第5章   

マタラム―神仏の坐す母なる地   

   

ボロブドゥール再発見   

   平素ジャワに関心の薄い人でも,「学校でジャワについて習ったことは」と問われれば,先ずジャワ原人,次いでボロブドゥール遺跡を思い出されるでしょう。今日世界屈指の文化遺産に数えられるこの古代の仏教寺院は,千年もの間ジャングルの奥深くに埋もれていて,19世紀初めに「再発見」されたと言い慣わされています。時はナポレオン戦争の時代,1811年から1815年まで英国が占領したジャワおよび属領の統治に当ったトーマス・スタンフォード・ラッフルスは,80年程以前からその存在の知られていたプランバナン遺跡の話を聞き,これとは別に現地に住民の間でボロ・ボドの名で語られていた「彫像の山」のあることを耳にし,前者の調査に携った工学士のコルネリス中佐(Lieutenant Colonel H. C. Cornelis)にその発掘調査を命じました。生茂る熱帯樹を伐り,厚く積った土砂を払った後に現れた遺跡の全貌をラッフルスは1817年に上梓した大著「ジャワの歴史」[1]の中に次のように記しています。   

   「クドゥ県のエロ川とプラガ川の合流点の近くのボロという地域に小さな丘があり,6世紀に建てられたとも10世紀に建てられたとも想像されるボロ・ボド寺院が立つ。それは7層の壁からなる正方形の石造の建造物で,各層は上に行くにしたがって小さくなっていて,ドームのようなもので終る。寺院は丘の上部全体を占め,丘自体は壁に合せて,構造物全体を乗せるように削られているように見える。中心すなわち丘の頂点には直径約50フィートの上述のドームがあり,その高さは現在の上部が崩落した状態では約20フィートである。ドームは3重に円周状に置かれた仏塔(全部で72個)で囲まれ,各々の仏塔の中には外向きに置かれた仏像がある。仏塔は丘を覆う石のケーシングで結ばれていて,外からは屋根のように見える。   

   そこから下るには,5層のテラスの四辺にある美しい拱門を潜って階段を通る。各々のテラスを支える壁は両側とも立派な彫刻で覆われている。両側というのは,下側のテラスの壁は持上っていて,内側の壁に対して欄(らん)楯(じゅん)(姫墻)を形成しているという意味である。欄楯の外側には等間隔で仏龕が置かれ,それぞれの中には等身大より大き目の胡坐した裸体の仏像がある。仏像の数は400を下らない。龕の中央上部および両側の上部,更に龕と龕との間には小さな尖塔がある。設計は規則正しく,建築的かつ彫刻的な夥しい装飾が施されている。浮彫には神話からのものと思われる様々な情景が刻まれていて,その趣向と技巧は相当なものである。この崇高な建物で覆われた区画は各辺約620フィートである。   

   全体は1棟の建物のような外観で,高さは崩落した中央の約20フィートの尖塔を除いて約100フィートである。内部全体は丘そのものである。」   

   

「クドゥ(郡)ボロ地区にあるボロ・ボド寺院」。Antiquarian, Architectural, and Landscape Illustrations of the History of Java 1844 (John Bastin (preface), Plates to Raffles's History of Java, Oxford University Press,1989(VolII) より転載。本絵画は1815年の清掃作業を指揮したコルネリウス大佐によるスケッチ。

   

   このニュースは世界を驚かせました。1810年代といえば,考古学史上の記念すべきエポックとされるハインリッヒ・シュリーマンによるトロイヤ遺跡発掘の30年も前のことでした。一体全体,斯様に壮麗な建造物を,何時,誰が建てたのか,西洋優位を信ずるヨーロッパ人の中には,「到底アジア人が造ったとは思われず,アレキサンダー大王が東征の際に此処まで至って,彼が建てたのではないか。」といった荒唐無稽な説を唱える人もいたとどこかで読みましたが[2],常識的にはジャワ島をイスラムが席捲する遥か以前,この地域に仏教文化が栄えた8~9世紀の頃に建立されたものであろうとの推定がなされました。現在では,後述するように,サイレンドラ王朝,サマラトゥンガ王の御代の西暦824年に竣工したと見られています。   

   ラッフルスの統治は彼が導入したイギリス流の制度が必ずしも現地に馴染まず後世に諸々の問題を残しましたが,自らをバタフィア芸術科学協会の会長に任じてジャワ古文化研究を促した彼の功績は敵方のオランダ人も率直に認めるところとなり,1816年の東インド返還後に調査を継続しました。19世紀半ばまでに第2次発掘調査が行われ,写真術が発明されて後には数多の写真が紹介されてボロブドゥールの存在は広く世界の関心を呼ぶようになりました。1860年代に東インドを訪れた自然科学者アルフレッド・ウォーレス[3]は,ボロブドゥールに関する一節を

「ジャワの内陸にあるこの彫刻を廻らした丘状寺院に比べれば,エジプトの大ピラミッドに費やされた人力と技など無意味の中に沈む。」

と結んでいますが,単に石を積上げただけのエジプトのピラミッドを見て,ウォーレスと同じ感想を持ったのは,筆者だけではありますまい。しかも彫刻は単なる装飾ではなく,ラッフルスが神話からのものと思われると記した情景は,実は,釈迦の一代記や幾つかの仏典にある物語を具に解説したものでありました。この「説話彫刻」の伝統は後述のプランバナンの寺院のほか,12-15世紀に東ジャワ各地に建立された数多のヒンヅー寺院にも引継がれます。   

   しかし,19世紀の後半には,未だボロブドゥールのような遺跡を文化遺産として保存するという概念は乏しく,現に何体かの仏像がジャワを訪問されたシャム(タイ)のチュラロンコーン王に贈呈されましたし,ラッフルスが記した中央ドーム上の尖塔に四阿(あづまや)が設けられ,観光客が茶を飲んでいる風景の写真も残っているほどで,石積も相当に傷んでいました。本格的な考古学的研究が始まり,保存の必要性が叫ばれるようになったのは,20世紀になってからでありました。   

   第1回目の大修復は1907-1911年にファン・エルプ工学士(Ir. van Erp)の指揮のもとに行なわれ,崩れていた総数約100万個,総重量10万トンに及ぶ石材が登録され,石積が整頓されました。その10年後の1921年に此処を見学された徳川義親公は「これに要した歳月と費用と根気を考へると,この佛蹟は更に貴いものに思はれます」[4]と記されています。生物学者であると同時に歴史学者でもあった義親公の示唆に富む感想を,筆者は他の古い遺跡を訪れるときにも,必ず噛締めるようにしています。   

   

ボロブドゥールのアーキテクチャー   

   寺院の構造はラッフルスの記述の通り,建物というよりは流紋岩の岩肌に粘土を敷き,その上を安山岩の石材を積んで覆った形のものでした。ラッフルスの説明で曖昧であった中央ドームの周辺は3層の円壇になっていて,ストゥーパ(卒塔婆)は上から下へ16,24,32個(合計72個)ありました。ドーム自体は一般には巨大なストゥーバと見做され,その頂きには一旦は相輪が復元されましたが,この相輪は形の考証が不十分であったために取外されたそうです[5]。   

   

ボロブドゥール断面図。With, Karl, Java - Brahmanische, Buddhistische und Eigenleige Architektur und Plastik auf Java, Filkwang Verlag. M. B. H. Haben 1. W. 1920 に基き再製図。赤線部分にレリーフ(筆者追加)。

   

   早々と余談ながら,往時の写真にあるのに似た相輪はバンドン市内にある西ジャワ州庁舎,1924年にデルフト高等工業高校の建築家へルバー(Ir. J. Gerber)の設計によって建てられたジャワ・オランダ折衷様式の建造物でグドゥン・サテの異名をとる有名な建物に見ることができます。嘗てバンドン在住中にジャワの田舎から来た人を案内したとき,さては馳走に与れるものと期待した客を失望させたことがありましたが,理由はといえば,インドネシア語でグドゥンは建物,サテはスンダ料理でポピュラーな串焼きを意味するからでありました。グドゥン・サテと呼ばれる理由は塔屋頂上の相輪状の飾りを横から眺めた形がサテを連想させるからに他なりませんが,設計者自身は敬虔な気持で仏塔の相輪をイメージしたに相違ありません。   

   基壇および4つ廻廊の主壁にある仏龕の数は,下から上へ104,104,88,72,64(合計432)でしたから,円壇のストゥーバの中にあるものを加えた仏像の数は合計で504個ということになります。これらの仏像は大きさも形も似ていて,素人はなかなか差異に気付きませんが,仏様の名前と相印は微妙に異なって,詳しい区別がなされています[6]。   

   

ボロブドゥール平面図。Stutterheim, W. F., Pictoral history of civilization in Java. Translated by Mrs. A. c. de Winter Keen, The Java-Institute and G. Kolff & Co., Weltevreden, 1926 より再製図。

   

   中央上部の塔の中には小室があり,1842年のハルトマン(Hartmann)による調査の際に,何故か未完成の仏像が1体見つかって様々の論議を呼んだそうですが,そのとき作業に携わった誰かが他所にあったものを持込んで「大発見」を画策したというクロム博士 (Dr. N. J. Krom)の説4が正しいのかも知れません。   

   基壇主壁の外側と4つの廻廊の両壁にあるレリーフは全部で1300枚ありました。内容は,早くから仏教に関するものと推定されていましたが,現在では方広大荘厳経,本生譚,譬喩経などの経文を表現したものであると解釈されています[7]。これらの経文の中味はとても難しそうで筆者は勉強する気にもなれないでいますが,第1廻廊主壁上段のレリーフには釈迦の一代記(方広大荘厳経)が描かれていて,降臨前の天に坐す菩薩に始まって,母マヤの白像を夢に見ての懐妊,ゴウタマ・シッダルタの誕生,成長,出家,最初の説法に至るまでの情景は我々一般人にも親しむことができます。   

   

ボロブドゥール第1廻廊上段 「方広大荘厳経」レリーフ120枚の中の5枚。上から,マヤ聖夢を見る(No.13),弓競技を観る(No.49),ゴパがゴウタマの第一夫人となる(No.51),ゴウタマが出家し馬及び付人と別れる(No.66),修行を終えたゴウタマが最初の説法をする(No.120)。 N. J. Krom, Archaeological Description of Barabudur, Martinus Nijhoff, The Hague 1927 (Reprint, Gyan Publishing House, New-Delhi 1986)より,出版社の許可を得て抜粋転載。

   

   これらの他に,第1回大修復より前の1885年に第1廻廊のある壇の下の基壇の中に,カルマ(因果応報)の情景を描いた一部未完成の160枚のレリーフが隠されているのが,アイツェルマン氏(J. W. Ijzerman)によって発見され,1890年に写真に収められましたが,現在は再び埋め戻したままにされています。隠されたレリーフの存在した理由は,恐らく建設途中で基壇の強度が充分でないことが分ったために製作途中のレリーフを放棄し,外側に石材を積んで補強したためと考えられています。   

   ボロブドゥール寺院の建物にはまた,各階段上り口の脇にインド神話にある怪魚マカラの彫像が据えられ,拱門の上にヒンヅーの流れを汲むカーラの面が掲げられているほか,壁面の仕切りなどにも隈なく様々の鳥獣や花などが彫られていて,製作者の手の込みようには感心させられるばかりです。   

   寺院全体は三界を具現化したもので,隠されたカルマを表わしたレリーフのある基壇が欲界(kamadhatu),経文の描かれた方形の壇が色界(rupadhatu),上の3段の円壇が無色界(arupyadhatu)に相当すると見立てた説,全体をストゥーパというよりも曼荼羅を模したものであろうという説もありました。オランダ人の学者かつ画家で,ジャワとバリを描いた見事なスケッチや木版画で知られるニューウェンカンプ(W. O. J. Nieuwenkamp,1874‑1950)は,幾つかの古代工芸品に描かれた寺院の平面図 や,クドゥ平野の海抜235メートル以下の地域が嘗て湖であったことを示す水準調査の結果から,ボロブブドールが往時は水上に浮かんだ巨大な蓮の花であったと想像しました[8]。折から考古学に証拠主義が採用されるようになった時代のこと,彼の説はファン・エルプ工学士から厳しい批評を受けましたが[9],ボロブドゥール研究の泰斗,スクモノ博士によれば[10],その後に行われた地質学的調査で,ニューウェンカンプの仮説を支持する証拠が得られているので,必ずしも否定できないそうです。   

   1900年代初めの大修復に携わったクロム博士は,そのときに撮影された膨大な写真を収めた大著「バラブドゥール―考古学的記述[11]」の第1章冒頭に次のように記しています。   

   「南無仏陀! この巨大な遺跡について書き始めるのに,これほど適切な言葉は見出せない。ボロブドゥールの廻廊や階壇で,この言葉が如何に繁く木魂したであろうことか。此のヒンヅー爪哇文化の最高傑作を十分理解せんとせば,我らは,『釈迦族の獅子,至上神の中の全能神』に敬虔な祈りを捧げし1100年前の人々の思ひと魂に,能ふ限り我ら自身を近づけねばならぬ。」   

   恐らく往時の人々は,僧衣を纏った僧侶に導かれてレリーフの説明を受けながら,そして仏の前で合掌しながら壇を登り,最上壇に辿り着いて晴やかな気分に浸ったことでありましょう。現在は残念ながら廃寺の状態でお坊さんはいませんから,先導が必要なら,観光客相手のガイドを頼らざるを得ませんが,中にはイスラム教徒であるのに驚くほど仏教に精通し,英語でもオランダ語でも日本語でも何語でもござれの人もいて,懇切に案内してくれます。筆者自身,1980年代の半ばに初めてボロブドゥールを訪れ,その後バンドンやボゴール在住中に遠来の客を案内したりして幾度もこの寺院に詣でましたが,普段は信心が浅い癖に,その都度,感無量の境地に導かれ,無意識に「南無阿弥陀仏」の文言が口を吐いて出るのを経験しました。   

   

夜明けのボロブドゥール   

   阿部知二の書[12]に「ボロブドゥル佛蹟を訪ねるものは,必ず夜明け前に行ってこの佛塔に立ってメラピ山[13]の頂きからのぼる旭日をみよといふ。」とあるのは蓋し至言であって,筆者も予定を自由に決められるときには,そのように心掛けています。ボロブドゥールは中部ジャワの首都ジョクジャカルタの北北西40キロメートルに位置します。ジョクジャカルタで前泊したときには,早朝の4時,モスクからアッラーへの祈りを促すために拡声器で流されるアザーンの声を,仏教寺院へ向かう合図とします。ジャカルタまたはバンドンから夜汽車で行く場合には,列車は何れも3時頃にジョクジャカルタ駅に停車しますから,ホテルへ荷物を預け,コーヒーを一杯啜ったら直ぐに出発です。暗闇の中,道路沿いの仄暗い街燈の間を抜けて走ること1時間,車は寺院区域内にあるマノハラ・ホテル(Hotel Manohara)に到着,そこで入場料を払います。5時,ホテルで貰った懐中電灯の灯りを頼りに石積の寺院の姿を感知し,拱門を探して階段を上って最上段の円壇に上がりますが,辺りは依然として漆黒の闇,ムラピ山の噴火が運良く活発で火を見せていればこそ,さもなくば方位磁石を頼りに東の方角を探して腰を下します。   

   

ボロブドゥールの日の出。(上)2004年6月19日 5:34′32″,(下)同6:05′22″(インドネシア西部標準時),筆者撮影。2つの山は,左(北)がムルバブ山,右(南)がムラピ山。ムラピの頂の右側に噴煙が微かに棚引いている。

   

   5時半が過ぎると,枕草子の冒頭,

春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは すこしあかりて

紫だちたる雲のほそくたなびきたる[14]

を想わせる光景が現れます。   

   そして,山について描写を敷衍せんとすれば,新古今集にある慈圓の歌,

天の原富士の煙の春の色の霞になびく曙の空[15]

を借りて,富士をムラピに置換えるに如くはないでしょう。後者もまた前者に劣らぬ美しいコニーデ(円錐型成層火山)です。常夏のジャワに四季はありませんが,明け方の空気は春のような柔らかさです。日本の風情と異なることといえば,赤道近くのジャワでは太陽はほぼ垂直に上りますから,いわゆる黎明の時間,そして夕方の薄暮の時間が殆んどないに等しいといって過言でないことしょう。日の出までの僅かな時間に,空の色彩は目まぐるしく変化します。ボロブドゥールは東経110.12度,南緯7.36度にあって,西部インドネシア標準時(東経105℃に設定)とのずれは僅かですから,日の出の時間は年間を通じて6時前後,その変動は数分程度です。しかし日の出の位置は地軸の傾きによって変り,筆者の経験では夏至の頃には何れも端正な富士山型のムラピ山と10キロメートル北のムルバブ山(3142m)の丁度鞍部の辺り,2月の時にはムラピ山南麓の彼方の方角にありました。   

   神々しい陽の光に照らされて一面を覆っていた朝霧が晴れると,四囲に椰子の林の散在する田園風景が現れます。目を南に遣るとムノレー(Menoreh)の山脈あり,その稜線はセイロン島出身でボロブドゥールの設計者と伝えられるグナダルマ(Gunad-dharma)[16]の寝姿に譬えられていて,なるほど特に東側の部分は人間の鼻から顎にかけての形に良く似ています。西北にはこれまた富士に似たスンビン山(Sumbing,3371m)が広大なディエン高原を背後に望まれます。   

   

チャンディ・ボロブドゥール最上階から南方ムノレーの山並を望む。2009年5月,筆者撮影。

チャンディ・ボロブドゥール第一廻廊,人物は(故)徳川義宣公とガイド。2001年2月,筆者撮影。

     

   昼間に出かけるときには,ボロブドゥール・パークの駐車場から建並ぶお土産屋の間を抜けて,チケットを求め,正門から入ります。鮮やかな熱帯の花々が目に染みる芝生の中の参道に入ると200メートル位ほど先に王冠のような形の寺院が望まれて感動を覚えましょうが,気分の良いのはここまで,一旦建物の階段に取付くと,石の建造物全体は垂直に注ぐ陽射で玉子焼ができるかと思われるほどに熱せられていて輻射熱が凄く,日除けの帽子を冠っていても,熱汗淋漓と滴るを覚悟せねばなりません。   

   筆者は此処で日没を見たことはありませんが,これには日の出とはまた別の趣があるようです。徳川義親公は次のように書残されています。

「塔の下に立って望むと,赤く華やかに,夕日が迥かな椰子の畑を越えて,緑色濃く起伏する山々の彼方に落ち様としてゐます。千古の佛蹟に日が暮れてゆくのです。何といふ静かで寂しい光景でせう。夕暮は天涯の旅人に旅愁を深からしめます。」[17]

   20世紀初めの旅行家フランク・カーペンター[18]は,満月の日の真夜中にボロブドゥールに上り,月光に映る仏跡とそれを囲む山々の情景を記していますが,それは彼の描写以上に幻想的なものであったことでありましょう。   

   ムラピ山の西側のクドゥ平野から南のプランバナン平野,東のソロ周辺の平野一帯は,ムラピから撒かれる火山灰のお陰で肥沃なジャワ島の中でも特に豊かなところ,勤勉な人々が住み,昔からブミ・マタラム,すなわち「母なる地」と呼ばれていました[19]。   

   また10キロ余り北のマゲランの町の近郊には,神話に太古の昔,海に浮かんでいたジャワ島を巨大な釘で地殻に固定したと伝えられ,「ジャワの釘」と呼ばれるティダル(Tidar)の丘があって,神聖な寺院建設の場所としてこの地が選ばれたのも宜なるかなと感ぜさせられます。   

   ボロブドゥール寺院は現地ジャワではチャンディ・ボロブドゥールと呼ばれています。チャンディの語はヒンヅー女神ドゥルガの別名「チャンディカ」に由来し[20],元来は王侯貴族の廟やヒンヅー教や仏教の像を祀る堂を意味しましたが,地域がイスラム化される以前(概して15世紀以前)に建てられた宗教的建造物一般に使われていますから,本稿でも以降はこの語を採用することにします。 

  

書物にある過去の記録   

   冒頭に述べた如く,チャンディ・ボロブドゥールが世界で注目を集めた契機はラッフルスの書に書かれて以降のことでありましたが,同チャンディに関する記述は,それ以前のジャワの文献になかった訳ではなく,20世紀後半の大修復を記録した本[21]には二つの事例が紹介されていました。一は「ババド・タナー・ジャウィ(ジャワの地の年代記)」で,キ・マス・ダナなる人物が1709年に国王アマンクラット三世に謀反を企てたが失敗し,「ボロブドゥールの丘」で討たれたことが記されていました。二は「マタラム年代記(Babad Mataram)」で,其処には,ジョクジャカルタの皇太子マンチャナガラが,「千の像」に行くべからずという掟を破って,1757年に檻に閉込められた哀れなサトリア(騎士)に会いに行き,帰った翌日に病で死亡したとありました。檻に閉込められたサトリアはホロブドールの石造の籠のようなストゥーパの中の仏像であるに相違ありません。   

   

チェンティーニ物語の主人公が訪れたボロブドゥール   

   17世紀前半のジャワ島内の様子を記した「チェンティーニ物語」[22]にボロブドゥールなどに関する記述があることはインターネットの「グーグルブックス(Google Books)」の断片表示で知っていましたが,実際に入手し得た書物を開くと,そこには克明な記述あり,大略次のことが書かれていました。

   「道々,マス・チェボランはインドラ神の居所の天使のような妻たちと過した幸せな日々を回想した。彼が旅の中で遭遇した困難と孤独は,彼女らとの穏やかな生活に戻りたいという彼の願望を募らせた。ある森に来たとき,小鳥の囀りや自然の音によって彼の心臓がリズミカルに鼓動した。偉大な修道僧の息子として育てられた彼は全能神への賛美と感謝の句を呟いた。アッラー・アクバル(神は偉大なりを3唱)。   

   信仰によって導かれた彼の歩みは驚嘆すべき光景によって停止させられた。目前に印象的な仏塔がほんのりと現れたのである。経年の禍によって既に崩壊の兆しがあったものの,ボロブドゥールの仏塔は,10世紀前の建立以来,無信仰者を除く仏教徒ならびに非仏教徒に常に崇拝,平和,安寧の気持を植付けてきた。    

   マス・チェボランは寺院の階段を登り,壁面のレリーフを見て驚嘆したが,それらはジャータカ物語(生ける者が信仰の導きによって後に仏となる話)や高貴な人々が知識と人生の経験を求めて旅した話であった。彼は,仏陀が教義と造物主の善導によって生きるように説くのを象徴する転法輪印に手を組んだ一つの仏像の前で立止り,示唆を受けた気分になった。仏陀は人々に涅槃(天国)に向う彼の道程を辿るよう訴えた。   

   同様に神の使者ムハンマドも従者に彼の道を辿るように命じたが,それは聖なるコーランの教えを実行することに他ならなかった。涙が彼の目に溢れ頬に落ちた。日が落ちるとマス・チェボランは夜を寺で過すよう心に決めた。後刻,満月は青く雲のない空を押しやって明るく輝き,その美は略々完璧であった。地上では,幾つもの仏像の中で彼の従者が鼾をかく中,マス・チレボンは熟考に耽った。[23]

   流石に敬虔な学僧で,後に名高い学者家系スナン・ギリ家の娘を妻としたマス・チェボランのこと,信ずる宗教は異なれど,ボロブドゥールの壁画への理解は当を得ていますし,イスラム教徒でありながら決して排他的ではなく,異教の神格である仏陀にも敬恭の念を抱いたのは,ジャワ人の特性であったからかも知れません。このときのチャンディ・ボロブドゥールの状況は,200年後にスタンフォード・ラッフルスらが見た時より,遥かに良好であったと見られます。   

   

ボロブドゥールの名の由来   

   ボロブドゥールの名の由来は何か,その解答のためにヒントを示すものは上述のジャワの文書にもありませんでした。ラッフルスが,「偉大な仏陀(Great Buddha)」などと想像したのはさておき,ジャワ古文書学の権威プルバチャラカ博士は夙にボロ(boro)はビアラ(biara)に通じて僧院を意味する,ブドゥール(budur)は後世(1365年)に編まれた史記デサワルナーナ(Desawarnana,別名ナーガラクルターガマ,Nagarakrtagama)に書かれた大乗仏教ヴァイラダーナ派(Vajradhana)の聖地とある土地の名前であると解釈され,実際,チャンディ・ボロブドゥールの近くで1952年に僧院の跡が発見されました。その後,824年の年次のあるカラントゥンガー碑文[24]に書かれたブミ・サンバラ・ブダラ(bumi-sambara-budara)の語が「悟りを求める修道者の十段階の徳目の山」を意味することから,この語が略されてボロブドゥールに転訛したという解釈がドゥ・カスパリス教授によってなされました[25]。   

   

中部ジャワに遺るチャンディ   

   中部ジャワには嘗て建てられた280以上に及ぶと推定されるチャンディの大多数は完全に消滅,あるいは若干の石材を遺す状態ですが,それでもかなり多数が原型を留めるかたちで存在します[26]。ボロブドゥールの付近には,小さいながらも瀟洒なチャンディ・パウォン,龕の中に巨大で優美な釈迦三尊を祀ったチャンディ・ムンドゥの二つの仏教寺院がありますし,ムラピ山南麓のプランバナン平野には規模と壮麗さにおいてボロブドゥールと比肩されるチャンディ・ロロ・ジョングラン(通称チャンディ・プランバナン)とそれを取巻く一群のヒンヅー寺院,仏教寺院のチャンディ・カラサン,チャンディ・セウなどの遺跡群があります。また,ディエン高原には,8棟のチャンディが遺っていますし,筆者は未だ訪ねていませんが,北方のウンガラン山中腹のグドゥン・ソンゴにもチャンディがあるそうです[27]。   

   

中部ジャワの史蹟。略号 G (Gunungan)=山,K (Kali)=川,C (Candi)=寺院。地図は DIVA-GIS Country Level Data により作図。

   

チャンディ・ムンドゥの美しい釈迦牟尼仏陀像   

   チャンディ・ムンドゥ(Candi Mendut)はボロブドゥールの東2.90キロメートルの近距離に位置し,しかもジョクジャカルタへの街道沿いにありますから,ボロブドゥールに詣でた後に容易に立ち寄ることができます。このチャンディも1834年まで密林の中に頭部だけを出して埋もれ,多くの石材が付近の住民によって彼らの住居造りのために持去られた状態にありましたが,1908年にファン・エルプ工学士によって修復がなされました。チャンディは樹々に囲まれたサッカー場ほどの広さの境内にあって,堂々たる風格を備えています。正面に階段が設えられた基壇は.間口24メートル,奥行28メートル,高さ約3.5メートル,その上に一辺が13.7メートルの正方形で前房のついた高さ約15メートルの御堂が置かれています。ピラミッド状で小型のストゥーパが飾られた屋根の上部は以前は未復元のまま平らになっていましたが,今は頂上まで修復が終って,全体の高さは26.4メートルあります。このチャンディも至るところ彫刻が施されています。周囲に廻廊が巡らされた御堂の正面を除く3つの壁面には各々幅3.5メートル,高さ2.7メートルの大きなレリーフがあり,そこに彫られたモチーフは,右面のは四臂(しひ)のターラ,左面のは八臂(はっぴ)のターラ,背面のは四臂の観音像だそうです。前房入口の左右の壁には鬼子母神と夜叉(ヤクシャ)などの立派な浮彫りがありますが,筆者はその中の天人飛翔図の優雅さに惹かれました。基壇の外壁や階段の壁にも色々な彫刻がありますが,これら全部を鑑賞するには,相当の時間が必要でしょう。   

   御堂に入ると正面には高さ3メートルもある釈迦牟尼仏陀像が,こちらから見て左右に何れも高さ2.5メートルほどの観世音菩薩像(Bodhisattva Avalokitesvara)と金剛手菩薩像(Bodhisattva Vajrapani)が座します。何れにも御像の大きさに似付かわしくない小さな頭光がつけられていますが,此処の仏様の興味深いのは,3体とも椅子に掛けておられることで,御釈迦様は両足を垂らしておられ,観音様と金剛手様はそれぞれ左足と右足を膝で折って水平に椅子に置いておられます。ボロブドゥールの全ての仏像も含め,仏様といえば胡坐像あるいは立像が普通と思っていましたが,若しや椅子に掛けた御像を作らせた僧はインドか何処かでヘレニズムの影響を受けられたのかなどと勝手に想像を巡らしました。印相はお釈迦様は明らかに説法印(転法輪印),観音様,金剛手様はそれぞれ与願印と觸地印のように見えます。印象的なのは,3体とも全体的に彫が丁寧で表面が石像とは見えないほど滑らかなことに加えて,お釈迦様のお顔の美しいこと,鎌倉の大仏様やボロブドゥールの仏様のお顔が真丸に近いのと異なって少し面長で,目鼻立ちも端正です。   

   

チャンディ・ムンドゥの釈迦三尊像。2012年2月,筆者撮影。

   

チャンディ・ムンドゥの塔部(東南からの眺め)。2007年2月,筆者撮影(2004年6月撮影の写真では塔の頂部が未復元で平らであった)。

   

   暗い龕から外に出て周りをみると地上まで気根を垂らしたチャーリンギンの巨木あり,生茂った葉の緑と太い幹の焦茶色が,紺碧の空の下,降り注ぐ陽光に映えて対照をなしていました。初めて此処に詣でたとき与謝野晶子の有名な  

かまくらや,みほとけなれど釈迦牟尼は,美男におはす,夏木立かな[28]   

の歌を思い浮かべましたが,何年か後に鶴見祐輔著の「南洋遊記[29]」を読んでいたら,既にその中に,「天才晶子をして,是を見せしめたならば,美男におはす夏木立哉の句は,鎌倉に發せずして,メンヅー(ムンドゥ)に出でたかも知れないのである。」とありました。    

   前出「チェンティーニ物語」には,マス・チェボランがムンドゥをも訪ねたことが記録されています。彼はここでも感激して,仏龕の中で一夜を過しました。   

   チャンディ・ムンドゥの境内の外に「ムンドゥ・モナストリー」の看板のある近代的な僧院があることを,筆者は比較的最近に知って訪問しました。門を入ると綺麗な境内の手前に,両脇に高さ2メートルほどのストゥーバが数メートル間隔で5個づつ並んだ参道があり,その左右には平屋のお堂や庫裏があります。お庭の掃除をされていた若い僧から連絡を受けてお出まし下さった院主様の案内で先に進むと,ラクササ像(巨人像)が見張る後に菩薩の立像あり,更に先には数メートルの高さの大きなストゥーバがありました。左手の奥には蓮池があって,中央にペンドポ様式と呼ばれるジャワ様式の屋根を持つ小さな御堂があり,金色の後光を背にした真新しい御影石の釈迦牟尼像がありました。院主様によれば2002年に川崎にある善養寺の古庄良源師から寄贈を受けられた由,お堂の前にはそのことを記念したパネルがありました。院主様は「この僧院を仲間2人で始めたのは20年前で,建物は竹で造った粗末なものでした。今は6人のメンバーが居て,お寺もお庭もこのように立派になりました。」と感慨深げに話されました。「チャンディ・ムンドゥのお世話もなさっていらっしゃるのですか。」との問には,「チャンディは政府の管轄で保全や清掃がなされていますが,年に何回か私どもで祭祀を執り行います。」とのお答あり,10世紀もの間,省る者すらなかった3体の仏様たちもさぞお喜びであろうと思いました。些少の御志を置いて僧院を後にしました。   

   

ムンドゥ・モナストリー内,釈迦牟尼像と院主。2007年2月,筆者撮影。

   

   仏教やヒンヅー教は,言うまでもなくインド由来の宗教でありました。ジャワ島へのインド人の渡来は既に有史以前からあったみられますが,最初に王国を築いたのは,西暦78年のアジ・サカの一行が最初と伝えられ,到着した場所のメダン・カムランは現在のスマランの南と推定されています。彼らは彼らがラサカ(Rasaka)と呼んだ獰猛な原住民(Kalang)と戦ったと伝えられています[30]。渡来者はジャワ人に文字と暦を教え,渡来の年あるいはアジ・サカの没年(西暦78年)がジャワで伝統的に用いられたサカ暦の元年と定められましたが,彼らの建てた王国(第3章参照)の末期については,少なくとも筆者には不明です。   

   

サンジャヤ王朝―チャンガル石碑の記録   

   中部ジャワの現地に有形の証拠を遺す最初の王朝はサンジャヤ(Sanjaya)朝と呼ばれるものでした。サンジャヤ王の名は,古く1879年にクドゥ平野南部チャンガルの寺院跡で発見された,パラワ文字で書かれ,732年(サカ暦654年)の年次の付けられたチャンガル石碑にありました。碑文の要約は色んな書物にありますが,原文の現代語訳[31]を,なるべく忠実に和訳して見ましょう。

第1行

此れはサンジャヤ王が山上にリンガを建立せしことの記念なり。

第2-6行

シヴァ神,ブラーマ神,ヴィシュヌ神に捧げる。

第7行

ジャワは繁栄し,金鉱に富み,多くの米を産す。この島に,クンジャラクンジャ村民の助けによりシヴァ寺院が建てられたり。

第8-9行

ジャワの島は,以前は,頗る聡明,行動に公明,戦に勇敢にして臣民に寛大なるサンナ王の統治下にありけり。彼の崩御に国は服喪し,保護者の喪失を悲しめり。

第10-11行

サンナ王の後継者は彼の息子サンジャヤにして,彼は太陽に喩へられり。王権の移譲はサンナ王から直接でなく,王の姉(サナハ)を通じて行はれたり。

第12行

国は繁栄,安全にして安定せり。民は路上で寝るも可にして,盗難強奪ほか如何なる犯罪を恐れるに及ばず。民は皆幸福なり。

     ここにあるクンジァラクンジャは,ムラピ山西麓,クドゥ盆地のスレマン・ムンティラン(Sleman-Muntilan)辺りにあったと考えられています。   

   サンジャヤの王統は西暦907年にバリトゥン王(Balitung)の遺した銅版のマンティヤシー碑文(Mantyasih inscription)によれば,サンジャヤに始り,バリトゥン王自身の名は,リストの最後の8番目にありました[32]。サンジャヤ王にはマタラム王の称号(Rakai Mataram Sang Ratu Sanjaya)が冠せられ,これ以後の時代にこの地に 存在した王国がマタラム王国と称せられる所以となりました[33]。 

      

サイレンドラ王朝―カラサン碑文の記録   

   サンジャヤ王朝と同時代に存在したと考えられるサイレンドラ王朝については,古くにプランバナン平野の仏教寺院チャンディ・カラサンで見つかったサカ暦700年(西暦778年)の年次のあるカラサン碑文に次の記述があり,遅くともこの時期には立派なチャンディを持つほどに王朝が栄えていたとの推測が20世紀の前半からありました。インドネシア語テキスト[34]の和訳は以下の通りです。    

第1行

ターラ女神へ祈念と敬仰。信者の願ひが叶へられんことを。

第2-3行

サイレンドラ王の僧侶,マハラジャディア・パンチャパナ・パナンカラン王にチャンディ・ターラを建立するやう求めけり。僧侶が要請せしはターラ女神像,寺院およびマハーヤナ(大乗仏教)の教義に精通せらる僧侶のための数棟の家屋の建設なり。

第4-6行

王国の財務三役[35]は,チャンディ・ターラと聖職者の為の家屋を建てることを命ぜられけり。チャンディ・ターラは「サイレンドラ家の珠玉」となりし王の豊かな地域に建てられけり。サカ暦700年,パナンカラン王,チャンディ・ターラの建設を完了し,僧侶は祭祀を行ひけり。

第7-9行

(チャンディ・ターラの維持の為)カラサン村が寄進されけり。収入三役,村の監察役および役人が立会ひけり。王より下賜されし土地はサイレンドラ王統の王たち,財務三役および子孫たる賢明な役人により保護されん。而して,王は,将来統治せん王たちに,チャンディが全ての民の幸福のために末永く保存されんことを繰返し求めけり。

第11-12行

僧院の建設のお陰を以って,全ての人々は出生に関する知識を会得,ディバヴォパンナ(tibavopapanna)[36]を会得,更にジャイナの教へを学ぶことが期待されん。崇高なるパナンカラン王は,僧院を完全な状態に完成するべく全ての王に繰返し求めけり。

   碑文に書かれたチャンディ・ターラはチャンディ・カラサンのことに相違なく,この時のサイレンドラの王は,マレー半島リゴールに遺された石碑[37]に「敵を破壊する者」と書かれたヴィシュヌ王(別名ダルマトゥンガ)と考えられています。   

   ヴィシュヌ王の後を継いだインドラ王の名は,プランバナン平野で発見された西暦782年年次のあるクルラク碑文(Kelurak inscription)にあって,それには,「スリ・サングラマ・ダーナンジャ(Sri Sanggrama dhananjaya,インドラ王の即位名)が 仏,法,僧の智慧を併せ持つ文殊の像を祀る寺院群の建設を命じた。」との趣旨が書かれていました。この寺院群は,プランバナン平野にあるチャンディ・セウと考えられています。[38]   

   余談ですが,日本の諺に「三人寄れば文殊の智慧」があります。筆者は恥しながら,これまで,その真意を考えないで過していましたが,上の記述によれば,本来は「文殊菩薩に適う智慧を得んとすれば,三宝(仏法僧)に依らねばならぬ」が正しいのかも知れません。筆者の調べた様々の辞書に正解はありませんでしたが,確かに,凡夫が三人寄ったところで文殊菩薩に対抗できるとは到底考えられません。   

   

ボロブドゥール建立   

   ボロブドゥールの建立に関しては,前出の824年の年次のあるカラントゥンガー碑文(Karangtengah Inscription)にヒントがありました。この碑文には部分的な欠損がありましたが,前段はサンスクリットで,後段は古ジャワ語で書かれ,ドゥ・カスパリス博士が解読されたところによれば,前段には(1)サマラトゥンガ王(Samaratunga,812-833)の娘プラモダワルダニ王女(Pramodawardhani)が,美しいジナラヤ(仏教寺院)を建て,サカ暦746年(西暦824年)に恰も地上に落ちた月のような輝かしい像が祀られたこと,(2)完成されたチャンディ・ジナマンディラ(Jinamandira)が仏陀に至る十段階の成就を叶えると期待され,メル山が神々の住処であって,太陽が住民の生活を照らす限り,建造物が仏陀の徳に満ち続けることが,後段には(3)ラカイ・パタパン(Rakai Patapan)夫妻が寺院の維持のために然々の場所の田地を寄進し,村人 が証人として招かれたことが書かれていました[39]。   

   この碑文に書かれた3つの寺院が何かは甚だ曖昧ですが,ドゥ・カスパリス博士は,他の複数の碑文を参照し,(1)のプラモダワルダニが建てたチャンディ・ジナラヤはインドラ王を祀るためのチャンディ・パウォンである,(2)のチャンディ・ジナマンディラはサマラトゥンガが完成したチャンディ・ボロブドゥールである,(3)のラカイ・パタパンはサンジャヤ王統のラカイ・ガルン(Garung)に等しく,田地の寄進を受けた寺院は,インドラ王によって建てられ,既に存在したチャンディ・ムンドゥであると判定されました [40]。   

   

サンジャヤ朝とサイレンドラ朝   

   然らばサンジャヤ家系とサイレンドラ家系の関係は如何。N. J. クロム博士は,所 謂「バリトゥン・リスト」ほか様々な石碑に現れた王名を整理し,1931年の著作で,当時の中部ジャワではサンジャヤ王朝が主であったが,その間に2人のサイレンドラ家の王が君臨したと唱えましたが,これには異論もあって,カラサン碑文,クルラク碑文を含む既知の碑文にある王は全て一族であるとする単王朝説も提出され,多くの論議がなされました[41]。1950年代,ドゥ・カスパリス博士は,この問題を考究し,サイレンドラは,バリトゥン碑文のサンジャヤ王朝とは独立の強力な王朝であったとする二王朝説を提唱しました(表1)[42]。   

 

表1 8世紀中葉から10世紀初めまでサンジャヤとサイレンドラの王統

サンジャヤ朝

サイレンドラ朝

Ratu Sanjaya (c.732-760)
ラトゥ・サンジャヤ

Rakai Panangkaran (c.760-780)
ラカイ・パナンカラン(サイレンドラの姫と結婚)*

Rakai Panungalan (c.780-800)
ラカイ・パヌンガラン.

Rakai Warak (c.800-819)
ラカイ・ワラク

Rakai Garung (c.819-838)
ラカイ・ガルン

Rakai Pikatan(c.838 856)
ラカイ・ピカタン



Rakai Kayuwangi (c.856-882)
ラカイ・カユワンギ

Rakai Balitung (c.898-910)*
ラカイ・バリトゥン

Selendra (c.725?)*
スレンドラ

Bhanu (c.752-775)
バーヌ

Vishnu (Dharmatunga) (c.775-82)
ヴィシュヌ(c.ダルマトゥンガ)

Indra (Sangramadhanamjaya)(c.782-812)
インドラ(c.サングラマダナムジャヤ)

Samaratunga (c.8l2-832)
サマラドゥンガ= ターラ妃 (Tara,スリウィジャヤの王女)*

Pramodavardhani
プラモダワルダニ王女 (サンジャヤのラカイ・ピカタンと結婚)
Balaputra
バーラプトゥラ王子 (スリウィジャヤ に移動)*

G. E. Hall, A History of South East Asia 4th Ed. Macmilla Education 1981 に基づく。()内の数字は在位年。*筆者追加。

   

   その後,サイレンドラの起源を窺わせる碑文が1963年に中部ジャワ北岸のプカロンガン県[43]ソジョムルトで発見されました。古マレー語で書かれた725年の年号のあるこの碑文には,「熱心なシヴァ教徒であるダプンタ・スレンドラ(Dapunta Selendra)」なる人物の名があり,彼の父はサンタヌ(Santanu),母はバードゥラワティ(Bhadra-wati),妻はサンプラ(Sampula)であるとの記述がありました[44]。スレンドラはサンスクリット語サイレンドラのマレー語綴りであるに相違なく,サイレンドラ家の祖がインドでなくスマトラ辺りの出身であったことを窺わせました。因みにマレー語は現代インドネシア語の基礎となった言語で,スマトラ島東部からマラッカ海峡一帯を起源とします。   

   ドゥ・カスパリスの二王朝説が評価を受ける一方で,高名な古文書学者プルバチャラカ博士らの唱える単王朝説は依然として根強く,近年出版された書籍や論文の中にも,二王朝説を疑問視するものが見受けられます[45]。筆者自身,個人的には,二王朝説が正しいと思います。   

   サンジャヤ王朝は,バリトゥン王のあと,ダクサ(Daksa,910‑919),トゥロドン(Tulodong,919‑921),ディア・ワワ(Dyah Wawa,924‑928),ムプ・シンドク(Mpu Sindok,928‑929)と続きました。シンドク王は,928年に中部ジャワの地を捨てて,東ジャワ・ブランタス河畔のメダン,恐らく現在のジョンバン(Jombang)辺りに遷都し,2世紀に亙って存続したマタラム王国は,中部ジャワから姿を消すに至りました。   

   サイレンドラのサマラトゥンガ王はスマトラに栄えた仏教国スリヴィジャヤの王女,ターラ(Tara)を娶っていました(後述のナランダ碑文に記録)。彼の時代,サイレンドラは中部ジャワの中心地域を支配したに留まらず,大乗仏教が盛んな南アジアや東南アジアとも交流を持ち,782年にベンガルからボロブドゥールに菩薩像が奉献された,10年後にはセイロンの賢僧が僧院の落成の時に来たとの記録があります[46]。サマラトゥンガの時代にサイレンドラが何故にボロブドゥールの如き壮大な寺院の建立をなし得たか,筆者は彼自身が偉大な人物であったことに加え,貿易によって繁栄を極めた妻の生国,スリヴィジャヤの富に預かるところ大であったと想像します。   

   

サンジャヤとサイレンドラの合邦   

   ドゥ・カスパリス博士によれば[47],サマラトゥンガ王の娘のプラモダワルダニは,父が退位したと推定される西暦832年頃に当時サンジャヤ家の皇太子であったラカイ・ピカタン王子と結婚,これを機にサイレンドラ王国とサンジャヤ王国は事実上合邦化されました。当時,未だ若かったプラモダワルダニの弟のバーラプトゥラデワ王子(Bala-putradewa)は,後にジャワに於けるサイレンドラの存続を主張して姉夫婦に抵抗しましたが,結局はスマトラのスリヴィジャヤ王国,つまり母の生国に移って,その国を継承しました。彼はそこでサイレンドラ王のタイトルを保持したようです。インドのナランダ(Nalanda)の碑文には,「860年にサイレンドラ王バーラプトゥラがナランダに僧院を建立し,その維持のために現地ベンガラ王朝のデワパラ王が5つの村を寄進したこと,バーラプトゥラ王子は,『サイレンドラ家の珠玉』の孫に当るサマラグラヴィラ(サマラトゥンガ)の息子にして,母のターラはダルマセツ(Dharmasetu,スリウィジャヤの王)の娘で,ターラ女神のように美しかったこと」[48]が記されていました。   

   ラカイ・ピカタンは結婚して数年後の838年に即位してマタラムの王となり,チャンディ・シヴァ中心とする一群のヒンヅー寺院(チャンディ・ロロ・ジョングラン)をプランバナンに建立しましたが,その全貌は856年に息子のカユワンギ王の遺したシワグルハ碑文に詳細に書かれていました[49]。しかしラカイ・ピカタンは仏教を排斥した訳でなく,現に近くにある立派な仏教寺院チャンディ・プラオサンは,スリ・カフルンナン(Sri Kahulunnan,プラモダワルダニ王女の称号)が,夫と協力して建てたものであることが,スリ・カフルンナン碑文から読取られます[50]。   

   サイレンドラのプラモダワルダニ王女とサンジャヤのピカタン王子が結ばれた経緯ついて,「サマタトゥンガは,平和維持のため,また自身が心置きなくボロブドゥールの建設に専念できるように,娘をサンジャヤの王子に嫁がせた。」[51]といった風に政略結婚と見る向きもありますが,ドゥ・カスパリス博士らの見方によれば[52],サイレンドラはサンジャヤに対して優位な立場にあって,後者は前者の属国のような位置に置かれていました。筆者が勝手に想像をするに,プラモダワルダニが父であるサマラトゥンガ王に臣従するピカタン王子を見初め,彼女の希望を父王が叶えて結婚を許したと見ることができるかも知れません。彼女は,お淑やかなお姫様タイプというより,寺院建立に関ったように父から頼りにさせる存在であったし,好まぬ相手と親の言うなりに結婚するタイプの女性ではなかったと考えたいのです。   

   

唐書に書かれた訶陵國,謎の女王「悉莫(シマ)」   

   ジャワでサンジャヤやサイレンドラ王朝が栄えた時代はシナでは概ね唐の時代に当ります。10世紀中庸に成った舊唐書列傳[53]には,南海にある「訶陵國」の項があって,「東に婆利(バリ),西に墮婆登(ダパタン),北は真臘(チェンラ),南は大海に臨む」といった地理的位置関係[54],「堅木を以って城を爲し,大屋重閣を作り,棕櫚皮を以って之を覆ふ。王坐その中にあり,悉く象牙を用ひて床と爲す。」との王宮の様子,「食ふに匙や箸を用ひず,手を以って撮(つま)む。亦,文字有り,頗る星暦を識る。俗に椰樹(椰子)を以って酒と為す。. . .。」といった風俗のほか,西暦640,768,769,815,818の各年に朝貢,就中815年以降の年には僧を遣わしてきたなどの事柄が記述されていました。更に1世紀を経て出された新唐書[55]には,「王居,闍婆(She-po)なり。其の祖,吉延(Ki-yen),婆露伽斯(Pa-lu-ka-si)より東遷す。小國二十八旁し,臣服せざるなし。 . . . 。夏至に八尺の表(日時計の柱)立てらば,南に二尺四寸の影あり。 . . . 。上元年間(西暦674-675)に至り,國人,女子を王と為す。悉莫(Sima)と號し,威令整肅にして,道に遺るを拾ひ舉げず。 . . . 。」といったことが加筆されていました。訶陵の国名は仏書にもあって,例えば空海の「秘密曼荼羅教付法傳」には訶陵の辯弘という僧が空海らとともに恵果なる僧から説法を受けたとありました。   

   舊唐書,新唐書などのシナの文献は19世紀末以来学者の関心を呼び[56],「訶陵(Ho-ling)」に該当する国が何で,「悉莫」なる女王は誰であったのか,東に遷都した吉延が誰で,闍婆は何処であったのかが,問題とされてきました。先ず,訶陵にはカリンガ(Kalinga)の音韻が充てられ,南インドのカリンガに由来するとの解釈がなされましたが,想像の域を超えるものではありませんでした。位置について,新唐書にある夏至の日射の角度は,計算すると北緯6度8分を指示し,ジャワ島から外れる(南緯6度8分なら妥当)との指摘[57]もありました。現在,訶陵すなわちカリンガの都は,中部ジャワ北部の現在のスマラン付近,あるいはソジョムルト石碑のあったプカロンガン辺りにあったと推定する向きが多いようですが,ジュパラ県に現存する村名ケリン(Keling)が相当するという見方もあるようです[58]。   

   

西ジャワの史書に書かれたシマやサンジャヤに関る系譜   

   サンジャヤが西ジャワのガルー王国から中部ジャワに移った人物であることは以前に読んで識っていましたが,改めてダナサスミタ教授の著作「ボゴールの歴史(Sejarah Bogor)」[59]を見てみると,そこにはサンジャヤ家とカリンガ(Kalinga)との関係について,次のことが書かれていました。   

   「ガルー国第5代の王マンディミニャック(Mandiminyak)は中部ジャワ・カリンガ王国のシマ(Sima)の娘パルヮティ(Parwati)を娶った。マンディミニャックは息子サンナ(Sanna,ガルー第6代)を儲けた。サンナとシマの孫娘サナハ(Sanaha)との間にサンジャヤが生れた。サンジャヤは父の親友スンダ国初代のタルサバワ(Tarusabawa)の女婿となって723年にスンダ第2代王となった(嫁はテジャカンチャナ,Teja-kancana)。実父サンナは716年に異父兄のプルバソラ(Purbasora)に王位を追われて,妻の祖母シマ女王の国カリンガに逃れた。サンジャヤは実父の仇を討ってガルーの王(第5代)を兼ねたが,723年に息子のタンペラン(Tamperan,別名 Rakeyan Panaraban)に譲位して,カリンガの王位継承者として北カリンガの王となった。彼が南カリンガ(別名ブミ・サンブラ,Bumi Sambara)のデワシンガ王(Dewasinga)の娘スディワラ(Sudiwara)王女を娶って,2人の間に誕生した子がパナンカランであった。等々。」   

   しかし,これらの事柄が書かれた原典は,明記されていませんでした。   

   筆者は,ふと,18世紀に西ジャワで編まれた史書「列島列王記」とも訳すべき書[60] の存在を思い出し,書棚のコピー綴を紐解いて見たところ,サンジャヤの家系やカリンガとの関係に関する話が,相当に詳しく書かれていました。筆者が具に検索した限りでは,何故かこの歴史書の記述を参照した書物や論文が見当たらないので,ここに関連部分を要約して見ることにします。   

   「スマトラ島では,サカ暦613年(西暦691/692)までにスリヴィジャヤ王国が覇権を確立し,他国を抑えていた。彼らは西ジャワのスンダ王国とは,サカ暦607年(西暦686)に前者のジャヤナサ王と後者のタルスバワ王の間で協定を結び,大使を交換していたが,豊穣で豊かなジャワのケリン(Keling)王国に対しては常に羨望を抱いていた。

   ケリン王国ではサカ暦596年(西暦674/675年)にプラブ・カルティケヤシンガー(Kartikeyasingha)がマハメル山[61]で薨(こう)じ,妻のドゥウィ・シマ(Dewi Sima)が王位に就いていた。ケリン王国はシナと友好関係にあり,カルティケヤシンガー王はサカ暦570年(西暦648/649)に初めて大使,王子,占星師をシナに派遣,サカ暦578年(西暦666)年に第2回目の使節を送った。彼の父は8年間在位しサカ暦562年(西暦640/641)とサカ暦554年(西暦652/653)にシナに大使を送っていた。ケリンの王統の開祖は,バーラタ(インド)南部から来ていた。   

   ドゥウィ・シマはジャワで無比の大変に麗しく魅力的な女性で,天女のような完璧な美人であった。スリヴィジャヤのスリ・ジャヤナサ王は彼女に懸想したが,結婚の願望は叶えられなかった。それは,彼女が「ジャヤナサと結婚せざるを得なくば死を選ぶに如かず」という程に嫌ったからであった。ジャヤナサは,その後もシマに執拗に結婚を迫って彼女を悩ませた。そもそも,スリヴィジャヤの王とジャワの王との間では宗教も異なり,前者は大乗仏教,後者はサウラ(ヒンヅーの一宗派)を奉じていた。更にスリヴィジャヤが(服従せしめた)ムラユ(スマトラの王国)の金やダイアモンドを奪っていた事実もあった。   

   サカ暦608年(西暦685/7),スリヴィジャヤの王はジャワを攻めようとしたが,シナ帝国,バクランプラ王国(Bakulampra),フジュン・ムンディニ(Hujung Mendini)王国,インドの国々などがジャワ王国に味方したので,実現しなかった。そこで,スリヴィジャヤ王は,パレンバン,バンカなどのスリヴィジャヤの港に停泊中の多くのジャワ人の商船に帰るよう命じ,また,財産を奪いもした。更にスリヴィジャヤ王は海原でジャワ人を襲うよう海賊に命じた。スンダ王国はスリヴィジャヤ王の野心に同意せず,冷静さと再考を期待した。   

   歴史によれば,スリヴィジャヤ王国は,サンヒヤン・フジュン(Sanghyang Hujung)の地域王国を収め,サカ暦697年(西暦775/776)に聖域を建設した。(中略)   

   以下は,大詩人の口述である。ドゥウィ・シマとプラブ・カルティケヤシンガには複数の子があり,その中の二人は女子ドゥウィ・パルワティと男子ナラヤナであった。ドゥウィ・パルワティはガルー王サン・マンディミニャックと結婚し,女子ドゥウィ・サナハを儲けた。また,マンディミニャックはプワー・ラバブ(Pwah Rababu)をも妻とし,男子サン・センナ(Sang Senna,別名Sang Bratasennawa)を儲けた。センナはサナハと結婚し,2人の間にサンジャヤの名の男子が誕生した。センナは,プルバソラに王位を追われた。

   サンジャヤ(Rakryan Sanjaya)はプルバソラ王のガルーを征服し,ガルー王となった。サンジャヤは既にインドラプラハスタ王国(Indraprahasta=チレボン)をも制していた。というのは,ガルー王プルバソラ(Prabhu Purbasora)の妻がインドラプラハスタ王の娘であったが故に,インドラプラハスタがガルーに援軍を送っていたからであった。嘗てセンナ王を征服したのもプラブ・プラブソラ率るインドラプラハスタ軍であった。サンジャヤの攻撃によって,インドラプラハスタ王,プルバソラと妃,占星師,大臣,将兵が殺され,斯くしてインドラプラハスタ王国は滅亡した。   

   更にサンジャヤは東方に軍を進め,サカ暦 646年(西暦724/5)に中部および東ジャワの幾つもの王国を服従せしめた。その後,サンジャヤはスマトラ島のムラユ,スリヴィジャヤ,バルス(Barus)ほか,多くの王国を攻めた。この後,北に転じた。サンジャヤの遠征は3年間に及んだ。   

   サカ暦645年(西暦732/3),サンジャヤはジャワ島マタラムの地のメダン王となった。サンジャヤの後は,息子のパナンカラナが継いだ。妻はスレンドラ家の出であった。そして,スレンドラは中部ジャワの強力な王国となった。中部ジャワの地は分割され,北はサンジャヤ王朝の領土,南はスレンドラの領土となった。」   

   シマが即位した西暦674/675年は,新唐書の上元年間初めと見事に一致します。シナに使節を送った年次は舊唐書と一致しませんが,理由は,「列島列王記」が,後世に断片的記録や伝承に基いて編纂されたものである故に,正確さを欠いたと憶測する程度に留めましょう。なお,「列島列王記」にあるケリンがカリンガ,スレンドラがサイレンドラ,センナがサンナと同一であることは疑う余地がありません。   

   サンジャヤの二親(ふたおや)が,マンディミニャックを父とする異母姉弟,パルヮティの娘サナハと,ラバブの息子サンナであった事実は,注意すべきでしょう。異母兄弟姉妹婚(あるいは異父兄弟姉妹婚)は現代では,倫理的のみならず遺伝学的観点から,通常あり得ませんが,古い時代には,日本にも世界の何処にも例がありました[62]。   

   次に,有名な「チャリタ・パラヒアンガン(パラヒアンガン物語)」を見てみたいと思いましたが,バンドンの友人を通じて入手して貰ったテキストは,残念ながら筆者の手に負えない「古スンダ語」のもの,パジャジャラン大学スンダ文学科の学生さんにお願いして現代インドネシア語に訳してもらったところ,サンナ(セナ)王に関して,次のような記述がありました[63]。   

   「プワー・ラバブは,ケンダン(Kendan)の大公(resiguru)の娘で,父の言うままにマカドゥリア(Makadria)公と関係を持ったが,ガルングン(Galungun)公スンパクワジャと結婚し,2人の男子プルバソラとデムナワンを儲けた。あるとき彼女はガルーに行き,夫の末弟でガルー王となっていたマンディミニャックに誘われて関係を持ち,サラー(Salah)という名の男児を産んだ。ラバブは夫から,その赤子をマンディミニャックに呉れてやるよう命ぜられて,ガルーに連れて行った。『嗚呼,此れ余の息子なりや。』と嘆息したマンディミニャックに命ぜられた家臣が赤子を花瓶にいれて野に運ぶと,兆しが天にまで輝いたが,赤子は生きていて,セナと名付けられた。セナはマンディミニャックの後を襲ってガルーの王位に就いたが,7年後にプルバソラに追われて,ムラピ山(中部ジャワ)に逃れ,そこでラヒヤン・ジャンブリ(サンジャヤ)が産れた。」   

   この記述から,プルバソラとサンナが異父兄弟であったこと,前者による後者の王位追放が骨肉の争いであったことが分りました。サンナからサンジャヤへの王権の移譲について,チャンガル碑文にあった「サンナ王から直接でなく,王の姉を通じて行われた」の行は,意味不明でありましたが,「王妃サナハを通じて」または「サンジャヤの母親のサナハを通じて」とも解釈されましょう。若しかすると,嫡出子であった妻のサナハの方が,庶子であった夫のサンジャヤより身分が上であったのかも知れません。   

   チャリタ・パラヒアンガンにも,サンジャヤがプルバソラを討ったあと,ジャワ島内の諸国は言うまでもなくマラユ(スマトラ)やシナ(?)をも征服したことが記されていましたが,その中の「ケリン(カリンガ)に戦を仕掛け,スリウィジャヤ王(Sang Sriwijaya)を打負かした。」の行は多少気に懸るところです。「列島列王記」によれば,カリンガは少なくとも女王シマ(悉莫)の時代にはスリウィジャヤを退けていましたが,この頃にはスリウィジャヤの支配下にあったのでしょうか。   

   サンジャヤは西ジャワで偉大な王となりましたが,チャリタ・パラヒアンガンには,プルバソラの弟でクニンガン(kuninngan)の王となった伯父のクク(Kuku,別名スウカルマ,Seuweukarma)らからは,肉親を殺した人間として疎外されたとの記述があり,彼が息子タンペラン(最初の妻テジャカンチャナの子)に譲位して中部ジャワに移った裏にはそのような事情があったのかも知れないと思われます。   

   「列島列王記」に書かれた「サンジャヤの息子パナンカラナ(またはパナンカラン,カリンガに移ってからの子)の妻がスレンドラ(サイレンドラ)家の女性であった。」の件は,両家の間に姻戚関係が結ばれたことを示します。妻の名は具体的には不明ですが,年代から推して,サイレンドラ第2代バーヌ王(在位,c.752-775)の姉妹または同世代の姫であったに相違ありますまい(表1参照)。パナンカラナは結婚を機にサイレンドラが奉じた仏教に帰依し,それ故に,カラサン碑文に書かれたように,チャンディ・タラ(チャンディ・カラサン)の建立や維持に当ったものと考えられましょう。「スレンドラ(サイレンドラ)は中部ジャワの強力な王となった。」の件は深長なところ,スマトラから来て経済的に豊かであったサイレンドラが,軍事的に強力なサンジャヤの後ろ楯を得たということでないかと筆者は想像します。 

   「列島列王記」にあった「マタラムの地のメダン王(Medang di bumi Mataram)」なる表現は,幾つかの石碑にも現れ,サンジャヤが中部ジャワに建てた所謂マタラム王国は「メダン王国」とも呼ばれます。以降の歴代の王は屡々都を移し,ラカイ・ピカタンはマムラティ(Mamrati),ディア・バリトゥンはポー・ピトゥ(Poh Pitu)に都を置いた[64]ので,サンジャヤ朝全期に適用させるには「メダン王国」という方が正確かも知れません。   

   列島列王記に「中部ジャワの地は分割され,北はサンジャヤ王朝の領土,南はスレンドラの領土となった」とあったのも注目に値すると,筆者は思います。この記述が参照されたか否かは不明ですが,このデマケーション(区分け)は,一般書にも,インドネシアの中等学校教科書[65]にも書かれていて,中部ジャワ北部ウンガラン山山腹にあるチャンディ・グドゥン・ソンゴやディエン高原に遺る一群のチャンディ(寺院)はサンジャヤ王朝が,南部のクドゥ盆地やプランバナン平野のものの多くはサイレンドラ王朝が建てたと説明されています。特筆されるべき例外は,サンジャヤ朝第6代ピカタン王がプランバナンに築いた,規模と壮麗さにおいてボロブドゥールと並び称せられるチャンディ・ロロ・ジョングランであって,後に詳しく述べたいと思います。   

   サンジャヤが中部ジャワに移って結婚した相手は,「ボゴールの歴史」に,南カリンガの王,デワシンガ王の娘スディワラとありましたが,デワシンガ王の名は,東ジャワの現在のマラン市郊外で発見された760年建立のディノヨ石碑にあって,それには,「王国の中心がカンジュルハン(Kanjuruhan)に存在した」ことに加え,「嘗てデワシンガなる賢明で強力な支配者がいた。この石碑は,彼の息子のガジャヤナが,新たなアガスティアの像を,朽ちた木像に代えて祀る美しい寺院を建てたことを記念するものである。」[66]といった趣旨が書かれていました。デワシンガの息子のガジャヤナが東ジャワで一家をなした事実は,新唐書にある「吉延の東遷」の件に対応するに相違なく,吉延はガジャヤナに該当すると見做されています。新唐書の記述には,一般にも言われているように,全般に亙って錯綜があって,現に,8世紀後半の「吉延の東遷」と7世紀後半の「悉莫」の話が時代的に前後して書かれていることには注意を要しましょう。 

   以上の記録から抽出した王,王妃,王子,王女の名に,インターネット上の「ガルー年代記(Babad Galuh)に関する記事[67]にある名を補足して,サンジャヤ王やカリンガのシマ女王に関る系図を描いてみました。   

   

   

   

   ガジャヤナは何故に東ジャワに移ったのか,サンジャヤに追われて避難したという見方もあるようですが,妹(または姉)のスディワラの夫であるサンジャヤとの不仲は一概には考え難く,折から仏教を奉ずるサイレンドラ家が力を擡(もた)げ,サイレンドラの娘を娶った甥のパナンカランも仏教を奉った状況下で,ヒンヅー教を戴くカリンガ家の彼が,新鮮な東ジャワに新天地を求めたいうのが理由であったかも知れません。   

   唐書の記述からは,カリンガが東ジャワに移って以降もシナに使者を遣わしたものと察知されますが,その後に中部ジャワで栄えたサンジャヤ朝やサイレンドラ朝が新唐書に記載されなかった理由付けは,これらの王朝がシナと交流を持たなかったが故に,情報がなかったためと考えられる程度に留めましょう。何れにせよ,筆者は,カリンガの中部ジャワにおける存在は,ガジャヤナの東遷を以って終焉したと考えたいと思います。   

   

ボロブドゥール考究   

   厄介な歴史の話はこの程度にして,ボロブドゥールに戻りましょう。   

   上述の石碑の記録から,ボロブドゥール寺院はインドラ王によって782年に着工され,サマラトゥンガ王の御代の824年に竣工したと解釈すれば,工事に実に42年もの歳月を要したことになります。ボロブドゥールの建設に当っては,スリヴィジャヤや,あるいはインドからも僧侶や寺院建築の専門家が招かれたかも知れませんが,その頃の住民の大多数がジャワ人であったことは,そこに飾られた彫刻にみることができると思います。贔屓目かも知れませんが,仏像は柔和なジャワ人の顔貌を模しているように見られますし,レリーフに描かれた大衆の容姿と身の熟しはジャワ人のものに相違ありません。「じゃがたら紀行」には,1921年に徳川義親公がボロブドゥールを訪れられたときに偶然に遭われた,そこで写真撮影に打込んでおられた東京美術学校三浦秀之助助教授(当時,後に教授)のコメントがあります。「面白いでせう。ここに刻まれてある千年以前の爪哇の風俗は千年の後,現在吾々の目の前に展開してゐる爪哇人の生活の有様と,どれ程も變ってゐないでせう。」   

   1925年刊の三浦教授著の「闍婆(ジャワ)佛蹟ボロブヅウル解説[68]」は全てのレリーフや仏像の写真を収めた大著で,ボロブドゥールの画像記録として上述のクロムの書と双璧をなすでしょう。筆者は徳川黎明會図書室で拝見したことがありますが,先ず,修復の僅か10年後に撮られた写真の素晴らしさ,特に写っているレリーフの鮮やかさに驚かされました。これらの写真と現在われわれが目にするレリーフの実物を比較するとき,地中に保存されていた石の彫刻が外気に曝されてから,如何に風化が進んだかが知られます。特に近年の酸性雨の影響は深刻で,筆者が最初に目にしてから四半世紀の間にもかなり傷みが酷くなったように感じています。創建当時はボロブドゥール全体に漆喰が施され,色もつけられていたといいます。せめて今からでも目立たない塗料で薄く被って保護できないものか,高分子化学に手を染めた筆者にしてみれば,シリコン系のワニスか何かを薄く掛けて保護する手立てがないものかと考えました。(故)徳川義宣公を御案内した折に御意見を伺ったところ,美術史の権威であり考古学にも秀でた識見をお持ちの公は,「難しい問題です。手を加えることは遺物を汚すことであるともいえましょう。否,発掘したこと自体が破壊の始まりであったともいえるのです。」とお答えになりました。ウィンブルドンのコートに屋根を掛ける,あるいは各地の野球場を天幕で覆う現代の建築技術をもってすれば遺跡全体を包む建物を造ることも可能でしょうが,1200年前に最初に寺院を構想し,建設したインドラ王やグナダルマ師の趣旨にはそぐわないでしょう。また,歴史的遺物のレプリカをつくることは屡々行われることですが,この巨大建造物の場合,その適用は幾つかのレリーフや像といった限られた構成要素に限られざるを得ないでしょう。いずれにせよ,写真による記録,特に古くに撮られたものは後世のために貴重な価値を持つであろうと考えられます。画像技術が発達した現在,全てのレリーフや像。あるいは全体を表現する三次元画像を製作することも不可能でないでしょう。   

   三浦教授の本の出版に関しては悲劇的なエピソードあり,「ボロブドゥルに関する新説として世に問うための原稿,写真原版一切を神田美土代町の印刷会社に預け製本でき上がり直前関東大震災(1923年9月1日)で,全資料一切を灰燼に帰してしまった。」[69]そうです。幸いにも少なくとも写真に限ってはバックアップがあったのに相違ありません。   

   当時のジャワの社会構造は,土地と兵役がリンクした西欧型の封建社会ではなかったと考えられています[70]。王への奉仕を条件に宗教団体や高官,王族は王から土地を与えられ,彼らは税を集め,工業や商業を進める権利も与えられました。いわゆる奴隷制度はなく,大衆は農閑期に決められた日数働くことを義務付けられていました。彼らは非熟練労働者として寺院建設にも動員されましたが,彼らは強い信仰心を持って奉仕したことでしょう。またボロブドゥールのような建造物を建てるには,多数の建築家と彫刻師が不可欠であって,恐らく他の義務を免除された専門家集団があったことは想像に難くありません。   

   とは申せ,ボロブドゥール全体の構想が,伝えられるところのグナダルマ師独りによって描かれ,設計がなされたのでしょうか。恐らく今の時代ならば少なくとも100人の宗教家,美術家,建築家を選りすぐったプロジェクトチームをつくり,コンピューターグラフィックスを駆使して1000枚の図面を準備することでありましょうが,現地で一枚の紙すらなかった時代に[71],棟梁が如何にして配下の建築士や芸術家に伝え得たかは想像を絶します。40年に亙る工事期間中には,彼のスタッフや職人にも世代交代があったに相違ありません。ヨーロッパには幾百年も掛けて建設された教会や大聖堂がありますが,ボロブドゥールに比べれば遥かに単純な作業の継続であったと思われるのです。   

   世界で有名な仏教遺跡といえば日本では敦煌の方が上かも知れませんが,人口に膾炙(かいしゃ)した大きな理由は文豪井上靖の小説[72]や平山郁夫画伯のスケッチ[73]はさておき,NHKが殊更に取上げ,執拗なまでに宣伝したことにあったのではなかろうかと思われます。4-11世紀の間に数千もの石窟に納められた敦煌の仏像や壁画が仏教伝播の北方ルートの歴史を辿る学術研究のために貴重な遺産であることに疑う余地はありませんが,それらの遺物は時代々々に数千の個々人が銘々の好みで持込んだものであって,芸術的価値という意味では,寺院全体が一つの構想のもとにつくられたボロブドゥールに比べるべくもなく劣るというのが,機会あって敦煌を訪れたときの筆者の感想でありました。   

   

ディエン高原の様子   

   プランバナンに行く前に,ディエン高原の様子について触れましょう。筆者が最初にここを訪れたのは20年以上も前のことでした。先ずジョクジャカルタから車で北上してトゥマングンの町を過ぎて左に折れ,何れも美しい三角形の頂きを持つスンビン,スンドロの両山を左右に眺めつつ,それらの鞍部を越えてウォノソボの町に到着,小さなロスメン(旅籠屋)に一泊しました。ここは既に海抜2000メートルもあって,夕方になると涼しいどころかとても寒く,マンディ(水浴び)をするのにバケツ一杯のお湯を所望しました。翌朝,再び車で出発しましたが,ディエンまでは直線距離にして20キロメートル余り,高度差200m程度ながら,函谷關はおろか箱根の嶮もものならぬ急峻な九十九折れの坂道,辺りの段々畑では色んな葉野菜やじゃが芋が植えられ,マッシュルームを栽培するビニールハウスもありました。100年も前に斯様な道路を拓き,舗装まで施した政府に感心し,作物をジョクジャカルタまで運び出すひとたちの労苦を想いつつ,海抜2200mのディエンに着きました。印象深かったのは辺り一面の光景で,東西1キロメートル,南北1.5キロメートルのなだらかな起伏のある高原は荒涼として植生に乏しく,目立つ樹木といえば針葉樹ばかり,先端部分だけに葉のついた糸杉のような木も疎らに立っていました。ディエンでは乾季であれば朝に霜の降りることが珍しくなく,薄氷が張ったこともあると聞きました。高原の中央には硫黄で白く濁った湖水があり,高みの一角では地熱発電の試験施設が蒸気を吹き上げていて,辺りに漂う硫黄の臭いとともに,ここがカルデラであることを思い起させました。因みに,現在,インドネシアはアメリカ合衆国に次ぐ地熱発電大国になっています。   

   翌日,先ず北部にあるチャンディ・アルジュナやチャンディ・セマールなどを観ましたが,これらの名前は何れも後世に付けられたものだそうです。これらのチャンディは一辺10メートル前後の四角な基台をもつ石積の建造物で,高さ10-15メートル以上の上部は崩れたままで復元は行われていませんでした。翰の中は,ここでは管理できないために御像が博物館に移されて空でした。建立されたのは西暦670-730年頃といわれ,建物の規模といい壁面の彫刻の出来といい,後の時代のクドゥやプランバナンのもののように洗練されたのではありませんでした。西部にあるチャンディ・スンバドラや南部にあるチャンディ・ビマは後の時代,特に後者は13世紀初めの建立とされ,サンジャヤ王国がマタラムから去った後にもこの地でヒンヅーの信仰が保たれたことを証していますが,彫刻の技量は矢張り見劣りがしました。   

   ディエンを歩きながら,筆者は,古代の人々をして,このような厳しい場所を選び,然も四方からここに上る千段の石段を付けてまで,ここに寺院群を建てようと駆立てたのは何であったかに頭を下げました。ディエンは,神々の座所を意味するサンスクリット語のディ・ヒアン(Di‑hyang)に由来し,ジャワの古文書「タントゥ・パンゲラン(Tantu Panggelan)[74]には下記の神話がありました。   

   

ジャワ島誕生神話   

   「バータラ・グル(シヴァ)はバータリ・パラメスワリ(ドゥルガ)とともにジャワ島を創造し,神々の座所ディヒヤン(ディエン)を設けたが,その島は海上に漂っていた。シヴァは神々に聖なるマハメル山をジャンブディパ(インド)から移してジャワに置き,重石(おもし)として安定化するよう命じた。ヴィシュヌとブラーマは各々の身体を巨亀と長蛇と化し,前者はスメル山を背負い,後者はそれに綱のように纏った。スメル山がジャワ島の西部に置かれると,島はバランスを失って傾いだ。マハメル山を東方に移す過程で,島は砕けて,途上に6つの山が出来た。それらは,カントン(Kantong),ウィリス(Wilis),カンプット(Kampud),カウィ(Kawi),アルジュナ(Arjuna),クムクス(Kemukus)の6つである。」   

   マハメル山はスメル山とも呼ばれ,ジャワ島最高峰(3666m)として,現在のマランの東方に存在し,特に,マジャパヒト時代からその地域に住んでシヴァ教を奉るトゥンガル族の人々の間では,今も聖山として崇められています。因みに,スメルはシナの須弥山,日本の妙高山と同義です。スメル山のことを,本来は技術者でありながら,該博な知識を持つ日本史家でもあり,世界中の名山を征服した登山家でもある旧友に話したところ,「スメル」は天皇の古称であるスメラ(皇)に通ずるのであるまいかとの指摘を受けました。彼の説によれば,ヒンヅー教や仏教が誕生する以前の古代インド哲学で「至高の存在」を意味したサンスクリット語のスメルが,有史前の日本に渡来し,天皇に適用されたと考えられる由,傾聴に値すると思いました。   

   

プランバナン   

   プランバナンに参りましょう。ジョクジャカルタの町から東北東方向にソロに通ずる街道を20キロメートルもゆくと,左方にチャンディ・ロロ・ジョングランの一群の寺院が辺りの樹々の上に聳えているのが目に入ります。この寺院は前述のように9世紀の半ばに建立されたものですが,ボロブドゥールと同様に何世紀もの間土に埋もれ草木に覆われていて,その存在は1733年にVOCのロンス(C. A. Lons)が報告を書くまで世に知られていませんでした。   

   その後,バイテンゾルフ(ボゴール)に荘園を開いたことでも知られるファン・インホフ総督もここを訪れましたが,1807年にエンゲルフェルト総督の指示のもと,H. C. コルネリウス工学士によって初めて清掃が行われました。スタンフォード・ラッフルスがここを見たのは8年後のことですが,彼は著書の中のチャンディ・ロロ・ジョングランの項に,次のように述べています[75]。   

   「これらはプランバナン村の直前(北側),道路から250ヤードにあって,それらは石材が崩れた塊からなる大きな塚のように見え,多量の様々の種類の樹木や草で覆われている。現在の荒廃した状態において,これらの尊い建物の正確な計画図あるいは元の配置とか大きさ,また数や形を得ることは非常に困難である。. . .」   

   

「プランバナンにある大寺院」。Antiquarian, Architectural, and Landscape Illustrations of the History of Java 1844 (John Bastin (preface), Plates to Raffles's History of Java, Oxford University Press,1989より転載。本絵画は1807年の清掃作業を指揮したコルネリウス大佐によるスケッチ。

   

   1885年になってアイゼルマン(J. W. Ijzerman)によって考古学的な調査が始められましたが,チャンディの原型は依然不明でした。20世紀になってファン・エルプ,ドゥ・ハーンといった錚々たる学者によって研究が続けられ,本格的な修復がはじめられたのは1937年のこと,大東亜戦争で中断された工事は戦後に再開されて,インドネシア独立4年後の1953年に漸く中央のチャンディ・シヴァが完成しました。修復の努力は以降も延々と続けられ,中心区画にある8棟のチャンディが揃って現在の姿になったのは1990年代になってからのことでした。   

   プランバナン・アーケオロジカル・パーク(考古学公園)の駐車場に車を止め,門を入ってチャンディ・ロロ・ジョングランの中心に向けて150メートルも歩くと,200m位手前で地面が幾分低くなっていて,辺りに黒っぽい石材が点在していることから,嘗てはこの辺りにも小さな建造物があったことが窺れます。少し進むと地面は2m位上に持上り,110m四方に嘗ては224個のチャンディがあったとされるところ,夥しい数の石材が散乱し,所々に小さなチャンディが再建されています。門を潜って中心区画に入ると玉砂利敷の境内に大小8棟の塔のようなチャンディが復元されています。中央のチャンディ・シヴァは34m四方,高さ5mの基壇立ち,高さ20mの堂の上に緩やかに尖った塔があって,全体の高さは47mもあります。   

   

チャンディ・ロロ・ジョングラン寺院群鳥瞰図(Google Earthより取得)。

1:シヴァ,2:ヴィシュヌ,3:ブラーマ,4:ナンディ,5:アングサ*,6:ガルーダ*,7:アピット (* は未確定) チャンディの名前は Dwi Marno Sukandar et al., Guide to the Prambanan Temple, Yogya ADV 1991 に依る。

   

   基壇の廻廊の欄楯や頭部に何百個もの釣鐘型のラトゥナ(ratna=宝石)が飾られ,内外壁面に隈なく浮彫の施された様は,筆者の筆ではとても尽せません。他のチャンディも大きさは劣るものの,形は基本的には同じで,矢張り全体が彫刻で飾られています。   

   頂が緩やかに尖ったチャンディの形は,スメル(須弥山)を象徴したものだそうですが,原形を留めぬほどに散乱していた無数の石材から,如何にして斯様な形を考証して復元したものか,当時の報告によれば,全ての石材を大きさと形状を吟味しつつ丹念に分類,建物の部分部分を試行錯誤で地面上に組立てて,遂には復元図が描かれたのだそうです[76]。その過程は巨大の3次元のジグソーパズルを解いたに等しく,それに要した根気はボロブドゥール修復以上のものであったと思われて,古代に建設に当った人々のみならず,再建に携わった人々にも,畏敬の念を抱かされます。   

   

1937年開始の再建作業のために描かれたチャンディ・シヴァの再現図。V. R. Romondt, “De wederopbouw van den Çiwa Tempel te Prambanan”, Djawa No.3, 20, 1940 より転載。

   

チャンディ・ロロ・ジョングラン寺院群   

   チャンディ・シヴァの東側正面階段を5m上って拱門を潜り,更に3メートル上って梁にカーラ面のある玄関を入ると,堂の中心部に約8メートル四方の大きな龕があり,このチャンディの名前ともなった背丈3メートル程の四臂の破壊神シヴァ(詳しくはシヴァ・マハデワ,Shiva Mahadeva)の像があります。一群のチャンディを建立したサンジャヤ王ラカイ・ピカタンの肖像であるといわれ[77],その気で見ると,神というよりは人間味のある精悍な顔立ちをしています。   

   この龕を出て廻廊を回ると,南,西,北の各側にも5メートル角位の龕があり,夫々にヒンヅーの師マハグル(Mahaguru)に扮したシヴァ,シヴァの子で象の顔を持つ智慧の神,バンドン工科大学の校章でお馴染みのガネシャ(Ganesha),そしてシヴァの妻ドゥルガの像があります。このドゥルガの像こそ,ジャワの伝説で,ペンギン王国によって滅ぼされたプランバナン王国の姫,ロロ・ジョングランが征服者ラデン・バンドゥン・ボンドウォソの呪いによって石像に化せられた姿であると信じられていて[78],ここにある一群のチャンディが,チャンディ・ロロ・ジョングランと呼ばれる所以となりました。但しペンギン王国やプランバナン王国が存在したとされる時期は,13世紀半ばから15世紀初頭と考えられ[79],伝説の発生は,チャンディ・ロロ・ジョングランの建設年(西暦856年)より,ずっと後ということになりましょう。   

   戦の女神である八臂のドゥルガ像はナンディ(牡牛)の上に立って,手前の右手でその尾を引っぱり上げて掴み,左手では阿修羅の頭を押えつけ,他の6本の手は,弓矢や剣などの武器を持っています。「じゃがたら紀行」に書かれた徳川義親公の観察を拝借しましょう。

「此像は傑作のひとつでせう。其姿態は敬虔な念を起させる様なものでも荘厳な趣のあるものでもありません。むしろ豊艶なものです。あの冷やかな堅い石に刻んで,これ程までに柔味があり,その皮膚の下には温い血が通ってゐるのではないかと思はれる位,神としてではなく人としての像をここに寫し出さうとしたのではないかと疑はれるのです。(中略。)昔の人が一本の鑿を持って,それは信仰からか或は藝術への精進からであるか知りませんが,かくまでに見事に刻み上げた其精神力,其の努力を想はないではゐられません。」   

   

ドゥルガ像。2006年2月,筆者撮影。

   

   シヴァ像がラカイ・ピカタンを模したものであったとするなら,ドゥルガ像のモデルはプラモダワルダニであったに相違ない,筆者はそのように信じて,訪れる度に彼女の魅惑的な顔貌と妖艶な容姿に惹かれます。若し伝説にある敗戦国プランバナンのジョングラン姫の像であるとするなら,悲愴感が漂っていて然るべしと思われますが,筆者には表情は飽くまで妖しく見えます。   

   本堂外の廻廊に出ると,欄楯内壁には,ラーマーヤナ物語の情景を描いた42枚の浮彫[80]が巡らされ,本堂外壁の8方位には,寺を悪魔から護るため,8つの神体で表されたロカパーラ(世界の守護)[81]の浮彫りが張られています。これらのロカパーラ像が,ヒンヅー神であるにも拘らず,胡坐して指先も印相を表わすように曲げている様子は興味深く,これらは以前に仏教寺院で仏像彫刻に慣れ親しんだ工匠のイメージであったのかも知れないと思いました。「ロカパーラ」の語は,ピカタンとプラモダワルダニの息子ラカイ・カユワンギの幼名,ディアー・ロカパーラ(またはムプ・ロカパーラ)を想起させますが,これらの御像が彼に因むか如何かは,少なくとも筆者には不明です。   

   

 

チャンディ・シヴァ廻廊。人物は(故)德川義宣公。背景はチャンディ・ブラーマ。2001年2月,筆者撮影。   

   

   外に出て改めて外壁を見ると,欄楯外壁の周囲に,小さな龕から獅子が顔を覗かせ,両脇に獣や鳥が配されたレリーフが廻らされています。このユニークなモチーフは「プランバナン・モチーフ」と呼ばれるもので,中央の対称的な神樹の上に一対の鳥が舞い,両裾には一対のキナラ・キナリ(人面鳥),あるいは小鹿,野兎,鼠などの動物がいます。また,本堂壁面上部には「アプサラ(天界の遊女)トリオの像」やダンスを踊り,あるいは楽器を奏でる天女の見事な彫刻があるのが見えます。   

   チャンディ・ロロ・ジョングランの彫刻の出来栄えは,チャンディ・ムンドゥやチャンディ・ボロブドゥールを含む数多のチャンディの中で,抜きん出ているように見え,恐らく,以前にボロブドゥールなどの寺院の彫刻に携わった彫刻家たちが更に腕を磨き,数十年後に建てられたこの新しい大寺院の装飾に嬉々として腕を揮ったのであらうと,筆者には思われます。数ある彫刻の中で,「アプサラ・トリオの像」の一つは傑作中の傑作とされ,「その妖艶な姿態は観るものを魅惑しないではおかぬもの,20世紀の初め,或る米国の富豪が十万弗を出して買はうとしたのであるが,阿蘭陀政府が聴かなかった」[82]とのエピソードがある程です。しかし,残念ながら石の風化が激しく進んだのはプランバナンも例外でなく,1世紀前の写真[83]にあるような鮮明な彫刻を見ることは叶いません。   

   

 

プランバナン,チャンディ・シヴァ外壁上部の一景。中心はアプサラ・トリオ,カーラ面を戴く。左上はマカラ(怪魚),右上はラトゥナ。2012年2月,筆者撮影。

   

 

プランバナン,チャンディ・シヴァ外壁下部の所謂「プランバナン・モチーフ」の一例。2010年6月,筆者撮影。

   

   前出の「チェンティーニ物語」には,プランバナンに関する記述もありました。4名の従者とともにここを訪れたマス・チェボランはキ・ハルソノという名の村長に迎えられて案内を受け,プランバナンの8棟の寺院群と隣接のチャンディセウを巡りました。ララ・ジョングランの像が滑らかである訳を問うたマスチェンボランに,キ・ハルソノは「それは黄銅でできている。石造ではない。」と答えましたが,果して真実であったでしょうか。少なくとも現存するものが黄銅製であるという話は耳にしません。   

   マス・チェボランは,「チャンディはどれも見事で,彫像も素晴らしいが,多くは傷んでいる。チャンディ・ロロ・ジョングランは未だ立派な儘だ。」と述べていますから,16世紀初めの状態は200年後にコルネリスが清掃したときより遥かに良好であったに相違ありません。但し,主棟の3層からなる基壇については詳しく書かれているものの,20世紀に復元された像にあるような尖った屋根部については記載がありません。興味深いのはキ・ハルソノがプランバナンとセウの管理に当っているとの記述で,新マタラム王国が成立して間もない頃のこと,彼が異教徒の遺物ではあっても大切に考えて自発的に保護していたのかも知れません。「チャンディの龕の中て香が焚かれ,辺りに芳香が漂っていた」ことにつき,彼は多くの巡礼者が僥倖を祈って参拝していると説明しています。   

   チャンディ・ロロ・ジョングランは,サンジャヤ朝がマタラムの地に遺した唯一の大規模建造物と言って良いでしょう。ラカイ・ピカタンの代に至って,何故,唯一斯くも立派なチャンディを此処に建て得たか,筆者はプラモダワルダニが継承したサイレンドラの富があったればこそと想像します。チャンディ・ボロブドゥールとチャンディ・ロロ・ジョングランは別格として,チャンディ・カラサン,チャンディ・プラオサンなどの仏教寺院に比して,ヒンヅー教徒がプランバナン平野南部に遺したチャンディ・バロン,チャンディ・イジョなどの寺院は,シンプルで小さめのものばかりです。但し,文豪プラムディア・アナンタトゥールは,13世紀に,ケン・アロックなる若者の王位獲得に至る闘争をテーマとした歴史小説,「アロック・デデス」[84]の中で,シヴァ教の師ダン・ヒアン・ローガーエに次のように語らせています。   

「マタラムに何が起ったか。幾つのヒンヅー寺院がマハーヤナ(大乗仏教)のサイレンドラによって取壊されたことか。使われていた神聖な石は名誉を剥がされ,彼らのストゥーバ寺院の基礎に転用されたのだ。 . . .」   

   考古学公園(アーケオロジカル・パーク)の中でチャンディ・ロロ・ジョングランの他に観るに値するのはチャンディ・セウで,そこへは路上を走る観光用の無軌道トロッコで廻ることができます。公園内の北端にあるこの仏教寺院は殆ど再建が完了した本堂のほかに幾つもの壊れたままの建物のあるかなりの規模の寺院です。ここで面白いと思ったのは,境内入口にある金剛力士像で,そのモデルは丸く太ってお腹の出たラクササ,右手に棍棒を持っています。金剛力士はギリシャ神話の英雄ヘラクレスがインドのガンダーラに伝わったのが元とされ,日本では鎌倉時代(1192-1333)運慶の作に代表される筋骨隆々の仁王様の姿になりましたが,所変れば品変るの好例でありましょう。   

   

 

チャンディ・プラオサン門前のラクササ像。2008年8月,筆者撮影。(本チャンディはプランバナン考古学公園の外に所在,ラクササ像は公園内チャンディ・セウのものもこれに類似。棍棒と縄を所持していることから金剛力士に相違ない。(本ウェブ版のために追加)

    

 

東大寺南大門の金剛力士像(西暦1203年作,木彫)。2014年10月,筆者撮影。右(阿像):大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて製作。左(吽像):大仏師定覚および湛慶が小仏師12人と共に製作。(本ウェブ版のために追加)

   

パークの中には,チャンディ・ルンブン(Candi Lumbung)とチャンディ・ブブラー(Candi Bubrah)の遺跡もありますが,これらは無残に壊れたままの状態です。プランバナン地区で他に有名なチャンディ・カラサンとチャンディ・プラオサンはパークの外にあります。これらは何れも立派な仏教寺院ですが,ここでは記述を省きます。   

   

石造の城,イスタナ・ラトゥ・ボコ   

   チャンディ・ロロ・ジョングランの南約3キロメートルの小高い丘の上に,チャンディ・ボコあるいはイスタナ・ラトゥ・ボコという名の遺跡があります。前者はいうまでもなくボコ寺院の意,後者はボコ王の宮殿を意味しますが,訪れてみて,山城または山上に築かれた要塞という方が相応しいのではないかという印象を受けました。車を降りてなだらかな坂を数百メートルも歩くと,石の階段の上に,衛兵詰所が両側に付いた立派な石像の門があり,そして頑丈な塀の内側の2~3ヘクタールもあろうかという敷地内には王宮,仏教寺院,祭祀のためのステージ,水浴のためのプールなどの跡がありました。観光客のために設えられた売店兼休憩所から下を望むと,高低差200メートルほどの緑の平野の先にロロ・ジョングランの数棟のチャンディが塔のように見えました。   

   

 

イスタナ・ラトゥ・ボコの「火葬寺院」跡から眺めた城門方向の景色。2012年2月,筆者撮影。

   

   ここは,サイレンドラ国のプラモダワルダニ王女がサンジャヤ国のラカイ・ピカタン王子と結婚したあと,両国の合併によるサイレンドラの消滅を肯じ得ない弟のバーラプトゥラ王子(Balaputradewa)が856年に義兄のラカイ・ピカタンに戦を挑んで立て籠ったところと言われています。戦はバーラプトゥラに利あらず,彼が,敗走してか和睦してか,スマトラのスリヴィジャヤに逃れたことは前に述べました。この事変は,前出のシワグルハ碑文の前半にあり,同碑文には,戦の終ったあと辺りの土地が血に染まったことをラカイ・ピカタンが悔やみ,死者を弔ったあと,彼はジャティニングラットの名で隠遁したことも記されていました[85]。プラモダワルダニのその後の消息は不明ですが,恐らく彼女は弟とともにスマトラに渡ることなく,ジャワに留まったと思われます。   

   イスタナ・ラトゥ・ボコの名は,ラカイ・ピカタンやバーラプトゥラデワ王子より遥かに後の時代,前述の「ロロ・ジョングラン伝説」の中のプランバナン王国のボコ王(あるいはバカ王[86],ララ・ジョングランの兄または父)に因むとされています。伝説上のプランバナン王国やボコ王が実際に存在したことを示す確たる証拠はありませんが,同国が古マタラム時代の遺物であるこの城を居城としたことは十分に考えられましょう。   

   筆者の知る限り,この時代に築かれた石造の王城は中部ジャワではイスタナ・ラトゥ・ボコ以外に現存しません。舊唐書に「堅木を以って城を爲す」とあったように,他の城は全て木造で,最も耐久性に優れた木材であるといわれるチーク材であったにしても,熱帯雨林気候の下では長年月の間に朽果てたのでありましょう。   

   

マタラムの凋落,王朝の東遷   

   さて,マタラムの地に斯くも栄えた王国が凋落し,サンジャヤのムプ・シンドク王はジャワ島東部のメダンに遷都(928年)した後,チャンディ・ボロブドゥールもチャンディ・ロロ・ジョングランも忘れ去られて地中に埋もれました。ボロブドゥールに関しては,イスラム教徒による破壊を恐れた仏教徒が土で覆ったのでなかろうかという説も過去にありましたが,中部ジャワにイスラムが風靡したのは15世紀以降のことでありましたから,時代が掛け離れて過ぎています。   

   シンドク王の東遷について,戦前から戦後に掛けてジャワで活躍した火山学・地質学の学究,ファン・ベンメレン博士は,地質学的観点から,2つの理由を掲げました[87]。第一には河川から運ばれた土砂の堆積によって港が閉塞したことが考えられます。東西に長いジャワ島には,その背骨に当る部分に山々が連なっていて,特に島の中部では切れ目がありません。南側にクドゥやプランバナンの肥沃な平野が広がっているのに対し,北側は地質学的に若くて常に地形の変動がありましたから,人々は南部に集まり,王国もそこに栄えていました。しかし,インド洋は波が高くて当時の船舶では航行が困難であったため,アジアとの交易のためには北のジャワ海に出る必要がありましたが,東ジャワの現在のグレシクに通ずるソロ川を経由するのでは余りにも遠回りになるので,マタラムの王国はムラピ,ムルバウ両山のずっと北にあるウンガラン山から現在のスマランに向けて北に流れるガラン川(Kali Garang)を利用していました。同博士の研究によれば,西暦1000年頃の海岸線は現在より4キロメートル南(内陸側)にあり,今は丘になっているブルゴタ(Bergota)は未だ小島であって,その島陰に天然の良港があったと考えられますが,ウンガラン山は活発に活動し,火山灰を噴出していました。過去1000年で4キロメートルも一帯の海岸線を前進させるほどの土砂の堆積ですから,とても当時の技術では浚渫すること能わず,港は使用不能になったと考えられるのです。   

   第二の理由としては,有史以前から今に至るまで爆発を繰り返すムラピ山の大噴火による火山災害が考えられます。後にクディリ朝を開いたアイルランガ王の遺したプチャンガン石碑(Pucangan Inscription)[88]にはサカ暦928年(西暦1006年)に中部ジャワを大災害襲ったことが書かれ,その原因は,石文を最初に解読したH. カーン(Kern)博士)によって戦禍(スリヴィジャヤの来襲)であったと解釈されましたが,ファン・ヒンローペン・ラベルトン(van Hinloopen Labberton)博士は自然災害でなかったかと考え,この説は C. C. ベルグ(Berg)博士に支持されました[89]。石碑に書かれた1006年とシンドク王東遷の928年には1世紀の差がありますが,1世紀前にもこの規模の噴火があったことは否定できますまい。   

   ファン・ベンメレン博士についてはエピソードがあります[90]。大戦中の1942年,シンガポール陥落の報を別の要務で出張中のサイゴンで聞かれた火山・地質学者田中館秀三教授は,ラッフルス博物館をはじめとする学術施設を日本軍の手から守るため,自らシンガポールに急行して保護に当られましたが(9ヶ月後に徳川義親侯爵が赴任され,以後お二人で協力),ジャワも占領されたと聞くや,ジャワに飛んで島内全ての大学や研究機関の原状回復を果たされました。中に,ムラピ火山測候所があり,彼は,日本軍の監獄から開放したファン・ベンメレン博士と一緒に山にも登り,研究仲間として意見交換もされました。著書によれば,上述のファン・ベンメレン博士の研究結果はこのとき既に聞かれたそうですが,筆者の拝読した論文は1956年に印刷されたものでした[91]。   

   ファン・ベンメレン博士によって指摘された地理学的な事象のほかに,王国を東に追い遣った要因の一つに宗教上の軋轢があったのかも知れません。前出の「アロック・デデス」の中で,ダン・ヒアン・ローガーエ師は,次のように説いています。   

   「王国が東に移動を繰返した理由の一つは,ヨーガ修行者,神秘主義者および仏教徒の影響から逃れるためであった。神よ,偉大なプランバナンは彼らの邪悪な影響を打払うのに十分でなかった。ダィアー・バリトゥン王はマタラムの都を東に移し,ムプ・シンドクは更に東に移した。当時,東の地域は清浄で,彼らの影響が及んでいなかった。」   

   928年にサンジャヤ朝のムプ・シンドク王が東ジャワのメダンに王国を築いて以降,ヒンヅー・仏教文化の伝統はクディリ朝(1050‐1222)を経てシンガサーリ朝(1222-1292)へと引継がれましたが,大型建造物建設という観点ではプランバナンのチャンディ・ロロ・ジョングラン建立の頃が絶頂期であったように思われます。   

   1293年に成立したジャワ史上最強の王国マジャパヒトの時代には流石に立派な町づくりや精巧な赤煉瓦を使ったチャンディの建設が行われましたが,ヒンヅーの伝統を残しはするものの,ジャワ文化としての成熟を見て,新形式の文学作品や歴史書も生まれました。15世紀になると中部ジャワ北部にイスラム教徒のドゥマック王国が勃興して,マジャパヒト王国を蚕食し,終焉へと導きました。マタラムの地に所謂新マタラム王国が復活し,絢爛たるジャワ文化の華が開いたのは,1584年にパネムバハン・スノパティがスルタンを名乗り,パジャン(現在のソロ近郊)に都を定めて以降のことでした。   

  

  

  

   

第5章註    

[1] Thomas Stamford Raffles,The History of Java,Vol.II,London 1817 (Reprint with an introduction by John Bastin,Oxford University Press,Singapore 1988)

[2] スマトラ島ミナンカバウ族(Minangkabau)に関しては,彼らの祖先はイスカンダール(アレクサンダー大王)の死後にボートでやってきた3人の息子の一人,マハラジャ・ディラジャ(Maharahja Diraja)に発するという伝承(Tambo)がある。因みに他の2人,マハラジャ・アリフ(Maharaja Alif)とマハラジャ・ディパン(Maharaja Dipang)はそれぞれ日没の地,日昇の地の王となり,ディラジャはその中間の地(スマトラ)の王となった (Clair Holt, Culture and Politics in Indonesia, Equinox Publishing 1972)。

[3] Alfred R. Wallace, The Malay Archipelago(1869), Oxford University Press, Singapore 1985

[4] 徳川義親 「じゃがたら紀行」, 郷土出版社 1931(十字屋書店 1943,中公文庫1975);英訳: Marquis Tokugawa (translated by M. Iguchi), Journeys to Java, ITB Press, Bandung 2004;インドネシア語訳:Marquis Tokugawa (diterjemahkan oleh Ririn Anggraeni dan Apriyanti Isanasari), Perdjalanan Moenoedjoe Jawa, Penerbit ITB 2006

[5] 千原大五郎「ボロブドゥールの建築」,原書房1970

[6] 基壇から第3壇までの主壁では,東側は阿如来で触地印,南側は宝生如来で与願印,西側は阿弥陀如来で弥陀定印(法界定印),北側は不空成就如来で施無畏印,第4壇の主壁では東西南北ともに毘盧遮那仏で法身説法印,円壇の仏塔の72体は,釈迦如来で転法輪印。

[7] 分別善悪広報経 (基壇 160),方広大荘厳経(第I回廊主壁上段 120),本生譚及び譬喩経(第I回廊主壁下段 120,第I回廊楯壁上段 372,下段 128,第II回廊楯壁 100),大方広華厳入法界品(第II回廊主壁 128,第III回廊主壁 88,楯壁 88,第IV回廊楯壁 84),普賢菩薩行願讃(第IV回廊主壁 72)。数字は枚数(千原大五郎「ボロブ ドールの建築」,原書房 1970 による)。釈迦1代記(方広大荘厳経)の解説は,例えば E. Oey, A. Cherian (ed.), J. Miksic(text), Borobudur: Golden Tales of the Buddhas, Periplus 1990 にある。

[8] B. W. Carpenter, W.O.J. Nieuwenkamp: First European Artist in Bali, Periplus 1997

[9] Th. van Elp, “Nieuwenkamp's Nieuwe kijk op den Boroboedoer”, Nederlandsch-Indie Oud & Nieuw, Vol 16, No.8, December 1931

[10] Soekmono, Candi Borobudur A Monument of Mankind, Van Gorcum, Assen/Amsterdam and Unesco Press 1976

[11] N. H. Krom, Archaeological Descriotion of Barabudur, Martinus Nijhoff, The Hague 1927 (復刻版,Gyan Publishing House, New-Delhi 1986)

[12] 阿部知二「火の島-ジャワ・バリ島の記」,創元社 1944

[13] Gunung Merapi, 2968 m。Merapi の発音は「ムラピ」のほうが近い。

[14] 清少納言 (ca.966-1025) の作。次の英訳書がある。Arthur Waley, The Pillow Book of Sei Shonagon, Tuttle 2011 (初版: George Allen & Unwin, London 1928).

[15] 1216年成立の「新古今集」収録1586歌の中,第33番。864年に大噴火を起した富士山は,慈円生存の頃(1155-1225)には未だ噴煙を上げていたに相違ない。

[16] I. G. N Anom (ed.), The Restoration of Borobudur, United Nations Educational 2006。原典不明,たぶん口伝と思われる。

[17] 脚注4.

[18] Frank B. Carpenter, Java and the East Indies, Doubleday, Page & Company, New York 1926

[19] 「マタラム」は,サンスクリットで英語のマザー(mother)の意。19世紀にベンガルの作家バンキム・チャンドラ・チャタレイが「アナンダマット」の中で詠い,インドの国民歌(国歌ではない)となった「ヴァンデ・マタラム」は「嗚呼,母なる地」の意。ジャワにおける由来については本章の後段に記述。

[20] R. Soekmono, The Javanese Candi: function and meaning, Brill, 1995

[21] I.G.N Anom (ed.), The Restoration of Borobudur, United Nations Educational 2006

[22] (インドネシア語訳)Ranggasutrasna (Ki Ngabei), Ranggasutrasna (Raden Ngabei), Paku Buwana IV (Sunan of Surakarta), Darusuprapta, Tim Penyadur, Centhini, Tambangraras‑ Amongraga Jilid1, Balai Pustaka,(1999)。「チェンティーニ物語」は,17世紀の前半に東ジャワ・グレシックのスナン・ギリ家の王宮がマタラムのスルタン・アグン・ハニョクロクスモの攻撃を受けたとき,難を逃れたて旅に出た3兄妹(および後に結婚した長男と長女の配偶者)の物語で,彼らが巡ったジャワ島内各地の情景や出会った学者との会話などが克明に綴られている。1815年にソロの王宮で編纂された。全12巻。より詳しくは,第6章附録:「ジャヤバヤ王の予言」参照。

[23] この抄訳は以下に基く。Suwito Santoso, Kestity Pringgoharjono, The Centhini story: the Javanese journey of life : based on the original Serat Centhini, Marshall Cavendish, 2006

[24] 「碑文」は現地語,プラサスティ(Prasasti)の訳で,ジャワに遺るものの多くは寺院などの建立を記念するための碑。

[25] Soekmono, J. G. de Casparis, and J. Dumarcay, Borobudur - Prayer in Stone, Archipelago Press, Singapore, 1990.

[26] V. Degroot, Candi, Space and Landscape: A Study on the Distribution, Orientation and Spatial Organization of Central Javanese Temple Remains, Sidestone Press, 2010

[27] ソロの郊外,ラウ山(Gunung Lawu,3265m)の中腹にも,チャンディ・スクー(Candi Sukuh)やチャンディ・チェト(Candi Ceto)が存在するが,これらはマジャパヒト時代の15世紀のものである(第6章に記述)。

[28] 与謝野晶子(1878-1942)。鎌倉高徳院のホームページに次の英訳がある。

Here in Kamakura, the sublime Buddha is of another world, but how like a handsome man he seems, adorned with the green of summer.

http://www.kotoku-in.jp/en/about/grounds_info.html.

[29] 鶴見祐輔「南洋遊記」,大日本雄辯會 1917

[30] D. M. Campbell, Java: Past and Present, Vol. I, William Heinemann, London 1915

[31] Sumantri, Yeni Kurniawati, Summary of course material: Sejarah Indonesia Kuno (History of Ancient Indonesia), Faculty of Social Science, Indonesia University of Education

[32] sanjaya, panangkaran, panunggalan, garung, pikatan, kayuwani, watuhumalang, watukura (=balitung)の8名。1980年代に発見されたワヌア・トゥンカーIII碑文(Wanua Tengah III)は,マンティヤシー碑文の翌年の908年年次のもので,それにはマンティアシー碑文の8名を含む13名の名前があった。

[33]イスラム教普及後,16世紀以降に誕生し,今に続くマタラム王国(新マタラム王国)と区別するために古マタラム王国と呼ぶこともある。

[34] Slamet Muljana, Sriwijaya, PT LKiS Pelangi Aksara, 2006

[35] 原語は "pangkur, tawan,dan tirip"。Prasasti Muncang, dated 866 Saka (944 AD)にある次の行から解釈した。「(この地域に) 税務署からの徴税官,すなわち PangkurTawan および Tirip の3者からなる高級税務官が訪れることは最早ない,. . .」 (Siti Maziyah, “Daerah otonom pada masa Kerajaan mataram kuna:Tinjauan berdasar kedudukan dan fungsinya”, Paramita Vol. 20, No. 2, Juli 2010参照)

[36] ディバヴォパンナ(tibavopapanna)。筆者には意味不明。

[37] Ligor Inscription B面の記述(775年年次)。A面には,「世界中の王の中の王」たるスリウィジャヤの王が,トゥリサマヤ(Trisamaya)の名の仏堂を建てたことが書かれている (Slamet Muljana, Sriwijaya, PT LKiS Pelangi Aksara, 2006)。

[38] 例えば,Roy E. Jordaan (ed.), In Praise of Prambanan, KITLV Press, Leiden 1996

[39] Slamet Muljana, Sriwijaya, PT LKiS Pelangi Aksara, 2006。

[40] R. Soekmono, The Javanese Candi: function and meaning, BRILL 1995

[41] 例えば,Slamet Muljana, Sriwijaya, PT LKiS Pelangi Aksara, 2006。クロム博士のいう2人は,具体的には,カラサン碑文のパナンカランとクルラク碑文のインドラ・サングラマダーナンジャであるが,前者は実際にはサンジャヤの息子であるので該当しない。

[42] D. G. E. Hall, A History of South-East Asia (Fourth Edition), MacMillan Education 1981; Slamet Muljana, Sriwijaya, PT LKiS Pelangi Aksara, 2006; V. Degroot, Candi, Space and Landscape: A Study on the Distribution, Orientation and Spatial Organization of Central Javanese Temple Remains, Sidestone Press, 2010.

[43] ここで「県」と訳している原語は「カブパテン(Kabupanen)」で,中部ジャワ州(Daerah)に属する。Pekalongan を「カロンガン」と記す和書が多いが,「プカロンガン」が原音に近い。

[44] Timothy P. Barnard, Contesting Malayness: Malay identity across boundaries, NUS Press, 2004

[45] 例えば,Bo‑Kyung Kim, Indefinite boundaries: Reconsidering the relationship between Borobudur and Loro Jonggrong in Central Java,ProQuest, 2007

[46] R. Soekmono, J. G. de Casparis, Jacques Dumarcay, Ping Amranand, Borobudur : Prayer in stone, Archipelago Press, Singapore 1990

[47] 脚注46

[48] Slamet Muljana, Sriwijaya, PT LKiS Pelangi Aksara, 2006

[49] R. Soekmono, The Javanese Candi: function and meaning, BRILL 1995

[50] R. Soekmono, Pengantar sejarah kebudayaan Indonesia 2, Kanisius-Yogyakarta, 2002

[51] Paul Michel Munoz, Early Kingdoms of the Indonesian Archipelago and the Malay Peninsula, Didier Millet, 2006

[52] R. Soekmono, J. G. de Casparis, Jacques Dumarcay, Ping Amranand, Borobudur : Prayer in stone, Archipelago Press, Aingapore 1990

[53] 舊唐書(開運2年,西暦945年)卷一百九十七,列傳第一百四十七,南蠻,西南蠻。

[54] 墮婆登(Dva-pa-tan,ダパタン)の所在は不明。多分,スマトラ島またはジャワ島西部にあった地名あるいは国名と想像される。Bali であると推定とする説 (W. P. Groeneveldt, "Notes on the Malay Archipelago and Malacca", [In, Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland. Straits Branch, Miscellaneous papers relating to Indo-China and Indian archipelago: reprinted for the Straits Branch of the Royal Asiatic Society. Second Series, Vol I, Trubner, 1887]) もあるが,他との位置関係が説明できない。

[55] 「新唐書」嘉祐6年(西暦1060年) 卷二百二十二下,列傳第一百四十七下,南蠻下。

原文:「其祖吉延東遷於婆露伽斯城,旁小國二十八,莫不臣服。 . . . 。夏至立八尺表,景在表南二尺四寸。. . . 。至上元間,國人推女子為王,號「悉莫」,威令整肅,道不舉遺。. . . 。」

[56] W. P. Groeneveldt, "Notes on the Malay Archipelago and Malacca" [In,

Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland. Straits Branch,Miscellaneous papers relating to Indo‑China and Indian archipelage: reprinted for the Straits Branch of the Royal Asiatic Society. Second Series, Vol I, Trubner, 1887]

[57] I‑Tsing; J. Takakusu (trans.), A Record of the Buddhist Religion as Practised in India and the Malay Archipelago (A. D. 671‑695), Clarendon Press, London, 1896. の中の,訳者による解説の中。訳者は,夏至の日射角を23.5°,求める緯度を x と置き,23.5 + x = arctan(2.4/8) より,x = -6°8'(北緯)を得た。但し訳者は訶陵の位置をジャワ以外とは言っていない。

[58] 例えば,A. M. Sardiman, Sejarah 2―SMA Kelas XI Program Ilmu Sosial, Quadra, Bogor 2007 (高等学校社会科参考書)

[59] Saleh Danasasmita,Sejarah Bogor, Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983.

[60] Atja, Edi Suhardi Ekajati, Pustaka rajya-rajya i bhumi Nusantara Vol. I - 1, Bagian Proyek Penelitian dan Pengkajian Kebudayaan Sunda (Sundanologi), Direktorat Jenderal Kebudayaan, Departemen Pendidikan dan Kebudayaan, 1987。原著は18世紀に,Pangeran Wangsakerta 委員会 により Cirebon で編まれたロンタル文書。同書は稀覯本であるが,筆者は,以前にバンドンの西ジャワ州スリ・バドゥガ博物館(Museum Negeri Jawa Barat - Sri Baduga)の図書館で見付け,第一義的にはタルマナガラの前に存在したとされるサラカナガラ王国について調べるために,図書館の好意によりインドネシア語訳部分を複写させて頂いた。

[61] マハメル山(Gunung Mahameru) を 現在のスメル山(Gunung Semeru)であると見ると,カリンガはジャワ島東部までを支配していた,あるいは王は左様な彼方まで遠征していたと想像される。

[62] 日本で一例を上げれば,用命天皇は異母妹の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を娶り,聖徳太子(574-622)は二人の間に誕生した。

[63] チャリタ・パラヒアンガンは,16世紀に書かれた著者不明の47葉からなるロンタル文書で,スンダ王国の歴史に繋るエピソードが綴られている。テキストの原典は,Atja, Carita Parahiyangan: Naskah Titilar Karuhun Urang Sunda Jajasan Kebudajaan Nusalarang, Bandung 1968。後に, インターネット上,sundanesecorner.org/2010/ 12/08/the‑story‑of‑parahiyangan/に英訳が掲載されているのを知った。

[64] Medang i Bhumi Mataram のフレーズのある石碑は,例えば Prasasti Sanggurah (846 Saka)。この石碑は,19世紀初めの英国によるジャワ占領中にスタンフォード・ラッフルスによってインド総督ミント卿に進呈されたので,Minto Stone の名で知られる(今もスコットランド家所蔵)。マムラティ,ポー・ピトゥについては,次の石碑に記録があった()。

 medang i mamrati (Prasasti Balaputra‑Jariningrat, Saka 778)

 medang ri h>h Pitu (Prasasti Kcdu, tahun Saka 829)

[65] Nana Nurliana, Sudarini, Sejarah SMP/MTs Kls VII (KTSP), Grasindo など。

[66] R. Soekmono, The Javanese Candi: function and meaning, BRILL 1995

[67] Sketsalaku, Galuh Karangkamulyan, June 18, 2010, http://sketsalaku.wordpress.com/2010/06/18/4/ (ガルー年代記の要約)

[68] 三浦秀之助撰,「闍婆佛蹟ボロブヅウル解説」,ボロブヅゥル刊行会 1925

[69] 武田重四郎編「ジャガタラ閑話-蘭印時代邦人の足跡」,つるかわ印刷所 1968

[70] R. Soekmono, J. G. de Casparis, Jacques Dumarcay, Ping Amranand, Borobudur : Prayer in stone, Archipelago Press, Aingapore 1990

[71] 梶の樹皮を叩いて展したダルアン(樹皮紙,第6章参照)はあったかも知れない。

[72] 井上靖「敦煌」, 講談社 1959

[73] 平山郁夫「敦煌への道-平山郁夫素描集」,徳間書店 1988,ほか。

[74] http://id.wikisource.org/wiki/Tantu_Panggelaran.

[75] 脚注1

[76] V. R. Romondt, “De wederopbouw van den Civa Tempel”, Djawa No.3, 20, 1940。Roy E. Jordaan (ed.), In Praise of Prambanan, KITLV Press, Leiden 1996 の中に英訳あり。

[77] D. Chihara, Hindu‑Buddhist Architecture in Southeast Asia, Brill Academic Publishers 1996。インターネット記事には,像のモデルはバリトゥン王であるとする説もあるようだが,彼は後世の人物であるから,世代が違い過ぎる。何れにせよ,根拠がなく,想像と思われる。

[78] 広く語られている伝承では,ララ・ジョングラン姫がラデン・バンドゥン・バンダワサ王子の求婚を断ったために石像に化せられたとあるが,成文化された「プランバナン年代記」には,姫の失踪を悲しんだ王子が,姫を模して作ったとある。附録参照。

[79] 「プランバナン年代記(Babad Prambanan,下記)によれば,ペンギン王国の祖は12世紀にクディリ王国を再統一したジャヤバヤ王の孫のクスマウィチトゥラで,ララ・ジョングラン伝説はクスマウィチトゥラの曾孫アングリンドゥリアの時代に始まる。アングリンドゥリアの即位は太陽暦964年と書かれている。太陽暦の定義は筆者には不明であるが,この年次は西暦13世紀中頃と仮定して良いかと思われる。(19世紀ソロの宮廷詩人 R. Ng. Ronggawarsitaの著作の中の Serat Pustaka Raja Madya: Jayabaya によれば,ジャヤバヤ王の在位は太陽暦846-860であるが,一般に知られる彼の在位は西暦1135-1157であって,西暦とは約300年の年差がある。(Srima Sugiarti and Aditrijono (translation and summary), Babad Prambanan, Dept. of Education and Culture, Jakarta 1981。Nancy K. Florida, Javanese Literature in Surakarta Manuscripts, Vol. 2: Manuscripts of the Mangkunagaran Palace, Cornell University Southeast Asia Program Publications, 2000)。

[80] 物語の続きは,チャンディ・ブラーマの30枚のパネルにある。

[81] 東: Indra 2x,東南: Agni 2x,南: Yama 2x,南西: Nairrta および Surya,西: Varuna 2x,西北: Vayu 2x,北: Kuvera および Soma,北東: Isana 2x. (Roy E. Jordaan, “Surya and Nairrta on the Siva temple of Prambanan”, [In, Bijdragen tot de taal-, land- en volkenkunde 148, 1992])

[82] 鶴見祐輔「南洋遊記」,大日本雄辯會 1917

[83] 例えば,Karl With, Java―Brahmanische, Buddhistische und Eigenleige Architektur und Plastik auf Java, Filkwang Verlag. M. B. H. Haben 1. W. 1920

[84] Pramoedya Ananta Toer, Arok Dedes, Hasta Mitra, 1999:英訳 By Max lane, Arok of Java, Horizon Books 2007.

[85] Slamet Muljana, Sriwijaya, PT LKiS Pelangi Aksara, 2006

[86] 古いジャワの文献では,名詞の中の母音 ‘o’ は屡々 ‘a’ で書かれている。例えば Boko → Baka,Loro → Lara,など

[87] Rein W. van Bemmelen, “The influence of geologic events on human history (an example from central Java)”, Verhandelingen van het Koninklijk Nederlands Geologisch Mijnbouwkundig Genootschap, Geologische Serie, 20‑36, 1956

[88] 1041年の年次のある東ジャワで発見された石碑。スタンフォード・ラッフルスによってインドに運び去られ,カルカッタの Asiatic Museaum に収蔵されたので,「カルカッタ・ストーン」の異名がある。

[89] 本書第6章では,一般的解釈であるスリヴィジャヤ来襲説を採る。

[90] 田中館秀三「南方文化施設の接収」,時代社 1944;田中館秀三業績刊行会編「田中館秀三—業績と追憶」,世界文庫 1975

[91] 脚注87