第3章   

太古の石碑―タルマ国のプラサスティ   

   

チアルトゥンのプラサスティ   

    ボゴール植物園から程遠からぬところ,サラック通とパングランゴ通の交る一角にタマン・クンチャナ(Taman Kencana)という名の約100メートル四方の小公園があります。周りを囲むのはボゴール農科大学獣医学部の旧獣医学校時代からのキャンパス,筆者の通っていたゴム技術研究所のある敷地,日用品や食料品を売っている数軒の店舗,そして昔からのお屋敷といった緑の濃い環境,公園自身にも沢山の植栽があって地面は芝草です。ですから,ジャワ島のあちこちの都市にあるアルンアルン(都心広場)といったものではなく,稀に総選挙の時に仮設投票所が置かれるなどのことはあっても,普段は近所の人々が三々五々集う憩いの場所となっています。   

    その公園の真中の辺りに幅4メートルくらいの黒っぽくて表面が滑らかな物体が置かれ,近寄ってみると一対の人の足跡とともに絵文字のようなものが彫られていました。聞けば,これは大昔に西ジャワにあったタルマ国(Tarumanagara)の王に因む石碑のレプリカとのことでありました。本物の発見された場所はボゴール西郊外チアンペア村チアルトゥン(Ciaruteun)[1]の河原で,その存在が報告されたのは1860年代,折からジャワ島において本格的考古学研究が始まった頃のことであって,文献[2]を見ると当時の学者の興味を大いにそそったことが窺われます。   

   

チアルトゥンのプラサスティ。Stutterheim, W. F., Pictoral history of civilization in Java. Translated by Mrs. A. C. de Winter‑Keen, The Java-Institute and G. Kolff & Co., Weltevreden, 1927 より転載。

   

    刻まれている文字は,4-5世紀に南インドで栄えたパラワ帝国(Pallava Empire)で使われていたものと同じで,言語はサンスクリット語だそうです。足跡の右にある大きな文字列が「タルマ国王プルナワルマン」と読めることは比較的早く分ったようですが,1920年代には左側の小さい文字の文も解読されました[3]。碑文を翻訳すると,

ヴィシュヌのものに似たるこの1対の足跡,勇敢なる世界の王,タルマの國の支配者たる名高きプルナワルマンのものなり。

というような意味で,プルナワルマン王はヒンヅーの神ヴィシュヌの化身であるか,あるいはそれに似た神格を持つと見做され,崇敬されていたと想像されます。   

    インドネシア語でプラサスティと呼ばれるこの時代の石碑は,他にもボゴール地域で4個のほか,ジャカルタ東方ブカシ郊外のトゥグゥ(Tugu)とジャカルタ平野西の南バンテン地方チダンヒアン(Cidanghiang,ダンヒアン川の意)で1個づつ見つかっており,同時代のものと判定される石斧の類はジャカルタ平野全域で多数出土しているそうですから,タルマ国の支配はかなり広域に及んでいたと考えられます[4]。   

    また,2体のヴィシュヌの石像がジャカルタ平野の東方のカラワン近くで見つかり,タルマ国がヒンヅー教を奉じていたことを裏付けています[5]     

   

タルマ国時代のプラサスティの発見場所。 (地形図は http://encarta.msn.com/map_xxxxxxxxxx/ による.)。図中の P. は Prasasti,Gn. は Gunung(山)の略。

   

クブン・コピのプラサスティ   

    石碑にある記録は様々ですが,2,3調べてみましょう[6]。チアルトゥンの近くの嘗てのコーヒー園にあって,1860年代にその存在が報告された「クブン・コピのプラサスティ(Prsasti Kebun Kopi)」は,象の足跡が彫られているので「象の足跡のプラサスティ(Prasasti Telapak Gajah)」とも呼ばれ,

この1対の足跡は偉大にして強力なタルマ國支配者プルナワルマンの所有物にしてアイラーヴァタの如く壮麗なる象のものなり。

の記述があります。アイラーヴァタとは,戦争神であるインドラ神が乗物とした白象のこと,少なくとも有史時代以降ジャワ島に固有種の象(Elephas hysudrindicus)はいなかったと考えられますから,王様たちはスマトラ島かアジア大陸から象を連れてきたと思われます。因みにナンディと呼ばれる牡牛はヒンヅー神シヴァの乗物でありましたし,インドネシア共和国の国章になり,国を代表する航空会社の名前にもなっている架空の鳥ガルーダはヴィシュヌ神の乗物でありました。   

   

クブン・コピのプラサスティ。Vogel, J. Ph., The earliest Sanskrit inscriptions of Java, Publicaties van den Oudheidkundingen dienst in Nederlandsch-Indie-Deel1, Albrecht & Co., Batavia 1925 より転載。

   

ジャンブのプラサスティ   

    ボゴールの西30kmのジャンブ(Jambu)の岩山,パシル・コレンカック(Pasir Koleangkak)にあることが1850年代から知られ,「ジャンブのプラサスティ」または「パシル・コレンカックのプラサスティ」と呼ばれるものには,人の足跡とともに2行の詩文が彫られていました。

秀抜かつ豪胆にして義務に誠実たりしは,比肩する者なき民の王,   

嘗てタルマを支配せし,名高きプルナワルマンなりき。  

彼の鎧,数多の敵の矢の貫通することなかりき。   

彼のものなるこの足跡,刃向う敵の町を蹂躙(じゅうりん)すること巧みにして,   

忠誠なる王子達に優しく,敵には荊の如くでありき。    

    この石碑は,文体からプルナワルマン王の没後につくられたものと思われますが,王が為政者のみならず武人としても秀でていたことを窺わせます。   

   

トゥグゥのプラサスティ   

    トゥグゥのプラサスティ(Prasasti Tugu)は,元はといえば地上に10cmくらい頭を出していて,地元の人が傍らで香を焚いたり花を供えたりしていたものだそうですが,1879年に掘出してみたところ高さ1mもある三角っぽい石で,5行,100語に近い詩文が彫られ,プルナワルマン王の時代に行われた河川工事に関することが次のように記録されていました。

チャンドラバーガなる川,嘗て王の中の王にして強力なグル(指導者)によりて掘鑿され,名高き都を経て海に流る。繁栄と美徳に輝き,人の世の支配者たちの誇りたる名高きプルナワルマン王,拡大しつつ栄えたる彼の御代の22年,清水流るる美しきゴマティ川を掘鑿せり。全長6122ダヌス(dhanus,弓)の工事,パールグナ月黒分8日に始まり,カイトラ月白分13日に完了せり。ブラーマンの司祭によりて牛1000頭が奉げられしこれ此の川,祖父および貴僧の館の土地を割って流る。

    この記述には曖昧なところもあります。まず,チャンドラバーガおよびゴマティはインドに存在した川の名を借りて命名されたに相違ありませんが,現実に西ジャワ地域のどの川に相当するか不明です。石碑の発見地近くの川であるとするなら,一つは現在のブカシ川と見做されましょうが,王国領の2大主要河川,現在のボゴール付近を通ってジャワ海に注ぐチリウンとチサダネであったのでなかろうかという説もあります。また,6122ダヌス(弓の長さに基づく単位)の長さは7マイル(11.3km)または12マイル(22.9km)と推定され,これだけの距離の川または運河を21日間[7] で掘ることが果して可能であったか否かも疑問ですし,プルナワルマン王と「王の中の王」並びに「祖父および貴僧」との関係も明確でありません[8]。   

    しかし,この石碑の記録からは,プルナワルマン王らの支配者が,現在も屡々洪水を引起すこの辺りの河川の管理に腐心していた様子が窺われ,タルマ国が確固たる国として地域を治めていたことが容易に想像されます。   

    

トゥグゥのプラサスティ(レプリカ),ジカルタ歴史博物館。2006年9月,許可を得て筆者撮影。

   

シナの古文書の記録   

    タルマなる国が存在したことを示す直接的な証拠として存在するのは,斯様なプラサスティだけですが,古代のジャワに関する文書は,シナにはかなり多く残されていました[9]。後漢の書「南蠻西南夷列傳」には,順帝永建六年(西暦131年)に越南海岸域外の葉調の王が朝貢し,皇帝が金印及び紫綬を下賜したと記されていて,ここにある「葉調」はジャワドゥウィパ(ドゥウィパは島の意),王はタルマ国以前に西ジャワに存在したと伝えられるサラカ国(後述)の王デワワルマン(Dewawarman)であろうと解釈されています[10]。   

    5世紀初めの西暦414,東晋の仏僧・法顕は,インドの仏跡を巡礼した後セイロンから海路帰国の途につき,90日に亙る困難な航海の末に耶婆提(ジャワドゥウィパ)に達して5ヶ月滞在,「佛國記」に「多数の外道(アウトサイダー,先住のスンダ人),多数の婆羅門棲息し,彼と同宗教の仏教徒は皆無に等しい。」と書残していて[11],王国の名に触れていないものの,耶婆提はタルマ国を指したと想像されています。   

    より具体的と思われるのは,同時代の宋書「列傳」夷蠻の項にある,「元嘉七年(430年)にジャワを治めていた呵(か)羅(ら)單(たん)國(こく)の使者が金剛の指鐶,赤い鸚(おう)鵡(む),天竺の古貝(綿織物のこと)などを献上,十年(434年)には同国の毗(び)沙(しゃ)跋(ばつ)摩(ま)が文帝の偉業を奉表した。云々」の記述[12]と思われます。素人である筆者の目にも「毗沙跋摩」はサカ暦356年(434年)にプルナワルマンの後を継いだと伝えられるタルマ国第4代ヴィシュヌワルマン(Wisnuwarman)の音訳と見られます。  

      

呵羅單國とは   

    然らば国名の「呵羅單」は何の音訳か,当時筆者が調べえた文献には,回答は見つかりませんでした[13]。漢和辞典頼りのカラタン(ka-ra-tan)または欧文文献に見られるホロタン(Holotan)に関係しそうな地名が西ジャワにないかを幾人ものボゴールの友達に訊ねましたが,似つかわしいものがありませんでした。ジャカルタ在住の中華系の友人Mさんを訪ねて昔の発音を尋ねると,「a-lo-tan でしょうか。」とのこと,但し「羅」はローマ(Roma)を羅馬と記すように ro かも知れません。帰途,その音を口ずさんでいると,ふと Ciaruteun (チアルトゥン)が思い浮かび,甚く興奮しました。チアルトゥンは申すまでもなく「チアルトゥンのプラサスティ」や「クブン・コピのプラサスティ」の発見された場所,チ(Ci-)は水を意味する接頭語ですから,これを省けば Aruteun です。筆者は,後述するように,チアルトゥン村で王宮か何かの巨大な柱に使われたと思われる幾つもの礎石が遺っているのを見たことがありました。上述の考察が正しければ,タルマ王国の王都はチアルトゥンにあって,国名は地名に因んで「アルトゥン国」とも称せられた,宋への使節派遣は既にプルナワルマン王の御世にも行われ,ヴィシュヌワルマンの御世にも続けられたということになりましょう。 

    この自説について,数日後,筆者がインドネシアの歴史と文化の師と仰ぐ国立博物館のE女史にお話しました。普段は歴史の解釈に極めて慎重な方ですが,この説については大いに耳を傾けてくれて,「貴方の考えた通りかも知れない。もう一つ何か傍証が欲しいところですね。」と仰って下さいました。   

    しかし油断大敵,後年見付けた本には「シナの文献の『ホロタン(Holotan,呵羅單)は『アルトゥン(Aruteun)』の音訳であって,アルトゥンの首都はチアルトゥンに存在したであろう。」[14]と書かれていて悄然とさせられました。但し,同書に「アルトゥン国がタルマ国とは別の,それ以前に存在したジャワ(島)最古の国」と書かれているのは,明らかに失当でありましょう。   

    「呵羅單國」からの献上品の中の綿織物は記載通り天竺(インド)からの舶来品,金環の金は西ジャワにも金鉱がありましたから国産品であったかも知れません。鸚鵡(おうむ)の野生種はジャワ島内にいなかった筈ですから,東方の島で捕獲したもの,あるいはその子孫に相違ありません[15]。何れにせよ人間の言葉を真似るこの鳥が太古の昔も珍重され愛玩されていた証でありましょう。   

    少し驚かされるのは,呵羅單國が5世紀という昔にシナまで頻繁に使節を送り得た事実で,彼らは相当に優秀な船団を持っていたに相違ありません。日本が遣隋使,遣唐使を送ったのは7-9世紀のことでありましたが,遥かに短い航程であったに拘らず,彼等の船は幾度も遭難しました。   

    タルマの国名は唐時代の書である「新唐書」や「通典」でも「多羅磨」として言及されていますから[16],タルマ国は少なくとも7世紀まで存在したと見られます。   

    文書はなかった,恐らく喪失していたとはいえ,古い時代の王朝の歴史は宗教がイスラムに変った後も人々の間で伝承されていました。後世,17世紀末にチレボンで編纂された一群の年代記,所謂「ワングサクルタ文書」[17]は詳細を極め,貴重な歴史文献と位置づけられています。以下サラカ国(またはサラカナガラ)時代以降の沿革を極く簡単に省みましょう[18]。   

   

最古の王国サラカナガラ   

    古代ギリシャのプトレメウスの世界地図(西暦150年)に記されたアルギレ(Argyre)に該当すると見做されるサラカナガラ(Salakanagara)またはラジャタプーラ(Rajatapura)なる国は,西暦130年,当時ジャワ島西端部を治めていたアキ・ティレム(Aki Tirem,別名 Sang Aki Luhur Mulya)の娘と結婚したインドのパラワからの大使,デワワルマン(Dewawarman)によって建国されました。首都はテルク・ラダ(Teluk Lada,現在のパンデゲラン県)にあって,200年以上続きましたが(本章附録2参照),デワワルマン8世(Dewawarman VIII)の女婿,ジャヤシンガーワルマン(Jayasinghawarman)が,358年に,東方にタルマナガラを建てて以降も,少なくとも幾年間かは,配下の地域王国として存在したと考えられます。ジャヤシンガーワルマンは,インドのパラワ帝国の属領サランカヤナ(Salankayana)の高僧でありましたが,その地域がマガダ王国に征服されたために,一族はジャワに避難してきたとされています。石碑に名のあるプルナワルマンは,彼の孫に当ります。一族が元々聖職者であったればこそ,石碑に刻まれたパラワ文字が大変に綺麗で美しく,言語が正確なサンスクリット語であった[19]ことに合点が行きます。

    初代の王ジャヤシンガーワルマンは382年に薨じてゴマティ川の辺に葬られ,第2代のダルマヤワルマンは395年に没してチャンドラバーガ川の辺に葬られたとされますが,それらの場所は前述のように明確ではありません。第3代のプルナワルマンは395-434年の長きに亙って王位に在り,彼の時代,タルマネガラは48の小王国を従え,版図は西はサラカナガラまたはラジャタプーラ(チウジュン川畔)から東はプルワリンガ(現中部ジャワのPurbalingga)またはチパマリ(ブレベス川)畔に及びました。プルナワルマンは,王位に就いて間もなくの397年,海岸に近いところに新都「スンダプーラ」を造営したと伝えられ,場所は後にスンダクラパと呼ばれるようになったところ(現在のジャカルタ北部)であろうと推定されています[20]。但しプルナワルマンの名を刻んだ石碑がボゴール郊外チアルトゥンで発見された事実,並びに宋書「列傳」にある「呵羅單國」が「アルトゥン國」を意味するであろうとの上述の考察に依れは,王の居城はチアルトゥンに存在したと考えられます。   

    526年,第7代スルヤワルマン王の女婿マニクマヤは,スンダ領域東方ケンダン(現在のバンドンの東チチャレンカ付近)に新王国を建てました。612年,マニクマヤの曾孫ウレティカダユン(Wretikandayun)は,更に東方(現在のチオマス付近)にガルー国(Galuh)を興しました。タルマ国自体は,650年頃,スマトラの強国スリヴィジャヤに攻められて敗北し,以後,弱体化しました。669年,第12代の王リンガワルマンが女婿のスンダ国王タルスバワに王国を委譲し,ここにタルマ国の名は杜絶えました。   

    インドを追われたジャヤシンガーワルマンの一族が避難先に西ジャワを選んだ理由は如何であったでありましょう。この地に同族のデワワルマンが建てたサラカナガラが存在したこと,ジャワ島の地味が非常に肥沃であったことに加えて,列島一帯で香料が沢山採れたことが一つの魅力であったかも知れません。中には後の世紀に香料諸島と呼ばれたモルッカ諸島特産の丁子やナツメグがありました。言うまでもなく,アジア原産の香料は,近代的保存法が確立するまでは,ヨーロッパにおいても肉の保存や消臭に必須であって,15世紀,オスマントルコによる中東経由の伝統的貿易ルートの遮断[21]は,ポルトガル,スペイン,オランダなどの国にアジアに至る新ルートの開拓を促しました。   

    ジャヤシンガーワルマンらがジャワに渡来したのは時恰も古代ローマ帝国が栄えた時代に当り,そこでは香料の需要が著しく増大していた筈,こういった産品の輸出は,伝統的にインド人,アラブ人,フェニキア人によって行われていた貿易に王の一族が直接参加したか否かに拘らず,王国の財政を潤したものと思われます。   

    筆者の想像ですが,ジャワ島の特産品には,藍もあったかも知れません。バンドンの南のパパンダヤン山を水源としてジャワ海に注ぐ西ジャワ最大の河川,チタルム(Citarum)の「タルム」 もそうですが,タルマ国の「タルマ」は藍を意味し,ジャワ島では当時から藍の生産が盛んであった,国名もそれに因んで付けられたと考えられましょう。蛇足ながら,ジャワ島では,オランダ時代にも藍の栽培が盛大に行われ,ジャワ産の藍は合成インジゴが出回る20世紀初めまで世界の市場に君臨していました。当然ながらバティック(ジャワ更紗)の藍色にもこの染料が用いられました。なお,ジャワの藍は所謂インド藍(マメ科 Indigofera tinctoria L から採取)で,成分は同じでも日本の蓼藍(タデ科 Polygonum tinctorium)とは植物を異にします。   

   

ジャワ島への渡来人   

    では,インドから移住して王国を築いた人達と以前からこの土地に住んでいたスンダ人との関係はどんなであったのでありましょう。フロイン-メース女史は,あらまし次のように述べています10。曰く,「インドからの渡来者はスンダ人よりも文化的に優位であったに相違ないが,彼らは生来,自分たちの教義を他人に強要する質(たち)ではなかったから,先祖崇拝を信仰するスンダ人とは深く関らず,両者は共存といった関係にあって,通婚も稀であった。ヒンヅーのカースト[22]を適用すれば,原住民は最下層ということになろうが,彼らを力づくで支配することもなかったし,スンダ人の側も外来者と交わって高い水準の宗教や文化を受容れる意思が乏しかった。」というのです。他方,同時代のエイクマン氏とスタペル博士共著の歴史教科書[23] には,「(タルマ国等の)ヒンヅー諸国が平和的な手段によって建設されたことは明らかである。移住民の多数はインドネシアの婦人と結婚し,両民族の融合が漸次行われた。原住民の風俗習慣とヒンヅー文化および宗教のとの結合は,第八世紀に至って明らかに認められ,ジャワに於けるヒンヅー・ジャワ古跡[24]に其の甚だ強い痕跡を窺知し得る。」とあって,前記の見方とは丸反対でした。   

    この矛盾に対する回答は,問題を意識してから数年後,バンドンのスリ・バドゥガ博物館付属の小さな図書館で見付けた「列島列王記」現代語訳の一冊[25]にあり,それには,「サカ暦元年にバーラタ(インド)からジャワに来た人々(アジ・サカの一行)には,交易や事務に携わる者のほか,宗教の指導者もいた」,「彼らは伴ってきた妻子が平和に暮せることを期待した」,「パラワから来たデワワルマン師(Sang Dewawarman,サラカネガラの建国者)は恰もパラワ王朝の大使の如く,西ジャワ,アピ島,スマトラ島南部の沿岸地域の住民と友好関係を築いた」などと記されていました。 

    渡来者は妻子を連れてきたとありますが,土地の人々との通婚もあったと思われます。アレキサンダー大王の東方遠征はいうに及ばず,ヨーロッパ人の海外渡航の歴史を見るとき,安全な蒸気船ができる19世紀後半までは大洋の航海が厳しく,近距離の北米,それに移民の時期の遅かった南米の果ての地域(ウルガイやアルゼンチン)やオーストラリアを除いて,アメリカ大陸に行ったのもアジアに来たのも殆ど男ばかり,彼らは落着先で配偶者を求めざるを得ませんでした。   

    4世紀またはそれ以前の太古の昔にどれほどの数のインド人がジャワ島に移住してきたか不明ですが,恐らく女性の数は男性より少なかったと想像されます。であるとするなら,最初の頃はともかく,300年,12代に亙って純血が保たれたとは考え難いと思われるのです。   

   

ボルネオのクタイ王国   

    タルマ国のプラサスティと似たパラワ文字の刻まれた7個のプラサスティが,カリマンタン(ボルネオ島)東部のクタイ・クルタネガラ県でも見つかっていて,それらには,マルタプーラ国(Martapura,時にMartadipura)の偉大な王ムーラワルマン(Mulawarman)がヒンヅーの神に2万頭の牛を捧げ僧侶が祭祀を行ったこと,父の名がアシュワワルマン(Aswawarman)で,恐らく祖父のクンドゥンガ(Kundungga)が初代であったことなどがサンスクリット語で書かれているそうです。時代は文字の綴りがタルマナガラのものより若干古いことから,ここにインドネシア最古の王国があったと信じられ,また,王の名前の語尾が共通していることからも,クドゥンガ王たちもタルマ国の祖先と同じ王族で,インドからの移住者であったと見られています。この国は屡々クタイ王国と呼ばれていますが,クタイの名は16世紀に建国されたスルタネート(Sultanate,イスラム系のスルタン国),クタイ・カルタネガラから借りたもの[26]で甚だ紛らわしくありますが,特に日本ではマルタプーラと記した書物を全く見ません。   

   

プラサスティ・ムーラワルマンの一つ(レプリカ)。インドネシア国立博物館蔵。2009年1月 許可を得て井口撮影。

   

    王国の跡を訪ねたいという筆者の願望は2007年に漸く実現しましたが,お目当ての石碑を見ることは叶いませんでした。東カリマンタンの州都サマリンダからボルネオ島最大の大河マハカムの上流に向けて,王の名に因んで名付けられたムーラワルマン大学農学部Wさん自らの運転で車を走らせること小1時間で県都テンガロンのムーラワルマン博物館に着きましたが,それに使われているスルタン王宮内の19世紀風のオランダ様式の建物は改装中で,工事の槌音を聞くばかりでした。さらにプラサスティの見つかった場所はと問えば,ここからマハカム河を舟で2晩掛りで遡行しなければ辿り着けないムアラカマンというところとの由,Wさんらからは,プラサスティの本物はジャカルタの国立博物館に運ばれて,ここにあるのはレプリカだからと慰められましたが,それでも幅500mもあって滔々と水を湛えたマハカム河の上流方向を眺めていると何となく古代の王国の存在が偲ばれて,ここまで来られた幸せを思いました。西ジャワ出身のWさんは,タルマ国についても能く御存知でしたが,ジャワ島よりも遥か遠方の当地にインド人が至って国を築いた理由について,「恐らくシナへの交易ルート上にあって,彼らはそれ以前に貿易拠点くらいは持っていたのでありますまいか。」と仰せになりました。カリマンタン東部の現在の代表的産業は木材と石油ですが,往時は金も沢山採れたそうです。ムーラワルマン王のあと王国がどうなったのか,16世紀にイスラム王国が興るまでのこの地域の歴史は全くといって良いほど不明です。   

    その後のことですが,17世紀にオランダのVOC(東インド会社)総督スペールマンがスラウェシ(セレベス島)のゴワ王国を攻め,1667年に遂にマカッサルが陥落してスルタン・ハサヌディンが敗れたとき,降伏を拒んだブギス族の何千人かは,海峡を挟んだクタイに亡命しました。クタイ族のスルタンは彼らを快く受容れて土地を与え,そこに「同じ処遇」という意味のサマリンダの町が生まれました。その1668年1月21日は市制記念日となっているそうです。現在の人口60万人弱のサマリンダの住民には,クタイ族,ブギス族に加えてカリマンタン内陸からのダヤック族,更には他の島からの移住者が混ざっていますが,エスニック問題を聞かないのは古くからの伝統なのでしょうか,2日間の訪問ながら,ムーラワルマン大学にも其処此処の大学にありがちな派閥めいたものがなく,和気藹々の雰囲気が感ぜられました。   

   

チアルトゥン村訪問   

    冒頭に述べた「チアルトゥンのプラサスティ」の本物は,1990年に,発見地の河原から引揚げられ,近くの建物の中に移されています。現地はボゴールから西へサラック山の北麓の道を車で1時間半行った先,キャッサバやバナナの畑のある典型的な西ジャワの農村で,筆者が訪れたときには,地元で管理を任されている人が案内してくれました。鉄柵で囲まれた伽藍堂の真中に鎮座する石はレプリカで見た通りのものでありましたが,碑文のほか数箇所に人の名前や日付の落書きが現代文字で彫り込まれているのに唖然としました。当局がここに移して保護することにしたのも宜(むべ)なるかな,鉄柵には警告板が掲げられて「この石に傷をつけた者には1億ルピアの罰金を科す」とありました。1億ルピアといえば,当時の貨幣価値で500万円という途方もない額,教育文化省がこの記念物を如何に大切に考えたかが分ります。移転作業にも携ったという案内人氏に依れば,雑木の繁る崖の下数10メートルの河原にクレーンのような重機を持込むこと能わず,作業は全て人力で行われたそうですが,何せ重量10トンを越す大石,10人掛りで丸半年を要した,時には1日に8~10センチメートル位しか動かせなかったと聞きました。後日,ジャカルタのタナーアバンにある石碑公園博物館(Museum Taman Prasasti)を訪れたとき,そのときの模様を写した写真2葉が展示室にあるのを偶然に見て,改めて引揚げ作業の苦労を偲びました。   

   

チアルトゥンのプラサスティを収容した堂 。 正面左手前に「警告板」が見える。 2006年9月,筆者撮影。

   

チアルトゥンのプラサスティの引揚げ作業のスナップ 。ジャカルタ,タナーアバンの石碑公園博物館所蔵。同館の意を受けて,2006年9月,筆者撮影。

   

    「象の足跡のプラサスティ」も200m位離れたところにありましたが,これは発見されたままの場所だそうで,これにも柵を巡らして屋根が掛けられ,同様の警告板が掲げられていました。この石碑の別名「クブン・コピのプラサスティ(コーヒー園の石碑の意)」は今も通用していますが,周りの畑にコーヒーの樹はなく,キャッサバやバナナが植わっていました。コーヒー樹の東インドへの移植は1699年にオランダ東インド会社によって初めて行われ,西ジャワ一帯では19世紀末まで至るところで栽培が行われていましたから,石碑が見つかったのがコーヒー園の中でも不思議はなかった訳ですが,コーヒーの生産は次第に東ジャワやスマトラ,バリ,セレベスなどの外島に移り,今は西ジャワにはコーヒー園は皆無に近い状況です。   

    次に案内されたのは数10cm大の石が数個あるところ,地面に埋った2個の石の平らな面には10数個の直径6~7cmの半球形の凹みがあって,同行してくれた若い同僚のRさんが,「あらまあ,チョンクラックね。私も昔よく遊んだわ。」と言いました。スンダでチョンクラック,ジャワでダコンと呼ばれるこの知能ゲームは,現在もなおインドネシアの子供たちの間で盛んですが,発祥地に関してはインドほか諸説あるものの,ジャワ島に持込んだのは恐らくタルマ国を建てた人たちでありましょう。太古の人たちが,これらの石を囲んでゲームに興じていた様が想像されて微笑ましく思われました。   

   

タルマ国時代のチョンクラック遊技場   

2006年9月,筆者撮影。

   

    更に興味深かったのは,民家の軒下にあった数個の約50cm角の御影石で,上面には一辺40cm,深さ3cm程の正方形の凹みがありました。同様のものは近くのバナナ畑にも数個転がっていましたが,これらは建物の礎石であったに間違いなく,柱の太さから推量るに建物は相当に大きなものであった筈,若しかしてプルナワルマン王の王宮がこの辺りこにあったのかも知れないなどと思いを馳せました。  

 

タルマ国時代の建物の礎石   

2006年9月,筆者撮影。

   

    因みにチアルトゥンに行く途中にあって,ボゴール農科大学の新キャンパスがあることで知られるダルマガ(Darumaga)の地名は,プルナワルマンの先代,ダルマヤワルマン(Dharmayawarman)王に因むと案内人氏から教えられました。   

    ここに見たチョンクラック遊技場も建物の礎石も,筆者の知る限り,過去に書物に書かれたことはありません。若し本稿が日の目を見たならば,それは,これらの古代の遺物を紹介した最初のケースとなるかも知れません。   

    さて,ボゴール市内の公園にあったプラサスティのレプリカについて,前に「ありました」と敢えて過去形で書きましたが,ボゴールを離れて数年後に訪れたときには影もなく消失せて,その場所に以前は夜間暗闇であった公園を照らすための電燈の付いたポールが立っていました。付近の人に尋ねたところ2年くらい前に置換えられたとのことでしたが,誰に聞いても石碑の行方を知らない,友達に頼んで県の観光課に問合せてもらったところ,「あれは公園の飾りのためにプラスチックとガラス纖維で拵えたもので,文化的価値のあるものでもなし,邪魔だから崩して撤去した。」とのこと,その廃棄理由に唖然とさせられました。役人が価値を知ってか知らないでか大切な遺物を撤去することはままあることで,ジャカルタにあった1800年代初期に落成のハルモニー・ビルディング,現地人が始めて施工した本格的ビルディングという意味でも貴重であった建造物が,道路を拡張し駐車場をつくるだけの目的で取壊された例[27]が思い出されました。近くに3年も住みながら,まさか無くなると思わなかったから写真も撮ってありませんでしたが,公園にあったのは確かにチアルトゥンの石碑のレプリカであったと信じています。とまれ,筆者には西ジャワの太古の歴史に誘ってくれた縁(ゆかり)のものでありました。   

    チアルトゥンまで行くのが難儀な方は,レプリカをジャカルタのコタ地区にあるジャカルタ歴史博物館(昔の蘭領東インド市庁舎の建物)でも常時見ることができます。レプリカといってもそうと言われなければ,本物と見紛う精巧なもので,クブン・コピのプラサスティやトゥグゥのプラサスティも含めてタルマ国時代の石碑のレプリカが幾つも解説付で展示されています。ジャカルタ都心,独立広場(メダン・ムルデカ)西の国立博物館にはインドネシア全土から集められた膨大な数の歴史的遺物の本物が収蔵されていますが,2006年11月オープンの新館は,それらを文化,技術といった観点で展示するように企画され,クタイ,タルマナガラ以来の文字の変遷を示すコーナーがあります。筆者が見せて貰ったのはその公開準備の最中,博物館の友人E女史の好意によってでありましたが,マルタプーラおよびタルマ国時代のプラサスティから近世の文書に至る資料のレプリカが時代を追って並べられています。なお,申すまでもないことでしょうが,現在のインドネシアでは,17世紀にオランダ人が持込んだローマ字が普及して,ジャワ文字やスンダ文字は全く廃れ,筆者の友人では,歴史学者のEさんを除けば,自分の名前を漸く金釘流で書けるのが唯一人いる程度といった有様です。サンスクリット文字からジャワ文字またはスンダ文字に転化した過程は,日本で漢字の草書体から変体仮名が生まれ,平仮名へと変化したのに似ているかと思いつつ,一般人には奇妙な符号の羅列のようにしか見えない古い記録を研究されているパレオグラファー(古文書学者)のひとたちに,今更ながら畏敬の念を抱きました。   

   

ボゴール付近の気象   

    東西にそれぞれ位置するグデ・パングランゴ[28],サラック両山の山間一帯は,雨の多いジャワ島西部でも際立って降水量の多いところで,ボゴールが「コタ・フジャン(Kota hujan=Rain city,雨の町)」の異名をとる如く,年間降水量は2500mmに及びます[29]。筆者の経験で申せば,乾季(通常4-9月)でも3日に1度くらいは降雨あり,雨季(同10-3月)には1週間太陽を見ない時もあります。世界で最も落雷日の多い町としてギネス・ブック・オブ・レコードに載っている[30]ように,雨は常に雷雨です。落雷の激しさは尋常でなく,時には植物園内や街中の大木の幹を引き裂きます。避雷設備の整った今日でも30分程度の停電は日常茶飯とのことと覚悟せねばならず,ランタンは家庭の必需品,ホテルやオフィスは自家発電機を備えています。私事になりますが,在住中,電話回線を通じて侵入した雷サージに一度,二度コンピューターのモデムをやられました。避雷器を付けても役立たず,暗雲が立ち込めたらケーブルを外すのが無二の得策であると学習しました。山野に降った雨はチリウン,チサダネ両川に注ぎますから,この地域の治山治水は,蘭領東インド時代以来,政府の大きな課題でありました。中流に位置するボゴールでは道路が暫時急流の如く化す程度ですが,濁流は下流のジャカルタに至り,今も何年かに一度大洪水を見舞います。

    反面,火山灰由来のあらゆる種類のミネラルを含んだ大量の水は,太古の昔から農業のためには天の恵みであって,ジャワ島は世界で最も人口稠密の地となりました。西ジャワのグデ・パングランゴ山の斜面は日常消費用の果物や野菜のみならずゴム,茶ほかの栽培作物のために広範囲にわたって耕されていますし,周辺の平野には水田が広がっています。山の東側に位置するチアンジュールはインドネシア最高の米どころであって,日本の魚沼地方に相当すると言えましょう(本パラグラフ,本ウェブ版に追加)。  

    熱帯のジャワで雪をみることはありませんが[30a],雹,現地語でいうフジャン・エス(Hujan es, 氷雨の意)が降ることは屡々あってテレビや新聞で報道されます。24年前に経験したことでありますが,雨の夜にバンドンのチハンプラス通の坂道を車で登っていたとき,仄暗い街燈に光でダイアモンドのように煌く小さな小豆大の粒がフロントガラスを打ちました。その頃は道路が空いていて自分で運転ができました。何かと不思議に思って車を止め,粒を拾って掌に乗せ,漸くそれが氷の粒と識りました(本パラグラフ,本ウェブ版に追加)。  

    ボゴール在住中面白い出来事がありました。雨期明けのある晩,家のガラス窓の外面が,肌色の胴体で透明な羽根を持つ夥しい数の蠢く虫に覆われ,彼らの一部は光を求めてドアの隙間から室内に侵入してきたのです。急いで屋内の灯りを消して外に出てみると,車庫の軒下の常夜灯が霞むほどの大群,白いシャツに寄ってくるやつを払っていると,やがて,どうして知ったのか,200mほど離れた植物園を棲処とする連中に違いない大群の蝙蝠がやってきて,真暗な庭の地上すれすれから軒くらいの高さの空中で乱舞を始めました。家の外壁や窓枠では何処から出てきたのか普段は2-3匹しか見かけないトッケイ(学名: Gekko gecko,体長15-25cmの白いヤモリのような爬虫類の一つ)が数十匹も現れて虫を捕えんと忙しそうに跳梁し,地面には10数匹もの蟇蛙が蛙とは思えぬ敏捷さで跋扈しています。自然界のドラマはものの半時間で終って窓も壁も綺麗になりました。翌朝外に出てみると沢山の蟻どもが僅かばかり残った虫の残骸を忙しなく運んでいました。友人に聞くと,体長1インチもあるこの虫はラロン(laron)という羽蟻の一種で,地下に待機していた幼虫がその日に一斉に羽化したのであったとのこと,全部が他の生き物の餌食になったように見えても,何匹かはパートナーを見つけて子孫を残すべく卵を産んだ筈です。友人の母君によれば,先の大戦中にインドシナ(旧フランス領インドシナ)かどこかから進駐してきた日本兵が,羽を取除いたラロンを油で炒って美味しそうに食べていたそうですが,斯様なものは日本で食さないから,多分前任地で習ってきたに相違ありません(本パラグラフ,本ウェブ版に追加)

    前にタルマ国時代の文書が石碑以外に現地に残っていないと申しましたが,何故でしょう。紀元前1世紀後漢の蔡倫の発明とされる紙が普及する以前,ヨーロッパでは羊皮が使われていましたが,ジャワ島で伝統的に用いられていたのはロンタルと呼ばれるものでした[31]。これはインドネシアでシワランとも呼ばれるロンタル椰子(Borassus flabellifer)の葉を,ハーブを溶かした水で煮て乾燥,プレスした短冊型のもの,文字や絵は鉄筆で彫付けられ,煤と油を混ぜたコンパウンドで埋められ,簾のように連ねられます。高温多湿の気候のもとでは本来的に朽ち易いものであったと考えられますが,グデ・パングランゴ,サラックなどの活火山が近世に至るまで頻繁に活動[32]して灰を撒き散らしましたから,辺りは新しい地層に覆われ,文書も何も全て埋もれてしまった,偶々雨や川の水で洗われた石碑だけが露出していたのだと考えることができるかも知れません。   

   

ロンタル文書の例。以下のウェブ画面より転載。 

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Naskah_Sunda_Lontar.jpg (Aditia.Gunawan氏提供とある)。解説にスンダ語古文書とあるが,時期は不明。

   

太古の火山噴火   

    ジャワ島の西,スマトラ島との間のスンダ海峡に存在するクラカタウ島も激しい火山として有名です。1883に大噴火を起したあと,英国の自然科学誌「ネイチャー」に寄稿されたジュッド教授の「クラカタウの以前の噴火」と題するレターには,ソロの宮廷秘蔵の「古代王記」とでも訳すべき名の書に書かれた,太古の昔にあった大爆発の模様が紹介されていました。[33]

    「サカ歴338年(西暦416年),雷鳴のような音がバトゥワラ山(Gunung Batuwara,ジャワ島西北部現在のバンテン南方のプラサリ山(Gunung Pulasari)の方から聞こえ,それに現在のバンテン西方のカピ山(Gunung Kapi)からの同樣の爆音が呼応した。後者(カピ山)から噴き出た煌く火は空に届いた。全世界は大きく震撼し激しい雷は大雨をもたらし,嵐が起きた。然も大雨はカピ山の噴火を鎮めるどころか火を煽った。爆音は恐ろしく,カピ山は物凄い轟音とともに分裂して地の底に沈んだ。海水は水位を上げて地上に押寄せた。東はバトゥワラ山からカムラ山(現在のボゴール東方のグデ山)まで,西はラジャバサ山(Gunung Rajabasa,スマトラ南部ランプン県)までの地域は水浸しとなって,スンダ北部からラジャバサ山までの住民は財産とともに水に流された。   

    水が退いた時,カピ山と周辺の土地は海となり,ジャワとスマトラは二つに分断された。スマトラ内陸にあったサマスクタの町は非常に清らかな水の海となり,後にシンカラ湖と呼ばれた。これがスマトラとジャワの分裂の起源である。」

    「古代王記」は,宮廷詩人ランガワルシタ3世が伝承や以前の古文書をもとに19世紀後半に書いたと謂われていますが,このカピ山の爆裂の話は,近年に出版されたプルワディ教授の書[34]に詳しく書かれていました。抄訳してみましょう。   

    「以下の話は,クディリ王朝の時代のサカ歴851年(929AD),エンプ・サトゥヤ(Empu Satya)によって書かれた『マハパルワ物語(Serat Mahaparwa)』に基く。

    嘗てテングル山(ヒマラヤ)の天国の神が,今のアチェ(スマトラ西端)からバリまで続く島に来て,それを長いという意味のダワ(Dava)に因んでジャワ島と呼んだ。西暦でいう78年,インドの高僧アジ・サカ(Aji Saka)がこの島に渡来し,この年がサカ歴元年となった定めた。アジサカはヒアン山(Gunung Hyang)の森を開き,本名エンプ・センカラ(Empu Sengkala)の名で其処に定住した。その後,ルム(トルコ)のサルタン[35]が20000の家族を移住させたが,彼らは疫病に冒され,2000,200,さらには20家族にまで減った。エンプ・センカラの懇願により,スルタンは,再び,ケリン,セイロン,シャムから合計20000家族をジャワに移住させた。エンプ・センカラの死後,ジャワには王が不在となったが,サカ暦102年((西暦180年),インドの神々はレシ・マハデワ・ブダ(Resi Mahadewa Buda)を頭とする聖者のグループをジャワに送った。聖者たちはジャワの人々に歓迎され,王国をメダン・カムランに再建した。   

    スリ・マハラジャ・カンワ(Sri Maharaja Kanwa)王の御代のサカ暦329年,王女ドゥウィ・スリガティ(Dewi Srigati)が,スマトラのピダナのプラブ・カルンカラ(Prabu Karungkala)によって誘拐されるという事件があり,王女は後に彼女の婿となるラデン・センカン(Raden Sengkan)によって救出された。怒った王はピダナを攻略し,カルンカラを討った。これを機に,カルンカラの兄弟で,スマトラ・サマスクタの王プラブ・サンカラは,スリ・マハラジャ・カンワの権威を認めなくなった。サカ暦338年,スリ・マハラジャ・カンワはサマスクタ国を攻め,サンカラを討った。スリ・マハラジャ・カンワはカルンカラとサンカラの父であったレシ・プラカンパ(Resi Prakampa)が背後にいたものと邪推してプロサリ山に行き,彼を殺した。 

    レシ・プラカンパの超能力が失われたため,カピ山(Gunung Kapi)が噴火し,大洪水,豪雨,暴風雨がそれに続いた。カピ山は崩壊して地下に沈み,海水はグデ山(ボゴール)からラジャバサ山(ランプン)までの陸地に溢れた。それが治まったあと,ジャワ島は二分されていて,西側はスマトラ島と名付けられ,東側は従前通りジャワ島と呼ばれた。カピ山の沈んだ跡はスンダ海峡となり,サマスクタ国(西スマトラ・パダン近傍)は地下に消えてシンカラ湖となった。」

    数年前に出版されたデビッド・キーズ著の,直訳すれば「カタストロフ―近代世界の起源の探究」という題名の書[36]で,著者は6世紀半ば以降に地球上の各地で多発した変事の原因が何らかの天変地異のためと仮定し,それがクラカタウの大爆発であった,年は西暦535年であったと推論しています。著者はまた宋代南史にある記録,「西暦529年閏12月に南西の方角から雷鳴が2度聞えた」に触れ,その音源が彼が推定する西暦535年のクラカタウ噴火であったであろうと主張しています[37]。この仮説を立てるのに協力した火山学者ウォーレッツ博士は,その爆発で噴出したマグマの量を200立方キロメートル(有史以来最大規模とされるインドネシア・フローレス諸島のスンバワ島トンボラ山(Gunung Tombora)の1815年の噴火の数倍に相当),火口の直径は50キロメートルに及んだであろう仮定,爆心にプロト・クラカタウ山を置いて,コンピューター・シミュレーションを行い,嘗てスマトラ島とジャワ島が陸続きであった図を示しました[38]。   

   

クラカタウ大噴火によるスマトラ島/ジャワ島分断のシミュレーション図。 K. H. Wohletz 博士の好意を受け,以下のウェブ画面より転載。http://www.ees1.lanl.gov/Wohletz/Krakatau.htm

   

    問題は起ったかも知れない大噴火の年代です。キーズ氏は自らの主張する西暦535年と「古代王記」(より正確には「マハパルワの書」)にある西暦416年との間の119年もの隔りについて,「後者は伝承か,あるいは1000年も前の古文書をもとに書かれたたものであるから,誤りがあっても然るべし。」と結んでいますが,原典の中の記述は相当に系統的でありますから,その可能性は低いと想われます。注意すべきは,彼のいう天変地異のあった場所も,西暦535年という年号自体も周辺事実からの帰納に過ぎないということでしょう。ウォーレッツ博士のコンピューター・シミュレーションも,年代特定には元々無力のものでありました。ジャワ古代建築史の泰斗,千原大五郎教授の著作には,「早い時代のシナの文献では,スマトラとジャワは区別は明瞭ではなくて,一つの名称で両島を指していた時代もあり,この状態は西暦400年代前半までつづいていた」[39]という指摘がありますが,これも直接的な傍証にはならないでしょう。   

    「古代王記」にある西暦416年といえばタルマ国が最も栄えた第3代プルナワルマン王の御代(395-434)に当りますし,次のヴィシュヌワルマン王(434-455)も,前述の呵羅單國がタルマ国の別称であるとする筆者の解釈が正しければ,宋に特使を派遣して外交関係を持ったほどですから,王国の繁栄を揺るがすような地異があったとは考え難いように思われます。   

    キーズ氏の書では言及されていませんが,西暦535年頃の記録として現地に残るものに,「クブン・コピのプラサスティ」の近くで見つかった「パシル・ムアラのプラサスティ (Prasasti Pasir Muara)」 というのがあって,多分高官であったと想像されるラクリヤン・ジュル・プンガンバット(Rakryan Juru Pengambat) の署名付で,

国の政府は458年(サカ暦,西暦536年)にスンダ王のもとに戻った。

と記されているそうです[40]。西暦536年はタルマ国第6代チャンドラワルマン王(515-535)から第7代スルヤワルマン王(535-561)にかけての時代のこと,スルヤワルマンの女婿マニクマヤは既にケンダンに新王国を開いていました(在位516-568年)。この碑文では,スンダ王というのが誰か,また王都の場所がどこかも曖昧ながら,政府の移転を余儀なくさせる何らかの異変があったことを匂わせますが,それがジャワ,スマトラを二分するほどの規模の大爆発であったとは限りますまい。   

    前述の「列島列王記」にあったカピ島(Pulau Kapi)は,カピ山(またはクラカタウ山)が存在した島と推定されますが,「西ジャワ,アピ島,スマトラ島南部」と並べて書かれていることから,それらの島々は遅くとも2世紀頃には既に陸続きではなかったと解釈されます。少なくとも筆者が調べた限りでは,「列島列王記」には火山の噴火らしき異変の記述は見当りませんでした。   

    地質学的には,スンダ海峡周辺の堆積物の研究から,古代クラカタウの大噴火の時期を6万年前と推定する説もあるようですが,本当のことは分っていないというのが結論のようであります[41]。 

  

1883年のクラカタウ火山噴火   

    1883年に起ったクラカタウの噴火も驚天動地の出来事で,標高813メートルの主峰を持つ島の大部分が吹っ飛び,爆音は西オーストラリアのパース,インド洋のロドリゲス島でも聞かれ,爆発に伴う津波はジャワ島西部,スマトラ島南部の沿岸の町や村を呑み込み,数万人(公式統計36,417人)の生命を奪いました。   

   

1883年の爆発前のクラカタウの山容。「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 1883.9.3」掲載のスケッチ。 http://alltomvetenskap.se/index.aspx?article=4474 より転載。

   

シネラマ映画華やかなりし頃,「ジャワの東[42]」というタイトルの,この噴火に纏る話をテーマにした作品がありました。DVDを求めて見返して見てましたが,流石にアカデミー賞特殊視覚効果賞受賞作だけのことあって,デジタル技術のなかった時代の作であるにも拘らず,山が火を噴き,溶岩が流れる様子は見事というほかなく,実際の噴火も斯くありきやと思わせるに充分でありました。   

    英国ヴィクトリア時代の詩人ジェラルド・マンレイ・ホプキンスは,当時の異常な大気の様子,就中,1884年10月19日のダブリンの夕焼けの色彩を,科学誌「ネイチャー」に次のように報告しました[43]

それは強烈で,地上近くはブロンズ,上空はピーチ(桃)乃至は熟れたヘーゼルの赤らめる色。それは南に棚引いていた。それは火山の破片が,恰も土星の輪の如き地球の衛星になって,欠けたようでもあって,我々は今鮮明なものとして目撃している。

    流石に詩人でも大学教授(ダブリン大学)でもあったホプキンスにして叶うべし,ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクが絵具でもって表現したその時の情景を,言葉でもって如実に言い表しています。   

   

「叫び(The scream)」,E. ムンク (Edvard Munch) 1893作。   

http://en.wikipedia.org/wiki/File:The_Scream.jpg より転載。  

   

    クラカタウに関する書物や記事にはしばしば同時代の桂冠詩人アルフレッド・テニスン卿の作として次の詩が載っていました。

何處の火の山から來たるや 猛き灰燼(かいじん)   

地の遥か上空に舞上り   

日々血の如く赤き夕燒け透し   

怒れる日輪煌(きらめ)けり[44]

    如何にもクラカタウを主題にした詩のようですが,長編詩の多いテニスン卿の作に斯様な四行詩があったのかは,筆者の長く疑問とするところでありました。2003年,ナポリ大学のジェフ・マシューズ教授が筆者の頼みに応えて調べて教えてくれたところによれば[45],これはテニスン卿のセント・テレマクス(St. Telemachus)[46]と題する80行からなる詩の一部を誰かが勝手に抜粋したもの,西暦400年,小アジアの聖テレマクス(別名アルマキウス)が,当時ローマで盛んであった剣闘を止めさせるために赴けと神のお告げを受けた時の情景を,折から目撃したクラカタウの噴火で汚れた大気の様子を借りて,テニスン卿が書いたものでした。(コロセウムに着いたテレマクスは剣闘に熱中する群集の投石で死亡,此れを聞いた皇帝ホノリウスは,それ以降,剣闘を禁止しました。)   

    1883年の噴火で消失したクラカタウ島は1927年の噴火で海面に頭を出して,アナック・クラカタウ(Anak Krakatau,クラカタウの子供の意)と呼ばれ,2005年までに300メートルに成長,その緩やかに煙を吐く姿を,筆者はジャワ島西部アニェルから感慨深く眺めたことがあります。 

    クラカタウについての記述の最後に,その名称について触れておきましょう。クラカタウ(Krakatau)は,しばしば,特に英語ではクラカトア(Krakatoa)とも呼ばれますが,理由は1883年の大噴火の際にイギリス人の記者がポルトガル語綴り(Krakataõ,発音はKrakatauに近い)をミスタイプしたのが始まりとされています。誤りと分った綴りがそのまま使い続けられているのは面妖な話で,筆者は他に例を知りません。クラカタウ自体の語源はサンスクリットの「蟹」を意味するカルカタ(Karkata)であると普く言われていますが,最近出版された本に「鋸」の意のクラカタ(Krakata)であろうという説[47]がありました。綴りの近似性と嘗て存在した山の姿の猛々しさに照らせば,後者が正しいのかも知れません。   

    本章を閉じる前に,「列島列王記」ほかの文献から知られるところの,西ジャワに過去に存在した主な王国の王統を纏めておきましょう。西暦358年,タルマナガラを建国したジャヤシンガーワルマンの血統は曲りなりにもパジャジャラン王国が亡びる1579年まで1200年以上続き,その間,52代の王が君臨しました。若し西暦130年,デワワルマン1世に始まったとされるサラカナガラから数えれば,その期間は1400年以上,歴代の王の数は64人におよびました(詳しくは附録2参照)。   

   

サラカ王国

130-358

12代

タルマ王国

358-669

12代

(ケンダン・ガルー王国)

516-852

14代

スンダ王国

669-1333

28代

カワリ王国

1333-1482

6代

パジャジャラン王国

1482-1579

6代

   

   

   

   

第3章註

[1] Ciaruteun,アルトゥン川の意。接頭辞 Ci- はスンダ語で「水」を意味し,西ジャワに多数ある Ci-で始まる地名は,川,沢,湖などに因む。

[2] J. Ph. Vogel,The Earliest Sanskrit Inscriptions of Java. [in, F. D. K. Bosch, ed. Publicaties van den Oudheidkundigen Dienst in Nederlandsch‑Indie,Deel 1,Albrecht & Co.,Batavia 1925]

[3] 1927年刊の Stutterheim の書(W. F. Stutterheim (Trans. by Mrs. A. C. de Winter-Keen), Pictoral history of civilization in Java, The Java-Institute and G. Kolff & Co., Weltevreden, 1927)には未解読とあるが,1925年刊の Vogel の論文(脚注2)には,現代語訳が示されているから,解読されたのは1920年代前半と推定される。

[4] Abdurachman Surjomiharjo,Pemekaran Kota Jakarta/The Growth of Jakarta, Penerbit Djambatan, Jakarta 1977

[5] 最初の一体は1959(1957?)年にフランス人 Jean Boisllier により発見され,翌年インドネシア大學の Edi Sedyawati 教授により8世紀のものと判定された。二体目のものは1975年に発見された。“Sites tell of prehistoric societies”, The Jakarta Post, February 27, 2007

http://www.interlog.fr/candi/indonesie/cangkuang_E.htm.。

[6] 解読文は,脚注2(英文)に依るが,不明部分は次も参照。Saleh Danasasmita, Sejarah Bogor, Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983

[7] ヒンヅー暦のパールグナ(Phalguna)およびカイトラ(Caitra)は,それぞれ太陽暦の2月20日-3月21日および3月22日-4月20日に相当する。各月は白分(新月から満月まで)と黒分(満月から新月まで)に分けられるから,パールグナ黒分の8日からカイトラ白分の13日までは21日間と計算される(第3章附録(1)参照)。

[8] F. D. K.Bosch, Selected Studies in Indonesian Archeology, Martinus Nijhoff, The Hague 1961

[9] 後藤明,「イスラーム世界の歴史」,放送大学教育振興会 1993

[10] 原文「永建六年,日南徼外葉調王便,遣使貢獻,帝賜調便,金印紫綬」。

http://toyoshi.lit.nagoya .ac.jp/maruha/kanseki/houhan076.html.

「葉調」が Dewawarman を指すという解釈は, Paul Pelliot (1916), G. Ferrand (1919) によって与えられた(G. Coedes, Indianized States of South East Asia, University of Hawaii Press 1986)。G. Ferrand によれば,「便」は Warman, 「葉便」は Dewawarman と見做される(フロイン-メース著・松岡静雄訳「爪哇史」,岩波書店 1924/原著:W. Fruin-Mees, Geschiedenis van Java, Vol 1: Het Hindoetijdperk. Vol 2: De Mohammedaansche rijken tot de bevestiging van de macht der compagnie, Commissie voor de Volkslectuur, Weltevreden 1919 & 1920 の訳者註)。但し,「調便」の「調」は衍字であるとの解釈もある(栗原朋信「秦漢史の研究」,吉川弘文館 1986)。葉調王便はプルナワルマンであると書かれている書(千原大五郎「ボロブ ドールの建築」,原書房 1970)もあるが,時代が250年以上掛離れているので,明らかに著者の誤解と思われる。

[11] 原文「乃至一國名耶婆提其國外道婆羅門興盛佛法不足言」。文學古籍刊行社出版「法顯傳」,新華書店,上海 1955 (原典は「佛國記」とされる)。

[12] 宋書卷九十七 列傳第五十七 夷蠻:「呵羅單國治闍婆洲。元嘉七年,遣使獻金剛指鐶,赤鸚鵡鳥,天竺國白疊古貝,葉波國古貝等物。十年,呵羅單國王毗沙跋摩奉表曰: 常勝天子陛下:諸佛世尊,常樂安隱,三達六通,. . .」 http://www.lit.nagoya‑u.ac.jp/

[13] 岩本薫「Sailendra王朝とCandi Borobudur](東南アジア史学会「東南アジア‐歴史と文化」,平凡社1981 に収録)の巻末註に,「著者は呵羅單國の名もSailendraの写音と考える。」とあったが,発音の解釈が全く示されていないばかりか,タルマナガラが栄えた西暦400年前後とサイレンドラが興った8世紀半ばの間の300数十年の年差にも言及がなく,到底権威ある学説とは信じ難い。サイレンドラがシナに使節を派遣した事実(記録)もない。

[14] Slamet Mulyana, Dari Holotan ke Jayakarta, Yayasan Idayu 1980

[15] 鸚鵡は,バリ島/ロンボク島間,ボルネオ島/セレベス島間を通るウォーレス・ライン東側原産の所謂オーストラリア種に属する。

[16] 「單單在振州東南多羅磨之西 (マレー半島東岸の單單は振州(海南島の州)の.東南,多羅磨の西に在る)」の記述。 http://www.lit.nagoya‑u.ac.jp/

[17] Naskah Wangsakerta。 Naskah Cirebonとも呼ばれる。Panitia Pangeran Wangsakerta (ワングサクルタ王子委員会の意)によって編纂されたと謂れ,Pustaka Rajyarajya i Bhumi Nusantara (列島列王記の意), Pustaka pararatwan i bhumi Jawadwipa (「ジャワドゥウィパ記」の意)など約30点に及ぶ。

[18] 主に Saleh Danasasmita, Sejarah Bogor, Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983 を参照。

[19] Poerbatjaraka, Riwajat Indonesia Dijilid I, Djakarta 1952 [In, A. Surjomihardjo, Pemekaran Kota Kakarta/The Growth of Jakarta, Penerbit Djambatan 1977]

[20] http://id.wikipedia.org/wiki/Kerajaan_Salakanagara

[21] 西暦1453年,コンスタンチノープル陥落。

[22] インドにおけるカーストは,第一階級(ブラマン)=僧族,第二階級(クシャトリヤ)=貴族,軍人,為政者,第三階級(ヴァイシャ)=農工商,第四階級(シュダラ)=労働者,奴隷。

[23] エイクマン,スタぺル(村上直次郎,原徹郎訳)「蘭領印度史」,東亜研究所 1942(原著: A. J. Eijkman, F. W. Stapel, Leerboek der geshiedenis van Nederlandsch-Indie  9th Edition, Gronongen-Batavia 1939)

[24] ここにいう「ジャワ」は,「ジャワ人の住む中部および東ジャワ」を,「古跡」はディエン,ボロブドゥール,プランバナン,シンガサーリなどのものを指す。

[25] Atja, Edi S Ekadjati, Pustaka rajya rajya i bhumi Nusantara, suntingan naskah dan terjemahan I 1, Bagian Proyek Penelitian dan Pengkajian Kebudayaan Sunda (Sundanologi), Direktorat Jenderal Kebudayaan, Departemen Pendidikan dan Kebudayaan, 1987

[26] J. G. de Casparis, Indonesian paleography, E.J. Brill, Leiden/Koeln 1975

[27] A. Heuken, SJ, Historical Sites of Jakarta, 6th Ed., Cipta Locka, Jakarta 2000。(第2章に既述。)

[28] グデ,パングランゴは独立したピーク(それぞれ,2958mおよび3019m)を持つ火山であるが,ピーク位置が近いので,屡々一括して呼ばれる(地図参照)。

[29] 降雨量年間平均2541.2mm。因みに,ジャカルタ1479.5mm,バンドン1655.9mm,東京1528.8mm(http://weather.jp.msn.com/,平均期間不詳)。

[30] 年間322日(1916-1919年平均)。The Guinness Book of Records, Guinness Superlatives Ltd, London, October 1970 に依る。

[30a] インドネシアで降雪/万年雪のあるのはパプア(旧称:イリアン・ジャヤまたは西ニューギニア)あるいは太平洋域の最高峰,プンチャック・ジャヤ山(4,884 m)のみである。

[31] 日本には比較的早く6-7世紀に,イスラム世界へは8世紀,ヨーロッパへは14世紀に伝播したとされる。ジャワへは遅くとも16世紀にポルトガル人が持込んだと思われるが,一般には19世紀まで普及しなかった。インドネシア一帯には他に梶の木(Paper-mulberry=Broussonetia papyrifera)の内樹皮を叩いて展ばしたダルアンと呼ばれるものがあり,ワヤン・ベベール(シートに絵を描いた初期のワヤン)や書物に用いられたが,あまり一般的ではなかった。

[32] 例えば http://volcano.oregonstate.edu/salak

[33] J. W. Judd, The earlier eruptions of Krakatau Nature 40 1889, 365。

「古代王記(Pustaka Raja Purwa)」は,スラカルタ(ソロ)の宮廷詩人ランガワルシタ3世(Ranggawarsita III)が1860-1880年代に著した世界最長の書といわれるもので,スラカルタ王宮図書館に秘蔵される。筆者は現代語訳のコピーを未だ目にしていない。

[34] Purwadi, Sejarah asal-usul tanah Jawa, Persada, 2004 [In, http://javanologi.blogspot.jp/2009/05/asal-mula-tanah-jawa-dr-purwadi-mhum.html]; Hamamdin, Aceh Hingga Bali Membentang Dalam Satu Pulau, May 11, 2009 (http://poestaka-ku.blogspot.jp/2009/05/aceh-hingga-bali-membentang-dalam-satu.html)

[35] アジサカの時代はイスラム教が創始された7世紀より,600年前であった。スルタン(Sultan)の語は一義的にイスラム教徒の国の皇帝または支配者を意味するが,この語は一般の独裁者はまたは圧政者をも意味するようになった。例えば英語では”Sultan Cromwell”などと言う(OED2)。「マハプルワ物語」の書かれた10世紀に用いられたのに理不尽はない。

[36] David Keys, Catastrophe―An investigation into the Origin of the Modern World, Century, London 1999。日本語版:畔上司訳「西暦535年の大噴火―人類滅亡の危機をどう切り抜けたか」,文芸春秋 2000

[37] 恐らく「南史總目卷七,梁本紀中第七」の「大通元年(西暦529)閏十二月丙午,西南有雷聲二」が該当(日本語版の訳文は正鵠を欠くので注意)。なお,筆者が調べたところでは,「梁書卷二,本紀第二」には,「武帝中,天監四年(西暦505年)十一月甲午,天晴朗,西南有電光,聞如雷聲三;天監五年(西暦506年)閏十二月丙午,西南有雷聲二」の記録がある。

[38] K. H.Wohletz,A“Were the Dark Ages triggered by volcano‑related climate changes in the 6th century?”EOS Trans Amer Geophys Union 2000, 48(81), F1305

(http://deephaven.ca/were-the-dark-ages-triggered-by-volcano-related-climate-changes-in-the-6th-century/)

[39] 佐和隆研編「インドネシアの遺跡と美術」,日本放送出版協会 1973

[40] Saleh Danasasmita, Sejarah Bogor,Pemerintah Daerah Kotamadya DT II Bogor, 1983

[41] 例えば,Ian W. B. Thornton, Krakatau: the destruction and reassembly of an island ecosystem, Harvard University Press, 1997; Simon Winchester, Krakatoa: The Day the World Exploded: August 27, 1883, Harper Perennial, 2005

[42] 原題:East of Java,監督:バーナード・L・コワルスキー,主演:マクシミリアン・シェル,ダイアン・ベーカー,配給: シネマ・リリーシング・コーポレーション/松竹,製作年 1969。クラカタウの位置は実際にはジャワ島の西であるが,映画では東に設定されている。

[43] Nature, 30 Oct. 1884, page 663. Also in; Norman White, Hopkins: a literary biography, Oxford Univ. Press, 1995

[44] 筆者試訳。原文は,

Had the fierce ashes of some fiery peak

Been hurled so high they ranged about the globe?

For day by day, thro= many a blood-red eve,

The wrathful sunset glared.

[45] http://faculty.ed.umuc.edu/ ~jmatthew/naples/blog18.htm

[46] Alfred Lord Tennyson, The Works of Alfred Lord Tennyson Poet Laureate, Macmillan and Co., London 1894

[47] Arysio Santos, The Lost Continent Finally Found, North Atlantic Books 2011. 山容を鋸に見立てて命名された例は日本にもあって,赤石山脈の鋸岳(2,685m)がそれである。