第2章      

ジャガタラ異聞  

  

  

アンティーク大砲  

   オールド・バタフィア(現コタ地区)のジャカルタ歴史博物館(旧バタフィア市庁舎)では,前にヤン・ピーテルスゾーン・クーンの肖像画などについて触れましたが,流石に歴史博物館と銘打つだけあって,謂れを尋ねると面白い記念物が他にも沢山あります。中央廊下を抜けて裏庭に出ると正面にシ・ジャグールという名の口径15センチ,長さ4メートル近くもある時代物にしてはとても大きな大砲が置かれています。筆者の知る限り,この大砲は数年前まで博物館前の広場を隔てた反対側の歩道の上にありましたが,ずっと以前はシティウォール外の草むらに転がっていたそうです[1][2]。砲身の手前のところには砲身自身と一緒に鋳造された握り拳が付いていて,大正10年にこれを御覧になった徳川義親公は「じゃがたら紀行」[2a]の中に「日本では観覧禁止に値するものだが,阿蘭陀人は泰然として路傍に雨晒しにしてゐる。」と記されていますが,人差指と中指の間から親指の突出た拳は現代のわれわれの眼にも異様に映ります。  

  

シ・ジャグール(別名キアイ・サトモ)。照準の先にヘルメス像が見える。ジャカルタ歴史博物館にて,2007年2月,筆者撮影。

  

キ・アムック。バンテン博物館前庭にて,1998年3月,筆者撮影。

  

   同書には,この大砲は男性で名前はキャイ・サトモ(ストモ)といい,バンタム(現在のバンテン・ラマ)に許婚がいて,両者が結ばれるときジャワは外夷を打払って独立を迎えるという予言が紹介されていますが,両者はインドネシアが独立して60余年を経た今も離れ離れです。筆者はバンテンを訪れたときに,成程,そこの博物館の前に,拳は付いていないものの大きさも形も似通った,キャイ・ストモと好一対のキ・アムック(または キ・パムック)という名の大砲があるのを見ましたが,「バンタムのサルタン国」なる本[3]には,タイトルの「キ」が示すように,この大砲が男性でジャカルタにあるのが女性とあって,「じゃがたら紀行」の話とはあべこべです。ともあれ,19世紀のソロの有名な宮廷詩人ロンガワルシタ三世の著作にあって,其処此処に触れられている伝説では,キャイ・ストモは言うまでもなく男性で,彼のお相手は,現在ソロの王宮に存在するニャイ・ストミという名の大砲ということになっています。そのあらましは次のようなもののようです[4]。 

 

「嘗て,パジャジャラン国の王が,夢の中で雷鳴のように轟く兵器を見て,宰相のキャイ・ストモに,左様な兵器を探せ,然らずんば死すべしと告げた。困ったキャイ・ストモは,妻のニャイ・ストミとともに神の助けを求めて祈りに入ったまま王の前に姿を見せなかった。遣いに出した者から,宰相の家で奇妙な2つの物体を見たという報告を受けた王が見に行くと,それらは正に彼が夢に見た兵器であったが,そこに天の声あり,それらが宰相夫妻の化身であると告げられた。  

   時が経って,(1628-29年にバタフィアへ遠征した際に)件の兵器の話を聞いたマタラムの王スルタン・アグンは,それらをカルタスラの都に運ばせたが,キャイ・ストモは其処に留まることを好まず,ある晩,自力で王宮を抜出してジャカルタに戻った。しかし城砦の前に着いたときには既に夜が明けていて,彼はその先に進めなかった。人々は神聖な大砲であるに相違ないと畏敬し,小さな紙の傘で覆った。ニャイ・ストミの方は,新都スラカルタに移されたが幸せではなく,彼女が泣いて流す涙は下に置かれたボウルに落ちた。」  

   今もソロ王家の秘宝であるニャイ・ストミは公衆の目に曝されることなく,実際に訪れて見ると,王宮の一つ,クラトン・スラカルタ・ハディニングラットのホールに置かれた大きな櫃に格納されていました。筆者が過去に唯一目にしたそれと思しき一葉の写真には,ニャイ・ストミの零す涙を受けるためか,砲口部の下の床に小さな缶のような器がありました[5]が,大砲そのものはジャカルタにある情夫のキャイ・ストモに釣合うには随分小さいように見えました。新聞で見付けた2010年の清掃式の折にカーテンを透かして撮られた写真[6]では,砲口の径が人の頭ほどあって,キャイ・ストモに相応しく見えます。  

  

   

例年恒例の清掃式の折に撮られたニャイ・ストミ。KOMPAS Citizen Image 24 Feb 2010 (以下のウェブ画面より転載) http://citizenimages.kompas.com/citizen/view/52937‑Jamasan‑Maulid

  

 

スラカルタのハディニングラット王宮正面広場に鎮座する巨砲グントゥール・ゲニ。 2012年2月,筆者撮影 

  

   なお,第1章に述べた如く,ニャイ・ストミとキ・アムックは,「サケンデルの書」の中に,スペインから来たスクムルがタヌナガ王女を獲得するためにジャヤカルタ王子へ代価として与えた3門の大砲のうちの2門として登場しました。因みにもう1門はグントゥール・ゲニと言いました。同書ではニャイ・ストミの行先はチレボンとなっていましたが,物語の中のことですから詮索しないことにしましょう。  

   フィクションの世界から離れましょう。キャイ・ストモについては,一般にオランダが1641年 にポルトガルの領有していたマラッカを陥れたときの戦利品である[7]と言われていますが,ジャワに現存する古い大砲については,それぞれに歴史があるようです。デ・グラーフ博士の書[8]に依れば,ニャイ・ストミは,1609年頃にスラバヤの王子にポルトガルから贈られ,7年後にマタラムがスラバヤを陥落させたときに内陸に運ばれた,更に1677年にマドゥーラの反乱軍によってカルタの王宮から収奪されたが,翌年オランダとマタラムの連合軍が旧都を回復したときに奪還されて新王都カルタスラに運ばれ,1746年に現在に続く王都スラカルタに移されました。なお,キャイ・ストミの名は,それが製造されたポルトガル領ゴア(1510-1961)の町サン・トメ(St. Thome)が,キャイ・ストモのそれは,それを運んできた船サンクタ・マリアム(Sancta Mariam)に由来するであろうとの推定があります[9]。なお,インドネシア語で大砲のことをメリアム(meriam)といいますが,恐らく語源は同じでありましょう。  

   上述の書には,キャイ・グントールゲニにも言及がありました。それは長さ5.3m,口径36cmの巨砲で,クラトン・スラカルタ・ハディニングラットの正面広場にあって,その異名パンチャウラ (Pancawura) がジャワ暦1547年(西暦1625年)と解釈されるところから,同年にあったスルタン・アグンがススフナン即位の慶賀に因むことが窺われます。恐らくマタラムで鋳造されたと考えられるこの砲は粗いつくりで,裂け目も傷もありますが,それでも途方もない爆音を轟かせたのが,グントゥール・ゲニ(火山爆発の轟の意)の渾名を得た理由であろうと書かれています[10]。  

   シ・ジャグールに関しては,その名がミスター・ロブスト(robust=強健)またはミスター・ファーティリティ(fertility=繁殖力)を意味する如く,古来これに詣でると子が授かるという言伝えがあるそうで,博物館の外にあった頃には子宝に恵まれない女性によって花が供えられ香が焚かれていたのを筆者も覚えています。砲身の手前部には幅10センチほどのブロンズのベルトが巻かれ,ラテン語で

EX ME IPSA RENATA SUM (我,我自身より再び生れぬ)

と浮彫りで刻まれています。鉄砲鍛治は兵器である大砲に何故にこの文言を刻み,奇妙な拳を付けたのでしょう。筆者はその意図を量りかねています。  

   なお,ソロのニャイ・ストミにもポルトガル王の徴(しるし)とともに「嗚呼キリストよ,貴殿最も完全にして世の民を導き給へり」といった祈祷文が付されているそうですが[11],こちらは寧ろ鍛冶の正直な願いと解釈されましょう。

      

反逆者ピーター・エルベルフェルド記念碑  

   博物館裏庭の左方(東側)には高さ3メートル,幅4メートルほどの石塀があり,中央の石版のパネルにオランダ語とジャワ語で次のように書かれています。

反逆のかどにより處刑せし忌はしきピータ・エルベルフェルドを記念する爲,何人もこの處に,今後永遠にわたり,木にあれ石にあれ建築すべからず,また一切の建築すべからず,また一切の植樹すべからず。1722年4月14日 バタフィア[12]

   このパネルは記載の通り1722年に反政府クーデターを企てたピーター・エルベルフェルドなる人物の反逆を後世に伝えるためにつくられたものですが,元々は彼の住んでいた家の門扉をコンクリートで固めたもので,戦前はその上に鑓に突刺して石膏で固めた彼の頭蓋骨があって,バタフィアの名物の一つであったそうです。事件の概要は色んな本などに書かれ,「ピーター・エルベルフェルドはドイツからやってきて財をなした裕福な商人の男と地元の女性(タイ人女性との説あり)の間に6人兄弟の末子として1663年に生れたが,彼は兄たちがヨーロッパ風の男児として育ったのと異なって熱狂的なジャワニスト(ジャワ主義者)になり,オランダの支配を快しとしないマタラム王家のラデン・カルタドゥリアと語らって,バタフィアにいる全てのヨーロッパ人を殺戮せん謀ったものの,未遂に終って処刑された。」といったことのようですが,詳しい話が100年前に書かれたジャワに在住したイギリス人実業家であり歴史家でもあったドナルド・キャンベルの大著「ジャワ―過去と現在」[13] に載っていました。10ページに及ぶ情景描写を含む記述はドラマの筋書きのようで甚だ興味深くありますが,全訳を載せる訳には行かないので,簡単に要約してみましょう。  

   ピーターの出自と生立ちは殆ど巷説の通りですが,仲間とともにクーデターを計画しながら,それが成功しても,商人の息子という彼の身分では支配者になり得ないと考えていたようです。そこに現れたのが中部ジャワのマタラム王家のカルタドゥリアとその兄弟で,この2人は,オランダに反感を持っていたというよりも,内実は普通ならば自分たちに王位継承のチャンスがなかったのであるが,ピーター・エルベルフェルドと結託して権力を握り,ひとりは王に,もうひとりはスルタンになるという野心を抱いたことのようです。  

  

ピーター・エルベルフェルドの晒首のあった石塀(ジャカルタ歴史博物館裏庭)。2006年2月,筆者撮影。

  

   少し脇にそれますが,ジャワには古代以来幾つもの王朝が興りましたが,王位継承のルールが曖昧であったためか,絶えず内部抗争がありました。13世紀,クディリ朝をクーデターで倒して後を襲ったシンガサーリ朝では3代に亙って骨肉の争いが繰返され,13世紀末に興ったマジャパヒト王国でも15世紀になると王位継承のための内戦で王国自体が支離し,終にはイスラム勢力に付け込まれて滅裂するに至りました。16世紀に成立して今に続く新マタラム王朝においても18世紀前半に3度の相続争い,所謂ジャワ継承戦争があり,1755年にオランダの仲介(ギアンティ条約)によって領土を折半してソロのススフナン家(本家)とジョクジャカルタのスルタン家(分家)に分れました。スルタン家の出で19世紀に反オランダ戦争(所謂ジャワ戦争,1825-30)を挑んだディポネゴロ王子は,インドネシア独立後「国家英雄」に叙せられ,彼の名はあちこちの都市の大通や,中部ジャワのスマランの大学にも付されましたが,彼が何故王宮から出奔して反乱を起こしたかに関しては,「1811-1815年の英国占領時代,彼は第一王子でありながら母親の身分が低いために王位に就けず,ラッフルスの執成しで王となった異母弟の庇護者になったのだが,オランダ治世復活後,その若い王が夭折したときもチャンスがなかったので失望した。」ことが大きな理由であったようです。オランダは体制を守る立場にありましたから王宮側に付き,ディポネゴロの軍と戦いました。5年に亙るゲリラ戦の後,彼は和平の場に出ましたが,自ら名乗るスルタンの称号を捨てることを頑なに拒んだため,俘虜の身となりました[14]。ジョクジャカルタ王家の出の人からは,ディポネゴロは一族の中で食み出し者として伝えられているとも聞きました。   キャンベルの書に戻りましょう。  

  

「ピーター・エルベルフェルドの住居跡」 ラッパード(Josias Cornelis Rappard) 1888  作。http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pieter_Eberveld.JPG より転載。塗り固めた門扉に由来を記したパネルあり,その上に晒首が見える。

  

   ピーター・エルベルフェルドは,彼のクーデターが成就した暁には全ジャワの最高イスラム僧の地位に就くことで満足と考えていたそうです。彼は終生独身であったようですが,彼の家には亡くなった兄から引取ったメーダという名の美しい姪がいました。ピーターは当然のことながら彼女を土地の娘として育て土地の男と結婚させる積りでいましたが,彼女は密かに若いオランダ人の将校に恋心を寄せていました。以心伝心というべきか,彼のほうもメーダに熱い好意を寄せ,彼はある日ピーターのところに結婚の許しを乞いにきましたが,ピーターが言下に拒否したので,彼はメーダに駆落ちしよう持掛けました。その日の夜更け,メーダは義父を裏切ってでも恋人のもとに走るべきや否やと悶々と悩み,自分の部屋のベランダに出てみると屋敷内の燈火を点滅させるように幾つもの黒い人影が横切るのが見えました。義父の身を案じて彼の寝室に行ってみたが中は空っぽで,彼がベッドに休んだ形跡もありません。廊下に彼の姿を見付けてこっそり後をつけると,彼はダイニング・ルームに入りましたが,灯りが落された室内には大勢の人間が集まっている様子でした。訝りながら鍵穴に耳を寄せると,中からは小声で恐ろしい計画が語られているのが聞こえ,鍵穴を覗くと,大勢の男が腰のクリス(短剣)に手をやり,その手に唇を寄せるのが見えました。クリスチャンが聖書に手を置いて誓うのと同じ意味の仕草です。動転する心を鎮めながら自室に戻って眠れぬ夜を過した彼女は,翌朝,クーデター計画のことを手紙に書き,できれば義父が反逆者の一人であることは伏せて欲しいとの一行を添えて,密かに恋人に送りました。これを受取った若い将校のほうもメーダ同樣の驚愕に襲われて上官に報告しましたが,謀議が行われたのがメーダの義父の家であることを隠しおおすことはできませんでした。政府は急いでマタラムほかジャワ島内各地の領主にも警告を送り,計画実行の前夜,ピーター・エルベルフェルドが,集合した仲間に「夜明けの1時間前に決行!」と最後の言葉を告げた頃には,家の周りは既に兵で囲まれていました。  

   事件後にメーダと恋人のオランダ士官の運命がどうなったかは,少なくとも筆者が調べた限りでは不明です[15]。  

   キャンベルの書には,裁判で告げられたピーター・エルベルフェルドとカルタドゥリアならびに共謀者に対する判決文(英訳)も載っていますが,読むほどに恐ろしいもの,著者自身も「18世紀の処刑方法は斯様に苛酷であった。」と記しているように,主謀の2人に関しては彼等の四肢をそれぞれ4頭の馬に繋いで八つ裂きにするというものでありました。思いを巡らせば日本でも火炙りや釜茹での刑のあった時代のこと,オランダ人ばかりが残忍であった訳でもありますまい。  

   このクーデター未遂事件に関しては,エルベルフェルドの所有する土地建物の収用を企んだ政府の捏ち上げであったという説[16]もありますが,幾ら200年以上前のこととはいえ果して本当でしょうか。筆者には,この説自体が捏造であるように思われます。  

   記念物に載っていた頭蓋骨について,日本の占領下のジャワに軍の教宣員として送られた阿部知二の随筆集「火の島」に,1944年に破壊されたことが暗示されていますが[17],オランダに敵対した人物の記念物であれば称えてもよさそうなものを日本軍が何故取除いたのでしょう。バタフィア史家ホイケン氏の書には「欧亜混血の人々を喜ばすため」[18]と書かれていますが,筆者は寧ろ別の理由はなかろうか,地元の人がジャワを占領して大手を振っている日本兵が,昔の残忍であったオランダ人に自分たちを重ねて見られることを畏れたためでなかろうかと思います。  

   なお,件の石塀のレプリカはタナーアバンの石碑公園にもあって,これには鑓に刺した頭蓋骨も載っていますが,インドネシア独立後に石塀とともに元の場所に復元されたものであった由,塀のほうは歴史博物館にあるものが本物と伺いました。 [18a] 

   ピーター・エルベルフェルドの住居跡を見てみたいと思って,博物館のEさんに尋ねたところ,プチャー・クリットの辺りであろうとのこと,彼女の御主人に付合って貰ってその辺りに行ってみましたが,地元の人は誰もピーター・エルベルフェルドの名前すら知らない,プチャー・クリット(皮を壊すの意)の地名は彼が八つ裂きにされて皮膚がずたずたになったことに由来するとされていますが,人々は自分たちの住んでいる街の忌わしい名にも無知無頓着な様子でした。表通りのジャラン・パンゲランに出てグレジャ・シオン(シオン教会)で訊ねたところ,同じ通の200メートルくらい先だと教えられました。嘗て阿片工場,その後に製油工場になっていたという通の9‐11番地には近代的な日系自動車会社のディーラーの店があって,昔の面影は微塵もありませんでした。  

  

文化財の日本軍による破壊と田中館教授らによる保護  

   日本軍は,ピーター・エルベルフェルドの曝首のほか,ウェルテフレーデンにあったヤン・ピーテルスゾーン・クーンの銅像,デーンデルスがバタフィアの改造を行ったときに唯一残した城門,アムステルダム門(Amsterdamse Poort)の守護神像など,市内にあったオランダに因む記念物を悉く破壊しました。そういえば,昔は歴史博物館建物正面のパルテノン型の屋根中央の手前,日本家屋でいえば鬼瓦の位置に立っていたギリシャ神話の正義の女神テミス(ローマ神話のユスティティアに相当)の像が日本占領下で失われたと何処かで読みましたが,右手に剣を左手に天秤を持った像の謂れを知らぬ下士官程度の輩が,肩から腕にかけて肌を曝した西洋女が自分たちが徴用した建物のシンボルになっているのは怪しからんといった程度の判断で撤去したのでなかろうかと思います。因みに,シンガポールにはイギリス支配の礎を築いたラッフルスの像がありましたが,大戦の勃発とともに出張先の仏印(フランス領インドシナ)から命令も曖昧なままに急行して博物館の保護に当られた田中館秀三教授と,少し遅れて軍の最高顧問として現地に渡られた徳川義親公のふたりは,文化遺産を軍が破壊することを断じて許さず,ラッフルス像は博物館の一室に保護されて,戦後無事にイギリスに返還されました[19][20][21]。残念ながら蘭領東インドに進駐した日本軍周辺には同様な判断を下せる人がいなかった,阿部知二らの徴用文化人には文化財の保護を軍に進言する気概も見識もなく,異国滞在をエンジョイした風の人が多かった,女郎屋に入浸っていた人までいたようです[22]。  

   但し,ジャワ島内の大学,博物館および研究所は,幸いなことに難を逃れました。在シンガポールの徳川義親公と田中館教授はそれらが破壊されるのを憂慮され,ジャワに飛んで来られた田中館教授は,直ぐさまシンガポールにおけると同樣に軍部と談判,短時日の間にそれらを巡回して軍が手を付けないように封印し,オランダ人であるが故に捕虜になっていた学者たちを収容所から開放されました。彼の著書「南方文化施設の接収」には,その中の1人で火山学者仲間のファン・ベンメレン博士と携えて中部ジャワのムラピ火山に登られた記録もあります[23]。また,当時,それぞれ東京帝国大学と九州帝国大学から派遣され,バイテンゾルフ植物園(現ボゴール植物園)と腊葉館の長を務められた中井猛之進教授と金平亮三教授は,軍部が植物園の樹木を木材にするために伐採しようとするのを阻止するのに尽力されたという逸話が残っています[24]。徳川義親公と田中館教授は,1929年に蘭領東インドで開かれた第4回太平洋學術會議に参加されたメンバーでもあり,その開会式冒頭で「科学者諸君は政治を超越し,国粋的排外主義や多少なりとも利己的な動因を離れて諸問題を議論し解決する覚悟を持ってくれることを願って止まない。」と訓示した,時の蘭領東インド総督デ・フラーフ博士に共感されていたに相違ありません[25][26]。  

  

シオン教会  

   前出のシオン教会は別名ポルトガル教会,また一般的にはブラック・ポーチュギーズ・チャーチとして知られ,1695年に,ポルトガル系インド人奴隷のためにオランダ政府が建てたもの,400年間全く改修されることなく保たれていて,ジャカルタ市内の貴重な文化遺産の一つになっています。牧師さんに御案内頂いて中に入ると,元々カトリック教会ながらステンドグラスもなくオランダ風の質素で質実な雰囲気,近年はカトリック信者が減少し,10年ほど前にプロテスタント教会に変ったと教えられました。この教会の正面入口の手前右手地面に質素な墓あり,墓碑を見ると,

「此処に眠るは貴き蘭領インド前総督ヘンドリック・スワールデクローン。1667年1月26日ロッテル  

ダムにて出生,1728年8月12日バタフィアにて他界。」

とありました。  

  

シオン教会前庭のヘンドリック・スワールデクローン総督の墓。2013年5月 西見恭平氏撮影。氏の好意により提供を受けて掲載。墓碑に,“Hieronder rust de weledele Heer Henric Zwaardecroon. oud- Gouverneur-Generaal van Nederlands-India gebooren tot Rotterdam den 26 January A° 1667en overleden tot Batavia den 1 2 Augustus A° 1728”とある。

  

   墓の主はピーター・エルベルフェルド事件が起きたときの総督(在位1718-1725),予め知ることなく彼の墓前に立ったのは何かの因縁かと思って,クリスチャン流に十字を切りました。後で調べたところ,彼は,在任中にコーヒーの栽培や養蚕を導入するなどしてジャワの発展に尽くしました。彼は総督という名誉な地位にあったにも拘らず引退後は地味な暮しを選び,一般市民と同じ墓地に葬られることを願いました。石棺の蓋の金をあしらった銀のタンカードは,彼を讃える後任の総督によって贈られたのだそうです[27]。  

  

シオン教会礼拝堂。2006年9月,筆者撮影。

  

ヘルメス像  

   歴史博物館の裏庭でもうひとつ目に付くものといえば,ブロンズ製のヘルメス像で,以前に現在の都心の手前のハルモニーというところの橋の欄干の上にあったのを筆者も見ていましたが,数年前には失くなっていたので心配していました。銘板には2000年にここに移動されたとあります。  

  

ヘルメス像 (ジャカルタ歴史博物館)。2006年2月,筆者撮影。

  

ヘルメスは申すまでもなくギリシャ神話の伝令の神(ローマ神話のメルクリウスに相当)で,この像も,一橋大学の校章にもなっている商業のシンボル,ケリュケイオンの杖を左手に持っています。実は上記のハルモニーという名のところには,嘗てハルモニーなる名の有名な建物がありました。1815年建造の当時の上流階級のクラブハウスで,現在の国立図書館も国立博物館も産声を上げたところ,プリブミ[28]の施工業者が落札して建設した最初の近代的建造物としても貴重な建物でもありましたが,1985年,その歴史的価値を知らぬ国務省の長官が脇の道路(マジャパヒト通)を拡幅し,国務省敷地内に駐車場を設けるために取壊しを命じたといいます[29]。スハルト大統領の時代(1968-1998)には,実に多くの歴史的建造物が壊されました。ハルモニーの近くにあった有名なホテル・デス・インデス[29a]も取壊されて,跡地にはショッピングセンターが建っています。  

  

 

1985年に破壊撤去される以前のハルモニー・ビルディングおよびその周辺。オランダKITLVの許可の下,西見恭平氏の好意を受け,以下のウェブ画面より転載。http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/。手前の橋の欄干中央にヘルメス像があった。嘗て市内を縦横に走っていた路面電車は廃止されて久しい。

  

往時の監獄  

   歴史博物館の建物の裏側には鉄格子の窓のある半地下の小部屋が幾つかあって,中を覗くと鎖の付いた直径15~20センチの鉄球がごろごろ転がっています。建物が市庁舎であった時代の監獄で,前述のディポネゴロも,捕らえられてからスラウェシ(セレベス島)のマカッサルに流刑されるまで,暫時ここに囚われていたそうです。付加えるまでもなく鉄球は罪人の逃亡を防ぐための足枷でありました。  

  

旧バタフィア政庁舎(現ジャカルタ歴史博物館)本館裏側にある半地下の監獄。2006年2月,筆者撮影。

  

   博物館の1階には,ジャカルタ周辺で発見された古代からの遺物を集めた部屋があり,4-8世紀に栄えたタルマ国時代のプラサスティ(石碑)や,16世紀にパジャジャラン王国とボルトガルとの間で結ばれた友好条約の記念碑など,ここに陳列されているのは全てレプリカですが(本物の多くは国立博物館に収蔵),それらを一箇所で解説付きで見られるのは大きな利点です。これらの石碑に関しては別の章(第3章)で触れたいと思います。  

  

シナ人の大暴動  

   ピーター・エルベルフェルドの謀反は未然に終りましたが,その18年後の1740年10月,バタフィア史上最悪の事件,シナ人の大暴動が起りました。事件の顛末は多くの歴史書に書かれていますが,事件の翌年7月,英国の雑誌に載った生々しい記事[30]を見付けたので,以下に抄訳してみましょう。記事の題名には「バタフィアの暴動―1740年10月のバタフィアに於けるシナ人の暴動および市の状況の記述(バタフィアからの手紙に基いてオランダで報道)」とあります。  

   「私は,市内外のシナ人(人口90,000人以上)による,全てのヨーロッパ人を惨殺しジャワ島の支配者になるという陰謀のために,我々が遭った陰鬱な不幸について(正確に)伝えることができない。  

   斯様な企図を持って,5~6千人のシナ人が高地に屯し,火炎と刀でもって殺戮,略奪,破壊を行った。30~40人づつ計4~500人が捕えられて尋問され,如何にして食を得ていたかを明かさぬ200人はセイロンに遠流され,他の者はパンを与えられて釈放された。だが,この予防策は効をなさず,高地での暴動は日毎に激しさを増したので,政府は支隊の派遣を決め,ファン・イムホフ (Gustaaf Willem van Imhoff) とファン・アールデン (Maurits van Aarden) と800人の兵を送った。彼らは数日間高地に滞在して戦闘し,敵を敗走,分散せしめた。一方,バタフィア市域内外に住むシナ人は,十分な数量の木砲や他の兵器を蓄え,地下に穴を掘って火薬を仕掛けるなど,あらゆる準備を整えた。謀反が正に実行されんとしたとき,神意によってか,5人のシナ人が自らの意思で出頭して,同胞が企む修羅の情景を伝えた。衛兵と防衛拠点は倍増され,城内の事務員や船荷監督人も例外なく武装を命ぜられたが,政府は起り得べき事態を十分に把握していなかった。  

   この状況は2日間続いたが,10月8日日曜日,オンルスト島[31]がシナ人に襲われ,全てのヨーロッパ人が殺され,あらゆるものが焼かれたとの諜報が入った。政府は全てのシナ人は戸を閉じ,道路に出ることなく,夜に灯火を灯すことのないよう,違反する者は直ちに射殺するとの布令を出し,全ての道路や脇道に衛兵を配した。  

   政府が会議を持つ前の7時,シナ人はユトレヒトゲート近くの郊外に火を放ち,我々が消火のために現れたら襲う魂胆であったが,彼らは誤った。門は閉ざされ固く守備されていた。8時近く,政府は門の守備隊員に,2人1組で個々に打って出る準備を命じた。9時,4~5万人のシナ人が太鼓,トランペット,バソンで騒音を発し,恐しい叫び声を上げて仲間に攻撃に出るよう鼓舞したが,彼らは我々の整然さと秩序を見て仲間に加わる機会を失い,3000人余が我々に捕えられた。  

   他方,市外ではシナ人たちは火炎と刀でもって破壊を続け,ユトレヒトゲート外で15人の黒人護衛兵[32]を急襲,ディースゲートをも襲って,全員を殺害した。ニューゲート近くの60名もシナ人に襲われたが,彼らは勇敢に戦い,敵を殺して門を守った。この場所は我々の大砲の射程範囲でもあった。同夜,我々の160名の騎兵と歩兵が出撃し,拠点と城外に住むキリスト教徒を辛くも守った。我々は,鋭気を持って危なげなく敵中で一夜を過した。  

   翌朝,シナ人は郊外を放棄した。政府は,我々の安全を守る策が他にないので,婦女子以外のシナ人を殺すよう命令を出した。シナ人住居の扉が斧や機械で壊され,引き出された男は殺され,女と子供はチャイニーズ・ホスピタルに運ばれた。道路,小河川,堀は死体で満ち,場所によっては足首まで血が淀んだ。  

   ルア・マラッカ[33]の800人が立て篭もるシナ人首長の家に向けて,(大川の)対岸に大型の銃器が配備された。我々が襲ったとき,婦女は傷付けないという約束に従って約30名の女が出てきたが,その中に女の衣装で変装した首長がいた。彼は良く知られた人物であったので直ぐに見破られ,城に送られた。  

   日曜日午後,ファン・イムホフとファン・アールデンが兵とともに高地から市に戻った。同2時頃,全市が燃えた。怖れをなしたシナ人は自らの家に火を付けて悲惨な最期を遂げ,出てきたものは直ちに殺害された。  

   大火災は,特に,城に逃れ得たか否かを問わず婦女の間に大混乱を招いた。市の大半,特にシナ人居住区は灰と化した。収監されていた635名のシナ人は同夜に処刑された。この混乱の中でシナ人の金品が略奪され,中には9~10萬リックスドル相当の獲物を得た船乗りもいた。他のシナ人は山地に逃れて火炎と刀で破壊を続けたが,我々は彼らの多くを殺した。  

   この暴動の中で我々が失ったのは200人に満たなかった。現在,主領2名以外は1ヶ月以内に投降すれば赦免するという布令が出されて,既に数百人が出頭したが,同時にシナ人の首を獲った者には1000リクスドル,生け捕りにした者には5000リクスドルの賞金が与えられたので,200の首と300の捕虜が集った。上述の赦免は11月22日が期限であるから,それまでに投降せぬ者は,無法者ということになる。  

   牢に入れられた者の自供によれば,シナ人の企みの目的はバタフィアの主となって全ての貿易を牛耳ることにあり,彼らは,成功の暁には,政府の全員を殺害,自国の敵と目するイムホフとアールデンの肉体を切り刻んで喰う,全ての老齢者は焼殺,若者は男女を問わず奴隷となす,VOCの社長は最も残忍な形でシナの首長と妻に仕えさせる積りであった。この惨劇で,12000人に近いシナ人が死した。」  

   シナ人(特に広東,海南,福建の華人)は西洋人が到来する以前に東南アジアの港湾都市に移住していました。商工業に長けたシナ人はオランダ人の建てたバタフィアで人的資源の不足を補う立場にあって,VOC総督の認めた首長のもとで独自の社会を形成していましたが,人口が増した彼らとVOC政府との間には様々な軋轢が生れ,自らジャワの主役になりたいと欲したのは無理からぬことであったかも知れません。カリ・ブサール(チリウン川)左岸にあった彼らの居住区は事件後,市域外南東のグロドックに移されたといわれ,今もそこの住人の殆どは中華系の人々です。  

   事件当時の総督はアドリアーン・ファルケニール(Adriaan Valckenier,在位 1737–1741)でした。彼は虐殺の罪をファン・イムホフに着せようとして後者をオランダ本国に送りましたが,本国では逆に責はファルケニールにあると判断して彼を解任,ヨハネス・テデンス(Johannes Thedens,在位1741–1743)を暫定的に総督に任じました。ファン・イムホフはバタフィアに戻って総督に着きました(在位1743-1750)。  

  

「バタフィアの一部,1740年10月9日のシナ人大虐殺の模様」 J. ファン・デル・スフレイ 1740。http://en.wikipedia.org/wiki/. . . より転載。

  

   当時の絵を見て驚かされるのは,事件の悲惨な光景とは別に,バタフィア市街の運河,道路が理路とし,湾曲した屋根が特徴のシナ人の建物までが整然としていた有様です。オランダ人得意の都市計画といえばそれまでですが,彼らの特質には頭が下ります。事件の爪跡は,筆者の知る限り,今は何も残っていません。  

  

ジャワの鉄道道路  

   博物館近くの鉄道の駅,「ジャカルタ・コタ駅」に立寄ってみましょう。丸屋根を持ち,半円を縦に伸ばしたようなユニークなファサードのある西側が正面ですが,実は南面も北面も同じデザインですから,うっかりすると何処が正面か錯覚に陥ります。駅舎の中に入ると東京の上野駅やロンドンのキングスクロス駅を連想させる如何にも終着駅という雰囲気,改札を過ぎると5~6本のプラットフォームが縦に並び,両脇にはレストランや土産屋があって旅情を感じさせます。しかし朝夕のラッシュアワーにはボゴールやタンジュンプリオクとの間を結ぶ近距離電車の通勤客で溢れ,筆者も巻込まれて揉みくちゃにされたことが幾度かありました。  

   未だボゴールに住む以前に出張で行った折のことですが,中部ジャワ方面行の夜行汽車を待つ間,2時間ほど時間があったので若い駅員を掴まえて建物の由来を訊ねました。彼は,現代の若者には珍しく過去のことに関心があると見えて早速調べてくれて,駅は1870年にできた,現在の駅舎は1926年にガイセルス(Frans Johan Louwrens Ghijsels)というオランダの建築家の設計で改築された,デザインは西洋と地元の伝統建築を融合させたものであるといったことを教えてくれました。駅名は昔は「バタフィア南」といったそうですが[34],広義のバタフィアは,中心部のウェルテフレーデン,南部のメーステル・コルネリス(今のジャティネガラ),東部のタンジュンプリオクとの4つの独立行政体の集合体でしたから,駅名は狭義のバタフィアの南部の駅という意味であったと解せられます。この駅は一般には今も,汽車をここに最初に走らせた会社の略称べオス(BEOS,Bataviasche Ooster Spoorweg Maatschappij,バタフィア東鉄道会社)の名で親しまれています。筆者が一度ジャカルタ市内でタクシーを拾って「駅まで」と告げたところ,運転手から「ベオスかガンビルか。」と問われたことがありましたが,ベオスの意味を知っていたので慌てずに済みました。  

  

ジャカルタ・コタ駅。プラムディア・アナンタトゥールの小説表紙。Equinox Publishing の好意を受けて転載。

  

   なお,ガンビルは今の都心のメダン・ムルデカ(独立広場)近くの駅名で,昔はウェルテフレーデンといったそうですが,その名は廃れています。序ながら,ジャカルタをバタフィアという人は流石にいませんが,バタフィアの現地語訛のブタウィ(Betawi)は生きていて,地方に行くと「彼はブタウィに出かけた。」,「オラン・ブタウィ(ジャカルタの人)はせこい。」などといいます。  

   少し脱線しましたが,ジャワで最初に鉄道が開通したのは日本では明治維新前年の1867年(中部ジャワのスマラン-タングン間)のこと,新橋-横浜間に初めて陸蒸気(おかじょうき)が走る5年も前のことでした。意外に思われる読者も多いかと思いますが,色んな近代的な施設や制度の導入はジャワのほうが日本より10~15年も早く,日本が漸く追いついたのは1920年代になってのことでした(表1参照)。  

  

表1 近代施設制度導入年次

 

ジャワ

 

日本

年差

1808

縦貫駅馬車道路(アニェール-パナルカン)

 -

()

 -

1851

近代的医学校創立(バタフィア医学校)

1861

(西洋医学所)

10  

1858

電信開通(バタフィア-ボゴール)

1869

(東京‐横浜)

11  

1859

海底ケーブル敷設(ジャワ‐外島)

1872

(関門海峡)

13  

1864

郵便切手発行()

1871

()

 7  

1867

鉄道開通(スマラン‐タングン)

1872

(新橋‐品川)

 5  

1881

電話開通(バタフィア-ボゴール)

1890

(東京‐横浜)

 9  

1886

近代的港建設(タンジュンプリオク)

1894

(横浜)

 8  

1925

ラジオ放送開始(バタフィア,BRX)

1925

(東京,JOAK)

 0  

1928

定期航空確立(王立東インド航空會社)

1928

(東西航空社)

 0  

)データ出典:Torchiana, H. A. van Coenen, Tropical Holland, An Essay on the Birth, Growth and Development of Popular Government in an Oriental Possession, University of Chicago Press, Chicago 1921; 白石隆 「プラムディア選集2:人間の大地―パンフレット 」メコン 1986,ほか。

  

   国土の整備はもっと進んでいて,徳川義親公が1921年の手記[35] の中に「車は坦々として砥のやうな路を矢のやうに駛ります。」などと記され,その前後に日本からジャワを訪れた竹越與三郎[36] や鶴見祐輔[37] のみならず,アメリカの旅行家カーペンター[38] も異口同音に感嘆していますから,ジャワの道路は欧米並の水準にあったことが窺えます。どこで読んだか忘れましたが,オランダ本国から旅行に来てジャワの道路を羨望を込めて綴った人もいました。昭和15年(1940年),阪急電鉄を育て上げた実業家で,商工大臣として日蘭会商のためにバタフィアを訪れた小林一三は「蘭印を斯く見たり」[39]を著しました。稀覯本というほどではありますまいが,今は殆ど忘れられている書でもあるので,中の一節を原文のまま引用させて頂きましょう。  

   「ジャバだけについて見ると鐵道の延長五千四百粁,面積百平方キロ當り五粁六といへば日本の五粁八に比べて大差なく,しかもバタビアからスラバヤまでこの島を横斷して八百三十キロの間を十二時間で走破する列車の立派さは,その快速といひ,乗心地といひ,設備の行届いてゐる點など,わが東海道線の列車でも遠く及ばない。それから又羨ましいのはこの島の道路である。バタビアからスラバヤまで一路坦々たるアスファルトで舗装された八百三十粁の大道を七,八時間でドライブする快適さ,道の両側には榕樹やタマリンド,合歓の木などの並樹が涼しい影を路面に投げてゐる。しかも自動車道路の完備してゐるのはこの幹線ばかりではない。バタビア,スラバヤ,スマランなどといふ都市を中心に,完備した道路が四方八方に擴って,末は山間僻地,山の絶頂まで延びてゐるのである。」  

  

1930年代初期のジャワ+マドゥーラ と日本の鉄道路線図。ジャワ+マドゥーラは Kaart en Tekst, eerste Atlas van Nederlandsch Indie voor de Indishe Lagere School, Groningen Batavia 1938. より作成,日本は http://www.rtri.or.jp/museum rosen/rosen.html (1936) の図を採用.

  

   ジャワの近代道路の濫觴は,前章で触れた縦貫道路,デーンデルスが夥多の犠牲者を出しながら建設した島西端のアニェル(Anyer)から東端のパナルカン(Panarukan)に至る全長1000キロメートルの大駅馬車道路(デ・フローテ・ポストウェフ)にあったと言って良いでしょう。この道路について,1861年にジャワを訪れて「ジャワ-如何にコロニーを経営するか(Java or How to Manage a Colony)[40]」を著した英国人ジェームス・マネーは「道路は複線で1本は家畜専用,1本は馬および車両用になっている。車道は舗装されていて,両方のレーンとも素晴らしく良く整備されている。インドにある二,三の短い鉄道を例外として,ジャワの駅馬車はアジア唯一の文明化された陸上交通機関である。」,更には「20,30あるいは30マイル毎に公設の駅があって,快適なイン(ホテル)がある。」と述べています。また,3年後の1851年にマレー諸島歴訪の途中でジャワに立寄った自然学者アルフレッド・ウォーレスは,著書「マレー列島(The Malay Archipelago)[41]」の中に,「平野は耕されて,灌漑が行き届き,また町に近づくと砂糖工場の煙突などが見える」豊かな風景に触れたのに続けて,「道路は数マイルずつ真直ぐに走り,(道路左右が)タマリンドの木で隔てられている。1マイル毎に警官が常駐する小さな詰所があって,其処には木製のゴングがあり,音の組合せによって,情報を非常な速度で国中に伝達できるようになっている。駅は6-7マイル毎にあって,直ぐに馬を交替させているが,これはイングランドの馬車時代と同樣である。」と記しています。  

  

ジャワ島縦貫大駅馬車道路(De Groote Posweg)。筆者作図。

  

   木製のゴングというのは真中にスリットを入れた丸太を吊し,槌で打って音を出す,所謂スリットゴングであって,音の組合せ(コード)によって様々の情報の伝達がなされたそうです。通信時間は原理的に [音速×距離+打音時間×中継所数] で決まりますから,500キロメートル先まで信号を届けるのに要する時間は,打音時間30秒,中継所数200箇所と仮定して,高々2時間(500,000/340/60+0.5×200≒124.5[分])であったと推定されます。前述のピーター・エルベルフェルド反逆事件の際に政府がバタフィアから地方に警告を送った時などにも,恐らくこの通信手段が用いられたと思われます。インドネシア語でクントンガン(kentongan)と呼ばれるこの種のゴングの小型工芸品を,筆者はバンドン盆地に西から入るチパダット峠の土産屋で求め,ボゴール在住中,寓居で食事の時間などを報せて貰うのに使っていました。  

   コタ駅に戻りましょう。プラットフォームに行くと不思議なことに気付きます。こちらのフォームの線路と隣のフォームの線路との間が広く空いているのです。レールのゲージはと見てみると明らかに狭軌です。戦前のジャワの鉄道では幹線には広軌(標準軌),ローカル線には狭軌が採用されていました[42]。いつだったかインドネシアに来ていた若い国鉄関係の人が「日本はジャワ占領中に鉄道ゲージの統一に貢献した。」などと誇らしげにいうのを聞いて唖然としたことがあります。確かな文献がないので責任は持てませんが,実は折角広軌であった路線を狭軌にしてしまったことのようです。日本は戦時中に,映画「戦場に架ける橋」[43]で知られる泰緬鉄道(タイ-ビルマ間)を建設しましたが,蘭領東インドやシンガポールで捕らえた蘭英人や,ジャワで徴集した労務者とともに,ジャワ島内を走っていた機関車や車両に加え,島内に敷設されていたレールを外して運んだそうです[44]。ジャカルタから東のチレボンの方に向う列車に乗ったとき,線路が単線であるにも拘らず何10キロにも亙って路床の幅が複線に充分な箇所のあることに気付きました。駅にある複数のプラットフォームの間隔が異常に広いのはジャカルタ・コタ駅に限ったことではなく,ボゴールでもバンドンでも,中部ジャワのジョクジャカルタやソロの駅でも同じです。  

   ジャカルタ都心のガンビル駅は,1990年代に,双つの時計塔のある昔の駅舎を潰して高架式に改築され,1929年の第4回太平洋學術會議の際に特別仕立の列車が横付けになった停車場[45],プラムディア・アナンタトゥールの小説[46]にも綴られた独立後混乱期の浮浪者らの溜り場といったイメージは全くありません。建物3階のプラットフォームに上がってみると,ここでも隣の線路との間が必要以上に空いていますが,将来,再び広軌化するのに備えてのことでしょうか。インドネシアの鉄道の近代化には日本の資金(円借款)も使われていますが,日本政府に戦時中の罪滅ぼしをしようという意思があるとは到底考えられません。  

  

国立博物館  

   独立広場を挟んでガンビル駅の反対側のメダン・ムルデカ西にある国立博物館に行ってみましょう。アジア最古の歴史を誇るこの博物館は,1778年創立のバタフィア芸術科学協会(Bataviaasch Genotschap van Kunsten en Wetenschappen)を起源とし,現在地にあるパルテノン神殿を模した白亜の建物は創立者の一人である J. C. M. ラデルマッハー(Jacob Cornelis Matthieu Radermacher)の負担によって建設され,1868年に開館しました。玄関を入ると左側に数個の石の仏像が置かれ,突抜けて中庭に出ると,それを囲む左右と正面が陳列室の軒下の廊下には百を越える様々な形の石像やブロンズ像が並べられています。ことほど左様,この博物館はムーセウム・パトゥン(彫像博物館)の異名を持ちます。石像には9-10世紀に中部ジャワに栄えたサイレンドラ王国が建てたボロブドゥール遺跡などから運ばれたものもありますが,東ジャワのシンガサーリ遺跡ほか,現地では保存が困難なために収容されたものも多くあって,それぞれに詳しい説明がインドネシア語と英語で併記されています。1階の陳列室にはインドネシア全域から集められた纖維や織物,石器や土器,日本渡来の古伊万里を含む陶磁器,クリス(剣)や槍といった古い武具などの夥しい数の収蔵品が部門毎にまとめられています。古代王朝以来の金銀財宝は2階の特別室にありますが,これらも係員にお願いすれば見せて貰えます。  

  

ジャワ原人物語  

   この博物館に固有の骨董的価値を超越した収蔵品といえば,ジャワ原人ほかの原始時代の人の化石で,これらは1階の特別の区画に展示されていますが,発見の歴史はお浚いするに値します[47][48]。チャールス・ダーウィンが「種の起源(The Origin of Species)」を出版して進化論を唱え,「将来,猿と人類の中間の生物の化石が必ずや発見されるであろう」と予言したのは1859年のことでした。オランダのエイスデンに生れアムステルダム大学で解剖学を修めたウジェーヌ・デュボア(Marie Eugene Francois Thomas Dubois,1858‑1940)は,もともと考古学に強く興味を持っていましたが,ダーウィンの説に刺激されて終には嘱望されていた大学の地位を捨て,1887年に軍医となって東インドに来ました。医者として勤務する傍ら,彼は暇を見付けてスマトラで発掘を試みましたが,それらしき化石は見つかりませんでした。しかし,1890年彼の情熱に打たれた政府は彼が化石の探索に専念できるように計らいました。ジャワ島中部の後に「ブンガワン・ソロ」に詠われて有名になったソロ川の河岸に目を付けた彼は,トリニールの段丘で数十人の人夫を雇って発掘を行い,1891年歯の化石(トリニール1号)と頭骨の化石(トリニール2号またはピテカントロプス1号)を,翌年大腿部の化石(トリニール3号)を発見,その種をピテカントロプス・エレクトスと名付けました。しかし,「ミッシング・リンク(断たれた連絡の意)」を見付けたというデュボアの発表は,大型の猿か人骨の化石でないかと疑われて中々受入れられず,嫌気の射した彼は論争から身を引きました。デュボアの発見が世に認められたのは,シナで北京原人,南アフリカでアウストラロピテクスの化石が発見された30年以上も後のことでした。海のものとも山のものとも知れぬデュボアの宝捜しを後援したお役人の名は不明ですが,今時の政府,取分け日本の文部科学省などでは全く考えられないことで,科学の研究の端に身を奉じた筆者は,その無名の役人のデュボアを見込んだ慧眼と度量をも称えたい気持です。  

   爾後,ジャワ島では,1910-40年代に地質調査所によって大規模かつ広範囲の調査が行われ,シンガランにおけるソロ人の発見(1931-33),モジョクルトにおける幼児の頭骨の発見(1936),サンギランにおける数個のピテカントロプス化石の発見がありました。インドネシア独立後の発掘発見に関しては母国で医学を収めたのちオランダで古人類学を学び,新設のガジャマダ大学で学長まで務めたテウク・ヤコブ教授,バンドン工科大学の地質学者のサルトノ教授らの業績が特筆されています。  

   国立博物館ほかの博物館やバンドンの地質研究所でも一般の者が目にできる化石の標本は,全てレプリカだそうですが,色彩や細かな傷まで見事に表現されていて,真贋は素人にはとても判別できません。  

   ジャガタラの街,今のジャカルタから遠く離れますが,筆者がサンギランを訪れたときの模様を少し付加えましょう。サンギラン考古学博物館は中部ジャワのソロの都心から車で南に30-40分の郊外,ソロ川河岸段丘の寂れた村にありました。前触れもなく訪れた専門家でもない筆者を快く迎えてくれた所長の御案内で中に入って先ず驚かされたのは,2階屋の小じんまりとした建物の中にある夥しい数のコレクション,中でもピテカントロプスと同時代の差渡し4メートルもあるマンモスの牙や一抱えもある顎,様々な動物の骨の化石を見たのは初めてで,甚だ印象的でありました。更に興味深かったのは,12~15センチ大の平たくて赤っぽい2個の凝灰岩と直径18センチくらいの灰色の真丸の石(筆者には石質不明)で,2個の凝灰岩はチョッパー(刃物)とその原石,後の石は狩のための擲弾であろうとの説明を頂き,自分の祖先かも知れない化石の主は確かに道具を使っていた,彼らは猿でなかったと納得しました。発掘作業は現在は休止しているとのことでありましたが,研究室では古代の水牛の化石の復元が行われていました。小さなものは僅か数ミリの断片を破断面の形と色彩を頼りに恰も巨大で複雑なジグソーパズルを解くように組合わせ,不足部分を石膏で補う作業は見るからに大変そうでしたが,何事にも根気強いことで知られるジャワ人の館員は厭う風もなく,楽しんでおられる様子でした。  

  

サンギラン考古学研究所所蔵品の一部, 人頭骨化石(上)と石器(下)。 2006年9月,筆者撮影。

  

   人類の祖先に関し,暫く前までは「数百万年前にアフリカで誕生した最初の人類である猿人(Australopithecus)が約150万年前に原人(Homo erectus)に進化して約100万年前にユーラシア大陸に広がり,それぞれの地域で古代型新人(Early Home sapiens)をへて現代型新人(Modern Home sapiens)へと進化したという説(多地域連続進化説)が信じられていましたが,1987年,アフリカから他所に拡がった古代型新人は全て杜絶え,アフリカで進化した現代型新人が10-20万年前に拡がっていたという異説(アフリカ単一起源説)が出されて論争になっているようです。後者の説によれば全ての現代人女性のミトコンドリアDNAが14-19万年前にアフリカに居た唯一人の女性「ミトコンドリア・イヴ」に遡るのだそうです。その説の信奉者が書いたものの中には過去から行われてきた化石探索,分析といった手を汚す研究が恰も無意味であるといった風の論調がみられますが,科学の実験らしきことに手を染めた筆者は到底同意する気になれません。  

   ジャカルタの国立博物館の最大の特徴といえば,現在190万点を越えるコレクションの全てがインドネシアの領域から集められたものであること,集客目的で外国から買い求めた美術品などが皆無であることであろうかと筆者は思います。もう一つ特記すべきは,オランダ統治時代にオランダ人が,インドネシア由来の歴史的遺物を少数だけ研究用に本国のレイデン大学に送った以外は殆どここに収蔵したことでしょう。筆者自身,それを知る以前にアムステルダムの国立博物館を訪れたとき,そこにインドネシア関係のコレクションが殆どないのを見てがっかりしたことがありました。  

   英国人でインドなどのアジアの領土にきた人々は,植民地は出稼ぎの場と位置付けて引退後に本国に帰って余生を過す傾向にありましたが,オランダ人は本国と植民地の区別なく,海外領土に何代にも亙って住み付きました。事実,筆者のオランダの友人の中にも,父君は南スマトラのパレンバン出身,細君は北セレベスのトモハン生れなどといった人達がいます。1922年以降,東インド,蘭領ギアナ(現スリナム)およびキュラソー島は,憲法上ネーデルラントと同格となっていましたから,1941年に本国がドイツに占領されて王室と政府がイギリスに亡命したとき,東インド総督チャルダ・ファン・スタルケンボー・スタクーウェル(Tjarda van Starkenborgh Stachouwer)が,翌年日本が侵略してくるなどとは露だに予期せず,バタフィアに遷都するよう提案したほどでした。この案は,幸いにも,老齢のウィルヘルミナ女王の長旅を案じたウィンストン・チャーチルの意見と,占領された本国の近くに留まりたいという女王御自身の意思により実現を見ませんでした。  

   上にインドネシアの歴史的遺物は殆ど現地に残されたと書きましたが,例外もない訳でありません。考古学的研究が始まって遺跡遺物の価値が認められ始めた頃の1871年,タイのチュラロンコーン王のジャワ御訪問の折,象の彫像を賜った返礼に,政府は仏教徒である王にボロブドゥール遺跡の仏像の何体かを贈呈しました。象の彫像は国立博物館前庭にシンボル的に置かれ,同博物館の異名ムーセウム・ガジャ(象の博物館)を生みました。それ以前,1810年代の英国統治時代に,11世紀東ジャワに栄えたアイルランガ朝の王統を記した石碑がラッフルスによってインドに運ばれ,カルカッタ・ストーンと呼ばれていますし,アルフレッド・ラッセル・ウォーレスの書[49]には,1861年に東ジャワのモジョクルトでマジャパヒト時代の彫刻に魅せられた彼が,斯様な物が入手できたらと願望を述べたところ,驚いたことにヒンヅー女神ドゥルガの立派なレリーフを贈られたことが,精密なスケッチとともに解説付で記されています。  

  

徳川義宣公御光臨  

   私事になりますが,ボゴール在住中,「じゃがたら紀行」の著者徳川義親公の御孫様の(故)義宣公をこの博物館に御案内する機会がありました。2001年の正月明け,電話が鳴るので受話器を取ると何と義宣公の懐かしい御声,前年臘月に送ったクリスマスカードに認めた「一度爪哇に御来駕遊ばされ,御祖父様の足跡をお辿りになられては如何でせう。」との添書きへの御返事で,近々にお忍びで御来駕下さるとの由,御滞在頂ける期間は義親公が2回の御訪問で7日プラス43日の計50日であったのに対して僅か5日間でありましたから,要所要所をできる限り効率的に御覧頂ける旅程を御用意しました。予め博物館に館長を訪ねてお願いしたところ,残念ながら御自分は海外出張の予定と重なるので,陶磁器部長で考古学が専門のE女史に御案内させますとのことでした。ボゴール植物園,バンドン工科大学,ジョクジャカルタ近くのボロブドゥールやプランバナンの遺跡などを巡ってジャカルタに戻り,国立博物館ではEさんの出迎えを受けました。彼女には筆者も初見でありましたが,義宣公を案内される彼女の姿が「絵になっている」のが印象的でありました。このあと筆者は彼女を師と仰ぎ,ジャワの歴史や文化について沢山のことを教わるようになりました。ボゴールの寓居にお招きしたときのこと,Eさんが,拙宅にあった嘗てインドネシアに来た外国人画家の作品を集めた本[50]の中の1枚の王子の肖像画に見入っておられました。礑と閃いて,「若しかして御先祖ですか。」とお訪ねしたところ,見破られましたかといった表情で「曽祖父です。どうして分ったの。」とお答えになりました。普段は伏せてをられますが,ラデン・アユ(Raden Ayu)の称号をお持ちのジョクジャカルタ・スルタン家系のお姫様,世が世ならば侯爵の爵位を襲っておられた筈の義宣公と好一対であっても不思議でないと得心し,御自分の代理の御案内役に部下の中からラデン・アユ・ミセス・Eを指名された博物館館長の御思慮も納得できました。  

  

国立博物館伝統織物展示室 (御案内のE女史と(故)徳川義宣公)。2001年2月,筆者撮影。

  

ジョクジャカルタ王家では,プトゥラ(Putri,王子),プトゥリ(Putra,王女)の次の3世代の子孫(王の曾孫まで)は,男女それぞれ ラデン・マス(Raden Mas),ラデン・アユ(Raden Ayu),5代目から7代目まではラデン(Raden),ララ(Rara)の称号を持ちます。このルールはソロのススフナン王家やほかのスルタン家では多少なりとも曖昧だそうですが,こういった称号が高貴な出自の証しであることに変りなく,それを持つ紳士淑女は庶民に敬愛されています。「えっ。インドネシアは共和国であるのに,ジャワには王様や貴族がおられるの。」との御質問には,別の章でお答えしましょう。  

  

アルジュナ・クリシュナ像  

   ジャカルタの中心部,国立博物館に程近いメタン・ムルデカ(独立広場)南西角のラウンドアバウト北側に,八頭立ての二輪戦車を御すクリシュナと後部席で弓を構えるアルジュナを模った雄大な彫像があります。バリ生れでバンドン工科大学芸術学部出の偉大な彫刻家,イ・ニョマン・ヌアルタ氏の1987年作,8頭の神馬は当時のスハルト大統領が好んだ人生哲学,ヒンヅーの教えにあるアスラ・ブラタ(為政者の具えるべき8つの美徳)を象徴する8神[51]を体現したものだそうです。最初の像はポリエステル樹脂製であったために劣化したので,2003年に40万ルピア(当時の為替レートで約5000万円)もの大金を投じてブロンズで作り替えられた由,そういえば,以前は像全体が白っぽかったように筆者は記憶します。1997年に始りインドネシアをも襲ったアジア通貨危機の後遺症の未だ癒えぬ頃でしたから,贅沢だといった批判もあったそうですが,筆者はジャカルタ市当局の決断を是としたいと思います。  

  

ジャカルタ市内独立広場西南角にある通称「アルジュナウィジャヤ像」。イリノイ大学 Prof. N. Nrayana Rao の許可を得て,同教授撮影のものを借用。 http://faculty.ece.illinois.edu/rao/statue.html

  

この彫像は「アルジュナウィジャヤ像」の名で普く知られていますが[52],筆者の間違いでなければ,ラーマーヤナの枝分れ話として14世紀書かれた詩文形式のカカウィン・アルジュナウィジャヤ(アルジュナの勝利)にクリシュナは登場しませんから,理由は筆者には不明です。2人の英雄はマハーバーラタまたは,その終章に基づくバーラタユッダには同時に登場します(古い時代のジャワ文学については第6章参照)。何れにせよ,ジャカルタ市内で他に目立つ彫像といえば,スカルノ大統領時代に作られた独立の大義を標榜するものが殆どでありますから,古典に因むこの像は大変にユニークな存在,経済発展が優先されたスハルト大統領時代に造られた数少ない文化的記念物の一つであると思います。  

   ジャワ島ジャカルタから離れますが,バリ島南端ブキット半島にある面積240ヘクタールに及ぶガルーダ・ウィスヌ・クンチャナ公園もスハルト大統領時代末期の1997年に建設が始められたもので,中心に据える計画の神鳥ガルーダに跨ったウィスヌ神の金張りブロンズ像は何と高さ150メートルという壮大なものでした。製作を命ぜられたのは,ジャカルタのアルジュナ・クリシュナ像を造ったのと同じイ・ニョマン・ヌアルタ氏でした。筆者がそこを訪れる機会を得たのは開園翌年の2006年のこと,資金不足のため像全体は未完成でしたが,既に出来上って別々に地面に据え置かれたウィスヌ(ヴィシュヌ)神の上半身とガルーダの頭部は,高さがそれぞれ20メートル,18メートルもあって,別々のままでも圧倒的存在感を見せていました。  

  

ジャカルタの穴場  

   本稿は観光ガイドではありませんが,今昔の感を抱かせる二,三の穴場を紹介しましょう。ジャカルタ歴史博物館(旧バタフィア市庁舎)の前庭(タマン・ファタフィラー)の向い(Jalan Taman Fatahillah)に「バタフィア・カフェ」という名のレストラン・カフェがあります。昼間も開いているので,博物館見学の後に,ハイネケン遺産のピルセン・ビール,「ビル・ビンタン」で乾いた喉を潤し,オランダ風の軽食を取って休憩するのに格好のスポット,2階建ての建物は柱から窓枠に至るまで総チーク造の贅沢さで,建築年次は筆者には不明ですが,古き良き時代の遺産であることに間違いなく,これまた建物自体に博物館的価値があると思います。室内にはマレーネ・デートリッヒ,マリリン・モンローらといった往年のスターのブロマイド,昔日の珍しい風景や人物の写真のコピーなどを入れた無数の額が食堂といわず廊下から化粧室まで柱や壁一杯に掲げられていますが,配置は全く無秩序ですから,若し勉強のために見ようとすれば自分の頭の中で分類整理しなければなりません。このカフェを夜分に訪れたことはありませんが,メニューにあるお酒の種類の豊富さと値段から推して,オランダほかヨーロッパ諸国からの昔を懐かしむ観光客で賑わうものと想像されます。  

  

バタフィア・カフェ (左から,(故)徳川義宣公,国立博物館 E女史,工業省 B君)。2001年2月,筆者撮影。

  

   コタ(旧バタファイア地区)からメダン・ムルデカに行く手前,イスタナ・ネガラ(国家宮殿の意,独立前のオランダ総督公邸)の裏手のバトゥトゥリス大通(Jalan Batutulis Raya) 45-47番地にグラメの図案のネオン看板が目印のポンドック・ラグナという名のレストランがあります。グラメ(Osphronemus goramy)というのは,名前と形が観賞用熱帯魚のグラミーに似ているので,それと同じ仲間でしょうが,頭から尾まで30-40センチにもなる淡水魚で,スンダ料理の代表的食材,グラメ・ゴレン(グラメ唐揚)やグラメ・バカール(焼魚)などにして供されますが,何れも香辛料で味付けされます。白い肉の質は淡水魚のものにしては秀逸で,イカン・マス(金魚の意であるが,形状は鮒に近い。学名 Cyprinus carpio L)のような泥臭さがないので,筆者は一度試しに塩焼にして呉れと注文してみましたが,味は頗(すこぶ)る良好で大満足しました。  

   200平方メートルもあろうかというレストランには夕方から食通の客が押掛けて賑わい,グループ毎に,グラメ料理のほか,チャプチャイ(八宝菜に似た野菜炒め,「雜采」の訛),牛肉とカイランの炒め物,サポ・タフ(豆腐スープ)などを囲んでいます。インドネシア料理というとスパイシーで外国人の口に合わないこともありますが,ここの料理は少し洗練されていて,マイルドな味です。筆者は,スンダ料理というより,「マカナン・ブタウィ(バタフィア料理)」といった方が良いと思います。  

  

ジャカルタ・バトゥトゥリス大通のスンダ料理屋「ポンドック・ラグナ」の看板。2007年1月,筆者撮影。

  

   都心の東側にあるラデン・サレー大通47番地(Jl. Raden Saleh Raya No. 47)に「オアシス」という名のレストランがあります。建物は,嘗ては1928年に茶,ゴムおよびキニーネのエステートを持つ富豪ブランデンブルフ・ファン・オルトセンデが邸宅として建てたチーク造り,シャンデリアとステンドグラスで飾られた豪邸で,大戦初期にはオランダ総督が空襲を避けて疎開していたという謂れもありますが,1970年代に開いたというこのレストランの第一の魅力は供されるお料理でしょう。メニューブックの項目は唯ひとつしかありませんが慌てること勿れ,そのライス・ターフェルは,オランダ式ジャワ料理のフルコースであって,アイテムは,ココナッツソースをかけた茹卵,スパイシーに炒めた牛肉,インドネシア風チキンカレー,海老の串焼き,テンペ(発酵大豆),バナナの唐揚など盛り沢山です。それらは,1ダースもの人数のウェイトレスが,銘々に1種類づつを入れた大鉢を捧げ持ってテーブルに運び,客の大皿に,白米の御飯を中心に盛ってくれます。フルコースといっても頂く順序に決まりはありません。ライス・ターフェルは英語でいえばライス・テーブルの意,大勢のウェイトレスが給仕してくれるのは寧ろ特別で,テーブルに並べられた幾種類ものお料理を,客が自由に取分けるのが伝統的,その発祥は往時都会を離れたプランテーションにあった由です。筆者は,西ジャワにあって世界的にも有名なグヌン・マス茶園での会合で馳走に与ったことがありますが,山の中腹で,広大な茶畑を眺めながら頂く気分は格別でありました。ライス・ターフェルはオランダにも渡っていて,筆者はアイントホーフェンに滞在した折に,フィリップス本社の近くに「ジャワ」という名の専門レストランを見付けました。オーナーは30年前にジャワから来られたという方で,毎年故国に帰ってスパイスを調達されている由,お味の方は,肉や野菜の質が冷涼な欧州の此処の方が熱帯のジャワより良いためでしょう,ジャカルタやバンドンのレストランより美味しいと思いました。  

   オアシス・レストランのある大通の名に付けられたラデン・サレー(1807-1880)は19世紀に活躍した近代絵画の先駆的巨匠で,ヨーロッパにも長く滞在して数々の名作を残しました。オアシスのある建物が彼の住居であったという巷説は誤りで,彼の妻でドイツ人富豪の娘コンスタンシア・フォン・マンスフェルドが建てたローマン・ゴシック様式の豪邸は,近くの別の場所にあって,今は病院の一部として使われています。  

   ラデン・サレー大通が接するチキニ大通(Jl. Cikini Raya)25番地に「バクル・コフィ-」という小さな喫茶店があります。この店を筆者が知ったのは比較的最近のこと,数年前にジャワを訪れたとき,友人のB君が面白いところを見付けたからといって,Eさん夫妻と筆者を連れて行ってくれました。店の名バクル・コフィー(Bakoel Koffie,バスケット・コーヒーの意)にオランダ式の旧綴りが使われていることもさることながら,中に入ると表のガラス窓にあった腰にサロンを巻き,収穫したコーヒー豆の入った浅い籠を頭上に載せたチャーミングな若いジャワ娘のロゴが仕切のドアなどにも描かれて,驚かされたのは内装から調度,道具に至るまで,全てクラシックな雰囲気を漂わせていたことでした。テーブルや椅子は全て木製,よく見るとそれらは昔の店や事務所,学校などで使われていたものの寄集めのようですが,奇麗に磨き直され,全部焦茶色に塗り直されて,ニスが掛けられていました。置かれている暇つぶし用のゲームは,伝統的なチョンクラックのみで,この国でオランダ時代から盛んなチェスも当世流行の電子ゲームもありません。但し,奧の方の客席にはノートパソコンを持込んでいる人もいて,それはお客の勝手のようです。裏庭の軒下にはジャワに於けるコーヒーの歴史年表をプリントした縦長の旗が下がり,「西暦1000年 ブカラ(Bukhara)の医師であり哲学者のアヴィセンナ(Avicenna)が,彼がバンカム(bunchum)と呼んだコーヒーの薬効について最初に記述。」に始まり,「1616年 モカからオランダへコーヒーが齎された。」,「1706年 ジャワ産の最初のコーヒーがアムステルダム植物園に送り返された。」などが記された項目の最後には「2001年 バクル・コフィー開店。」とありました。室内の壁の隅には1枚の華僑の老人の写真ありました。店主によれば,老人は彼の曽祖父でリアウ・テク・スンといい,1878年にコーヒー焙煎業を起した人だそうです。バクル・コフィーは今の代に始め,姉妹店はジャカルタ市内のあちこちに数店あるそうです。この店で振舞われるコーヒーといえば,細かく挽いた豆の粉をカップに入れ,そこに熱湯を注ぐトゥブルク(別名トルコ式)で,砂糖はジャワ古来の椰子砂糖という徹底振りです。トゥブルク(Tubruk または Toburk)が第二次大戦中にドイツのロンメル将軍が包囲攻略した北アフリカの地名であることは以前から知っていましたが,何故これがコーヒーの淹れ方に付けられたかは,筆者には未だ疑問です。さて肝心のコーヒーの味のほうは,現代の若い世代の好みに合わせたためか豆の炒り方が浅めのようで,伝統的な深炒りを好む筆者には少し物足りなく感ぜられました。  

  

ジャカルタ・チキニ大通「バクル・コフィー」の店内風景(E女史,夫君およびB君)。2007年2月,筆者撮影。 

  

じゃがたらの名を遺す渡来品  

   ジャガタラの地を離れますが,日本への渡来品でジャガタラの名を残すものを幾つか考察して見たいと思います。最もポピュラーなのは恐らくジャガイモで,この名がジャガタラに因むことは殆ど常識となっていますが,いざ調べてみて,その由来が曖昧模糊としていることに驚かされました。定説が見つからないのでインターネットで検索してみたところ夥しい数の該当ページがありましたが,大多数はコピーのコピー,財団法人いも類振興会の日本いも類研究会の説明も「約400年前の慶長年間(1600年前後)にインドネシアのジャカルタを拠点にしていたオランダ人が長崎に入れたと言われています。」とあるだけで,巷説以上のものでありません。大学の先生の書かれたものも学説というには乏しいものばかりで,中には

(1)

鎌倉・室町・桃山時代にはカボチャ,トウガラシ,トウモロコシ,ジャガイモなどの新大陸由來の作物が渡來した(G大学),

(2)

慶長年間(1596-1614)にオランダ人によって長崎に持ち込まれたものに始まるとれ,その年次は慶長3年(1598)としている向もある。(N大学。T大学も同じ内容)

などという珍説もありました。  

   (1)の鎌倉時代は西暦1185-1333年,南北朝時代を含めても1392年まで,コロンブスの航海の100年も前に終っていましたから新大陸原産のトウガラシ,トウモロコシ,ジャガイモが渡来した可能性は全くなく,(2)の1598年は,オランダ船の初来航,船長クワッケルナック以下,ヤン・ヨーステン,ウィリアム・アダムスらの乗るデ・リーフデが臼杵の浜に漂着した2年前に当りますから,オランダ人がこの年に持込んだ筈がありません。  

   東インド経由でオランダ船が日本に来た最初は1609年で出発はマレー半島のジョホール港,第2回目は1611年で矢張りマレー半島のパタニ港,第3回目は1612年で,このときはジャワ島からではありましが,港はバンタムでありました。ジャカトラから来た最初はオランダが同地に商館を築いた3年後の1614年で,このときのスヒップ船オウド・ゼーランディアは「ジャカトラ」という名のヤハト船を伴っていました[53][54]。したがって,若しジャガイモが,オランダ人によってジャガタラの名とともに齎されたとするならば,この年次であった可能性があります。しかし,もっと直接的な文献はないかと漁っている中,日本の植物学の先駆者白井光太郎博士の著作に「植物渡來考」[55]という書があることを知り,幸運にも古本の出物が1冊あったので,早速求めて開いてみたところ,次のように書かれていました。  

  

ジャガタライモ(二物考)  

   名稱  漢名洋芋 植物名寶圖考 一名陽芋同上 和名八升イモ甲州 一名清太夫イモ秩父 一名松露イモ 一名キンカイモ 一名南京イモ 一名アツプラ 二物考  

   來歴  南米あんです山に野生す シナへは近世渡る 日本へは天正四年南京芋長崎に來ると長崎兩面鏡に出ず 之を八升芋といふは其根を植ゆること一升翌年八升に増殖するを表はす 之を清太夫芋といふは中井清太夫といふ代官特に世話ありて飢饉の用にうゑさしより諸處にふえたり 夫故秩父にて之を清太夫いもといふと譚海に見ゆ 松露いもは形の似たるよりの名 キンカイモは長州の方言にキンカアタマと云ふは禿頭を云ひ形の似たるに因て此名あり 又アツプラは蘭名アールドアツプルの轉訛なり。  

   長崎兩面鏡(りょうめんかがみ)は文政11年(1828)打橋竹雲よって著された毛筆書のようですが,所蔵する図書館がみつからず,また古本市場で見付けたものは価格的に筆者には高嶺の花であった故,参照できないでいましたが,数年経って同書には「長崎年暦兩面觀」[56]の異名あるらしく,その名の書は香川大学図書館に所蔵されていることを知りました。同図書館の格別のご好意で頂戴したコピーには,元亀元年(1570)より文化6年(1809)に至る240年間の年毎の出来事の記録の中,天正4年の欄に,確かに「南蠻船豊後ニ着ス,南京芋種渡ル」とありました[56a]。なお,長崎では南京芋は里芋を指すと地元の方から伺いましたが,東南アジア原産でタロイモの仲間であるサトイモは日本には遅くとも万葉の時代までに渡来していた筈[57],打橋竹雲がイベントとして記録したのはジャガイモの到来であったと信じたいと思います。因みに南蛮船はポルトガル船を指し,阿蘭陀船または蘭船とは区別されていました。

   後に入手した小冊子「ながさきことはじめ」[58]には,「一説には天正4年(1576年)長崎に渡り,トードス・オス・サントス教会の傍らの薬草園にポルトガル人が植えたとも伝えられている。」と書かれていました。ここにある天正4年の年号は「長崎兩面鏡」の記録と同じです。トードス・オス・サントスはイエズス会が1569年に長崎に建てた有名な教会でしたが,1614年または1619年に取壊されました(第1章参照)。1576年説を受入れるならば,ジャガイモはポルトガル人によって齎され,後に「ジャガタラ」のブランドを得たものであろうと考えられます。  

   同項の前段には,「またマレー半島からきたので馬鈴薯ともいう。」とあります。実は筆者もその可能性も考えたことがありました。マレー半島北部(現タイ領)に位置するパタニには14世紀から王国が栄え,16世紀にはポルトガル船が,17世紀初めにはオランダ船が立寄るようになり,現に1611年に長崎に来たオランダのオラニエ(スヒップ船)とブラック(ヤハト船)はパタニが出発港でありました。しかし,ジャガイモを積んできたという証拠はなく,また,MalayaおよびMalay(マラヤおよびの形容詞のマレー)の漢字表記は昔から「馬來」であって,「馬鈴」と書かれた例はありませんでした。  

   「植物渡來考」にある「二物考(救荒二物考)」は,高野長英(1804-1850)が天保年間に著した書(大部分弟子による口述筆記)ですが,念のためと思ってそれが収録されている本[59]を見てみると,飢饉を救う作物として蕎麦とジャガイモが取上げられ,由来に加えて,栽培法から調理法までが詳述されていました。  

  

「馬鈴薯略圖」渡辺崋山による勸農備荒二物考の挿絵  

東京大学図書館の許可を得て,以下のウェブ画面より転載。  

http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2006/shiryo_05.html

  

   ジャガイモはジャワ島でも栽培されていますが,もともとアンデス高地の作物ですから,熱帯の同島では栽培場所は約1000メートル以上の高地に限られ,産地としては西ジャワのタンクバンプラフ山中腹のレンバン,中部ジャワのディエン高地などが有名です。筆者はディエンを訪れたときに農家で南京袋一杯のジャガイモを求めて帰りましたが,インドネシアでは最高の味で,隣近所にもお裾分けしました。  

   「植物渡來考」には,「ジャガタライモ」の次に「ジャガタラスイセン」が載っていました。  

  

ジャガタラスイセン (草本圖説)

   名稱  漢名未詳 和名ジャガタラユリ  

   來歴  メキシコの原産にして嘉永年間に舶來すると草本圖説にあり。舶來草本銘書にジャガタラユリ花形葉形ともキンサンヂゴに似て薄紅百合咲とあり薄紅といふに嫌はあれどもジャガタラスイセンならん。  

   この花は,現在は英名(amaryllis)のアマリリスで呼ばれています。嘉永(1848-1854)といえば江戸時代も末期の頃ですが,なお「ジャガタラ」は魅力的なブランドであったことを窺わせます。アマリリスはジャワ島でも良く見掛けます。  

   辞書には,「ジャガタラ」の付くものに,他に「ジャガラタ縞」,「ジャガタラみかん」がありました。  

  

ジャガラタ縞  

   じゃがたら島ヨリ來タルト云フ織物 (大辭林)。江戸時代,ジャガタラから渡来したという木綿縞織物。島物の一種 (広辞苑)。  

   ジャガタラお春が晩年に日本に寄越した「しんもんすごけ(後家)のジャガタラ文」の中の贈物リストには,「𛁈ま(縞) 壱ひき,しま(縞)たちもの 一反」が含まれ,発信人不明のジャガタラ文にも「むらさきしま(縞)ひとへ物」の記載がありました[60]。  

   これらは現在のインドネシアでは,バリ島および以東の島々で作られているイカットという織物に相違ないと思います。但し,西ジャワでパジャジャラン王国が栄えた時代(1482-1587)に書かれた詩文物語「ブジャンガ・マニク」[61]の中には貴族の女性がイカットを織る場面がありましたから,日本に運ばれた「ジャガタラ縞」が,地元産のものであった可能性は否定できません。  

   筆者は偶々スラウェシ(セレベス島)南部のピンランという寒村で家内工業で作られているところを見学したことがありますが,工程は日本の絣の場合と似ていました。柄を出す緯糸は1.5メートルほど隔てた2本の竿の間に水平に平たく張り,「イカット」の語が元は「括る,縛る」を意味する如く,デザインに従って染めたくない部分を糸で括ってから染料液に浸けて染上げる,色が2色以上の場合には,糸で括って染める工程が繰返されるのだそうです。これをバックストラップ式の手機(てばた)(腰機)に掛けた経糸の間に,デザイン通りに通して布にする訳ですが,この手の織機には経糸をパターンに則して上下させるための綜絖(通称,かざり)がありませんから,織子さんは「柄を崩すことなく織り上げるには大変な熟練を要します」といいながら,誇らしげに実演して見せてくれました[62]。斑に染めた糸を織って柄を出すイカットの技法が何処で生れたか特定が困難とされていますが,インドネシア語のイカットが英語に採用されていることは銘記すべきでありましょう。  

  

イカット(ジャガタラ縞)の織子さん。織機は伝統的なバックストラップ式の手機(てばた)。彼女が右手に持つのは,斑に染めた緯糸を通すための杼(シャットル)。 1998年3月,スラウェシ(セレベス島)ピンランにて,筆者撮影。

  

ジャガタラみかん  

   [じゃがたら柚ト云フベキノ誤] ざぼん(朱欒)に同じ(大辭林)。  

   同じ辞書の「ザボン」の項には,ポルトガル語のザンボア(Zamboa)が語源であると示されています。  

   伝来について,上記「ながさきことはじめ」には「寛文7年(1667年),長崎にザボンの種が渡来し,長崎の唐通事盧庄左衛門が,西山神社の境内で栽培した。」とあります。ザボンなどの柑橘類はマレー半島辺りの原産,年代から推して運んできたのはオランダ船でありましょうが,現地名(Jeruk Bali,ジュルック・バリ,バリ・ミカンの意)でもオランダ名(ポンペルムス,Pompelmoes)でもなくポルトガル名が伝わった所以は,16世紀以来久しくポルトガル語がアジアのリグア・フランカ(ligua franca,共通語)であったからと考えられます。ザボンといえば,日本では長崎特産の砂糖漬けが有名ですが,西ジャワバンドン盆地南部のソレアンという町の小さなお菓子屋に,見掛けも味もそっくりのものがありました。砂糖漬けの製法は日本へは唐から伝わったとされていますが,ここへも何時の時代にか,シナ人が伝えたと考えられます。  

  

   

   

  

第2章註  

[1] F. de Haan, Oud Batavia ‑ Gedenboek uitgegeven Genootschp van Kunsten en Wetenschappen naar aanleiding van hetdriehonderdjarrig bestaan der stad 1919 (Eerste Deel), G. Kolff & Co., Batavia 1922

[2]徳川義親 「じゃがたら紀行」, 郷土出版社 1931(十字屋書店 1943, 中公文庫1975);英訳: Marquis Tokugawa (translated by M. Iguchi),  Journeys to Java, ITB Press, Bandung 2004; インドネシア語訳:Marquis Tokugawa (diterjemahkan oleh Ririn Anggraeni dan Apriyanti Isanasari), Perdjalanan Moenoedjoe Jawa, Penerbit ITB 2006

[3] C. Guillot, The Sultanate of Banten, Gramedia Book Publ., Jakarta 1990

[4] Nancy K. Florida, Javanese Literature in Surakarta Manuscripts: Manuscripts of the Mangkunagaran Palace Vol. 2, SEAP Publications, 2000 に依れば, 原典は Ranggowarsita (1802-73), Pustaka Raja Purwa Banjaransari。この話は Suwito Santoso, Kestity Pringgoharjono, The Centhini story: the Javanese journey of life: based on the original Serat Centhini, Marshall Cavendish, 2006; A. Heuken SJ, Historical Sites of Jakarta, Cipta Loka Caraka, Jakarta 1982; Geoff Bennett, The pepper trader: true tales of the German East Asia Squadron and the man who cast them in stone, Equinox Publishing, 2006 などにあるが,ここでは最も詳しく書かれ,原典に近いと推定される次の記事に依った。

http://mhariwijaya.blogspot.com/2008_02_03_archive.html

[5] 左:ニャイ ストミの写真。画像元: http://www.gimonca.com/indonesia/solo.html

右:クラトン・スラカルタ・ハディニングラットのホールに置かれたニャイ・ストミを収納する櫃。2012年2月,筆者撮影。

 

[6] KOMPAS Citizen Image 24 Feb 2010,

http://citizenimages.kompas.com/citizen/view/52937‑Jamasan‑Maulid

[7] E.g., Peter Turner, Brendan Delahunty, Paul Greenway, James Lyon, Chris McAsey, David Willett, Indonesia: Lonely Planet Travel Survival Kit, Lonely Planet 1995

[8] H. J. de Graaf, Wonderlijke verhalen uit de Indische historie, Moesson, Den Haag 1981。 http://indonesie.actieforum.com/t3516‑de‑kanonnen‑bij‑de‑solose‑kraton に,Bericht Onderwerp: De kanonnen bij de Solose kraton (28 okt 2010)と題する記事がある。

[9] http://mhariwijaya.blogspot.com/2008_02_03_archive.html

[10] 18世紀初めに編まれた旅行記「チェンティーニ物語」によれば,17世紀前半にマタラムを訪れたマス・チェボランが役人から聞いた話として「キャイ・クントゥールゲニはキャイ・スウブラストとともにVOC(オランダ東インド会社)のヤン・ピーテルス・ゾーン総督からスルタン・アグンに贈られた。」とある。「チェンティーニ物語」の詳細については,第6章附録「ジャヤバヤ王の予言」参照。

[11] http://wisata.timlo.net/baca/4202/kangjeng-nyai-setomi-meriam-dari portugis yang keramat

[12] 日本語訳は,阿部知二「火の島―ジャワ・バリ島の記」,創元社 1944 に拠る。

[13] D. M. Campbell, Java: Past and Present, Vol. I, Vol II, William Heinemann, London 1915。同じ話が,その50年前,William Barrington D'Almeida, Life in Java: With Sketches of the Javanese, Hurst and Blackett, London 1864 にも書かれていることを筆者は後に知った。共通の原典が存在したか,さもなくば後者が前者の原典であったと想像される。

[14] A. J. エイクマン,F. W. スタぺル(村上直次郎,原徹郎訳)「蘭領印度史」,東亜研究所 1942(原著: A. J. Eijkman, F. W. Stapel, Leerboek der geshiedenis van Nederlandsch-Indie 9th Edition, Gronongen-Batavia 1939)

[15] 極く最近見付けた Ralf Munson, Pieter Erberveld’s Treason [In, The Youth’s Instructor (Adventist Magazine) Vol. 83, No. 48, Nov. 26, 1935] なる記事には,Pieterの父はオランダ人で名は Karl,母はジャワ人で Boenga Haroem,Meeda の恋人の名は Piet van der Volt。Meeda と Piet は政府から名誉を称えられて Old Dutch Reformed Church で結婚式を挙げ,当局から与えらえた官舎で幸せに暮したと書かれている。また,クーデター決行日は,集会の翌々日とある。この記事には,教団若者向け雑誌のものであるからして当然であるが,参照文献は示されていない。

[16] A. Heuken SJ, Historical Sites of Jakarta, Cipta Loka Caraka, Jakarta 1982

[17] 阿部知二「火の島―ジャワ・バリ島の記」,創元社 1944 には,「最初に見たのは3月8日と記憶する」 とあり,更に 「(日本でいへば夏のころ)ジャカルタに帰ってみると,もはやエルベルフェルドはねんごろな供養とともにときはなたれ移されてゐた。」とある。

[18] 脚注16。「欧亜混血の人々」の原語は“Indo”。過去には普く用いられたが,現在は殆ど死語化している。

[18a] ピーター・エルベルフェルドの晒首のある石塀(レプリカ)。タナー・アバンの石碑公園博物館に所在。井口撮影 2006/09/22。

[19] E. J. H. Corners, The Marquis: A Tale of Shonan‑to, Heinemann Books (Asia) Ltd., Singapore, 1981 (.E. J. H. コーナー(石井美樹子訳) 「思い出の昭南博物館」 岩波新書 1982 は部分訳である。) 戸川幸夫「昭南島物語 上・下」 読売新聞社 1990 は同書に基づくドキュメンタリー。

[20] 荒俣宏「大東亜科学奇譚」,筑摩書房 1991

[21] Marquis Tokugawa (translated by M. Iguchi), Journeys to Jawa, ITB Press 1994 の解説及び註釈

[22] 神谷 忠孝,木村 一信「南方徴用作家―戦争と文学」,世界思想社 1996

[23] 田中館秀三「南方文化施設の接収」,時代社 1944;田中館秀三業績刊行会編「田中館秀三—業績と追憶」,世界文庫 1975

[24] J. Levelink, A. Mawdsley, T. Rijnberg, Four Guided Walks: Bogor Botanic Garden, Bogorindo Botanics, Bogor 1996

[25] Pacific Science Association, Proceedings of The Fourth Pacific Science Congress Java 1929, Vol. 1‑4

[26] Marquis Tokugawa (translated by M. Iguchi), Journeys to Java, ITB Press 2004

[27] Hendrick Zwaardecroon, Memoir for the Guidance of the Council of Jaffnapatam, 1697 (English Translation by Sophia Pieters, Introduction by R. G. Anthonisz, Notes by Gerrit de Heere), H. C. Cottle, Ceylon 1911 (Gutenberg EBook)

[28] プリブミ=Pribumi(蘭語の Inslander に相当)。生粋の土着民の意で,シナ系,アラブ系などは含まない。

[29] 脚注16

[29a] Hotel des Indes。後に教わったところでは,フランス語流にオテル・デザーン [ɔtɛl dɛz‿ɛ̃d] と呼称されていた。

[30] “The Insurrection at Batavia”, The Scots Magazine Vol 3, July 1741 Glasgow (Google Books)

[31] ジャカルタ沖ジャワ海の小島群(Thouzand Islands=Pulau Seribu)の一つで,バタフィア建設いらい海軍基地が置かれていた。

[32] ここでいう黒人兵は,オランダ軍で重用された香料諸島アンボン出身の兵と思われる。彼らは勤務時間が長い以外,ヨーロッパ出身兵と同じ待遇(給料,食事等)を受けていた。(J. Demmeni (photo), L. Haks and P. Zach (text), Indonesia: Images from the Past., Times Edition 1987

[33] オランダ綴りで Roea Mallacca (または Malacca)。この地名は,現在も Roa Malaka として存在する。原著の Roemolake は綴りミスと見做した。

[34] Batavia Zuid。古い時刻表,Officieele Reisgids 2 Nov 1939-1 May 1940, Der Spoor en Tramwegen 28e Uitgave にある駅名は Batavia Benedenstad (Batavia Downtown)。

[35] 脚注2

[36] 竹越與三郎「南國記」,二酉社 1910

[37] 鶴見祐輔「南洋遊記」,大日本雄辯會 1917

[38] F. G. Carpenter, Java and the East Indies, Doubleday, Page & Scott Co., Garden City, New York 1926

[39] 小林一三「蘭印を斯く見たり」,斗南書院,1940

[40] J. W. B. Money, Java or How to Manage a Colony(1861), Oxford University Press, Singapore 1985

[41] Alfred R. Wallace, The Malay Archipelago(1869) , Oxford University Press, Singapore 1985

[42] Officieele Reisgids 2Nov1939-1Mei1940, der Spoor en Tramwegen 28e Uitgave

[43] The Bridge on The River Kwai, Sir David Lean 監督, Colombia Studios 1957

[44] Bill Dalton, Indonesia Handbook 4th Ed., Moon Publications 1988

[45] 脚注25

[46] Pramoedya Anantator, Tales from Djakarta, Equinox Publishing (Asia) 2000 の中の “Gambir”.

[47] F. Semah, S-M Semah, T. Djubiantono, Ils Ont Decouvert Java/They Discovered Java/Mereka Menemukan Pulau Jawa,Pusat Penelitian Arkeologi Nasional 1990

[48] 国立科学博物館「ピテカントロプス展―いま復活するジャワ原人」,読売新聞社 1996

[49] 脚注41

[50] Leo Haks and Guus Maris, Lexicon of Foreign Artists Who Visualized Indonesia [1600-1950], Archipelago Press, Singapore 2000

[51] 8神の美徳は,1. Endra の慈善,2. Jama の悪魔を払う能力,3. Surja の説得力と善行,4. Tjandra の愛情,5. Baju の明察と洞察,6. Kuwera の寛容,7. Baruna の困難に立向う知力,8. Brama の敵に対抗する勇気。Asra Brata は,18世紀,詩人Yasadipura I によって Kakawin Ramayana を基に書かれた Serat Rama (ラーマの書)にある。(Soemarsaid Moertono, State and Statecraft in Old Java: A Study of the Later Mataram Period, 16th to 19th Century, Equinox Publishing, 2009)

[52] 例えば, ジャカルタの高級英文日刊紙にも The Arjuna Wijaya chariot statue の名で紹介されている(The Jakarta Post, 18 May 2012).

[53] 金井圓 「近世日本とオランダ」,放送大学 1993

[54] 金井圓 「近世日本とオランダ」,放送大学1993; 科野孝蔵「オランダ東インド会社の歴史」,同文館出版,ほか

[55] 白井光太郎「植物渡來考」,有明書房 1929

[56] 打橋竹雲選並蔵「長崎年暦兩面觀」,文政十一戊子(1828)發行。

[56a] 「長崎年暦兩面觀」は縦1尺x横3尺の1枚紙の表裏に元亀元年(1570)から文政十二(1829)年までの出来事を記録,縦2折左右16折。左図は表面左上の表紙部分,右図は裏面右上の元亀年間の部分。

 

[57] 上述の「植物渡來考」イモの項に以下の記述がある。「東インドの原産なり。支那にては名醫名別録に始めて出ず。日本にては萬葉集に荷葉を詠ずる歌にうもの名見ゆ『はちすばはかくこそあれもおきまろがいへなるものはうものはにあらん』とあるが文獻に見えたる始めなり。(後略)」歌の意は,「これが蓮の葉ぢや,おき丸の内にあるのは芋の葉であつたらう(正岡子規)」

[58]嘉村国男「ながさきことはじめ」,長崎文献社 1990

[59] 佐藤常雄他編「日本農書全集70・学者の農書二」,農山漁村文化協会 1996

[60] 岩生成一「続・南洋日本町の研究」,岩波書店 1987

[61] J. Noorduyn,. Three Old Sundanese poems, KITLV Press 2006

[62] ここで作られていたイカットは,詳しくは緯イカット(weft ikat)というべきで,イカットには他に経糸に柄を染めて作る経イカット(warp ikat),経糸緯糸両方とも柄を染めて作るダブル・イカットがある。