14. 伝説の大砲 - シ・ジャグールまたはキャイ・ストモ

 

 

オールド・バタフィア(ジャカルタ北部,現コタ地区)のジャカルタ歴史博物館(旧バタフィア市庁舎)の裏庭にシ・ジャグールという名の口径15センチ,長さ4メートル近くもある時代物にしてはとても大きな大砲が置かれています。筆者の知る限り,この大砲は数年前まで博物館前のタマン・ファタヒラー広場を隔てた反対側の歩道の上にありましたが,ずっと以前はシティウォール外の草むらに転がっていたそうです[1][2]。砲身の手前のところには砲身自身と一緒に鋳造された握り拳が付いていて,大正10年にこれを御覧になった徳川義親公は「じゃがたら紀行」[2]の中に「日本では観覧禁止に値するものだが,阿蘭陀人は泰然として路傍に雨晒しにしてゐる。」と記されていますが,人差指と中指の間から親指の突出た拳は現代のわれわれの眼にも異様に映ります。

  同書には,この大砲は男性で名前はキャイ・サトモ(ストモ)といい,バンタム(現在のバンテン・ラマ)に許婚がいて,両者が結ばれるときジャワは外夷を打払って独立を迎えるという予言が紹介されていますが,両者はインドネシアが独立して60余年を経た今も離れ離れです。筆者はバンテンを訪れたときに,成程,そこの博物館の前に,拳は付いていないものの大きさも形も似通ったキャイ・ストモと好一対のキ・アムック(またはキ・パムック)という名の大砲があるのを見ましたが,「バンタムのサルタン国」なる本[3]には,タイトルの「キ」が示すように,この大砲が男性でジャカルタにあるのが女性とあって,「じゃがたら紀行」の話とはあべこべです。

  19世紀のソロの有名な宮廷詩人ロンガワルシタ三世 (1802-73) の著作, Pustaka Raja Purwa Banjaransari にあって,其処此処に触れられている伝説では,キャイ・ストモは言うまでもなく男性で,彼のお相手は,現在ソロの王宮に存在するニャイ・ストミという名の大砲ということになっています。そのあらましは次のようなことのようです[4]

 

    嘗て,パジャジャラン国の王が,夢の中で雷鳴のように轟く兵器を見て,宰相のキャイ・ストモに,左様な兵器を探せ,然らずんば死すべしと告げた。困窮したたキャイ・ストモは,妻のニャイ・ストミとともに神の助けを求めて祈りに入ったまま王の前に姿を見せなかった。遣いに出した者から,宰相の家で奇妙な2つの物体を見たという報告を受けた王が見に行くと,それらは正に彼が夢に見た兵器であったが,そこに天の声あり,それらが宰相夫妻の化身であると告げられた。

    時が経って[パジャジャラン王国の滅亡後],件の兵器の話を聞いたマタラムの王スルタン・アグンは,それらをカルタスラの都に運ばせたが,キャイ・ストモは其処に留まることを好まず,ある晩,自力で王宮を抜出してジャカルタに戻った。しかし城砦の前に着いたときには既に夜が明けていて,彼はその先に進めなかった。人々は神聖な大砲であるに相違ないと畏敬し,小さな紙の傘で覆った。ニャイ・ストミの方は,新都スラカルタに移されたが幸せではなく,彼女が泣いて流す涙は下に置かれたボウルに落ちた。

 

    ニャイ・ストミは今もソロ王家の秘宝として公衆の目に曝されることなく,王宮内のクラトン・スラカルタ・ハディニングラットと云う名のホールに置かれた大きな櫃に格納されています。インターネット上で見た一葉の写真[5]には,砲口部の下の床にニャイ・ストミの零す涙を受けるための小さな缶のような器がありましたが,大砲そのものはジャカルタにある情夫のキャイ・ストモに釣合うには随分小さいように見えました。新聞で見付けた2010年の清掃式の折にカーテンを透かして撮られた写真[6]では,砲口の径が人の頭ほどあって,キャイ・ストモに相応しく見えます。

    別の章(第1章)に述べたように,ニャイ・ストミとキ・アムックは,「サケンデルの書」の中に,スペインから来たスクムルがパジャジャラン王統の血を引くタヌナガ王女を獲得する代価としてジャヤカルタ王子へ与えた3門の大砲のうちの2門として登場しました。但し,同書ではニャイ・ストミの行先はチレボンとなっていました。因みにもう1門はグントゥール・ゲニと言いました。

    キャイ・ストモについて,ある旅行案内書に,オランダが1641年にポルトガルの領有していたマラッカを陥れたときの戦利品であるとありました[7]。ニャイ・ストミには,デ・グラーフ博士の書[8]によれば,次のように経歴がありました。

 

    ニャイ・ストミは多分1609年頃にスラバヤの王子にポルトガルから贈られた品物の一つで,7年後にマタラムがスラバヤを陥落させたときに内陸に運ばれた。この大砲は1677年にマドゥーラの反乱軍によってカルタの王宮から収奪されたが,翌年オランダとマタラムの連合軍が旧都を回復したときに奪還されて新王都カルタスラに運ばれた。1746年の遷都の際にスラカルタに移され現在に至る。

 

    キャイ・ストミの名は,それが製造されたポルトガル領ゴア(1510-1961)の町サン・トメ(St. Thome)が,キャイ・ストモのそれは,それを運んできた船サンクタ・マリアム(Sancta Mariam)に由来するであろうとの推定があります 。なお,インドネシア語で大砲のことをメリアム(meriam)といいますが,恐らく語源は同じでありましょう。

  シ・ジャグールに関しては,その名がミスター・ロブスト(robust=強健)またはミスター・ファーティリティ(fertility=繁殖力)を意味する如く,古来これに詣でると子が授かるという言伝えがあるそうで,博物館の外にあった頃には子宝に恵まれない女性によって花が供えられ香が焚かれていたのを筆者も覚えています。砲身の手前部には幅10センチほどのブロンズのベルトが巻かれ,ラテン語で,

         EX ME IPSA RENATA SUM (我,我自身より再び生れぬ)

と浮彫りで刻まれています。鉄砲鍛治は兵器である大砲に何故にこの文言を刻み,奇妙な拳を付けたのでしょう。筆者はその意図を量りかねています。なお,ソロのニャイ・ストミにもポルトガル王の徴(しるし)とともに

         嗚呼キリストよ,貴殿最も完全にして世の民を導き給へり

といった祈祷文が付されている[9]そうですが,こちらは寧ろ鍛冶の真摯な祈りと解釈されましょう。

 

シ・ジャグール(別名キアイ・サトモ)。ジャカルタ歴史博物館にて,2007年2月,筆者撮影。

 

 


[1] F. de Haan, Oud Batavia ‑ Gedenboek uitgegeven Genootschp van Kunsten en Wetenschappen naar aanleiding van hetdriehonderdjarrig bestaan der stad 1919 (Eerste Deel), G. Kolff & Co., Batavia 1922

[2]徳川義親 「じゃがたら紀行」, 郷土出版社 1931(十字屋書店 1943,中公文庫1975);英訳: Marquis Tokugawa (translated by M. Iguchi), Journeys to Java, ITB Press, Bandung 2004;インドネシア語訳:Marquis Tokugawa (diterjemahkan oleh Ririn Anggraeni dan Apriyanti Isanasari), Perdjalanan Moenoedjoe Jawa, Penerbit ITB 2006

[3] C. Guillot, The Sultanate of Banten, Gramedia Book Publ., Jakarta 1990

[4] Nancy K. Florida, Javanese Literature in Surakarta Manuscripts: Manuscripts of the Mangkunagaran Palace Vol. 2, SEAP Publications, 2000 に依れば原典は,Ranggowarsita (1802-73), Pustaka Raja Purwa Banjaransari。この話は Suwito Santoso, Kestity Pringgoharjono, The Centhini story: the Javanese journey of life : based on the original Serat Centhini, Marshall Cavendish, 2006; A. Heuken SJ, Historical Sites of Jakarta, Cipta Loka Caraka, Jakarta 1982; Geoff Bennett, The pepper trader: true tales of the German East Asia Squadron and the man who cast them in stone, Equinox Publishing, 2006 などにあるが,ここでは最も詳しく書かれ,原典に近いと推定される次の記事に依った。

http://mhariwijaya.blogspot.com/2008_02_03_archive.html

[5] Peter Turner, Brendan Delahunty, Paul Greenway, James Lyon, Chris McAsey, David Willett, Indonesia: Lonely Planet Travel Survival Kit, Lonely Planet 1995.

[6] KOMPAS Citizen Image 24 Feb 2010F.

http://citizenimages.kompas.com/citizen/view/52937‑Jamasan‑Maulid

[7] Peter Turner, Brendan Delahunty, Paul Greenway, James Lyon, Chris McAsey, David Willett, Indonesia: Lonely Planet Travel Survival Kit, Lonely Planet 1995。インターネット記事,

https://ariesaksono.wordpress.com/2007/12/19/museum-fatahilah-jakarta-story-about-si-jagur/

によれば,この大砲はマラッカの防衛強化のため,マカオの MT Bocarro で製造された。.

[8] H. J. de Graaf, Wonderlijke verhalen uit de Indische historie, Moesson, Den Haag 1981. The content is cited in "Bericht Onderwerp: De kanonnen bij de Solose kraton (28 okt 2010)" in, http://indonesie.actieforum.com/t3516‑de‑kanonnen‑bij‑de‑solose‑kraton.

[9] Indro Nursito, “Legitimasi Kekuasaan Raja Mataram: Kangjeng Nyai Setomi, Meriam dari Portugis yang Keramat (The Legitimacy of the Power of Mataramese King: Nyai Kangjeng [Lady] Setomi, a Sacred Portuguese cannon)”, October 1, 2010 http://www.timlo.net/baca/4202/kangjeng-nyai-setomi-meriam-dari-portugis-yang-keramat/