼はシヴァを乞食と誤解し,王女は自分自身のような強力な王の配偶者となるに相應しいと思ったのである。ラーフ(Rahu)が伝言を渡すとシヴァは激昂し,その眉間の第三の目から獅子の頭を持つ悪魔を発した。悪魔は,烈火の如き眼,逆立つ髪を有していて,身体はヴィシュヌの化身たるナラシムハ(Narasimha,獅子人)に似て,貧弱ではあったが,貪欲であった。彼は雷鳴の如く唸り,ラーフに襲い掛ったが,ラーフはシヴァ神に助けを乞うた。シヴァはラーフを喰わぬよう,その悪魔を説伏せたが,悪魔はひどく空腹であるとシヴァに訴え,食べ物を求めた。シヴァが悪魔に自分の肉を喰うよう命ずると,食欲留まることなき悪魔は腕も脚も,更には腹部も胸部も首も食い尽くした。シヴァは悪魔の服従を大いに喜び,残ったその顔に,『今後キルティムカー(栄光の顔)として知られるであろう』と告げた。更に,『キルティムカ―はシヴァ寺院の戸口にあって,彼を敬わない者は何人たりともシヴァの恵みを受けないであろう』と定めた。斯くして,シヴァ寺院の戸口がキルティムカ―の永久の居場所となった。」

     斯くして,キルティムカ―は,首から下を失いながら,猶も生命を持つ怪物の頭であったと理解されます。

    ラーフが首から下を喪失した事由は,キルティムカ―伝説とは別の神話にもありました。話の詳細は原典によってまちまちですが[3], [4], [5],大意は概ね次のようです。

    「遠い昔,世界の始まりの日,神々と怪物どもが生きとし生けるものに永遠の命を与える水,海底からアムリタを得るために混沌たる「ミルクの海」を掻混ぜた。アムリタの壺が現れると,神々と怪物どもの間で争奪が起きた。モハニという名の美女が仲裁に入って,神々に最初に分配する案が合意されると,怪物のひとりであるラーフは神の姿に化けて神々の列に紛れ込んだ。ラーフは首尾よくアムリタを口にしたが,太陽の神と月の神によって見破られた。モハニは実はヴィシュヌの化身であった。ラーフはヴィシュヌの放ったスダルシャン・チャクラ(108のエッジを持つ円盤兵器)の一撃によって首を刎ねられた。ラーフの頭部は既に永遠の命を得ていたが,切り離された体にはアムリタが届いていなかったので萎え果てた。頭だけとなったラーフは太陽と月の敵となって星に変身,月を追って,その軌道に上った。ラーフが月を口にいれると月蝕が起ったが,その都度,ラーフには首から下がないので,月は容易に外に出た(以下略)。」

 

 

(2) インドのキルティムカ―

インドの寺院の前面に掲げられたキルティムカ―の彫刻を見てみると,キルティムカ―の両手両腕は残っていて,それぞれの手でナガ(Naga,大蛇または龍)を掴んでいます。

 

インドのキルティムカ―・レリーフの例。

左:カトマンズの寺院(寺院名不詳) http://en.wikipedia.org/wiki/Kirtimukha#/media/File:Kirtimukha.Nepal1.JPG

右: カトマンズ,パタン・ドゥルバー広場(Patan Durbar Square),木彫。

http://www.mountainsoftravelphotos.com/index.html

 

 

    また,左右のナガの下部には,奇妙な怪物が配されていますが,マカラと呼ばれるこの怪物は,架空の水棲動物であって,水の女神ガンガ・マ(Ganga Ma)あるいは海神ヴァルナ(Varuna)の乗物,また希望と愛の神カマデワ Kamadeva) の象徴でもあったとされています。

    マカラ(makara)はサンスクリット語のムガー(mugger,鰐)の元となった鰐を意味する語でありましたが,現実に描かれた図は,象のような鼻を持つ魚,象のような鼻を持つ鰐,孔雀の尾を持った象など様々です。20世紀ジャワ考古学の泰斗,ストゥッターハイム博士の論文[6] には,十二星座のカプリコーン(山羊座)に描かれた“山羊魚(魚の尾を持つ山羊)が鰐に付加されて様々のイメージを生んだのではないかとの仮説がありました。逆に,多くの書に[7],ヒンヅー十二星座ではマカラ自体がカプリコーンを代表すると書かれています。

   インターネット上に掲載されたインドおよび陸続きのアジア南東部のマカラの写真の中から4枚を借りて,観察してみましょう。

 

 

左:インド東部ベンガルのチャーバングラ(Charbangla)寺院のガンガ・マのレリーフ(18世紀)。http://www.harekrsna.com/sun/features/12-06/features501.htm

右:インド南西部,ホイスラ(Hoysula)寺院のヴァルナのレリーフ(1120-1160 AD)。https://in.lifestyle.yahoo.com/photos/halebeedu-the-crown-jewel-of-hoysala-temples-slideshow/halebeedu-photo-1336120096.html.

 

 

左: サンボール・プレイ・クック (Sambor Prei Kuk)寺院のマカラ,7世紀。カンボジア,カンポン・トム・シティ。[カンポン・トムは嘗てチェンラ王国の都であった。] http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mus%C3%A9e_Guimet_897_04.jpg

右: マカラとナガを描いたレリーフ。タイ・バンコック,ワット・スタット(Wat Suthat) 寺院。[西暦1807 に Rama I が着工,Rama II,Rama III に引継がれ,1847年に落成。] http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wsuthatmakara0409.jpg

 

    最初の写真のチャーバングラ寺院のレリーフの女性は明らかに女神ガンガ・マ(Ganga Ma)であって,一般には尊ばしく描かれていますが,この例ではかなりエロティックに表現されています。ガンガ・マはインドの聖典リグ・ウェーダに書かれた水の女神であって,日本の弁財天は彼女に因むと考えられます。 

     2枚目のホイスラ寺院と3枚目のサンボール・プレイ・クック寺院のレリーフの男性は容貌は異なれど,何れもヴァルナ神に相違ありますまい。 因みに,サンボール・プレイ・クック寺院のレリーフの馬はヒンヅー神話で馴染みの深い神馬ウッチャイ―スラーヴァス(Uchchaihshravas),そうであれば,馬に跨った人物はインドラ神かと推知されます。

     マカラは屡々奇妙な生き物を口から吐出している,或いは呑込もうとしています。その生き物は第2枚目のものでは人らしく,3枚目のものはライオンらしく見えます。4枚目のマカラの口にいるのは,間違いなくナガでしょう。

     カーラもマカラも濫觴はヒンヅー・インドにありましたが,8-9世紀に中部ジャワに栄えたサンジャヤ王国がプランバナン平野などに遺した幾つかのヒンヅー寺院は無論のこと,同時代に中部ジャワに併存したサイレンドラ王国が建立した現在のジョクジャカルタ東郊のカラサン寺院,プランバナンン平野のチャンディ・セウおよびチャンディ・プラオサン,クドゥ盆地のボロブドゥールを代表とする3ヶ寺などの仏教寺院にも採用されました。

     カーラの面は,後述するように,サンジャヤ王国の末期に建てられたロロ・ジョングラン寺院群以降ライオンの顔を模した面に代替されますが,ライオンの面はジャワの王国の中心が11世紀初めに東ジャワに移ったあと,13-15世紀にシンガサーリ王国ならびにマジャパヒト王国が建てた数多のヒンヅー寺院,あるいはヒンヅー・仏教混淆寺院にも継承されました。

     参考ながら,キルティムカ―は,その顔貌が嘗てヨーロッパ,就中,地中海域でポピュラーであったというゴルゴネイオン(Gorgoneion)を連想させ,魔除けとしての機能も同じですが,後者はギリシャ神話の女の怪物ゴルゴンに因むものであって,両者が由来を異にすることは明らかです。

 

 

左:ゴルゴネイオンを象った軒先瓦。シシリア出土, ca. 490 BC。大英博物館蔵。http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details/collection_image_gallery.aspx?partid=1&assetid=365199&objectid=463285 Examples of antefixes modelled on Gorgoneion

右: 中央にゴルゴンの頭の描かれた古代アテネの黒絵陶器カイリクス(酒杯)。紀元前6-5世紀。英国アッシュモレアン博物館藏。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Athenian_black-figure_pottery_cup,_6-5th_century_BC,_an_outdoor_symposium_(drinking_party)_beneath_a_vine_arbour,_around_a_Gorgons_head,_Ashmolean_Museum_(8400674085).jpg

 

周囲に鹿,ライオン,スフィンクスおよびセイレーンを配したゴルゴネイオンの頭が描かれたボウル。初期コリントス(610-590 BC 頃)。大英博物館蔵。20174月,筆者撮影。(2019年3月追加)

   

   

(3) カーラマカラ・モチーフ

ジャワでは,寺院ホール入口の楣(まぐさ),或いはアーチ門(拱門)の上部に据えられたカーラの頭は,多くの場合,左右それぞれの柱の下部に配置されたマカラと組合されて,所謂「カーラマカラ・モチーフ」を形づくっています。有名な例はチャンディ・ボロブドゥールの方形基壇四辺中央から頂上に至る階段の階層毎に設けられたアーチ門のものですが,多分に漏れずこの遺跡も風化が進んでいますから,100年前に撮られた鮮明な写真をお借りしましょう。

 

 

左: チャンディ・ボロブドゥールのアーチ門を飾るカーラマカラ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Candi_of_Indonesia#/media/File:COLLECTIE _TROPENMUSEUM_Poort_op_de_Borobudur_TMnr_10015959.jpg)。同一の写真は Stutterheim の書(下記)に収録されている。

右: カーラマカラ下部のマカラ(光の角度から四方にあるうちの別の拱門のものに相違ない)。

W. F . Stutterheim,Pictorial history of civilization in Java. Translated by Mrs. A. C. de Winter-Keen,The Java Institute and G. Kolff & Co.,Weltevreden,1926 より複写。

 

 

最近(2019年6月)に訪れたときに撮影したボロブドール・アーチ門の写真を追加します。

 

チャンディ・ボロブドゥール(東側)のアーチ門。第1,第2,第3回廊から上に登る階段下に3重に配置されている。2019年6月,筆者撮影(左右2葉の写真より合成)(新)。

 

     このアーチ門では,左右に柱の下部に置かれたマカラの尾部から巻上がった帯状の装飾が左右の柱を覆い,上部で湾曲して頂上のカーラに連なっています。カーラ面に下顎がなく,歯並が見える点は,インドの典型的なキルティムカ―と似ていますが,頬の膨らみはありません。髪はと云えば,インドのキルティムカ―では頭の左右に僅かばかり付いていたのと異なって,逆立って伸び,三角形を呈しています。マカラの大きく開いた口の様子は,横から撮った写真ではよく見えないので,後に別の画像で見ることにしましょう。

     ボロブドゥールでは「カーラマカラ・モチーフ」の範疇に入るか否かはいさ,各回廊内側の壁の上に置かれた仏龕の唐破風屋根の螻蛄羽(けらば)[8] の頂上に据えられたカーラもまた,左右の庇の先に置かれたマカラと帯状の模様で繫がっています。

     ジャワの多くの寺院では,地面から上る階段の両脇にマカラが配置され,マカラの尾部は斜め上に伸びて側桁なっていますが,ボロブドゥールでは,側桁の上端に頭髪のないカーラの頭が配置されている箇所もありました。

 

 

左:ボロブドゥールの各回廊内側の壁の上に置かれた仏龕。

右:ボロブドゥールの地面から上に上る階段。

2015年2月,筆者撮影。

 

 

     アーチ門のある寺院はジャワでは極めて珍しく筆者の知る限りボロブドゥールのみ,但し寺院建物内部の仏龕には類似のアーチが配された例がチャンディ・サリに見られます(後述)。

     一般の寺院の入口では,下部に置かれたマカラから伸びる帯状の装飾で飾られた柱は湾曲することなく直立し,その上に渡された楣を支え,楣の中央にカーラの頭が据えられています。ここでは,8-9世紀に中部ジャワに建てられた2つのチャンディのものを例示します

 

 

左:チャンディ・プラオサン(780s AD,仏教)の正面。2008年6月,筆者撮影。

右: 中部ジャワプランバナン平野,ロロジョングラン寺院群(俗称:プランバナン寺院)の主塔,チャンディ・シヴァ(856 AD,ヒンヅー教)の正面。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     カーラマカラ下部のマカラの尾の部分から巻上がってカーラに連なる帯状の模様について具体的に論ぜられた書は比較的少ないようですが,ナガをイメージしたものとする説があり[9],筆者はそれに賛同したいと思います。事実,前掲のカーラ,ナガおよびマカラを配したインドの寺院のレリーフは,3者が所縁のある存在であったことを想像させますし,タイのワット・スタット寺院のレリーフには,マカラがナガを吐出そうとしている,或いは呑込もうとしている図が描かれていました。カーラとナガの組合せとして思い出されたのは,ジョクジャカルタ王宮内,大ホール外廊のフェンス上部の飾りであって,カーラの左右に,波形に畝ったナガが尻尾を向けて配されていました。

 

 

ジョクジャカルタ,ガジョグジャカルタ・ハディニングラット王宮(Keraton Ngayogyakarta Hadiningrat)内大ホール外廊のフェンス。2007年2月,筆者撮影。

 

 

(4) ジャワのカーラ面とマカラ通観

ディエン高原の3ヶ所に現存する寺院または寺院群のうち,アルジュナ寺院群の中心であるチャンディ・アルジュナ(Arjuna)およびチャンディ・バトックカチャ(Batotokaca)は,ジャワ考古学の権威者スクモノ博士によれば,西暦650-730年に建立されたと推定され[10],ジャワで最古の寺院であると見られています。一般にディエンのチャンディを建設したのはサンジャヤ王国であるとされていますが,始祖のサンジャヤ・ハリスダルマ(Sanjaya Harisdharma)が西ジャワから移ったのは常識的に西暦732年でありますから,スクモノ博士の推定に従えば,チャンディ・アルジュナの建設は,サンジャヤ王国建国より数十年も前であったということになります。

     筆者が提出した古代ジャワ王国の系譜(別項参照)によれば,7-8世紀初期に中部ジャワに存在した王国はカルティケヤシンガ(Kartikeyasingha,648-674)が君臨し,女王シマ(Ratu Sima,674-695)が継承した ケリン王国[11]のみでありますから,少なくともディエン高原初期のチャンディの建設者は,ケリン王国であったかも知れないと仮説することができると思います。

   中部および東ジャワには,その後15世紀までの間に夥しい数の寺院が建てられ,数十ヶ寺が修復された形で存在します。猶,西部ジャワでは「ジャワ探究」の中に記したチャンディ・ボジョンムンジェ(7世紀頃ケンダン王国の時代に建立?[12]),チャンディ・チャンクアン(8世紀建立)のほか,近年発掘の進んだチャンディ・バトゥジャヤ寺院群(5-6世紀,タルマナガラ王国の時代に造営[13])などの遺構が知られていますが,何れも地中に埋もれて原型を留めぬほどの状態にありました。

     以下に,中部および東部ジャワの幾つかの寺院に飾られたカーラとマカラを時代順に見てまいりましょう。

 

 

チャンディ・アルジュナ (ディエン高原),ヒンヅー,西暦650-730

     最初の写真は,ストゥッターハイム博士の書[14]にも収められた古典的写真で,チャンディの名は不詳ですが,インドのキルティムカ―のような頬の膨らみはなく,僅かに歯並を覗かせています。

ディエン高原の或るチャンディのカーラの頭。オランダ熱帯博物館所有画像 No. 60016337。http://collectie.tropenmuseum.nl/Default.aspx?ccid=19395。

 

 

     チャンディ・アルジュナの正面のデザインをインターネット上の画像を拝借して見てみると,部分的に欠損があるものの,楣のカーラは左右の柱の下部のマカラと連繋してカーラマカラを構成しています。カーラの髪は頭上で三角を形作っています。こういったカーラ面の特徴は,基本的にボロブドゥールのものに酷似していますが,ここのものがジャワのカーラ面の原型であったと申すべきでありましょう。

   写真でははっきりしませんが,階段側桁の上部に凸(つばく)んで見える物体は,恐らくボロブドゥールにあったと同様なカーラの頭と思われます。そうであれば,カーラとマカラが繫がった側桁の起源もチャンディ・アルジュナであったということになりましょう。

 

 

左: ディエン高原チャンディ・アルジュナの正面。http://id.wikipedia.org/wiki/Berkas:Candi_Arjuna_close_up.jpg より複写。

右上: チャンディ・アルジュナ正面入口のカーラ面,右下:同正面脇の龕のカーラ面。https://lettersfromangelaa.wordpress.com/2013/11/15/111013-dear-van-banjarnegara/ より部分を複写。

 

 

チャンディ・カラサン (カラサン地区),仏教,西暦 778

     現ジョクジャカルタ東郊に建つチャンディ・カラサンはサイレンドラ王国第2代ヴィシュヌ王の頃のカラサン碑文(西暦778年)に,「サイレンドラ王家の僧が[サンジャヤ王国の]パナンカラン王に,ターラ女神像,寺院および僧院を含むチャンディ・ターラの建設を要請した。」と書かれたチャンディ・ターラに相違ありません。現在の寺域は左程広くはありませんが,元々は本堂のほか講堂,経蔵,庫裡,厨房など数多の建物からなる一大寺院であったとみられ,500メートル北の離れた場所にある2階建てのチャンディ・サリは,付属の僧院であったと考えられています。[15]

 

 

チャンディ・カラサン全容。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     本堂建物で面白いのは,西側入口の楣であって,縦長の大きな面には,カーラ面の上部に,恐らく竣工当時の建物の外観と思われる絵が描かれています。

 

 

チャンディ・カラサンの西側入口の楣。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     この寺院のカーラは,逆立つ髪が尖った三角形に纏められている様はディエン高原ヒンヅー寺院のものに似ていますが,顔の口から下の部分,つまり下顎が丸く描かれています。また,入口カーラマカラのカーラには,顔の頬の辺りから,両腕が,臂を張って,手首から先を内側に丸めたように描かれていました。

 

 

チャンディ・カラサン正面入口の楣(左)および上部壁面のカーラ面。2015年2月,筆者撮影。

 

 

      階段裾のマカラは,口を大きく開け,その上部から,表面に大蛇の皮膚を思わせる模様のある棒状のものが垂れて,下顎に座したライオン似の生き物の頭に届いています。鼻は頭上で折曲り,その先端は渦巻いています。

 

 

左: チャンディ・カラサンの階段下部のマカラ。尾から伸びる側桁は欠落している。

右: 地面に独立に置かれたマカラ。元々は別の建物の階段裾にあったと想像される。

何れも2015年2月,筆者撮影。

 

 

     境内の本堂背後にはカーラ,マカラなどを彫った夥しい数の石材が集積されていて,間近に観ることができました。これらは嘗て本堂の周りに存在した建物の部品であったとみられますが,その中のカーラもマカラもデザインは本堂のものと大差なく見えました。

 

 

上:チャンディ・カラサン境内に集積された石材の一部。

下: カーラ面の彫られたものの例。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・サリ (カラサン地区),仏教,西暦 778

     チャンディ・カラサンの東北800mに位置し同チャンディ付属の僧院であったと考えられるこのチャンディは2階建の堂々とした建物,壁面は夥しい数の女神像で飾られています。正面入口のカーラマカラは垂直の柱に楣が載った形のものですが,建物内部の仏龕にはチャンディ・ボロブドールのアーチ門に似たアーチ型カーラマカラで縁取りされていました。チャンディ・サリの建設は時期的にボロブドールより40余年古く,後者のアーチ門は此処の仏龕のカーラマカラに倣ってデザインされたと考えられるかも知れません。

     このチャンディのレプリカが1900年パリ世界博覧会の際,蘭領東インド区画の3棟のパビリオンの一つとして建設されたそうです。斯様な贅沢な出費は現在では想像すらできません。当時の東インド政府がジャワの遺跡を如何に誇りにしていたかが偲ばれます(本項 2019年10月追加)。

  

チャンディ・サリ全景。2019年6月,筆者撮影(新)。

   

1900年パリ世界博覧会の蘭領東インドの3棟のパビリオンの一つとして建設されたチャンディ・サリのレプリカ(Wikipedia)。

左側の特徴的な反った屋根を持つ建物は西スマトラ,ミナンカバウ族の Rumah gadang (Big house の意;一族郎党が共に住んだ)をモデルにしたものに相違ない。

  

 

左:チャンディ・サリ正面入口のカーラマカラ。右: 建物内部仏龕のアーチ型カーラマカラ。2019年6月,筆者撮影(新)。

 

 

チャンディ・セウ(プランバナン平野),仏教,西暦782年頃

     チャンディ・セウは,クレラク碑文(782年)に「インドラが仏,法,僧の智慧を併せ持つ文殊の像を祀る寺院の建設を命じた。」とある寺院であると見られています。建物はどれも激しく荒廃し,修復された本堂のカーラの頭は上部が欠損,幾つかの側堂に見られるカーラも同じ有様です。ここのカーラの顔は,以前のものに比して彫が深く,観察し得た側堂のものでは,顔の両脇に仙人のような僧が合掌して侍っていました。カーラ面には歯並がられるものの,下顎はありませんでした。

 

 

 

左:チャンディ・セウ寺院群中心部正面(北側),右:チャンディ・セウ本堂正面入口のカーラマカラ。2019年6月,筆者撮影(更新)。

 

 

チャンディ・セウ側堂の一つのカーラ面。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     マカラは本堂入口カーラマカラのもの,階段裾のものも共に比較的良好な保存状態にありました。ここのマカラは,カラサンのものと大同小異でしたが,開いた口の中の生物は,ライオンらしくなく胡座して臂を曲げていました。

   この寺院では,本堂本体上階外部にも幾つかのマカラが置かれていました。口には丸い孔が穿たれていて,他のチャンディにも見られるこの手のマカラは,建物の樋嘴(ひはし,排水口)を兼ねていると教えられました。

 

 

チャンディ・セウ階段側桁下部のマカラ。2015年2月,筆者撮影。

 

 

左: チャンディ・セウの本堂入口のカーラマカラのマカラ。

右: チャンディ・セウの本堂本体階上外部のマカラ。

何れも2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・ムンドゥ(クドゥ盆地),仏教,西暦782頃

     チャンディ・ムンドゥは,サイレンドラ王国が,ボロブドゥールに先立ってクドゥ盆地に建てたチャンディで,建立はチャンディ・セウと同じ頃(782年?)と見られています。四方 13.7 m の基壇の上に四方 8m の御堂が立ち,高さ40m に及ぶ風格ある寺院,両側面および背面は女神ターラに因む特大のレリーフで飾られ,堂内に釈迦三尊が納められていますが,修復以前に喪失していたためか,入口にカーラマカラはありません。

      階段裾のマカラは,チャンディ・セウのものに似ています。また基壇壁には,チャンディ・セウと同様に樋嘴(ひはし)用のマカラが配備されています。樋嘴用マカラの形状は階段裾のものに似ているように見えました。

 

 

チャンディ・ムンドゥの正面(北西面)。2009年5月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・ムンドゥ基壇壁のマカラ。2012年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・ムンドゥ階段側桁下部のマカラ。2012年2月,筆者撮影。

 

  

チャンディ・ボロブドゥール(クドゥ盆地),仏教,西暦824

     チャンディ・ボロブドゥールは,サイレンドラの絶頂期,西暦824年にサマラトゥンガ王が完成させたジャワ最大最高の寺院ですから,装飾も豊富です。四方の各階層のアーチ門,回廊内側の壁の上の仏龕,並びに地面から上に上る階段側桁のカーラ面については既に述べましたが,回廊から上に上る階段両裾には,丸坊主のカーラの頭が据えられていました。

     更に特異なのは基壇上部の外縁に置かれた三次元的なカーラの頭の彫像であって,二次元的なカーラ面では不明であった顔貌やプロファイル(横顔)の詳細が如実に表現されています。斯様な立体的カーラの頭は,私の訪ねた他の寺院では見られませんでした。このカーラの頭は樋嘴を兼ねていると思われます。

     ボロブドゥールのアーチ門のカーラ面の三角の髪は,カラサンのものより若干短い,換言すれば二等辺三角の高さが低いように見えました。

 

 

朝靄に烟るボロブドゥール全景。2007年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・ボロブドゥールの回廊から上に上る階段両裾のカーラの頭。2015年2月,筆者撮影。

 

 

左: チャンディ・ボロブドゥールのアーチ門のカーラ面。2007年2月,筆者撮影。

右: チャンディ・ボロブドゥール基壇外縁に置かれた立体的なカーラの頭の彫像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     ボロブドゥールでは,マカラが地上からの階段裾のみならず,基壇のコーナーにも単独で配置されていました。ボロブドゥールのマカラの特徴は,チャンディ・カラサンのものに似ています。

 

 

左: チャンディ・ボロブドゥールの地上から上に上る階段側桁下部のマカラ。

右: チャンディ・ボロブドゥール基壇コーナーのマカラ。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・パウォン(クドゥ盆地),仏教,9世紀前半

チャンディ・ボロブドールとチャンディ・ムンドゥの中間に位置する小型で瀟洒なチャンディで,サマラトゥンガ王(Samaratunga,812-833)の娘プラモダワルダニ王女(Pramodawardhani)がインドラ王(c.782-812 AD)を祀るために建てたとされる説が有力です。入口の楣にはボロブドール回廊の仏龕のものに似たカーラマカラが置かれています(2019年10月追記)。

   

チャンディ・パウォン前景。2019年6月,筆者撮影(新)。

 

   

チャンディ・パウォン入口楣上のカーラマカラ。2019年6月,筆者撮影(新)。

 

 

チャンディ・プラオサン(プランバナン平野),仏教,西暦820年代

     チャンディ・プラオサンはボロブドゥール建立と同時代,恐らく少し後に,サイレンドラの王女プラモダワルダニ(Pramodawardhani,即位名: Sri Kahulunan スリ・カフルナン)によってプランバナン平野に建てられた仏教寺院で,ロル(Lor),キドゥル(Kidul)の2棟からなります。ここのカーラ面は,以前の伝統的なものと異なって,髪の三角形がさらに低くなっているばかりか,口が明確に彫られ,口から舌先を覗かせているといった風で,かなり個性的です。序ながら,このチャンディは女神タラの居所として建てられ[16],1階,2階とも壁面一杯が同女神を刻んだレリーフで飾られています。

     マカラの特徴は,チャンディ・ボロブドゥールなどのものに似ています。

  

  

チャンディ・プラオサン・ロル[Lor]の全景。2008年5月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・プラオサン・ロル[Lor]のカーラの頭。2008年5月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・プラオサン・キドゥル[Kidul]階段側桁下部のマカラ。遠方にロル棟が見える。2008年5月,筆者撮影。

  

  

     キドゥル棟では,入口のほか内部の仏龕もカーラマカラで飾られていました。仏龕の中は他の多くのチャンディにおいても然りでありますが,空っぽです。その理由は,1885年に考古学的研究のために中部ジャワ各地の重要な遺物を収集するための協会がつくられ,ジョクジャカルタに集められたからでありました。[16a] チャンディ・プラオサンのものについてはジョクジャカルタ市内の知事公邸(現在名はクドゥン・アグン)に保管されていると知って訪ねましたが,残念ながら邸内は非公開であったので,ニューヨーク公立図書館のウェブページから複写した写真を掲げます(本行 2019年10月追加)。

 

 

 

左:チャンディ・プラオサン・キドゥル正面入口のカーラマカラ, 右:同チャンディ内部の一つの仏龕のアーチ型カーラマカラ(もう一つの仏龕のデザインも略々同じ)。2019年6月,筆者撮影(新)。

 

  

   

ジョクジャカルタ市内の知事公邸(現在名はクドゥン・アグン)に移されたチャンディ・プラオサンのターラ神像およびマンジュスリ神像(2棟の何れかは不明)。複写元The New York Public Library Digital Collections. https://digitalcollections.nypl.org/(新)。

   

  

チャンディ・ロロ・ジョングラン(プランバナン平野),ヒンヅー,西暦856

     チャンディ・ロロ・ジョングラン(俗称: プランバナン寺院)は,サイレンドラ王国のプラモダワルダニ王女と結婚した サンジャヤ王国のラカイ・ピカタンの御代,西暦856年にプランバナン平野のチャンディ・セウの 1㎞南に建立された寺院群で,境内を回らす外郭は辺390mに及びます。主塔であるあるチャンディ・シヴァは,辺225m の内郭の奥にあって,幅34m,高さ47mという特大のもの,然も壁面全体は繊細なレリーフで覆われ,基壇から頂上までの各層に様々の立体彫刻が飾られています。チャンディ・シヴァを取巻く大小7つのチャンディも,規模こそ異なれど,同様の豪華な外観を呈しています。

     前後に中小規模のチャンディしか建設しなかったサンジャヤ王国が,如何して斯くも立派なチャンディを造り得たか,筆者は,ラカイ・ピカタンが結婚したプラモダワルダニが相続した裕福なサイレンドラ王国の富があったればこそと考えています。

 

 

  

左:チャンディ・ロロ・ジョングラン寺院群遠望,右:チャンディ・ロロ・ジョングラン正面入口。2019年6月,筆者撮影(更新)。 

 

 

     チャンディ・シヴァのカーラマカラのカーラ面には,カラサンやボロブドゥールで見たインドのキルティムカ―を真似た伝統的なものと異なって三角の耳があり,ライオンの顔を模したものであろうと謂われています。この変貌が如何して齎されたのか,筆者なりに推測してみるに,40年前のボロブドゥール竣工の際,あるいは本寺院群建設の際に招かれたインドの僧らからライオンの絵を見せられた設計者または彫刻家が,架空の怪物よりも具体的な百獣の王であるライオンの方が,寺院の守護に相応しいと考えたのかも知れません。

     このタイプのカーラは主塔チャンディ・シヴァのカーラマカラのみならず,上屋のアプサラ・トリオ(ニンフ3人組)ならびにローカパーラ(八方位の守護)の龕にも,また主塔を取巻く他のチャンディにも共通して見られました。

 

 

左:チャンディ・シヴァ正面,入口楣のカーラ。

右:チャンディ・ナンディ,正面,入口楣のカーラ。何れも2015年2月,筆者撮影。

 

 

左:チャンディ・シヴァ,アプラサ・トリオの龕。2012年2月,筆者撮影。

右: ロカパーラの龕のカーラ。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     斯かる面相は最早カーラというより,獅子の面とでも呼称するべきかも知れませんが,便宜上カーラの語も使い続けることにします。

   階段側桁裾のマカラは,従来の大きく開けた口の上顎から棒状のものが垂れ,下顎のライオンの頭部に届いている典型的なものでした。然し上屋の樋嘴を兼ねたマカラには丸で異なったデザインのものが,少なくとも2種類みられました。

 

 

チャンディ・シヴァ階段側桁下部のマカラ。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・シヴァ上階の樋嘴用カーラ。左:2007年2月,右:2015年2月,筆者撮影。

 

 

     中部ジャワにおける寺院建造は,チャンディ・ロロ・ジョングランを絶頂として,以後,建てられたのは小規模のものばかりですが,その中から比較的保存状態のよいチャンディ・バロンを見てみましょう。

 

 

チャンディ・バロン(プランバナン平野南部),ヒンヅー,9世紀後半

   チャンディ・バロンはプランバナン平野南部に遺るヒンヅー寺院で9世紀の恐らく後半に建てられたとみられています。先ず本堂側壁の神像を祀る龕のカーラの頭を見てみると面相はチャンディ・ロロ・ジョングランの獅子面を踏襲したものと思われますが,顔には大きな口があって,歯並,更には小さな牙がありました。本堂入口のカーラもこれに肖似し,歯並が明確に見えました。この寺院には前門があって,楣のカーラは,よりチャンディ・ロロ・ジョングランのものに近い印象でしたが,耳の輪郭は不明確でした。

     カーラマカラのマカラは,本堂入口,側面の龕,前門の何れにおいても簡単な作りで,マカラの正面の側には何の彫刻もなく,平らなままでした。

 

 

チャンディ・バロン全景。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・バロン本堂側面のカーラマカラ上部(左)および下部(右)。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・バロン前門のカーラマカラ上部(左)および下部(右)。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     なお,本堂側面のカーラマカラの下には,恰も天井を持上げているような人形(ひとがた)が見られますが,これについては次節「アトラス」で述べることにします。

     中部ジャワの古代王国の歴史は,西暦929年,ムプ・シンドクの東ジャワへの遷都によって終止符を打ちました。彼が開いたイシャナ王国の残影はありません。次にアイルランガ王が興したクディリ王国は経済的に繁栄して芸術文化の面で多大の遺産を生みはしましたが,宗教施設の建設には熱心ではなかったようで,パスルアン郊外に荒廃した姿で遺るテラコッタ製のチャンディ・グヌン・ガンシル(Candi Gunung Gangsi),ならびにガルーダに跨乗したアイルランガ像が発見されたことで知られるチャンディ・ブラハン(Candi Belahan,実体的には水浴場)のほかには,目星い遺跡は見られません。寺院建築が本格的に復活するのは,1222年にケン・アロックが現在のマラン周辺に建てたシンガサーリ王国の時代でありました。

     但しムプ・シンドクの東遷の凡そ200年前,カンジュルハン王国の時代の西暦760年に建立されたチャンディ・バドゥー(Candi Badhut)がマランに残っています。8-9世紀のジャワにサンジャヤ,サイレンドラの2つの王朝が存在したとするドゥ・カスパリス博士(Dr. De Casparis)の「2王朝説」は,今日では広く認められ,両者が渾然一体であったとする「単一王朝説」を信ずるひとは今日では流石に少数派ですが,「カンジュルハンなる第三の王朝の存在も考慮されねばなりますまい。」[17]との意見は傾聴に値すると思います。

 

 

チャンディ・バドゥー(マラン),ヒンヅー,西暦760

     チャンディ・バドゥー(Badhut)は,小振りながら瀟洒な外観を呈し,正面入口には中部ジャワの初期のチャンディにあったのに似た典型的なカーラマカラが見られます。カーラ面の特徴も,頭部が欠けているものの,古代中部ジャワのものに酷似しています。カンジュルハン王国の開祖であり,このチャンディの創建者であったガジャヤナ(Gajayana,別名 リムワ Limwa)は,ケリン王国の始祖カルティケヤシンガ王とシマの女王の曾孫に当りますから(筆者作成の「古代ジャワにおける王統の系譜」参照),前述したように,100年前に曾祖父,曾祖母の時代に創建されたと考えられるディエン高原・チャンディ・アルジュナ他のチャンディのデザインを,ガジャヤナが踏襲したとみて,不思議はありますまい。

 

 

チャンディ・バドゥー全景。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・バドゥー正面入口のカーラマカラ(左)および側面の龕のカーラ面(右)。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・キダル(マラン東郊),ヒンヅー,西暦1248

     シンガサーリ王国が建て今に遺る最初の寺院は,第2代アヌサパティ王を祀ったチャンディ・キダル(ヒンヅー,1248年建立)でありますが,中部ジャワ・サンジャヤ王国末期から250年を経て,正面のデザインは著しく変容していました。正面入口の楣にカーラ面はあるものの,柱の下部にマカラはなく,所謂カーラマカラと呼べるものではありませんでした。

     カーラ面自体はチャンディ・ロロ・ジョングラン以来の耳のある獅子面でありますが,目は所謂“出目”であって,頬骨も前に突出し,口には上下に4本の牙が描かれています。

     地面からの階段の両裾にはマカラがありましたが,前に見たような口の中のライオン似の生き物は省かれていました。

 

 

チャンディ・キダル前景(左)およびカーラ面(右)。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・キダル階段裾のマカラ。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     因みにチャンディ・キダルに祀られたアヌサパティは,ケン・デデスがケン・アロックの妃となる前に宿していた前夫トゥンガル・アメトゥンの忘れ形見で,アロックを暗殺して王位に就いた人物でありました(在位1227-1248)。

 

 

チャンディ・ジャゴ(マラン東郊),ヒンヅー・仏教・密教混淆,西暦1280

     チャンディ・ジャゴは,第4代ウィスヌワルダーナ王の廟として,1268-1280 AD に建てられたとされますが,1343 AD にタントラ風に改築が行われたと見られています。荒廃の程度が激しく修復が困難で3階以上は壊れたままの無残な姿,基壇や壁の全面全面を覆うレリーフは見事というほかありませんが,著しく風化しています。

     境内の地面には幾つかの彫刻が置かれ,その中の3個のカーラ面は幅と高さが50-60cm もあって,チャンディが大規模なものであったことを窺わせます。  カーラの顔貌はチャンディ・キダルのものに似ていました。マカラは,ここでも見当りませんでした。

 

 

チャンディ・ジャゴ全景。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・ジャゴのカーラ面。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・シンゴサーリ(マラン北郊),ヒンヅー・仏教・タントラ混淆,西暦 1229

     チャンディ・シンゴサーリは第5代クルタネガラ王の時代に建てられましたが,ジャヤ・カトゥワンの謀反による王の崩御(1292 AD)のため未完成に終ったと謂われ,正面のカーラ面も,2階のものは彫刻が仕上っているのに反し,1階のものは荒削りのままでした。壁面も階段も石材を積んだ儘で,彫刻は皆無です。

     境内には女神像など何点かの遺物が並べられていましたが,マカラらしきものは見られませんでした。カーラの面はかなり変化して,大きな口髭が下に垂れていました。

     チャンディ・シンゴサーリは,周辺に仏教徒であったケン・アロックの妻をモデルとしたと伝わる有名なプラジュナパラミタ(般若波羅蜜多)像が出土したチャンディ・プトゥリなど,仏教およびタントラに纏わる建物があって,一大寺院群を構成していましたが,今に遺るは,本チャンディのみです。管理人氏によれば,チャンディ・プトゥリのあった場所は‘イスラム教’のモスクのために使われているそうです

 

 

チャンディ・シンゴサーリ全景。正面は画面右側。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・シンゴサーリのカーラ面。左が1階,右が2階のもの。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・シンゴサーリ境内に置かれた様々の彫刻物。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     東ジャワの王国の中心は,西暦1293年,ラデン・ウィジャヤによるマジャパヒト王国の建国によって,ブランタス川中流,現在のトゥロウランに移りました。マジャパヒト時代,人々は既に高い窯業技術を持っていましたから,市域内の建造物にも,大貯水池の内張りにも正確な寸法の美しい赤煉瓦が使われていました。

 

 

チャンディ・バジャン・ラトゥ (マジャパヒト),14世紀

     トゥロウランで筆者が唯一カーラ面を目にしたのは,チャンディ・バジャン・ラトゥと呼ばれる建物ですが,これは別名のガプラ・バジャン・ラトゥがバジャン・ラトゥ門を意味するように,寺院ではありません。入口楣のカーラ面はシンガサーリ時代のものに似た獅子面でした。

     市域内には他にチャンディ・ブラフ,チャンディ・ティクスと呼ばれる建物がありましたが,前者は恐らく王族の人のための納骨堂,後者は水浴のためのプールと見做されています。斯様にマジャパヒトの市内には寺院はなく,重要な宗教的儀式は70km南のパナタランで行われたのかも知れません。

 

 

トゥロウラン市街,旧マジャパヒトの都に遺るか赤レンガ建ての門,チャンディ・パジャン・タトゥ(Candi Pajang Tatu,左)と楣に掲げられたカーラ面(右)。2006年9月,筆者撮影。

 

 

トゥロウラン市街,旧マジャパヒトの都のチャンディ・ブラフ(Candi Brahu,左)とチャン・ティクス,Candi Tikus,右)。2006年9月,筆者撮影。

 

 

パナタラン寺院群(ブリタール北,パナタラン),ヒンヅー・仏教・タントラ混淆,14世紀

     王国の発展期,第3代トゥリブワナ・トゥンガデウィ女王(有名なハヤム・ウルクの母,在位1328-1351)の御代に建立されたチャンディ・パナタランは,流石にチャンディ・ネガラ(国家の寺院) と謂われるだけあって,1.5ヘクタールもあろうかという広大な寺域に数多の建物がありますが,本堂は3層の基壇を遺すのみです。この時代にはヒンヅー教,仏教,更にはタントラをも包含する異なった宗教の混淆が進んでいましたから,別の節で述べるように,境内には本来仏教に因むドゥワラパーラ像(ラクササを模った門衛の像)が多数置かれていました。

     筆者が見回った限り,カーラ面の見られたのは塔の形を留めるチャンディ・アンカ・タフン(Candi Angka Tahun,年号寺院の意)のみでした。この建物が斯く呼ばれる所以は,入口の楣にジャワ文字でサカ歴1291年(1369 AD)を示す文字の浮彫があるためであって,一般には英語のデイテッド・テンプル(Dated temple)で知られていますが,日付まで書かれている訳ではありません。

     カーラ面は,シンガサーリ時代のチャンディ・キダルやチャンディ・ジャゴのものに似た獅子面でした。マカラは,このチャンディの入口の柱の下にも,地面からの階段下にも, また境内の何処にも見当りませんでした。

 

 

パナタラン寺院群内,デイテッド・テンプルのカーラ面。下の入口梁にサカ歴1291年(1369 AD)を示す文字の浮彫がある。2015年2月,筆者撮影。

 

 

チャンディ・スク―(ラウ山西麓),ヒンヅー教,西暦1437

     1400年代になるとマジャパヒト王国は跡目相続を巡る内紛によって弱体化,このことはジャワ海に面した港湾都市のイスラム教徒による制圧を許す原因ともなって,イスラム化の波は内陸にも及んでいました。チャンディ・スク―は現在の中部ジャワと東ジャワの州境にあるラウ山の西側の中腹,海抜900mの辺鄙な場所に立地していますが,その理由はイスラム教徒に追われてのことであったかも知れません。

     このチャンディには境内にエロティックなものを含む様々な彫刻が置かれていますが,特徴と申せば本堂建物がマヤのピラミッドを想起させる形状であることでしょう。[18] 手前の参道の先には石積の立派な山門があって,楣の下部にカーラの面が掲げられていました。カーラ面と申しましたが,実体的にはマラン郊外のチャンディやパナタランで見た「獅子面」,頭部にはユニークな冠を冠っていました。

 

 

左: チャンディ・スク―の山門。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gate_with_Kala,_Candi_Sukuh_1223.jpg より複写。

右: 山門のカーラ面。2006年9月,筆者撮影。

 

 

     以上の記述から,要点を纏めてみましょう。

(i) 中部ジャワにおける寺院の歴史は,7世紀半ば,あるいは8世紀前半にディエン高原に建立されたヒンヅー教のチャンディに始る。

(ii) チャンディには,入口の監視として,インド・ヒンヅー神話に由来する怪物の頭を模ったキルティムカ―が採用された。キルティムカ―のジャワにおける呼名はクパラ・カーラ(カーラの頭)。

(iii) カーラ面は,以降,ヒンヅー寺院のみならず,9-10世紀にサイレンドラ王国が建てた仏教寺院にも採用された。

(iv) カーラ面は,9世紀半ば,サンジャヤ王国後期に建てられたチャンディ・ロロ・ジョングラン以降,ライオンの顔を模った獅子面に変貌し,獅子面は,13世紀以降の東ジャワのチャンディにも継承された。

(v) カーラ面は,多くの場合,同時期に同様に伝わった神話の海獣マカラ(およびナガ)と結合されたジャワ独特のカーラマカラ・モチーフの形で,チャンディの入口や門に適用されたが,東ジャワではカーラマカラからマカラが省かれた。

(vi) マカラは,地面から建物に上るの階段の側桁下端に,また樋嘴を兼ねて建物上階にも置かれた。

(vii) マカラは東ジャワでは殆んど姿を消した。東ジャワの寺院で唯一マカラを見たのは,シンガサーリ王国初期のチャンディ・キダルの階段裾であったが,マカラの開けた口にはライオン似の生き物がなかった。

 

 

(5) パナタラン博物館収蔵の彫像

現在のブリタル市の周辺には,チャンディ・パナタラン・コンプレックスは別格として,嘗ては「ジャワ探究」で触れたチャンディ・サウェンタルを含めて数多の小規模の寺院跡がありました。ブリタル市内のパナタラン博物館の歴史は1866年に知事公舎に地域から出土した文化遺物が集めらたのに始まったそうで,300点に近い収蔵品には,三面シヴァ,ドゥルガ,ガネシャなどの神像,ドゥワラパーラ像(執金剛神像)などに加えて,マカラなどの彫物がありました。

 

 

ブリタル市,パナタラン博物館収蔵の神像(例)。左から,シヴァ(三面),ドゥルガ,ガネシャ。2015年2月,筆者撮影。

 

 

 

ブリタル市,パナタラン博物館収蔵品のうち,マカラ像(左上,右上,左下),および人間っぽい生き物が矮人などを抱えている像。2015年2月,筆者撮影。

 

 

     この博物館で見た数多のマカラは全て下部に孔のある樋嘴用のもの,中部ジャワで繁く見られたものと異なって,頭上に象のもののような鼻はないように見えました。また,海獣をイメージしたマカラというより,何となく人間らしくもみえる生き物が矮人を前に置いているような樋嘴も2,3点ありました。

     シンガサーリ以来の東ジャワのチャンディでマカラが省かれたことは古くから認められ,筆者の知る限りシンガサーリ初期のチャンディ・キダルの階段裾のものが唯一の例外ですが,何故ブリタールの辺りにマカラあったのでしょう。

     博物館を訪れたときには見逃したのですが,インターネット上でカーラ面を見つけ,それが存在した事実よりも,そのデザインに驚きました。このカーラ面は,ロロ・ジョングラン寺院群以来の耳のある獅子面ではなく,中部ジャワ初期の,然も最初のディエン高原チャンディ・アルジュナのものを彷彿とさせます。

 

 

ブリタル市,パナタラン博物館収蔵のカーラ面。

http://www.bocahblitar.com/2013/12/museum-penataran.html より,許可を得て複写。

 

 

     筆者の臆説ではありますが,ブリタル周辺にはシンガサーリ以前の昔にチャンディが存在したのではなかろうかと想像されます。西暦743年にガジャヤナが創建し,都がチャンディ・バドゥーの遺る現マランに都があったカンジュルハン王国の領土は,現クディリを含む東ジャワ西部から南部に掛けて広がっていたと考えられ[19],また,8世紀半ばサンジャヤ王の東征の際に屈服した諸王の中にブリタルの王イソラ(Isora)が含まれていたとの記述が史書チャリタ・パラヒアンガン[20] にあります。カンジュルハン,ガジャヤナは新唐書にある婆露伽斯(Palukasi),吉延(Ki-yen)に当ると解釈され,イソラ王の王国は,吉延の支配下にあったと書かれている28の王国[21] の一つであったのかも知れません。(この博物館で見たドゥワラパーラ像(執金剛神像)については別の項に記します。)

 

 

(6) 近現代宮殿などのカーラ面

15世紀後半のイスラム国ドゥマックの建国(Demak,1473 AD),それに伴うマジャパヒト王国の終焉によってジャワはイスラム一色となりましたが,1世紀後に成立して今に続く新マタラム王国ではジャワ本来の伝統が見直され,その証拠にスラカルタ(ソロ)およびジョクジャカルタの王宮にはヒンヅー由来のカーラ面や仏教由来の執金剛神像などが随所に配置されています。ここでは,観察の記述を省いて,画像のみを御覧に入れますが,デザインは様々です。

 

 

左: ジョクジャカルタ,タマン・サリ離宮(廃墟)のプールのある内庭に面した建物のカーラ面。2007年2月,筆者撮影。

中:ジョクジャカルタ王宮内,壁のない大ホールフェンスのカーラ面。2010年6月筆者撮影。

右: ジョクジャカルタ王宮外面破風のカーラ面。2015年2月筆者撮影。

 

 

左:ソロ市内,スリウェダリ恩賜公園内,ワヤン劇場垂幕のカーラ面。2009年5月筆者撮影。

右:同公園入口ゲート上のカーラ面。2015年2月筆者撮影。

 

 

(7) カーラの頭を背に持つガネシャ像

     チャンディに飾られたものでなく,カーラの頭がガネシャの背面に彫られた珍しい像が,ブリタール郊外トゥリスクリヨ村(Tuliskriyo),にあると知って[22]訪れてみました。“Ganesha Boro“と書かれた看板の脇を入ると住宅地の中に5メートル四方ほどの区画あり,掛けられた屋根の下に背丈約1.5 m のガネシャ像がありました。象の姿のガネシャはシヴァ神と妻パルワティの息子で,全ゆる困難と危険を排除する神,ここでは4つの手に折れた牙,頭骸骨の碗,手斧,蝿を追う箒を持っていました。底部には5つの髑髏が彫られていました。背後に回ってみると,成程,立派なカーラの面がありました。面相はチャンディ・ロロ・ジョングラン以後のライオンを模したものと見ましたが,台座に刻まれた文字はサカ暦1161年,西暦1239年を表すそうですから,シンガサーリ王国アヌサパティ王の時代製作の獅子面であることが納得されます。背面の獅子面から下は,ガネシャの背中であって,カーラに体がある訳ではなさそうです。 カーラ面は背後から襲うかも知れない敵からガネシャを護るためのものでありましょうが,斯様な例は他にはないようです。

     このガネシャ像は,元は近くを流れるブランタス川対岸のジンベ(Jimbe)にあって,幾十年か前にここに移されたと管理人の御婦人から伺いました。また,ガネシャの傍らに小さな彫像があったが十数年前に盗難に遭ったそうで,コンクリートの台座だけが寂しく残っていました。

 

 

ブリタール郊外にあるガネシャ・ボロ。左:前面,右:背面。2015年2月,筆者撮影。

 

 

(8) 日本の鬼瓦

奈良の東大寺(733年創建)を訪れたときに撮った写真の束を見返しているとき,その中の1枚に,大仏殿東北隅の多聞天像の背後にパネルもなく無造作に置かれた高さ60cmもあろうかという巨大な鬼瓦の顔貌が,何となくジャワで見たキルティムカ―(カーラ面)に似ている,其処此処の寺院や民家にあるような大きな角のある鬼とは全く異なったデザインのものであることに目を瞠りました。

     東大寺を再訪して,御朱印所で墨書を担当している方に聞いたところ,切符売り場兼案内所に詰めている僧侶に訊ねよとのこと,早速そこに赴くと応対して下さったお坊さんは「嘗て大仏殿後側に存在した講堂の跡から出土したものの模造品である」と説明し,由緒を訪ねる筆者を図書館に案内して下さいましたが,そこに所蔵の書籍,文書には然るべきものが見当りませんでした。御示唆を頂いて実物のある東大寺ミュージアムに赴いたところ,実物は残念乍ら非公開でありましたが,そこで拝見した冊子「東大寺の至宝」の画像には,成程これが本物かと肯かせる写真がありました。

 

 

東大寺講堂跡から出土した鬼瓦左:模造品(大仏殿東北隅多聞天後側に所在)。2014年10月,筆者撮影。

右:実物,東武美術館「東大寺の至宝」,朝日新聞社 1999 より複写。

 

 

     学芸員の若いお嬢さんから「大仏殿(758年竣工)は過去に2度焼失,現在のものは江戸時代(元禄4年,1691 AD)建立のもので,鬼瓦もその時代のデザインのものだが,境内西の轉害門には古いものが遺っている」と伺って,早速そこに行ってみました。轉害門は脇が狭隘で視角が限られましたが,そこの鬼瓦は少なくとも後世のものとは異なったものでした。広大な東大寺の境内,大仏殿を挟んで反対側(東側)の坂上を散策中,三月堂(法華堂)の鬼瓦に,大きさこそ小さいが講堂跡出土のものに類似の鬼瓦を見付けました。更にその隣,お水取りで名高い二月堂の前の小屋,恐らく元は倉庫であった建物にも同様のものがあって,詳しく観察することができました。これら周辺の建物は2度の大火を免れたに相違ありません。

 

 

轉害門                                     三月堂

二月堂前の小屋                        大仏殿(現在)

東大寺の鬼瓦。

2014年11月,筆者撮影。

 

 

     これに類するデザインの鬼瓦は,後に奈良,京都を訪れたとき,岩船寺(729 または 749年創建)の鐘楼および唐招提寺(759年創建)金堂の降棟にも見られました。

 

 

左: 唐招提寺金堂降棟の鬼瓦。2015年9月,筆者撮影。

右: 岩船寺鐘楼の鬼瓦。2015年9月,筆者撮影。

 

 

     然らば東大寺より古い寺院の鬼瓦は如何。文献に,法隆寺南大門東側,嘗て存在した若草伽藍の跡から出土した蓮華文の瓦が1998年(平成10年)建立の大藏寶院に再現されているとあったので法隆寺を再訪したところ,蓮華文9個をあしらった真新しい,珍しい瓦が紺碧の空を背景に輝いていました。

 

 

法隆寺大藏寶院の鬼瓦。2014年11月,筆者撮影。

 

 

     文献[23]には,類似の蓮華文は百済の扶余扶蘇山廃寺出土の石製鬼瓦にもあって,若草伽藍のものとの間には直接的な関連が伺われる,百済文化の系譜下にあったのは間違いないともありました。然るに筆者の見たところ,扶余扶蘇山廃寺のものでは蓮華の花弁が6枚で,複数の蓮華が六方格子上に密に配置されているのに対し,若草伽藍のものでは花弁は8枚,蓮華は正方格子点に距離を隔てて配置されています。

 

 

左: 法隆寺若草伽藍出土鬼瓦断片と輪郭(線図は再描画)。山本忠尚,「日本の美術 第391号:鬼瓦」,至文堂 1998 より複写。

右: 百済扶蘇山廃寺出土鬼瓦。千田剛道,「法隆寺若草伽藍出土の 鬼瓦と百済」,奈良文化財研究所研究報告 2002。

 

 

     蓮華文鬼瓦には,蓮華を単に1個のみ中央にあしらったものもありました。

 

 

左:蓮華文鬼瓦,奈良県奈良市山町山村廃寺跡出土,7世紀。東京国立博物館 J-35460

右:蓮華文鬼瓦,奈良県明日香村奥山久米寺跡出土,7世紀。東京国立博物館 J-24248_1

何れも同博物館にて筆者撮影,2017年11月。

 

     東京国立博物館平成館には,横から見た蓮の花をデザインした方形のユニークな瓦,滋賀県大津市の南滋賀廃寺跡出土した飛鳥時代(7世紀)の蓮華文方形軒瓦が展示されていました。同種の瓦は大津市歴史博物館のホームページの当該箇所にもありました。

 

 

蓮華文方形軒瓦。滋賀県大津市南滋賀町南滋賀廃寺跡出土,飛鳥時代,7世紀.

左:東京国立博物館蔵(肥後和男氏寄贈),同博物館平成館にて筆者撮影,2017年11月。

右:大津市歴史博物館 HP より複写,http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/1705.html。

 

 

     東大寺がキルティムカ―に似た鬼瓦の権與であるとすれば,それは何故か。解答へのヒントは後日古書市場で入手した「東大寺の至宝」で得られたかと思います。「創建期の鬼瓦」の幾ページか後の「絹本着色・四聖御影」で大仏開眼の導師が菩提遷那であったと知り,別の文献をも調べて,彼が南天竺出身であったことを確認(来日736年,天平8年),東大寺建立の時,彼が母国のキルティムカ―を描いて,それを棟端瓦に採用するよう進言した姿を目に浮べました。

 

 

左:四聖御影。左より良辨,聖武天皇,菩提遷那,行基。東武美術館「東大寺の至宝」,朝日新聞社 1999 より複写。

右:菩提僊那像,三輪途道女史製作 2002, http://michiyo-miwa.jimdo.com/。作者の諒承を得て複写。

 

 

     東大寺オリジナルのものに似た鬼瓦は,畿内の寺院のほか,日本国内津々浦々の国分寺跡で出土しているそうです。筆者が山梨県立博物館で見せて貰った甲斐国分寺跡出土の鬼瓦もその類ですが,目が真丸でなく目尻が吊上がった風にみえました。

 

 

左:鬼面紋鬼瓦,大安寺出土,8世紀中頃。

中:鬼面紋鬼瓦,法隆寺西院伽藍出土,8世紀中頃。

右:鬼面紋鬼瓦,平安宮大極殿出土,9世紀中頃。

何れも,山本忠尚『日本の美術:No.391-鬼瓦』より複写。

 

 

左:鬼面文鬼瓦,甲斐国分寺跡出土,8世紀。山梨県立博物館提供,2015年5月。

中:鬼面文鬼瓦,下野国分寺跡出土,8世紀。東京国立博物館 J-35013。

右:愛知県愛西市淵高廃寺出土,8世紀。東京国立博物館 J-25364_445。

東京国立博物館所蔵の2点は trim.jp より複写。

 

 

     「日本の美術 第391号:鬼瓦」[24]には,平城京(710年,和銅3年に藤原京から遷都)跡から出土した「鬼獣身紋鬼瓦」の例が示され,東大寺型鬼面瓦に先行したように記述されていますが,平城宮は平安京に都が遷るまでの80余年の間に幾度か改築されたといいますから,素人の推量ながら,創建時のものであったか否か即断し難く思われます。同書には鳳凰をあしらった鬼瓦などの変種も載せられていました。

 

 

左:獣身紋鬼瓦,薬師寺跡出土,8世紀初め。

右:鳳凰紋鬼瓦,平城宮跡出土,8世紀中頃。

何れも,山本忠尚『日本の美術:No.391-鬼瓦』より複写。

 

 

     鬼瓦のデザインが変化する中,現代に続く二本角の鬼を象ったものが現れたのは室町時代中期(15世紀)であるといいます。成程,現在の大仏殿は江戸時代の初頭,元禄時代に再建されたものであって,鬼瓦の鬼は顔貌も異なって,短め2本の角を具えています。法隆寺の南大門の鬼瓦の鬼には立派な2本の角がありました。創建時の門は永享7年(1435年)に焼失したそうですから,現在の鬼瓦は後世の門が再建された頃のものに相違ありません。文献に載っている写真に照らして,室町中期のものと推定されます。境内の大藏寶院以外の建物の鬼瓦も殆どは二本角の鬼をデザインしたものでした。

 

 

法隆寺南大門鬼瓦。左:西側西,彌毗:東側。

2014年11月,筆者撮影。

 

 

     「日本の美術 第391号:鬼瓦」の中の「手塚治虫の名作『火の鳥』と鬼瓦」と題するコラムは,筆者に40代にして世を去った親友を想い起させました。当時の筆者は,物語は文字で読む,或いは声で聽くものとの観念に囚われ,該博な彼の説くコミックスの面白さを理解できないでいましたが,四半世紀を経て『火の鳥・鳳凰篇』の復刻版を求めるや否や,手塚治虫の世界に没入させられました。その中では,大仏殿に採用された鬼瓦の製作者は茜丸なる彫師となっていますが,史実は筆者には不明です。鬼瓦のデザインは東大寺講堂跡出土のものに類似,そのアイデアは茜丸が文殊菩薩に祈って授かったことになっていました。

 

 

手塚治虫『火の鳥・鳳凰篇』の中で茜丸が制作した鬼瓦(部分)。手塚治虫,「火の鳥・鳳凰篇(復刻版)」,朝日新聞社 2002 より部分を複写。

 

 

     この書を手にして,漫画と雖も質は作者によりけりであることを改めて悟らせられ,偶々子供の頃に読んだ手塚画伯の初期の作『ファウスト』を思い出して,復刻版を入手しました。

 

 

(9) 日本の鴟尾,鯱,摩伽羅

マカラをジャワで観てその由来を識ったとき,日本の城の棟上に象徴的に置かれた鯱瓦を連想しました。火除けの意の込められた鯱瓦は,水の女神ガンガ・マあるいは海神ヴァルナ(Varuna)の乗物であった水棲動物マカラに因むに相違ないと。

 

鴟尾

     飛鳥時代(西暦592-710)に寺院の棟端飾りとして唐から導入されたものに鴟尾(しび。鴟尾とも綴る),或いはその形状から沓型と呼ばれるものがありました。最も有名なのは唐招提寺金堂(759年)のもので,最近まで創建時のものが西側に,江戸時代作のものが東側に存在した由ですが,2012年に国宝に指定され,現在は新宝殿に移されています。鴟尾は唐招提寺より古い東大寺(733年)にもあったことが出土品から確認され,現在は金ぴかの模造品が大仏殿の棟上に輝いています。平城宮跡に平城遷都1300年に合せて平成22年4月に復元された大極殿の鴟尾は唐招提寺のものなどを参考にして作られたそうです。鴟尾は,以降奈良・平安時代の多くの寺院や宮殿などに飾られました。

     鴟尾または鵄尾の語意は,申すまでもなく,「とび(鳶)の尾」でありますが,鴟尾には辟邪・火伏せの意味があって,マカラに由来するとの説があるそうです[25]

 

 

唐招提寺金堂の鴟尾(レプリカ)。2015年9月,筆者撮影。

西側(左側)にあった創建時のもの,および東側(右側)にあった江戸期作のものの真品は,新宝殿に保管されている。

 

 

東大寺大仏殿の鴟尾(模造)。2015年9月,筆者撮影。

 

    

     東京国立博物館平成館で撮影した大阪府柏原市鳥坂寺(高井田廃寺)跡出土の鴟尾を追加します。同寺は所謂「河内六寺」の一つで,天平勝宝(756)八歳二月に孝謙天皇が行幸遊ばされたとの記録があります。この鴟尾は底面幅約46 cm, 長さ約90 cm,高さ約135 cmという巨大なもので,全体が修復の際に張られた金箔で覆われています。側面のデザインは東大寺および唐招提寺のものに似て,先端の面には二輪の菊の文様があしらはれていました。

 

 

鳥坂寺(高井田廃寺)跡出土の鴟尾。2017年11月,筆者撮影。

 

 

城の鯱

     鯱に戻って,筆者にとって懐かしいのは「尾張名古屋は城で持つ。」と謂われた名古屋城の金鯱,幼少の頃に偶々御城下近くに住んでいましたから,何時も御城を仰いでいました。この城が建てられたのは慶長17年(1612),加藤清正の設計施工によってでありましたが,尾張徳川家第19代当主であられた義親侯爵の随筆集『きのふの夢』[26]によれば,金無垢の鯱は後に徳川家によって取替えられたもので,左右一対を作るのに黄金1940枚,小判にして17,975兩を要したそうです。同書には金が72貰119匁2分6厘7毛(270.447 kg),銀13貫441匁6分3厘2毛(50.406 kg)と見積もって昭和期の金銀相場に照らした合計961,894円との試算がありますが,仮に現在の金銀の価格を,それぞれ4,840円,66円とすると,合計は13億1198万7840円(1両=78,862円)に上ります。

      尾張藩の表石高は61万9500石でありましたが,木曽の山林などからの上りを加えて実質には90万石以上はあったそうです。1石には1両の貨幣価値がありましたから,藩の財政規模は90万両以上,金鯱に費やされた1.8万両足らずは大した負担でなかったかも知れませんが,この鯱が他の城の鯱と比べて高価なものであったことには間違いありません。

      藩は享保11年(1726)の財政逼迫の折に修繕の名目で金無垢から金張りに,更に100年後の文政9年(1826)に薄い金張りに変えて金を回収したが,流石にこれでは痛みが激しいので弘化3年(1846)に厚目に戻した,この時に使われた金の量は20貫531匁(76.99 kg)であったと書かれています。『きのふの夢』は,今では稀覯本でありますが,上述のエピソードの他に柿木金助なる大盗が紙鳶(たこ)で天守の屋根に上って鱗を2枚剥し盗った伝説など,面白い話が筆者特有の機知に溢れたユーモラスな筆致で書かれています。

     名古屋城の鯱は,それに込められた火除けの願いも空しく,戦時中1945年5月14日の空襲でお城本体とともに消失,1959年に鉄筋コンクリートで再建された城に復元された現在の鯱には左右合計88㎏の金が使われているそうです。

     鯱を最初に城に載せたのは織田信長で,彼が1579年に建てた安土城に於いてあったと見られています[27], [28]。平成に入って始められた安土城址調査整備事業で発見された破片に基づいて復元された鯱を見ると,金が張られたのは目玉,口の回り,それと鰭と尾の部分であって,その後,金ぴか趣味の秀吉が作ってから一般化した総金張りの鯱と異って,如何にも美意識の高かった信長らしい洒落たデザインのように筆者の眼には映ります。

 

 

左: 御天守生地口寸尺図面。名古屋城管理事務所蔵。

http://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/special/past/tenji080906.html

右:復元された安土城の鯱瓦。木戸雅寿,「天下布武の城・安土城」,新泉社 2004 より複写。

 

 

厨子または須弥壇の鯱

     鯱は室町時代に現れ,鴟尾に取って替って寺院や宮殿の棟端に置かれるよになったといいますが,その時代の建物で鯱を戴くものは現存しないようです。然し鯱の付いた厨子は幾つかあって,最も古いもののひとつが信州青木村の天台宗・一乗山大法寺観音堂内に存在すると知って訪ねてきました。上田市西郊の山裾に立地する同寺は大宝年間(701-704年)に創建されたと伝わる古刹,石段を上った先に本堂,更に先の斜面に観音堂,三重塔がありました。御住職の特別の計らいで拝見した観音堂内の厨子は南北朝時代(1336-1392年)にこの地を支配した北条氏によって寄進された高さ9尺に及ぶ大型のもの,入母屋造りの屋根を持つ姿は純粋な禅様式を著しているそうです。棟両端に一対の木彫の鯱あり,向って右のものは牙があって雄,左のものにはそれがなくて雌であると教りました。鯱は海に棲む空想の海魚であって,水を吹くことから火除の意味を表わしていると伺いました。正にヒンヅー神話のマカラに他なりますまい。建物の中とは申せ保存状態は極めて良好で彫には生命観がありました。

 

 

 

上: 一乗山大法寺観音堂の厨子。

下: 厨子の屋根棟上の左右の鯱。

画像は何れも本稿のために特別に撮影されたものであって,大法寺に帰属する(2015年9月)。

 

 

     厨子に鯱のあるお寺として訪ねた二つ目は,山梨県勝沼にある柏尾山大善寺,御住職自ら案内して下さいました。このお寺には,古く養老2年(AD718)に行基が日川渓谷岩上で霊夢に片手に葡萄を持つ薬師如来を見て,像を刻んで安置したのが起源との伝承があるそうです。柏尾山山麓斜面に立つ現在の薬師堂(本堂)は建武元年(1355年)武田氏によって寄進されたもので,薬師如来を祀る厨子は高さ3.5メートルもあろうかという堂々たるもの,脇には慶派の仏師蓮慶の作になる十二神像および日光菩薩,月光菩薩の像が侍っていました。鯱は入母屋の組み合わされた屋根の奥側の棟上両端にありました。彫刻は写実的な大法寺の立体的写実的なものと異って,平板から削り出したもののようで,輪郭は単純化,デフォルメされたものでした。大法寺のもののように雌雄の別はないようでした。向って右側のものは尾鰭がありませんが,何時かの修理の折に損なわれたと伺いました。

 

 

 

上: 柏尾山大善寺藥師堂の厨子。

下: 厨子の屋根棟上の左右の鯱。

画像は何れも本稿のために特別に撮影されたものであって,大善寺に帰属する(2015年10月)。

 

 

     お寺の山門には,仁王像の他に,木彫の獅子が幾つもの軒下の梁にあるのを見ました。これらについては,第3節「ドゥワラパーラまたは仁王像」および第4節「 獅子像」で述べることにします。

     大善寺は甲州葡萄発祥の場所であると謂われています。筆者はお寺の葡萄畑から採れた葡萄から,お寺のワイナリーで造られたワインを1瓶お土産に求めて帰りました。

   更に1ヶ寺,群馬県中之条町四万の日向見薬師堂を訪ねました。御堂の開帳は年に一度だけ灌仏会(釈迦誕生日4月8日)の日に限られる決りがあって,厨子の拝観は叶いませんでしたが,御住職に親しく御目見得して,寺の縁起などを詳しく伺うことができました。室町時代の和洋折衷の建築様式特徴を留める御堂は慶長3年(1598年),時の領主眞田信幸の建立になるものですが,厨子自体は天文6年(1537年)に造られたものの由,頂戴した小冊子[29]には,左右に一対の鯱を持つ精密な設計図が載っていました。ここの鯱では背鰭腹鰭が上記2例に比べで際立って見えます。

 

 

左: 日向見薬師堂全景,2015年10月,筆者撮影。

右: 堂内宮殿(厨子)立面図,「中之条町歴史民俗資料館資料第二集:真田氏ゆかりの日向見薬師堂の歴史」より複写。

 

 

宮殿(厨子)立面図上部(拡大)。

 

 

     厨子棟上ではなく,それを載せる須弥壇に鯱のある珍しい例が,名古屋東郊瀬戸の山裾に臨済宗・應夢山定光寺にあります。同山は1336年(建武3年)に禅僧覺源が開山された古刹,地蔵尊を祀る茅葺きの本堂(通称無爲殿)は1534年に修理改修されたと謂いますが,1340年に建立当時の部材が多く使われていて,往古の面影を留めています[30]。鯱は須弥壇正面,高欄の架木(ほこぎ,上部水平部材)の端を咥え,平桁(中部水平部材)に載るかたちで存在,形状は写実的ではあるが平面的であって,左右略々同じに見えました。手摺と鯱は木目からみて一体的に造られたように見えました。鯱が付いた高欄があるのは恐らく日本で唯一此処だけでありましょう。

 

 

  

應夢山定光寺本堂内逗子(上)および厨子欄干の鯱(下)。2015年10月,特別の許可を得て,筆者撮影。

 

 

寺院屋外建造物の鯱

     定光寺には,屋根に鯱を配した屋外建造物がありました。尾張徳川家の菩提寺である同寺には初代義直公(在位 1603-1650)を祀る源敬公廟(源敬公は義直の諡号)があって,本堂脇から坂を上がって獅子門を潜ると,その先に龍の門,祭文殿(燒香殿)があり,その奥に唐門のある墳基があります。義直公に謁見して帰化した明の禅僧陳元贇(ちんげんぴん)によって1652年に建てられたこの廟は,明の建築様式を踏襲したもので,屋根は全て青銅葺き,鯱は龍の門,祭文殿および祭文殿の隣の祭器庫の屋根にありました。此処の鯱が実は摩伽羅(マカラ)ではないのかとの疑問もありましょう。書物などに記載を見ませんが,マカラ特有の脚がありませんから,筆者は鯱であると思いました。

     後述する明治時代の再建になる長野県眞田山長國寺に据えられた鯱は別にして,現存の寺院で鯱の載った屋根は筆者の知る限り他に例がありません。

 

 

 

上左:獅子門。

上右:龍の門(10尾の鯱がある)。

下左:祭文殿と祭器庫(それぞれに,6尾づつの鯱がある)。

下右:唐門。奥に源敬公の墳基。

應夢山定光寺。2015年10月,筆者撮影。

 

 

 

上: 竜の門。下: 祭文殿(燒香殿)。デザインは何れも似通っている。

應夢山定光寺の鯱。2015年10月,筆者撮影。

 

 

應夢山定光寺,祭文殿(燒香殿)の床に敷かれた日本最古のフロアタイル。

2015年10月,特別の許可を得て,筆者撮影。

 

 

     猶,社寺の守護とは無関係ですが,祭文殿の床には古くから陶磁器産地であった当地で義直公が奨励して造らせた日本最古のフロアタイルが敷かれていました。

   定光寺には源敬公殿とは別に尾張家歴代の殿様,奥方らの遺骨を納めた納骨堂があって,副住職に御案内ねがって御生前御厚誼を賜った前当主(第21代)義宣公の墓前にお詣りをして参りました。崇徳廟と名付けられたこの堂は,『最後の殿様』[31]に書かれているように,義親公によって1941年に建てられたもの,正面に安置された北魏(386-534 AD)の石仏の背面壁には仏教寺院には珍しくフレスコ画で描かれた菩薩像がありましたが,神聖な場所ゆえ撮影するのは遠慮致しました。後で調べると,教会画を専らとした長谷川路可画伯の作[32],義親公の寛容で洒落好みの御人柄の一端を窺い知りました。

     信州松代には鯱のある御堂が眞田山長國寺にあり,大法寺に参じた足で訪ねました。お寺は市中ながら閑静な広々とした敷地にありました。松代眞田家によって1727年に建てられた開山堂と呼ばれる本堂は明治5年に消失,同19年に再建されたといいますが,中々風格のある建物,寄棟屋根に載る腰屋根(小屋根)の下の壁面には眞田家の家紋である「六文錢」が配され,棟の両端に載る鯱は高さ70-80 cm もあろうかとみられる大型の立派なものでありました。それもその筈,案内所で訊ねたところ,この鯱は元々海津城(通称:松代城)にあったものの由,移設は近代の発想によるものに相違ありませんが,禅宗(曹洞宗)の寺に相応しい趣を添えていました。鯱の形は,名古屋城の金鯱に見られるような典型的な城の鯱と比べて胴長,胴と尾の部分が垂直に聳えていました。

     屋根上の軒近く左右には眞田家のもう一つの家紋である「結び雁金」をデザインした屋根飾りが配せられていました。平成5年に至って復元が完了した庫院(庫裡)も端正にして堂々たる建物,その棟には六文錢と結び雁金の家紋があしらわれていました。

 

 

 

上: 眞田山長國寺本堂。下: 本堂.棟上の鯱。

2015年9月,筆者撮影。

 

 

     奈良の法隆寺では普門院,政倉院および北向院の屋根に鯱があるのを見ましたが,何れも僧坊として使われているため門は閉ざされていました。由来を知りたくて境内で出会ったお坊様に尋ねましたが,江戸時代のものであろう程度の漠然とした御回答,気の所爲か,凝ったデザインの割には美しくは映りませんでした。

 

 

法隆寺北向院棟端の鯱。

2015年9月,筆者撮影。

   

   

     後に前橋を訪れたとき(2019年11月),曹洞宗大珠山是字寺(通称:龍海院)山門屋根の両端に一対の鯱が配置されているのを見ました。同寺は享禄3年(1530)に岡崎城下に建立された酒井氏の菩提寺を起源とし,慶長6年(1601)年,酒井氏の前橋転封に伴って前橋に移転,本堂と山門は文政年間(1819-33)に建築されたと読みましたが,鯱の由来は不明です。

 

 

前橋市内,曹洞宗大珠山是字寺(通称:龍海院)山門。2015年9月,筆者撮影。

前橋市内,曹洞宗大珠山是字寺(通称:龍海院)山門屋根棟上の鯱。2015年9月,筆者撮影。

 

 

     文献を調べて見ると,鯱の原形はシナで中唐から後唐の頃に現れた鴟吻(しふん,または螭吻=ちふん)であって,鴟吻そのものはヒンヅー神話のマカラがモデルとなったようであるとありました[33], [34]。信長に限って勝手に想像を巡らせば,交流のあった南蛮人(ポルトガル人)からインド,東南アジアで見たマカラの話を聞いて発想を得たのかも知れません。

     これまで見てきた鯱の姿は色々でありますが,元々イルカの仲間として実在するシャチ(学名:Orcinus orca)ではなく架空の生物でありましたから,製作した芸術家個々の描いたイメージが様々であったということに外なりますまい。

 

 

摩伽羅

     摩伽羅(マカラ)であると断定されるものが,日本では禅宗の寺に見られます。禅は南インド・パラワの僧,菩提達磨によって5世紀後半の宋に伝えられ,日本には鎌倉時代に齎されたとされています。宇治の黄檗山萬福寺は摩伽羅のあることで有名なお寺の一つであって,1661年にシナから渡来した僧隠元によって母国福建省の同名の寺に模して開創されました。このお寺では広大な斜面の境内に建つ総門,布袋尊を祀る天王殿および本堂である大雄寶殿に摩伽羅が見られました。門前茶店の女主人は地元名産の宇治茶を振舞いながら,「鯱に見得ても鯱ではありません。その証拠に前脚が見られるでしょう。」と誇らしく説明して呉れました。

 

 

 

上: 黄檗山萬福寺総門。下: 萬福寺総門上層棟端の摩伽羅。

2015年9月,筆者撮影。

 

 

     摩伽羅は,1690年に一了居士なる僧が達磨大師の坐禅像を彫ったとの伝承あり,1697年に曹洞宗寿昌派の寺となった上州高崎の少林山達磨寺の総門にもありました。マカラのデザインは萬福寺のものより幾らかシンプルですが,雨中,木々の緑を背景に美しく見えました。

    急峻な石段の途中に鐘楼あり,全231段を上り詰めた先に達磨大師を祀った靈符堂(本堂)がありました。少林山達磨寺は縁起だるま発祥の地,小振りの1個を求めてお坊様に片目を入れて貰い,本堂に隣接する達磨堂でお経を上げて頂いたあと,「もう一つの目は貴殿の願いが叶った暁に自分で入れるように。」との御言葉を賜りましたが,さて何時になりましょう。

 

 

 

 

上: 少林山達磨寺総門。下: 達磨寺総門上層棟端の摩伽羅。

2015年9月,筆者撮影。

 

 

     東京都下三鷹にあって,1700年に黄檗宗の寺として創建され,森鷗外および太宰治の墓所として知られる霊泉山禅林寺にも摩伽羅がありました。本堂および「無尽荘」の掲額のある方丈の屋根にもあって,それぞれのデザインには若干の差異がありました。建物の外壁部分は清楚な漆喰壁,防火の観点から採用されたものと想像しました。

 

 

 

 

上: 霊泉山禅林寺山門。下: 総門下層棟端の摩伽羅。

2015年9月,筆者撮影。

 

 

     日本で見られる摩伽羅は,インドや陸続きの国々,或いはジャワのマカラが水棲の獣を想わせる形のものであったのと異って前脚を持ちはするものの魚に近い姿をしています。この変貌が如何にして齎されたか,筆者には謎のままです。

 

 

(10) 日本のキルティムカ―に似た鬼面

インターネットを調べているとき,日本の寺院で鬼面がキルティムカ―のように梁の上に置かれた例が2,3目に入りました。

     一つはは京都市下京区,東本願寺(正式名:真宗本廟)の菊の門,境内大寝殿への表門として明治44年(1911),宗祖650年遠忌事業の一環としてで建設された四脚門で,切妻造,屋根は檜皮葺,前後に軒唐破風を付し,木部は総漆塗となっています。

     先ず東側河原町通に面した表側を見ると,唐破風屋根の下,楣の上に木彫の鬼面がありました。詳しく観察すると,顔面には上下2本づつの牙があり,その周りが頭部から下顎まで巻毛をモチーフとした模様で飾られていました。境内の裏側も門の構造は表側と寸分違わず,表側と同じデザインの鬼面がありました。この門の建てられた1911年と云えば明治も末期で海外との交流も進んでいましたから,インドやジャワのキルティムカ―が真似られたと想像しましたが,お寺で尋ねたところ,これより前の明治28年に竣工した御影堂や阿彌陀堂の場合には施主であった法主から細かな注文がなされたが,菊の門の場合については記録がないとのことでありました。この門の設計者は京都市建築技師であり,近代建築にも長けた亀岡末吉,筆者は彼の発案によるのではないかと想像します。

 

 

表側

裏側

東本願寺菊の門とキルティムカ―似の鬼面。2016年5月,筆者撮影。

 

 

     もう一つ,身延山久遠寺の大鐘楼の例を,インターネット上の写真をお借りして示します。

 

 

身延山久遠寺大鐘楼の鬼面。以下のウェブサイトから借用。

http://blog.goo.ne.jp/amitamaro/e/a49f96f92884f40fdce00987b747f9fa

 

 

     筆者からの問合せに対してお寺から,「キルティムカーとの類似性および掲げられた経緯については現在伝わっていない。宗教的な意味合いよりも,建設を担当した大工または彫工の意匠が反映されたのであろう。」といった趣旨の回答を頂きました[35]。祖師堂前にある大鐘楼が,7年前に焼失した古い鐘楼に代えて再建された明治15年(1882)といえば未だ明治も初期,闖入者の見張りを鬼面に託す発想が外国のキルティムカーにヒントを得たものであったか否かは不明です。

     キルティムカーに似た鬼面は,天仁2年(1109)に道寂和尚が開山とされる古刹,山形県上山市内の水岸山慈眼院観音寺(通称:湯の上観音)にもありました。江戸末期の弘化4年(1847)に造営された本堂(観音堂)は昭和57年(1982)に火災を受けたが寺宝は幸い難を免れ,2年後に再建された現在の御堂に移されました。本堂の向拝の梁には左右に力士像や獅子鼻・獏鼻がありましたが,唐破風および入母屋破風から睨みを効かす2面の鬼面が筆者の目を惹きました。御住職に依れば,これらは弘化4年建築時のもので,鬼面は昭和の再建時に塗直されました。然すれば,ここの鬼面は上述の東本願寺菊の門や身延山久遠寺のものより古いことになります。弘化4年建築時の棟梁は太田権治郎ら3名であったが,彫刻師などの詳細は不明とのことです。

     猶,同山では文政9年(1826)建立の大日堂の向拝に飾られた龍と懸魚(名工粟野乙松作)の彫刻が有名で市の指定文化財となっている由でありました。

 

 

 

上山市,水岸山慈眼院観音寺(湯の上観音)観音堂前景(上)および拝殿入母屋破風(下左)と唐破風(下右)の鬼面。

2016年9月,筆者撮影。

 

 

 

参照文献


[1] S. U. Ramachandra,‘What does the Kirtimukha mean?’,TRIVENI,Aug - Sept,1939

[2] Heinrich Robert Zimmer,Myths and Symbols in Indian Art and Civilization (1946),Princeton University Press,1972.

[3] Heinrich Robert Zimmer, Myths and Symbols in Indian Art and Civilization (1946), Princeton University Press, 1972。

[4] Robert Beer, The Handbook of Tibetan Buddhist Symbols, Serindia Publications 2003。

[5] Anita Nair, The Puffin Book of Magical Indian Myths, Penguin Global 2008。

[6] Willem F. Stutterheim (Translated by John de La Valette),“The meaning of the kalamakara ornament”,Indian Art and Letters 3,27-52,1978.

[7] 例えば,Charles Russell Coulter and Patricia Turner, Encyclopedia of Ancient Deities, Routledge, 2013.

[8] 唐破風屋根(別称:てりむくり屋根): 頂部が丸く両端が水平に伸びた形の屋根。

螻蛄羽(けらば): 切妻の妻側。

[9] 例えば,R. Soekmono,Sejarah kebudayaan Indonesia,Yayasan Kanisius,1973 [In: http://foodartculture.blogspot.jp/2011/12/central-java-temple-on-left-and-east.html/]: Juan R. Francisco,“The naga design in south-Asian Art”,Proceedings and Transactions of the All-India Oriental Conference,29,1980; Sambit Datta and David Beynon,Digital Archetypes: Adaptations of Early Temple Architecture in South and Southeast Asia,Ashgate Publishing 2014

[10]  R. Soekmono 説の引用元: V. Degroot,Candi,Space and Landscape: A Study on the Distribution,Orientation and Spatial Organization of Central Javanese Temple Remains,Sidestone Press,2010。

[11] Keling Kingdonは舊唐書列伝にある訶陵国,Queen Shimaは,その記述にある女王・悉莫に相違ない。

[12] 井口正俊,『ジャワ探究―南の国の歴史と文化』,丸善プラネット 2013; Masatoshi Iguchi, Java Essay: The History and Culture of a Southern Country, Troubador Publishing 20150。

[13] Pierre-Yves Manguin, A Mani, Geoff Wade, (ed.), Early Interactions between South and Southeast Asia: Reflections on Cross-Cultural Exchange, Institute of Southeast Asian Studies 2011

Date of publication: 2011。

[14] W. F. Stutterheim (Trans. by Mrs. A. C. de Winter-Keen),Pictorial history of civilization in Java,The Java Institute and G. Kolff & Co.,Weltevreden,1927.

[15] プラムディ・アナンタ・トゥールの小説には,カラサンが僧兵の根城であって,シヴァ教徒と争ったと書かれている。Pramoedya Ananta Toer,Arok of Java: a novel of early Indonesia,Horizon Books 2007

[16] R. Soekmono, The Javanese Candi: Function and Meaning, Brill 1995

[16a] F. D. K. Bosch (ed), Rapporten van den oudheidkundigen dienst in Nederlandsch Indië 1815, Inventaris der Hindoe-oudheden (Tweede Deel), Albrecht & Co, Weltevreden/M. Nijhoff, 's Gravenhage, 1918

[17] Ayatrohaedi, Sundakala: cuplikan sejarah Sunda berdasarkan naskah-naskah "Panitia Wangsakerta" Cirebon, Pustaka Jaya, 2005

[18] [脚注12]拙著「ジャワ探究」参照。

[19]  W. van der Meulen,“The Puri Putikesvarapavita and the Pura Kañjuruhan”,Bijdragen tot de Taal-,Land- en Volkenkunde 132,no: 4,Leiden,445-462,1976.

[20] Carita Parahyangan。Pusat Studi Sunda (ed),Mencari gerbang Pakuan dan kajian lainnya mengenai budaya Sunda,Pusat Studi Sunda,2006;

Warno Mahdi,“Yavadvipa and the Merapi Volcano in West Sumatra”,Archipel 75,Paris,2008,pp. 111-143

[21] 「新唐書」嘉祐6年(西暦1060年) 卷二百二十二下,列傳第一百四十七下,南蠻下。「. . . 其祖吉延東遷於婆露伽斯城,旁小國二十八,..」。

[22] August Johan Bernet Kempers,Ancient Indonesian art,Harvard University Press,1959

[23] 千田剛道,「法隆寺若草伽藍出土の 鬼瓦と百済」,奈良文化財研究所研究報告 2002。

[24] 山本忠尚,「日本の美術 第391号:鬼瓦」,至文堂 1998 より複写。

[25]近藤 豊,『古建築の細部意匠』,大河出版 1972。

[26] 徳川義親,『きのふの夢』,那珂書店 1942。

[27] 木戸雅寿,「天下布武の城・安土城」,新泉社 2004。

[28] 佐藤大規,”広島城出土の金箔鯱瓦についての考察”,広島大学総合博物館研究報告 1:1-11, December, 25, 2009。

[29] 中之条町歴史民俗資料館編,「中之条町歴史民俗資料館資料第二集:真田氏ゆかりの日向見薬師堂の歴史」,中之条教育委員会 1985。

[30] 太田正弘,『定光寺(尾陽應夢山定光寺版)』,定光寺 1983。

[31] 徳川義親,『最後の殿様』,講談社 1973。

[32] 「長谷川路可 生誕110周年、没後40周年記念特集:長谷川路可伝〔中〕」,http://kugenuma.sakura.ne.jp/k096a.html。

[33] 清水昭博,”鯱瓦のルーツ”,帝塚山大学考古学研究所・附属博物館共催 市民大学講座 H26/10/18。http://asuka.huuryuu.com/bunko/s-kikou/simizu.html

[34] 田中智誠,“摩伽羅:その起源と名物考”黄檗文化 108号,黄檗文化研究所 1989。

[35] 身延山宝物館からの私信(2016年5月)。