第6章   

ジャワの文華―詩歌と演劇   

   

ラーマーヤナ・バレー観賞   

    副題と順序が逆になりますが,演劇から始めましょう。   

    ジャワの首都ジョクジャカルタ,この町は中部ジャワにおける政治経済ならびに教育の中心であるのみならず,ジャワ王家のひとつ,スルタン家のクラトン(王宮)があって,ジャワ文化の華咲く園でもあります[1]。地理的にはジャワ島中部ムラピ山南方に広がる平野にあって,古代マタラム王国が9-10世紀の昔に造営したボロブドゥール寺院,プランバナン寺院などの遺跡も近く,国内外から多くの観光客を集めています。   

    この町へ始めて旅行したのは四半世紀も前の1980年代後半のこと,出張でガジャマダ大学を訪ねるのが目的でありましたが,週末の夜,「ラーマーヤナ・バレー」の観劇に招待されました。予備知識皆無で案内された先はプランバナン遺跡の近くに設えられた野外半円形劇場,ここで興行の行われるのは月夜の晩だと教えられましたが,生憎の曇天で漆黒の闇の中,ライトに照らされた舞台の彼方には,昼間に,これまた初めて見学したプランバナンのチャンディ(寺院建造物)数棟が仄かにライトアップされて幻想的な趣致を添えていました。舞台向かって左手には,遠方のため詳しくは見えませんが,ガムランというと教わったジャワ伝統のオーケストラが控えていました。楽手が奏でる低くて緩やかな前奏が始まると,ダランと呼ばれる語り手の抑揚のついたナレーションに合せて,この地方伝統のバティック(臈纈染)を纏い,金色に輝く装身具で全身を飾った艶やかな男女のダンサーが登場,華麗な舞を演じ,台詞を述べます。言葉は全てジャワ語で,筆者のような一般の外国人には全然理解不能ですが,バンドンから付合ってくれた隣席のWさんは幸いにもジャワの出身,場面場面を小声で懇切に解説してくれました。   

    「劇の主役でヴィシュヌの化身というラーマ王子は豪華な兜を冠って弓を手にし,背に数本の矢を負った精悍な若者,彼の妻のシンタ王女は細身の可憐なお姫様。森でラーマの弟ラクスマナを見初めて傷つけられた悪魔王ラワナの妹スルパナカーの復讐のため,ラワナが金色の小鹿に化けた侍女を送ってシンタの気を惹き,ラーマがシンタのためにその小鹿を捕らえようと追っている隙に,僧侶に化けたラワナがシンタを誘引しました。[2]」   

    古代インドの世界も斯くありしやと想像を巡らせながら見とれていると,物語が佳境に入ったところで突然の降雨あり,劇は中断されて,残念ながらそのまま中止となって仕舞いました。   

    帰途 Wさんに感想を述べ,幾つかの質問を致しました。   

    「学校で習った知識だけですが,ラーマーヤナは古代インドのヒンヅー教に纏わる物語でしょう。王様も民衆の大半もイスラム教徒である現在のインドネシアに似つかわしくないように思われますが如何ですか。」   

    「いいえ,オリジンが如何であれ,マハーバーラタやラーマーヤナは歴史の過程でジャワ化されて,国と宗教を超越しています。私たちは,それらをジャワの物語として愛でるのです。」   

    「でも,劇に登場した役者の出立ちも身の熟しも,昼間にプランバナン寺院で観たラーマーヤナ・レリーフに似ている印象を受けましたが。」   

    「一見そのように見られたかも知れませんが,具に見れば随分異なっています。今晩御覧になったラーマーヤナ・バレーは,正式にはワヤン・オラン又はワヤン・ウォングと謂う人間の演ずる劇の意味のもので,実は18世紀に宮廷で始まった比較的新しい形式のものです。古代インドやヒンヅー時代のジャワにも,これに類する演劇があったかも知れませんが,それとは別物です。ジャワでは10世紀に所謂ジャワ文学が誕生し,それを演ずるワヤン・クリットという特有の影絵芝居が考案されて,その後,色んなかたちに発達しました。」   

   

ソノブドヨ博物館のワヤン・クリット(影絵)ショー   

    後の2003年にユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作」に,ジャワ独特のクリス(短剣)とともに指定されたワヤン・クリットに筆者が始めて触れる機会を得たのは,ラーマーヤナ・バレーを観て数年後のこと,場所はジョクジャカルタの王宮近くのソノブドヨ博物館で,そこでは観光客用に短編の上演が毎晩行われていました。平屋建二重屋根のジャワ様式(ペンドポ様式)建築の特徴を留めた建物の木戸を入ると,そこは15メートル四方ほどの大広間,中央の仕切壁の真中に幅5メートル,高さ1.5メートルほどの白布のスクリーンが張られていました。その手前上方には投射用のライトが一つ下がっていて,スクリーンの両脇には数十体もあろうかという夥しい数の人形が立て掛けられています。人形といってもワヤン・クリット(wayang=影,kulit=皮,革)の名が表すように,水牛の鞣革を切抜いて彩色の施された平面的なもの,キャラクターの形状はといえば著しくデフォルメされています。人形には持ち手となる一本の軸が付けられ,左右の肩と肘は関節になっていて,手先に付けた細いロッドで動かせるようになっています。スクリーン手前がガムランの舞台で,様々の楽器が配置されています。打楽器が主で,吊下った大小のゴング,大きな鍵盤を供えたシロフォンのようなもの,お椀を伏せて並べたようなものは全て青銅製,他に鼓に似たドラムがあります。管楽器や弦楽器は少数で,2,3の竹製の縦笛や小さな胡弓に似たものがありました。舞台手前の観客席に着いて英文パンフレットを見ると当日の演目はここでもラーマーヤナの一節,そのあらすじに目を通していると,茶,黒,白で染上げたバティックのサルン(腰巻)を纏い,同じ布のジャワ帽を冠った楽手が音合せを始め,こちらは藍染のバティックで身を包んだ4,5人の女性のヴォーカルが着席しました。   

   

ジョクジャカルタ・ソノブドヨ博物館におけるワヤン・クリット上演風景。 2008年6月,筆者撮影。

   

    8時,部屋の照明が落されると,ガムランの演奏も始まり,スクリーン手前中央に座った矢張りサルンとジャワ帽姿のダラン(人形師)が,人形の中から聖なる山,グヌン・スメル(Gunung Semeru,須弥山または妙高山に相当)をモチーフしたグヌンガン(gunungan)[3]の1本をスクリーンの中央に立て掛けて,恭しく口上を述べ,厳かに物語を詠み始めました。ダランは,人形を次々と選び出して両手で巧みに操りながらスクリーンに影を投げ,それぞれのキャラクターの台詞をも声色を変えて話します。   

    影絵を鑑賞すべき本来の場所である筈の間仕切の裏側に回ってみると,僅か布一枚隔てただけなのに,そこは幻想的な別世界,薄暗い中,そこだけ明るい矩形のスクリーンに,人形の影が切抜かれた輪郭そのままに,そこに穿たれた無数の孔までもがくっきりと写っていました。鞣革には幾分透明性があって,透けて映った影には,人形に塗られた色彩が淡く見えました。人物が向き合って問答する場面では,影の動きといえば手先を微妙に前後左右させるのみ,しかし,一転してバトルの場面ともなると,2体の影は両腕両手を躍動させつつスクリーン全面を縦横に駆巡ります。そんな場面では,ダランが人形とスクリーンの距離を微妙に変えているのでしょう,影の輪郭が少しボケたりもして画面に変化を与えます。(後に何度目かに観賞したときのことですが,光源が現在は電球でなく,火炎の揺ぐオイル・ランプであったら如何であろう,より幻想的であったのでなかろうかと往時に思いを投げました。)言語はナレーションも台詞も,矢張りジャワ語ですから,声色とトーンを聽くばかりでありましたが,1時間半ほどの上演は夢のように過ぎました。精緻ではあるがグロテスクにすら見えた革製の物体から,如何して生命感溢れる幻影が生れるのか,鞣革の人形も,ダランの技も,そして台本もバックミュージックのガムランも,長い年月を費して洗練されたものに相違ないと好奇心が募りました。   

    当夜の観客は20~30人を数えるばかりでした。安い木戸銭で採算が合う筈がありませんが,後述のソロにおいても然り,王家が手厚く保護し,維持に努めておられることを後に伺いました。ソノブドヨ博物館の敷地内にはデモンストレーション用の小さなワヤン工房がありました。製作は全て手作業で,キャラクターの形に切取られた鞣革に,鉛筆で描かれたマークに従って幾百もの大小の孔がパンチで穿たれ,傍らには彩色の施されたものもありました。1体を製作するのに数週間を要すると聞いて,ほとほと感心し,後に訪ねたとき,寄付と思って言値を値切ることなく大枚を叩いてビマ[4] の1体を分けて貰いました。因みにジョクジャカルタの街中やジャカルタのデパートで売られている安目の土産品は殆どボール紙製の模造品,旅の記念に壁に飾って眺めるには十分でも,影絵には使えない代物です。   

    ワヤン・クリットは王侯貴族のみならず嘗ては庶民の間にも行渡り,例えば徳川義親公の「じゃがたら紀行」[5]には,偶々訪れられた田舎町で結婚式の余興に行われていたのを御覧になった様子が記されています。   

   

ソロ王家主催のワヤン・クリット   

    王家主催の影絵劇は滅多に見られませんが,筆者には幸運にもソロでそれに接する機会がありました。ジャワには,ジョクジャカルタの東北東50キロのソロ(スラカルタ)にも王家ススフナン家があって,ジョクジャカルタのスルタン家とは縁戚関係にあり,こちらが本家に当ります。数年前のこと,ジャワ原人が発掘されたサイトの一つ,ソロ郊外のサンギランを訪ねたいと夜行列車で着いた未明,タクシーを駆ってホテルを探したものの,どこもかしこも満室で,2時間ほど市内を廻った挙句に漸くバスターミナル脇に見付けた木賃宿に投宿する羽目になりましたが,その訳はと言えば,偶然にも,この町で第5回ヌサンタラ王宮フェスティバルが開催される日程に重なっていたからでありました。ヌサンタラとは列島または諸島の意,インドネシア領内各地のスルタン御一行が参集されていたのです。   

    その夜,フェスティバルの前夜祭があり,市役所前のアルンアルン(都心広場)には,ワヤン・クリットのために,仮設とは言い条,立派な屋根のある大きな舞台が設けられ,明るくライトに照らされていました。広場を一杯に埋め尽くした群集は,ワヤンが始まると,嬉々とした表情で,目を輝かせて舞台を見詰め,ダランのナレーションと台詞に聞入っています。演目はマハーバーラタの終章に基づいてジャワで書かれた「バーラタユッダ」,パンダワ家とコラワ家の悲劇的な戦争の話で,筆者は荒筋を僅かばかり知っている程度でありました。後に勉強した話の梗概は以下のようなものでした。   

   

第4回ヌサンタラ王宮フェスティバル前夜祭にソロ市役所前広場で上演されたワヤン・クリット「バーラタユッダ」の一場面。ジャワ古典に詳しい Djoko Wiryono 氏 (若い友人の父君)に依れば,画面左はコラワの宰相 スンクニ(Sengkuni),右側2人はダランが付け足したもので前にいるのは怪物の王,後はその家来の由。画面右端に半分写っているのが,グヌンガンまたはカヨンと呼ばれるもの(本書内表紙に図案)。 2006年9月,筆者撮影。

   

バーラタユッダのあらまし

    「コラワ家はハスティナ王国のダルタラストゥラ王の長男ドゥルヨダナ以下99人の息子たち,パンダワ家は王の弟パンドゥの5人の息子,具体的には王妃クンティを母とするユディストゥラ,ビマ,アルジュナの3名と側室マドゥリから生れた双子のナクラとサデワで構成されていました。王が盲目であったため王国の統治はパンドゥが司り,従兄弟たちは一緒に育てられ,共通の叔父や老師に教育されていましたが,出来のよいパンダワ兄弟をコラワが忌み嫌ったため,両者は常に反目していました。パンドゥが早世し,王が甥のユディストゥラを王位継承者に任ずると,コラワはそれに怒り,パンダワを抹殺しようと謀りました。パンダワは難を逃れ,托鉢僧に扮して苦難の時を過しました。彼らが戻ると,コラワは王国の西半分を与えることに同意,パンダワはガマルタに都を造りました。しかし,コラワはパンダワを壊滅する意思を捨てることなく,ユディストゥラを賭博に誘い,彼の財産,王国,更には彼の弟たちの自由までも奪いました。パンダワは12年間奴隷役に服し,更に1年間,庶民に混って過しました。   

    バーラタユッダ(マハーバーラタの終章)の冒頭,パンダワの友人のクリシュナが,パンダワを代表して王国の半分を譲るように交渉すべく,コラワの都に赴きました。老王ダルタラストゥラや老師たちは要求を支持しましたが,ドゥルヨダナはそれを拒絶,クリシュナを殺害せんともしたので,平和的解決は絶望となりました。斯くして二つの従兄弟グループの間にバーラタ大戦争が勃発,壮絶な戦闘がクルの野で18日間に亙って繰広げられました。この戦は悲惨な事件に満ち,従兄弟たちの叔父や尊敬された師たち,更にはアルジュナとビマの息子たちが容赦なく殺されました。最終場面で,アルジュナはカマ(クンティが太陽神スルヤによって懐胎したアルジュナの異父弟で出生の所以を知らずコラワに加担)を討ち,ビマはドゥルヨダナを屠りました。全ての死者を弔う儀式が執行われ,女たちは夫や息子の死を嘆きました。ユディストラは王位に着き,インドゥラプラスタ(ガマルタ)に君臨しました。」[6]

    人形の動きは,ジョクジャカルタで観たものより幾分緩やかで優美に見えましたが,事実,後で読んだ本には,両者には若干の差異があって,ジョクジャカルタ流の方が保守的で純朴,ソロでは時代とともにより少しづつ洗練されたとありました[7]。観劇中,筆者は言葉が分らないので物語の中の情景を朧気に想像するばかり,バンドンから同行したNさんもスンダ語圏育ちでしたから言葉を全部はフォローできないといいました。スクリーンの裏側も人々で溢れていました。この情景を見て,ジャワの人々の心に,今は本物の上演を見る機会の少ないワヤンが,強く根付いていることを悟りました。実際ジャワでは,インテリア,アクセサリーからTシャツの図柄に至るまでワヤン人形がふんだんに使われ,ワヤン劇はテレビでも,日本の人形浄瑠璃のように,頻繁に放映されています。この夜のような正式のワヤンの演劇は夜を徹して未明まで続くのだそうですが,少々疲労を覚えて,12時頃にその場を辞しました。   

   

ワヤンの発祥と進化   

    ワヤンの題材となったバーラタユッダやラーマーヤナはインドのテキストの直訳でなく,カカウィン(kakawin)という型式の厳密な韻律を踏むジャワ語の叙事詩だそうで,その嚆矢は8-10世紀に中部ジャワ・マタラムの地に栄えたサンジャヤ朝の後期,バリトゥン王の御代(西暦898-910)に書かれたジャワ版のラーマーヤナであるとされています[8]。ジャワの都は程なくしてマタラムの地を離れて東ジャワに移ることになるわけですが,この詩文形式は11世紀以降,「アルジュナウィワハ」,「クリシュナヤーナ」などの文学作品のみならず,「デサワルナーナ(別名ナーガラクルターガマ)」のような史記にも用いられました。   

    ワヤンは歴史的に何時の時代に始まったのでしょう。今に残る最も古い記録は上述のバリトゥン王が西暦907年に銅版に刻んだ勅許にあって,そこには,ある僧院へ領地が献ぜられたのを祝う儀式が行われたとき,余興として,ラーマーヤナの朗誦,マハーバーラタの中のビマの話に因む舞踊などとともに,同じビマの話を演目とする「ワヤン」の上演が行われたことが記されていました[9]。このワヤンが果してワヤン・クリットであったか,あるいはワヤン・ウォングのような別の形態のワヤンであったか如何かは,この記録からだけでは判然としませんが,幾つかの傍証から,恐らく前者であったであろうと考えられています。例えば,1035年に書かれた「アルジュナウィワハ」には「彼ら(観衆)は,それが単に切り抜かれた皮革(の影)が動き,話していることを知りつつ,泣き悲しんでいる」の行あり,また,後に触れる「ボーマンタカ(ボーマの死)」には,「彼らは雲の中に隠れ,次に白いスクリーンに映るワヤン人形のように再び現れた」,「水田はワヤンのスクリーンの背後に隠されたように(霧で)覆われ,バナナの木はワヤン人形のように揺れていた」などの行があって,遅くとも11世紀初期にはワヤン・クリットが行われていたことは確実と見られています[10]。   

    人形の影を映すというアイデアは如何にして生まれたのか。一つの学説は,古代のジャワの人々は,先祖の霊魂が影の中で蘇り,彼らに助言や魔力を与えてくれると信じた,そんな中で影絵が生まれたのであろうと説いています[11]。影絵がインド由来のものでないかといった疑問も当然あったようですが,古代インドに似たものがあったという証拠はないそうです。   

    ジャワにイスラム教が広った15世紀以降,ワヤン・クリットの確立にはイスラム教徒が与ったという説がイスラム信奉者によって唱えられました。中には,ワヤン・クリット自体がイスラム聖職者によって創造されたという歴史的証拠に矛盾する説まであったようですが[12][13],一部のイスラム教徒の間では,西暦1世紀にインドから渡来してジャワに文明を齎した筈のアジ・サカが,実は予言者ムハンマドがジャワへの途上インドに来たときの仲間で,マハーバーラタ,ラーマーヤナ,アルジュナウィワハなどはイスラム教徒であったアジ・サカの著作であると信じられていたそうですから[14],「ワヤン・クリットのイスラム起源説」などは驚くに値しないかも知れません。現在に続くワヤン・クリット人形のデフォルメされた非現実的な姿は,ラデン・パターと同時代のイスラム教聖者スナン・ギリが,イスラム教の偶像崇拝禁止の教えに触れるのを避けるために考案した[15]と言われています。この説の真偽はともあれ,イスラムの侵入を免れたバリのワヤン・クリットの人形のデザインが,ジャワのもののようにデフォルメされることなく,より自然に近い容姿であるのは興味あるところで,ジャワにおいても原型は左様なものであったかという見方があります[16]。   

   

バリのワヤン   

    百聞は一見に如かず,念願叶ってバリで観劇したワヤン・クリットは大変に興味あるものでした。ウブドでは毎晩上演が行われていると聞いて訪れた場所は街中のポンドク・バンブーという名の小さな芝居小屋,軒先で入場券とともに受取った1枚紙のプリントには,「ワヤン・クリットには教導,娯楽,宗教の意味あり,ヒンヅー教が盛んなバリでは寺院の祭祀,結婚式,誕生祝,葬式などの際に一般に行われている」といった案内に続いて,当日の公演の解説がありました。開演までに時間があったので目を通すと,演目は「マハーバーラタ物語」とあって,次のような要旨が書かれていました。

    「パンダワの王から新宮殿落成の式典について相談を受けたクリシュナは,周辺の王国の支持を得るべく,ビマ,アルジュナを伴って出立,マガダ王国に着くと,そこではジャラ・サンダ王が毎日のようにブラタ・ワルサの教えに従って人身御供の儀式を行っていた。3人は托鉢僧に扮して王宮に入り,シヴァの教えに背く斯かる儀式を止めさせようと議論したが,ジャラ・サンダが激昂したので,戦が不可避となり,彼らは衣を脱いだ。激しいバトルの末,パンダワはジャラ・サンダを成敗した。」

   

バリ・ワヤン・クリットの一情景。(上)影絵側,(下)パペット操作側。当然ながらパペットの配置が左右対称であることに注意。バリ島ウブド,ポンドック・バンブーにて,2012年2月,筆者撮影。

   

    ジャワのワヤン・クリットとの違いは人形の容貌やカヨンの形状に留まりませんでした。スクリーンもパペットも,ジャワのものより幾分小さ目でした。パペットの動きは荒々しく且つダイナミックで,スクリーンに映る影は仄かに揺らぎ,ガムランの音は甲高く聞えました。裏手に回ってみると,ダランが独りで口上と科白を語る様はジャワと同じでしたが,パペットは彼が1個づつ選び上げるのではなく,両脇に座る2人の助手によって次々と手渡されていました。投射用の光源は電球が補助的に付いてはいるものの,ココナッツ油の灯火でした。ガムランといえば,ガンバン(大型青銅シロフォン)2台を奏でる楽手2名のみで,ヴォーカルもなく,ジャワのフル・オーケストラとは掛け離れたものですが,これらの様子は古くに描かれた絵画[17]で見たものと基本的に同じでした。公演は観光客相手のものでありましたから,ダランは科白の中に態とらしいバリ訛の英語でアドリブを挿んだりもして,ショーは砕けた雰囲気の中で進行,1時間で終了しました。   

   

ジャワとバリのワヤン人形の比較。 左: ジャワ(ジョクジャカルタ),右:バリ。キャラクターは何れもアルジュナ。画像は http://tokohwayangpurwa.blogspot.jp より取得。

   

    何れにせよジャワのワヤン・クリットが現在のかたちに近づいたのはマジャパヒト王国崩壊後に小王国の分立していたジャワをパネムバハン・スノパティが統一して新マタラム王国を確立した17世紀前半以降のことで,ワヤン人形の腕が可動式になった,新しいキャラクターとしてチャキルと呼ばれる怪物とその仲間が加わったとされています[18]。新マタラム王国は18世紀半の1755年にソロのススフナン家とジョクジャカルタのスルタン家に二分されましたが[19],ワヤン・クリットは両家において育まれ,今日のような高尚な芸術になりました。マタラム王国の分割は18世紀前半に起きた3度に亙る王位継承戦争の果てに,VOC(オランダ東インド会社)の調停によって行われたもので,以降,オランダのジャワにおける権勢が拡大したというのが歴史の一面ですが,他面,治世が安定して王侯も貴族も軍事に関る必要がなくなったことも事実であって,彼らは後顧の憂いなく芸術文化に意を注ぐことができるようになりました。冒頭に述べたワヤン・ウォング(人間の演ずるワヤン)が大成されたのも,ソロおよびジョクジャカルタの宮廷においてでありました。   

   

舞台劇ワヤン・ウォング   

    ワヤン・ウォングの上演はジョクジャカルタ市内にあるプラウィサタ野外劇場でも観られますが,そこでも観客の大半は観光客で,演目は彼らに親しみのあるラーマーヤナに限られています。映画やテレビの普及する以前に各地にあったという劇場は殆ど廃れましたが,ソロには1箇所残っていると聞き,別の折に訪ねてみました。場所は市内のスリウェダリ・アミューズメントパークの中,昔懐い金ぴかのメリーゴーラウンドや金網張りの天井から金属製の竿で電力を取る子供用の電気自動車などを脇にみて進むと,公園の奥まった一角に平屋建の劇場あり,入口前の床には「今日はチトラワンギ」,「明日はトゥンジュンサリ」と演目を書いた2枚の立看板が,壁には月間プログラムを貼った掲示板がありました。中に入ると舞台前面に中央に大きなグヌンガンを染めた幕が下がり,上部にはカーラの面を織込んだ緞帳がありました。ガムランのフロアは舞台の手前の低い位置に設けられています。観客の中には一見して外国人旅行者と判る者も散見されましたが,多くは土地の方のようで開演までに半分位の席が埋りました。   

    幕が開くと舞台奥に何処かの王宮を鮮やかに描いた幕が見えました。武装姿の王子,王女,または貴族と思われる10名ほどの男女俳優が登場,彼らの衣装やアクセサリーはプランバナンやジョクジャカルタの野外劇場で見たラーマーヤナ・バレーと似ているように見えましたが,彼らの舞はより緩やか且つ優雅に見えて,バレーというより,オーソドックスな舞台劇といった印象を受けました。言葉が分らないので想像を巡らすばかりですが,この場面は出陣式のように見えました。第2幕は森の中,別のグループの女兵士とラーマーヤナに登場するのに似た白いマスクを付けた猿軍団との会話で始まりました。第3幕は森の少し開けたところで2人の男性兵士の剣闘,第4幕(終幕)では最初とは別の宮廷門外で,2人の女性兵士の剣闘あり,第1のグループの女性が斃されましたが,その遺体を相手の女性兵士が抱いて悲しんでいるふうで,話の筋さえ分らないままに1時間半の上演が終りました。   

   

ソロのスリウェダリ劇場におけるワヤン・ウォング,チトラワンギの第一幕。 舞台手前がガムランのフロア。2009年5月,筆者撮影。

   

    このチトラワンギの話が古典に基づくことは間違いありますまいが,筆者の友人に知る者はなく,その一人が態々ガジャマダ大学文学部の友達に尋ねてくれましたが,それでも出典は分りませんでした。因みに翌日のプログラムのトゥンジュンサリ(Tunjungsari)は,シンガサーリ朝クルタネガラ王の時代の歴史に基づく話[20],前日のスリカンディ・エダン(Srikandi Edan)はマハーバーラタの中の話[21]のようです。   

    次にソロを訪れたときに観た出し物は「バスデワ・カルマ(Basdewa Karma)」でありましたが,予めそれを知らずに出掛けたので物語の筋すらも追えなかったことは前回と同じでした。そのときに撮った写真を後で探し得た概要[22]と照合しつつ,「マドゥーラのバスデワ王子がライバルと競って,遂には,プラブ・バドゥラウィナタの娘バドゥラーイ姫と結ばれる話」であったことを知るばかりでした。ジャワ語の分らぬ客のために,一枚紙でよいから粗筋を共通語であるインドネシア語,望むらくは英語で書いたパンフレットを開演前の劇場に備えてくれればこそと願うのは,筆者ばかりでありますまい。   筆者が気付いたワヤン・ウォング劇の特徴の一つは,日本の歌舞伎や西洋の舞台劇の場合と異なって,所謂大道具の類が全く使われないことで,それらは必要に応じて背景の幕に描かれていました。   

   

宮廷の舞台劇   

    宮廷で執り行われるワヤン・ウォングに一般人が接することはできませんが,1929年のジャワ行中にジョクジャカルタとソロの両王宮に招かれられた徳川義親公は,「じゃがたら紀行」の中に,我々平民には窺い知れない宮廷内部での演劇の雰囲気を次のように書いておられます[23]。    

    「俳優は左右から二名宛登場しました。いづれも頭を垂れてひかへてゐます。この廣い殿中,寂として聾なく,嚴粛の氣が漲って,重くるしい感がします。この寂寞を破って,王様が,『始め』と一言命令されました。ダランは『應う』と答へて,徐ろに本を開き,朗々と讀誦を始めました。話はラマヤナの一節。つづいて音楽が始り,歌手は謡ひだしました。音樂は低調で,ハルモニーは金聲木聲錯雜し,渾然として,餘韻は嫋々(じょうじょう)と聽くものを酔はせます。(ジョクジャカルタの項,原文のまま)」

    「ガメランの調子が變ると,廊の彼方から絢爛たる服装の二人の青年が,静かに歩をすすめて登場しました。一人は廿一二歳,他は十七八歳でせうか,床上に相座して合掌,頭を垂れて暫く黙禱(もくとう)してゐます。やがて音樂につれて頭を上げ,徐ろに立って舞ひ始めました。頭には黄金の鳥兜,上半身は裸で,脊には胡蝶の翅に似た黄金の甲をつけ,腰の短劍(クリス)にも無数の寶石が鏤(ちりば)めてあって,燈火に映じて燦然と照り榮えます。私か眞に驚いたのはその服飾の美でなくて,この二人の青年の如何にも氣品の美くしい事でした。頬に淡く紅をさし,眥に墨を入れてゐるので,その麗はしい貌を更に美くしく引き立たせます。宮闕に侍する三千の華麗を,顔色なからしむる舞姫も月の前の星の如く,燦爛(さんらん)たる光輝に,忽ちその影をかくさなければなりません 。私は徒に茫然と,まるで魂がふらふらと脱け出した人の様に,きっとつまらない貌をして見惚れてゐたのでせう,王子(隣席の御案内役)は私の肩をたたかれたので,はっと氣がつくと笑ひながら『あれは私の弟と子供』といはれました。只人でないとは思ってゐましたが,果然それは公子達なのでした。それにしても何といふ艶麗さでせう。二人の公子は鮮やかな舞ひ振りを見せられます。優雅に暢(ちょう)容(よう)に,そして戰の場となると急に激しく,體(たい)を交し身を飜(ひるがえ)し,短剣の刄と刄は火の出る程に打合され,凄愴な舞を演ぜられますが,其間にも優雅な趣は失はれません。やがて舞は高潮に達したところで終り,公子達は静かに一揖して引きさがられました。(ソロの項,原文のまま。)」。

   

ソロ宮廷におけるワヤン・ウォング。   

徳川義親公爵が1929年に訪問の折にススフナン・パクブオノ10世から贈呈を受けられた一葉のコピー。Marquis Tokugawa, Translated by M. Iguchi,  Journeys to Java, ITB Press, Bandung 2004 (徳川義親著「じゃがらたら紀行」英訳版)の表紙に採用。尾張徳川家の好意による。

   

    宮廷芸術で最も崇高かつ神聖なものはスリンピとブドヨという厳に貴族の処女の女子によって演ぜられる二つの舞踊で,これらの演技は少なくとも近年までは宮廷内に限られ,過去には一般人が鑑賞することはできませんでした。筆者は一度だけジョクジャカルタのホテルのディナーショーでスリンピを観ましたが,踊子2人による15分程度の極く略式のもの,記憶も薄いので,再び「じゃがたら紀行」の中のジョクジャカルタ宮廷内での演技の行をお借りしましょう。

    「やがてガメラン(音樂)が,稍々離れたところから響いて來ると,向ふの入口から老女が一人膝行(しっこう)して入って來ました。四人の嬋娟(せんけん)たる舞姫が静かな足どりでこれにつづきます。お能の足どりと全く同じです。スリンピと公子はいはれました。舞姫達の黄金の冠には紅と白の香りの高い花を飾り,上半身は裸に,乳の上まで美くしい絹を強く巻き,更紗の裳(も)裾(すそ)をながく曳き,腰の左右には色の綾(りょう)羅(ら)を垂れ,楚々たる容姿でいづれも素足です。これに又幾人かの老女が膝行してつづきます。これは後見の役目をします。中央の柱の眞中には華(きゃ)車(しゃ)な卓子があって,其上に切子の小さい瓶に眞紅の液體を盛り,又同じ切子の四つの洋盃が置いてあります。舞姫は此中央の間に入ると四隅に分れ,床上に坐して合掌をしてゐます。やがて立ち上って静かに静かに舞ひ始めました。玉樓の裡,常夏の國の夜は我邦の玲瓏たる秋に似て冷やかに,蘭燈の下に花の如き舞姫は輕羅を飜して,或は離れ或は相寄り,花に戯れる胡蝶とばかりに舞ひます。やがて二人の舞となり,一人が舞ひつつ静かに盃をとりあげ,一人はこれに紅の液を注ぎました。紅を盛った盃を捧げて暫く舞ひ,舞ひつつこれを干してしまひます。(中略)依然として舞は静かです。今度は腰にさしてゐた短銃を抜き出し,これにからんで舞ふと見る間に,きりりと鶏頭をあげズドンとばかりに一斉發射,大概のお客様はあっとばかりに仰天しました。併し舞姫は依然として静かに舞ひます。一時間程でスリンピは終りました。次にブドヨというて九人の舞姫が舞ひましたが別にスリンピと變りなく,九人の齋發(せいはつ)のピストルも今度は用心してゐたから誰も驚きませんでした。」

    書物に「精神的文化的意義を内包するジャワの演劇に比較しうるものは日本の能楽しかない。」という指摘があります[24]。室町初期の足利義満の時代に世阿弥元清(西暦1363-1443?)によって完成された能楽は,江戸期には武家の式楽として幕府および諸大名から保護を受け,儀式の際に上演されました。筆者が敢えて付加えるならば,日本の朝廷で育まれた雅楽もその範疇に入ると言って良いでしょう。   

   

ワヤンの発展   

    ワヤン・クリットを濫觴とする演劇は様々な形に発展,本来「影」を意味するワヤンの語は影絵以外の芝居にも適用されて,所謂「ワヤン・ワールド」を形成しています。   

    ワヤン・クリットそのものに関しても,マハーバーラタやラーマーヤナを扱うワヤン・プルワ(Wayang purwa,オリジナルのワヤンの意)のほかに,15-16世紀に東ジャワで「パンジ物語」[25] や「ダマルウラン伝説」[26]を題材とする「ワヤン・グドッグ(Wayang Gedog)」が生まれ,新マタラムの宮廷では,過去の諸王,取分けクディリのジャヤバヤ王の逸話を題材とする「ワヤン・マジャ(Wayang Madya)」という新しいレパートリーが加えられました。また,ジョクジャカルタおよびソロでは,それぞれの史話に基くワヤン・クルク(Wayang kuluk),ワヤン・ドゥパラ(Wayang.dupara,第1章の「スルタン・アグンとヤン・ピーテルスゾーン・クーン」の人形が一例)が生れ,ほかにジャワ戦争(1825-1830)の英雄ディポネゴロ王子の活動を演ずるワヤン・ジャワなども作られました。「鼠と小鹿」などの御伽噺をワヤンにしたものもあったようで,筆者は徳川美術館の「義親東南亞細亞コレクション(未公開)」で数点の動物を模したパペットを拝見したことがあります。ワヤン・クリットはカトリックの教育のため[27],はたまた,1949年の独立後にはパンチャシラ(インドネシア共和国憲章)普及のためにも用いられたようですが,ジャワの人々には未だにワヤン・プルワが好まれています。

   

(左)ワヤン・カトリック人形のセット,(右)イエス人形。ソロ市内スラカルタ・パングディ・ルフル(Pangudi Luhur)小学校所有。 2012年2月,筆者撮影。校内を案内し,撮影の許可を賜った校長先生によれば,ワヤン・カトリックはクリスマスおよびイースターの時期にのみ上演される由。

   

ワヤン・クリティック   

    人形を操るものの一つに木板製の人形を扱う「ワヤン・クリティック(Wayang Kelitik)」または「ワヤン・クルチル(Wayang Kerucil)」と呼ばれるものがあります。人形の容姿はワヤン・クリットに似て著しくデフォルメされ,これに革製の可動式の腕が付けられています。本体を軸で支え,細いロッドで上腕,下腕を動かす要領もワヤン・クリットと同じですが,影ではなく人形そのものを見せるものであって[28],本体の表裏には,繊細な彫刻と着色が施されています。 

   

ワヤン・クリティックの人形 (徳川美術館 「義親東南亞細亞コレクション」の一部)。徳川美術館の好意による。

   

    ワヤン・クリティックは,マジャパヒト時代(1293-1520)に始まったと考えられていて,往時,東ジャワで盛んであったそうですが,今は全く廃れています。インターネット上の記事のほか成書[29]にも,ワヤン・クリティックもまた,ワヤン・クリット同様に影絵芝居であったとの記述が散見されますが,恐らくそれは間違いで,仮に左様であったにしても非常に稀なケースであったと思われます。筆者は徳川美術館において義親公が1920年代に蒐集された人形のセットとともに,公自らが撮影された実演の16ミリフィルムを拝見したことがありますが,そこに写っていたのは影絵ではありませんでした[30]。ワヤン・クリティックもまた今日演ぜられることはありません。   

   

ワヤン・ゴレック,ワヤン・トペン   

    人形芝居のもう一つに,前出の,立体的な木偶を操る「ワヤン・ゴレック(Wayang Golek)」というものがあります。木偶の構造は比較的簡単で,円筒状の胴に貫通する孔に軸が通されて,軸の上部に取り付けられた頭を動かせるようになっている,また,胴には肩の部分から腕が下がり,手首にはワヤン・クリットと同様にロッドが付いているといった具合ですが,上半身,下半身にはバティック布のクバヤ(上着)とサルン(スカート)が着せらています。   

   

ワヤン・ゴレックの木偶(徳川美術館「義親東南亞細亞コレクション」の一部)。衣装の図柄から西ジャワのものでなく,中部ジャワ・ジョクジャカルタのものと判断される。高級品である。手を動かすロッドは外されている。 徳川美術館の好意による。 

   

    ゴレックの起源は定かでありませんが,原型はシナからの伝来であったと信じられています。17世紀にイスラム化されたジャワ北岸の都市から,メナック物語[31]を演題として広まったとされ,その後,ラーマーヤナなどの古典も演ぜられるようになって,特に西ジャワで盛んになったそうです。   

    更には時代々々の英雄,例えば第2章「ジャガタラ異聞」に紹介したムル・ヤンクン(ヤン・ピーテルスゾーン・クーン)やシリワンギ王を扱ったものなども誕生しました。ワヤン・ゴレックの木偶もデパートなどでお土産用に沢山売られていますが,今時,一般のために上演されることはなく,筆者は以前にバンドンのホテルで,15分ばかりの観光客用のデモンストレーションを瞥見したことがあるに過ぎません。   

    人間の演ずる劇にワヤン・トペン(Wayang Topeng)という仮面劇があり,これはパンジ物語を主な演目として東ジャワで行われたといわれますから,歴史的にはワヤン・ウォングより古いともいえましょう。ソロやジョクジャカルタの宮廷では重視されずに廃れてしまい,筆者は未だ観る機会を得ていないものの,バリではその伝統が受継がれているそうです。   

   

ワヤン・トペン用の仮面。バリ博物館(デンパサール)所蔵。2012年2月, 許可を得て筆者撮影。

   

ワヤン・べべール   

    絵巻物を垂直に立てた支柱の間に展げ,スクロールしながら,ダランが物語を詠ずる「ワヤン・べべール」というものもありました。起源はワヤン・クリットより古く,4~5世紀に遡るという説[32]もあるようですが,確実なのは,パンジ物語,マハーバーラタ,ラーマーヤナなどが採用された12世紀以降[33] でありましょう。ワヤン・べべールは,明(みん)の鄭和の大航海に随行した馬歡が著した「瀛涯勝覧(1416)」にも記されていますから[34],マジャパヒト朝の時代には普通に行われていたと思われますが,その後衰退して,今は写真や書物で上演の模様を偲ぶことができるに過ぎません。巻物の材料には,伝統的にダルアンという名の,梶の木(Broussonetia papyrifera)の外樹皮を除いた白い内樹皮を丹念に叩いて展ばして作った樹皮紙が用いられました。ダルアンは別項(第4章,パジャジャラン国―スンダの人々の心の古里)に記したように,文書にも用いられましたが,ロンタルほど一般的でなかったようです。ダルアンは,ロンタルと同様,紙および製紙技術の伝来とともに廃れましたが,最近,これを蘇生させる試みがなされているようで,最近,東京都北区飛鳥山の「紙の博物館」で開かれたた展示会では,製作工程のビデオや,できたダルワンに模写されたワヤン・べべールの絵などが展示されていました[35]。   

   

ワヤン・べべール実演風景。W. F. Stutterheim, Pictorial History of Civilization in Java. Translated by Mrs. A. C. Winter Keen, Java Institute and G. Kolff, 1927より転載。

   

ロンタル絵草子   

    ワヤンの範疇に含めるよりも,絵草紙というほうが適切かも知れませんが,古くには文言だけでなく絵を刻んだロンタル文書があったようで,稀に博物館で見かけます。ロンタルは別章(第3章)にも書いたように,ロンタル椰子(Borassus flabellifer)の葉を,防腐剤としてターメリックを添加した水で煮て乾燥,短冊型に切って,その表面に鉄筆で文字や絵を刻んで煤と油を混ぜたコンパウンドで埋めたもので,簾状に連ねられています。バリでは現在に至るまで作られているそうで,筆者がデンパサールの市中で手にした土産用のものは恐らく20世紀前半のもの,僅か8枚のロンタルで構成され,それぞれの中央部にラーマーヤナの代表的情景が刻まれ,左に筆者には解読不能のジャワ文字の解説が,右側にその英訳が付けられていました。長編のカカウィンの完全版ともなると何百葉ものロンタルが必要でしょう。インドネシア国立博物館所蔵のカカウィン・ボーマンカウヤ(ボーマンタカの異名)はその一例です。一枚毎に繊細な文字や絵を刻んだ先人の技量と忍耐が如何許りのものであったか,想像するさえ困難に思われます。序ながら,ロンタル椰子はシワランの木とも呼ばれ,その若い果実は,食感が茘枝(ライチー)に似た美味しい果物です。   

   

「カカウィン・ボーマカウヤ」のロンタル文書(インドネシア国立博物館藏)。The Lontar Foundation (Jakarta) の好意により提供を受けた画像の一部分。ボーマカウヤはボーマンタカの異名。

   

    ワヤンに代表されるジャワの文化はソロおよびジョクジャカルタの王宮で絢爛たる花を咲かせましたが,ここで,壮麗なボロブドゥールやプランバナンを遺したジャワの王朝が10世紀に東ジャワに移ってから,16世紀に再び中部ジャワに戻ってくるまでの歴史を振返ってみましょう。   

   

東ジャワの夜明け   

    サンジャヤ王国のムプ・シンドクがマタラムの地を捨てて東ジャワのブランタス河畔のメダン(現在のジョンバン辺り)に遷都し,イシャナ朝を開いたのは西暦929年のこと,その理由には何らかの政治的問題,仏教原理主義者による騒動,大規模建造物建設のための資源の枯渇なども挙げられますが,最も直接的な理由はムラピ山の大噴火による地域の荒廃であったと考えられます(第5章参照)。新王朝は肥沃な新天地で力を蓄えて東ジャワ一帯を支配し,スマトラのスリヴィジャヤにまで遠征しました。碑文の記録によればシンドクの曾孫娘マヘンドラダッタはバリのワルマデワ家のウダヤナ王子に嫁ぎ,西暦990年に二人の間に生まれたのが後に偉大な王となるアイルランガでありました。1006年,アイルランガは母親の里のメダンに,伯父のダルマワングサ・テグ王の娘,ディア・スリ・ラクスミ姫との婚約のために招かれていましたが,メダンは折からスリヴィジャヤの攻撃を受けて王城は炎上,王も斃(たお)されました[36]。アイルランガは姫を伴って森に逃れることを余儀なくさせられましたが,其処に雌伏すること10余年,1019年に兵を挙げて岳父の歿後乱れていた国を統一し,乞われてジャワの王位に就きました。斯くしてジャワとバリとの関係は一層深まりました。   

    1037年,アイルランガは都をカフリパン(クディリ)に移して新しい王国を建てました。彼の治世は仇敵スリヴィジャヤがインドのチョーラの攻撃を受けて弱体化したことも幸いして平和に恵まれ,彼の進めた潅漑による米の生産性向上や,トゥバン,スラバヤ,パスルアンなどの港とインドやシナ各地との交易ルートの確立は国の経済を潤し,奴隷制度の禁止や法秩序の確立は臣民に幸せを齎しました。   

   

東ジャワの史跡 地図は DIVA-GIS Country Level Data により作図。 略号 G (Gunungan)=山, K (Kali)=川, C (Candi)=寺院。 データは Ann R. Kinney, Marijke J.  Klokke, Lydia Kieven, Worshiping Siva and Buddha: the temple art of East Java, University of Hawaii Press, 2003 による。

   

アイルランガ王への頌歌―アルジュナウィワハ   

    アイルランガは芸術文化にも意を用いました。マハーバーラタのジャワ語訳は岳父ダルマワングサの御代になされたとされますが,アイルランガ治世の1035年,数多のカカウィンの中でも最も美しいものの一つとされる「アルジュナウィワハ(アルジュナの結婚)」が詩人ムプ・カンワによって著されました。話の粗筋[37]は,極く簡単にいえば次のようなことです。

    「天界を破壊すると脅迫するダイタンの魔王ニワタカワチャの征伐を命ぜられた勇者アルジュナが,サトリア(武士) としての任務を果たすべく,ニワタカワチャの焦がれるニンフ,スプラバの助けを借りてニワタカワチャの弱点(舌先)を聞き出し,天界に攻めてきた相手を激戦ののちに討った。アルジュナは天界で王に任ぜられ,7月間(地上では7日間),スプラバ以下7人のニンフと悦楽の時を過し,惜しまれながら地上に戻った。」

    その中には,隠遁して修行に励むアルジュナの志操を試すべく天界から遣わされたニンフが彼を誘惑に晒す場面,ニワタカワチャが遣わした巨人ムルカが化けた野猪を,アルジュナと,狩をする王に化けたシヴァ神が同時に弓で射て,両者が手柄を主張して格闘する場面などがあって,読む者を楽しませます。この物語はアイルランガの生涯をマハーバーラタの一部分に重ねた彼のための賛歌であるといわれています[38]。   

    プナングンガンの山腹に遺ると聞くチャンディ・ベラハンはアイルランガの追悼のために建てられたと伝えられます。其処に祀られていたアイルランガの石像は,現在, トゥロウランの博物館に移されていて,筆者は同博物館でこれを鑑賞したことがあります。ヴィシュヌの化身と崇められた彼は,ヴィシュヌの乗物である神鳥ガルーダに跨り,その表情には,外壁のない構造の建物の殺風景な陳列場の雰囲気をよそに,聖人のオーラが漂っていましたが,両手は仏教式の禅定印の形に組んでおられました。スラバヤから出てジャカルタの国立博物館に収められたシヴァ・マハデワ像(立像)はアイルランガを表すと見られていますがが[39]],その表情は,筆者には,寧ろ穏やかに見えて,古マタラム時代に建てられたプランバナンのヒンヅー寺院チャンディ・ロロ・ジョングランにあったシヴァ像のような厳しさが感ぜられず,その像の手の印相もまた釈迦の智吉祥印でした。素人考えですが,これは,一般にヴィシュヌ派と見做されるアイルランガ王が,シヴァ派にも崇められたことの証かも知れません。    

      

2体のアイルランガ王の彫像の上半身部分。   

左はガルーダに跨るヴィスヌの化身(トゥロウラン博物館藏) Ann R. Kinney, Marijke J.  Klokke, Lydia Kieven, Worshiping Siva and Buddha: the temple art of East Java, University of Hawaii Press, 2003 より部分的に転載。右は直立像で, シヴァの化身と推定される(インドネシア国立博物館藏), 許可を得て, 2012年2月, 筆者撮影。

   

ジャワ文学の黄金期   

    1041年,アイルランガは2人の王子のために王国を西のパンジャル(またはクディリ)と東のジャンガラに二分して隠遁生活に入り,1049年に没することになりますが,パンジャルが安定を保ったのに反し,ジャンガラの方は経営が上手くゆかずに沈滞に陥りました。国の分割はアイルランガの私情のなせる業に相違なく,偉大な為政者であった彼の唯一の失政でなかったかと筆者は思います。ジャンガラは12世紀初めにスリ・ジャヤワルサ王によってクディリに併合されて,王国は再び隆昌,ジャワ文学は黄金期を迎えました。   

    就中,第3代ジャヤバヤ王(在位1135‑1157)は文学を庇護し,ムプ・セダー,ムプ・パヌルーの詩人兄弟をして古代ジャワ文学史を飾る「バーラタユッダ」ほか幾編かのカカウィンを著さしめました[40]。「バーラタユッダ」は,前に触れたように,マハーバーラタの終章の翻案でありますが,詩の冒頭と結びには,ジャヤバヤ王への作者の敬意が加えられ[41],1157年起草と記されています。   

   

クリシュナヤーナのあらまし   

    同時代にはムプ・トゥリグナによって有名な「クリシュナヤーナ」も著されました。話の概要は次にようなものです。

    「クンディナの王女ルクミニが,政略的にチェディの王スニティに嫁がされることになったとき,クリシュナは叔母である彼女の母親から,『娘が真に恋するのはクリシュナであるから,是非なく救出してくれるように。』と認められた手紙を受取り,軍を率い,チャリオット(4頭立戦車)に乗ってクンディナに赴く。親族として祝賀に来た風を装って,王宮の外に宿所を与えられたクリシュナは,侍女に頼んでルクミニに連絡,往来する祝賀客で混雑する中,夜陰に紛れて尼僧姿で抜出した彼女をチャリオットに乗せて立去り,暗闇に隠れる。追い駆けてきたルクミニの兄ルクマに発見され,不名誉な所業であると詰られると,クリシュナは,『力づくで花嫁を奪うはサトリア(武士)に許されたる慣しなり。』と反論,決闘になってクリシュナがルクマを倒した瞬間,ルクミニがクリシュナの脚に縋って,兄の助命を乞う。クリシュナはルクミニを連れてドゥワラワティに着き,煩わされることなく平和に暮す。」

    クリシュナもアルジュナと並んでジャワ人に愛される英雄であって,筆者の知人にも親からクリシュナ,アルジュノという名を親から授かった人が各1名がいました。ジャカルタにある八頭立て馬車を御するクリシュナと後部席で弓を構えたアルジュナの彫像については前(第2章)に触れました。   

   

スマラダハーナ,ボーマンタカ   

    カメスワラ王の御代(1182-1194),「スマラダハーナ(Smaradahana)」なるカカウィンがムプ・ダルマジャによって著されました。これは「スメル山の天界で愛の神カーマがシヴァによって焼かれ,女神ラティも火の中に飛込んで共に肉体を失い,共に地上に落ちて人間の姿を得る。」という話ですが,詩文は「この二人こそカメスワラ王とキラナ王妃である。」と結ばれています[42]。スマラダハーナは,インドネシアのみならずマラヤやタイにまで広まった一群の「パンジ物語」の前駆とも言われています[43]。   

    前に引用した「ボーマンタカ」という作者不明,誰に奉げられたのかも不明な一篇もこの頃の作と推定されています。クリシュナと戦って敗れたボーマの死を詠ったこの長編詩(1492スタンザ)もまた,今はワヤンなどで演ぜられることもありませんが,極めて文学性が高く,イリアド,ハムレット,ファウストに比肩し得るという見方もあるほどで,作者の知性の高さが窺われます。因みに冒頭のスタンザには厳かに次の意が書かれています[44]

    「事実,詩歌に係る主任裁判官,『愛の神』の化身として彼の美を體現すべき御方なり。愛の神をして蓮に座ざしめ,花を奉げて崇敬し,『愛の書』の秘密を開かせしめん。彼の寺院をば詩歌でもって建て,愛の神性に可視の姿が與へられるに相應しい場所とせん。不可視の世界にては,彼は寓意の叙述の達人たる沈思の詩人により,アランガ(実体なき者)と呼ばれんが爲なり。(筆者試訳)」

     寺院(チャンディ)とは,元来,先祖を祀り,神を実体として招来するための建造物で,古代ジャワでは普く石造でありましたが,「詩歌の寺院を建てる」,ロンタルに書かれたカカウィンに寺院の機能を持たせようという作者の高邁な意気に,筆者は,唯々敬服するばかりです。   

    読者諸兄は,これらの美しい文学が花開いたメダン-クディリ時代(929-1222)が,源氏物語,枕草子をはじめとする小説や随筆が著された日本の平安中・後期(930-1192年頃)に当ることを思い出されるかも知れません。   

   

クディリの今   

    現在のクディリには,地中に埋もれたままであるのか,あるいは元々建設されなかったのか不明ですが,チャンディなどの遺構は殆どなく,筆者が訪れて唯一目にしたのはティルタ・カマンダヌ(Tirta Kamandanu)という名のジャヤバヤ王の沐浴場と伝えられるところでした。芝生の先に城門を想わせる立派な門が,そして少し隔てた向って左手には3メートルほどの高さの何の神の像か筆者には判じがたい石像がありました。後で調べてみたところ,この神はハリハラというヴィシュヌ(ハリ)とシヴァ(ハラ)の合体した両方の性格を併せ持つヒンヅー神である由,当時のジャワのヒンヅー教徒にはヴィスヌ派とシヴァ派が存在して,両者が共に拝むことのできる像が必要であったのかと想像しました。裏側に廻ってみると,ガネシャ[45]の像が表側のハリハラ像と背中合せに鎮座し,門の後の一段低いところに,石材で囲った複雑な形のプールがありましたが,水面には水草が蔓延っていて,神聖な王が入浴する姿が想像できる雰囲気ではありませんでした。   

   

クディリにあるティルタ・カマンダヌ(ジャヤバヤ王の沐浴場)の前景。右に門が, 左にハリハラ神の像が見える。2009年5月, 筆者撮影。

   

    市の郊外には,もう一箇所,プティラサン(Petilasan)と呼ばれるジャヤバヤ王の墓所がありました。石柱で囲われた正面に王の眼力を象徴する現代的な目玉のオブジェあり,数メートル脇に小さな墓標がありましたが,この墓所は,王が葬られたと伝えられたこの場所に1970年代に造営された由であって,厳かさはとても感じられませんでした。クディリの郊外には,スロウォノ,ティゴワンギという名の瀟洒な二つのチャンディがありましたが,これらは後のマジャパヒト期に建造されたものでありますから,後で触れることにしましょう。   

    ジャヤバヤ王といえば,取分け日本では「ジャヤバヤ王の予言」が有名かも知れませんが,コメントは附録に譲ります(第6章附録参照)。   

   

英雄ケン・アロック登場   

    クディリの繁栄振りは南宋の地誌「嶺外代答」[46]に,「諸外國の中でジャワは大食(タージ)國(サラセン)に次ぐ富める國」と記されていることに窺われますが,13世紀になると翳りが見えてきます。王朝最後の王となるクルタジャヤ(1185-1222)は専横かつ残虐で,宗教指導者と対立しました。嘗てのジャンガラの都トゥマペルにはトゥンガル・アメトゥンという領主(代官)がいましたが,彼もまた横暴な男で,意に沿わぬ僧侶を迫害し,農民には重税を課していました。そこに現れたのが,ヒンヅー・カースト最下層のスードラから身を起してシンガサーリ朝の始祖となるケン・アロック(またはアンロク)なる若者でした。彼の生涯は,後世に編まれた史書「パララトン[47]」の前半に詳しく書かれていました。簡単に粗筋を追ってみましょう。

    ケン・アロックはブラーマ神が農婦ケン・エンロクに産ませた子で,誕生後間もなく捨てられましたが,身体から光が放たれていたところを窃盗を稼業とするレンボンなる男に拾われて育ち,後に,バノ・サンパランなる賭博師の養子となりました。その間もその後も,略奪と賭博に明け暮れ,婦女暴行も茶飯のこと,時には人を殺めもしましたが,ある時には,扇椰子の葉を羽根にして飛び去れという神の忠告に従って,追手から逃れました。そんな中で,ある時期にジャンガンという教師から読み書き算盤,暦法,科学,文学を学びました。放浪を続ける中,彼は神の導きによってサン・ヒヤン・ローガーウェという名の,海上に浮かべた3枚の昼顔の葉の上に立ってインドから来たシヴァ派の高僧に出会い,彼と共にトゥマペルの都に行って,領主トゥングル・アメトゥンに仕官することになりました。あるとき,トゥングル・アメトゥンが略奪して妻にしていた仏教聖者プールヴァの娘ケン・デデスが馬車から降りるときに,彼女の陰部が光り輝くのを目撃,ローガーウェから,斯かる女は男に幸運を齎す[48]と教わって,トゥングル・アメトゥンを殺して,彼女を奪うことを心に決めました。そのためにムプ・ガンドゥリンなる刀工に一振りのクリス(短剣)を注文したのですが,約束の期間で仕上っていなかったのに立腹し,その未完成のクリスで刀工を刺殺しました。ガンドゥリンは死際に,「貴様も,そのクリスで刺さるであろう。貴様の子も孫も,そして全部で7人の王が殺されるであろう。」と呪いました。クリスを手にしたアロックは,それをケボ・ヒジョなる同僚に貸し与え,或る晩,そのクリスを盗み取って,トゥングル・アメトゥンを殺害しました。その罪は姦計通りケボ・ヒジョに着せられました。ケン・デデスを妻にしたアロックは,やがて王に推挙され,スリ・ランガ・ラジャサ・バータラ・サン・アムルワブミ(短くはラジャサ)という名で即位して,シンガサーリを建国,遂にはトゥマペルを支配するダハ(クディリ)をも戦で破り,西暦1222年,東ジャワ全体の支配者となりました。

      

プラムディア・アナンタトゥールの小説「ジャワのアロック(Pramoedya Ananta Toer, Arok of Java: a novel of early Indonesia, Horizon Books 2007 の表紙画, Mohamad Yusof による挿絵の中, アロックが叛乱を指揮する場面)。 Horizon Books Sdn Bhd の好意を受けて複写。

   

    パララトンは,所々に超自然的出来事が挟まれてはいるものの,事実の客観的かつ平坦な記述によって構成されていて,情景といったものが全く書かれていませんが,文豪プラムディア・アナンタトゥールの歴史小説「ジャワのアロック」[49]は,ストーリーの細部は多少異なるものの,筆者にとって,人物像や時代背景を想像するのに大きな助けになりました。例えば,アロックはマハーバーラタとラーマーヤナの全詩を理解し,美しいサンスクリット語を話せる稀有な知能の持主,無法者でありながら常に弱者に味方する,恰もイギリスの民話に伝わるロビンフッドを彷彿させる英雄として捉えられ,立場の激変する環境に置かれたケン・デデスの心の綾も如実に語られていました。また,その時代のジャワにおける宗教事情,ヒンヅーのシヴァ派とヴィシュヌ派,大乗仏教教徒や密教徒(タントリ)の葛藤に関しても,教科書にない知識が盛られていました。プラムディアによれば,ケン・アロックの目指したものは,異なる宗教を持つ人々の融合した社会でしたが,これはプラムディア自身の理想でもあったに相違ありません。   

    ケン・アロックには,ケン・デデスとの間に儲けた3男1女,第二の妻ウマンとの間にできた3男1女のほかに,ケン・デデスを獲得する前に彼女が孕んでいたトゥングル・アメトゥンの忘れ形見,アヌサパティという男子がありました。アロックの善政は25年続きますが,彼は,刀工ガンドゥリンの呪言通り,成長して自分の出生の秘密を知ったアヌサパティによって,件のクリスで殺されることになります(西暦1247年)。国王暗殺はその後も繰返されました。アロックの後を襲ったアヌサパティは,父の死の事情を知ったウマンの子トージャヤによって刺殺され,トージャヤもまた王位に就いたものの,アヌサパティの子ランガウニの手下に刺された傷がもとで死にました。何れの場合も用いられた凶器は,同じムプ・ガンドゥリンのクリスでした。   

   

元寇,そしてマジャパヒト建国   

    1268年から24年間在位した第5代の王クルタネガラ(ランガウニの子)の時代,シンガサーリの覇権はスマトラにまで及び,バリをも征服してジャワの国威は大いに振るいましたが,後期には,日本の鎌倉幕府[50]と同様に,元の来寇を受けるという困難に見舞われました。クビライ・カーンは1280年と翌1281年,更に1289年にジャワに使節を送って服属を求めましたが,クルタネガラは何れの場合も拒絶,特に3回目には使者の顔に傷を付けて送り返しました。これに怒ったクビライは1292年に1000隻のジャンク船団からなる大軍を派遣しました。しかし,元軍が11月に到着する以前の5月,シンガサーリ王国では,以前に滅んだクディリ朝の末裔と目され,クディリを再興せんとした配下のクディリ代官ジャヤカトゥワンによるクーデターが発生して,クルタネガラは1292年5月に既に死亡,シンガサーリ王国も滅亡して,トゥマペルはジャヤカトゥワンの手に渡っていました。トゥバンに上陸した元軍を迎えたのはシンガサーリの貴族であったラデン・ウィジャヤなる人物,彼はジャヤカトゥワンに忠誠を誓う素振りをし,アルジュナ山の北(マジャパヒト,現在のトゥロウラン)に領地を得て,其処に拠を構えていました。ウィジャヤは元軍と共同してトゥマペルを攻め,ジャヤカトゥワンは元軍の俘囚となりました。ウィジャヤが連出したトゥマペルの姫(クルタネガラの娘)2人をクビライへの土産にしたいと欲した元側が要求すると,ウィジャヤは宮城に来るように言いました。元の兵が入城するや否や,衛兵は前後の門扉を閉して相手に襲い掛かりました。ウィジャヤの兵は逃げ果せた元の兵をキャンプ地まで追い,港の船に逃れた者も全て殺しました[51]。   

    余談ですが,現在のインドネシアで最もポピュラーな食品でタフ(Tahu)と呼ばれる豆腐は,この時に元軍によって伝えられたとされています[52]。   

    ラデン・ウィジャヤは1293年11月にマジャパヒトを建国しました。彼はクルタネガラの娘婿でありましたが,それ以上に重要なのは,彼がケン・アロックとケン・デデスの曾孫に当っていたことで,その血筋は現在のソロ王家,ジョクジャカルタ王家にも連なり,ジャワで最も貴い血統として崇められています。然し,ジョクジャカルタ王家に連なる友人のEさんに,「ケン・アロックとケン・デデスの血を引くと意識されたことがおありですか。」と問うたときには,「歴史上の人物とは考えますが,とても左様に思ったことは御在いません。」との答が返ってきました。   

   

シンガサーリ遺跡,般若波羅蜜多像   

    シンガサーリの遺跡は,現在のマラン市の付近に幾つか残されています。最も中心的存在であったと考えられるのがシンゴサリ・コンプレックスと呼ばれるところで,チャンディ・シンゴサリという名の,クルタネガラ王を祀ったヒンヅー様式の寺院のほか,多分,仏教寺院や,密教の施設などで構成されていたと考えられています。それらを護る一対のラクササは頗(すこぶ)る巨大で,10年余り前,そこを初めて訪れた筆者は,度肝を抜かれました。1936年に修復されて立つ2層からなるチャンディ・シンゴサリには2つのカーラ面がありますが,上部のものが立派に彫られているのに,下部のものは荒削りのままである,また屋上の尖頂を欠くところから,恐らくクルタネガラ王の急死によって建物全体が未完成に終ったのであろうと見られています[53]。   

   

東ジャワ,マラン郊外にあるシンガサーリ時代の2体の巨大なラクササ像。遠方にもう一体が見える。 2002年2月, 筆者撮影。

   

 

チャンディ・シンゴサリ全景(左)および上下2つのカーラ面(右)。右下のカーラ面が未完成であることに注意(本文参照)。2010年6月,筆者撮影

   

    このコンプレックスから出土した数体の彫像のうち,最高傑作は,現在,ジャカルタの国立博物館特別室正面で拝むことのできるプラジュナパラミタ(般若波羅蜜多)に擬したケン・デデスの石像といってよいでしょう。前述のようにデデスの父は高貴な仏教僧でありましたから,彼女もまた仏教徒でした。両手を智吉祥印に組み,完璧な智慧を求めて行をせらるる観音菩薩の御姿[54]に,完璧な美女と伝わるケン・デデスを重ねて鑿を振った今は名の知れぬ彫刻師は,仏への信仰と王妃への敬愛を込めて製作に勤しんだに相違ありません。近年のヨーロッパでの展示でその名声が高められたこの作品は,見惚れた筆者をケン・デデスが恰も永遠の生命を持つかのような錯覚に陥れました。ケン・アロックが野心を抱いたのも宜(むべ)なるかな,彼ならずとも,世の男性で彼女に惹かれない者は皆無に近かろうと,筆者は像の前に佇んで思いました。ケン・アロックの暗殺で寡婦となったケン・デデスの後半生については少なくとも文献を漁った限り不明ですが,仏教徒の彼女はサティ(ヒンヅー教妻の夫への殉死)の習慣に従うことなく,髪を下して尼寺に住んだのでなかろうか,筆者は左様に想像しました。   

   

プラジュナパラミタ(般若波羅蜜多)像。ケン・デデスを模したと伝わる。   

インドネシア国立博物館所蔵。特別の許可を得て, 2012年2月, 筆者撮影。

   

    それでは,ケン・アロックの祀られたというカゲネンガンは何処にあったのか。後出のデサワルナーナ(別名ナーガラクルターガマ)には,シンガサーリの南に,立派な門の付いた塀で囲まれた聖域にチャンディのあったことが記されています[55]が,その場所は現在は特定されていないようです。チャンディ・シンガサーリの管理人の方に伺ったところ,カウィ山の麓にそれと伝わるところがあるとのことでしたが,遠方と教えられて訪ねるのを諦めました。   

    チャンディ・シンゴサリから2キロほど離れたところには,道端から数メートル降った木立の中に,ケン・アロックの時代にケン・デデスも水浴びをしたと伝わるプティルタアン・ワトゥグデという名の6×20メートルほどの長方形のプールがあり,今も滾々(こんこん)と湧出る清水で満たされていました。

  

 

プティルタアン・ワトゥグデ。2010年6月, 筆者撮影。

   

マラン周辺に遺るチャンディ   

    マラン郊外には,他に,アヌサパティ王を祀ったチャンディ・キダル,ウィスヌワルダーナ王を祀ったチャンディ・ジャゴ,ならびに少し離れた山裾にあって東ジャワ唯一の純仏教遺跡といわれるスンブラワンのストゥーパ(仏塔)がありますが,最も特徴的なのはチャンディ・ジャゴであると思いました。境内隅の地面には,アモーガパサ[56]やカーラ面の彫像が置かれ,寺院の本体部分は復元されないままでありましたが,基壇,一階,二階および階段の壁面が隈なくレリーフで覆い尽くされていたのです。ここを初めて訪れた時のこと,レリーフに彫られた人物が平面化されているのを見て,古マタラム時代に建立されたプランバナン寺院の写実的で立体感のあるレリーフに比べて随分見劣りするように思いましたが,それは浅学であるが故の誤解でありました。後に学んだところでは[57],幾つかの物語の場面場面が恰もワヤン・クリットを再現するかのように壁面に彫られていたのでありました。また現存するチャンディ自体は,彫刻のスタイルならびに建物の構造の特徴から,後のマジャパヒト期に新築または改築されたものであると見做されることも学びました。残念なのは,どのレリーフも風化が激しいことで,新しいカメラを持って2度目に訪れたときにも,満足の行く写真は撮れませんでした。レリーフの物語は多彩で,ヒンヅー教に因むアルジュナウィワハ,クリシュナヤーナおよびパルタヤジュナ[58] のほか,仏教に関するクンジャラカルナ[59]ならびに密教寓話が含まれていて,両宗教が共存していたことを暗示しています。   

   

チャンディ・ジャゴの一部(第2基壇の一部と第3基壇の残骸)。パルタヤジュナの中, アルジュナのインドラキーラ山への旅の一場面。2010年6月, 筆者撮影。

   

ストゥーパ・スンブラワン(左)およびチャンディ・キダル(右)。2010年6月, 筆者撮影。

   

マジャパヒト繁栄期   

    前述のように,マジャパヒト王国は1293年に建国され,200年近く存在しましたが,その絶頂期は第4代ハヤム・ウルク王(即位名ラジャサネガラ)の時代(西暦1350-1389)で,版図は,スンダ王国が存在した西部ジャワを除き,ジャワ島東部および中部からスマトラ,カリマンタン(ボルネオ島),スラウェシ(セレベス島),バリ以東の島々,西部ニューギニアを包含する現在のインドネシア国全域のみならず,マレー半島にまで及びました。王国の経済基盤は農業であって,その豊かさは,元の汪大淵が1349年に著した「島夷誌略」の次の記述 からも窺知されます。   

    「その田は肥沃にして,地に水潤い,穀米富饒(ふじょう)にして,(生産高は)他國に倍す。民は盗みを爲さず,道で拾遺せず。『太平のジャワ』と言慣はすは,此れなり。」[60]   

    同時代のイタリア人で,中東,インド,東インド,シナの各地を回ったというオドリック・ダ・ポルデノーネは,旅行記[61]の中で,ジャワについて,「王は7つの属国を支配,人口稠密で樟脳,胡椒,ナツメグほかの香辛料を産する。全ての島の中で第二の富める国。」と紹介し,続けて「王宮は素晴らしく,階段も壁も金銀張りで,歩道にも金銀のタイルが敷かれ,壁面には騎士の像が彫られ,天井も純金といった風で世界のどの王宮より豪華である。」と記し,「華正(シナ)の偉大なカーン・クビライが幾度も仕掛けた戦を克服した。」と結んでいます。ダ・ポルデノーネの記録は屡々其処此処に引用されていますが,インド以西やシナの一部については訪問先で見聞きしたことが微細に書かれているのに反して,東インド各地の記述は頗る抽象的で,かつ短いことから,筆者には,実際には足を踏み入れずに伝聞で書かれたものかと疑われます。実際,ジャワについての記述は僅か約250語で,具体的な人名,地名はなく,王宮の様子が,恐らく実態以上に派手に書かれている割には,町や村の様子,人々の暮しなどには全く触れられていません。   

    1365年に著された「デサワルナーナ(ナーガラクルターガマ)」[62] は,ハヤム・ウルクの視察旅行に随行した詩人ムプ・パラパンチャが,ジャワ各地の様子をカカウィン詩文で具に記録した書で(1365年刊),前出のパララトンと並ぶ貴重な歴史資料であります。旅行先には,王がシンガサーリの建国者で,先祖に当るジャヤサ(ケン・アロック)の祀られたカゲネンガンの廟も含まれ,ケン・アロックに始まるシンガサーリの王統に関しても詳しく書かれています。但し,アロックの出生については,簡単に「神の化身として,子宮からではなく,山の神(シヴァ神)の子として生れた」とあって,パララトンにあるような複雑な前半生は全く書かれていません。また,ハヤム・ウルクの生涯で最大の悲劇であったに相違ないブバトの事件(1357),彼が望んだスンダ王国の姫ディア・ピタロカとの結婚の式典が,スンダを属国にしようと意図した宰相ガジャ・マダによってぶち壊され,マジャパヒトに招いたスンダ王家の一行が,国王も王妃も,そして姫も,悉く首都郊外のブバトの野に果てた事件[63]は完全に除外されています。これらは,「パララトン」がこの事件を詳しく扱っているのと対照的ですが,デサワルナーナがハヤム・ウルクおよびその王統への頌歌であったことからすれば当然といえましょう。ハヤム・ウルクは,ブバトの事件の数年後に従姉妹のパドゥカ・ソリと結婚し,王妃としました。   

    ハヤム・ウルクの歿後,王国は叙々に凋落に向います。一つの要因は王族内における王位継承争いでしたが,それに輪を掛けたのがイスラム教の伝播でした。イスラム教が何時ジャワに伝わったかは議論のあるところですが,「瀛涯勝覧(1416)」には,「この国には3種類の人あり,一つは西方諸国から商いのために流れてきた回教徒,一つは廣東,漳州,泉州などから逃避してきた唐人で,多くは回教を受戒,一つは鬼教(異教=ヒンヅー教)を崇信する土人(現地人)。」[64]とありますから,15世紀初頭には相当に普及していたことが窺知されます。実際,15世紀半ばになると,ドゥマック,ジュパラ,グレシク,トゥバンなどのジャワ北岸の港湾都市の領主はイスラムに改宗し,マジャパヒトから離反して貿易を牛耳るようになり,1475年前後にラデン・パターがジャワ最初のイスラム王国,ドゥマックを建国しました。ドゥマックはマレー半島のマラッカ王国との交易で栄えましたが,後者が1511年にポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケの攻撃を受けて陥落したのを境に,力を失いました。この間の事情は,ポルトガル人トメ・ピレスの書[65]にも詳しく書かれています。   

    マジャパヒト王国は,一般にブラウィジャヤ6世(別名ギリンドゥラワルダナ,1478-1498)の代で終了したことされています。この頃,ジャワの貴族たちは大量の文物を携えてイスラム勢力の及ばなかったバリに亡命しました。実のところ,現存するマジャパヒト期あるいはそれ以前に書かれた文学書や歴史書はバリ島またはその東のロンボク島に遺されていたものばかりで,全くもって彼らのお陰です。   

    マジャパヒト期,ハヤム・ウルクの御代に著された文学作品として,ムプ・タントゥラルによる2篇のカカウィン,「アルジュナウィジャヤ(アルジュナの勝利)」と「スタソーマ」が知られています。前者はラーマーヤナの中の挿話に拠るとされる[66]比較的単純な物語[67]ですが,スタソーマは仏典ジャータカ(本生譚)の第537話「マハー・スタソマ・ジャータカ」に基く562篇(カント)からなる長編詩であって,ヒンヅー教が優勢であった東ジャワで書かれた稀な仏教文学です。少し長くなりますが,話の筋を追ってみましょう。   

   

仏教説話スタソーマ物語

    「ハスティナの王マハーケツは悪魔共の跳梁(ちょうりょう)に悩まされていた。唯一彼らを打負かすことのできるのは王の息子であるとの僧正の進言を受けた王がジナ(仏)像の前でヨガに励む王妃に菩薩が宿り,王子が誕生する。スタソーマと名付けられた王子は,長ずると,自己の修養が先であると考え,周囲の期待を裏切って王宮を抜出し,修行の途に付く。山裾の村に着くと,女神バーイラウィが現れて,全ゆる邪悪を打破し,人々を病や不幸から解放するための真言(しんごん)を教え,スメル山の隠遁所への道順を示して去る。スタソーマは高僧ケサワに遭って,山頂への案内を頼む。山への途中に隠遁所があり,スタソーマは母方の伯父に当る隠者スミトゥラに遭う。スタソーマはスミトゥラから悪魔王スチロマの履歴について聞く。スミトゥラに依れば,スチロマは一度は降下したジナ(仏)に諭されて人殺しを止めたが,ルドゥラ(破壊神シヴァ)によって不敗の力と,それを占うジャヤンタカの名を与えられた。ある日,彼の食膳に死体から切取った人肉が運ばれた。それは用意された料理が犬に喰われたがための代替であったが,爾来,スチロマは人肉を嗜好し,ポルサダ(人喰いの意)とも呼ばれるようになった。   

    スタソーマは,道中で,像の顔を持つ怪物ガジャムカーとナガ(大蛇)に襲われ,更に空腹のため己の子を喰おうとしている雌虎に出会うが,神に助けを得て彼らを悉く調伏して弟子にする。スタソーマは独りスメル山頂に向うが,ジャヤンタの横暴を畏れた神々は彼を引戻して対抗させようと考えた。就中,インドラ神がニンフを送るもスタソーマは惑わされず,インドラ神自ら眩い女神の姿で現れるが,スタソーマの心は揺るがなかった。スタソーマは修行を完了してジナとなったと感じ,彼の任務を意識する。山から降りたスタソーマはケサワと再会,従兄弟でカーシ国の王ダサバーフに遭って,その妹のチャンドラワティと結婚する。二人は,それぞれがワイローチャナ(大日如来)とその明妃ロチャーナの転生であると意識する。スタソーマは妻を伴ってハスティナ国へ帰還,それにはダサバーフも同道する。   

    他方,悪魔王ポルサダはカーラ(死神)に100人の王を捧げると誓って先にダサバーフとの戦って負った傷の治癒を得たが,実際に100人の王を捕えて差出すと,カーラから,犠牲として欲するのは唯一スタソーマであると告げられ,ハスティナに向う。ハスティナでは,スタソーマが俘囚となった王たちの救済のために己を犠牲に供するというが,大臣らは戦の準備をする。戦が始り,ポルサダは彼に加勢した2人の王をダサバーフに殺されるも,劣勢を覆す。ハスティナ軍は敗走,村々や聖域が破壊される。遂にはスタソーマが戦場に赴き敵と対面する。シワ(の宿ったポルサダ)が炎を放つと,炎はアムルタ(生命の水)に変ってハスティナ側の斃れた王たちを蘇生させる。彼が矢を放つと,それは花に変る。スタソーマは仏の化身であり,「仏とシワ(シヴァ)は本質的に一体である」がゆえに,傷付けられることがないのである。スタソーマが智挙印の姿勢をとると金剛石の武器が現れ,シワの怒りは完全に鎮まる。シヴァはスタソーマ自身が仏陀であることを知ってポルサダの体から去る。スタソーマの犠牲心を知ったポルサダは畏怖し,彼の心は同情と愛に満たされる。   

    カーラはスタソーマが来たのに喜んで条件を認め,百人の王を解放する。カーラは剣でスタソーマを殺そうとするが,剣はスタソーマの体に刺さらない。カーラは龍に変身してスタソーマを喰おうとするが,その瞬間,彼は慈悲と同情の念に苛まれて許しを請い,スタソーマの弟子になる。カーラはスタソーマに善導され,ポルサダとともに僧になる。   

    ハスティナでは,死者がインドゥラによって蘇生され,祭典が催される。世界は平和と繁栄に満たされる。時を経て,スタソーマは妃とともに地を離れてジナの天界に帰り,ポルサダもそこでジナ信者として迎えられる。カーラはパスパティ(全動物の主)の地位を得る。ハスティナではスタソーマの息子アルダーナが王位を継ぐ。」[68]

   

   

龍に化けたカーラがスタソーマを喰わんとする図。バリ島, 旧クルンクン王国クルタ・ゴザ宮殿の天井画の一部。 http://balitourismculture.blogspot.jp/2009/08/kerta-gosa.htmlより転載。

   

    この詩文の随所に仏教とヒンヅー教(ここでは特にシヴァ教)の混淆が見らますが,それはマジャパヒト時代における両宗教の関係,またはそれらの融合した状況を示唆するものでもありましょう。後段の「仏とシワ(シヴァ)は本質的に一体である」[69]の行は,インドネシアの国是,「多様性の中の統一(Bhinneka Tunggal Ika)」の起源であるとされています。   

    マジャパヒト後期,スラプラバーワ王(Sri Adi Suraprabhawa,1466‑1474)の時代,パルタヤジュナならびにクンジャラカルナの2篇のカカウィンが,ムプ・タナクン(Mpu Tanakung)によって著されました[70]。これらが,それぞれヒンヅー教および仏教に因み,チャンディ・ジャゴの壁面に彫られていることは前に述べました。   

   

マジャパヒトの凋落   

    イスラム教が東に広まる中で,ビルマやシャム(タイ)のような既存宗教が比較的強かった地域は,アラブの宗教の浸透を免れました。確固たるヒンヅー・仏教教国マジャパヒトが何故容易にイスラム教に蹂躙され,消滅したのか。文豪プラムディア・アナンタトゥールは,これをテーマにした長編歴史小説「アルス・バリック」[71]を著しましたが,今は絶版となっています。仮に古本が入手できてもインドネシア語751ページに及ぶ分厚い同書は筆者の手に負えるところでありますまいが,幸い詳しいレヴューがありました[72]。それに依れば,舞台はマジャパヒトの忠実な属国で沿岸に栄えたトゥバンに置かれ,その支配下にあったジュパラが先ずイスラム国ドゥマックの手に落ち,遂にはトゥバンも陥落するに至る中で,首領たちのほかに,下層の出でトゥバンの武士になった若者と宮廷の踊子となった少女や,利己主義の権化のような一匹狼のムーア人らが絡む,といった物語であって,その中で,著者は,トゥバンの領主ウィラティクタが貿易による利益追求のためにサトリア(武士)の魂を失って,便宜のためにイスラムに改宗し,有り余る富があったにも拘わらず国の防備に全く意を介さなかったことを破滅の原因とし,港では以前は豊饒な土地から穫れた米や香辛料を積んだマジャパヒトの大型船が出港したのに,今は農業が疎んぜられ,舶来品を積んだ外国船が入港して来る有様で,流れが逆転した(アルス・バリックの意)と説いています。   

    嘗てのマジャパヒトの都,現在のトゥロウランでは,別の章(第4章)に記したように,幾つか遺る建造物は,チャンディも,貯水池や沐浴場の内壁も,また,発掘中のクラトン(王宮)と目される建物も,主に正確な寸法の赤レンガで造られていました。筆者の見た限り,レンガが建築材料として斯くもふんだんに使われていたのは此処(トゥロウラン)だけで,同時代,他所の建造物には殆ど伝統的な石材が用いられていました。   

   

クディリ郊外のチャンディ   

    クディリ郊外のチャンディ・スロウォノはラジャサネガラ(ハヤム・ウルク)の叔父で,この地方を治めたウィジャヤラジャサ(1388年没)を祀ったところで,寺院本屋は再現されていませんが,基壇の壁面に彫られたアルジュナウィワハほか幾つかの物語のレリーフは,風化の程度が低く,鮮明に保たれていて,アルジュナウィワハに関しては,筆者にも直ぐにそれと分る場面が幾つもありました。彫られたキャラクターはワヤン・クリットの人形のように平面的でしたが,現在の影絵用のもののように激しくデフォルメされることなく,繊細に刻まれた表情には豊かさが感じられ,人物の周り一杯にあしらわれた樹木や建造物は,影絵とは異なる興趣を与えてくれました。ここに表現されたような姿がワヤン・クリットの原型であるとすれば,経緯はともあれ,そのデフォルメが後世に行われたとする見方(前述)に合致します。   

    もう一つの,チャンディ・ティゴワンギはラジャサネガラの従兄弟ラジャサワルドゥハナ(ウィジャヤラジャサの義弟)の廟といわれるところで,これも基盤を遺すのみでしたが,レリーフは見事でした。ここに描かれた物語は唯一編で,後で調べたところ,「スダマラ」という題名のキドゥン(カカウィンなどと別形式の詩文)が元だそうです。登場人物の名はマハーバーラタから借用されていますが,この物語は純粋にジャワ起源のものであって,あらまし次のような話でありました[73]。   

   

ディリ郊外チャンディ・スロウォノの「アルジュナウィワハ」レリーフの中, 狩をする王に化けたシヴァ神の足をアルジュナが掴む場面。2009年5月, 筆者撮影。

   

クディリ郊外チャンディ・ティゴワンギの「スダマラ」レリーフの中, スダマラと改名したサデワと修道者の娘二・パダとの結婚式の場面。2009年5月, 筆者撮影。

   

スダマラ物語のあらすじ

    「シヴァ神は不貞を犯した妻フマに呪詛をかけ,ドゥルガという名の悪魔の姿に変えて,ガンダマユの森の墓地に追い遣り,彼女は,其処で12年の期間,あるいはパンダワ家の末子サデワによって開放されるまで,その姿で留まらなければならないことになった。シヴァ神は,同時期に,矢張り不品行の廉で二人天界の女,チトラセナとチトランガダを同じ墓地に追放した。二人は,カラニャヤとカランタカという名の悪霊に変えられ,ドゥルガに仕えるが,この二人はパンダワ家の不倶戴天の敵であるコラワ家に組した。パンダワ家の母のクンティが,二人の殺害許可をドゥルガに請うと,ドゥルガはサデワを差出すよう要求した。クンティはそれを拒んだものの,結局サデワはフマの侍女に囚われた。サデワは危機に瀕したが,聖者ナラダの仲介によって駆け付けたシヴァから魔力を与えられ,ドゥルガへの呪詛を解いて,彼女を元のフマの姿に戻した。フマは恩人のサデワにサダマラ(スダマラ,汚れと悪霊を濯ぐ者の意)の名を贈り,敵を討つための武器を与えて,修行者タンブラペトゥラの隠れ家に行くよう命じた。サデワはタンブラペトゥラの盲目を治し,修行者の2人の娘,パダパとソカと婚約した。そこに,彼を探していた双子の兄サクラが現れた。二人は,それぞれパダとソカを娶った。二人はパンダワ家の兄たちがコワラ家と戦っている戦場に赴き[74],フマから授かった武器でもって,次兄ビマと三兄アルジュナを殺したカラニャヤとカランタカを討った。2人の悪霊は呪詛から解放され天界に送られた。」

   

    これらのチャンディを訪れて,ふと想ったことですが,嘗てこれらの寺院が賑っていた昔のこと,寺院を建て,「文学の彫刻」で飾ったのは王侯貴族であったにしても,一般庶民もまた参詣に訪れてレリーフを観賞したに相違ありません。彼らは仮令文字が読めなくとも,カカウィンやキドゥンに親しみ,諳(そら)んじた詩文の全部あるいは部分を口ずさみながら,あるいはそれを子供たちに聞かせながら,壁面の物語を楽しんだのでなかろうか,それに引換え,自分といえば,韻律の失われた現代語訳でもって辛うじて話の筋を追うことができるに過ぎないではないか,若し神の恩寵があるなら,古代ジャワ語を学ぶことは無理であっても,これらのチャンディを再訪して,せめて一ヶ所毎に丸一日くらいの時間を掛けて遊びたいと祈りました。   

   

マジャパヒトの国家寺院チャンディ・パナタラン   

    クディリの南方50km,現在のブリタル近くに,チャンディ・パナタランと呼ばれる遺跡があります。マジャパヒト王国の発展期,第3代トゥリブワナ・トゥンガデウィ女王(ハヤム・ウルクの母,在位1328-1351)の御代に建立されたこの寺院は,流石にチャンディ・ネガラ(国家の寺院)[75]といわれるだけあって,立派なラクササに護られた広大な境内には本院の他に幾つもの建造物や沐浴場が配置されていました。本院はで約30メートル四方の基礎の上に,嘗ては12重の屋根をもつ御堂が聳えていたと想像され[76],その壮大さは今に遺る3層の基壇の石積みと,それに廻らされた彫像やレリーフから窺知されます。   

   

パナタラン全景。中央遠方に見えるチャンディは「デイテッド・テンプル(Dated Temple)」と呼ばれるもので,本院の基壇はその先にある。 2010年6月, 筆者撮影。

   

    レリーフの彫刻はここでも平面的なワヤン・クリット風のもので,第一基壇に張られた100枚以上のラーマーヤナのパネルには,古マタラム時代に造られたチャンディ・プランバナンの立体的で写実的なものとは異なった趣が感ぜられました。本院のレリーフでより印象的であったのは,第二基壇外壁を取巻く,高さ約70センチメートル,幅約5メートルもの,筆者が見た限りジャワの寺院の説話レリーフの中で最大の堂々たるクリシュナヤーナ(前述)のパネルでした。レリーフから物語の筋を辿ることは困難でありましたが,幾枚かはカカウィン詩文の要約からは心に描くことの出来なかった物語の幾つかの場面について,具体的なイメージを与えてくれました。例えば,クリシュナが将来の妻となるルクミニ姫を,彼女の母親の願望に応えて,別の男との結婚式場から連出し,チャリオットで走り去る場面では,クリシュナ軍の武装した兵士や馬とチャリオットに加えて,恐らく必要あらばパレスの門を壊すために連れて行ったのでありましょう,一頭の象が,現代の劇画に似た風に描かれていました。  

 

チャンディ・パナタラン主堂第2基壇の「クリシュナヤーナ」レリーフの大パネル2枚の中の1枚。物語序章のクリシュナが,好まぬ相手, チェディのスニティ王との結婚の式場からルクミニ姫を救出し(上), チャリオットに乗せて走り去る(下)。 2010年6月,筆者撮影。

   

    他に筆者の興味を惹いたレリーフといえば,ペンドポ・テラスと呼ばれるチャンディの基壇だけのような建造物にあった未知の物語のレリーフで,それには「何処かの王子がロンタルの書簡を鸚鵡に託す場面」,「鸚鵡が嘴に銜えて運んだ書簡を何処かの姫が受取って読む場面」,「どこかの楼閣で2人が会って愛を交わし,下男下女も裏の部屋で抱合っている場面」が描かれていました。鳩を伝書に使うことは古くギリシャ時代やローマ時代の詩にも書かれていたそうですが[77],普通は足か背に書簡を括りつけ,鳩の帰巣本能を利用して運ばせます。幾ら利口な鳥とはいえ,鸚鵡が書簡を嘴に銜えて運ぶというのは現実にあったことでしょうか。昭和の頃までの日本で,神社でヤマガラに御神籤を取ってこさせる芸があったことを考えると,強ち御伽噺の中だけのことでなかったかも知れませんが,その答は未だ得られず仕舞いです。レリーフの話自体は,王子が半球形の所謂パンジ・キャップ[78]を冠っていますから,一群のパンジ物語の一つかと想像されますが,具体的には未だ見付かっていないそうです。   

   

チャンディ・パナタランのペンドポ・テラスにある未知の物語のレリーフの2画面。パンジ帽を冠った王子と思われる若者が鸚鵡に書簡を託す場面と(左), 王女と思われる女性がそれを受け取って読む場面(右)。2010年6月,筆者撮影。

   

    パナタランでは他の建造物も,沐浴場までも,全てヒンヅー教やタントラ(密教)に因むレリーフで飾られていました。ブリタルの郊外には,チャンディ・サウェンタルという名の小振りの寺院や,発掘中の遺構があって,この地域が古くから開けていたことを窺わせました。   

   

パナタランの沐浴場。壁面には「牡牛と鰐」,「アヒルと亀」などのタントラに因む話の場面が彫られている。水槽は600年前から湧き続ける清水で満たされて, 小魚が泳いでいる。2010年6月, 筆者撮影。

      

ブリタル郊外のスカルノ廟   

    序ながら,ブリタルには,故スカルノ・インドネシア共和国初代大統領の墓所があります。故人に関する資料の展示館に立寄って,ヒンヅー式の割れ門を入ると,現代人の墓所にしては格別の広大な墓域に,その日は週日であったというのに,故人を慕う大勢の人々が溢れていました。300メートル先に立つペンドポ様式の3層寄棟の屋根を持つ廟では,老若男女が代る代る祈りを奉げていましたので,筆者もそれに倣いました。   

    ふと,「これは正しくチャンディ・スカルノだな。」と呟いたら,同行の友がニコッと微笑みました。故スカルノ氏は既に伝説のひと,筆者には,それが世代々々に受継がれ,この墓所への参詣も今後何百年も続くであろうと思われたのです。   

   

マジャパヒト後期建立,ラウ山中腹のチャンディ   

    中部ジャワのソロの東方,東ジャワとの境に聳えるラウ山の中腹に,イスラム教が広まったマジャパヒト時代後期に,避難したヒンヅー教徒が建てた考えられる二つの寺院が遺されています。筆者は嘗て余り予備知識もなくそこを訪ねたことがありました。   

    一箇所は,マジャパヒト朝最後から2代目の王,ブラウィジャヤ5世(別名,ブーラ・クルタブミ,在位1468-1475)の時代に建てられたチャンディ・チェトという名の寺院で,広大な茶畑を縫う曲りくねった坂道を登った先,海抜1400メートルの斜面にありました。境内に入る手前には明らかに近年に建てられたと見られる[79]ヒンヅー式割れ門がありました。石段を上る途中には僧侶の修道場または集会場と目される木造板葺きの小屋が2棟ありました。その更に上には,1体のリンガ(男根)のほかに3体の彫像が,個々に質素な木造の龕に納められて存在しましたが,それらはシンガサーリ期,クディリ期,あるいはマジャパヒト初期の見事な像のように芸術的に彫られたものでなく,寧ろ日本の片田舎に見られる地蔵様に似た素朴なものでした。そこに居合わせた人によれば,神像らしき1体はブラウィジャヤ5世,他の2体は彼の精神的助言者,サブドパロンとナヤゲンゴンを模ったものとのことでした。個々の像の前に香炉が置かれ,花弁が供えられ[80]ていた事実は,このチャンディが厳密には廃寺ではなく,現在も参拝者のあることを窺わせました。事実,筆者は地元の男性から,彼自身の家族はそうでないが,近くの村々には今に至るまで先祖の宗教を受継いでいる人たちが居ると伺いました。因みに東ジャワのブロモ山周辺に棲むトゥンガルという名のグループの人々は,イスラムへの改宗を拒み,今なおヒンヅー教を奉っていることで知られています。   

   

(上)チャンディ・チェト境内風景。石段上に僧坊などあり, その上に石像を祀った建物がある。(下)祀られた4体の像(左から,リンガ,ブラウィジャヤ5世, サブドパロン,ナヤゲンゴン)。2006年6月, 筆者撮影。

   

    もう一箇寺,チャンディ・チェトより幾十年か前の1437年に建立されたチャンディ・スクーは,500メートルほど下の離れた丘にあって,これまた別の意味でユニークなものでした。主屋は2つの石段を上った地面の奥まったところに位置し,10メートル程の高さの,正面に階段のある台形ピラミッド状の石積みで,マヤのピラミッドを思い起させるものでした。頂上には,後に知ったことですが,そこに存在したリンガはジャカルタの国立博物館に移された由で,平らな面の縁に彫刻が施されている以外,何もありませんでした。ピラミッドが存在するのと同じ地面では,横に並べて垂直に立てられ,レリーフの彫られた5枚の石のパネルが目を惹きましたが,その時は何を彫ったものか不明,撮った写真をあとで調べたところ,それらはチャンディ・ティゴワンギにもあったと同じスダマラ物語の代表的な5つの場面を表現したものでありました。   

    ピラミッドの下には,道の両脇にガルーダやアイラーヴァタ[81]の像のほか,奇妙なものを模った彫刻ありました。近寄って見ると,それらは男女の艶かしい姿態または器官そのものを表現した,現代の言葉で言えば疑いなくポルノグラフィに属するものであって,大変に驚かされました。境内第一地面と第二地面の間の屋根付き門は,鉄柵で閉じられていましたが,その床にはヨニ・リンガ(yoni-linga,女と男の生殖器)の浮彫りがありました。そういえば,チャンディ・チェトの参道にもヨニ・リンガを模った敷石がありましたし,思い起こせば,パナタランのレリーフにも,ずっと昔のボロブドゥールのレリーフにすら,子供に見せたくない類のものがありました。   

   

(上)チャンディ・スクー境内。(下)境内参道左奥にある「スダマラ」レリーフ5枚の中の2枚。No.2:墓地でドゥルガがサデワを脅す場面(左), および No.3:呪詛を解かれたドゥルガの前に跪くサデワ(右)。2006年6月, 筆者撮影。

   

    筆者は,取分けマジャパヒト末期の国が乱れた頃になると,宗教もまた規律を失い,信仰心の足りない民衆を惹きつけるために斯様なものを陳列したのではないかと考えましたが,残念ながら,それは現代的倫理に囚われた間違った見方でありました。後日伺った友人で国立博物館員のEさんに依れば,その時代のジャワでは男女の営みを恥じるという感覚がなく,極く自然な生活の場面として描かれたのであった由,確かに「アルジュナウィワハ」もかなり濃艶な表現を含みますし[82],18世紀に編纂された「チェンティーニ物語」[83]には「チャタレイ夫人の恋人」[84]を遥かに凌ぐ赤裸々な描写があって,同物語も数十年前の日本なら確実に発禁物であったに相違ありません。幸か不幸かチェンティーニ物語の日本語訳はありません[85]。   

   

マジャパヒト時代の貯金箱   

    マジャパヒトの都トゥロウランで出土したテラコッタの貯金箱について付け加えましょう。最初にインドネシアに赴任したとき,寓居のお女中との会話で,貯金箱のインドネシア語が分らず,英語の通称「ピギー・バンク(Piggy bank)」を直訳して「バンク・バビ(Bank babi,Babi=豚)」と表現したら直ぐに通じて不思議に思ったことがありましたが,後にインドネシア語で「貯金箱」のことを一般に「チェレンガン(Celengan)」といい,語源的には,チェレン(Celeng=野豚)に接尾詞が付いた「野豚のような品物」を意味する派生語であることを学んで得心しました。一方,英語の「ピギー・バンク」の語源については,中世イギリスにピッグ(pygg)と呼ばれるオレンジ色の焼物があり,それで造った容器にコインを貯めたことから,ピッグ・バンク→ピギー・バンクと転訛したというのが通説のようですが[86],豚の形の貯金箱はイギリスでもポピュラーです。餌を貰えば丸々太る豚が,洋の東西で偶然にも貯金箱の呼名となったのは,何とも面白いと思いました。   

   

嘗てのマジャパヒトの都から出土したテラコッタ製の豚の形の貯金箱。インドネシア国立博物館藏。2002年2月, 許可を得て筆者撮影。

   

    東ジャワの遺跡は,以上の他にも沢山ありますが,とても筆者の寿命の間に巡礼しきれますまい。マタラムの地に本章前半に述べたような絢爛たるジャワ文化の華が再び開いたのは,ドゥマック王国第3代のトゥレンガナ王(1522-1548)の崩御以降割拠していた小国を,マジャパヒト王家の子孫と伝わるパネムバハン・スノパティが席巻し,1584年にパジャン(現在のソロ近郊)に建てた所謂新マタラム王国の宮廷においてでありました。   

  

   

 

   

第6章註     

[1] 行政的には,ジョクジャカルタは特別州であって,中部ジャワ州(州都:スマラン)には含まれない。

[2] ラーマーヤナの物語は,アヨジャ国の王子ラーマが聖者ウィスワミトゥラの庵を荒しにくる鬼を退治するために派遣されることに始まる。任務を果たしたラーマは聖者により,ウィデハスのジャナカ王の娘,シータの婿選びのための弓道大会に連れて行かれ,それに優勝してシータを獲得する。ラーマの父コラサ王はラーマを皇太子に決めるが,ラーマはその地位を異母兄に譲って,シータ,弟のラクスマナとともに森に行き小屋を建てる。そこで本文中に書いた通りの誘拐事件が起こる。拉致されたシータの捜索の過程でラーマとラクスマナは白猿ハヌマンに遭い,猿王スギワリを味方にする。スンパティ(鳥)が得た手掛りにより,ハヌマンが海を隔てたランカに飛んで,ラワナに囚われたシータを発見する。ラーマらは猿軍が海峡に造った土手道を渡って悪魔軍を攻撃,遂にはラーマがラワナを射止めてシータを救出する。一同はアヨジャに帰還,2人は結ばれる。カカウィン・ラーマーヤナ(ジャワ版叙事詩)はここで終っているが,複数あるインド原典の一つには,憂鬱な続編がある。シータには抑留中にラワナの手篭めに遭ったのでないかとの疑念が残り,ラーマは彼女を追放する。シータが間もなく出産した双子のラワとクサは賢人ワルミキに育てられる。ラーマが2人を自分の息子と認め,懺悔してシータに王宮に戻るよう促すが,彼女はそれを拒み,地界の神に訴えて地の割目に姿を消す。ラーマはヴィシュヌの元の姿で天界に戻る。(Claire Holt, Art in Indonesia: continuities and change, Cornell University Press 1967/ P. J. Zoetmulder, Kalangwan A Survey of Old Japanese Literature, Martinus Nijhoff, The Hague 1974)

[3] カヨン(kayon = tree)と呼ばれることもある。この場合の tree は Tree of Life (生命の木)を象徴する。

[4] マハーバーラタに登場するキャラクター(パンダワ家の二男)。

[5] 徳川義親 「じゃがたら紀行」, 郷土出版社 1931(十字屋書店 1943,中公文庫1975);英訳: Marquis Tokugawa (translated by M. Iguchi), Journeys to Java, ITB Press, Bandung 2004

[6] Claire Holt, Art in Indonesia: continuities and change, Cornell University Press 1967/ P. J. Zoetmulder, Kalangwan A Survey of Old Japanese Literature, Martinus Nijhoff, The Hague 1974/ S. Supomo, Bharatayuddha: An Old Javanese Poem and its Indian Sources, International Academy of Indian Culture and Aditya Prakashan 1993 から抄録。

[7] James R. Brandon, Pandam Curitno, Roger A. Long (photo), On thrones of gold: three Javanese shadow play, University of Hawaii Press 1993

[8] 著者は Yogiswara という人物であったとバリに伝わる。Nancy Florida に依れば,バリトゥン王の御代の 898-910年に書かれた(Nancy K. Florida,Javanese Literature in Surakarta Manuscripts: 1. Introduction and Manuscripts of the Keraton Surakarta, Cornell University Press, 1993)。Zoetmulder に依れば,856年に建立されたプランバナン寺院のレリーフのラーマーヤナは,カカウィンのラーマーヤナと細部において異なる(P. J. Zoetmulder, Kalangwan A Survey of Old Japanese Literature, Martinus Nijhoff, The Hague 1974)。

[9] Claire Holt, Art in Indonesia: continuities and change, Cornell University Press 1967。より詳しくは,「Tangil Hyang による歌唱; si Nalu による Bhima Kumara の詠唱ならびに Kicaka の役での舞踊; si Jalak によるラーマーヤナの詠唱; si Mungmuk によるコミックと道化; si Galigi によるワヤンの上演(その中で Bhima Kumara を詠唱)。」 この中の Bhima Kumara は The young Bima または Bhima of love の意で,マハーバーラタ の一部であると目される(P. J. Zoetmulder, Kalangwan A Survey of Old Japanese Literature, Martinus Nijhoff, The Hague 1974)。

[10] P. J. Zoetmulder, Kalangwan A Survey of Old Japanese Literature, Martinus Nijhoff, The Hague 1974

[11] 脚注7

[12] 脚注7

[13] 多くのインターネット記事 (例えば,http://en.wikipedia.org/wiki/Wayang)には,ドゥマック王国の祖であるラデン・パターが伝統的なワヤン(ワヤン・ゴレック!)を見たいといったとき,宗教指導者らは禁止された人形そのものでなく,薄い皮革の人形を用い,そのシルエットを見せる方法を発明したとある。この説は,シナ由来のワヤン・ゴレックが17世紀にイスラム化されたジャワ海沿岸都市で受入れられ,古典劇にも適用されて各地に広められたという事実(後述)と自己矛盾する。

[14] Suwito Santoso, Kestity Pringgoharjono, The Centhini Story: The Javanese Journey of Life : Based on the Original Serat Centhini, Marshall Cavendish 2006

[15] P. J. Zoetmulder, Kalangwan A Survey of Old Japanese Literature, Martinus Nijhoff, The Hague 1974。他に,Neil MacGregor, A History of the World in 100 Objects, Allen Lane 2011.

[16] Claire Holt, Art in Indonesia: continuities and change, Cornell University Press 1967

[17] 脚注16

[18] 脚注16

[19] ギアンティ条約(1755年2月13日)。その後,ススフナン家からは1757年にマンクネゴロ家が,スルタン家からは1812年にパク・アラム家が分家し,4家が現在に続く。

[20] Slamet Muljana, Tunjung Sari: romansa sejarah Singasari, LkiS Yogyakarta 2009.

[21] http://abimanyukerem.blogspot.com/2010/04/cerita‑wayang.html

[22] R. Rio Sudibyoprono, Suwandono, Dhanisworo, Mudjijono, Ensiklopedi wayang purwa, Balai Pustaka, 1991 (Google Books)。題目は「バスデワの結婚」の意でマハーバーラタの中の逸話。

[23] 脚注5

[24] Ananda K. Coomaraswamy, History of Indian and Indonesian Art , Dover Plbl. 1965

[25] 架空の王子パンジを主人公とする一群の愛の冒険物語で,創作は恐らくクディリ期(1049-1222)に遡るが,マジャパヒト中期にキドゥンという型の詩文で書かれた (Marijke J. Klokke, Narrative sculpture and literary traditions in South and Southeast Asia, BRILL 2000)。

[26] 概要。マジャパヒトの大臣の甥ダマル・ウランは大臣の2人の息子に敵視され,投獄された。その頃,未婚の女王クンチャナウングに求婚して断られたブランバンガン国の王メナック・ジンガがマジャパヒトに攻撃を仕掛けた。女王は敵の首を取った者を自分の夫にすると宣言したが,名乗り出る者はいない。神のお告げを受けた女王から指名されたダマル・ウランは敵の館に忍び込み,彼に恋した2人の囚れの王女の協力を得て,メナック・ジンガの首を取った。ダマルウランが帰還すると,待受けた大臣の息子たちは彼を襲ってメナック・ジンガの首を奪取して女王に差出したが,彼女は事実を知った。修道者によって蘇生させられたダマルウランは2人を討って王女と結婚,元々恋仲であった大臣の娘は彼の側室となった。Yoe Djin Lim,The Story of Damar-Wulan, the Most Popular Legend of Indonesia (Illustrated) & Lady of the South Sea (Nji Lara Kidul), Classic reprint, Cornel Univ. Library 2012。クンチャナウングのモデルは,ブランバンガンの長官ウルビスマと戦をしたトゥリブワナ・トゥンガデウィ女王(在位1328-1351,ラデン・ウィジャヤの娘で,ハヤム・ウルクの母)とされるから(A. Budi Susanto, Ingat(!)an: hikmat Indonesia masa kini hikmah masa lalu rakyat, Kanisius, 2005),ダマルウランは彼女の夫スリ・クルタワルダーナ(本名チャクラダーナ)に相当すると見做して良いかも知れない。

[27] ワヤン・カトリックは正式にはワヤン・ワヒュー(Wahyu=啓示)と呼称される。

[28] 例えば,脚注16。

[29] Arthur B. Allen, Puppetry for Beginners, Wells Gardner Darton 1952, Beth Osnes, Sam Gill (ed.), Acting: an International Encyclopedia, ABC‑CLIO 2001 など。

[30] 「義親東南亞西亞コレクション」ともども未公開。近い将来公開される予定と聞く。

[31] 預言者ムハンマドの伯父(又は叔父)の アミル・ハムザー(Amir Hamzah)の生涯に関する物語。ジャワ名アグン・メナック(Agung Menak)なる主人公はイスラムを広めた英雄であるが,.ラブ・ストーリーの要素を含む。

[32] Beth Osnes, Sam Gill (ed.), Acting: an International Encyclopedia, ABC‑CLIO 2001

[33] David Levinson and Karen Christensen (ed.), Encyclopedia of Modern Asia vol. 6, Charles Scribners & Sons 2002

[34] 有一等人以紙畫人物鳥獸鷹蟲之類,如手卷樣,以三尺高二木為畫幹,止齊一頭。其人蟠膝坐於地,以圖畫立地,毎展出一段,朝前番語高聲解説次段來歴。衆人圜坐而聽之,或笑或哭,便如説平話一般。(一種の人有り。人物鳥獣虫の類を画いた巻物の如き紙を,2本の高さ三尺の棒に巻き,其の人は地面に膝坐して図画を立てて,一段(区切り)毎にを展げ出し,蕃語(現地語)で高声で来歴を解説する。衆人は円座して之を聴いて笑い,また泣く。見掛けは講談同類である。) 原典は

http://toyoshi.lit.nagoya‑u.ac.jp/maruha/kanseki/yingyashenglan1.html

[35] 公益財団法人紙の博物館「展示:新石器時代から花開いたアジアの樹皮紙 Beaten Bark Paperの美」,2010.6.19-7.04

[36] アイルランガ王の遺したプチャンガン石碑(1041年年次)に,1006年に起った大災害のことが書かれている。原因は,石文を最初に解読したH. カーン(Kern)博士によって戦禍(スリヴィジャヤの来襲)であったと解釈されたが,自然災害でなかったかとの説もある(第5章参照)。

[37] 脚注16

[38] ムプ・カンワ(Mpu Kanwa)は,この詩文を次のように結んでいる。「ここに完結したのは,その名をアルジュナウィワハという物語の記述である。ムプ・カンワが詩というものを作って公にしたのは,これが最初である。彼は,王の戦に同伴するのに,一抹の不安があった。尊敬すべきは,王国の規模を倍増せしめ,この作品の認めたアイルランガ陛下である。」(脚注16)

[39] Ann R. Kinney, Marijke J. Klokke, Lydia Kieven, Worshiping Siva and Buddha: the temple art of East Java, University of Hawaii Press 2003

[40] Andjar Any, Jayabaya―Ranggawarsita & Sabodpalan, Aneka Ilumu, Semarang 1989。この中の 「ジャヤバヤ伝説版」には次の悲劇的逸話が書かれている。バーラタユッダの著作を詩人ムプ・セダーに命じたジャヤバヤは,ムプ・セダーが執筆する自宅を足繁く訪ねて物語の進展に満足して金銭や宝石を与えたが,或る日,『マンダカラ王国のサルヤ王が王妃のサラを溺愛する挿話』に突然憤慨,著者の文学の装飾の為であるとの釈明に更に激昂して死刑を宣告,セダーはそれを笑顔で受容れて笑顔で火刑に処せられた。」 弟のムプ・パヌルーが著者に名を連ねられている背景には,兄の死後,彼が著作を引継いだ事情があった所為かも知れない(筆者の想像)。因みにサルヤは最終戦争で果てたコラワ家軍の最後の総司令官で,物語中盤以降に現れるが(全52章中42章で戦死),サラを溺愛したの挿話は筆者の調べた限り見当たらず,草稿から削除されたと思われる。

[41] 最終節に次のように書かれている。「クリシュナとパンダワ兄弟が天に帰り,終にカリ・ユガ(=カリ・ヨガ,暗黒の時代)が来たとき,ウィシュヌは(この度はクリシュナにではなく)ジャヤバヤ陛下の身に宿り,爪哇に平和と繁栄を回復せしめた。」 *は[脚注42]の英訳でも[脚注6]の英抄訳でも欠落していたので,[脚注42]のジャワ語テキスト中の単語から推定して補足。

[42] 脚注10

[43] George Coedes, The Indianized states of Southeast Asia, University of Hawaii Press, 1968

[44] A. Teeuw, Stuart O. Robson, Bhomantaka: the death of Bhoma, KITLV Press 2005)

の英文テキストより筆者試訳。訳文中の「詩歌に係る主任裁判官」は英語テキストの‘Chief Judge of Poetical Affairs’の直訳で,文字面からは然る高官と解釈される。但し,アルジュナウィワハがアイルランガ王に,バーラタユッダがジャヤバヤ王に,スマラダハーナがカメスワラ王に奉られた例から推すと,‘Chief Judge of Poetical Affairs’は「王」を意味したのかも知れない。

[45] 象の頭を持つ知識の神で,一般にはシヴァと女神パルワティの子とされる。

[46] 周去非撰『嶺外代答』(乾道八年-淳煕五年頃,1172-1178)の中,「諾蕃國之富盛多寶貨者,莫如大食國,其次闍婆國,其次三佛齊國,其次乃諸國耳。」

http://toyoshi.lit.nagoya‑u.ac.jp/

[47] シンガサーリ王国(1222-1292)およびマジャパヒト王国(1293-1500)の歴史を記した著者不明の書。本文中の 3 August 1613 (サカ暦1535)から,完成は16-17世紀と推定される(I. Gusti Putu Phalgunadi (translated from the Original Kawi Text), The Pararaton: A Study of the Southeast Asian Chronicle, Sundeep Prakashan, New Delhi, India, 1996)。

[48] この言伝えは,スクムルなるオランダ人が熱い陰部を持つパジャジャラン王国のタヌラガ王女と結婚し,ムル・ヤンクン (ヤン・ピーテルスゾーン・クーン)が誕生した話(サコンデルの書)に共通する。第1章「お春の渡ったジャガタラ」参照。

[49] Pramoedya Ananta Toer; Max Lane (trans.), Arok Of Java, Horizon Books, ingapore 2007 (原著:Pramoedya Ananta Toer, Arok Dedes, Hastra Mitra, Jakarta 1999) この小説では,例えば,アロックでなく,ケボ・ヒジョがトゥングル・アメトゥンを手に掛けたことになっている。

[50] 文永の役 (1274年),弘安の役 (1281年)。

[51] 元軍に対するラデン・ウィジャヤの作戦に関しては,パララトン(前出)に詳述されている。

[52] Christine DuBois, Chee‑Beng Tan, Sidney Mintz, The World of Soy, NUS Press, Singapore 2008

[53] 脚注41

[54] 般若波羅密多心経(般若心経)冒頭: 観自在菩薩 深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 (観音菩薩,深遠なる智慧の完成を行ぜられし時,心身の五要素皆空なりを照見,一切の苦厄を度し給へり。)

[55] Stuart Robson (trans.), Desawarnana (Nagarakrutagama) by Mpu Parapanca, KITLV Press, Leiden 1995

[56] 不空羂索観音。密教六観音の一。

[57] Marijke J. Klokke, Narrative sculpture and literary traditions in South and Southeast Asia, BRILL 2000; Ann R. Kinney, Marijke J. Klokke, Lydia Kieven, Worshiping Siva and Buddha: The Temple Art of East Java, University of Hawaii Press 2003 等による。

[58] Parthayajna。マハーバーラタの中の「森の書」にあるパンダワ家一族の逃避行ならびにアルジュナのインドラキラ山での修行に至る行脚の話。

[59] Kunjarakarna。概要は以下の通り。「悪魔王クンジャラカルナは天界のワイロチャーナ神を訪ねて法の指南を請う。神は彼を閻魔の元に送って地獄の様を己の目で見,閻魔に五悪趣の因について聞くよう命ずる。地獄に滞在中,彼は旧友の罪深きプルナウィジャヤのために釜が用意されていることを知る。クンジャラカルナは天界に戻る途中,プルナウィジャヤに会って,彼を同伴する。彼はワイロチャーナ神から指南を受けて悪魔状態から開放され,マハメル山(須弥山,妙高山)に帰って修行を続ける。プルナウィジャヤは神の慈悲を得て,秘儀を学ぶが刑罰を免れ得ない。彼の処罰は100年から10日に短縮される。プルナウィジャヤは善人に甦生せしめられ,妻の元に帰る。クンジャラカルナとプルナウィジャヤはマハメル山の麓に庵を立て,12年の難行の後に阿羅漢(修行完成者)となる。」 Noorduyn, A. Teeuw, Three Old Sundanese Poems, KITLV Press 2007より抄録。

[60] 「島夷誌略」爪哇の項の中,「其田膏沃,地乎衍,穀米富饒,倍於他國。民不為盜,道不拾遺。諺云「太平闍婆」者此也。」 http://toyoshi.lit.nagoya‑u.ac.jp/

[61] Odoric of Pordenone (trans. Sir Henry Yule), The Travels of Friar Odoric: 14th Century Journal of the Blessed Odoric of Pordenone, Wm. B. Eerdmans Publishing 2011

[62] 英訳:Stuart Robson (trans.), Desawarnana (Nagarakrutagama) by Mpu Parapanca, KITLV Press, Leiden 1995.

[63] 第4章「パジャジャラン-スンダの人々の心のふるさと」参照。

[64] 國有三等人:一等回回人,皆是西番各國為商,流落此地,衣食諸事皆清致;一等唐人,皆是廣東,,泉等處人竄居是地,食用亦美潔,多有從回回藪門受戒待齋者;一等土人,形貌甚醜異,猱頭赤脚,祟信鬼敎,佛書言鬼國其中,即此地也。

http://toyoshi.lit.nagoya-u.ac.jp/maruha/kanseki/yingyashenglan1.html

[65] トメ ピレス(会田由,飯塚浩二,井沢実,泉靖一,岩生成一訳)「東方諸国記 (大航海時代叢書V)」,岩波書店 1966 (原著:Pires, Tome; Cortesao, Armando (ed),The Suma Oriental of Tome Pires and the Book of Francisco Rodriguez Volumes 1 and 2, Hakluyt Society, London, 1944)

[66] Malini Saran, Vinod C. Khanna, The Ramayana In Indonesia, Ravi Dayal Delhi 2004

[67] 話の抜粋は以下通り。「世界を征服せんと各地を荒し回っていたレンカの悪魔王ダサムカが,ナルマダ川の上流で宝飾リンガに祈っていると,水嵩が増し,丘の上に避難することを余儀なくされる。同じ川の河口近くには,アルジュナ・サハスラバフが妃と軍を伴って遊興のために訪れていて,水浴や魚獲りの利便のために,サハスラバフ(千手の意)を使ってダムを拵えていたのである。アルジュナに他意はなかったがダサムカが怒り,戦となり,終にはアルジュナがバトルの末にダムサカを捕獲する。アルジュナの妻チトラワティは夫が死亡したとの偽情報を受けて既に自害していたがナルマダの女神の蘇生水で甦る。ダサムカは彼の祖父である聖者プラスティアの嘆願によって釈放され,国に帰る。アルジュナはマヒスパティに君臨し全世界の幸福に努め,ダルマ(法)を広める。P. J. Zoetmulder, Kalangwan A Survey of Old Japanese Literature, Martinus Nijhoff, The Hague 1974から抄訳。

[68] 脚注10から抄録。

[69] インドネシア語テキスト(Abd. Moqsith Ghazali, Djohan Effendi, Merayakan kebebasan beragama: bunga rampai menyambut 70 tahun Djohan Effendi, Penerbit Buku Kompas 2009)からの試訳。「佛陀とシワ本質を異にすると謂ふあり,其れら正に異れど,如何にして識られんや。ジナとシワの真実,單一なり,其れら二分されども同一なり,真実に矛盾あるべからず。」

[70] 脚注10

[71] Pramoedya Ananta Toer, Arus Balik, Hasta Mitra 1995.

[72] Scherer Savitri, “Globalisation in Java in the 16th Century. A Review of Pramoedya's Arus Balik”, Archipel, Volume 55, 1998. pp. 43-60.

(http://www.persee.fr.)

[73] 脚注41

[74] パンダワ家の5兄弟は,ュディストゥラ,ビマ,アルジュナ,サクラ,サデワ(Yudistra, Bima, Arjuna, Sakula and Sadewa)。双子のサクラとサデワは,若死した側室マドゥリの子であったが,王妃クンティによって差別なく育てられた。 Sakula はマハーバーラタおよびバーラタユッダでは Nakura の名前であった。

[75] 寺院の地位は,例えば日本の奈良時代(西暦710-794)の東大寺(総国分寺)に相当したと考えられる。前出 Yoe Djin Lim, The Story of Damar-Wulan: the Most Popular Legend of Indonesia (Illustrated)& Lady of the South Sea (Nji Lara Kidul), Classic reprint, Cornel Univ. Library 2012 のダマルウラン物語の結びには,「愛すべき王と女王(トゥリブワナ)の記念物は唯一パナタランの遺跡に見ることができる。」とある。

[76] 脚注41

[77] Charles Frederick Partington, The British cyclopeadia of natural history: Combining a scientific classification of animals plants, and minerals. vol. 3, Orr & Smith 1837

[78] ジャワ考古学の泰斗 W. F. Stutterhein 博士によって名付けられた(例えば,Marijke J. Klokke, Narrative Sculpture and Literary Traditions in South and Southeast Asia, BRILL 2000)。

[79] Eric Oey ed., Java (Periplus Adventure Guide), Periplus (HK) 1997 に依れば1970年代。

[80] ジャワでは花を茎ごと生けるのでなく,花弁だけを供える伝統がある。

[81] アイラヴァータ(Airavata)と称せられる 象はインドラ神の,ガルーダ(Garuda)と称せられる架空の鳥はヴィシュヌ神の乗物とされる。

[82] Driwancybermuseum's Blog,http://driwancybermuseum.wordpress.com/

[83] 第6章附録:ジャヤバヤ伝説を参照。

[84] D.H. Lawrence, Lady Chatterley's Lover, Penguin Books 1969

[85] 英語ならば,[脚注14]の抄訳がある。

[86] 例えば,Paul Drake, What Did They Mean by That?: A Dictionary of Historical and Genealogical Terms Old and New, Heritage Books 2004