7. スンダの詩3篇

 

 

(1) チウン・ワナラ伝説

    ガルー遺跡の名に冠せられたチウン・ワナラは,ケンダン・ガルー国第10代マナラー王(ガルー・カムリヤンでは第8代)の異名でありますが,スンダ人の間で,パントゥン・スンダ(スンダの詩)で親しまれていることが選ばれた理由でありましょう。ここに紹介する話の粗筋は,次のようなことです[1]

 

    「ガルーの王サン・プルマナ・クスマーが老齢に至って隠遁しようと考えていたときのこと,彼は大臣のアリア・クボナンが王になる願望を持つことを知った。王は大臣を呼び,国を治めよ,しかし二人の王妃,ポハチ・ナガニングルムとドゥウィ・パングレニェップには手を出すなと告げた。王がパダン山[2]に出発すると,アリア・クボナンは何故か王の10年前の姿に似て,ラデン・ガルー・ウィジャヤと名乗って強欲に振舞った。

    パダン山の隠遁所で,聖者アジャール・スカレシは空からの光が王宮に射し,二人の王妃の体内に入るのを見た。その頃,ナガニングルムは星が月に落ちる夢を,パングレニェップは鋭い太陽光線が海底にまで届く夢を見た。夢の話を信じられなかったバルマ・ウィジャヤはパダン山の聖者を召還したが,彼はジャスミンの花や幾ばくかのウコンを送ってきただけですぐには現れなかった。バルマ・ウィジャヤは侮辱されたと感じ,2人の王妃に,腹に壷を当てて妊娠している風に見せかけるよう命じた。到着した聖者アジャール・スカレシ[3]は実は先王サン・プルマナ・クスマーであって,彼は,2人は妊娠6ヶ月で,生まれてくるのは両方とも男児であると断言した。怒ったバルマ・ウィジャヤは聖者をクリス(刀)で刺した。クリスが3つに折れて,聖者は死ななかったが,彼はバルマ・ウィジャヤの意図を理解して,自らナガ・ウィルという蛇に変身した。

    最初にドゥウィ・パングレニェップがアリア・バンガを出産した。ナガニングルムの腹の中の子は,貪欲な王に国は間もなく滅びるであろうと告げた。ナガニングルムの出産のとき,ドゥウィ・パングレニェップは同僚の王妃を妬み,赤子を犬の子に摩り替えた。赤子は一個の卵を添え,櫃に入れてチタンドゥイ川に流され,他方,死を宣告された母親は忠実な侍従によって救われ森に送られた。櫃は川に仕掛けられた簗でアキ・バランガントゥランと妻のニニによって発見され,夫婦によって育てられた。少年に育った子供は宙に飛んで天地が未だ隔てられているのを見たが,これは彼が何らかの遺産を手にする資格のあることを意味した。彼はアキ・ニニ夫妻のために村を造った。

    或る日,アキと少年は吹矢を携えて森に狩に出た。少年がとある鳥と動物の名を尋ねると,アキは,それらはチウン,ワナラであると教えた。少年は,彼自身チウン・ワナラと呼ばれるのが相応しいといった。チウン・ワナラは,アキから素性を明かされ,彼がガルーの先王とナガニングルムの子であると知った。

    宮廷から闘鶏大会の開催が布れられると,チウン・ワナラはバルマ・ウィジャヤに挑戦したいと欲した。簗に掛かった櫃から赤子と一緒に見つかった卵はナガ・ウィルに抱かれて孵化し,シ・カカット・ベッドという名の立派な雄鶏になっていた。シ・ククットという名の魔法の雄鶏を有するバルマ・ウィジャヤは自信満々で,若し彼が負ければ領土の西部を与えるという条件で,チウン・ワナラの挑戦を受けた。シ・カカット・ベッドは勝利し,チウン・ワナラに王国の西部を齎した。王国の王子である筈のチウン・ワナラはこれに満足しなかった。ある日,彼は美しい鉄の檻を作った。バルマ・ウィジャヤとパングレニェップが視察に来て,内部を見ようと中に入ると,チウン・ワナラは直ちに扉を閉めた。この事件を知ったアリア・バンガは2人を解放するよう求めたが同意が得られず,2人の間で激しい戦いが起ったが,最後には,チウン・ワナラによって,アリア・バンガがチパマリ川の東に抛られた。以後。チウン・ワナラとアリア・バンガは川を境界としてジャワ島の西部と東部を支配した。」

 

    8世紀頃に既に熔接でもって鉄の檻がつくられたというのは非現実的にも思えますが,クリス(短刀)を鍛鉄で作る技術が古代から培れていましたから,それを応用した鍛接が行われたものと想像されます。

 

 

古いマンガ本「チウンワナラ」,Karya A R(画), Toko Melodie 刊, Bandung 1954 の表紙と最終ページ。TAMMAT=メデタシメデタシ。複写元: http://patinantique.blogspot.jp/2016/06/komik-legenda-wayang-indonesia.html

 

 

(2) ルートゥン・カサルン伝説

この時代の出来事を詠んだパントゥン・スンダでは,チウン・ワナラの女婿で王位を襲い,ルートゥン・カサルンの異名を取ったマニスリ(ダルマサクティ王)に纏わる「ルートゥン・カサルン伝説」もまた有名です。一般に良く知られているのは絵本や映画にもなったお伽話風のもので,凡そ次のような内容です[4]

 

    「天界の女王スナン・アンブの息子グル・ミンダ・カーヒャンガンは母に恋するので,黒猿(ルートゥン・カサルン)に姿を変えて,地上に落とされ,猟師によってガルーの王宮に連れて行かれる。そこでは,老齢のプラブ・タナ・アグン王が,2人の娘,プルバ・ラランとプルバサリのうち,慣例に従って末娘の後者に王位を譲ろうとしたが,これを妬んだ姉が毒を使って妹を皮膚病に罹けて森に隔離し,権勢を振っていた。プルバ・ラランに嫌われて森に追放されたルートゥン・カサルンは,そこで悲哀の日々を送るプルバサリと遭遇,彼女の暮らしを助けることになるのだが,折に触れて天界のスナン・アンブが力を貸す。プルバサリこそ,プラブ・タナ・アグン王と王妃が枕元に現れたスナン・アンブそっくりの美しい女子が欲しいと願って授けられた姫であった。スナン・アンブが逆境にあるプルバサリを哀れんで落とした涙でできた池で水浴すると彼女の皮膚は治癒し,彼女は美しい姫に蘇る。プルバ・ラランは猶も妹を抹殺しようと様々な難題を課すが,ルートゥン・カサルンは悉くそれらを解決する。王宮に赴いたプルバサリが,天の声を聞いて,自分が正当な王位継承者であると宣言するや,傍らに侍っていたルートゥン・カサルンは衣を脱ぎ,突如美男子に変身,姫とともに民に善政を施し,ガルー国は長く繁栄する。」

 

    この話の中の小池で水浴して皮膚病が治ったという行は,理屈を考えるならばこの周辺も火山地帯でありましたから,その水が温泉水であったことを窺わせます。

    パントゥン・スンダは元来口伝のものでありましたから,この話にも長短様々の異説[5]がありますが,スタンフォード・ラッフルスの「ジャワ史」[6]に収録されているルートゥン・カサルンに纏る話は甚だ特異です。誰かが語ったのを著者が書取ったものと想像されますが,そこでは,上述の二つの話が重っていて,「ルートゥン・カサルンとはチウン・ワナラに父王が黒猿の皮の衣とともに彼に与えた名前,ルートゥン・カサルンがプルバサリと結婚して2人の間に生まれた息子はシラワンギ(シリワンギ)と名付けられ,成長してパジャジャランの都パクアンに行って王となった。彼の治世下でパジャジャランは大いに繁栄した。」とあります。パジャジャラン王国が成立し,シリワンギ王が君臨したのは前述のように15世紀半ばでありますから,ケンダン・ガルー王国の終りから6百数十年の年差があります。何とも飛躍した話ですが,そこはフィクションのフィクションたる所以で,物語の語り手が2人のチャンピオンを勝手に結び付けたのだと想像されます。ルートゥン・カサルンとシリワンギに共通することといえば,前者は黒猿の皮の衣を纏い,後者は皮膚に樹液と混ぜた煤を塗られ,何れも美男とは分らぬ状態で将来の伴侶,それぞれプルバサリとアンベットカシーに出遭ったことでしょう。なお,スンダ人の友人によれば,スンダ語でルートゥンは猿,カサルンはオーバーコートを意味するそうです。

    ラッフルスの話の中には,(1)漁師が川で魚を獲るのに仕掛け網を用いていた,(2)米の栽培を普及された,(3)ジャワ島南岸を航行するのに相当に大きな船が使われた,(4)パクアンでの祝賀の折には色んな演劇が上演された,などといった歴史背景を示唆することがらが垣間見られます。

 

 

ティル・ダルトン挿画「ルートゥン・カサルン」の表紙と挿絵(抜粋)

Till Dalton (Illust),. Lutung Kasarung, G. Kolff & Co., Bandung, (ca.1950)

 

 

(3) ブジャンガ・マニク物語

パントゥン・スンダは,本稿でこれまでに触れた例が全てそうであるように,ケンダン・ガルー時代からパジャジャラン時代に至る時代々々の王や王子に纒わるストーリーが殆どで,詩歌調とはいえ,本来的に大衆に語り聞かせたものでありました。大衆の識字率が伸びたのは,インドネシアでは20世紀になって学校教育の普及が計られて以降のことでありましたから当然といえば当然でありましょうが,読者が限定された古い時代のスンダでも,文学性の高いものが書かれなかった訳ではありません。有名なものに,前に触れた「ブジャンガ・マニク」という名の,15世紀末か16世紀初めに書かれたと思われる,8音節,1575行からなる長編詩があります[7]。ストーリーは,端的には次のようなものでした。

 

    「パクアン王国のブジャンガ・マニク(本名アメン・ラヤラン)は王子でありながらヒンヅーの修行者となり,ジャワのマジャパヒト辺りまで行脚するが,母が恋しくなって一旦は帰郷する。母は彼に憧れるアジュン・ララン姫との結婚を勧めるが,彼はそれを振切って再び修行に出掛け,ジャワを経てバリにまで至る。しかし,ジャワ以上に人が多いのを見て,引返してパジャジャランの領土に戻り,彷徨の後,バトゥハ山中腹に落着き,聖地を設ける[8]。彼は其処に珠玉で飾られたリンガ[9]を立て,数棟の修行場に加えて調理場,薪置場,脱穀場を建設,9年間かけて修行を達成し,肉体の終焉の後に,霊魂は麗しき天界に昇る。」

 

    ストーリー自体は比較的単調なものですが,其処処々で彼自身の崇高な精神性に触れられています。加えて,全編を通じて克明な情景描写がなされ,特に2回目の旅の旅程が詳細に記されていて,筆者には当時の風俗習慣や地誌を窺うための有用な縁(よすが)となりました。

    例えば,主人公が第1回目の旅から帰って母親を訪ねる場面,機(はた)を止めて彼を迎える彼女の部屋は美しい庭園の中の高床の館にあって,七重のカーテンで飾られ,調度にはシナ渡来の金箔張の櫃がありました。熱帯のパクアン(ボゴール)にして七重のカーテンとは如何に,と訝られる向きもあろうかと思われますが,海抜250-270メートルに位置して雨の多い現地の年平均気温は,最近の統計で最高25.50±0.80℃,最低18.25±0.45℃[10]ですから,日本の気象庁が勝手に定義した真夏日,熱帯夜などというものはあり得ません。500年前は,もっと涼しかったと推定されます。

    主人公の母親が織っていたのは,赤,青,黄色に染上げた綿糸を使ったイカット[11]でした。詩文の一行から母親はシリワンギの伯母(叔母)と想像されます。ブジャンガ・マニクを見たジョンポン・ラランなる女性(恐らく親戚の者)から,「シリワンギよりハンサムでジャワ語も話せて知性に富み,貴女に相応しい。」と告げられたアジュン・ララン姫は,恋心を込めたダウン・シリー(キンマ)をジョンポンに託して贈りましたが,それは何れも極上のシリー(学名:Piper betle)の葉,ライム,ピナン(学名:Areca catechu)の実などを丹念に取揃えて,貴重な香木を添え,袱紗を掛けたものでした。ブジャンガ・マニクは旅の途中に幾度か船に乗りましたが(1回目は最初の旅の帰途,中部ジャワのパマランから西ジャワのスンダクラパまで,2回目は東ジャワ東端の恐らく今日のバニューワンギからバリ往復),船は何れも大型のジャンク[12]で,乗組員の出身地は担当毎に様々,出帆の際には,7発の銃砲が放たれ,ラッパが吹かれ,ゴングやシンバルが鳴らされ,船員は舟歌を歌いました。

    今は知れぬこの詩文の作者は誰か。山,川および村々の名を具体的に示した行程は,旅をした本人が書いた,あるいは口述したことに間違いありますまい。主人公の死および昇天の部分を含めた全詩が,修行僧となったアメン・ラヤランという名の王子本人によって,彼の生前に書かれたものと考えたいと筆者自身は思います。

 

 


[1] Yakob Sumarjo, Simbol‑Simbol Artefak Budaya Sunda: Tafsir‑Tafsir Pantun Sunda, Kelir, Bandung 2003 に拠る。 話の細部は,バージョンによって様々である(例えば,Weintraub, Andrew N, Ngahudang Carita Anu Baheula (To Awaken an Ancient Story), Center for Southeast Asian Studies, University of Hawaii 1991)。チパマリ(ブレベス川)以東を治めたというハリアン・バンカは,ケンダン・ガルー第8代(カムリヤン第5代)のサンジャヤ王が中部ジャワに移ってサンジャヤ王国を築いた故事に対応すると思われるが,時代は前後している。

[2] 西ジャワ州グデ/パングランゴ山東南海抜885mの斜面に,無数の石を集め,石段を付けた約900平方メートルあり,紀元前2000年頃に開かれた聖地とみられているが,地元ではシリワンギ王に因む場所と伝えられ,詩歌「ブジャンガ・マニク」の主人公も行脚の途中にここを訪れてた。

[3] 18世紀にソロで書かれたパジャジャラン王国滅亡後の物語「バロン・サケンデルの書」に Ajar Sukarsi なる聖者が登場した(第1章)。時代に差はあるが,「ムンディンラヤ・ディクスマー」の Ajar Sukaresi と同一人物かも知れない。

[4] Till Dalton (Illust),. Lutung Kasarung, G. Kolff & Co., Bandung, (ca 1950,ほか。

[5] 例えば,Christopher Torchia, Indonesian Idioms and Expressions: Colloquial Indonesian at Work, Tuttle 2007, Andrew N. Weintraub, “Ngahudang Carita Anu Baheula (To awaken an ancient story): an introduction to the stories of Pantun Sunda”, Southeast Asia Paper No. 34, University of Hawaii at Manoa 1991 など。

[6] Thomas Stamford Raffles, The History of Java, London 1817 (Vol.I, Reprint with an introduction by John Bastin, Oxford University Press, Singapore 1988)

[7] Noorduyn, A. Teeuw, Three Old Sundanese Poems, KITLV Press 2007

[8] バトゥハ山(Gunung Patuha)なる名の山は,現在のバンドン西南35km に存在する。場所は,リンガ・パユン(Lingga Payung)方面に半分下った中腹とあるが,リンガ・パユンの地名は現在は知られていないので,その場所は特定できない。

[9] ヒンヅー教の象徴たる男根。

[10] http://weather.jp.msn.com/のデータから計算。因みにジャカルタの年平均最高,最低気温は,それそれ31.58±0.79℃,23.75±0.45℃。

[11] 日本の絣のように綛の状態で斑に染めた糸を使って織上げた柄織物。第2章参照。

[12] バリからの帰途のジャンクについて,幅8尋(14.3m),長さ25尋(45.7m)とある。