第4章   

パジャジャラン国―スンダの人々の心の古里   

   

貴重な石碑バトゥトゥリス   

   ボゴールの中心から南へ2キロメートル上ったチサダネ(Cisadane,サダネ川)を見下ろす丘,バトゥトゥリス地区の中程に,タルマ国のものとは別の古い遺物があって,プラサスティ・バトゥトゥリスまたは単にバトゥトゥリスと呼ばれています。バトゥは「石」,トゥリスは「書く,描く」の意味ですから,文字通り石文であって,現在の地名がこれに因むことは申すまでもありません。   

   

屋根の掛けられたバトゥトゥリス石碑, Jacobus Flikkenschild 1812。大英博物館藏(Museum Number 1939,0311,0.5.37)。同博物館の許諾を受けて掲載。

Flikkenschild は1812年にスマランの海兵学校を出て有名な写生家 H. C. Cornelius の助手となり,当時ジャワを治めていたラッフルスの命令でボゴールに派遣され,地図の作成や事跡の記録に携わった。(Haks, Leo and Maris, Guus, Lexicon of Foreign Artists Who Visualized Indonesia [1600-1950], Archipelago Press, Singapore 2000)。

   

   この石碑の存在は古くからヨーロッパ人にも知られ,古文書学者として著名なプルバチャラカ博士の論文[1]によれば,既に1690年にオランダ東インド会社の探索隊が会社に報告したとありましたが,考古学的研究が始まったのは19世紀も半ば以降のことでありました[2]。石碑は17×15メートルの区画に4個あって,中央の大きいものにはスンダ・カウィ文字で9行の記述があり,解読された結果によると次のようなことが書かれていました。

神の加護あらん。此の碑,先王を顕彰すべきものなり。彼はプラブ・グル・デワタプラナ(Prabu Guru Dewataprana)なる名で即位し,再び,スリ・バドゥガ・マハラジャの名で即位せし,パクアン・ハジャジャランの統治者デワタ王陛下なり。彼はグナティガに葬られたるラヒアン・ニスカラ王(Rahyang Niskala)の子息にして,ヌサ・ラランに葬られたるラヒアン・ニスカラ・ワストゥ・クンチャナ王(Rahyang Niskala Wastu Kancana)の孫なり。彼は,山々への車両の通行を可能にし,館を建て,サミダ(Samida,聖者に材木を捧げるための森),並びにタラガ・レナ・マハウィジャヤ(Talaga Rena Mahawijaya)の湖水を造れり。彼は斯かる人物なりき。   

サカ暦1455年(西暦1533年)

   碑文[3]に刻まれたスリ・バドゥガ・マハラジャ王は,16世紀末に編纂された史書「チャリタ・パラヒアンガン(Carita Parahyangan)[4]」によれば,1482にパクアン(現在のボゴール)を都としてパジャジャラン王国を建国,1521年まで39年間の長きに亙って,西ジャワ一帯を治めた偉大な王でありました。王国は,その後1579年にイスラム教徒の攻略によってパクアンが陥落するまで約1世紀間存続することになりますが,先に進む前に,それに至る西ジャワの歴史を以下に簡単にお浚いしておきましょう[5]。   

   

  

バトゥトゥリス石碑。管理人の許可を得て,2006年9月,筆者撮影。

          

スンダ史のお浚   

   17世紀末に編まれた「列島列王記」[6] とでも訳すべき題名の書によれば,西ジャワには2-4世紀にサラカナガラ国が存在したとされています。358年にジャヤシンガーワルマン王によって建てられたタルマナガラは,今日に遺る同時代の石碑から窺われるように,第3代の王プルナワルマン王の御代(395-434年)に大いに繁栄しました。首都のあったのは内陸の恐らく数個の石碑の発見された現在のボゴール付近[7]と考えられていますが,彼は王位に就いて間もなくの397年には通商に便利な海岸近くに新都「スンダプーラ」が造営されたと伝えられています。「スンダ」なる語が現れたのは記録に残る限りこれが初めてで,後に西ジャワ一帯をスンダの地(Tanah Sunda),そこに住む人々をスンダ人(Orang Sunda)などと呼ぶようになりました。現在の地理学上の地名,スンダ海峡,スンダ諸島などもこの語に因みます。   

   プルナワルマン王の時代,タルマネガラは48の小王国を従え,版図は西はラジャタプーラ(チウジュン川畔)から東はプルワリンガ(現中部ジャワ Purbalingga)または チパマリ(ブレベス川畔)に及んだとされています。526年になると,第7代スルヤワルマン王の女婿マニクマヤが,現在のバンドンの東方チチャレンカの近くのケンダン(Kendan)に新たな国を興し,その都は曾孫ウレティカンダユン(Wretikandayun)の時代の612年にガルー(Galuh)に移されました(王統は852年まで存続)。ケンダン・ガルーの王の中で記憶すべきは,第8代サンジャヤ・ハリスダルマ(Sanjaya Harisdarma)で,716年に中部ジャワに移って,マタラム王国(サンジャヤ王国)の祖となったと伝えられています(第5章に詳述)。   

   タルマ国自体は7世紀の半ばにスマトラの強国スリヴィジャヤに攻められて弱体化し,669年には第12代の王リンガワルマンの女婿タルスブアが王国の資産を継承し,以降この地域には彼の建てたスンダ王国が続くことになりました。   

   西のスンダ国とチタルム川を境界として並立していた東のガルー国の王権は,9世紀半ばに,王女のひとりと結婚したスンダのラキヤン・ウウス(プラブ・ガジャー・クロン)に渡りましたが,逆にラキアン・ウウスの妹をに娶ったガルーの王子が,次代のスンダ王,ダマルラクサとなりました。その後の約300年間に,王都は東から西へ,西から東へと屡々移されましたが,この過程で,元来東西の人々の間に存在した習慣の差異が薄れていったとされています[8]。   

   

西ジャワにおける王国の変遷 (データは, Saleh Danasasmita, Sejarah Bogor, Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983 による。)   

   

スンダ/パジャジャラン時代の西ジャワ (地形図は,Atlas Indonesia dan Dunia, PT Punbina,  Jakarta 1985 に基づく)。   

   

   スンダ王国第28代リンガデワタの女婿リンガウィセサは1333年に西ジャワ東部のガルー近くに移ってカワリ王国を建て,その地域の支配者となりましたが,それ以降は,スンダ王国の方はどちらかといえば弱体であったのでしょうか,カワリの王がスンダの王を兼ねるという状況が1世紀以上続いていました。1482年に至って,カワリのラトゥ・ジャヤデワタ(スリ・バドゥガ)が両国を統一してパジャジャラン王国を建国し,都をパクアン(現在のボゴール)に置きました。   

   スンダ国の様子に関して書かれた文献は極く稀ですが,1225年南宋の趙汝適によって撰ばれた「諸蕃志」の新拖國(スンダ国)の項に次の記述があります[9]

新拖國に港あり,水深六丈,舟車出入す。兩岸皆民居。また耕種に務む。屋宇架して造り,悉く木植(木材の意?)を用ひ,棕櫚皮で以って覆ひ,木板を以って藉(しゃ)(敷物),籐篾(とうべつ)を以って障(壁)となす。男女裸體にして布で以って腰を纏ひ,剪髮僅か半寸に留む。山に産す胡椒,粒小にして重,打板(トゥバン)に於けるに勝る。地に産す東瓜,甘蔗,瓢箪,茄子。但し正官なく,剽掠(ひょうりゃく)横行し,外國商人興販に至る稀なり。

   この中の「籐篾」の籐はラタンでなく竹製品の意味でしょう。竹を幅2~3センチ,厚さ2~3ミリに剥いで編んだパネルは,今も伝統的家屋の壁に使われていますが,通気性があるので室内は甚だ快適です。正官の意は筆者に確かではありませんが,取敢えず公正な役人と解釈しましょう。13世紀始めといえばスンダ王国が弱体化した頃でありましたから,統治が乱れて,剽盗が跋扈(ばっこ)し,外国商人が来るのを避けていたと解釈されましょう。   

   

バトゥトゥリスに書かれたサミダの森,タラガ・ワルナ湖水   

   バトゥトゥリスの記述に戻って,その記述にあるスリ・バドゥガが2度に亙って即位したというのは,カワリの王となった彼が,後にパクアンでパジャジャランの王位に就いたことを意味します。彼が山々への道路,館,サミダの森,タラガ・レナ・マハウィジャヤの湖水などを造営したなどの業績は,ジャカルタ東方ブカシで発見された銅版碑,プラサスティ・クバンテナンにも記されていました。   

   この中,サミダの森は,ボゴールの東南東約70キロ,パングランゴ山南稜鞍部のプンチャック峠を越えた先にある現在のチボダス高地植物園の辺りであったとする説[10]もあるようですが,一般には現在のボゴール植物園のある場所であると見られています。   

   タラガ・レナ・マハウィジャヤの湖水は,プンチャック峠手前の自然保護区に現存するタラガ・ワルナの湖水(Talaga Warna=カラー・レイクの意,Talaga はスンダ語で,現代インドネシア語では Telaga)に相違ありません。筆者は嘗てボゴール在住中にマレーシアから野鳥観察のために来られた友人夫妻にお付合いして,この湖水に行ったことがありましたが,由緒を知って,最近再び訪ねてみました。ボゴールを経てジャカルタ湾に流れるチリウン川の源流の一つであって,東西120メートル,南北60メートルほどの楕円形のこの湖には,周りを囲って鬱蒼(うっそう)と繁る熱帯雨林が鮮やかに映り,周辺では小鳥の囀(さえず)りが聞かれて,その自然に溶込んだ姿から,この湖水が500年前にスリ・バドゥガ王によって造営されたダムであったことを想像するのは寧ろ困難でした。最深部で水深15メートルという湖水の水は,雨季のために周囲から流れた土やプランクトンで濁って不透明でしたが,土地の人によればヒメハヤ,鯉,イカン・マスが棲み,中には一抱えもある大魚も居る由,但しスンダ料理で有名なグラメは水温が低過ぎて生息しないそうです。地元には,この湖に古代から2匹の魚が生息し,それが水面に跳ねるのを見た者は願いが叶えられるという伝説があるそうですが,残念ながらお目に掛かることはできませんでした。   

   タラガ・ワルナは15~16世紀に書かれて今に残る長編詩「ブジャンガ・マニク物語」(後述)の主人公,パクアンの王子でありながらヒンヅー修行僧となって2度目の旅に出た彼に,「我が定め如何なるや。父母を訪ねずして,我が師たちのもとに向ふべし。[11]」と決心させた場所でもありました。筆者がこの湖を訪れたのは2度とも景色鮮やかな日中でしたが,仮に黎明か薄暮であれば,神聖な雰囲気が感ぜられたのかも知れません。   

   

タラガ・ワルナの湖水。2012年2月, 筆者撮影。

   

   バトゥトゥリスに刻まれたサカ暦1455年(西暦1533)は,パジャジャラン第2代の王スラウィセサ(Surawisesa)の御代(西暦1521-1535)に当ります。彼は「チャリタ・パラヒャンガン」の中に「為政者であり強者であり英雄であり,14年間に15回の合戦を制した」と讃えられた人物ですが,彼が継承したパジャジャランは,スリ・バドゥガの没後数年にして中部ジャワから拡大したイスラム教徒の攻撃を受けて沿岸部を制せられました。そんな悲惨な状況下でスラウィセサは偉大であった父王を顕彰するためにこの碑を建てたものと考えられています。   

   

シリワンギ伝説   

   スリ・バドゥガ・マハラジャ王は,様々の伝説にプラブ・シリワンギ(シリワンギ王の意)の名で登場し,スンダの人々の間では,寧ろその名で親しまれています。斯かる伝説は,元来,パントゥン・スンダと呼ばれる詩歌調の口伝のもので,成文化されたのは近世以降のことでありましたから,同じテーマの話にも長短色んな異説があります。彼の前半生を内容とするものにチャリオサン・プラブ・シリワンギ(Cariosan Prabu Siliwangi,シリワンギ王の物語)と題するものがあります。ここでは筆者が入手し得た中で最も詳しく書かれた「パントゥン・スンダの珠玉(Khazanah pantun Sunda)」[12]に拠って,その梗概を見てみましょう。

   「パジャジャランのアンガララン王とウマデウィ王妃の間に生れたパマナーラサは見目麗しく聡明な少年に育っていた。彼が9歳のときのこと,彼の王位継承を妬んだ15歳の異腹の兄,パルバメナックは,パマナーラサを無き者にせんと企て,王たるものに必要な試験をすると誑かして,彼をシパタフナン川に誘い出した。パルバマナックが与えた第一の課題は3匹の鰐の棲む川を渡ることであったが,何故か鰐どもは互いに殺し合い,パマナーラサは難なく渡河に成功した。第二の課題は腕の力で蔓を手繰ってサン・ヒアン・ククンビンガンに登ることであったが,彼がそれをもやって退けたので,パルバメナックは,「その頂上は足を踏み入れることの許されない聖なる場所であって,パマナーラサがそれに無知であったことは重大な罪に値する」と難癖を付けた。奴隷として売られることになったパマナーラサは素性の判らないように全身を煤と樹液で真黒に塗られ,港に連れて行かれて,シリワンギと名を変えられてナコダ(船長)に売却された。   

   スメダンラランのプラブ・ワンギの弟,シンダンカシー(現在のプルワカルタの辺りの地域)のキ・グデー・シンダンカシーの娘,ドゥウィ・アンベットカシー王女は,ある夜,夢の中に,ひとりの若者が黒くて醜い奴隷を連れて現れ,その奴隷は,若し彼女が自分を買取ってくれるなら,弟として仕えると言うのを見た。彼女が夢が現実になるのを期待していた或る日,侍女から,パレンバンからきたナコダ(船長)が,船の修理のために奴隷を売りたがっているという話を聞き,急いで両親に話して,チーク材と小舟とを代価に,その奴隷を引取った。斯くして,シリワンギはアンベットカシーのもとで過すことになったが,その頃から,王宮の庭園が荒らされるという事件が頻発,シリワンギに嫌疑か掛けられて,それがアンベットカシーを悩ませていた。   

   一方,失踪したパナマーラサの捜索を続けていた3人の侍従(プルワ・カリー,グラップ・ニャワン,キダン・パナンジャン)は5年を経て,メル・キドゥルで出遭った隠者の示唆を受けてリワハンの方角に下り,変装してカテガン村のクウ・カワンダのもとに逗留していたが,3人の農業知識が役立って,村は豊かになっていた。或る日クウが作物をキ・グデー・シンダンカシーのもとに届けると,キ・グデーの妻は,野菜や果物が立派であることに喜び,荒廃した王宮の庭園の修復のために3人の侍従を招いた。彼らは,其処に居た黒い奴隷が彼らの主人であることに気付いたが,取敢えずはそれを伏せた。翌日,整備された庭園をキ・グデー・シンダンカシー親子が見に行くと,そこにはシリワンギもいた。再び庭園が荒らされるのではないかと恐れるアンベットカシーに,侍従は皮膚病を患った子供は水で濡れるのを嫌がるから,そうしてやるように勧めた。実際に水を掛けられると,シリワンギは忽ちハンサムな若者に変ったので,アンベットカシーは彼を抱擁し,弟となるように求めた。彼は最初は遠慮したが,キ・グデー・シンダンカシーに促されて,それを受諾した。二人は王族に相応しく着飾られると,カマジャヤとラティ(ヒンヅーの愛の神と愛の女神)のように映った。」

   以上が物語の前半で,最後の行は,ふたりの婚礼のときの情景の描写でありましょう。事実,ムハマド・アミル・スタアルガ著の小冊子「プラブ・シリワンギ」に抄録された「チェリテラ・プラブ・アンガラランの物語(Tjeritera Prabu Anggalarang)」によれば,ふたりは結婚し,シリワンギはスメダンラランの王となり,後にパクアンの王となったとあるそうです[13]。   

   物語の後半は,シンガプーラ[14]の王,プラブ・シンガプーラの美しい娘,ラトゥナ・ラランタパ王女が18ヶ国の王から求婚を受け,困惑した父王が,次兄のキ・グデー・シンダンカシーに相談を持ちかけ,その調停のためにアンベットカシーがシリワンギを伴ってシンガプーラに赴いたことに始まります。その後の話は,冗長で込入った詳細を省くと,ラトゥナ・ラランタパの婿選びを闘鶏試合によって行うことを提案し,審判として参加した筈のシリワンギが,成行きでゲームに巻込まれ,究極的にはライバルを破って彼女を獲得し,その場に集ってシリワンギに憧れていた他の王女たちも挙(こぞ)って彼の妻(側室)となった,といった筋書きです。   

   シリワンギのモデルがスリ・バドゥガであることは疑うべくもありませんが,「チャリオサン・プラブ・シリワンギ」では,舞台設定や登場人物の素姓が,年代記とかなり異なっています。例えば,

(1)

チャリオサンでは,パジャジャランなる王国が恰も既に存在し,シリワンギ(パナマーラサ)は,その王子として誕生したことになっているが,実際にはパジャジャラン王国は後にスリ・バドゥガによって建国された,

(2)

そのパジャジャラン王国の都が何処かは示されず,恰もスメダンララン領内の一地域にあった風に読取られる,

(3)

シリワンギの父であるパジャジャラン王アンガラランは,年代記では,スリ・バドゥガの祖父に当る第5代カワリ国王ワスツ・クンチャナの異名として知られる,

(4)

スメダンララン王プラブ・ワンギの名は,一般には年代記にあってマジャパヒトで戦死したカワリ王国第3代王・マハラジャ・リンガブアナの尊称[15]として知られる,

などが挙げられます。なお,後にスリ・バドゥガの第二王妃となるプラブ・ワンギの末弟パティ・マンクブミの娘スバンラランは脇役として登場するのみ,スンダ王ススクトゥンガルの娘で第3王妃となって,カワリ国とスンダ国の統一(パジャジャラン王国の建国)の絆となるケントゥリン・マニク・マヤン王女には全く言及されていません。   

   チャリオサン・プラブ・シリワンギが文書化された場所はスメダンで,時期は恐らく17世紀末半から18世紀初めであろうとのこと,その頃といえは,パクアンを都とするパジャジャラン王国が消滅(1579年)して久しく,西ジャワ沿岸部のバンテン,中部ジャワに台頭したマタラムおよびVOC(オランダ東インド会社)が勢力を争っていた頃でした。辛うじて国の体裁を保ちつつも,その存在が脅かされたスメダンラランでは,栄光あるパジャジャランの中心をスメダンラランに据えて謳いたかったのであろうと「パントゥン・スンダの珠玉」の著者は解説しています。   

   ナベットカシー(アンベットカシーの別名)が他の妃(側室)とともに,旧都から新都パクアンのシリワンギ王のもとへ引っ越す行列の模様は,同時代に書かれたチャリタ・ラトゥ・パクアン(Carita Ratu Pakuan,パクアン王妃の物語)にあって,豪華な傘を翳して,「目指すはパクアン」を合言葉に,光輝く東の王宮を出発し,象牙の宝珠を戴き,金と玉で飾られた輿(こし)が楽隊を前後に従えて,天(あま)翔(かけ)る龍のように畝りながら進んだ華やかな情景が詠われています[16]。   

   

ムンディンラヤ・ディ・クスマー物語   

   シリワンギがパクアンの王となってからの話に,ムンディンラヤ・ディ・クスマー(Mundinglaya Di Kusumah)というのがあります。数あるバージョンの一つ[17]では次のように語られています。

   「物語はパジャジャラン王国シリワンギ王の妃パドマワティが妊娠中,酸っぱい果物ホンジェを食したいと所望した場面で始まる。その時,領内には実の熟したホンジュの木がなかったので,大臣が森の中へ探しに出て,ムアラ・ペレス王国の領内に至ると,そこでは同国の大臣がホンジェの実を摘んでいた。パジャジャランの大臣は譲渡を申込んだが,ムアラ・べレスのガンビル・ワンギ王妃も折から妊娠中であるという理由で拒否された。暫く口論の後,彼らは両王国が同じ祖先を持つことに気付き,生れてくる赤子の一人が男で,一人が女であれば,二人を結婚させるという約束をして,8個の実を等分した。臨月になって,パドマワティ妃は男児を,ガンビル・.ワンギ妃は女児を生み,それぞれの赤子はムンディンラヤ・ディ・クスマー,ドゥウィ・アスリと名付けられた。   

   ムンディンラヤ・ディ・クスマーがハンサムで聡明な青年に育ったときのこと,彼はシリワンギの別の王妃ニャイ・ラデン・マントゥリによって,王宮の若い侍女に良からぬ振舞いをしたかのように執拗に中傷され,詳しい吟味もなく入牢を申し付けられた。実は,ニャイ・ラデン・マントゥリには,グル・ガンタンガンというムンディンラヤ・ディ・クスマーより年長で,クタバランの知事になっていた息子がいた。   

   ある夜,パドマワティは,夢の中で,25本の尾の付いた美しい凧が,あわや彼女の手の届くところに,姿の見えない誰かによってもたらされたのを見た。翌日,王が学者や重臣を招集して,その話をすると,高名な占星師が,その凧はララヤン・サラカ・ドマスといって,繁栄と幸福を象徴し,それを手にした者は永遠の生命を得,国を安泰に保つと説明した。彼は,その凧は天界にあって7人の天人(グリアン・トゥジュー)によって守られていると付加えた。王は150名の王子を集めて問うたが,その凧を取りに行く危険な旅に出るというものは誰もいなかった。その時,パドマワティは,獄中の息子,ムンディンラヤ・ディ・クスマーを思った。彼に長くつかえた2人の侍従,グラップ・ニャワンとキダン・パナンジャンが彼女の意を伝えると,獄中にあっても修養に努めていた彼は,喜んで任務を引受けると言った。冒険のために開放された彼に,王はパジャジャラン家宝のトゥラン・トンゴンというクリス(短剣)を与えた。   

   ムンディンラヤ・ディ・クスマーは2人の侍従に伴われ,先ず,天界への道を聞き出し,また魔力を獲得するために,ジョングラン・カラぺトンの棲むプラウ・プトゥリというジャワ海の小島へ舟で向い,相手を叩いて最初の目的を達した。彼が空に飛ぶと,予期したように7人の天人が待構えていた。彼が絞殺され,精神的および肉体的束縛から解放されると,そこへ女神ウィル・マナンガイ(今は亡き彼の祖母)が降臨して息を吹きかけ,彼をサラカ・ドマスを保有するに足る完全な人間に甦らせた。彼は,サラカ・ドマスを獲得し,家来となった7人の天人を伴って地上に戻った。

   ムアラ・べレスでは,婚約者のドゥウィ・アスリが,グル・ガンタンガンの養子のスンテン・ジャヤから求婚を受けて,危険な状態にあったが,彼は以前に服従させたジョングラン・カラぺトンの助力で彼女を救出した。   

   パジャジャランに戻ったムンディンラヤ・ディ・クスマーは,サラカ・ドマスをシリワンギ王に献じ,ドゥウィ・アスリと結婚した。斯くしてパジャジャランに平和が蘇った。」

   物語の細部はバージョンによって随分異なり,例えばムンディンラヤ・ディ・クスマーが讒訴(ざんそ)された経緯について,「養育を託された異母兄グル・ガンタンガンの妻のニャイ・マス・ラトゥナ・インテンがムンディンラヤ・ディ・クスマーを溺愛して夫を省みなかったので,夫が怒った」[18],「グル・ガンタンガン夫妻が,異母弟の彼ばかりを愛したので,養子サンテン・ジャヤの嫉妬を買った。」[19],などといったものもありました。何れにせよ,ムンディンラヤ・ディ・クスマーはパジャジャラン第2代の王スラウィセサがモデルと見做され,このような話が存在したこと自体,シリワンギ(スリ・バドゥガ)が王となった後にも,宮廷内には跡目争いのような難儀のあったことを窺わせます [20]。   

   

ヨーロッパの記録にあるパジャジャラン王国   

   パジャジャラン王国の様子は,ヨーロッパの記録にもありました。スリ・バドゥガ・マハラジャ王の御代は,所謂大航海時代にあって,1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達,アジアはヨーロッパ人のいう「ボルトガル時代」が始まっていました。ポルトガルがマラッカを手に入れた翌1512年,アルフォンソ王子の薬師の職を捨て,夢を描いてリスボンからアジアにやってきて,後に明朝への最初の大使となるトメ・ピレスは,マラッカ司令官ルイ・デ・ブリトが派遣した船に乗って東インドの島々を訪れ,スンダ王国に関しても様々なことを書残しました[21]。   

   トメ・ピレスが実際にジャワ島を踏んだか否かは不明ですが,彼はスンダの都について,

「国王が大部分の時を過ごす都市ダヨ(Dayeuh,スンダ語で都市の意。ダユーが現在の発音に近い)という偉大な都市である。同市には椰子の葉と木材で立派に作られた家屋がある。伝聞によれば,国王の家には太さが酒樽くらい,高さが5ファソム(尋,1 fathom=1.8288m)もの330本の柱があり,柱の上には美しい木組がある。その都はカラパという名の主港から2日の旅の距離にある。王は偉大なスポーツマンでありハンターである。彼の国には無数の鹿,豚,去勢牛がいる。彼らはこれ(猟)を何時でも行う。国王には2人の正妻[22]と1000人の側室がいる。スンダの人々は誠実とのことである(中略)。カラパ港は偉大な港である。それは全ての中で最も重要な港である。」

などと書いています。因みにカラパとはスンダクラパ(Sunda Kelapa,後にジャヤカルタ,バタフィア,ジャカルタと改名)のことで,チリウン川を通じて王都パクアンと直接結ばれていました。港としては,他にバウタン(Bantam,現在のBanten)のほか,ポンタン(Pontang,Ciujun河口)タンガラ(Tangeran),シュマノ(Cimanuk河口,現在の Indramayu?)などを挙げています。また,主要な輸出品として,1000バールの良質の胡椒,1000隻分のタマリンド,ジャンク10隻分の米,莫大な量の野菜,果物,肉のほか,同国出身およびマルデブ諸島から連れてきた男女の奴隷を,輸入品としては,インド産の高級織物や香水などが挙げられており,スンダの国の繁栄振りが窺知されます。また,パジャジャラン国がヒンヅーを奉じ,サティ(sati または suttee,スティー。ヒンヅー教徒の間で,主人が死んだあと妻が殉死する慣習)が行われていたことにも触れています。   

   トメ・ピレスと同時代の歴史家であり役人でもあったジョアン・デ・バロスは,ポルトガルのアジアへの発展について大著を残しましたが,当時のスンダの人口について,王国全体で10万,王都パジャジャランが5万で,他の都市は1万と見積っています [23]。   

   西暦622年にムハンマドがイスラム教を唱えて以来,イスラム教徒は,いち早く西に向けて進み,北アフリカ,バルカン半島を経て,遂にはイベリア半島のグラナダまでも征服しましたが(西暦711年),東方でも早い時期にインド亜大陸に至り,10世紀の終りまでに彼らの国を建てました(カズナ朝,955-1187)。東インドに来たのは軍隊ではなくて商人でしたが,彼等はマラッカを始め,其処此処の港町に住み着いてイスラム教を伝えました。13世紀の末,シナからの帰途(1292年?)スマトラに立寄ったマルコ・ポーロは旅行記[24]に,小ジャワ(スマトラ島)の大半は既にイスラム化されているが,他方,船乗りからの伝聞として,ジャワ・メジャー(ジャワ島)の人々は依然としてアイドラー(偶像崇拝者)であると書いています。事実,その頃といえば,西部ジャワにはスンダ王国(669年成立)が,東部ジャワにはマジャパヒト王国(1293年成立)という2つのヒンヅー強国が並存していました。しかし,15世紀ともなると,東部および中部ジャワでは沿岸交易都市を起点としてイスラム教が広まり,1475年に最初のイスラム国ドゥマック王国が勃興,3年後にはマジャパヒトの首都を陥落させました。   

   ジョアン・デ・バロスは1514年の記録として,次のように書いています。

「マラカのイスラム教徒は,この島へ航海して来るようになると,徐々に商人から征服者へと変り,あちこちの海港都市を奪取した。このためこの島の異教徒(ヒンヅー教徒)は航海することができなくなった。さらに,イスラム教徒が彼らに戦いを挑んだために彼らは島の奧へと逃れ,先に述べた山脈(島の中央部を東西に走る山脈)の裾に住むようになった。」[20]

   

イスラム教徒の攻勢   

   イスラム教徒の影響は,スリ・バドゥガ王の時代,既に西ジャワにも及んでいました。「チャリタ・パラヒャンガン」には,「先祖の教えが守られる限り,兵や病気といった敵が来ることなし。北も西も東も平和にして繁栄。それを感じ得ないのは貪欲に(異なる)宗教を学ばんとする多くの者たちである。」という記述があり,多くの領民が既にイスラム教に感化されていたことが窺われます。スリ・バドゥガ王の第二の王妃,チレボンの長官キ・グデン・タパの娘のニャイ・スバンラランは,カラワンのイスラム学校で学んだモスレムでした[25]。チレボンのスルタンとなった二人の間の息子のひとりワランスングサンは当然モスレムでありながら,父を敬っていましたが,その子シャリフ・ヒダヤットの時代の1482年,チレボンはパジャジャランから独立を宣言して,ドゥマックと手を結びました。これに怒ったスリ・バドゥガはチレボンを攻めましたが,チレボン-ドゥマック連合軍に阻まれました。パジャジャランは10万の兵と40頭の象を持っていたものの,内陸中心の国でありましたから海には150トンクラスのジャンク6隻を保有するのみで,ドゥマックから派遣された海軍には太刀打ちできなかったことのようです[26]。   

   パジャジャラン王とイスラム教徒との関りについて,次のような伝承があるそうです[27]

「パジャジャラン王国は光栄ある王,プラブ・シリワンギによって治められていた。彼には偉大な神秘的力を持つキアン・サンタンという名の息子がいた。超能力を有するキアン・サンタンは,ある日メッカまで水上を歩いて行って,そこでイスラムに改宗し,彼はジャワ島に帰って,ワリ・スナン・ラーマットと名乗った。彼はシリワンギを改宗させることを試みたが,王も廷臣たちもそれを拒んだ。両者は対立し,キアン・サンタンに追われた王と廷臣たちは南岸のサンチャンの森に逃れた。息子との戦を避けるため,プラブ・シリワンギは白い虎に化け,家来もサンチャンの虎になった。彼らはサンチャンの森全域に拡がり,今も漁師の間では幸運の兆しと考えられている。シリワンギ王は虎の姿で今もボゴール近くのパクアンに住み,彼の子孫ならびに一般のスンダの人々を見続けている。」[28]     

   因みに,バンドンを拠点とするインドネシア国軍屈強のシリワンギ師団の名はプラブ・シリワンギに因み,司令部前には白虎の像がシンボルとして置かれていますし,インドネシアの強豪サッカーチーム,プルシブ・バンドン(Bandung United の意)のエンブレムには虎の頭がデザインされ,本拠地はシリワンギ競技場(Lapangan Siliwangi)と名付けられています。   

   トメ・ピレスは前出の1512年の旅行記18の中で,ショロポアン(チレボン)の町を,40年前まで異教徒(ヒンヅー教徒)の町であったとし,スンダでなくジャオア(ジャワ)の項に含めています。   

   彼も書いているように,スリ・バドゥガ王は,イスラム教徒の更なる進出に備える策として,ポルトガルと提携すべく,王子スラウィセサを2度マラッカに派遣し(1回目は1512年,2回目は1521年),1522年8月21日にスンダクラパで友好条約を結んで,ポルトガルにバンタム(現在のバンテン・ラマ)とスンダクラパに商館(砦)を築くことを許可しました。条約の文書はポルトガル本国に残っているそうですが,これを記念して建てられた石碑(ポルトガル語でPadrãoと称される)は,ジャカルタ市内で1918年に偶然に発見されて,国立博物館に収められています。   

   

パジャジャラン-ポルトガル友好条約の記念碑(実物)。インドネシア国立博物館の許可を得て,2012年2月筆者撮影。

   

   ポルトガルがジャワ島西部の海を支配することは,中部ジャワのイスラム勢力にとって貿易上好ましからざることであったので,彼等はチレボンの司令官ファタヒラー(Fatahillah,別名ファレテハン,Faletehan)に命じて,ポルトガル砦が完成する前の1526年にバンタムを攻略してこの港を獲得,次いで翌1527年にスンダクラパを陥落させました。これを知らずに3日後に来た3隻のポルトガル船は,ファタヒラーの攻撃に遭って2隻が辛うじてマラッカに敗走しました。ポルトガルは1529年に8隻の軍船を整えてスンダクラパ奪還を企てましたが,結局はそれを断念し,以後パジャジャランと連絡をとることができなかったといいます[29]。パジャジャランとチレボンの間では1531年に講和が結ばれたものの,内陸に閉じ込められたパジャジャランは著しく弱体化,首都パクアンも終に1579年に陥落しました。   

   その直後の1580年代,オランダ人でポルトガル船に乗込んでアジアに来て,その著作がオランダの東洋進出に資したことで知られるリンスホーテン[30]は,スンダクラパがイスラム教徒に奪われてジャヤカルタと改名されて半世紀経っていましたが,スンダの最重要港を「スンダ・カラパ」と記し,スンダの地には沢山の上質な胡椒や,乳香,安息香,肉荳蔲(にくづく)(ナツメグ)などがあると書いています。   

   スンダクラパは,1527年6月22日,ファタヒラーによってジャヤカルタ(大勝利の意)と改名され,これが訛って西洋ではジャカトラ(Jaccatra),日本では「じゃがたら」と呼ばれました。ジャヤカルタは1600年代になるとオランダとイギリスの覇権争いの場となりましたが,終には1619年にオランダが制して,ラテン語でオランダ人を指すバターフ(Bataaf)に因んだバタフィアと名付け,中部ジャワに成立したマタラム国のスルタン・アグンの2度に亙る攻撃(1628,1629年)にも耐えて,地歩を固めました。   

   

オランダ人の旧都探検   

   それから半世紀以上も経った1687年,VOC(オランダ東インド会社)の士官ピーター・シピオ(Pieter Scipio van Ostende)を長とする探検隊はバタフィアから南下し,外国人として初めてジャワ島南岸インド洋に面したムアラ・ラトゥ湾に至りましたが,その途中,西のサラック,東のグデ・パングランゴの山峡の,嘗てのパジャジャラン王国の都パクアンと思しき場所を通りました。シピオの報告書には,「チリウン川に沿うパルン・アングサナからチパクまでの道[31]は,幅広で石が敷かれ,両脇には沢山のドリアンの樹があった。その先の壕を越えると門があり,その先には石積の王宮の廃墟があったが,自分はモスレムでない故に,守衛によって中に入ることを拒まれた。城域は多数の虎によって護られていた。この辺りには住人は疎らであったが,彼らは未だ過去に主であったプラブ・シリワンギを敬っていた。」などとあるそうです。この記録は,5万の人口を擁した嘗ての首都が,1世紀を経てゴーストタウンの様相を呈していたことを窺わせます。虎が飼い慣らされて番犬のように使われていたのであれば甚だ面白いのですが,恐らく野生の虎がここを住処としていたのであろうと,ダナサスミタ教授の本[32]には書かれています。さもなくば,伝説に語られた虎に姿を変えたシリワンギと彼の部下であったでしょうか。   

   王宮跡の管理に当っていたのは貴族であったと聞いたとも書かれているそうですが,恐らく彼はパジャジャランの末裔ではなく,この地を征服したバンテン王国の代官であったと考えられます。   

   シピオの報告に関心を持ったVOCは,3年後の1690年に,アドルフ・ウィンカー大尉率いる調査隊を送りました。彼らの詳しい調査の中で特筆すべきは,彼らが,パクアンの城域に入り,そこに8行半の文字の彫られた石碑を見たことでしょう。最後の半行は,実は日付を表す4語であって,ウィンカーの見た石碑は,紛れもなく現存のバトゥトゥリスに相違ありません。彼はまた石碑の近くに,3体の石像があったと記録しています。   

   その後,VOCの高官アブラハム・ファン・リーベーク(ケープ植民地の建設者ヨアンの息子)は1703年と翌年に2度に亙って自らパクアンに調査に訪れ,1709年に総督となった彼は,同年にも,グデ・パングランゴ山塊の東方,チアンジュール方面へ調査に行く際にも,パクアンに立寄りました。なお,彼は1704年に訪れた際に石碑の近くに別荘を建てて「バトゥトゥリス」と名付けたと伝えられ,これが,その石碑や地域をバトゥトゥリスと呼ばれる元になったと言われています。   

   

ボゴール地図 (Koya Bogor, C. V. Pradika, Jakarta 1995 をベースに作成)。

パクアン都市壁は S Ekadjati, Kebudayaan Sunda Zaman Pajajaran, Jilid 2, Pustaka Jaya, 2005 によるが,C. M. Pleyte 1911が原典。パクアン城内のサラカ・ドマス(Salaka Domas) は,スタンフォード・ラッフルスの「ジャワの歴史」(T. S. Raffles, The History of Java, London 1817 (Vol. I, Reprint with an introduction by John Bastin, Oxford University Press, Singapore 1988))によれば,集会のための大ホールで,800本の柱を持つ。

   

パジャジャランの名残   

   ボゴールの地は,その後,1744年にVOC総督グスターフ・ウィレム・ファン・インホフ男爵が私的な荘園を開いてマンションを建て[33],瘴(しょう)癘(れい)の地バタフィアから離れたその地をバイテンゾルフ(無憂郷の意)と名付けるまで殆ど忘れられていました。約四半世紀後に画家ヨハネス・ラッハによって描かれた絵画には,サラック,パングランゴ両山の山間に広がる牧場に人々がのんびり遊ぶ風景や,簡単な石積で囲われただけのバトゥトゥリス石碑を人々が訪れる様が見られます。   

   現在,パジャジャラン王国の繁栄ぶりは見る影もなく,バトゥトゥリス石碑以外に目にすることが可能な唯一と言って良いほどの遺跡といえば,バトゥトゥリス石碑の300メートルほど南にあって,シトゥス・プルワカリー(Situs Purwakalih)と呼ばれる20平方メートルほどの区画で,パクアン城門の一つがこの辺りにあったと推定されているところです。ここにはウィンカーの記録にあった3体の石像が見られます。   

   

シトゥス・プルワカリー。管理人の許可を得て,2012年2月,筆者撮影。

   

伝説によれば3体は,歴代のパジャジャラン王に仕えたプルワ・カリー(古くはガリー),グラップ・ニャワン,キダン・パナンジャン(Purwa Kalih または Galih,Gelap Nyawang,Kidang Pananjung)を模ったものだと謂われ,遺跡の名も筆頭のプルワ・カリーに因みますが,石像と言っても細長い変成岩を素朴に加工した道祖神を連想させるようなものです。筆者に同行してくれたインドネシア国立博物館のEさんによれば,元は有史以前の石造物であろうと考えられます。3体のうち特にプルワ・カリーのものと目される像はここを征服したイスラム教徒によって壊されたのか肝心の頭部が欠損していましたし,3体目は形状すらも明確でありませんでした。   

   この3人は,上述の「チャリオサン・プラブ・シリワンギ」にもパナマーラサ(シリワンギ)の侍従として登場しましたし,3人の中の後の2人は「ムンディンラヤ・ディ・クスマー」の中では,シリワンギの息子であるムンディンラヤにも仕えたとされています[34]。   

何代もの王に仕えた彼らは老齢ではあったが,永遠の命を持っていたと,スンダでは信じられていたそうです[35]。   

   この遺物は,1911年にジャワ考古学の先達の一人,コルネリス・マリウス・プレイテ(Cornelis Marinus Pleyte)によって調査されましたが,その後は土に埋れていたらしく,1991年に道路拡幅工事の際に偶然に再発見されて,当局によって整備されました。   

   王宮跡についての記述は,最近入手した「チェンティーニ物語」[36]という17世紀前半の旅の記録にありました。時はパジャジャラン王国の都バクアン陥落から半世紀ばかり後に当ります。

   ラデン・ジャイェンレスミは従者2人とともにボゴールに着いて,村長キ・ワルガパティに歓待され,王宮跡を訪ねました。「大きな清水が溢れる池がある。この池には子供に恵まれない夫婦が毎日水浴すれば,早くて3日,遅くとも7日後には子供に恵まれるという言伝えがある。池の際には,花で覆われた複数の石があり,この石に祈れば願いが叶うということで名高く,遠方からも人々が訪れる。この石は名をキアイ・スラギラン(Kyai Selagilang)と呼ばれる。」

   キアイ・スラギランの名はチェンティーニ物語以外では見ませんが,今日に遺るバトゥトゥリス石碑に相違ありません[37]。ラデン・ジャイェンレスミは,この石に祈願し,キ・ワルガパティが手配してくれた人たちの助けを受けて,清水が流れ,花々の咲くサラック山西斜面の台地に無事に庵を建てました。ラデン・ジャイェンレスと従者は暫く其処に滞在して修行に励みました。   

   パジャジャラン時代の遺跡や遺物が何故に少ないのか,存在した筈の文書の類は,この地域を征服したイスラム教徒が,異教徒の残したものを,譬え意図的に破棄しなかったにせよ,敢えて保存することはなく等閑にしたと考えられますが,建物の土台すら見えないのはなぜでしょう。素人の憶測ですが,一つの可能性は火山による降灰と降雨による土石流であったかも知れません。西と東に聳えるサラック,グデの2つの火山は,古来絶えず噴火を繰り返していましたから[38],王宮の遺構も何も積もった土砂に埋もれたと想像できなくありますまいか。「王は庶民なしでは生きられないが,庶民は王なしでも生きられる」という土地柄のスンダ24で,人口5万を擁したというパクアンが王国消滅のあと著しく過疎化したのも天災のためであったかも知れません。   

   バイテンゾルフは,ファン・インホフ縁(ゆかり)の別荘が1870年にオランダ東インド総督の公邸となって近代都市の体裁が整えられました。インドネシア独立後にボゴールと名を改められて半世紀,現在では周辺を含めると人口100万の大都市となるに至りました。パクアン城のあった辺りは稠密に建て込んでいますから,考古学的発掘調査は容易でない状態にあります。   

   

ヨハネス・ラッハによって描かれた18世紀後半のボゴール附近。オランダ国立博物館所蔵。許可を得て同博物館のウェブサイトから転載。

上: サラック,パングランゴ両山の山間に広がる牧場 (Identification Code NG-400-N)   

下: バトゥトゥリス風景 (Identification Code NG-400-I)

   

スメダンに遺るパジャジャランの国宝   

   さて,パクアン陥落の際,パジャジャランの貴族の一部はパジャジャランの王冠や宝物を携えて,東南東百数十キロ彼方の領内スメダンに身を寄せました。スメダンララン国の王,プラブ・グサン・ウルンは彼らを暖かく迎え入れ,自らパジャジャラン国の継承者を名乗りましたが,イスラム勢力に抗し得たのは彼の代の終り(1601年)までで,息子の代には中部ジャワのスルタン・アグンの支配下に置かれました。   

   スメダンにはプラブ・グサン・ウルン王の名をつけた博物館があって,パジャジャランから伝えられた黄金製の王冠,装身具,調度品,黄金をあしらった帽子など数十点が,ウルン王の宝剣などとともに完璧なかたちで保存されています。それらがイスラム征服者の手に何故渡らなかったのか,スメダンの人たちはスンダの宝物をジャワ人に渡すまいとして後世まで隠匿し続けたのでありましょう。筆者はそれらの優美な形状,繊細な浮彫りや透かし彫りに魅せられ,日本の安土桃山と同時代にスンダ(西ジャワ)でも高度な工芸技術が存在したことに感心しましたが,その伝統がイスラム化以降に同地で引継がれることはありませんでした。博物館の中心の建物は,王家の子孫で以前にこの地域を治めたブパティ[39]の館で,豪華というより寧ろ質素ではあるが由緒を感じさせる佇いのものでありました。   

   

スメダンに運ばれたパジャジャランの王冠および装身具,調度品などの一部。Museun Prabu Geusan Ulun 所蔵。許可を得て, 2009年1月, 筆者撮影。

   

   この博物館には,パジャジャランの宝物のほかに,ブパティ家に伝わる調度品,古文書,ガムラン楽器一式,龍を模った人力で曳く乗物などがありましたが,特に筆者の関心を誘ったのは,3冊の古い書物で,その1冊には「キタブ・チャリオサン・プラブ・シリワンギ(Kitab Cariosan Prabu Siliwangi,Kitab は「書」の意)」,1675年,パネンバハン王子(1656-1706)の遺品との説明がありました。これは同物語の原本か否かは不確かながら,写本であるにしても相当に古いものであるに相違ありません。3冊の本の材料は和紙に似たものに見えましたが,ダルアンという樹皮紙である由,ダルアンは梶の木(Broussonetia papyrifera)の樹皮の外樹皮を除いた白い内樹皮を丹念に叩いて展ばして作られたもので,嘗て東ジャワでワヤン・べべール[40]に使われたことは知っていましたが,書物になったものを目にするのは,筆者にとって初めてでした[41]。文字は黒インクで書かれていました。2冊目は地域の歴史などが書かれたという「キタブ・ワルガ・ジャガット(Kitab Waruga Jagat)1675」で,これもパネンバハン王子のもの,3冊目は,1856年制作,手書きの彩色のあるアル・コーランで,スルタ・クスマー・アディナタ王子の遺品と説明がありました。3冊目の作られた19世紀中頃といえば,既にパルプ紙も印刷技術も普及していたと思われますが,ここでは伝統的な材料と技術が未だ保存されていたことに感心しました。   

   

ダルアン(樹皮紙)に書かれた「チャリオサン・プラブ・シリワンギ」の本(1675)。パネンバハン皇子の遺品。プラブ・グサン・ウルン博物館藏。同博物館の小冊子 Profil Museum Prabu Geusan Ulun より転載。

   

ボゴール植物園内のお墓   

   ところでボゴール植物園内のチリウン川の脇の斜面の裾,鬱蒼と繁った樹々の陰に,四方10メートル位の鉄製のフェンスで囲われた墓域があって,中に清楚なタイル張りのイスラム様式の墓が3つ寂莫と置かれています。聞けばパジャジャラン王国時代の古いお墓である由,10年ほど前,案内人のような人の持っていた小冊子を見せてもらったところ,門を入って手前のものは王国末期のラトゥ・ガルー・マンカ・アラム・プラブ・シリワンギ王妃のもの,他の2つは,宰相エヤン・バウルと軍司令官ムバー・ジュパラのものとありましたが[42],当時これら3人の名前に触れた書物は他には見当たりませんでした。   

   

ボゴール植物園内にある墓地。 2007年10月,筆者撮影。パジャジャラン王国の王妃と2人の高官が埋葬されていると伝えられる。

   

   以来,筆者はあれこれ想像を巡らせました。シリワンギなる渾名は元々パジャジャラン初代の王としてこの地に君臨したスリ・バドゥガ・マハラジャのものであったが,歴代の他の王にも用いられた。王自身の墓がないことを考えると,ガルー・マンカ・アラムはスリ・バドゥガ以外の王の妻であったかも知れない。例えば,パジャジャラン最後の王でボゴールの最も賑やかな通りの名前になっているスルヤ・クンチャナ王は,1579年にイスラム勢力がパクアンを陥落させる以前に,都を捨てて西ジャワ西部バンテン南方のプラサリ山麓のカドゥヘジョに逃避していたから,夫をヒンヅー教からイスラム教に改宗させ得なかった彼の妻が,宰相,軍司令官とともにこの地に留まって,ここに葬られたのかも知れない。云々。   

   この墓地に纏わる話は,数年後に出版された小説の中,登場人物の会話にあって,

「墓は元々4つあって,一つはプラブ・シリワンギのものであるが,それは我々の目には不可視なのである。正面のお墓は,彼の第二王妃ガルー・マンカ・アラムのもの,上段にあるのがムバー・ジュパラのもの,右手のは軍司令官エヤン・バウルのものである。この墓地が造成されたのは約600年前であるから,1450年代のことである。」

といった趣旨が書かれていました[43]。若しプラブ・シリワンギがスリ・バドゥガ・マハラジャ(1474‑1531)であれば,彼の第2王妃のスバンラランはイスラム教徒でありましたから,ガルー・マンカ・アラムは彼女と同定され,墓地の様式とも合致します。しかし,ガルー・マンカ・アラムの名は,筆者の調べた限り他の歴史書に見当らず,本当のことは不明です。   

   インターネット記事には,3基の墓は元々は石を積んだ塚のようなものであって,墓銘があった訳でなく,一つについては埋められていたのが人間の遺骸か動物の死体であったかさえ疑わしかったが,1980年代に当時の西ジャワ州知事アアン・クナエフィ(Aang Kunaefi)氏が昔の王妃らを不憫に思い,タイル張りの墓を設えたとありました[44]。然らば,葬られた3人が,果して本当にイスラム教徒であったのか。ボゴールの友人に問うたところ,3人の名前とタイトルにイスラムの臭いはなく,3人の宗教が伝統的なヒンヅー教であった可能性は否定できないとの由,現在の墓のイスラム様式はクナエフィ氏によって改装される際に便宜的に適用されたのかも知れません。   

   墓地の傍にはいつも2,3人の男女が侍って,草を薙ぎ花を活けて,宗教がイスラムに変わった今も,昔栄えたパジャジャラン王国に心を寄せています。筆者も訪れる毎に往時を偲び,小額のお花代を置いてくることにしています。   

   何故このようなお墓が植物園内にあるのでしょう。確かなことはこの墓地は植物園が開かれる前から存在したということで,植物園の管理下にないらしく,植物園の案内書やパンフレットにも記載がありません。ファン・インホフが荘園を開く遥か以前に,ここにパジャジャランの王宮があって,その遺構は現在の宮殿の地下深くに眠っているのであろうという説[45]がありましたが,確かにここは,聖なるサミダの森の跡とも言われ,ボゴール丘陵の一等地ですから,何らかの重要な建物があった可能性は否定できないでしょう。   

   こう考えて思い出したのは,若い頃に住んだことのある英国東南部コルチェスターの丘に立つ11世紀のノーマン・カースル(Norman castle)で,この城がローマ時代西暦1世紀に建てられたクラウディウス神殿の上に造営された史実が,発掘で証明されています。ボゴール宮殿の下を掘ってみる計画は未だ聞きません。   

   

ガルー王都の遺跡   

   西暦669年にタルマ国をスンダ国が引継いでから,1482年にパジャジャラン国が成立するまでの期間から,二,三のトピックスを拾ってみましょう。   

   ガルー王国については,チアミス東方に遺跡があることを最近知って,訪ねました。入口の手前に「チウン・ワナラ・カラン・カムリヤン(Ciung Wanara Karang Kamulyan)へようこそ」の看板あり,脇には西暦612から799年に亙ってここを都とした9代の王の名と在位期間が掲げられていました[46]。   

   

ガルー・カランカムリヤン史跡にある此処を居城とした王の名と在位期間を示す看板。2009年1月, 筆者撮影。

   

   門を入ると,そこは樹木と竹の鬱蒼と生茂ったジャングル,その中をトンネルのように縫う歩道を数10メートルも進むと,周囲を高さ50センチメートルほどの石積の土手で囲われたテニスコートを一回り大きくしたほどの区域あり,中央の奥に1辺が1メートルほどの正方形で,高さが50センチメートルほどのパンチャリカン(Pangcalikan)という名の白っぽい石が置かれていました。案内人氏によれば,王が座して拝謁を受けた場所である由,筆者には7~8世紀の昔のこととはいえ,玉座にしては少し粗末に思われました。更に進むと矢張り石で囲った祈祷所や出産所跡などがありました。甃で囲い中央に細長い石を立てた貴族の墓と思われるところもありました。面白かったのは闘鶏場であったという周囲より幾分低めの直径10メートルほどの地面,闘鶏はジャワ島の人の好む競技で,ギャンブル性の高いことからオランダ時代から一般には禁止されていますが,ここで古い時代に行われていたことを知りました。入口から数100メートル先の東南の隅は,西からのチタンドゥイ,北からのチムントゥル(タンドゥイ川,ムントゥル川の意)2川の合流点で,川には雨季でもあって褐色に濁った水が滔々と流れ,舟遊びのボートが見えました。カラン・カムリヤン区域の形は長方形に近く,面積は25ヘクタールに及ぶということですが,北,東,南の3辺を川に囲まれていて,交通の面でも防衛の面でも要衝の地に都が置かれたことが得心できました。   

   

カランカムリヤン内,玉座のある儀礼場。2009年1月, 筆者撮影。

   

カランカムリヤン内, チタンドゥイ(右)とチムントゥル(左)の合流点。2009年1月,筆者撮影。

   

チウン・ワナラ伝説   

   遺跡の名に冠せられたチウン・ワナラは,ケンダン・ガルー国第10代マナラー王(ガルー・カムリヤンでは第8代)の異名でありますが,スンダ人の間で,パントゥン・スンダで親しまれていることが選ばれた理由でありましょう。ここに紹介する話の粗筋は,次のようなことです[47]

   「ガルーの王サン・プルマナ・クスマーが老齢に至って隠遁しようと考えていたときのこと,彼は大臣のアリア・クボナンが王になる願望を持つことを知った。王は大臣を呼び,国を治めよ,しかし二人の王妃,ポハチ・ナガニングルムとドゥウィ・パングレニェップには手を出すなと告げた。王がパダン山[48]に出発すると,アリア・クボナンは何故か王の10年前の姿に似て,ラデン・ガルー・ウィジャヤと名乗って強欲に振舞った。   

   パダン山の隠遁所で,聖者アジャール・スカレシは空からの光が王宮に射し,二人の王妃の体内に入るのを見た。その頃,ナガニングルムは星が月に落ちる夢を,パングレニェップは鋭い太陽光線が海底にまで届く夢を見た。夢の話を信じられなかったバルマ・ウィジャヤはパダン山の聖者を召還したが,彼はジャスミンの花や幾ばくかのウコンを送ってきただけですぐには現れなかった。バルマ・ウィジャヤは侮辱されたと感じ,2人の王妃に,腹に壷を当てて妊娠している風に見せかけるよう命じた。到着した聖者アジャール・スカレシ[49]は実は先王サン・プルマナ・クスマーであって,彼は,2人は妊娠6ヶ月で,生まれてくるのは両方とも男児であると断言した。怒ったバルマ・ウィジャヤは聖者をクリス(刀)で刺した。クリスが3つに折れて,聖者は死ななかったが,彼はバルマ・ウィジャヤの意図を理解して,自らナガ・ウィルという蛇に変身した。   

   最初にドゥウィ・パングレニェップがアリア・バンガを出産した。ナガニングルムの腹の中の子は,貪欲な王に国は間もなく滅びるであろうと告げた。ナガニングルムの出産のとき,ドゥウィ・パングレニェップは同僚の王妃を妬み,赤子を犬の子に摩り替えた。赤子は一個の卵を添え,櫃に入れてチタンドゥイ川に流され,他方,死を宣告された母親は忠実な侍従によって救われ森に送られた。櫃は川に仕掛けられた簗でアキ・バランガントゥランと妻のニニによって発見され,夫婦によって育てられた。少年に育った子供は宙に飛んで天地が未だ隔てられているのを見たが,これは彼が何らかの遺産を手にする資格のあることを意味した。彼はアキ・ニニ夫妻のために村を造った。   

   或る日,アキと少年は吹矢を携えて森に狩に出た。少年がとある鳥と動物の名を尋ねると,アキは,それらはチウン,ワナラであると教えた。少年は,彼自身チウン・ワナラと呼ばれるのが相応しいといった。チウン・ワナラは,アキから素性を明かされ,彼がガルーの先王とナガニングルムの子であると知った。   

   宮廷から闘鶏大会の開催が布れられると,チウン・ワナラはバルマ・ウィジャヤに挑戦したいと欲した。簗に掛かった櫃から赤子と一緒に見つかった卵はナガ・ウィルに抱かれて孵化し,シ・カカット・ベッドという名の立派な雄鶏になっていた。シ・ククットという名の魔法の雄鶏を有するバルマ・ウィジャヤは自信満々で,若し彼が負ければ領土の西部を与えるという条件で,チウン・ワナラの挑戦を受けた。シ・カカット・ベッドは勝利し,チウン・ワナラに王国の西部を齎した。王国の王子である筈のチウン・ワナラはこれに満足しなかった。ある日,彼は美しい鉄の檻を作った。バルマ・ウィジャヤとパングレニェップが視察に来て,内部を見ようと中に入ると,チウン・ワナラは直ちに扉を閉めた。この事件を知ったアリア・バンガは2人を解放するよう求めたが同意が得られず,2人の間で激しい戦いが起ったが,最後には,チウン・ワナラによって,アリア・バンガがチパマリ川の東に抛られた。以後。チウン・ワナラとアリア・バンガは川を境界としてジャワ島の西部と東部を支配した。」

   8世紀頃に既に熔接でもって鉄の檻がつくられたというのは非現実的にも思えますが,クリス(短刀)を鍛鉄で作る技術が古代から培れていましたから,それを応用した鍛接が行われたものと想像されます。   

   この時代の出来事を詠んだパントゥン・スンダでは,チウン・ワナラの女婿で王位を襲い,ルートゥン・カサルンの異名を取ったマニスリ(ダルマサクティ王)に纏わる「ルートゥン・カサルン伝説」もまた有名です。一般に良く知られているのは絵本や映画にもなったお伽話風のもので,凡そ次のような内容です[50]。   

   

ルートゥン・カサルン伝説

   「天界の女王スナン・アンブの息子グル・ミンダ・カーヒャンガンは母に恋するので,黒猿(ルートゥン・カサルン)に姿を変えて,地上に落とされ,猟師によってガルーの王宮に連れて行かれる。そこでは,老齢のプラブ・タナ・アグン王が,2人の娘,プルバ・ラランとプルバサリのうち,慣例に従って末娘の後者に王位を譲ろうとしたが,これを妬んだ姉が毒を使って妹を皮膚病に罹けて森に隔離し,権勢を振っていた。プルバ・ラランに嫌われて森に追放されたルートゥン・カサルンは,そこで悲哀の日々を送るプルバサリと遭遇,彼女の暮らしを助けることになるのだが,折に触れて天界のスナン・アンブが力を貸す。プルバサリこそ,プラブ・タナ・アグン王と王妃が枕元に現れたスナン・アンブそっくりの美しい女子が欲しいと願って授けられた姫であった。スナン・アンブが逆境にあるプルバサリを哀れんで落とした涙でできた池で水浴すると彼女の皮膚は治癒し,彼女は美しい姫に蘇る。プルバ・ラランは猶も妹を抹殺しようと様々な難題を課すが,ルートゥン・カサルンは悉くそれらを解決する。王宮に赴いたプルバサリが,天の声を聞いて,自分が正当な王位継承者であると宣言するや,傍らに侍っていたルートゥン・カサルンは衣を脱ぎ,突如美男子に変身,姫とともに民に善政を施し,ガルー国は長く繁栄する。」

   

ティル・ダルトン挿画「ルートゥン・カサルン」の表紙と挿絵(抜粋)。Till Dalton (Illust), Lutung Kasarung, G. Kolff & Co., Bandung (ca.1950).

   

   この話の中の小池で水浴して皮膚病が治ったという行は,理屈を考えるならばこの周辺も火山地帯でありましたから,その水が温泉水であったことを窺わせます。   

   パントゥン・スンダは元来口伝のものでありましたから,この話にも長短様々の異説 [51]がありますが,スタンフォード・ラッフルスの「ジャワ史」[52]に収録されているルートゥン・カサルンに纏る話は甚だ特異です。誰かが語ったのを著者が書取ったものと想像されますが,そこでは,上述の二つの話が重っていて,

「ルートゥン・カサルンとはチウン・ワナラに父王が黒猿の皮の衣とともに彼に与えた名前,ルートゥン・カサルンがプルバサリと結婚して2人の間に生まれた息子はシラワンギ(シリワンギ)と名付けられ,成長してパジャジャランの都パクアンに行って王となった。彼の治世下でパジャジャランは大いに繁栄した。」

とあります。パジャジャラン王国が成立し,シリワンギ王が君臨したのは前述のように15世紀半ばでありますから,ケンダン・ガルー王国の終りから6百数十年の年差があります。何とも飛躍した話ですが,そこはフィクションのフィクションたる所以で,物語の語り手が2人のチャンピオンを勝手に結び付けたのだと想像されます。ルートゥン・カサルンとシリワンギに共通することといえば,前者は黒猿の皮の衣を纏い,後者は皮膚に樹液と混ぜた煤を塗られ,何れも美男とは分らぬ状態で将来の伴侶,それぞれプルバサリとアンベットカシーに出遭ったことでしょう。なお,スンダ人の友人によれば,スンダ語でルートゥンは猿,カサルンはオーバーコートを意味するそうです。   

   ラッフルスの話の中には,(1)漁師が川で魚を獲るのに仕掛け網を用いていた,(2)米の栽培を普及された,(3)ジャワ島南岸を航行するのに相当に大きな船が使われた,(4)パクアンでの祝賀の折には色んな演劇が上演された,などといった歴史背景を示唆することがらが垣間見られます。   

   

ブジャンガ・マニク物語   

   パントゥン・スンダは,本稿でこれまでに触れた例が全てそうであるように,ケンダン・ガルー時代からパジャジャラン時代に至る時代々々の王や王子に纒わるストーリーが殆どで,詩歌調とはいえ,本来的に大衆に語り聞かせたものでありました。大衆の識字率が伸びたのは,インドネシアでは20世紀になって学校教育の普及が計られて以降のことでありましたから当然といえば当然でありましょうが,読者が限定された古い時代のスンダでも,文学性の高いものが書かれなかった訳ではありません。有名なものに,前に触れた「ブジャンガ・マニク」という名の,15世紀末か16世紀初めに書かれたと思われる,8音節,1575行からなる長編詩があります[53]。ストーリーは,端的には次のようなものでした。

   「パクアン王国のブジャンガ・マニク(本名アメン・ラヤラン)は王子でありながらヒンヅーの修行者となり,ジャワのマジャパヒト辺りまで行脚するが,母が恋しくなって一旦は帰郷する。母は彼に憧れるアジュン・ララン姫との結婚を勧めるが,彼はそれを振切って再び修行に出掛け,ジャワを経てバリにまで至る。しかし,ジャワ以上に人が多いのを見て,引返してパジャジャランの領土に戻り,彷徨の後,バトゥハ山中腹に落着き,聖地を設ける[54]。彼は其処に珠玉で飾られたリンガ[55]を立て,数棟の修行場に加えて調理場,薪置場,脱穀場を建設,9年間かけて修行を達成し,肉体の終焉の後に,霊魂は麗しき天界に昇る。」

   ストーリー自体は比較的単調なものですが,其処処々で彼自身の崇高な精神性に触れられています。加えて,全編を通じて克明な情景描写がなされ,特に2回目の旅の旅程が詳細に記されていて,筆者には当時の風俗習慣や地誌を窺うための有用な縁(よすが)となりました。   

   例えば,主人公が第1回目の旅から帰って母親を訪ねる場面,機(はた)を止めて彼を迎える彼女の部屋は美しい庭園の中の高床の館にあって,七重のカーテンで飾られ,調度にはシナ渡来の金箔張の櫃がありました。熱帯のパクアン(ボゴール)にして七重のカーテンとは如何に,と訝られる向きもあろうかと思われますが,海抜250-270メートルに位置して雨の多い現地の年平均気温は,最近の統計で最高25.50±0.80℃,最低18.25±0.45℃[56]ですから,日本の気象庁が勝手に定義した真夏日,熱帯夜などというものはあり得ません。500年前は,もっと涼しかったと推定されます。   

   主人公の母親が織っていたのは,赤,青,黄色に染上げた綿糸を使ったイカット[57]でした。詩文の一行から母親はシリワンギの伯母(叔母)と想像されます。ブジャンガ・マニクを見たジョンポン・ラランなる女性(恐らく親戚の者)から,「シリワンギよりハンサムでジャワ語も話せて知性に富み,貴女に相応しい。」と告げられたアジュン・ララン姫は,恋心を込めたダウン・シリー(キンマ)をジョンポンに託して贈りましたが,それは何れも極上のシリー(学名:Piper betle)の葉,ライム,ピナン(学名:Areca catechu)の実などを丹念に取揃えて,貴重な香木(こうぼく)を添え,袱紗(ふくさ)を掛けたものでした。ブジャンガ・マニクは旅の途中に幾度か船に乗りましたが(1回目は最初の旅の帰途,中部ジャワのパマランから西ジャワのスンダクラパまで,2回目は東ジャワ東端の恐らく今日のバニューワンギからバリ往復),船は何れも大型のジャンク[58]で,乗組員の出身地は担当毎に様々,出帆の際には,7発の銃砲が放たれ,ラッパが吹かれ,ゴングやシンバルが鳴らされ,船員は舟歌を歌いました。   

   今は知れぬこの詩文の作者は誰か。山,川および村々の名を具体的に示した行程は,旅をした本人が書いた,あるいは口述したことに間違いありますまい。主人公の死および昇天の部分を含めた全詩が,修行僧となったアメン・ラヤランという名の王子本人によって,彼の生前に書かれたものと考えたいと筆者自身は思います。   

   

チバダックの石碑   

   閑話休題。タルマ国終焉以降に残された石碑のうち,ボゴールの南40キロメートルのチバダック村チカティ河畔で発見されたサンヒャン・タパック石碑(Prasasti Sanghiyang Tapak)4個には,合計40行の記述があって,スンダの王マハラジャ・スリ・ジャヤブパティが,サカ暦952年カルティカ月12日(1030年10月11日)に建立したと明記されています。因みに,この王は「列島列王記」によればスンダ国第20代目の王で,1030-1042年の12年間在位しました。石碑は現在も発見された場所にあるそうですが,車の入れない山の中だそうなので,筆者は未だ訪ねていませんが,碑の内容は「この川の2本の大木で示された然々の範囲の聖域で魚を獲るべからず。この法を犯した者は神に裁かれ,脳味噌を吸取られ,血液を飲まれ,腸を引きちぎられ,腰で分断されるという恐ろしい死に方をするであろう。」といったことだそうでありますから,私見ながら,斯様な石碑は,あちこちに置かれていたのかも知れません。王国の都はこの辺りにあったと想像する向きもあるようですが,とても確証とは言えますまい。石碑の記述にはサンスクリット語ではなく古スンダ語が用いられていますから,遅くともこの頃にはタルマ国時代のインド色が消え失せ,王国はスンダ人によるスンダ国となっていたと思われます[59]。   

   その頃,中部ジャワではシャイレンドラ王国やサンジャヤ王国が栄え,壮大なボロブドゥール寺院やプランバナン寺院が造られましたが,スンダ王国はヒンヅー教を奉じてはいたものの,都をあちこちに移していましたし,歴史を飾る記念物を残し得るほど豊かでなかったと考えられます。   

   

西ジャワに遺るヒンヅー寺院跡   

   西ジャワにあって唯一名の知れたヒンヅー寺院遺跡は,ガルー(Garut)[60]郊外レレス村にある小さな湖沼,バゲンディの畔にあるチャンディ・チャンクアン(Candi Cangkuang)[61]であって,発見されたのは1966年といいます。この湖水は近くに温泉もあって古くから観光地として親しまれ,大正時代にここを訪れられた徳川義親侯爵は可愛い子供たちによるアンクロン[62]の演奏を聞いた話などを「じゃがたら紀行」[63]に残されています。筆者自身も2度ここを訪ねましたが,雰囲気は今も昔と同じです。   

   チャンディは,サンパンと呼ばれる屋形船のような小船で渡った向うの岸辺に立っていて,高さ約10メートル,デザインは中部ジャワのプランバナンや東ジャワのシンガサーリのチャンディと同様にスメル(須弥山(しゅみせん))をモチーフした典型的なヒンヅー風のもので,無論,石材を積んで造られていました。プランバナンなどとは比較にならないほど小さなものではあっても,散乱して地中に埋もれていた部品を集めてジグソーパズルを解くように組立てるのは大変な難儀であったろうと思いながら近寄ってみましたが,壁面に中部ジャワや東ジャワのチャンディにあるような精細な彫刻がなく,ヒンヅー寺院の龕の入口梁の上に必ずあるカーラ[64] の面もありません。龕を覗いてみると高さ1メートルにも足りない小さな石像あり,元々荒削りであったのか風化のためか顔貌が判然としませんが,胡座した下部正面に牛の頭が見えましたから,ナンディに乗ったシヴァ神の像であろうと思われました。御像は腰の部分が欠落して繋いでありますから,古いものであろうとは思われますが,空間の広さに似つかわしくなく,果してこれがチャンディの建てられたときに祀られたものかどうか聊かの疑念が湧きました。(実はこの記録は2000年2月に訪れたときのものですが,記憶に間違いなければ,それより10年ほど前に最初に見たときには,龕の中は空っぽであったように思います。)   

   

チャンディ・チャンクアン。人物は旧友梶原莞爾教授。2000年2月, 筆者撮影。

   

チャンディ・チャンクアンのシヴァ像。2000年2月,筆者撮影。周りに散らばっているのは参詣者の志の紙幣。

   

   そんな有様で,何故かこのチャンディでは,場所がどこであれ古い社寺仏閣の醸す厳(おごそ)かさといったものが全然感ぜられませんでした。更に不思議なのは,観光名所になら必ずあるといってよい縁起を書いた説明板のなかったことで,帰ってから手許の書物などを調べてもこのチャンディに関する詳しい解説が全く見つかりませんでした。   

   巷間の噂として聞いたところによれば,元々発見されたのは8世紀のものと見られる4.7メートル四方の礎石たけ,建物は現代の誰かがイメージして拵えたとかで,考古学者の研究対象にならないのは当然のことでありました。あとで気付いたことですが,復元されたチャンディのデザインは,何故か中部ジャワにある仏教寺院,ボロブドゥールの近くにあるチャンディ・パウォンにそっくりでした。ただし,後日見た本[65]によると元の石材の多くが近くのイスラム墓地の墓石として再使用されていたそうですから,チャンディらしい建造物があったことは間違いありますまい。   

   チャンディの遺構は,これと別にバンドン東方30km,チチャレンカ近くでも見つかっていると聞き,最近訪ねてみました。発掘現場はボジョンムンジェという小村にあって,案内してくれたのは,2002年に偶然に発見されて以来,調査をひとりで手掛けているというバンテン出身の好事家のM氏,柵で囲われた1000平米ほどの土地の一角に約6メートル四方の土台あり,別の一角と作業小屋には,発掘された数百個の石のブロックが乱雑に集められていました。風化が激しくて不明瞭ながらブロックの多くには色んな彫刻が施されていましたし,恐らく塔の宝珠であったと思われる立方体の上に球が載った形の石もありました。小さなナンディの像もあったが,ここでは管理ができないのでバンテンの博物館に運ばれた由,M氏は行政当局がなかなか援助をくれないと嘆かれていました。   

   

チチャレンカ郊外ボジョンムンジェ村で発見された古代チャンディの遺構(上)と集積された石材の一部(下)。2009年1月, 筆者撮影。

   

   チチャレンカの辺りといえば西暦516年にマニクマヤがタルマナガラ王国から岐れて建てたケンダン王国が1世紀弱の期間所在したところの筈ですが,このチャンディはその頃に建てられたものでしょうか。もしそうであるなら数ある中部ジャワのチャンディと比べても相当に古いものと申せましょう。調べてみると,この遺構は推定7~8世紀のものであろうとの記事がありました[66]。   

   

ブバトの悲劇   

   前述のように,スンダ王国の都は14世紀になって,1333年にカワリ(Kawali)に移りましたが,1357年,スンダの人々の間で「ブバトの悲劇」と伝えられる大事件がありました。当時,ジャワでは有名なマジャパヒト王国がハヤム・ウルク王(Hayam Wuruk,即位名:Rajasanegara,1350-89)のもと,宰相ガジャ・マダ(称号,マハ・パティ・マダ)の働きもあって最盛期を迎え,東ジャワ,中部ジャワのほか,カリマンタン(ボルネオ島),スマトラへも版図を拡大する勢いにありました。

   その頃,未だ独身で然るべき王妃候補を探していたハヤム・ウルクは,絶世の美女と謳われたスンダの王女,ディア・ピタロカ・チトゥレスミの肖像画を,それを描かせるためにスンダに派遣していたスンギン・プラブアナカラという絵師から受取ると,描かれた姿に一目惚れし,使者をスンダに遣わして求婚の意を伝えました。スンダ側はこの申入れ自体は大いに歓迎しましたが,マジャパヒトで婚礼の式典を行いたいというハヤム・ウルク側の希望が,花嫁の側に花婿が赴くという当時の慣習[67]に反することから,王族や宮廷内に異論がありました。しかし,最終的にはマハラジャ・リンガブアナ王がそれでも構わないといい,彼はドゥウィ・ララ・リンシン王妃,ディア・ピタロカほかの家族,それに大臣と若干の近衛兵を伴って東ジャワのマジャパヒトに向けて旅立つ準備を整え,200隻の船に数多の小舟を加えた合計1000隻の大船団の艤装を行いました。出帆の際に青い海水が赤く染まるという不吉な前兆を見たものの,一行は航海に出て,10日後にマジャパヒト郊外ブランタス河畔のブバト(Bubat)に着きました。   そのとき,ジャワ島および周辺全域征服の野望[68]を持ち,唯一の独立国であったスンダ王国を潰したい野望を秘めていたガジャ・マダは,ブバトまで会いに出向くというハヤム・ウルク王を制して,スンダ側に,ディア・ピタロカは王妃に迎えられるのではなく王への貢(みつぎ)であって,スンダはマジャパヒトの属国になるべしと告げました。   

   ハヤム・ウルクの真意を確かめるすべなく,リンガブアナ王は,「恥辱を受けるよりはサトリア(武士)[69]として戦うべし」と決意し,王女と王妃たちには,国に帰るように告げましたが,彼女らはそこに留まると言いました。戦が始まると,スンダ側は,多勢のガジャ・マダ軍に対して無勢ながら善戦,就中,優れた戦士でもあったリンガブアナ王は多数の敵を斃しましたが,結局は以下全員がブバトの野に討死しました。王女と王妃はその惨状を見て自ら命を絶ち,同行していた第二王妃も大臣の妻たちもその後を追ったといいます[70]。   

   ハヤム・ウルクはディア・ピタロカとの結婚を本心で欲し,ジャワ島東西の2つの国の間に親戚関係を結ぶことを願っていたのでしょう。ガジャ・マダの姦計に漸く気付いた彼は,戦場に婚約者の遺体を見て,それに倒れ込み,「間もなく貴女の傍に行くから,そこで一緒になりましょう」と誓いました。ハヤム・ウルクは,結婚式の立会のために招いていたバリ王国の大使をスンダに派遣して,王の留守を預かっていた王弟で大臣のヒアン・ブニソラ・スラディパティに謝罪の意を伝えました。ハヤム・ウルクは精気を失い,死者のための葬礼のあと間もなく,世を去りました。王の葬儀が1ヶ月と7日に亙って,色んな舞踊を盛って盛大に行われました。そのあと,王の叔父たちに責められたガジャ・マダは瞑想に入り,忽然と蒸発するように姿を消しました。

   

ブバト戦争についての現代画家のイメージ。インドネシア・バンドンMr. Gilang Kencono Nugroho - Kotakita Studio の好意を受け, http://browse.deviantart.com/?qh=&section=&global=1&q=bubat より転載。左図の人物はガジャ・マダ,右上図のそれはディア・ピタロカとハヤム・ウルク。ボックスが敢えて空白にしてあるのは,読者に想像に委ねたいとの作者の意図である由。

   

   以上は,事件の凡そ200年後の1550年頃に書かれたと目され,後世にバリで発見された,キドゥン・スンダ(Kidung Sunda,スンダの詩)[71]という作者不明の詩歌の要約に,それに書かれていない人名や若干の歴史背景を,「パララトン(Pararaton,Book of Kings)」[72],「チャリタ・パラヒャンガン」といった書物にある記述を参照して補足したものですが,キドゥン・スンダ自身は元々文学作品でありましたから,史実と異なるところも見受けられます。実際に,年代記として最も権威あるとされる「デサワルナーナ」[73]によれば,ハヤム・ウルクは1389年まで生存しましたし,ガジャ・マダは1364年にジャワ島東部のプロボリンゴで死亡したことが,著者によって確認されています。話の細部については,様々な異説があるようです[74]。事件後,ガジャ・マダは自ら自適に入ったとも,厳しく解任されて僻地に送られたとも伝えられます。事件の原因が,ガジャ・マダが単に王の意向を誤解してスンダ側に対処したことにあるとの説もあるそうですが,これは余りにも彼に贔屓目な見方でありましょう。ガジャ・マダの死因に関して,ディア・ピタロカも戦闘に参加し,彼女がタルマナガラ国以来受継がれたクジャン(ナイフ)によって負わせた傷が死に至らしめたという説もあるそうです。   

   キドゥン・スンダには,スンダの都が書かれていませんが,間違いなくカワリであって,一行はチダンドゥイ川を下ったと思われます。ジャワ島南岸の河口から東ジャワ北岸のブランタス河畔まで,恐らく時計回りで1000キロ余の航程,船は「元寇」[75]の際に伝わった複数帆のジャンクであったといいますから,1日100キロ程度の航海は可能であったと考えられましょう。[75a]   

   

マジャパヒトの都トゥロウラン   

   マジャパヒトの都の跡は東ジャワのスラバヤの南方40km,モジョクルト近くの町,現在のトゥロウラン(Trowulan)の郊外にありました。東西,南北各5キロメートルほどの地域にはヒンヅー様式の立派なグルバン(門)やチャンディ(寺院),沐浴場などがあり,目測で400メートル×200メートルもあろうかという巨大な貯水池は今も水を湛えていました[76]。クラトン(王宮)の遺構と目される建物は今も発掘中で,筆者が訪れた時には黙想のための部屋と考えられる箇所の辺りで作業が行われていました。僅か畳2~3枚程度の独房のような小部屋,1000平米を超える建物全体に不釣合いな狭さですが,瞑想にはこのほうが良いのかと得心し,ブバトの大殺戮の後にここに蹲ったであろうハヤム・ウルク王の姿を思い浮かべました。   

   この古都で一つ印象的であったのは,チャンディを含む建造物の多くに,また貯水池の内壁にも石材ではなくて,37cm×21cm×5cm[77]の正確な赤レンガが使われていたことで,それは当時の人々が高い窯業技術と工業標準の如きものを持っていたことの証しでもありましょう。事実,明(みん)の時代に鄭和の大航海に随行した馬歡の編纂したした「瀛涯勝覧(1416)」には,同時代のジャワ(マジャパヒト)では斤秤法についての記述[78]がありますが,長さについても標準が確立していたことは疑いありますまい。後日,アルフレッ・ラッセル・ウォーレスの書[79]を読み返していたら,そこにも筆者のものと同樣の観察があり,レンガが目地もモルタルやセメントが見えないほど緻密に積まれていることが指摘されていました。   

   現存する建造物の中,1980年代に修復されたバジャン・ラトゥ門(Gerbang Bajang Ratu)は特に状態が良く,デザイン的にはヒンヅー寺院を連想させましたが,堂屋壁面に彫られた繊細なレリーフは,ジャワの多くの古代寺院に見られるような所謂「説話彫刻」ではなく,単なる装飾のように見て取れました。筆者の見た限り,人造のレンガが建築材料として斯くもふんだんに使われていたのは此処(トゥロウラン)だけで,同時代の他所の建造物には伝統的な石材が用いられていました。   

   

トゥロウラン郊外に立つマジャパヒト期のチャンディ・パジャン・ラトゥ。全体像(左)と彫刻のクローズアップ。2006年9月,筆者撮影。

   

(左)マジャパヒトの王宮跡と目される場所の発掘現場。(右)建物の中, 瞑想室と思われる小室。トロウランにて, 2006年9月, 筆者撮影。

   

   トゥロウラン博物館には膨大な数の石像,レリーフ,陶器,金属製品ほかの工芸品が収蔵されていました。その中で目にしたガジャ・マダの頭部を模ったといわれるテラコッタの塑像,「如何にも佞奸らしい顔付だな。」と思えたのは,スンダの地に住んでスンダに心を寄せる筆者の偏見のせいでしょうか。出迎えてくれた館長に親切な案内を受けたあと,ブバトの悲劇(・・)のあった場所を尋ねると,彼は「ああ,ブバトの事件ね。」と筆者の用語を訂正し,地図にマークを付けてくれました。然り,西ジャワのスンダ人にとって悲劇であった出来事も,東ジャワおよび中部ジャワのジャワ人にとっては,栄光あるマジャパヒトの歴史の中の些細な事件に過ぎなかったのでありましょう。ブバトの野は博物館から2キロほど離れたところにあって古戦場を想わせる風情はなく,広々とした畑の中に平和裡に農家が散在し,辺りには灼熱の太陽の下で玉蜀黍や野菜が育っていました。ブバトについて,前出の「デサワルナーナ」には,高い建物が立っていて,その中央の広場では祭儀や格闘競技などが行われていたことが書かれていますが,ブバトの戦のことには触れられていません。   

   

ガジャ・マダを模ったとされるテラコッタ像(トゥロウラン博物館所蔵)。写真の転載元:Dinas Purbakala. Claire Holt papers, #14-27-2648.  Division of Rare and Manuscript Collections, Cornell University Library.

   

スンダとジャワ   

   さて,上述の何箇所かで,くどいように,西ジャワのスンダ人を中部および東ジャワのジャワ人と区別しました。同じジャワ島に住む人なら全てジャワ人でないかと訝られた向きもあろうかと思いますが,筆者自身も初めてバンドン(西ジャワ)に住んで間もなくの頃,家に遊びに来た女学生から「両親はジャワに出掛けた。」と聞いて面食らったことを覚えています。確かにスンダ人とジャワ人も血統的には同じ(南方モンゴロイド系)でありながら,両者の間には太古の昔から交流なく,上述のピレスの書にあるように,16世紀になってもヨーロッパ人がスンダ人とジャワ人を区別し,スンダとジャワは地理的にも別の島であると誤認していたほどでしたが,オランダが島内に一体的治世を布いて230年,インドネシア共和国として独立して以来60年以上経った今も,スンダの人々は自分達はスンダ人であって西ジャワは自分たちのテリトリーであると主張し,中部ジャワおよび東ジャワのジャワ人とは異なると言って憚りません。その意識の強さは,グレート・ブリテン島の北部に住むスコットランド人の,種族を異にする中部および南部のイングランド人[80]に対するもの以上かもしれません。   

   

ジャワ島の描写(Descripcao da ilha de Iaoa) マドリッド 1615? ポルトガル国立デジタル図書館の許可を得て<http://purl.pt/1442/1/P1.html>より転載(National Library of Portugal, call number C. C. 154 P1)。左が北であることに注意。西ジャワと中央ジャワの間に水路の境界が描かれている。島の北岸(ジャワ海に面する側)はある程度詳しく描かれているが, 南岸(インド洋側)は地形も全く分っていなかったと思われる。西ジャワ中央部にDaioの名の王城の印は,トメ・ピレスが1512年に記したダヨ(パジャジャランの都パクアン)。中部ジャワ内陸西端にMataromという王城が描かれているが, 新マタラム王国の本拠は中部ジャワ東南部にあったから位置は明らかに誤っている。地図に1615?の年号があるが,新マタラム成立が1584年, パジャジャラン‐ポルトガル友情条約締結が1522年であったこと,1527年に改名のジャヤカルタ(旧スンダクラパ,1619年以降バタフィア)が描かれていないことを考え併せると, 原図は1512-1627年の間, 恐らく上記条約締結の頃に描かれたものと推定される(筆者)。

   

   スンダ人とジャワ人の相互の評を筆者に簡潔にまとめよと言われれば,「スンダ人はジャワ人を『お高くとまって,小狡い』と言う,ジャワ人はスンダ人を『見栄っ張りで,気が効かない』と言う」,と答えることになりましょうが,こういった感情の裏には,少なくともスンダ人側には,上述のマジャパヒト国宰相ガジャ・マダの姦計による「ブバトの悲劇」の記憶が残っているように思えてなりません。事実,恋愛結婚が今日のように当り前になる以前,スンダには「娘をジャワ男に嫁がせるな」という掟みたいなものがあったそうです。トメ・ピレスはスンダ人とジャオア人(ジャワ人)について,「かれら(スンダ人)はジャオア人と非常に張り合い,ジャオア人はかれらと非常に張り合う。スンダ人はジャオア人より勇敢であるという話である。彼らは善良で誠実な人間であり,ジャオア人は平然として人を裏切る。」と記しています。これを教えてやったボゴールやバンドンの友達は,我が意を得たりとばかりに歓喜しました。他方,ジャワ出身の連中が「偏見だ」というて眉を顰めたのは申すまでもありますまい。   

   インドネシアの独立後,政府が大統領令でもって「国家英雄(Pahlawan Nasional =(英)National Heroes)」として過去から現代までの偉人多数を認定したとき,ガジャ・マダは当然のようにその中に選ばれ,その名は戦後最初にジョクジャカルタに設立された大学や,ジャカルタをはじめあちこちの都市の通の名に冠せられました。しかし,ボゴールやバンドンに「ガジャ・マダ通」はありません。ガジャ・マダはスンダでは全く人気がなく,むしろ嫌われ者でありますから,スンダでは彼の功業について余り語らないほうが宜しい。「大阪で家康を持上げるな」というのと同じです。昔の偉人というなら,スンダでは,たとえお国のお墨付きがなくとも,プラブ・シリワンギの方が圧倒的に支持されています。 

   では,バンタムやスンダクラパを含む沿岸の港町を悉く占領し,パジャジャラン国を滅亡に導いたファタヒラーについてのスンダ人の感情は如何でしょう。とある機会に,バンテン・ラマ(古バンテンの意,旧名:バンタム)の遺跡の発掘を見学に行ったときのこと,作業に携っていた人のひとりが,雑談の中で「インドネシアではイスラム化は平和裡に行われた。」と言うので,「確かに連中は軍船を連ねてやって来たのでなかったが,イスラムの伝統は『左手にコーラン,右手に剣』ではなかったの。例えばここバンテン・ラマを,ファタヒラーは本当にコーランだけで手に入れたの?」と問いましたが,明解な答は返ってきませんでした。物心ついた頃からイスラム教徒であった彼女には,歴史家であるが故に,却ってイスラム教の普及に貢献した人を論評するのが難しいのかと忖度しました。因みに,普通の人は,ファタヒラーはファタヒラー,シリワンギはシリワンギと簡単に割切っているようです。   

   別の機会のことですが,ジャワ島全土でイスラム化以前の古文書が何故保存されなかったのか,寺院などの遺跡も何故荒れるに任せて等閑にされたのかといった疑問を友人達に呈したとき,あまり熱心なイスラム教徒でないひとりは,「その頃やってきたモスレムの連中は商人が主であったから文化的なことに関心が薄かったのであろう。事実,彼等は信仰の場であるムスジット(モスク)すら貧弱なものしか造らなかった。」と解きました。信仰に篤い友人は肯(がえん)じ得ない風でしたが,実のところ,中部ジャワのドゥマックに建てられたモスクはジャワ風の寄棟の屋根を2重に被せた木造建築で,無論のことアーチ型の入口や窓もない,近くの町クドゥスのモスクのミナレット(礼拝時間告知のためのアザーンを発する塔)に至っては,ヒンヅー時代の煉瓦積の望楼を転用したものと見られています。[81] [82]。   

   イスラム教徒であっても古(いにしえ)の歴史に目を向けて文書に記録し,一方でワヤンなどの伝統芸術を本格的に育むようになったのは,オランダの統治が進んで,中部ジャワで新マタラム王朝や西ジャワではチレボンのスルタン家が安定した18世紀半ば以降のことであって,少なくとも新マタラム朝はヒンズー・仏教時代の伝統をも色濃く残しています。念のためでありますが,イスラム社会に親しみのない旅行者などの方々は,インドネシアでもイスラム談義をやられないほうが宜しかろうと思います。   

   

イスタナ・バトゥトゥリス   

   もう一度,バトゥトゥリスに戻りましょう。昔のスケッチを見ると,石碑のある区画は柵で囲われ,石碑には簡単な屋根が掛けられているばかりでした。今はレンガ造,漆喰壁の建物になっていますが,建物が小さ過ぎて,幾つかの石は外にはみ出ています。当局から鍵を渡されて施設の面倒をみているのはお隣の初老の御婦人ですが,彼女は祖父の時代から管理を任されているといい,それを大変な誇りにしています。植物園内の墓守の人たちもそうですが,彼女の家族にとってもパジャジャラン王国は心の古里であるに相違ありません。   

   タマリンド並木のある道路の向う側には,イスタナ・バトゥトゥリス(バトゥトゥリス宮殿)と呼ばれる瀟洒な板葺きの建物が緑の芝生の上に立っていますが,これはバトゥトゥリスに魅せられた故スカルノ大統領によって建てられました[83]。迷信好きといっては叱られましょうが,スンダの人々の間ではこの石碑には神秘的な力があると今も信じられています。嘗てスカルノ家の人に知遇を得ながら聞き漏らしましたが,巷間,ジャワ人のスカルノもその神通力にあやかりたかったと伝えられています。イスタナ・バトゥトゥリスは,今はスカルノ家に払い下げられて公開されていませんが,建物は通りからフェンス越しに見られます。   

   

ボゴール植物園内にある石碑石像   

   おまけのような話を加えます。ボゴール植物園へは近くに住んでいたこともあって散歩がてらに幾度も行きましたが,最近訪れたときに,面白いもののあることを初めて知りました。正門を入って間もなくの右手に,奇妙な文字を彫った石碑とナンディの像,ヴィシュヌの像があったのです。インドネシア語の説明板のさわりの部分を覚束ない語学力で読んでみると,碑文には古スンダ語で「遠からぬところに池あり」と書かれていて,確かに園内の近くには小さな湖水があります。さては古い時代のプラサスティかと思いきや,説明全体を良く読むと,「像を運んできて古スンダ語の石碑を建てたのは,19世紀のフリーデリヒ博士(Dr. Frideriech),一説には植物園を開いたラインワルト博士かも知れない。」とあって,建てた人のユーモアに感じ入る一方で,多少がっかりもしました。しかし,案内板には像の見つかったのはボゴール県チアプスのコタバトゥの古池であったとあり,この像はパジャジャラン時代,あるいは遥かに古いタルマナガラ時代のものかと想像しましたが,由緒を記した書物は未だ知りません。ボゴール市域の外れ,植物園から西南に数キロのコタバトゥを訪ねると池は競泳用プールほどの大きさの長方形の養魚池になって,釣り人が糸を垂れていました。地元の古老によると,19世紀にオランダ人が調査に来たと伝えられ,近年にもオランダ人らが訪ねてきたが,発掘は全くなされていないとのことでした。     

   

ボゴール植物園にある19世紀の石碑とナンディおよびヴィシュヌの像。2006年2月筆者撮影。

   

   ボゴールの名所といえば植物園が余りにも有名で,インドネシア国内はもとより外国からも大勢のひとが年中見学に訪れます。しかし,園内にあるパジャジャラン王妃の墓地にお参りをしたり,またフリーデリヒ博士またはラインワルト博士が運んできた石像を見にくる人は殆ど見掛けません。市内にはバトゥトゥリスもあれば,郊外のチアンペア村に行けばタルマ国時代の石碑もあります。県か市の当局がもう少し幅広く観光に力を入れても良いと思うのですが,観光課のひと自らが,幾十年か前からクンチャナ公園に置かれてあったタルマ国時代の石碑のレプリカを破壊撤去してしまったくらいのお役所ですから,当分は絶望的でありましょう。ボゴール市の発祥記念日はパジャジャラン王国の誕生した日(1482年5月3日)に因んで定められていますが,お祝いの日の市庁舎の垂幕などに,由来が書かれているのを見たことはありません。   

   

ボゴール植物園沿革   

   本章の主題から離れますが,ボゴール植物園の沿革に触れておきましょう。この植物園は古くから公衆に開放されてきましたが,設立の趣旨は,珍しい植物を集めて人々に見せるためではなく,植物研究にありました。ナポレオン戦争後に暫時英国の占領下にあった東インドがオランダに返還された翌年の1816年,国王ウィレム1世は,プロシャ生れでハルダーワイク大学[84]出身,後年レイデン大学教授となった植物学者ラインワルト博士(Casper Georg Carl Reinwaldt)を,新総督ファン・カペレン男爵(Baron van der Capellen)の顧問として派遣しました。オランダ人はVOCの時代から各種香料植物のほかアラビア原産のコーヒーの栽培などを始めていて,地味が肥沃で水が豊富である上に,人口の多いジャワが栽培農業に適することを知り[85],それが基幹産業になり得ることを国王が予見されたからでありました。ラインワルトはジャワに到着するや否や農業研究のための総合施設を作ることを提案,翌1917年には総督のエステートの一角,47ヘクタールの土地に植物園を設けて自身が初代園長に就きました。 

   余談ながら,書物などにラインワルトを態(わざ)とらしくドイツ人と註記する向きもありますが,筆者は余り意味がないと思います。19世紀(1871年1月18日のドイツ帝国成立まで)のドイツは未だ近代国家の体をなしていませんでしたから,日本に来たシーボルトにしても然り,海外に志あるドイツ人はオランダに行ってチャンスを求めました。アムステルダムには博物館学および文化遺産学を教える「ラインワルト・アカデミー」,レイデンにはシーボルトの遺品を集めた「シーボルトハウス(Sieboldhuis),別名「日本博物館」があって,オランダ人は彼らを同国人と見做しています。   

   初期に植物園の発展に尽した人の名前を挙げるとすれば,先ずは1830年から1869までの長きに亙って庭園師を勤めたテイスマン(Johanes Elias Teysmann)でありましょう[86]。現在インドネシアのみならず東南アジア一帯で重要な栽培作物となっているアブラ椰子(Elaeis guineensis Arec)は,彼が1848年に西アフリカから取寄せた種に由来します。われわれが日常お陰を被っているマーガリンや石鹸の原料のパーム油は,テイスマンが蒔いて育てた樹木の子孫から得られたものかも知れません。また,熱帯地方何処でも当り前の食材となって,米の不足を補うのにも役立っているキャッサバ(Manihot esculena Euph)は,彼がバタム島で見付けてきたもので,以前は生垣などに植えられているに過ぎなかったそうです。インドネシアでシンコン(singkong)またはウビ・カユ(ubi kayu)と呼ばれる長さ20~30センチメートルの紡錘状の根菜の中は真白の粘っこい澱粉質で,摺り潰してケーキのように焼いて食べるのが一般的ですが,西ジャワでは甘く発酵させたもの,スンダ語でプユン(peuyeun),インドネシア語でタぺ(tape)と呼ばれる食品もあります。雨季に入った頃,樹の頂きを真紅に彩るフランボヤン(火炎樹,Delonix regis Leg)はインドネシアの何処でも見られますが,これもテイスマンがシンガポールから移植したものと言われています。   

   マラリア特効薬のキニーネを産するチンチョーナ(規那の木)を導入,チボダス高地植物園(分園,1882年創立)で育てて,東インドをキニーネの世界一の生産国(シェアー75%)に導いたのもテイスマンでした。プランテーションは,キニーネの合成が可能な今も,バンドン盆地に存在します。   

   17世紀以来ヨーロッパで需要が増して,アヘン戦争の遠因ともなった茶の生産がジャワで始まったのもその頃でした。夙に1824年,日本に派遣していたシーボルトを通じて入手した日本の茶の種(シナ種,Camellia sinensis)は気候風土に合わずに上手く生育しませんでしたが,1878年に輸入したアッサム種(Camellia assamica)はこの地にも適し,西ジャワ一帯にプランテーションが開かれました。茶の生産はグヌン・マス,チヴィディ,スカブミなどの茶園で今も盛んに行われています。   

   

西ジャワ・パングランゴ山西斜面に広がるグヌン・マス茶園の茶畑。茶の木はアッサム種。日本の茶の木(シナ種)より茎が逞しく葉が大きい。2006年2月筆者撮影。

   

   テイスマンはまた,助手のハスカリ(Justus Karl Hassakari)と協力して園内の植物の整理と再配置を行いました。1861年にこの園を訪れた英国の生物学者ウォーレス(Alfred Russel Wallaece)は自書「マレー列島[87]」の中に「同園に熱帯植物,特にマレー由来のものが豊富にあるのに疑いはないが,レイアウトに熟練を欠き,園内全体の秩序を保つ人員も不足している。」と書いていますが,時恰もテイスマンらが整備に腐心している最中のことでありました。ハスカリは植物園に図書館と醋葉館をつくることを提案,それらは1842年と1844年に落成しました。   

   バイテンゾルフ植物園を世界一の熱帯植物研究センターに育て上げたのは1880年に園長に就任したメルヒオー・トゥロイブ博士で,近代的研究設備の充実と基礎研究の推進を図り,甘蔗やコーヒー樹を含む栽培植物の病害の原因と対策の研究にも努めました。   

   ブラジル原産のゴム樹(Hevea Brasiliensis)の種子が英国人ウィッカムによって持出され,ロンドンのキューガーデン(植物園)で発芽した苗木がセイロン,シンガポール,ジャワへ搬送された故事は何冊もの本に書かれていますが[88],1876年に届いた最初の苗木はインドネシアを世界有数の天然ゴム産出国となす祖先となりました。   

   

ボゴール植物園にあるインドネシアで最高齢のゴム樹(Hevea Brasiliensis)。1887年,最初にアジアに届いた苗木の第2世代。2000年10月, 筆者撮影。

   

   古来民芸品や小道具に使われていたグッタパーチャ[89]が電信の発明の後,海底ケーブルの被覆に最適と分り,それを産する樹木[90]が東南アジア各地のジャングルで伐採されて資源の枯渇が危ぶまれたとき,ウィレム・ブルク博士(Dr. Wilem Burck)によってバイテンゾルフで育苗,栽培の研究が行われ,1885年にスカブミ県チペティルに最初のプランテーションが開かれて,ジャワは世界の需要の殆どを賄うに至りました。同時に確立されたグッタパーチャの抽出精製プロセスは,100年後に近代高分子化学を人並みに学んだ筆者を唸らせたほど完璧なものでした。ブルク博士は高分子の概念が1925-1930年に確立される半世紀も前に,その特性を把握されていたに相違ないと筆者は信じています。ゴルフボールが,初期の堅木を削ったものや羽毛を革で包んだものから,樹脂ボール,更には糸ゴムの球を樹脂で覆ったものに進化したのも天然唯一の熱可塑性樹脂であるグッタパーチャのお陰でした。グッタパーチャは耐化学性天然樹脂でもあって,同樹脂製フッ化水素酸容器は合成ポリオレフィンが普及する1970年代半ばまで世界の何処の化学実験室でも見られました。残念ながら,合成高分子が発達した今日,グッタパーチャの利用は殆ど歯科材料に限られています。   

   

グッタパーチャ製民芸品の逸品(ブギス船)。支持脚に至るまで全てグッタパーチャで作られ, 天然顔料で着色されている。筆者が東カリマンタン, サマリンダの美術店で入手し, ボゴール・ゴム研究所に保存。2007年11月, 筆者撮影。

   

   砂糖もまたジャワの重要なプランテーション作物でしたが,バイテンゾルフでは研究に手が廻らず,1880年に東ジャワ・パスルアンに砂糖研究所が設立されました。そこでは病害に強く生産性の高い画期的な新種が生み出され,ジャワをしてキューバを凌ぐ世界一の砂糖生産地に至らしめました[91]。   

   メルヒオール・トゥロイブ博士はまた招聘研究員制度を創始し,1884年にはビジターズ・ラボラトリー(外来者用研究室)を発足させました。植物園の広さは彼の在任中の1892年に60ヘクタールに,後の1927年に現在の87ヘクタールに拡張されました。彼を記念して1914年に建設された新研究棟は,現在も正面ファサードに「トゥロイブ・ラボラトリウム」の名を残し,現役の研究施設として使われています。現在のボゴール農科大学をはじめ,ボゴールに存在する十指に余る生物学,農学,林学関係の研究機関は植物園を核として形成されました。当然ながら,ボゴール植物園がインドネシアの熱帯植物研究センターであることは今も変りません。   

   

   

   

 

第4章註

[1] R. Ng. Poerbatjaraka, De Batoe-Toelis bij Buitenzorg, Albrecht & Co., Batavia 1920。詳細は後述。

[2] 解読は,1853年に R. H. Th. Friederich によって初めて,以後 K. F. Holle (1869),C. M. Pleyte (1911),Poerbatjaraka (1921)らによっても行われた。

[3] 和訳の基本とした Prof. Poerbatjaraka の解読結果(オランダ語訳)には,細部に関して異論があった。例えば,「山々への車両の通行を可能にした」の部分については,「山々を記念する石を置いた」,「道路を石で固めた」,「山の形の庭園」などの解釈がある (A. Heuken SJ, The earliest Portuguese sources for the history of Jakata, Cipta Loka Caraka, 2002, Hasan Djafar, “Ciliwung zama prasejarah” [In, Wartawan Kompas, Ekspedisi Ciliwung, Penerbit Buku Kompas, 2009],ほか)。また,単語の羅列で逆順に表現されたサカ暦の年号は,以前には,5,5,2,1と読取られたが,3番目の文字は,実は風化を受けているために明瞭でなく.「4」であるとする説が受入れられている。それに従えば年号はサカ暦1455年(西暦1533年)であり,「チャリタ・パラヒャンガン」に書かれた史実に整合する。 Moh. Amir Sutaarga, Prabu Siliwangi: Atau Ratu Purana Prebu Guru Dewataprana Sri Baduga Maharaja Taru Haji Di Pakwan Pajajaran 1474‑ 1513, P.T. Duta Rakjat, Bandung 1965, Herwig Zahorka, The Sunda kingdoms of West Java: from Tarumanagara to Pakuan Pajajaran with the royal center of Bogor , Yayasan Cipta Loka Caraka, 2007。本文中の訳は,スンダ語およびオランダ語のテキストを参照検討してくれたバンドン工科大学 Prof. Iratius Radiamn の助言による。

[4] Atja, Carita Parahiyangan: Naskah Titilar Karuhun Urang Sunda, Jajasan Kebudajaan Nusalarang, Bandung 1968。バンドンの友人を通じて著者よりテキストを入手。同じテキス英語訳は後にインターネットにも掲載された。

http://sundanesecorner.org/2010/12/08/the‑story‑of‑parahiyangan/

[5] 石井米雄編「インドネシアの事典」,童夢出版 1991 の「パジャジャランおうこく」の項には,「スンダやジャワの伝承に記され,またボゴールのバトゥトゥリス(古代ジャワ文字,スンダ語)によれば1333年にラトゥ・デワタがここに都を定めた。」とあるが,この説明は正確とは思われない。第一に年号の1333年は過去に議論のあったところだが,現在は1533年が正しいと見做されている。第二に,その年号はパクアン・パジャジャランンの建国年ではなく,碑の建立された年と解釈される。第三に,この王は一般にスリ・バドゥガ・マハラジャと称せられる(ラトゥ・デワタ(Ratu Dewata)王は,常識的にはパクアン第3代の王(在位1535-1543)の名である)。

[6] Atja, Edi S Ekadjati, Pustaka rajya rajya i bhumi Nusantara, suntingan naskah dan terjemahan I 1, Departemen Pendidikan dan Kebudayaan, 1987/ Saleh Danasasmita, Sejarah Bogor, Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983 に依る。

[7] 首都のあった場所は,筆者の仮説では「チアルトゥンのプラサスティ」や「クブン・コピのプラサスティ」のあるチアンペア村チアルトゥン地区と考えられる(第3章参照)。

[8] ガルーの人々は「水の民(orang air)」,スンダの人々は「山の民(orang gunung)」であって,例えば,死者を葬るのに,前者は水葬を,後者は土葬を好んだし,前者には「鰐伝説」が,後者には「虎伝説」がある(Saleh Danasasmita,Sejarah Bogor, Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983)。

[9] 原文「新拖國:新拖國有港,水深六丈,舟車出入,兩岸皆民居。亦務耕種。架造屋宇,悉用木植,覆以椶櫚皮,藉以木板,障以籐篾。男女裸體,以布纏腰,剪髮僅留半寸。山產胡椒,粒小而重,勝於打板。地產東瓜,甘蔗,匏豆,茄菜。但地無正官。好行剽掠,番商罕至興販。」http://toyoshi.lit.nagoya-u.ac.jp/maruha/kanseki/zhufanzhi1.html. 原文では,藉は籍(文書の意),籐は藤であったが,異なる写本に基づくと思われる他の文献を参照して修正。

[10] 例えば,Hasan Djafar in, Wartawan Kompas, Ekspedisi Ciliwung, Penerbit Buku Kompas, 2009

[11] J. Noorduyn による英訳(Noorduyn, A. Teeuw, Three Old Sundanese Poems, KITLV Press 2007)から和訳:「次に我アグン山に至れり。此処はチ・ハリウンの源流にしてパクアンの聖域,神聖なるタラガ・ワルナの湖水なり。嗚呼,我が定め如何なるや。直進して父母を訪ねることなく,我が師たちのところに向ふべし。 . . . 。」

[12] Yakob Sumarjo, Khazanah pantun Sunda, Kelir, Bandung 2006 「このシリワンギ伝説の原典は,1853年に没した Raden Demang Cakradijayah に由来するが,原本はより古いものであったと考えられる。」とある。筆者が知る限り,スメダンに1675年の筆記の書が存在する(後述)。

[13] Moh. Amir Sutaarga, Prabu Siliwangi atau Ratu Purana Prebu Guru Dewataprana, Sri Baduga Maharaja Taru Haji di Pakwan Pajajaran, Pustaka Jaya, Jakarta 1984 実際の歴史では,シリワンギ(スリ・バドゥガ)は最初にカワリで即位,次にパクアンで王位に就いた(筆者註)。

[14] 現在のチレボン東北の当時の地名。マレー半島突端先のシンガポール島ではない。

[15] ワンギ(Wangi)は「馨る」の意。シリワンギ(Siliwangi)は,その大王を継ぐ意と言われている。リンガブアナ王(ワンギ王)のマジャパヒトでの戦死については後述。

[16] Carita Ratu Pakuan は 17世紀末-18世紀初頭,詩人Kai Raga によって Gunung Srimanganti(現在の ガルー,Garut)で作られたと伝えられる。これは Cariosan Prabu Siliwangi の続編との見方(Ann Kumar, John H. McGlynn, Illuminations: The Writing Traditions of Indonesia, Weatherhill 1996)があるが,舞台が異なるので,必ずしもそうであるとは言えまい(私見)。Saleh Danasasmita, Sejarah Bogor, Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983 では,旧都はガルー(Galuh)と註釈されているが,カワリ(Kawali)が正しいかも知れない。

[17] Ajip Rosidi, Mundinglaya di Kusumah, Penerbit Nuansa, Bandung 1956; Yakob Sumarjo, Simbol‑Simbol Artefak Budaya Sunda: Tafsir‑Tafsir Pantun Sunda, Kelir, Bandung 2003

[18] Andrew N. Weintraub, Ngahudang Carita Anu Baheula (To awaken an ancient story): an introduction to the stories of Pantun Sunda, in Southeast Asia Paper No. 34, University of Hawaii at Manoa 1991

[19] Amanda Clara, Cerita Rakyat Dari Sabang Sampai Merauke, Pustaka Widyatama (year-unknown)

[20] スラウィセサの生母は,年代記によれはケントゥリン・マニク・マヤン。序ながら,アンベットカシーには嫡子がなかった。スバンラランには3人の子があった(脚注6のDanasasmitaの書)。

[21] トメ ピレス(会田由,飯塚浩二,井沢実,泉靖一,岩生成一訳)「東方諸国記 (大航海時代叢書V)」,岩波書店 1966 (原著:Pires, Tome; Cortesao, Armando (ed),The Suma Oriental of Tome Pires and the Book of Francisco Rodriguez Volumes 1 and 2, Hakluyt Society, London, 1944)

[22] 正妻は(アンベットカシー,スバンララン,ケントゥリン)の3名(脚注6のDanasasmitaの書)。

[23] ジョアン・デ・バロス (生田滋,池上岑夫訳)「アジア史(2)」,岩波書店 1981 (原著:Joao de Barros, Asia de Joam de Barros [II], Lisbon 1953)

[24] 原題 Milione (イタリア語,ミリオン)。英訳に多く使われている Travels も素っ気なさ過ぎるが,日本で言慣わされている 「東方見聞録」 は余りにも身勝手な題名で,学校教育で採用されているのは不適切であると思われる(筆者私見)。

[25] 上述の「チャリオサン・プラブ・シリワンギ」では,(1)スバンラランは,大臣マンクブミの娘で,キ・グデン・タパは,彼女の兄,(2)シリワンギが争って得たのは シンガプーラ王の娘のラランタパということになっている。

[26] 脚注6

[27] Robert Wessing, “A change in the forest: myth and history in West Java”, Journal of Southeast Asian Studies, March 1, 1993。原典は示されていないが,ワワチャン・キアン・サンタン(Wawacan Prabu Kean Santang,プラブ・キアン・サンタンの詩)であろうと想像される。

[28] キアン・サンタンはニャイ・スバン・ラランを母とし,ワランスングサン(前出)は彼女の兄弟。

[29] Adolf Heuken SJ, Historical Sites of Jakarta, 6th Ed., Cipta Locka, Jakarta 2000

[30] リンスホーテン(岩生成一,渋沢元則,中村孝志訳)「東方案内記」,岩波書店 1968 (原著:Jan Huygen van Linshoten, Itinerario, voyage ofte schipvarert naer Oost Portugaels Indien, 1696, Amsterdam)

[31] パルン・アングサナ(Parung Angsana)は,現在のボゴール北郊のタナー・バル(Tanah Baru)。チパク(Cipaku)は,ボゴール市内に現在も同名で存在。道幅と距離は,後述の Winker の報告によれば,それぞれ,3m,2.5kmで,この距離は現在の地図に符合している。

[32] Saleh Danasasmita,Sejarah Bogor, Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983

[33] 英国オックスフォードシャーのマールボロー公爵家の居城,ブレナム・パレス(Blenheim Palace)を手本にしたと伝えられえるが,規模も豪華さも前者には遠く及ばない。(Demetrius Charles Boulger, “Bogor ―A Profile”, Asian Review Vol.51, 1955 (Google Books))

[34] 後述の「ルートゥン・カサルン伝説」,就中スタンフォード・ラッフルスの「ジャワ史」に収録されたヴァージョンでは,グラップ・ニャワンとキダン・パナンジャンは,ルートゥン・カサルン(ケンダン・ガルー第11代 Manisri,またはカランカムリヤン第9代 Dharmasakti,783-799)の息子ということになっている。スンダで信じられているように,これらの侍従は永遠の生命を持ち,600年後のパジャジャラン時代にも生きていたことになる。

[35] Jakob Sumardjo, Paham Kekuasaan Sunda 2008

[In, http://forumbebas.com/thread-22622.html]

[36] Ranggasutrasna (Raden Ngabei.), Paku Buwana IV (Sunan of Surakarta), Darusuprapta, Tim Penyadur, Centhini, Tambangraras -Amongraga Jilid1, Balai Pustaka, (1999)。「チェンティーニ物語」は,17世紀の前半に東ジャワ・グレシックのスナン・ギリ家の王宮がマタラムのスルタン・アグン・ハニョクロクスモの攻撃を受けたとき,難を逃れて旅に出た3兄妹(長男ジャイェンレスミ,次男ジャイェンサリ,長女ランチャンパプティ)および後に結婚した長男と長女の配偶者の物語で,彼らが巡ったジャワ島内各地の情景や出会った学者との会話などが克明に綴られている。1815年にソロの王宮で編纂された。全12巻。詳しくは,第6章附録:「ジャヤバヤ王の予言」を参照。

[37] 原典に基くという下記の同物語の抄訳書には,石の一つは「平らな石」とある。 Suwito Santoso, Kestity Pringgoharjono, The Centhini Story: The Javanese Journey of Life : Based on the Original Serat Centhini, Marshall Cavendish, 2006

[38] サラックは 1780-1938 の間に少なくとも5回噴火,未確認であるが 1699年にも噴火したと見られている。グデーは1747-1957年の間に少なくとも21回噴火した記録されている。(http://volcano.und.edu/)。それ以前のことは記録がないが,同じ程度の頻度で噴火があったと見なしてもよいであろう。

[39] 知事または地方長官の意。オランダ時代は世襲制であったが,その形態は日本の幕藩制度に倣ったといわれる(J. W. B. Money, Java or How to Manage a Colony (1861), Oxford University Press, Singapore 1985)。インドネシア独立後は中央政府の任命制。因みに地方知事や市町村長まで,米国やそれに倣った日本のように選挙で決める国は,世界で少数派である。英国ロンドン市長は2000年に初めて選挙で選ばれた。

[40] 影絵芝居で有名な「ワヤン」の類一つの形態。ラーマーヤナなどの物語を絵巻物にし,これを繰り延べながら,ダラン(演者)が物語を語り聞かせる。(第6章参照)

[41] 該博物館の小冊子,Profil Museum Prabu Geusan Ulun には Kertas とある。Kertas は広義に紙を意味するから間違いではないが,Daluan と書かれていた方が,具体的であろう。

[42] Soegiarto, Kinarti Aprilani, Graveyard in the Bogor Botanical Gardens, Bogor 1999 (この書は出版記録が見当たらないので私本かも知れない)。当時のメモに依れば,本文中の3名の名は,Ratu Galuh Mangka Alam Prabu Siliwangi (Queen), Mbah Djepra (Pangrima or Commander), Eyang Baul (Patih or Chief Minister)。後の調べで書誌はボゴール植物館図書館のカタログに,「出版社:Prosea Network Office, 出版年:1999, ページ数:24, 言語:オランダ語/英語」 と判明, フォトコピーを取得した(2019年6月)。

[43] Fadjroel Rachman, Bulan Jingga dalam Kepala―Sebuah Novel, Gramedia 2002。引用中のプラブ・シリワンギの在位年および墓地造成の年代は疑問視されるが,小説の中のことであるから詮索しないことにする。

[44] http://www.kaskus.us/showthread.php?p=12544441#post12544441(

(28 Februari 2007)

[45] Buitenzorg Scientific Centre, Buitenzorg Scientific Centre (brochure), Archipel Drukkerij en T Boekhuis, Buitenzorg 1948。具体的には,Danasasmita の Sejarah Bogor にある「Suhamir と Salmun が 古い演劇の中身から類推した説(歴史学的および考古学的証拠を欠く)」が該当すると思われる。

[46] ダナサスミタの書のリスト(前章附録)では,9代の王の後に,Tariwulan(799-806),Welengan(806-813), Linggabumi(813-852)の3代の王の名がある。

[47] Yakob Sumarjo, Simbol‑Simbol Artefak Budaya Sunda: Tafsir‑Tafsir Pantun Sunda, Kelir, Bandung 2003 に拠る。 話の細部は,バージョンによって様々である(例えば,Weintraub, Andrew N, Ngahudang Carita Anu Baheula (To Awaken an Ancient Story), Center for Southeast Asian Studies, University of Hawaii 1991)。チパマリ(ブレベス川)以東を治めたというハリアン・バンカは,ケンダン・ガルー第8代(カムリヤン第5代)のサンジャヤ王が中部ジャワに移ってサンジャヤ王国を築いた故事に対応すると思われるが,時代は前後している。

[48] 西ジャワ州グデ/パングランゴ山東南海抜885mの斜面に,無数の石を集め,石段を付けた約900平方メートルあり,紀元前2000年頃に開かれた聖地とみられているが,地元ではシリワンギ王に因む場所と伝えられ,詩歌「ブジャンガ・マニク」の主人公も行脚の途中にここを訪れてた。

[49] 18世紀にソロで書かれたパジャジャラン王国滅亡後の物語「バロン・サケンデルの書」に Ajar Sukarsi なる聖者が登場した(第1章)。時代に差はあるが,「ムンディンラヤ・ディクスマー」の Ajar Sukaresi と同一人物かも知れない。

[50] Till Dalton (Illust),. Lutung Kasarung, G. Kolff & Co., Bandung, (ca 1950),ほか。

[51] 例えば,Christopher Torchia, Indonesian Idioms and Expressions: Colloquial Indonesian at Work, Tuttle 2007, Andrew N. Weintraub, “Ngahudang Carita Anu Baheula (To awaken an ancient story): an introduction to the stories of Pantun Sunda”, Southeast Asia Paper No. 34, University of Hawaii at Manoa 1991 など。

[52] Thomas Stamford Raffles, The History of Java, London 1817 (Vol.I, Reprint with an introduction by John Bastin, Oxford University Press, Singapore 1988)

[53] Noorduyn, A. Teeuw, Three Old Sundanese Poems, KITLV Press 2007

[54] バトゥハ山(Gunung Patuha)なる名の山は,現在のバンドン西南35km に存在する。場所は,リンガ・パユン(Lingga Payung)方面に半分下った中腹とあるが,リンガ・パユンの地名は現在は知られていないので,その場所は特定できない。

[55] ヒンヅー教の象徴たる男根。

[56] http://weather.jp.msn.com/のデータから計算。因みにジャカルタの年平均最高,最低気温は,それそれ31.58±0.79℃,23.75±0.45℃。

[57] 日本の絣のように綛の状態で斑に染めた糸を使って織上げた柄織物。第2章参照。

[58] バリからの帰途のジャンクについて,幅8尋(14.3m),長さ25尋(45.7m)とある。

[59] ジャワ島全体で見れば,東ジャワクディリ近くのパレで発見された804年(西暦)3月25日の日付のある「スカブミ碑文」が,サンスクリット語でなく古ジャワ語で書かれた最初の例とされている。P. J. Zoetmulder, Kalangwan, A Survey of Old Javanese Literature,: Martinus Nijhoff, The Hague 1974。スカブミ碑文の「スカブミ」が西ジャワの同名の都市とは無関係であることに注意。

[60] Garut,インドネシア語では語尾の子音を殆ど発音しないので,ガルーと記す。

[61] チャンディは,イスラム流布以前のヒンヅー・仏教時代の廟または寺院(第5章参照)。

[62] 竹製のガラガラ楽器。伝統的にはアンクルンには4音階しかなかったが,現代のものは全音階を持つ。起源はジャワ島に先史時代からヒンヅー初期までいたネグリト系人種で,獰猛な故にカラン(Kalang,野蛮な悪魔)と呼ばれた先住民に遡るといわれる(D. M. Campbell, Java: Past and Present, Vol. I, William Heinemann, London 1915)。カランの生存した事実は,「列島列王記」(脚注5)のアジ・サカ到来(西暦78年)頃の記述にある。

[63] 徳川義親 「じゃがたら紀行」 郷土出版 1931(十字屋書店 1943,中公文庫1975),英訳: Marquis Tokugawa (translated by M. Iguchi, Journeys to Java, ITB Press, Bandung 2004

[64] 死者の王「ヤマ(閻魔)」の別名。

[65]千原大五郎「インドネシア社寺建築史」,日本放送出版協会 1975,佐和隆研編「インドネシアの遺跡と美術」,日本放送出版協会 1973。

[66] http://www.wacananusantara.org/content/view/category/2/id/81

[67] 馬歡撰「瀛涯勝覧(1416)」(後出)にも触れられている。「其婚姻之禮,則男子先至女家,成親三日後迎其婦。男家則打銅皷銅鑼,吹椰殼筒,及打竹筒皷並放火銃,・・・」

[68]ガジャ・マダの誓い,またはパラパの誓い(Sumpah Palapa=(英)Palapa Oath)といい,ガジャ・マダはヌサンタラ(ジャワ島および周辺)を制覇するまではパラパ(香辛料?)を断つと誓ったと伝えられる(例えば,Barbara A. West, Encyclopedia of the Peoples of Asia and Oceania, Facts on File 2008)。酒好きが酒を断つのに同じと想像される。

[69] ヒンヅー第2カースト。ジャワおよびバリでは,ブラーマ(Brahmana)=高僧; サトリア(Ksatria)=貴族,武士; ウェシア(Wesia)=官吏および兵士; スードラまたはジャバ(Sudra or Jaba)=平民,に分けられる。

[70] ヒンヅー社会にはスティー(suttee または Sati,サティ)という,夫の死に妻が殉死する慣習があった。

[71] Wirasutisna, Haksan, Kidung Sunda I-II, Departmen Pendidikan dan Kebudayaan Jakarta : 1980, Claire Holt, Art in Indonesia: Continuities and Change, Cornell Univ. Press, 1967, Zoetmulder, Kalangwan, A Survey of Old Javanese Literature, Nijhoff, Den Haag, 1974.

[72] Serat Pararaton atawa Katuturanira Ken Angrok (The Book of Genealogy or the Recorded Story about Ken Angrok ). 1481-1600年に書かれたと目される著者不明の書。英訳版: I. Gusti Putu Phalgunadi (translated from the Original Kawi Text), The Pararaton: A Study of the Southeast Asian Chronicle, Sundeep Prakashan, New Delhi, India, 1996

[73] Stuart Robson (trans.), Desawarnana (Nagarakrutagama) by Mpu Parapanca, KITLV Press, Leiden 1995。パラパンチャというペンネームの仏教監督官がハヤム・ウルク王を讃えるために書いたという詩文で,正式名は「デサワルナーナ」。98段,1536行からなり,マジャパヒト朝ハヤム・ウルク王の王統や王の国内視察の模様などが綴られている。「ブバトの戦」のことは書かれていない。

[74] 例えば,http://driwancybermuseum.wordpress.com/.../...,

http://mentarisenja.wordpress.com/?s=bubat

http://www.wacananusantara.org/ 6/18/galuh

[75] 日本の文永の役(1274),弘安の役(1281)と同時代の1280年,1281,1281年,クビライ・カーンは3度使節を送って隷属を求めたが拒否され,1292年に大軍を送った(後にマジャパヒト建国したラデン・ウィジャヤの計略によって敗退)。

[75a] スンダ国王家一行を乗せた船団のブバトへの航路。Andityas Prabantoro (ed), Perang Bubat: Tragedi di Balik Kisah Cinta Gajah Mada dan Dyah Pitaloka, Aan Merdeka Permana 2009 より複写(説明英訳)。


   

スンダ王家一行がウジュン・ガルーからブバトまで乗船したのと同型のジャンク。複写元: https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Bubat

 

   

[76] 貯水池の名はコラム・スガラン(Kolam Segaran=Segaran Pool, Segaranはジャワ語で「海」の意)。サイズは文献に依れば,375m×175m(Ann R. Kinney, Marijke J. Klokke, Lydia Kieven, Worshiping Siva and Buddha: The temple art of East Java, University of Hawaii Press, 2003)。歴史/考古学者のE女史によれば,この貯水池は2世紀後に西ジャワバンテン王国に造られた貯水池タシクアルティ(Tasikarti)はのモデルとされたほど優れたものであった。

[77] トゥロウランの管理者による。但し文献(Jonathan Rigg, A trip to Probolinggo [In The Journal of the Indian archipelago and eastern Asia (ed. by J.R. Logan), Singapore Vol II, 1848, 537])には 14インチ× 8.5インチx2インチ(35cm × 21.5cm × 5cm)とある。

[78] 「斤秤之法,毎斤二十兩,毎兩十六錢,毎錢四姑邦,・・・。升斗之法,截竹為升,為一姑刺,該中國官升一升八合, . . .」 小川博「中国人の南方見聞録—瀛涯勝覧」,吉川弘文館 1988 に註釈あり。

[79] Alfred R. Wallace, The Malay Archipelago(1869), Oxford University Press, Singapore 1985

[80] スコットランド人とイングランド人は,種族的には,それぞれケルト,アングロサクソン。

[81] Eric Oey ed., Java (Periplus Adventure Guide), Periplus (HK) 1997

[82] 筆者は後に次のことを学んだ。「マジャパヒト王国滅亡後の15世紀,ヒンヅー・仏教の伝統を持つジャワ人にイスラムという新しい宗教を教えることは容易でなかった。ワリ・ソンゴ(9人のイスラム聖者)の会議で,ひとりの若い聖者スナン・カリヨゴが,『我々のモスクの太鼓は,イスラムの教えに対して人々の耳を閉ざさせるだけである。モスクにガムランを置くことを認めようではないか。』と発言,『入れ物はヒンヅー・仏教,中身はイスラム教』という布教方針が採用されることとなった。」 Suwito Santoso, Kestity Pringgoharjono, The Centhini Story: The Javanese Journey of Life : Based on the Original Serat Centhini, Marshall Cavendish, 2006。エキゾティックなモスクの建設は,この方針に従って,意図的に避けられたのかも知れない。

[83] Peter Turner, Java, Lonely Planet Publications, 1999

[84] 1648年創立の由緒ある大学であったが,1811年フランス占領下で廃校。

[85] C. R. Boxer, The Dutch Seaborne Empire 1600-1800, Penguin Books-Hutchinson, London 1990.

[86] J. Levelink, A. Mawdsley, T. Rijnberg, Four Guided Walks: Bogor Botanic Garden, Bogorindo Botanics, Bogor 1996.

[87] Alfred R. Wallace, The Malay Archipelago(1869), Oxford University Press, Singapore 1985.

[88]例えば,中川鶴太郎「ゴム物語」大月書店,1984,Henry Hobhouse, Seeds of Wealth, shoemaker and Hoard, New York 2003。

[89] 分子構造は,ポリ-1,4-トランス-イソプレン。天然ゴム(ポリ-1,4-シス-イソプレン)の異性体であるが,融解温度が高く(約64-65℃),常温で固体である。

[90] Dr. Burck の名に因む Palaquium gutta burck が最も生産性が高く有名。

[91] Peter Boomgaard, “'The making and unmaking of tropical science; Dutch research in Indonesia, 1600-2000”, Bijdragen tot de Taal-, Land- en Volkenkunde 162-2/3:191-217, 2006.