5. ブバトの悲劇

 

 

 スンダ王国の都は14世紀になって,1333年にカワリ(Kawali)に移りましたが,1357年,スンダの人々の間で「ブバトの悲劇」と伝えられる大事件がありました。当時,ジャワでは有名なマジャパヒト王国がハヤム・ウルク王(Hayam Wuruk,即位名:Rajasanegara,1350-89)のもと,宰相カジャ・マダ(称号,マハ・パティ・マダ)の働きもあって最盛期を迎え,東ジャワ,中部ジャワのほか,カリマンタン(ボルネオ島),スマトラへも版図を拡大する勢いにありました。

 

    その頃,未だ独身で然るべき王妃候補を探していたハヤム・ウルクは,絶世の美女と謳われたスンダの王女,ディア・ピタロカ・チトゥレスミの肖像画を,それを描かせるためにスンダに派遣していたスンギン・プラブアナカラという絵師から受取ると,描かれた姿に一目惚れし,使者をスンダに遣わして求婚の意を伝えました。スンダ側はこの申入れ自体は大いに歓迎しましたが,マジャパヒトで婚礼の式典を行いたいというハヤム・ウルク側の希望が,花嫁の側に花婿が赴くという当時の慣習[1]に反することから,王族や宮廷内に異論がありました。しかし,最終的にはマハラジャ・リンガブアナ王がそれでも構わないといい,彼はドゥウィ・ララ・リンシン王妃,ディア・ピタロカほかの家族,それに大臣と若干の近衛兵を伴って東ジャワのマジャパヒトに向けて旅立つ準備を整え,200隻の船に数多の小舟を加えた合計1000隻の大船団の艤装を行いました。出帆の際に青い海水が赤く染まるという不吉な前兆を見たものの,一行は航海に出て,10日後にマジャパヒト郊外ブランタス河畔のブバト(Bubat)に着きました。  そのとき,ジャワ島および周辺全域征服の野望[2]を持ち,唯一の独立国であったスンダ王国を潰したい野望を秘めていたガジャ・マダは,ブバトまで会いに出向くというハヤム・ウルク王を制して,スンダ側に,ディア・ピタロカは王妃に迎えられるのではなく王への貢(みつぎ)であって,スンダはマジャパヒトの属国になるべしと告げました。

    ハヤム・ウルクの真意を確かめるすべなく,リンガブアナ王は,「恥辱を受けるよりはサトリア(武士)[3]として戦うべし」と決意し,王女と王妃たちには,国に帰るように告げましたが,彼女らはそこに留まると言いました。戦が始まると,スンダ側は,多勢のガジャ・マダ軍に対して無勢ながら善戦,就中,優れた戦士でもあったリンガブアナ王は多数の敵を斃しましたが,結局は以下全員がブバトの野に討死しました。王女と王妃はその惨状を見て自ら命を絶ち,同行していた第二王妃も大臣の妻たちもその後を追ったといいます[4]。ハヤム・ウルクはディア・ピタロカとの結婚を本心で欲し,ジャワ島東西の2つの国の間に親戚関係を結ぶことを願っていたのでしょう。ガジャ・マダの姦計に漸く気付いた彼は,戦場に婚約者の遺体を見て,それに倒れ込み,「間もなく貴女の傍に行くから,そこで一緒になりましょう」と誓いました。ハヤム・ウルクは,結婚式の立会のために招いていたバリ王国の大使をスンダに派遣して,王の留守を預かっていた王弟で大臣のヒアン・ブニソラ・スラディパティに謝罪の意を伝えました。ハヤム・ウルクは精気を失い,死者のための葬礼のあと間もなく,世を去りました。王の葬儀が1ヶ月と7日に亙って,色んな舞踊を盛って盛大に行われました。そのあと,王の叔父たちに責められたガジャ・マダは瞑想に入り,忽然と蒸発するように姿を消しました。

 

    以上は,事件の凡そ200年後の1550年頃に書かれたと目され,後世にバリで発見された,キドゥン・スンダ(Kidung Sunda,スンダの詩)[5]という作者不明の詩歌の要約に,それに書かれていない人名や若干の歴史背景を,「パララトン(Pararaton,Book of Kings)」[6],「チャリタ・パラヒャンガン」といった書物にある記述を参照して補足したものですが,キドゥン・スンダ自身は元々文学作品でありましたから,史実と異なるところも見受けられます。実際に,年代記として最も権威あるとされる「デサワルナーナ」[7]によれば,ハヤム・ウルクは1389年まで生存しましたし,ガジャ・マダは1364年にジャワ島東部のプロボリンゴで死亡したことが,著者によって確認されています。話の細部については,様々な異説があるようです[8]。事件後,ガジャ・マダは自ら自適に入ったとも,厳しく解任されて僻地に送られたとも伝えられます。事件の原因が,ガジャ・マダが単に王の意向を誤解してスンダ側に対処したことにあるとの説もあるそうですが,これは余りにも彼に贔屓目な見方でありましょう。ガジャ・マダの死因に関して,ディア・ピタロカも戦闘に参加し,彼女がタルマナガラ国以来受継がれたクジャン(ナイフ)によって負わせた傷が死に至らしめたという説もあるそうです。

    キドゥン・スンダには,スンダの都が書かれていませんが,間違いなくカワリであって,一行はチダンドゥイ川を下ったと思われます。ジャワ島南岸の河口から東ジャワ北岸のブランタス河畔まで,恐らく時計回りで1000キロ余の航程,船は「元寇」[9]の際に伝わった複数帆のジャンクであったといいますから,1日100キロ程度の航海は可能であったと考えられましょう。

 

 

ブバト戦争についての現代画家のイメージ。

インドネシア・バンドンの画家 Mr. Gilang Kencono Nugroho の好意を受け転載:http://www.deviantart.com/art/Bubat-War-274162730

左図の人物はガジャ・マダ,右上図のそれはディア・ピタロカとハヤム・ウルク。ボックスが敢えて空白にしてあるのは,読者に想像に委ねたいとの作者の意図である由。

 

 


[1] 馬歡撰「瀛涯勝覧(1416)」(後出)にも触れられている。「其婚姻之禮,則男子先至女家,成親三日後迎其婦。男家則打銅皷銅鑼,吹椰殼筒,及打竹筒皷並放火銃,・・・」

[2]ガジャ・マダの誓い,またはパラパの誓い(Sumpah Palapa=(英)Palapa Oath)といい,ガジャ・マダはヌサンタラ(ジャワ島および周辺)を制覇するまではパラパ(香辛料?)を断つと誓ったと伝えられる(例えば,Barbara A. West, Encyclopedia of the Peoples of Asia and Oceania, Facts on File 2008)。酒好きが酒を断つのに同じと想像される。

[3] ヒンヅー第2カースト。ジャワおよびバリでは,ブラーマ(Brahmana)=高僧; サトリア(Ksatria)=貴族,武士; ウェシア(Wesia)=官吏および兵士; スードラまたはジャバ(Sudra or Jaba)=平民,に分けられる。

[4] ヒンヅー社会にはスティー(suttee または Sati,サティ)という,夫の死に妻が殉死する慣習があった。

[5] Wirasutisna, Haksan, Kidung Sunda I-II, Departmen Pendidikan dan Kebudayaan Jakarta : 1980, Claire Holt, Art in Indonesia: Continuities and Change, Cornell Univ. Press, 1967, Zoetmulder, Kalangwan, A Survey of Old Javanese Literature, Nijhoff, Den Haag, 1974.

[6] Serat Pararaton atawa Katuturanira Ken Angrok (The Book of Genealogy or the Recorded Story about Ken Angrok ). 1481-1600年に書かれたと目される著者不明の書。英訳版: I. Gusti Putu Phalgunadi (translated from the Original Kawi Text), The Pararaton: A Study of the Southeast Asian Chronicle, Sundeep Prakashan, New Delhi, India, 1996

[7] Stuart Robson (trans.), Desawarnana (Nagarakrutagama) by Mpu Parapanca, KITLV Press, Leiden 1995。パラパンチャというペンネームの仏教監督官がハヤム・ウルク王を讃えるために書いたという詩文で,正式名は「デサワルナーナ」。98段,1536行からなり,マジャパヒト朝ハヤム・ウルク王の王統や王の国内視察の模様などが綴られている。「ブバトの戦」のことは書かれていない。

[8] 例えば,http://driwancybermuseum.wordpress.com/.../...,

http://mentarisenja.wordpress.com/?s=bubat

http://www.wacananusantara.org/ 6/18/galuh

[9] 日本の文永の役(1274),弘安の役(1281)と同時代の1280年,1281,1281年,クビライ・カーンは3度使節を送って隷属を求めたが拒否され,1292年に大軍を送った(後にマジャパヒト建国したラデン・ウィジャヤの計略によって敗退)。