6. シリワンギ伝説

 

 

スリ・バドゥガ・マハラジャ王は,様々の伝説にプラブ・シリワンギ(シリワンギ王の意)の名で登場し,スンダの人々の間では,寧ろその名で親しまれています。斯かる伝説は,元来,パントゥン・スンダと呼ばれる詩歌調の口伝のもので,成文化されたのは近世以降のことでありましたから,同じテーマの話にも長短色んな異説があります。彼の前半生を内容とするものにチャリオサン・プラブ・シリワンギ(Cariosan Prabu Siliwangi,シリワンギ王の物語)と題するものがあります。ここでは筆者が入手し得た中で最も詳しく書かれた「パントゥン・スンダの珠玉(Khazanah pantun Sunda)」[1]に拠って,その梗概を見てみましょう。

 

(1) シリワンギ王物語

「パジャジャランのアンガララン王とウマデウィ王妃の間に生れたパマナーラサは見目麗しく聡明な少年に育っていた。彼が9歳のときのこと,彼の王位継承を妬んだ15歳の異腹の兄,パルバメナックは,パマナーラサを無き者にせんと企て,王たるものに必要な試験をすると誑かして,彼をシパタフナン川に誘い出した。パルバマナックが与えた第一の課題は3匹の鰐の棲む川を渡ることであったが,何故か鰐どもは互いに殺し合い,パマナーラサは難なく渡河に成功した。第二の課題は腕の力で蔓を手繰ってサン・ヒアン・ククンビンガンに登ることであったが,彼がそれをもやって退けたので,パルバメナックは,「その頂上は足を踏み入れることの許されない聖なる場所であって,パマナーラサがそれに無知であったことは重大な罪に値する」と難癖を付けた。奴隷として売られることになったパマナーラサは素性の判らないように全身を煤と樹液で真黒に塗られ,港に連れて行かれて,シリワンギと名を変えられてナコダ(船長)に売却された。

    スメダンラランのプラブ・ワンギの弟,シンダンカシー(現在のプルワカルタの辺りの地域)のキ・グデー・シンダンカシーの娘,ドゥウィ・アンベットカシー王女は,ある夜,夢の中に,ひとりの若者が黒くて醜い奴隷を連れて現れ,その奴隷は,若し彼女が自分を買取ってくれるなら,弟として仕えると言うのを見た。彼女が夢が現実になるのを期待していた或る日,侍女から,パレンバンからきたナコダ(船長)が,船の修理のために奴隷を売りたがっているという話を聞き,急いで両親に話して,チーク材と小舟とを代価に,その奴隷を引取った。斯くして,シリワンギはアンベットカシーのもとで過すことになったが,その頃から,王宮の庭園が荒らされるという事件が頻発,シリワンギに嫌疑か掛けられて,それがアンベットカシーを悩ませていた。

    一方,失踪したパナマーラサの捜索を続けていた3人の侍従(プルワ・カリー,グラップ・ニャワン,キダン・パナンジャン)は5年を経て,メル・キドゥルで出遭った隠者の示唆を受けてリワハンの方角に下り,変装してカテガン村のクウ・カワンダのもとに逗留していたが,3人の農業知識が役立って,村は豊かになっていた。或る日クウが作物をキ・グデー・シンダンカシーのもとに届けると,キ・グデーの妻は,野菜や果物が立派であることに喜び,荒廃した王宮の庭園の修復のために3人の侍従を招いた。彼らは,其処に居た黒い奴隷が彼らの主人であることに気付いたが,取敢えずはそれを伏せた。翌日,整備された庭園をキ・グデー・シンダンカシー親子が見に行くと,そこにはシリワンギもいた。再び庭園が荒らされるのではないかと恐れるアンベットカシーに,侍従は皮膚病を患った子供は水で濡れるのを嫌がるから,そうしてやるように勧めた。実際に水を掛けられると,シリワンギは忽ちハンサムな若者に変ったので,アンベットカシーは彼を抱擁し,弟となるように求めた。彼は最初は遠慮したが,キ・グデー・シンダンカシーに促されて,それを受諾した。二人は王族に相応しく着飾られると,カマジャヤとラティ(ヒンヅーの愛の神と愛の女神)のように映った。」

 

    以上が物語の前半で,最後の行は,ふたりの婚礼のときの情景の描写でありましょう。事実,ムハマド・アミル・スタアルガ著の小冊子「プラブ・シリワンギ」に抄録された「チェリテラ・プラブ・アンガラランの物語(Tjeritera Prabu Anggalarang)」によれば,ふたりは結婚し,シリワンギはスメダンラランの王となり,後にパクアンの王となったとあるそうです[2]

 

    物語の後半は,シンガプーラ[3]の王,プラブ・シンガプーラの美しい娘,ラトゥナ・ラランタパ王女が18ヶ国の王から求婚を受け,困惑した父王が,次兄のキ・グデー・シンダンカシーに相談を持ちかけ,その調停のためにアンベットカシーがシリワンギを伴ってシンガプーラに赴いたことに始まります。その後の話は,冗長で込入った詳細を省くと,ラトゥナ・ラランタパの婿選びを闘鶏試合によって行うことを提案し,審判として参加した筈のシリワンギが,成行きでゲームに巻込まれ,究極的にはライバルを破って彼女を獲得し,その場に集ってシリワンギに憧れていた他の王女たちも挙って彼の妻(側室)となった,といった筋書きです。

 

    シリワンギのモデルがスリ・バドゥガであることは疑うべくもありませんが,「チャリオサン・プラブ・シリワンギ」では,舞台設定や登場人物の素姓が,年代記とかなり異なっています。例えば,(1)チャリオサンでは,パジャジャランなる王国が恰も既に存在し,シリワンギ(パナマーラサ)は,その王子として誕生したことになっているが,実際にはパジャジャラン王国は後にスリ・バドゥガによって建国された,(2)そのパジャジャラン王国の都が何処かは示されず,恰もスメダンララン領内の一地域にあった風に読取られる,(3)シリワンギの父であるパジャジャラン王アンガラランは,年代記では,スリ・バドゥガの祖父に当る第5代カワリ国王ワスツ・クンチャナの異名として知られる,(4)スメダンララン王プラブ・ワンギの名は,一般には年代記にあってマジャパヒトで戦死したカワリ王国第3代王・マハラジャ・リンガブアナの尊称[4]として知られる,などが挙げられます。なお,後にスリ・バドゥガの第二王妃となるプラブ・ワンギの末弟パティ・マンクブミの娘スバンラランは脇役として登場するのみ,スンダ王ススクトゥンガルの娘で第3王妃となって,カワリ国とスンダ国の統一(パジャジャラン王国の建国)の絆となるケントゥリン・マニク・マヤン王女には全く言及されていません。

    チャリオサン・プラブ・シリワンギが文書化された場所はスメダンで,時期は恐らく17世紀末半から18世紀初めであろうとのこと,その頃といえは,パクアンを都とするパジャジャラン王国が消滅(1579年)して久しく,西ジャワ沿岸部のバンテン,中部ジャワに台頭したマタラムおよびVOC(オランダ東インド会社)が勢力を争っていた頃でした。辛うじて国の体裁を保ちつつも,その存在が脅かされたスメダンラランでは,栄光あるパジャジャランの中心をスメダンラランに据えて謳いたかったのであろうと「パントゥン・スンダの珠玉」の著者は解説しています。

 ナベットカシー(アンベットカシーの別名)が他の妃(側室)とともに,旧都から新都パクアンのシリワンギ王のもとへ引っ越す行列の模様は,同時代に書かれたチャリタ・ラトゥ・パクアン(Carita Ratu Pakuan,パクアン王妃の物語)にあって,豪華な傘を翳して,「目指すはパクアン」を合言葉に,光輝く東の王宮を出発し,象牙の宝珠を戴き,金と玉で飾られた輿が楽隊を前後に従えて,天翔かける龍のように畝りながら進んだ華やかな情景が詠われています[5]

 

 

ダルアン(樹皮紙)に書かれた「チャリオサン・プラブ・シリワンギ(シリワンギ王物語)」の本(1675)。パネンバハン皇子の遺品。スメダン,プラブ・グサン・ウルン博物館藏。同博物館の小冊子 Profil Museum Prabu Geusan Ulun より転載。

 

 

(2) ムンディンラヤ・ディ・クスマー物語

シリワンギがパクアンの王となってからの話に,ムンディンラヤ・ディ・クスマー(Mundinglaya Di Kusumah)というのがあります。数あるバージョンの一つ[6]では次のように語られています。

 

「物語はパジャジャラン王国シリワンギ王の妃パドマワティが妊娠中,酸っぱい果物ホンジェを食したいと所望した場面で始まる。その時,領内には実の熟したホンジュの木がなかったので,大臣が森の中へ探しに出て,ムアラ・ペレス王国の領内に至ると,そこでは同国の大臣がホンジェの実を摘んでいた。パジャジャランの大臣は譲渡を申込んだが,ムアラ・べレスのガンビル・ワンギ王妃も折から妊娠中であるという理由で拒否された。暫く口論の後,彼らは両王国が同じ祖先を持つことに気付き,生れてくる赤子の一人が男で,一人が女であれば,二人を結婚させるという約束をして,8個の実を等分した。臨月になって,パドマワティ妃は男児を,ガンビル・.ワンギ妃は女児を生み,それぞれの赤子はムンディンラヤ・ディ・クスマー,ドゥウィ・アスリと名付けられた。

    ムンディンラヤ・ディ・クスマーがハンサムで聡明な青年に育ったときのこと,彼はシリワンギの別の王妃ニャイ・ラデン・マントゥリによって,王宮の若い侍女に良からぬ振舞いをしたかのように執拗に中傷され,詳しい吟味もなく入牢を申し付けられた。実は,ニャイ・ラデン・マントゥリには,グル・ガンタンガンというムンディンラヤ・ディ・クスマーより年長で,クタバランの知事になっていた息子がいた。

    ある夜,パドマワティは,夢の中で,25本の尾の付いた美しい凧が,あわや彼女の手の届くところに,姿の見えない誰かによってもたらされたのを見た。翌日,王が学者や重臣を招集して,その話をすると,高名な占星師が,その凧はララヤン・サラカ・ドマスといって,繁栄と幸福を象徴し,それを手にした者は永遠の生命を得,国を安泰に保つと説明した。彼は,その凧は天界にあって7人の天人(グリアン・トゥジュー)によって守られていると付加えた。王は150名の王子を集めて問うたが,その凧を取りに行く危険な旅に出るというものは誰もいなかった。その時,パドマワティは,獄中の息子,ムンディンラヤ・ディ・クスマーを思った。彼に長くつかえた2人の侍従,グラップ・ニャワンとキダン・パナンジャンが彼女の意を伝えると,獄中にあっても修養に努めていた彼は,喜んで任務を引受けると言った。冒険のために開放された彼に,王はパジャジャラン家宝のトゥラン・トンゴンというクリス(短剣)を与えた。

    ムンディンラヤ・ディ・クスマーは2人の侍従に伴われ,先ず,天界への道を聞き出し,また魔力を獲得するために,ジョングラン・カラぺトンの棲むプラウ・プトゥリというジャワ海の小島へ舟で向い,相手を叩いて最初の目的を達した。彼が空に飛ぶと,予期したように7人の天人が待構えていた。彼が絞殺され,精神的および肉体的束縛から解放されると,そこへ女神ウィル・マナンガイ(今は亡き彼の祖母)が降臨して息を吹きかけ,彼をサラカ・ドマスを保有するに足る完全な人間に甦らせた。彼は,サラカ・ドマスを獲得し,家来となった7人の天人を伴って地上に戻った。

    ムアラ・べレスでは,婚約者のドゥウィ・アスリが,グル・ガンタンガンの養子のスンテン・ジャヤから求婚を受けて,危険な状態にあったが,彼は以前に服従させたジョングラン・カラぺトンの助力で彼女を救出した。

    パジャジャランに戻ったムンディンラヤ・ディ・クスマーは,サラカ・ドマスをシリワンギ王に献じ,ドゥウィ・アスリと結婚した。斯くしてパジャジャランに平和が蘇った。」

 

    物語の細部はバージョンによって随分異なり,例えばムンディンラヤ・ディ・クスマーが讒訴された経緯について,「養育を託された異母兄グル・ガンタンガンの妻のニャイ・マス・ラトゥナ・インテンがムンディンラヤ・ディ・クスマーを溺愛して夫を省みなかったので,夫が怒った」[7],「グル・ガンタンガン夫妻が,異母弟の彼ばかりを愛したので,養子サンテン・ジャヤの嫉妬を買った。」[8],などといったものもありました。何れにせよ,ムンディンラヤ・ディ・クスマーはパジャジャラン第2代の王スラウィセサがモデルと見做され,このような話が存在したこと自体,シリワンギ(スリ・バドゥガ)が王となった後にも,宮廷内には跡目争いのような難儀のあったことを窺わせます [9]

 

 

バンドン PT Pulau Mas Texindo 社の カレンダー2011 「ムディンラヤ・ディクスマー」の最終2場面。同カレンダーは嘗て同社のホームページに載せられていたが,現在はアクセス不能。

 

 

(3) サンチャンの森の虎

イスラム教徒の影響は,スリ・バドゥガ王の時代,既に西ジャワにも及んでいました。「チャリタ・パラヒャンガン」には,「先祖の教えが守られる限り,兵や病気といった敵が来ることなし。北も西も東も平和にして繁栄。それを感じ得ないのは貪欲に(異なる)宗教を学ばんとする多くの者たちである。」という記述があり,多くの領民が既にイスラム教に感化されていたことが窺われます。スリ・バドゥガ王の第二の王妃,チレボンの長官キ・グデン・タパの娘のニャイ・スバンラランは,カラワンのイスラム学校で学んだモスレムでした[10]。チレボンのスルタンとなった二人の間の息子のひとりワランスングサンは当然モスレムでありながら,父を敬っていましたが,その子シャリフ・ヒダヤットの時代の1482年,チレボンはパジャジャランから独立を宣言して,ドゥマックと手を結びました。これに怒ったスリ・バドゥガはチレボンを攻めましたが,チレボン-ドゥマック連合軍に阻まれました。パジャジャランは10万の兵と40頭の象を持っていたものの,内陸中心の国でありましたから海には150トンクラスのジャンク6隻を保有するのみで,ドゥマックから派遣された海軍には太刀打ちできなかったことのようです[11]

    パジャジャラン王とイスラム教徒との関りについて,次のような伝承があるそうです[12]

 

「パジャジャラン王国は光栄ある王,プラブ・シリワンギによって治められていた。彼には偉大な神秘的力を持つキアン・サンタンという名の息子がいた。超能力を有するキアン・サンタンは,ある日メッカまで水上を歩いて行って,そこでイスラムに改宗し,彼はジャワ島に帰って,ワリ・スナン・ラーマットと名乗った。彼はシリワンギを改宗させることを試みたが,王も廷臣たちもそれを拒んた。両者は対立し,キアン・サンタンに追われた王と廷臣たちは南岸のサンチャンの森に逃れた。息子との戦を避けるため,プラブ・シリワンギは白い虎に化け,家来もサンチャンの虎になった。彼らはサンチャンの森全域に拡がり,今も漁師の間では幸運の兆しと考えられている。シリワンギ王は虎の姿で今もボゴール近くのパクアンに住み,彼の子孫ならびに一般のスンダの人々を見続けている。」[13]

 

    因みに,バンドンを拠点とするインドネシア国軍屈強のシリワンギ師団の名はプラブ・シリワンギに因み,司令部前には白虎の像がシンボルとして置かれていますし,インドネシアの強豪サッカーチーム,プルシブ・バンドン(Bandung United の意)のエンブレムには虎の頭がデザインされ,本拠地はシリワンギ競技場(Lapangan Siliwangi)と名付けられています。

    パクアン陥落から半世紀以上も経った1687年,VOC(オランダ東インド会社)の士官ピーター・シピオ(Pieter Scipio van Ostende)を長とする探検隊はバタフィアから南下し,外国人として初めてジャワ島南岸インド洋に面したムアラ・ラトゥ湾に至りましたが,その途中,西のサラック,東のグデ・パングランゴの山峡の,嘗てのパジャジャラン王国の都パクアンと思しき場所を通りました。シピオの報告書には,

 「チリウン川に沿うパルン・アングサナからチパクまでの道[14]は,幅広で石が敷かれ,両脇には沢山のドリアンの樹があった。その先の壕を越えると門があり,その先には石積の王宮の廃墟があったが,自分はモスレムでない故に,守衛によって中に入ることを拒まれた。城域は多数の虎によって護られていた。この辺りには住人は疎らであったが,彼らは未だ過去に主であったプラブ・シリワンギを敬っていた。」

などとあるそうです。この記録は,5万の人口を擁した嘗ての首都が,1世紀を経てゴーストタウンの様相を呈していたことを窺わせます。虎が飼い慣らされて番犬のように使われていたのであれば甚だ面白いのですが,恐らく野生の虎がここを住処としていたのであろうと,ダナサスミタ教授の本[15]には書かれています。さもなくば,伝説に語られた虎に姿を変えたシリワンギと彼の部下であったでしょうか。

    王宮跡の管理に当っていたのは貴族であったと聞いたとも書かれているそうですが,恐らく彼はパジャジャランの末裔ではなく,この地を征服したバンテン王国の代官であったと考えられます。

 

 

シリワンギ王壁画構想。
インドネシアの画家 Mr. Jaka Prawira の好意を受け転載: http://www.deviantart.com/art/Prabu-Siliwangi-Mural-Concept-401039516

 

 


[1] Yakob Sumarjo, Khazanah pantun Sunda, Kelir, Bandung 2006 「このシリワンギ伝説の原典は,1853年に没した Raden Demang Cakradijayah に由来するが,原本はより古いものであったと考えられる。」とある。筆者が知る限り,スメダンに1675年の筆記の書が存在する(後述)。

[2] Moh. Amir Sutaarga, Prabu Siliwangi atau Ratu Purana Prebu Guru Dewataprana, Sri Baduga Maharaja Taru Haji di Pakwan Pajajaran, Pustaka Jaya, Jakarta 1984 実際の歴史では,シリワンギ(スリ・バドゥガ)は最初にカワリで即位,次にパクアンで王位に就いた(筆者註)。

[3] 現在のチレボン東北の当時の地名。マレー半島突端先のシンガポール島ではない。

[4] ワンギ(Wangi)は「馨る」の意。シリワンギ(Siliwangi)は,その大王を継ぐ意と言われている。リンガブアナ王(ワンギ王)のマジャパヒトでの戦死については後述。

[5] Carita Ratu Pakuan は 17世紀末-18世紀初頭,詩人Kai Raga によって Gunung Srimanganti(現在の ガルー,Garut)で作られたと伝えられる。これは Cariosan Prabu Siliwangi の続編との見方(Ann Kumar, John H. McGlynn, Illuminations: The Writing Traditions of Indonesia, Weatherhill 1996)があるが,舞台が異なるので,必ずしもそうであるとは言えまい(私見)。Saleh Danasasmita, Sejarah Bogor, Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983 では,旧都はガルー(Galuh)と註釈されているが,カワリ(Kawali)が正しいかも知れない。

[6] Ajip Rosidi, Mundinglaya di Kusumah, Penerbit Nuansa, Bandung 1956; Yakob Sumarjo, Simbol‑Simbol Artefak Budaya Sunda: Tafsir‑Tafsir Pantun Sunda, Kelir, Bandung 2003

[7] Andrew N. Weintraub, Ngahudang Carita Anu Baheula (To awaken an ancient story): an introduction to the stories of Pantun Sunda, in Southeast Asia Paper No. 34, University of Hawaii at Manoa 1991

[8] Amanda Clara, Cerita Rakyat Dari Sabang Sampai Merauke, Pustaka Widyatama (year-unknown)

[9] スラウィセサの生母は,年代記によれはケントゥリン・マニク・マヤン。序ながら,アンベットカシーには嫡子がなかった。スバンラランには3人の子があった(脚注6のDanasasmitaの書)。

[10] 上述の「チャリオサン・プラブ・シリワンギ」では,(1)スバンラランは,大臣マンクブミの娘で,キ・グデン・タパは,彼女の兄,(2)シリワンギが争って得たのは シンガプーラ王の娘のラランタパということになっている。

[11] 脚注6

[12] Robert Wessing, “A change in the forest: myth and history in West Java”, Journal of Southeast Asian Studies, March 1, 1993。原典は示されていないが,ワワチャン・キアン・サンタン(Wawacan Prabu Kean Santang,プラブ・キアン・サンタンの詩)であろうと想像される。

[13] キアン・サンタンはニャイ・スバン・ラランを母とし,ワランスングサン(前出)は彼女の兄弟。

[14] パルン・アングサナ(Parung Angsana)は,現在のボゴール北郊のタナー・バル(Tanah Baru)。チパク(Cipaku)は,ボゴール市内に現在も同名で存在。道幅と距離は,後述の Winker の報告によれば,それぞれ,3m,2.5kmで,この距離は現在の地図に符合している。

[15] Saleh Danasasmita,Sejarah Bogor, Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983