12. ムル・ヤンクン物語

 

 

    1621年にバタフィアを建設した英雄ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは1587年にホールンで生を受けた歴としたオランダ人でありましたが,彼についてインドネシアに面白い伝説があり,18世紀にソロでジャワ語の詩で書かれた「サコンダルの書(Serat-Sakondar)」では,彼の名はムル・ヤンクン(Mur Jangkung=Jan Coen)といい,彼はパジャジャラン国のタヌラガ王女とオランダ人スクムル(Sukmul)の間に生まれた息子であったそうです。原文の翻訳は入手困難,其処此処に紹介されている話は断片的で要領を得ませんでしたが,幸いに詳しい解説の書かれた本[1]が見つかりました。ムル・ヤンクンの話は原書の後半にあります。

 

    「イスラム勢力が西ジャワに拡大してジャカルタ公[2]によってパジャジャラン王国が征服されたときといいますから,恐らく16世紀の半ばから後半に掛けての頃,山地に逃れた一人の王女が,聖者スカルシ(Ajar Sukarsi)[3] と出遭って妊娠し,驚くほど美しい女児(タヌラガ王女)を生みました。ジャカルタ公は成長した王女を勾引かし,ベッドを共にしようとしましたが,彼女の秘密の部分が火を噴いたので,彼女をジャカルタ湾の小島プラウ・プトゥリ(プリンセス・アイランド)に流しました。次にチレボンのサルタン,マタラムの王も彼女を己のものにしようと試みましたが,矢張り状況は同じで目的を果たし得ず,彼女は再び島に返されました。

    そこに現れたのがスペインから貿易船でやってきたスクムルなる男で,彼は3門の大砲[4]を代償として彼女を買取って,スペインに連れ帰りました。やがて二人の間にムル・ヤンクンが誕生しました。成長して立派な軍人となり,自分の誕生の秘密を聞いたムル・ヤンクンは母の国パジャジャランを潰し,王女であった母を辱めたイスラム教徒への復讐を誓い,15隻の軍船を率いてジャカルタにやってきました。彼はオランダ人居住者はもとよりジャカルタ公にも歓迎され,母から習ったマレー語[5]を話して土地の人たちとも交りましたが,その裏では密かに戦の準備を進めていました。軍事演習中に大砲の弾が誤ってクラトン(王宮)内に落ちたとき,ジャカルタ公は大いに怒ってジャカルタから退去するように命じましたが,ムル・ヤンクンは商業的損失が大きいからと容赦を乞いました。その後,ジャカルタを去ったのはジャカルタ公のほうで,オランダ人や大砲から遠ざかるため,神の意思に従ってグヌン・サリ(サリ山,現在のジャカルタ市域内)に退きました。ムル・ヤンクンはこれに喜び,クタ・タイという名の砦を築きました。オランダ人はジャカルタ公を攻めましたが,公の弟で超自然力を持ったプルバヤ王子の働きもあって,戦況は一進一退の状況にありました。スペインでこれを聞いてジャワに来たスクムルは,一計を授けました。ムル・ヤンクンが砲弾の代わりにコインを大砲に装填してグヌン・サリに向けて放つと,ジャカルタ公の兵は我先にとそれを拾いに出てきました。そこへ実弾が放たれ,兵の多くが斃れました。恐れをなしたジャカルタ公は,南方のプリアンガンの山中に逃れましたが,やがて彼の兵は彼の元を離れました。ジャカルタ公は一介の謀反者に成下り,超能力を持つ土地の連中とともに修行に励みましたが,失地を回復することは到底叶いませんでした。彼は悲愴な気分で,嘗て聖者スカルシの娘をオランダ人に売渡したことが間違いであったと気付き,自分の生涯に対する神の意思は何かと自問しつつ,スルタン・アグン(マタラムのスルタン)からはお咎めを受けるに相違ない,自分は罰を受けて死ぬであろうなどと嘆きました。バタフィアのオランダ人は数を増して,チリウン川が市中に取込まれて,運河に囲まれた市街ができていました。」

 

    この中でスクムルやムル・ヤンクンがやってきたのがスペインとなっていますが,詩の前半にはスクムルの家系やヨーロッパの様子が書かれていて,スペインはオランダの支配下にあったという前提になっています。それによれば,オランダの最初の支配者はナコダ(Nakoda,船長の意)といい,彼は母親の胎内から切開によって出生しました。彼は孤児でありましたが,武人として功を上げ,商人として豊かになって,12人の王の娘を妻に娶っていました。彼女らに子が生れないので,ナコダが隠者ミントゥナに縋ると,その魔力によって11人は男子を産み,その息子らは後に東インド会社重役会のメンバーとなりました。このとき子を産まなかった妻はガベサー(Ngabesah)のレトゥナ姫(Sang Retna)といい,夫に疎まれて厨房に追いやられていましたが,14年経って貝を生み,その貝から双子の息子,ラデン・バロン・スクムルと物語のタイトルとなったラデン・バロン・サケンデルが誕生しました。14年後,サケンデルはミントゥナに招かれてミントゥナの隠れ家に行き,危うく喰われそうになりましたが,辛くも相手を討ち,危機を逃れました。サケンデルはスペインに行って王の信頼を得て王女と結婚,武勲を立て[6],スペイン王が父ナコダの生別れになっていた兄弟であることも分って,サケンデルは王位を譲られ,彼の統治の下でスペインは大いに繁栄しました。その後,彼は商業の栄えるジャワに行きたいと欲し,王位をスクムルに譲ってスペインを出立,マタラム王の家来となりました。

 

    サケンデルの冒険は,魔王シングンカラ(Singgunkara)の魔力に支えられ,また彼の誕生と同じ頃に,母の侍女が産み落としたマンゴの核(さね)から誕生した双子兄弟の一人カセベル(Kaseber,他の一人スフルマン(Suhuruman))に加えて,サケンデルの兄弟であるというスンブラニという名の駿馬,カセベルの兄弟であるというガルーダという名の怪鳥が家来として活躍,さながらアラビアンナイトを髣髴とさせます。

    サケンデルの書からは次のような系図が導かれます[7]

 

 

    これによれば,ムル・ヤンクン,すなわちヤン・ピーテルスゾーン・クーンは,パジャジャランの血を引き,征服のためにジャカルタに来たというより母の国に帰還したということになります。この書の書かれた頃といえばジャワ人がオランダ人に接して既に2世紀,ヨーロッパの歴史に関して正しい知識を得ていた筈であるにも拘らず舞台設定が現実離れしているのは,フィクションのフィクションたる所以といえましょう。

    ムル・ヤンクンの話は西ジャワ伝統のワヤン・ゴレック(木偶を操る人形劇)にもなったそうですが,今日上演されることはないようです。

 

 

左:「ヤン・ピーテルスゾーン・クーン肖像」 ジャック・ワーベン(Jacques Waben) 17世紀初期作。複写元:https://nl.wikipedia.org/wiki/Jan_Pieterszoon_Coen

右 ムル・ヤンクンのワヤン・ゴレック用の木偶(http://indonesia.elga.net.id/wayang/ より転載)。

 

 


[1] M. C. Rickles, Jogjakarta under Sultan Mangkbumi 1749-1792, Oxford University Press, London 1974

[2] 原語は Pangeran。英語の Prince または Lord に相当。

[3] Ajar Sukaresiの名は,スンダの詩歌調伝説「チウン・ワナラ」に,Sang Perman Kusumah王(Ciung Wanara の父)が隠遁して聖者となった後の名前として現れる(第4章参照)。綴りは酷似しているが,Ajar Sukarsi と同一人物であったか否か筆者には不明。

[4] Guntur Geni (グントゥール・ゲニ),Ki Pamuk (キ・パムック),Njai Setomi (ニャイ・ストミ)の3基。それぞれ,マタラム,バンテンおよびチレボン王家の家宝として伝えられたとある。

[5] 所謂 Low Malay。古くから地域のlingua franca (共通語)で,インドネシア独立後,国語となった。

[6]  戦の相手は何故かサケンデルとスクムルの祖父に当るナベサー王で,スペインの王女を欲したのが原因。ナベサー(Ngabesah) はアビシニア(=エチオピア)でないかとの推定がある。敵方には,イギリス,フランス,チャイナなどが加勢していたとある。

[7] 脚注41。系図左側,パジャジャラン子孫のラトゥ・キドゥルはサケンデルの書とは無関係。彼女は南海の女王と呼ばれる伝説のヒロインで,諸説様々の中,一説では,「彼女はドゥウィ・スレンゲンゲという名のムンディンラヤ・ワンギ(シリワンギ)の娘であったが,自分の息子を世継にしたいと欲する第二王妃ドゥウィ・ムティアラが雇った魔女の呪いで皮膚病に罹って王宮から放逐される。南海(インド洋)の浜に至って海水に浸ると,病が癒えて以前にも増した美女となると同時に超自然的な力を得て,ラトゥ・キドゥル,即ち南海の女王となった。」(Argo Wikanjati,Kumpulan Kisah Nyata Hantu di 13 Kota,Penerbit Narasi 2010)。中部ジャワで18世紀に編まれた Babad Tanah Jawi によれば,パネムバハン・スノパティは彼女と契りを結んで力を授けられたと謂われ,その関係は以来のマタラムの歴代の王にも引継がれているとされる。(Nancy K. Florida,Indonesia,No. 53 (Apr.,1992),pp. 20-32,Published by: Southeast Asia Program Publications at Cornell University)