第6章附録   

ジャヤバヤ王の予言   

   

1.梗概   

    ジャヤバヤ予言と謂われるもので,筆者が10数年前に目にしたのは,「白い水牛がジャワに来て,長期間滞在する。彼らは黄色い猿によって駆逐されるが,猿は僅かトウモロコシの寿命の期間留まる。その後,混乱の時期を経て,ジャワは其処の人々自身のものとなる。」[1]といったものでした。眉唾ものとも取れるこの類の予言[2]は第二次大戦時,日本軍によるジャワ占領を予見したものとして相当程度に知られていたらしく,インドネシアに住むようになって,年配の人からは斯様な話を覚えていると聞きました。他方,インドネシアの人々の間でより多く語られていたのは,「ジャワ人のジャワ」が実現するに先立って出現すると予言された正義の王(ラトゥ・アディル),スルタン・エルチャクラが誰であったかという謎解きであって,19世紀前半に蘭領東印度政府に叛いてゲリラ戦[3]を挑んだラデン・デポネゴロ,インドネシア独立前後以降にはスカルノ,スハルト両大統領の名が取沙汰されたと知りました。   

    然らば,ジャヤバヤ王の予言の本源は何か。物の本によれば[4],ジャヤバヤ王に関する伝説は19世紀初めにソロの王宮で編纂された「チェンティーニ物語(Serat Centhini)」に書かれ,同世紀の後半にソロの詩人たちによって敷衍され,取分け「最後の偉大な宮廷詩人」と謳われたランガワルシタ3世(1802‑‑1873)著作の「ブック・オブ・キングス:ジャヤバヤ編(Serat pustaka Raja Madya: Jayabaya)」や 「ムサラルの書の解釈(Koal saking Kitab Musarar)」によって世に広まったようです。以下に,Kamajaya著「ジャワの文化-イスラムの影響」[5]の中「ジャヤバヤ予言の核心」の節の要約を記します。   

    「クディリの王ジャヤバヤは嘗てルム帝国(トルコ)から来たマウラナ・アリ・サムスジェンという名の未然の事柄を予知する能力を持つことで有名な高僧を客に迎え,教えを乞うた。サムスジェン師が説いた『キタブ・ムサラル(ムサラルの書)』によれば,ジャワ島での人の定住は,ルムのスルタン・ガルバーが送った2万の家族に始まった。移住者はケンダンの山地に配置されて森を拓いたが,彼らの殆どは惡霊,悪魔などに煩わされてルム暦427年[6]に死滅した。ルムのスルタンは再びインド,ケリン,カンディおよびシャムの人々にジャワおよび周辺の島々への移住を命じた。第二の移住者の時代は,ジャワ暦元年(西暦78年)に始まり,最後の審判の日まで,太陽暦で2100年(太陰暦で2163年)まで続く。   

    これを学んだジャヤバヤ王は,数日後,この2100年の期間を各々700年の創世記,中間期,最終期に大区分,それぞれを100年に小区分した時代予測を書上げた(下記「ジャヤバヤ王に依るとされる時代区分」参照)。この時代予測はアリ・サムスジェンによって承認された。然る後,サムスジェンは,ジャヤバヤ王と皇太子アミジャヤに国境で見送られて自国に帰った。   

    ジャヤバヤ王は息子を伴ってパダン山に行き,ジャワでサムスジェンの教えを受けたもう一人の人物,修行者サン・アジャール・スブラタ[7]を訪ねた。サン・アジャールは客を祈祷室に案内すると,王が真実にヴィシュヌ神の化身であるかを試したいと欲し,メイドに馳走を運ばせた。献立はウコン,ジュアダー(糯米ケーキ),ゲティ(砂糖付きの胡麻),カジャル(苦く刺激的な味の根菜),大蒜,ジャスミンの花,菊の花の7品目であった。ジャヤバヤはサン・アジャールが馳走を手渡すや否や激昂しクリス(短刀)を抜いてサン・アジャールを刺殺した。   

    アミジャヤが,これに驚き悲しむと,ジャヤバヤは,次のように言った。『我が息子,皇太子よ。汝の義父の死を悲しむ勿れ。彼が王宮に対して罪を犯せしは事実なり。彼には王国の滅亡を早めんとの魂胆ありき。アジャールの馳走は未然の事件の象徴なりき。此の馳走により,帝國は潰え,さある僧が民の尊敬を受ける者とならん。我が師,バギンダ・アリ・サムスジェンによらば,師の知恵と我が知恵は同一なり。』キ・アジャールが供した馳走と王宮の関係をアミジャヤが問うと,ジャヤバヤは次のように続けた。『息子よ。汝知るらん。我,ヴィシュヌ神の化身にて,地上に繁栄を齎すを任務とす。この化身の姿にて,我,此のクディリに於けるの後,更にマラワパティ,ジャンガラにて二度生きるべし。然る後,我,ジャワ島にて化身すること勿かるべし。その後の此の島の状況,我が任務たらざらんが爲なり。我,此の地の繁栄または毀損に拘るなく,我が存在,不可視となりて,頭脳の中で我が師の姿と融合すべし。此の後の事件の發生,サン・アジャールの7品目の馳走に象徴されり。七代の王國[8],支配者を異にして変転すべし。今の状況に於ける試練,汝の子孫の爲なり。』次いで,ジャヤバヤは『七代の王国,斯くあらん。』と曰って,カラ・ウィセサ(支配者の世紀,サカ暦1201-1300年)以降,カラ・スラサ(平穏の世紀,サカ暦2001-2100年)の終りに最後の審判の日を迎えるまでの時代予測を詳述した。[9]」   

    この中には,確かに,カラ・ベンドゥ(怒りの世紀,サカ暦1701-1800年)に続くカラ・スバ(幸福の世紀,サカ暦 1801-1900年)にスルタン・ヘルチャクラ(ラトゥ・アディル)が出現すると書かれていましたが,冒頭に述べた遍く流布されたジャヤバヤ予言の中にある白い水牛(白人)や黄色い猿(黄色人)の到来を示唆する記述には触れられておらず,他に入手し得た様々な書物の中にも見当りませんでした。ランガワルシタ3世の著作は一般の人間には殆ど閲覧不能,仮にできたとしても原語は筆者の読めるものではありません。「チェンティーニ物語」のインドネシア語訳は一般の書店やバンドンやボゴールの身近な図書館になく,殆ど諦めていましたが,ある時,ジョクジャカルタ市中タマン・ピンタールの古本屋街で,幸運にも第1-第4巻[10]を見付け,早速紐解いたところ,第4巻始めの部分に次の記述がありました。   

    「第5期はカラサクティ(Kalasakti)と呼ばれる。この期間に宗教と国家権力が機能し始める。人々への税は銀貨で支払うよう定められる。間もなく戦争が起り,国は混乱する。戦闘は,裕福で戦に長け,十分な装備を持つ白い肌のナコダ(船長)の助けによって鎮められる。王国は,最初は敵に通じ,遂には敵となる王の息子によって滅ぼされる。(257:15‑18)   

    第6期はカラジャヤ(Kalajaya)またはクティーラ(Kuthila)といい,利己的な願望が支配する。貪欲な人々の欲望は彼らが猿であるかのように大きいが,それは当時食物が大変不足するからである。人々は銀または銅の貨幣で課税される。短期間のうちに王宮を攻撃し王位を奪うのは王の親戚の者である。程なくして災難が始まる。多くの人々は貧困を蒙り,大地は荒れ,多くの人々は道路や市場で暮す。黄色い肌の外人によって王国が破壊され,王の旗が下された。(257:19‑23)。」   

    チェンティーニの書の英訳および邦訳は,筆者の知る限り既刊の書物に見当らないので,参考のため,文末にジャヤバヤ伝説に関する部分の試訳を付します。   

    古い時代に書かれたジャヤバヤ王に纏る伝説は曖昧且つ難解であって,それ故に後世,就中19世紀後半~20世紀前半に詩人やイスラム学者の間で様々な解釈を生みましたが,白い水牛,黄色い猿の話は,恐らく先の大戦当時,ジャワを占領した日本の軍部が,自分達の行為を正当化して教宣するために,ジャヤバヤ王の名を借りて勝手に捏造して,あるいは現地のナショナリストに作らせて,喧伝したたもののようです[11]

    然し,チェンティーニの書にある「白い肌の船長」の話の類は,同書が編まれた1815年より2世紀前にも知られていたらしく,1619年にバタフィアを築いたVOCヤン・ピーテルスゾーン・クーン総督の報告に,次のような記述があるそうです。   

    「この国には古い昔から,白い肌,猫の如き目,豚のような大きな鼻を持つ何人かが何処かの遠い国からやってきて,この国を3世紀もの間支配する。」という言伝えがある。彼ら(ジャワ人)には我々(オランダ人)が彼らを早晩支配するであろうとの恐怖心あり,将来,常に平和を乱すような嫌悪が生ずるであろう。」[12]   

    「チェンティーニ物語」は,第一義的には,17世紀の前半にジャワ島内の広範な地域を巡り歩いた三兄妹の旅行記として位置づけられましょう。東ジャワ,グレシックのスナン・ギリ家の王宮がジャワの統一を目指すスルタン・アグン・ハニョクロクスモの女婿スラバヤ公ラデン・プキクの攻撃を受け,スナン・ギリ・プラペンが捕囚となって妻子とともにマタラムに送られたとき,側室の子供たち3人は危うく難を逃れました。後にタンバンララスと結婚する長男ジャイェンレスミ(修行名セー・アモングラガ)は修行の旅に出奔,次男ジャイェンサリ(別名ジャイェングラガ)と長女ランチャンカプティも別の道に旅立ちました[13]。後にランチャンカプティの夫となった学僧チェボランも長旅をしました。「チェンティーニ物語」には彼らが訪れたジャワ島内各地の情景や出会った学者との会話などが克明に綴られていて,当時のジャワに関する百科全書的な知識を後世に残しました。今日に伝わる同書は18世紀にソロの王宮で編纂されたものですが,恐らくスナン・プラペンの子供たちの旅行中に書かれた詳細な日記が存在し,それが下敷にされたに相違ありません。「チェンティーニ物語」に彼らの旅の日付の書かれていないことは残念に思われますが,これは現代に住む者の過剰な欲望かも知れません。同書には,「タンバンララス-アモングラガの詩(Suluk Tambangraras- Amongraga)」の異名もありますが,一般にはタンバンララスの侍女の名に因む「チェンティーニ物語」の名で呼ばれています。主役でない彼女の名が書の題名に選ばれたのか,これには以前から学者の間で色んな議論がなされたようです[14]が,筆者は彼女が書き遺した記録が元になったのではなかろうかと揣摩します。   

    「チェンティーニ物語」の中で触れられた「ムサラル書」は,スナン・ギリ・プラペン(在位1548‑1605AD)の作と伝えられていますから,書かれたのは16世紀末~17世紀冒頭の頃かと想像されます。インターネットで見付けたインドネシア語訳テキスト[15]を見てみたところ,内容は評判通り難解を極め,筆者は全体を読解くのを諦めましたが,そこには「ナコダ(船長)が貿易のために到来した」,「ナコダは政府に参加した。彼らは勇猛で裕福であった。」といった白人の到来を示唆する行がありました。若し過去の事件がヒントであったとするなら,それはオランダ人より数十年も前からジャワに来ていたポルトガル人であったかも知れません。前述のヤン・ピーテルスゾーン・クーンの時代(17世紀前半に)に聞かれた伝説の由来が「ムサラルの書」にあったか否かは全く不明で,若しかすると,それより古い何らかの資料,あるいは伝承が存在していた可能性が否定できますまい。   

    「チェンティーニ物語」の中にある「黄色い肌の外人」を匂わす表現は「ムサラルの書」にはないように思われますが,資料が何れであったにせよ,予言の拠るところは,嘗てのクビライ・カーン軍の来襲の記憶であったかと推量されます。日本が近代国家としてジャワの人々の間で意識され始めたのは,日清あるいは日露戦争以降のことでありました。   

    一言私見を付け加えさせて頂きましょう。日本には大東亜戦争から60数年経た今も,「東南アジアに進駐した日本軍は現地の人々に歓迎された。日本は戦争に負けたが,彼らの独立に貢献した。」などと言う人たちがいますが[16],少なくともインドネシアは,それに該当しないと筆者は断じたい[17]。日本の占領が現地の人々を塗炭の苦しみに陥れ,戦前アジアで最も豊かであった国を最貧国に近いレベルにまで低落させたというのが,インドネシアの人々の認識であって,戦前を記憶する年配者の間には,大東亜戦争開戦前の時代へのノスタルジーが強い。況して過去の日本軍の行状を肯定的に評価する人は,一部の史家を除けば,皆無でありましょう。   

    インドネシアの人々が一般的に親日的であるのは,ひとえに彼らの寛容な国民性によるものでありましょう。彼らの最も親しみを持つ外国は,現在でもなお,彼らが独立に至るまで宗主国として同国の近代化と発展に寄与したオランダであるといって間違いないと思います。   

   

2.ジャヤバヤ王に拠るとされる時代予測[18]

大区分

1.

創世記 カリ・スワラ(音の時代) 1-700

 

ジャワでは騒音,雑音,雷鳴,落雷といった自然の音が聞かれ,多くの不思議な事が起きた。これは数多の生命体が神および女神となって地に降り,人間となったためである。

2.

中間期 カリ・ヨガ(暗黒の時代)  701-1400

地上では多くの変化があり,小さな島々が出現した。死者が蘇り,多くの生き物が徘徊した。

3.

最終期 カリ・サングラ(没落の時代) 1401-2100

 

夥しい雨が降る。多くも河川が膨張した。大地は豊かさを失って幸福の到来を遅らせ,人々は感謝の念を消耗し,知識を持ったまま死ぬ。

小区分

1. カリ・スワラ(音の時代または創世記)

1)

1-100

カラ・クキラ (鳥の世紀) 

人々の生活は恰も鳥のようで互いに争い,強者が弱者に勝った。当時,王は存在せず,誰も規制または統治を受けることがなかった。

2)

101-200

カラ・ブッダ(仏の世紀) 

ジャワの人々は,ヒヤン・ジャガドゥナタ(インドの師)の教えにより仏教を信仰するようになった。

3)

201-300

カラ・ブラワ(光の世紀)

ジャワの人々は,地上に降りて知識を広めた(ヒンヅー)神を信仰するようになった。

4)

301-400

カラ・ティトゥラ(水の世紀)

大洪水が起きた。海水は陸に溢れ,大地は2つに別れた。西側はスマトラと呼ばれた。泉や湖といった多くの水源が生れた。

5)

401-500

カラ・スワバラ(奇異の世紀)

多くの奇異な出来事が起った。

6)

501-600

カラ・レバワ(繁華の世紀)

ジャワの人々は,芸術などの活動を始めた。

7)

601-700

カラ・プルワ(開始の世紀) 

多くの植物が繁った。巨人は既に普通の人間になっていたが,再び巨大になった。

2. カリ・ヨガ (暗黒の時代または中間期)

1)

701-800

カラ・ブラタ(苦行の世紀)

 

人々は隠遁者として生きることを経験した。

2)

801-900

カラ・ドゥラワ(扉の世紀) 

 

多くの人が刺激を受け,不可視の事柄を説明できるよう利口になった。

3)

901-1000

カラ・ドゥワパラ(奇跡の世紀)

 

多くの有得ない事件が起った。

4)

1001-1100

カラ・プラニティ(検査の時代)

 

多くの人々が勉学に励んだ。

5)

1101-1200

カラ・テテカ(移民の世紀) 

 

多くの移民が他国から来る。

6)

1201-1300

カラ・ウィセサ(支配者の世紀) 

 

多くの人々が罰せられる。

7)

1301-1400

カラ・ウィサヤ(中傷の世紀) 

多くの人々が互いに中傷をする。

3. カリ・サンガラ(没落の時代または最終期)

1)

1401-1500

カラ・ジャンガ(詩人の世紀) 

多くの人々が偉大さを求める。

2)

1501-1600

カラ・サクティ(奇跡の世紀) 

多くの人々が超能力を求める。

3)

1601-1700

カラ・ジャヤ(栄光の世紀)

多くの人々が生活の支えの為に力を求める。

4)

1701-1800

カラ・ベンドゥ(怒りの世紀)

多くの人々は議論を好み,遂には嫌悪し合う。

5)

1801-1900

カラ・スバ(幸福の世紀)

ジャワ島は困難なく繁栄し始め,多くの人々は良い気分に浸る。   

   *この世紀にラトゥ・アディル(正義の王)と呼ばれるスルタン・ヘルチャクラ が出現する。

6)

1901-2000

カラ・スンバガ(名声の世紀)

 

多くの人々は有名,利口かつ偉大となる。

7)

2001-2100

カラ・スラサ(平穏の世紀)

ジャワ島は平和に繁栄し,秩序がある。難儀なく多くの人々は愛情を持つ。   

   *最後の審判の日に至る。

   

3.「チェンティーニ物語」の中のジャヤバヤ予言に関する部分(試訳)[19]   

          第3巻 9.マス・チェボラン,パジャンを発ち,ディラウェアンに着く   

          9.1 マス・チェボラン,キ・アントゥヤンタおよびキ・サリに会う   

    幸せな気分で,キ・マス・チェボランはキ・マストゥティの説明を聴き,「マタラム・サルタンの遺言によってグラウェアンに埋葬された彼のもとに参詣することは拒まれないでしょうか。依頼されて其処に住んで墓守をしておられるのは何方ですか。」と丁寧に言った。   

    キ・マストゥティは,「息子よ,私の知る限り,墓守が許可する限り,死者を訪れるのに差障りはない。墓守は名をキ・ガブドゥル・アントゥヤンタといい,マタラム王の兄に当る。彼の弟のキ・ガブドゥル・ジュジュルはキ・サリと呼ばれ,サラの郊外に住み,村長をしている。彼はスセラの子孫で,キ・アゲン・アニスの孫である。彼らふたりはパゲラルガの子孫でジャルマリム(知恵者)と呼ばれている。若し君がグラウェアンを訪れたいのなら,私が其処に案内しよう。今やベドゥック(礼拝の開始を告げるための吊下げ大太鼓)も終わりに近い。我々はモスクに行って昼の礼拝をしよう。」と答えた。(255:17-20)   

    チェボランは大変幸せで,「どうぞ其処にお連れ下さい。」と言った。   

彼らはキ・マストゥティを先頭に直ぐに出発した。ゴングの気高い音が聞えたころ,彼らはとある川に着き,沐浴を済ませてモスクに向った。キ・アントゥヤンタが祈りの言葉の最初の部分を詠み終えると,会衆全員が感激して後に続いた。それは礼拝指導者になった彼が高い識見を持ち,能弁に正しい言葉を話し,信念を曲げず,規則に忠実で確信を持つ人物であったからである。神と最後の預言者の名を恭しく讃えた後,キ・マストゥティは握手して,「兄弟よ,私はキ・マス・チェボランという名の客をお連れして参りました。」と言った。   

    彼は一部始終を長々と話し,墓参りをしたいというチェボランの願望を伝えた。キ・アントゥヤンタは心からの喜びを見せ,チェボランを心に留めるため,暫し彼を眺め,「ああ,チェボランよ,大変に良いご希望だ。だが,タリル(神へ賛辞)の後にしよう。私の家で休み,マタラムにいるときと同じように寛ぎ給え。町にいる貴君の愛する者へ,とは言え叶いはせぬが[20]。但し,大都市には何でもある反面,ここは閑静で侘しいところだが。」と言った。   

    マス・チェボランは会釈して,「仰せのように,もし私が贅沢な暮しをしていれば,それに溺れ易く,真実を見出すことが叶いません。」   

キ・ガブドゥル・アントゥヤンタは笑いながら,「息子よ,最初にお墓に行こう。」と言った。   

    それから彼はチェボランの手を握った。居合せたキ・マストゥティと4人の学生並びにキ・サリ・サラも後に付いて,モスクの裏手の墓地に向った。(255:21‑27). (255:21-27).   

    沈香の香りが漂っていた。彼らは途切らすことなくタリルを口ずさんだ。お祈りを終えると彼らは墓地から引揚げた。キ・ガブドゥルは客とともに家に戻った。広間には茣蓙が敷かれ,馳走が用意されていた。家に着くと,マス・チェボラン,キ・サリ,キ・マストゥティは広間に腰を下し,学生たちは表の玄関に座った。サラが彼らの前に運ばれた。そこには煙草とキンマ,それに飲物と菓子があった。彼らが寛ぐと,主は彼らを招き寄せ,「どうぞ,好きなように煙草なりキンマなり,やり給え。飲物で喉を潤し給え。菓子も摘まんで,空腹を満たしてくれ給え。」と言った。   

    招待客は会釈し,皿に近寄って食べた。キ・ガブドゥル・アントゥヤンタは気忙しく食物を運んだ。サンドマットは白布で被われた。飯は芳香を放った。鶏の揚物と蒸し野菜が中央に盛られた白飯の周りに,バナナ,ケペルフルーツ,スターフルーツは左右の側にあり,副菜には様々の肉料理,小粒の赤玉葱,大蒜,小胡瓜,新鮮なバジルの葉,モヤシ,唐辛子,鶏の揚物があった。(255:28‑32).   

    準備が整うと彼らは知らせを受けた。主人と客の4人は一緒に食べた。料理は何れも美味しかったので,彼らは食べた。果物を摂ると広間の中央に戻った。何人かは煙草を喫み,他はキンマを噛んだ。キ・マストゥティは,「私は満腹で,また妻に前もって伝えてなかった。私はムティハンに戻るが,どうぞ此処にゆっくり留まり給え。兄弟よ,安寧でありますように。」,と穏やかに言った。   

    彼らは握手を交し,キ・マストゥティは出掛けた。学生たちは同じ食事を供された。主人は寛大に食事を振舞い,あれこれ配慮した。彼は,「君達は私の息子と友達だ。スラウ(小さなモスク)で休んで,体を伸ばしてくれ。」   

    マス・チェボランと4人の学生は,挨拶して宿舎の宿舎に引揚げた。(255:33-36)   

    全ての料理は美味しく且つ大変に結構で,客を失望させることなく,招待に相応しかった。加えて,祈りの度にキアイの役を努めたのは主人のキ・マストゥティであった。サラ村からきたキ・サリは家に帰ることを拒まれた。夜の祈りの後,モスクのホールに座って客に会い,チェボランは,何時キ・ワナカルタに会ったかを訊ねられた。最後に彼は,「私に一つ関心のあることがあります。キ・ワナカルタに依れば,私のマタラム王国についての予言は,実際には永久的なものではなかろうとのこと。   

    逆に,或る日,王国は破滅し,予測ではジャワの王宮はマタラムからワナカルタに移り,そこでは光が輝くであろうとの由でした。私は大変に驚き,落胆,失望し,悲しく感じ,真剣にそれについて考えました。結果的に,願わくば,実際にジャワの王宮が移動するにしても,それが最後の日まで,永遠に続くであろうことを,私は最高神に祈りました。」   

    アントゥヤンタは,「私も君の願望に同意するが,既に確立された話に依れば,ジャワの王宮は神の意思により彼方此方に移るであろうと予測される。私の弟サリよ,君はジャワの地に関する予言を識っているだろう。それを君の子,キ・チェボランに手短に話してやって呉れ給え。さすれば彼の悲しみは晴れ,究極的に彼は現実を受止めるであろう。」と穏やかに言った。(255:37-42)   

    キ・サリは次のように話した。それはクディリにジャヤバヤ王が君臨したときのこと,彼はルム(トルコ)の国から来たモラナ・ガリム・サムスジェンという名の高僧の訪問を受けた。あらゆる知識を修めた彼は,科学に秀で,未来を占うことで有名であった。彼は物事を聞いたり目撃したりする前に,明白,精密かつ正確に理解することができた。王は,僧の知識に感心し,彼の好意を求めた。僧は直ちに,高度な科学を教え,神の秘蹟,ヒアン・アグン(神)の秘密,秘密の思想,並びに既にムサラルの書に書かれた全てのサスミタ(サンスクリット語,前兆),取分け将来現実となる時代予測を明かした。ジャヤバヤ王の心は,それらの教えによって明るく輝いた。あらゆることが彼の脳に吸収された。そして,彼は,将来実現されるであろうジャンカ・タナー・ジャワ(ジャワの地における時代予測)を書上げた。(256:1-6)     

    それはゲルムから来た人々の定住に始まり,審判の日に至る期間に亙った。全期間は3つの大きい時代に分けられた。第一の時代は,カリ・スワラ(kali swara)と謂い,意味するところは音の創造の時期であって,その期間は太陽暦700年,太陰暦721年であった。この時代,多くの奇妙な音があった。世界中の霊魂は,雷鳴,騒音,驚異,暗黒,嵐の轟音,落雷を聞いたり見たりした。多くの信心深い高貴の人々は敬虔に黙想したので,多くの神々は自らを体現し,人間の世界に降臨して,全ての人々を救うために,王または時にはブラーマンになった。(256:7-11).   

    中間期は,カリ・ヨガ(kaliyoga)と呼ばれ,それは植物の発生を意味した。その期間は太陽暦700年,太陰暦721年であった。この時代,自然にけんかが起った。大地は分裂し,時には土が散らばって島々を形成した。死者が,人間の世界に蘇った。(256:12-14)   

    話は カリサングラ(kalisangara)と呼ばれる 最後の時代に移ったが,それは洪水を意味した。期間は太陽暦700年,太陰暦721年であった。   

    この時期,ジャワの地には多くの豪雨や騒音があり,大地にとって良い時期ではなかった。大洪水や河川の蛇行が起り,大地が恵みを受ける兆しはなかった。人々は物質的必要を追及するに連れ,内的幸福を受入れるようになった。生活のためのあらゆる知識を学んだ者が,常に自己の認識を指針としたためである。(256:15-18).   

    3つの時代は各々サプタ・マンガラという7つの小期間に分けられた。ジャワの大地は移動が終り,既に固定されていた。各々の期間は太陽暦で略々100年であった。それぞれの100年の間には3回の変化が起り,マングサカラ,またはンガヤ・ンガヤ(同時に2つまたは3つの仕事をこなす)期と呼ばれた。各々の王国の期間は33ないし34年であった。以上がジャヤバヤ王の時代区分であり,人間の生活ほかジャワ中のあらゆる事象が,実際に起きる前,あるいは決着をみる前に記述された。(256:19-23).   

    扨,カリ・スワラ (kaliswara) の時代は7つの時期に分けられたが,その詳細は以下の如くであった。最初の時期はカラ・ククリア(kalakukila) といい,それは鳥の時期を意味した。全ての肌の色の人々は混乱して,止まる場所を探す鳥のように彷徨った。第2はカラ・ブッダ(kalabuddha)といって服従の時期を意味した。この時期,多くの人々は神に従順で,信仰の徴として神を讃えた。第3のカラ・ブラワ(kalabrawa) は光の時期を意味し,多くの人々は,自身の意思のままに貪欲で,心に受容の感性を持たなかった。第4はカラ・ティルタ (kalatirta) といい,水の時期を意味した。多くの豪雨や洪水があり,水が海のように溢れた。第5はカラ・ドゥワバラ (kaladwabara) で,美しい時期を意味し,多くの優雅な事象があった。第6のカラ・スワバラ (kalaswabawa) は混雑の時期を意味し,全世界は生き生きとした状況にあった。第7はカラ・プルワ (Kalapurwa)といい,開始の時期を意味した。地上のあらゆるところに色んなものが生育した。(256:24-31).   

    話は変って,カリ・ヨガ(kaliyoga)の時代は次の7つの時期に分けられた。第1の時期のカラ・ブラタ(kalabrata)は,行動の時期を意味した。この時期,多くの人々は心を目的に向け,より良い人になるために修行をおこなった。第2のカラ・ドゥパラ(kaladupara)は回廊の時期を意味し,多くの人々は神から開かれた心を授かった。第3のカラ・ドゥワパラ(kaladwapara)は不可能の時期を意味し,多くの有得ない事象が起きた。第4のカラ・プラニカ(kalapranika)には忠実の時期を意味し,多くの人々は黙することなく最大限度の努力をした。第5期のカラ・テテカ(kalateteka)は ティガス(tigas) の時期で,多くの偉人が他の島から到来した。第6のカラ・ウィセサ(kalawisesa)は,処分の時期を意味し,人々が王の権威で処罰された。第7のカラ・ウィサヤは シカラ(sikara)の時期で,多くの人々が相互に中傷した。(256:32‑39).   

    次のカラ・サンガラも7つに時期に分けられ,詳細は以下の如くであった。最初のカラ・ジャンガ(kalajangga)は偽の花の時期を意味し,多くの人は偉大になるために高度な功業を行った。第2のカラ・セクティ(kalasekti)は  kawasa の時期で,多くの人々は,余剰,機敏性および我慢を得た,第3のカラ・ジャヤ(kalajaya)は優越の時期を意味し,より多くの人々が,強くなるために修練した。第4のカラ・ベンドゥ(kalabendu)は  bebendu の時期で,人々は合意できない意見を持ち,精神的にではあったが,外的に争った。第5のカラ・スバ(kalasuba)は多くの人々が幸福を見出し,満足し,愉快であったことを意味した。   

    第6のカラ・スンバラ(kalasumbaga)は misuwur[21] の時期で,多くの人々が名声を得,生涯を通じて有名になった。第7のカラ・スラタ(Kalasurata)は alus[22] の時期で,多くの人々が平和な気持で相互に助け合った。(256:40‑47)   

    我が息子よ,「時代予測」の事相の説明は此れで終る。クディリのジャヤバヤ王の遺言に,望むらくは現実の比喩に基く知識が付与されよう。私は比喩の形で説明することはしない。7つの時期それぞれは,ジャワ王宮政府の仕組の中で起った。   

   

          第4巻 1.ラウェアンにおけるマス・チェボラン   

          1.1 キ・サリ,7つの期間について語る   

    7つの王国はパジャジャラン王国に始り,最後の審判の日まで続く。他の6つの王国および君臨した王の名は会話の中で適当に説明されることなく,理解できる程度に敷衍されることもなかった。人は真実に直面したとき,神の意思を受入れる。最後に我々は相手を誹謗,批判したり,過度に讃えることなく,国の動輪の回転についても同様である。(257:1-3)   

    カラウィセサの時代,アンデルパティという期間がある。王国の名はパジャジャランという。行政は法に基かず,規制もない。人々は金でもって税を払う。王国は王自身の兄弟との憎悪によって荒廃する。強者が力を増す。戦争が100年続き,王国は破滅して,別の場所に移る。(257:4-6)   

    同じ時代の第2の期間はカララジャ(Kalaraja)といい,統治者はデワジャヤという。   

    規制が働き始める。人々は100年間,銀の形で税を課せられる。仏教は終焉する。宗教は彼の息子への憎悪によって破滅する。(257:7-9)

    カラウィセサ時代の第3期はアディヤティ (Adiyati) ともいう。この期間に法,正義および規則が始る。イスラム教と行政が発展する。人々への税は労力のかたちで支払わされる。王国は王の権威に対する王宮内での反駁によって破壊される。(257:10‑12) 第4期はカラジャンガ(Kalajangga) である。この期間中,問題解決のために議論が行われる。人々への税は土地からの収穫物で支払われる。王国は王の養子との対立によって破滅する。(257:13-14)   

    第5期はカラサクティ(Kalasakti)と呼ばれる。この期間に宗教と国家権力が機能し始める。人々への税は銀貨で支払うよう定められる。間もなく戦争が起り,国は混乱する。戦闘は,裕福で戦に長け,十分な装備を持つ白い肌のナコダ(船長)の助けによって鎮められる。王国は,最初は敵に通じ,遂には敵となる王の息子によって滅ぼされる。(257:15‑18)   

    第6期はカラジャヤ(Kalajaya)またはクティーラ(Kuthila)といい,利己的な願望が支配する。貪欲な人々の欲望は彼らが猿であるかのように大きいが,それは当時食物が大変不足するからである。人々は銀または銅の貨幣で課税される。短期間のうちに王宮を攻撃し王位を奪うのは王の親戚の者である。程なくして災難が始まる。多くの人々は貧困を蒙り,大地は荒れ,多くの人々は道路や市場で暮す。黄色い肌の外人によって王国が破壊され,王の旗が下された。(257:19‑23)     

    第7期はカラベンドゥ(Kalabendu)またはハルタティ(Hartati)で,全ての人は金銭以外のことを考えない。当時のジャワには2つの双子のような王国が存在する。人々は銀貨や銅貨で税を払わされる。間もなく,人々の税には収穫物と鶏,家鴨,牛,水牛などの家畜が加えられる。国難が増すにつれて正義が失われ,人々は横柄になる。役人は中傷を好み,思慮を欠き,王は民の要求に利益に注意を払わず,正しい情報を伝えない。齎されるのは悪魔の情報である。人々の振舞が変り,多くの女は恥の感覚を持たない。親類の世話は失われ,正しいニュースは聞かれず,多くの人々が餓え,心を病む。利口な人々は狡猾になって悪人に従い,悪人が増え,多くの盗人や強盗が路上に徘徊する。犯罪者のボスは安全で,著しく強くもなる。屡々日蝕,月蝕があり,灰が降り,地震,落雷,雨,風,嵐が一季節に起る。絶え間ない戦闘や暴動があるが,敵は現れない。内的な平和を得ることは不可能である。政府の統制は壊れて指示はなく,目を見張るような人物は消滅し,国が空虚となる兆しがある。カラティダー(Kalatidha)の期間,賢者は失われる。人々の心は多くの障害で満ち,良い暮しの兆しはない。(257:24-35)   

    王と王族には知性と栄誉があり,宰相は完璧,大臣は実直,国の指導者達は善良で魅力的であるが,これらの条件はカラベンドゥ期の到来を阻むことにはならない。状況はさらに進む。この国の人々の望みが様々であるので,多くの不安な障害がある。(257:36‑37)   

    悲鳴が上り,彼らの心は困惑に沈む。心を和ませると,果実を我が物にせんとの貪欲にかられ,彼らは悪に向う。遂に,彼らの目的は不警戒のために混乱する。(257:38-39)   

    パニタ・サストゥラ(文学委員会)の学説は,この呪わしい時期に善良な人格を持つ人が敗北すると警告する。これは既に起った事件を看取し観察した結果である。グンブルン(Gemblung)またはエダン(Edan)の期間(狂気の時期)を過した者にとって,心は不快で混乱している。狂気に加わろうとすれば,心がそれに耐え得なかいが,もし加わらなかったら,世界の富の一部を得ることはできず,結局は餓えることになる。それは神の意思であり,(富)を忘れたものは幸運であるが,若し(富の事を)思い出して注意を払う者はより幸せである。   

    その頃,カラドゥカ(Kaladuka)の期間は終りに近づいている。王国の破滅は(王の)側室との不一致に依るものである。(257:40-44)   

    話を聞いていた人たちは心の中で震え,呆れて喉を乾かせ,頷きながら首を左右に振った。(257:45)   

    マス・チェボランは,話を遮って,「グドゥビラー(gudubilah)の期間は,もう終ったのですか,それとも未だ続くのですか。」と尋ねた。   

    キ・サリは「それは終わりではなく,心を震わせない時代が来る。」と答えた。(257:46‑47)   

    神の意思により,カラベンドゥ期は去る。王の栄光はジャワの地に王国の平和を齎す。不可視の王の到着により。怒りは鎮まり,痛みは消える。彼の出自は貴族の血統で,「最初の王」の称号を有するが,彼の統治は(具体的)手段を持たず,長期でないため,王国は静寂である。静かで手段を持たないことは障害でないが,時は未だに神の秘密のもとにあり,人々はそれを知らないのである。神の意思により,世界の時期は変る。(258:1‑3)   

    王はより公正かつ恵み深く君臨し,世俗的な富には望みを持たず君臨するであろう。彼はスルタン・エルチャクラ(Sultan Erucakra)という。彼は己の出自を知らず,従者を持たない。彼の兵はシルラー(神の秘密)のみで,コーラン詠唱の旗を持ち,全ての敵を従属させる。敵は消滅し,彼に刃向う者はない。(258:3-5)   

    王は常に人々の福祉を促進し,そのために彼は自分の食料(費)を,年に7リアル以下に制限する。1ジャンク(28.386 m)当りの地税は,僅か年1ディナールである。1千ワンを生産する水田の税は1日当り1ワンで,他の税はない。人々は安い食料と衣類に安心し,犯罪はない。全ての犯罪者は公正で同情心のある王の呪いを怖れて悔悛する。(258:5‑7).     

    王は,王都をカタンガ川の近くの森を開いたブミぺティークに置く。この王の王統は僅か第二世代続く。3代目の子孫のとき,首都は カランバヤ内のエルジャピット (erjepit),カタンガの辺りに遷り,その息子は自身の欲望によって殺される。(258:7-8)   

    間もなく失望的でない外見の王が交代する。彼の名はアスマラキンキン(Asmarakingkin)という。彼は大変な美丈夫で,民衆に崇められる。彼はカディリで即位し,彼の三代目の子孫はマンドゥラに遷る。間もなく王国は王の愛人との戦いで滅亡する。(258:8-9)   

    間もなく3人の王が連合するが,第一の王はカパナサンの地に,第二と第3は,それぞれグゲラン (Gegelang)とトゥンべラン(Tembelang)に王都を置く。30年後に第3の王国は法的論争の末に滅亡し,その地域は王不在となる。そして知事たちが王のように行動する。尊敬に値するものがいないため,彼らそれぞれは王のように振舞う。(258:10-11)   

    数年後,ヌングスワ・スレンギから異国の王が来る。彼はジャワで即位し,ドゥレキラ山の北東,チャンドラムカ山の麓に王国を建設する。数年の間に,ヌングスワ・スレンギ王を討つために,ルム王国(トルコ)から兵が到来する。前者の王と彼の兵士は敗北する。(258:11-13)   

    ルム王国の士官はスルタン・エルチャクラの子孫を王に推挙し,その王はオパク川の東に君臨する。王国は非常に繁栄し,アマルタラヤ(Amartalaya)と名付けられる。3代目の子孫の治世は最後の審判の日,ジャワの地の年齢2100年に当る。   

    話はこれで完結した。神のみぞ知る。(258:13-14)   

    救われた心で,マス・チェボランは会釈し,「御免なさい。使用人が横着であったのは習慣を知らなかったためです。現在はどの時期に相当しますか。」と言った。   

    「私の想像では,現在の時期は,カラサクティとの関連に基けば,不確実な日の到来には程遠い。何れにせよ,これで十分だろう。議論を引きずるに値するまい。」と,キ・サリは答えた。(258:15-16)   

    キ・アンタントゥャは,「キ・サリの話を伺って直ぐ,私は,40の兆しが起った曉に最後の審判の日が来るであろうというムハンマドの予言を思い出しました。」と言った。(258:17)   

    「どうぞ,それを説明してください。上述の話と時期の一致があると感ぜられるかも知れません。」 キ・サリは続けた。   

マス・チェボランは,それを聞けることを喜んだ。(258:18)   

   

          1.2 キ・サリ,様々な時代について語る   

    預言者は仲間に次のように言った。「将来において40種の時代の動向があったときに現実となる最後の日の到来に注意せよ。詳細に関し,汝ら以下を知るべし。」       

1.

多くの大小のモスクが世俗の事柄を話し合うのに使われる。

2.

多くのイスラム学僧が任務を怠る。

3.

多くの者がイスラム教の毎日の祈りを軽んじ,祈りの時間を短くする。

4.

多くの者が,定めが無いことを理由に,托鉢を行わない。

5.

多くの者が断食月に断食を行わず,恥じることなく公衆の場で食事をする。(259:1-7)

6.

多くの者が善良な行いから離れ,犯罪行為を犯す。

7.

多くの者が会合において公然かつ長々と他人の欠点について話す。

8.

多くの者が墓地に家などを建てることを厭わない。

9.

多くの男が金,銀,絹を身につけて女のように振舞い,女は男に似る。

10.

多くの者が兄弟の感覚を持たず,多くの者が他人を傷つける。(259:8-12)

11.

多くの宗教に関して尊大且つ傲慢な人々礼拝が義務であることを忘れ,遂には自惚れる。

12.

多くの邪悪な人々が預言者の指示を信ぜず,彼ら自身が正しいと考える。

13.

多くの証人が嘘をつき,多くの目撃者が知らないと言う。

14.

多くの者が心を込めて物事を行わず,嘘をいい,誤った呪詛を持ち続けたりもする。(259:13-16)

15.

多くの者が父母を敬わず,多くの者がコーランを読むことを習おうとしない。多くの者が心の赴くままに,何時も色んな歌うことを習う。

16.

多くの男が妻に服従し,妻は夫を敬わない。

17.

多くの裕福な人々が公正でなく,貧しい者を嫌い,父母を敬わず,法廷は報酬を要求する。

18.

多くの王は残忍で,間違った動機でもって,民の財産を奪う。従って平和はない。

19.

多くの者が邪悪な者を畏れて褒めそやし,善良な人々,深甚深い学者,良い 科学者らを褒めることをしない。

20.

多くの者が他人から預かった物を保管することなく,変換を拒むために嘘を 言う。(259: 17-24)

21.

多くの者が他人の妻または夫と公然と不義を行い,それを恥じない。

22.

多くの者が他人を殺害および迫害し,多くの者が魔法の呪文を唱える。

23.

多くの者がワインまたは禁断の麻酔性の物を飲む。

24.

多くの者が悪事を働き,他人に恥じることなく神を怖れない。

25.

多くの者が孤児の金や貧者の財を,慈悲も躊躇もなく奪う。

26.

多くの者が畏れも疑いもなく全ゆる犯罪を犯す。

27.

20歳以下の多くの子供が灰色の髪を持つ。

28.

多くの思慮のある者が素行の良い者と不貞を犯す。

29.

多くの者が意図的に不貞を働き,多くの男が或る種の性愛を交す。

30.

多くの者が計算の専門家のところで医者の修業をして,普通には異教徒が使う   

薬を得,多くの者が悪魔に従属する。(259:25-34)

31.

互を愛する者は僅かで,多くの者は憎しみ合う。

32.

多くの雨が本来と異なった季節に降り,乾季は雨季のように,雨季は乾季のようになる。

33.

多くの者がコーランを讃えるのに忠実でなく,コーランが食物を求めるのに使われもする。

34.

断食月の始まりが金曜日に,イドゥル・フィトゥリ(断食明け)が金曜日に重なる。

35.

多くの愛らしくハンサムな若者が恥じを感ずることなく,邪悪で汚い仕事をす る。

36.

不適切な行為が増し,犯罪や不道徳が拡がる。(259:35-40)

37.

ガジェラーの国からスリ・アシャブという名の邪悪な王が来る。次いでヤーマンカタカハニという名の実に無礼な王が来る。彼は大変に強くて他を凌ぎ,大勢を従わせ,圧迫する。また,ダマシクからジェへミという有名な王が来る。更にマルングナ・イブヌ・ダムシクという名の細面で長鼻,声高で右目が盲のように潰れた王が来る。彼は隠者のように振舞い全ての民に寛大で,尊敬される。彼は全ての貧者に配慮し,僧侶たちは最良の王ために働く[23]。その後,マルングナ王は崩ずる。(260:1-4)

38.

マルングン・アッシアという名の,信仰を持たず,恥を知らない王がくる。彼は学者や僧侶を殺し,イスラム教に打撃を与える。次いでマルングン・ガシアー王が,ルム,サム,ガラグおよびカルサニの国々を攻撃する。(260:5-6) そのときルム国はプラブ・カプティの統治下にある。彼は戦を挑み,死ぬ。神はマルングン王に対して激怒し,軍隊とともに降下して,全てを滅ぼす。それにより,イスラム教徒が誕生する。(260:6-7)

39.

スリ・カラメスという名の王が現れる。彼は裸で顔だけを覆っている。彼はイスラム国を攻め,虐待する。彼はイスラム教徒の女を娶る。イスラム教徒の妊娠した女が通に引き出され虐待される。若し腹の中の赤子が生きていれば,それは幸福の継続を意味する。若し赤子が死んでいれば,それは災難の始りを意味する。また,他の妊娠した女は切開されて,赤子が取出され,母親とともに生きることになる。(260:8-10) その頃,多くのイスラム教徒は集団で,ケケスという名の王,キ・アバスという王子のいるイスラム教国,クンパー国に逃れる。全てのイスラム教を信ずる者は受入れられる。彼らは不逞なやからたちを攻める準備をする。(260:10-11) スリ・カラメスは,彼の国が攻撃されると聞くと,3万もの軍勢を展開する。行軍については触れない。クンパーに到着すると,彼らをイスラム教徒が迎える。激戦あり,イスラム教徒は敵軍に押返され,散乱して逃亡する。カラメス軍は敵が去るのを見ると,メディナーの墓を破壊するためメディナーに行く。(260:12-14) スリ・ケスと彼の兵は大変懸念し,メディナーの墓を壊しに来る兵が滅ぼされるよう神に祈る。神の加護によりカラメスの兵は滅亡して地中に呑込まれ,僅か2人が死を免れて王に報告に行く。(260:14-16) そのとき,ケケス王は敵が滅亡したことを聞く。彼は幸いに思い,神に感謝の祈りを捧げる。(260: 14-16)

40.

最後の徴候はスリ・イマム・マハディ王の統治である。即位は断食月の間,13,14,15日目の3回に亙って蝕があったときに行われた。イマム・マハディは,40歳のとき,メッカの基柱とイブラハムの墓の間に降りる。兵隊の長になるのはマライカット・ジブリルで,その後に続くのがマライカット・ミハイルである。イマム・マハディは預言者スライマンおよびズルカルネンのように王位に就く。(260:17-19)」

   

    「まあ,この話は国の予想を考えるのに十分と思う。期待するのは,各々が,予言者ムハンマドの業績と予知の中に述べられた内容を優先して考え,当時に生きた者全てを回想し,注意することである。」(260:20 -21)   

    キ・アンティアンタが再び言った。「良いモデルとなるもう一つの話をすべきかな。ゲクシカンダに君臨した王,つまりジャワ島のカリフォトラー王の治世,(彼が)妻を見付けたのは良いことであった[24]。この王はエジプトのサイド・マルカバン王を大変に尊敬した。(260:21-23)   

    話を聞いた全員は挨拶し頭を下げた。   

    マス・チェボランは言った。「それは有難い。どうか本のページの中に込められた話を聞かせて下さい。」   

    キ・アンティアンタ心の中で言った。「この子が広範な知識に優れていることは既に明白だ。彼の振舞いは心に近く,心を満足させる。」   

    キ・アンティアンタは微笑み優しく言った。「貴君が聞きたいというサイド・マルカバンの話も大変面白いよ。」 (260:23-25)   

(以下,「1.3 キ・アンティアンタ,サイド・マルカバン王の物語を続ける」に続くが,ジャヤバヤ王の予言とは無関係である故,引用はここで止める。)   

   

   

   

 

第6章附録註

[1] Bruce Grant, Indonesia, Melbourne University Press 1996

[2] 筆者の疑問点の第一は,トウモロコシ(メイズ)は,中南米原産の植物であって,ジャヤバヤ王が在世した13世紀前半,コロンブス到着より遥か以前のジャワ島に存在した筈がないという点であった。 Herman J. Viola and Carolyn Margolis, Seeds of Change: Five Hundred Years Since Columbus, Smithsonian, 1991など参照。

[3] 所謂,ジャワ戦争,1825-1820

[4] Nancy Florida, Writing Traditions in Colonial Java: The Question of Islam  [In Sarah C. Humphreys, Cultures of Scholarship, Univ. of Michigan Press, 1997] ; Nancy K. Florida, Introduction and manuscripts of the Karaton Surakarta: Javanese literature in Surakarta manuscripts Vol. 1, Cornell Univ. SEAP Publications, 1993, Kamajaya, Kebudayaan Jawa, perpaduannya dengan Islam, Ikatan Penerbit Indonesia, Cabang Yogyakarta 1995, etc. 土屋健治,加藤剛,深見純生(編),「インドネシアの事典」,同朋舎,1991 の「ジャヤバヤ伝説」の項には,「ジャヤバヤ王がムプ・セダーとムプ・パヌルーに命じて書かせた『バラタユダ』はジョヨボヨ予言として有名な予言を含み,後世多くの異説が生れた。」といった主旨が書かれているが,筆者には意味不明である。バーラタユッダは,第一義的にはパンダワ家とコワラ家の戦争の叙事詩である。

[5] Kamajaya, Kebudayaan Jawa perpaduannya dengan Islam, Ikatan Penerbit Indonesia, Cabang Yogyakarta 1995 より抄訳。

[6] 筆者には不明。

[7] 伝説に依れば,アジャール・スブラタは,王の命によってバーラタ・ユダを執筆中に,その中のとある記述が王の逆鱗に触れて処刑された詩人エンプ・セダーの息子である。アリ・サムスジェンは王に招かれる以前に彼に会って,知識を授けている。皇太子のアミジャヤ(詳しくは,プラブ・アノム・ジャヤ・アミジャヤ)はアジャール・スブラタの娘ドゥイ・スラストゥリを娶っていたので,スブラタは彼の岳父に当る。

[8] サン・アジャールの7品目の馳走に給仕を加えて8王国とする解釈もある。例えば,Nancy Florida, Writing Traditions in Colonial Java: The Question of Islam  [In Sarah C. Humphreys, Cultures of Scholarship, Univ. of Michigan Press, 1997]

[9] ジャヤバヤ王の在位は,サカ暦 1213-1235年(西暦1135 ー1157)であったから,彼の将来予測がサカ暦13世紀に始まったことは,史実と矛盾しない。7代の王国に関する事柄は,本附録文末の「チェンティーニ物語の中のジャヤバヤ伝説(翻訳)」に,より詳しく書かれている。

[10] Ranggasutrasna (Raden Ngabei.), Paku Buwana IV (Sunan of Surakarta), Darusuprapta, Tim Penyadur, Centhini, Tambangraras - Amongraga, Balai Pustaka, Jilid 1 (1991), Jilid 2 (1992), Jilid 3 (1994/2008), Jilid 4(1999)。Serat Centhini は,全12巻からなる。第5-12巻のインドネシア語訳は,2005-2010年に Gajah Mada University Press から発刊された。

[11] R. B. Cribb, Audrey Kahin, Historical dictionary of Indonesia, Scarecrow Press, 2004; Raharjo Suwandi, A quest for justice: the millenary aspirations of a contemporary Javanese wali, KITLV Press, 2000; Norman G. Owen, The emergence of modern Southeast Asia: a new history, University of Hawaii Press, 2005,ほか

[12] Kamajaya, Kebudayaan Jawa, perpaduannya dengan Islam, Ikatan Penerbit Indonesia, Cabang Yogyakarta 1995; Johannes Jacobus Meinsma, J. W. G. van Haarst, De Opkomst van het Nederlandsch gezag in Oost Indie, M. Nijhoff 1869

[13] Ranggasutrasna (Raden全12巻からなるPaku Buwana IV (Sunan of Surakarta), Darusuprapta, Tim Penyadur, Centhini, Tambangraras -Amongraga, Balai Pustaka, Jilid3 (2008)による。出立年次について,英文抄訳書, Suwito Santoso, Kestity Pringgoharjono, The Centhini story: the Javanese journey of life : based on the original Serat Centhini, Marshall Cavendish, 2006 ではは1635年とされているが,スナン・プラペンの在位は,一般に1548‑1605とされている(例えばTaufik Abdullah, Sharon Siddique, Islam and society in Southeast Asia, Institute of Southeast Asian Studies, 1986 (Google Books)。

[14] Suwito Santoso, Kestity Pringgoharjono, The Centhini story: the Javanese journey of life : based on the original Serat Centhini, Marshall Cavendish, 2006.

[15] http://nurahmad.wordpress.com/wasiat nusantara/kitab musarar jayabaya/

[16] 例えば,加瀬英明「ムルデカ17805」,教文堂 2001 には,日本軍のジャワ占領を美化した雰囲気がある。同小説は映画にもなったが,興行成績は芳しくなかったといわれている。在日インドネシア大使館からは批判が寄せられたといわれ,インドネシアで上映されたという話は聞かれない。

[17] 大東亜共栄圏の名のもとに,日本は占領地域のフィリピン(米自治領),仏領インドシナ3国およびビルマを名目上独立させたが,実態的には日本の指揮下に置いた。況や,蘭領東インドならびに英領マラヤ(シンガポールを含む)は日本領とする方針であって,インドネシアの独立宣言が発せられたのは,日本敗戦2日後の1945年8月17日であった。

[18] Kamajaya, Kebudayaan Jawa, perpaduannya dengan Islam, Ikatan Penerbit, Cabang Yogyakarta, 1995に依る。年数は全てサカ暦/太陽年。

[19] Ranggasutrasna (Raden Ngabei.), Paku Buwana IV (Sunan of Surakarta), Darusuprapta, Tim Penyadur, Centhini, Tambangraras -Amongraga Jilid 3, Balai Pustaka,(1994), Jilid 4, Balai Pustaka,(1999) インドネシア語版。ジャヤバヤ予言に関する部分は,第3巻 312-318ページ,および第4巻 1 - 11ページである。

[20] 難解。原文:kepada kekasihmu di kota, tetapi sesungguhnya sangling (sangli 'tidak cocok'?),

[21] 筆者には意味不明。

[22] 筆者には意味不明。

[23]  難解。原文: para ulama itu amal raja yang paling baik

[24] 難解。原文: baiknya mencari seorang pendamping.