第1章

お春の渡ったジャガタラ

   

   

じゃがたら文

赤い花なら 曼珠沙華

阿蘭陀屋敷に 雨が降る

濡れて泣いてる じゃがたら[1]お春

未練な出船の あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る

   この歌を筆者が初めて聞いたのは大東亜戦争終結の前夜であったに相違ありません。その夜であったことに特別の意味はありませんが,空襲で焼野原となった都会から疎開した農村には盂蘭盆の祭をやる余裕が未だ残っていて,村の学校の校庭に設えた舞台では青年男女が素人芸の寸劇や歌謡を披露していました。聞く歌といえば勇ましい軍歌ばかりの時世,緩やかで哀愁に満ちた聞き慣れない短調のメロディーは,子供の耳に不思議に響き,強く記憶に残りました。曰く有りげな七五調の歌詞の意味を田舎には稀な物識であった伯父に問うと,昔,長崎にいたオランダ混血の少女が徳川幕府のキリスト教禁止政策によってジャワに流された故事に拠るとのこと,家の写真貼の表紙裏に貼ってあった1枚の「ジャワ切手」で見た椰子の木の繁る南国の風景を思い浮かべつつ,幼い頭で悲劇のヒロインの運命に想いを馳せましたが,将来,自分自身も彼の地に渡り,況して其処に何年も住むことになろうとは夢想だにしませんでした。1980年代にインドネシアに出張する機会が数度ありましたが,その折々はスケジュールの合間に情緒豊な風景や珍しい文物に目を見張ったのみ,しかし1990年に長期派遣で赴任したときには,7000キロ北の日本に家族を残してやってきた我が身に照らして「お春」への思いが卒然と甦りました。日本に連絡して「お春の歌」のことを調べて貰うと,正しい題名は「長崎物語」といい,梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲,昭和14年に発表されて全国的に大ヒットした歌謡曲であるとの返事,歌詞は記憶にあった冒頭の4行が1番で,以下4番までありました。

 

(一)

うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異國の 人ゆへに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち,ララ曇り勝ち

(二)

坂の長崎 甃畳(いしだたみ)
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ戀しい 出島[2]の沖に
母の精霊(しょうろ)が あゝ流れ行く ララ流れ行く

(三)

平戸離れて 幾百里
 つづる文さえ つくものを
なぜに歸らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る

  

  

「長崎物語」楽譜。五線譜は「ちくさ出版・無料楽譜ライブラリ」に基づく。歌詞は「全音歌謡曲全集」1 (2006) を参照して追加。

    

   じゃがたらお春の話は,気に掛けて書物を調べてみると,多くの人によって言及されていました。明治大正昭和の政治家であり史論家でもあった竹越與三郎は,明治43年,“慕望したるジャワの首都バタビア”に着いた感動を「南國記」の中に次のように綴っています[3]

   「幕府時代に於ては最も海外の事情を盡したりと云はるるジャカタラ姫のジャカタラ文の出し所,ジャカタラ芋の原産地として我國に因縁淺からざる所,一寸四方幾何の價ある古代更紗の産地として知られたる所は,今現に余の脚下にあり。」

   文中の「ジャカタラ姫」という表現は美文家として知られた竹越一流の麗句であって,ヒロインは公家や大名の娘ではありませんでしたが,今日風に言えば所謂ハーフの美しい女性であったことに間違いはありますまい。「長崎物語」の楽譜表紙に描かれた絵は作者不明ながら朧げに彼女のイメージを与えてくれます。因みにバタビア(Batavia,バタフィアの方が発音に近い)は「ジャガタラ」のオランダ統治時代の名称でありました。

   

「長崎物語」 梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲(1939)の楽譜表紙。長崎県時津町宮川密義氏の好意により提供を受けて掲載。

   

   大正10年,同地を訪ねられた徳川義親侯爵は名著「じゃがたら紀行」[4]の中で,以下のように記されています。

   「寛永の昔(寛永16年=1639年),幕府が切支丹を禁じた時,多くの宗門の人々を長崎から追放しましたが,其中にお春といふ少女がありました。異郷にあって日本が戀しく,せめてもの慰めに日本の木の種子を送ってくれる様にと,阿蘭陀の甲比丹(カビタン)[5]に頼んで言傅けた文です。今,ジャカトラの其名を聞けば,三百年の昔,恨みを呑んで此地に終った少女のことなど想ひ浮かぶのです。」

   シナ人を父に日本人を母に持つ和藤内(鄭成功)が明朝復活を企てた国性爺合戦(1658-1661年)と同時代の出来事ですから,浄瑠璃や浮世草紙の題材になってもよかったような話ですが,近松門左衛門も井原西鶴も取上げなかったのは,鎖国を国是とする幕府の手前を憚ったためでしょう。御維新以降に数多の論評が沸々と出たのは,恐らくそれへの反動でもあったのでありましょう。

   「お春」の悲話の由来は江戸初期の学者,西川如見が隠居後の享保四年(1719年)に筆名,正休で著した随筆集「長崎夜話草」[6]にありました。如見は,「紅人子孫遠流之事(付ジャガタラ文(ぶみ))」と題する項の前書に「寛永16年,平戸と長崎在住の紅毛[7]の血を引く男女11名を国外に追放した中に,春といふ長崎生れの小娘がゐた。母の縁者のもとに養はれてゐて,容貎いと麗しく氣立もさかしく,手習にも秀でてゐたが,咬𠺕吧(じゃがたら)に渡って三年,望郷の思ひに耐へ兼ねて,日本に向った便船に託した。」と主旨を述べ,竹越のいう千古の名文,所謂「お春のじゃがたら文」を載せています。

千はやふる,神無月とよ,うらめしの嵐や,まだ宵月の,空も心もうちくもり,時雨とともにふる里を,出でしその日をかぎりとなし,又ふみも見じ,あし原の,浦路はるかに,へだつれと,かよふ心のおくれねば,

おもひやるやまとの道のはるけきも ゆめにまぢかくこえぬよぞなき

(中略)

一,松かさ このてがしわのたね すぎのたね はうきぐさのたね 御ゐんしんたのみまゐらせさふらふ。かへすがへすなみだにくれてかきまゐらせさふらへば,しどろもどろにてよめかね申すべく候まゝ,はやはや夏のむしたのみ入候。我身事今までは異國衣しやういたし申さず候。いこくにながされ候とも,何しにあらゑびすとは,なれ申べしや。あら日本戀しや,ゆかしや,見たやみたやみたや

じゃがたら はるより

   後書には「年頃になって唐人に嫁して子を儲け,日本へ度々手紙を寄越したが,元禄9年(1696)頃に76,7歳で死した。」とあります。    

  

西川如見著「増補華夷通商考巻之四(1695)」に描かれた 紅毛舟之圖。京都大学付属図書館 の許可を受け,以下のウェブ画面より転載。http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0074/image/35/0074s313.html

  

   ジャガタラに流された人達から日本に届いた所謂ジャガタラ文なるものは数通が現存しますが,お春の文の原本は見付かっておりません。長崎夜話草には寛永12年の異国渡海禁止之事,翌年の蠻人子孫遠流之事などの話が如実に語られていて,歴史文献としての価値が認められていますが,ことお春が送って寄越したという古歌古典の句を豊富に引用した3000字に及ぶ擬古文に関しては,これが果して17歳の少女の筆になるものか否かという疑問が如見の没後間もなくの頃から門弟の山村才助や蘭學者大槻玄澤によって呈せられていたそうです[8]

   これに対して,前出の竹越與三郎は,1916年に雑誌「實生活」に寄せた一文「ジャガタラ姫の悲哀」[9]の中に次のように記しています。

   「近頃或は其の文の餘りに妙なるが爲め,當時の乙女にかゝる文章は作り得らるまじといふ點より,其作者の有無を疑ふものを生じ候へども,第一に如見は篤學醇厚,新井白石に先立ちて,西洋事情を日本人に知らしめんと勉めたる人にて,僞作をなすべき人にあらず。第二,少女と申しても故郷慕はしく,一家慕はしく,友人慕はしく,慕望の極慟哭し,慟哭に次ぐに文字を以って表したるものなれば,眞情流露,人を動かす故なきにあらず,學者ならでは文章の書けぬと云ふ道理は無之(これなく)候。而して第三には古賀君が其の一族の過去帳を發見したることによりて愈よ其實在のひとたる事が明白にせられ候。」

  日蘭関係史の大家,岩生成一教授は,1987年の著書[10]に長崎夜話草のジャガタラ文について「ジャカトラの人々の近況を伝え,長崎で身近だった人々の消息を尋ねるなどの記述は具体的で,春より22歳若く,その前半生51年の重なっていた西川如見は,彼女の手紙のことを聞いたか,あるいは実物を見たに相違なかろう,世間の興味と関心をそそるように,西川が創作したものかと思われる。」と書いておられます。

 

お春の生涯

   お春に関する記録は,日本では長崎夜話草のほかは殆ど皆無でありましたが,オランダ側には彼女が実在の人物であったことを示す資料が残されていました。日蘭交流史の先達村上直次郎博士が明治から昭和にかけて,デン・ハーグの国立中央文書館所蔵のブレダ号(De Breda)乗船追放人名簿(1639年長崎出航)に春の名前を見付けられ,またバタフィア地方文書館(Landsarchief te Batavia)で彼女の婚姻登録簿などの文書を発見されたのです[11]。この分野の研究は金井圓教授,岩生成一教授らに引継がれましたが,就中,岩生教授は1925-39年の間に数度に亙ってバタフィアを訪ねて膨大な量の日蘭関係資料を調査,お春に関わる契約書,遺言状の類も見付けられ,それによってお春の大概の経歴も明らかになりました(表1参照)。

 

表1 お春の経歴*

寛永2 (1625)

長崎に生れる。洗禮名:ヘロニマ,父:ニコラス・マリノ(イタリア人),ポルトガル船パイロット(1632? 死去),母:マリア(日本人),日本名不詳,追放時にはイギリス人未亡人と申告。姉:まん(洗禮名:マフダレナ)。

寛永16 (1639.10.31.)

オランダ船ブレダ号に母,姉,姉の子,他の追放者ととも乗船,バタフィアに向う。

寛永17 (1640.1.1.)

バタフィア着。

寛永19 (1642)

ジャガタラ文(長崎夜話草のもの)を送る。

   〃       (1642.1.22.)      

姉まん,日本人豪商武左衞門と再婚(1644?死亡)

正保3 (1646.11.29.)

シモンス・シモンセン(1624 平戸生)と結婚,3男4女(*)をもうける。夫は結婚当時VOC商務員補,後にバタフィア港湾長に栄進)。

正保4 (1647)

母マリア死亡。

寛文1 (1661)

この頃,ヨンケルス通りに在住(マイケル・ディアス・惣兵衞の遺言状による)。

寛文3 (1663.12.14.)

オランダ本国転勤を,家族の希望で断る。

寛文5  (1665.2.13.)

夫と連名の遺言書を書く。

寛文12 (1672.5.)  

夫シモンス病死。

天和1 (1681.5.7.)

ジャガタラ文(しんもんす後家の書翰)を送る。

元禄5 (1692.5.17.)

遺言書を書く。

元禄10 (1697.3.20.)

遺言書補筆。

  〃     (1697.4.xx.)

死亡。享年72歳。

岩生成一「続・南洋日本町の研究」,岩波書店 1987の記述から作成

(*)白石広子女史によりジャカルタ公文書館で新たに発見された洗礼書の子供を加えると,4男4女になる(白石広子「じゃがたらお春の消息」,勉誠出版 2001)。

 

   岩生教授の研究結果に照らすと,竹越與三郎,徳川義親公の記述はもとより,それ以前に彼女について書かれたものには必然的に多くの想像が含まれていたことが認められます。長崎夜話草自体は全般的に真実を記しているように思えますが,若干の誤謬があるように思われます。先ず前書にある「母の縁者のもとに養はれてゐて」という文言は,恰もお春が孤児であったように想わせますが,実際には母は存命で,もう一人の娘,「まん」とともに春と同じ船に乗りました。また,後書にはお春が当時既に東南アジア各地に数多移住していた華僑の男に嫁したとありますが,彼女の結婚相手は彼女と同樣に欧州人を父として日本で生れ,彼女と前後してバタフィアに渡った青年でありました。彼女の死亡年齢には4~5年の差がありますが,これは大した問題でないかも知れません。東京日日新聞の記者であった梅木三郎が,長崎夜話草などを参考にして書いたといわれる「長崎物語」の歌詞,これは学術研究の成果を問うためのものでなく,大衆歌謡を趣旨としたものですから,具に詮索するのは野暮というものでしょうが,「じゃがたらお春」の呼称を広め,彼女の話を人口に膾炙(かいしゃ)せしめるのに最も与った詩でありますから,敢えて調べてみましょう。作詞者は先ず,お春が流されたとき,彼女の母が既に他界していたように想像していますが,これは長崎夜話草の「母の縁者のもとに養はれてゐて」の記述に倣ったからでありましょう。歌詞はまた,時期が曼珠沙華が満開の頃,秋の彼岸の前後であったような印象を与えますが,実際の出航日は10月31日でしたから,赤い花は萎れていたと思われます。サンタクルスの鐘が鳴っていたというのも明らかに失当でありましょう。1641年に切支丹禁教令の出る前の長崎には最も有名なトードス・オス・サントス教会(1569-1619)を始め10に余る教会があったと伝えられ,サンタクルス寺[12]というのもあったようですが,それらはお春らの流された寛永16年(1639)より25年も前に取壊されていました[13]。お春の乗った船はオランダ西南部の地名に因むブレダ号[14]で,1639年10月31日に長崎を出航,オランダの拠点のあった台湾のゼーランディア[15]に寄港して,翌年1月1日にバタフィアに到着しました。航行距離凡そ4000海里,丁度2ヶ月の船旅でした。乗船者は,お春のほか母マリア(日本名不詳),姉まんを含む蘭人,英人との混血児および母親ら11名(オランダ側の受入名簿では他の外国人,夫人らを含む31名)でありました。お春の母は身分をポルトガルと同じカトリック系のイタリア人寡婦でなく,オランダ同樣にプロテスタント系のイギリス人の寡婦と登録していたそうですが,結局は追放されるに至ったものの,後者であると装うほうが日本に残るチャンスがあると最後の時に至るまで考えていたのかも知れません。 

  

ブレダ号の長崎からゼーランディア経由バタフィアへの航路(推定)。地図,“India quae orientalis dicitur, et insulae adiacentes” by , Hendrik Hondius (1597-1651), Amsterdam は National Library of Australia の好意を受けて採用(National Library of Australia, Item Number RM 174)。地図の発行年 1639年は春らの航海した年に一致する。推定航路は筆者記入。

 

   彼女らの着いたジャガタラはどんなところであったでありましょう。1640年といえばオランダが最初に砦を築いてから既に20年,港には夥しい数の帆船が行き交い,街の整備も着々と進んでいました。1620年に約2000人であった人口は1632年の時点で既に8000人超に増えていました[16]

 

ジャガタラの起源

   少し歴史のお浚いをしましょう。ジャワ島西部北岸,チリウン川(Ciliwung)の河口に位置するこの港は,現在のジャカルタの原点ともいうべきところ,4-8世紀に栄えた王国タルマナガラ(Tarumanagara,タルマ国の意)の時代から地域の重要な港であって,その頃からスンダクラパと呼ばれていました。15-16世紀,パクアン(現在のボゴール)に首都を置くヒンヅー王国パジャジャラン(1482-1579)が隆盛した時代には,王国第一の外港として栄え,1513年にはポルトガル船が到来して西洋との直接貿易も始りましたが,当時のパジャジャランにとっては中部ジャワに勃興してマジャパヒト王国を潰し,既に自国東部のチレボンをも手中にしたイスラム勢力が脅威でありました。その更なる拡大を阻止すべく1522年にポルトガルと防衛協定を結ぶもポルトガルによる砦の建設が間に合わず,ファタヒラー(Fatahillah,別名ファレテハン Faletehan)率いるイスラム軍は,1526年にスンダクラパ西方のもう一つの良港バンタムを奪取したのに続き,翌1527年6月22日スンダクラパをも陥れました。ポルトガルは,その後,内陸に閉ざされたバジャジャランと連絡すること能わず,東インド地域では遡る1511年に砦を築いていたマレー半島のマラッカを拠点に活動しました(1641年にオランダに獲られるまで)。パジャジャランの方は1579年に首都パクアンも陥落の憂き目に遭い,終に滅亡しました。明朝万暦45年(1617年)発刊の張燮著「東西洋考(巻三)」にある,「加留巴(クラパ),下港(=萬丹,バンタム)の属國也,半日程にて到る可し。」の記述[17] は正鵠を得ています。

   スンダクラパの名はファタヒラーによって大勝利を意味するジャヤカルタと改められ,略してジャカルタと呼ばれるようになりました[18]。ジャカルタは西洋語にはジャカト

ラ(Jaccatra)と転訛,日本へはジャガタラと伝わりました。因みに西川如見がジャガタラと読ませている「咬𠺕吧」はスンダクラパのクラパの音訳で,現地名が変った後も日本では明治維新直前までこのように書慣わされていました。

   オランダ船が初めてジャワ島に到来したのは1595年で,そのときの港はバンタムでした。因みに,船長ヤコブ・クワッケルナック以下,八重洲にその名を残す航海長ヤン・ヨーステンや日本名三浦按針で知られるイギリス生れの舵手ウィリアム・アダムスらを乗せたリーフデ号(De Liefde)が臼杵の浜に漂着したのは4年後(1600年)のことでした。東インドへの最初の航海は240人の乗組員で出発しながら2年後に無事に帰還したのは87人というほど難儀なもので,ポルトガルの妨害もあって獲得できた胡椒などの積荷は多量ではありませんでしたが,それでも若干の利益を上げたオランダでは,幾つもの商人グループが出資を募って船団を送りました。しかし1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド西部カリカットに到着,1511年にマラッカに拠点を持って以来,既に1世紀近く前から東インドに存在を確立していたポルトガルや,1588年にアルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を破って東洋進出を始めたイギリスに対抗するには大きな組織が必要で,1603年に国王マウリッツ・ファン・ナッサウ殿下の認証のもと,今日の株式会社なるものの権輿とされる統一東インド会社(VOC(フェー・オー・セー)=Vereenigde Oost-Indische Compagnieの略)を設立して強力な船団を派遣し,同年,バンタムに商館を開きました。バンタムではイギリスとの軋轢あり,彼らはこれを避けるため,1611年にジャヤカルタに城砦を建設して拠点を移しましたが,4年後イギリスも追いかけるようにジャヤカルタにやってきて商館を建て,1619年2月にはバンタムの代官ジャヤウィカルタと組んでオランダ砦を攻略しました。前年12月,VOC総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンはトーマス・デール率いるイギリス艦隊の急襲を避けてモルッカ諸島のアンボイナに暫時退いていて,ジャカトラの砦には司令官ピーター・ファン・デン・ブルックがいましたが,彼の必死の守備も甲斐なく,砦は敵の手に渡りました。5月,艤装を整えて引き返したクーンは難戦の末に砦を奪還して街を制圧,1621年には新城砦を建設して,街の名をオランダ族のラテン名バターフ(Bataaf)に因んでバタフィア(Batavia)と改めました。1628-29年,バタフィアは中部ジャワに成立した新マタラム王国のスルタン・アグンに2度に亙って攻撃を受けましたが,よくこれに耐えて,オランダの東インドにおける拠点としての地歩が固まりました。

  

スルタン・アグンとヤン・ピーテルス・ゾーンのワヤン人形。2006年9月,ジャカルタ歴史博物館にて,筆者撮影。左のパネルに,「このワヤン・ドゥパラは,1628年と1629年,オランダ支配下のバタフィアへのスルタン・アグンの遠征について語る。」とインドネシア語と英語で説明がある。ワヤンドゥパラは新マタラム王国の歴史を題材とするワヤン(第6章参照)。

   

日本人の渡航

   16世紀半ばから1639年の鎖国令発令に至るまで幾らかの日本人もポルトガル船や御朱印船(1604年に制度発足)で南洋に出ていましたが[19],オランダは1609年に平戸に商館を開設して以来,アジアでの労働力や兵員の不足を補うために幾百人もの日本人(1613年の開始から1621年の移民禁止令の出るまで公式契約移民だけで225名)を雇って送致しました[8a]。西洋の連中が喜望峰を廻り,インド,東南アジアを経て日本に至ったとき,彼らは極東の果てにこれほどの文明国があったことに驚嘆しました[20]。ヨーロッパでも大衆は殆ど文盲であった時代,日本では読み書き算盤の素養ある事務要員は沢山みつけられましたし,社寺仏閣や城の建築などで腕を磨いた職人はヨーロッパのマイスターの連中に優る技量の保有者,そして侍といえば戦国時代の実戦を生き抜いた兵(つわもの)でありました。事実,クーンがジャカタラの砦を奪還したときの兵員にはオランダ人400名のほか雇い上げた日本人50名がいましたし,先に陥落した砦の守備隊にも25名の日本人兵が含まれていたといいます。また,日本人の乗るオランダ船に自国の船が拿捕されるのに手を焼いたポルトガル,スペイン,シナ(清朝)の3国は1618-19年に幕府に嘆願,幕府はオランダ船およびイギリス船に対して戦闘目的の日本人を輸送することを禁じたとされています。

   

西暦1600年に来航したデ・リーフデ号(日蘭通商400周年記念切手:日本郵便)。出島の描かれた背景は,「寛文長崎図屏風」1673年,右のジャワ人下僕を従えたオランダ人カビタンは,木版筆彩「阿蘭陀人之図」,長崎針屋,宝暦年間 (1751-1764)に基いてデザインされたとある。

    

   オランダは日本人女性も多く求めました。というのは,東洋への航海が賭け同然で船団の中の何隻かを敵との海戦や嵐で失うのは尋常,船上でも夥しい数の病死者が出るほど困難な時代でしたから,良家の出といわずも普通の女性が移民してくるのは絶望的でありました。志願してやってくる女性といえば「軽い女」ばかり,既に1612年に時の総督ピーター・ボット(Pieter Both)は会社の重役会(Herren XVII,「17人の紳士」の意)に対し,「これ以上『軽い女』を送ってくれるな。そういった女性は既に沢山居るし,奔放な彼女等の振舞いは国家の大きな恥である。」と忠告したほどでした。畢竟,男は現地で伴侶を求めざるを得なかった訳ですが,ジャワ島は既に殆どイスラム化されていて地元の女性は異教徒との結婚を許されない,かといってポルトガル時代からの欧亜混血女性やカトリックに帰依していた地域の女性との婚姻は勧められず,比較的妥当なのは異教徒との縁組に寛容なヒンヅー教徒のバリ女性でありましたが,文明国日本の女性は大変に魅力的でありました。総督クーン自身,在任中に度々平戸に手紙を送り,「既婚日本人並びに未婚の女性等が適当な時期に来ることを待ち受けている」,「(アンボイナおよびバンダから)未婚婦人をも送致することが可能ならば,決してこれを等閑に付すこと勿れ。」と要請しています[21]

 

平戸商館長ファン・ナイエンローデの娘コルネリア

   筆者自身,このような歴史を具に読んで思い出したのは,以前にアムステルダムの国立博物館(Rijksmuseum)で見た絵画で,2階ホール中央に掲げられた1枚の家族の肖像画には,正装した中年のオランダ紳士と日蘭混血の妻,脇に子供たちや召使が描かれていました。そのときの印象は「ジャガタラに渡った日本女性の中にもオランダ人と結婚して立派な暮しをした人が居たんだな。」程度のものでしたが,後に調べてみると,タイトルは「ピーター・クノルの家族」でヤコブ・J・クーマン1665年の作,女性は平戸商館長であったコルネリス・ファン・ナイエンローデ(1623年赴任,33年死亡)と日本女性スリショの娘コルネリアでした[22]。コルネリアは「お春」より2年前の1637年に異母姉エステルとともにバタフィアに渡り,1652年にVOC商務員補で後に主席商務員兼港湾長に昇ったピーター・クノルと結ばれて10子を儲けました。年次から推して絵に描かれた彼女は36歳であると計算されます。

 

「ピーター・クノルの家族」クーマン(Jacob・J・Coeman) 1665。アムステルダム国立博物館蔵 (Identification code: SK-A-4062)。許可を得て,同博物館のウェブサイトから転載。

 

  コルネリアは1672年に夫と死別,その4年後に年下の新参者,現地語でいう「オラン・バル」のヨアン・ビッテルと再婚しましたが,間もなく前夫との間で築いた財産の所有権を彼が主張したので仲が拗れ,1687年に夫婦別々の船でオランダに渡って法廷で争い,恐らく1692年にその地で他界しました。詳しくはレオナルド・ブルッセ教授の「蝶か蟷螂(かまきり)か―コルネリア・ファン・ナイエンローデの生涯と時代」[23]に書かれていますが,彼女は絵から受ける柔和な面貌の奥に強い意思を秘めた女性であったようです。因みに邦訳書のタイトルは「おてんばコルネリアの闘い」となっていますが,「おてんば」の語源はオランダ語のオンテンバール(Ontembaar=手懐けることができない)であると,オランダ語に堪能で,日本語の若干できるジャカルタの友人から教わりました。

   コルネリアの後半生は惨憺たるものでありましたが,バタフィアに渡ってからピーター・クノルと死別するまでの前半生は,彼女が夫と連名で送った「こるねりあのジャガタラ文(現存)」にも述べられているように順風万帆,長崎夜話草に記され,竹越與三郎や徳川義親公に「草の如く亡び木の如く卒った」,「恨みを呑んで此地に終った」などと哀れまれたお春の人生とは余りにも対照的でした。岩生教授の研究によれば,春もまた,母国への帰還が許されなかったことを除けば,バタフィアで幸せな生涯を送ったと考えるほうがよさそうです。1996年刊の正延哲士の「小説じゃがたらお春」[24]にはヒロインの一生が史実に想像を交えて偏見なく平坦に書かれていますし,数年前に出された白石広子著「じゃがたらお春の消息」[25]には,春のバタフィアでの生活が幸福なものであったであろうとの前提で,彼女の生涯が想像逞しく小説風に述べられています。お春にしてもコルネリアにしてもバタフィアに流されたときは夢多き10代の少女,筆者もまた,彼女らは運命は運命と受止めて,新しい土地での新しい人生に希望を抱いて立向かったと考えたいと思います。

   バタフィアでのお春は21歳になって,恐らくポルトガル船で来日したイタリア人の父と日本人の母の間に平戸で生れ,お春らと同樣にバタフィアに送られた青年,VOC商務員補であったシモンス・シモンセンと結婚しました。恐らくその2年前に姉を,翌年に母を亡くしましたが,彼女の結婚生活は順調で3男4女を授かりました。夫はオランダ本国転勤を命ぜられましたが,アジアの血を引く夫婦のバタフィアに留まりたいとの願いが叶えられ,夫は後にバタフィア港湾長にまで栄進しました。お春は1672年47歳のときに夫を病で失って寡婦となりましたが,当時としては高齢の72歳に至るまで子供たちに囲まれて過し,1692年に逝去しました。現存するジャガタラ文の中には,変体仮名混りで「𛁈んもん𛁏(す)こけ・𛀕𛂦(おは)る𛃫(よ)り」と署名されたものがあって,文体は長崎夜話草にある美文とは異なった平易なものですが,これは彼女の晩年,恐らく1681年に送られてきたもので,本物と信じられています[8]。文中には日本の10余名の親類縁者に送った膨大な贈物のリスト(白木綿,金巾,綸子など)が載せられ,またお金も添えて彼女自身のために白布を日本で染めて返送して欲しい,日本の樽酒を送って欲しいなどとも書かれていて,彼女が如何に豊かに暮らしていたかが窺知されます。

 

「シンモンス後家お春文」 長崎歴史文化博物館藏。同博物館の好意により提供された画像のうち,表紙,第1頁および最終2頁。文末(第11頁)に「𛁈んもん𛁏こけ・𛀕𛂦𛃫り」の署名と五月七日の日付,峯七兵衞殿,同次郎右衛門殿の宛先,最終頁(第12ページ)に「右者阿蘭陀通事今村源衛門方所持の直筆状写也」の付記がある。(文脈から推して,原本には第1頁の前に幾頁かが存在したと推定される。)

 

   なお日本から渡った女性はコルネリアやお春も含めて殆どオランダ人またはVOCメンバーに乞われて嫁ぎ,日本人男性の結婚相手は,村上武左衛門という有力者がお春の異母姉のまん(マフダレナ)と結ばれたなどの例を除いて,主にバリ島やバタフィア出身の女性でしたから,日本人純血の子孫の誕生は多くありませんでした。更にお春ら「紅人子孫遠流」を最後として,日本からの移民は少なくとも公式には杜絶えましたから,シャムのアユタヤやルソンのマニラでも同樣ですが,日本人町または日系社会は次第に衰退して,17世紀末には殆ど消滅しました[26]

 

17世紀のバタフィア

   お春がバタフィアで暮らした頃は,恰も街の整備が進んだ時期に当ります。蛇行していたチリウン川の河口近くの部分は船の運航に便利なように真直ぐに改修されてカリ・ブサール(Kali Besar,大川の意)となり,河口部に近い城砦の対岸(左岸)にはVOC社屋や造船所が配置され,魚市場もこの並びにありました[27]。運河が縦横に走る市街区のデザインは如何にもオランダ風で,大川の東側には市庁舎,教会,病院などの公共的な建物や施設がありました。岩生教授が発見された古文書によれば,お春は少なくとも一時期,西岸裏手の住宅区域に住んでいました。当時に描かれた絵画,アンドゥリエス・ベークマン作の「カリ・ブサール西畔からみたバタフィア砦」には,市街といっても未だ家並みで建て込んでいた訳でなく,大川端の魚市場では椰子の木陰に人々が群がり,対岸では士官らしき連中が乗馬をやっている,そして前方の城砦までが見通せるといった風景が見られます。市場周辺に描かれた人々には,ヨーロッパ人やシナ人,ジャワおよび周辺の島々出身の色んな民族の人々がいて,中には日本人と思しき人物も見られます。彼らの身分や生業は様々で,商品を売買している人々のほか,日傘を差したカップル,チャカレレ(戦踊り)を踊っているアンボン人兵士やセパ・ラガ(蹴球)をやっているグループもいます。

   バタフィアは誕生後400年を経てアジア有数の近代都市に発展し,インドネシア独立後に正式にジャカルタと呼ばれるようになりましたが,その間の歴史については追々触れることにして,お春のいた頃の市域に行って見ましょうか。

 

1667年のバタフィア。方角は左が北であることに要注意。1.城砦,2.市庁舎,3.十字教会(クライスケルク),4.病院,5.政庁舎,6.スクウェア,7.VOC造船所,8.シナ人造船所,9.パサール・イカン(魚市場),10.ヨンケルス通(VOC社屋,シモンス家の所在地もこの辺り),11.ロア・マラカ地区。a.ダイアモンド,b.ルビー,c.パール,d.サファイア。地図は http://en.wikipedia.org/wiki/Jakarta に依る (他のコピーから,製作者は De Jonghe, Amsterdam と推定される)。地図内の場所は Abdurachman Surjomiharjo,Pemekaran Kota Jakarta/The Growth of Jakarta, Penerbit Djambatan, Jakarta 1977 およびF. de Haan, Oud Batavia (Eerste Deel), G.Kolff & Co., Batavia 1922 に依る。

   

「カリ・ブサール西から眺めたバタフィア砦と魚市場(手前)」。アンドゥリエス・ベークマン(Andries Beechman) ca.1656作。アムステルダム熱帯博物館 (Troppenmuseum)所蔵。 http://nl.wikipedia.org/wiki/Andries_Beeckman より転載。別にこれと略々同じ構図の絵が存在し,アムステルダム国立博物館に所蔵されている。

 

   近代的な高層ビルが林立する現在の都心部から数キロ北に上って華僑系の人々が多く住むグロドックと呼ばれる地区まで行くと雰囲気が一変,車道に商用車が行き交い,商店の前の歩道に人々が混み合って荷物を積んだ手押車が往来する光景は肩摩(けんま)轂撃(こくげき)の故事を思い起こさせます。大通りの裏手には,電気部品,コンピューター,機械工具などを商う問屋や小売屋も沢山あって,筆者はボゴールの研究所に滞在中に研究用品調達のために繁くここに通いました。ここから先の所謂オールド・バタフィアの地域は現在はコタ(インドネシア語でシティの意)といいます。直ぐ先の鉄道の終発着駅「ジャカルタ・コタ」を過ぎて,旧ジャワ銀行の重厚な建物の脇を300メートルも進むと旧バタフィア市庁舎(現在,ジャカルタ歴史博物館)前の広場,そこから左折するとカリ・ブサールの川端に出ます。両岸にはアムステルダムの運河沿いのようにオランダ独特のファサードのある建物が並び,少し下流にはフィンセント・ファン・ホッフ(ゴッホ)の絵にあるのと同じ型の跳橋も保存されています。対岸の造船所背後に現存するVOC社屋一部の裏手,お春の家のあったという旧ヨンケルス通(現在のエコール・クニン通[28])の辺りは心寂しい下町といった風情で,350年前の往時を忍ばせる街並は残っていません。

 

ミヒール・T ’惣兵衛の墓碑

   お春の家の所在は,実はミヒール・ディアス・惣兵衛なる人物の遺言書に記載されていました。遺言書の発見より遥か以前の1886年,この人物と思しき名前,Michiel T’Sobeを刻んだ墓石(石棺の蓋)がカリ・ブサール西の歩道の舗石に使われているのが発見され,該当者が誰か,歴史学者の間で様々な憶測がなされていました。墓石は発見者イギリス人宣教師キング(Armine Francis King)によってプラパタンの英国教会に収容されましたが,1911年にクブン・シリ28番地の日本領事館に移されました[29]。1921年にここを訪れた徳川義親公は次のように書残されました[30]

   「この領事館の庭前に一基の碑があります。碑文によると慶長10年(1605)長崎に生れ,寛文3年(1663),この地に死した日本人,ミチェル・ティー惣兵衛なるものの碑です[31]。年代から推して,ジャガタラ文のお春などと一緒に長崎を追放され,恨みを呑んでこの地に漂泊ふた一人ではありますまいか。」

ミヒール・T’ソウベイの墓碑。F. de Haan, Oud Batavia - Gedenboek uitgegeven Genootschp van Kunsten en wetenschappen naar aanleiding van het driehonderdjarrig bestaan der stad 1919 (Eerste Deel), G.Kolf & Co., Batavia 1922 より転載。

 

   バタフィア300年史,1925年刊のフレデリック・ドゥ・ハーン編「オウド・バタフィア」[32]には,「サムライは姓を持っていたが,T’Sobe は名である。ミヒールは長崎からバタフィアに来て1630年に結婚したさる若者であろう。」などと書かれています。

   ミヒール・ディアス・惣兵衛の遺言書には1661年3月29日の日付があり,概ね次のことが書かれていました。「遺言人には身寄りがないので,死後,動産,不動産,株券,債権などの一切を東インド会社上席商務員で港湾長兼許可証発行官であるシモン・シモンスゾーン殿(Sijmon Sijmonszoon),共に日本人キリスト教徒であるミヒール武左衛門殿とヤン・助左衛門殿に3分の1ずつを贈る。本状はヨンケルス通にある(大川の)対岸のシモンス殿の家において作成された。」

   シモンス殿というのは前述したようにお春の夫に相違なく,惣兵衛がお春の家族と親交のあったことも明らかです。惣兵衛の死後遺言が正しく履行されたことを証する文書も残されていました[33]。惣兵衛が何時ジャガタラに渡ったかは不明,「オウド・バタフィア」の中で推定されている人物が該当者であれば一度は結婚していたはずですが,老齢に至っては孤独の身でありました。しかし,徳川義親公が想像されたように遠留の身を嘆いていたかどうかは不明ながら,惣兵衛自身相当な遺産を残したほどですから,彼もまた成功者の一人であったことに疑う余地ありますまい。ところで,義親公は,Sobeに造作げなく「惣」の字を充てられましたが,彼のバタフィア訪問時(大正10年)には未だ惣兵衛の漢字のサインのある遺言書や契約書などは知られていなかった筈,植物学者であると同時に歴史学者でもあった著者のことですから,新聞に掲載された原稿を本のかたちで上梓する際に岩生教授に確認されたのでなかろうかと思い,御交誼を頂いた著者の孫,(故)義宣先生に伺ったところ,「祖父は凝性であったから左様であったかも知れない。」とのお返事でした。

   さて,件の墓石ですが,インドネシア独立戦争の混乱期に紛失したということでした。筆者自身,ボゴール在住中に,万が一何処かに所在に関する情報がないかと淡い期待を抱き,国立博物館学芸員のEさんに御一緒願って,タナーアバンの石碑公園博物館(Museum Taman Prasasti)や碑が最初に収容された英国教会を訪ねましたが,覚悟していた通りの徒労,惣兵衛の碑なるものが存在したことについてすら知る人はありませんでした。これに飽き足らず,碑の写真をプリントし,情報提供者には然々のお礼を差上げる旨を添えたビラを作って,ジャカルタ市内スラバヤ通のジャンク屋街を廻って店々に配ってもみましたが,耳寄りなニュースは寄せられませんでした。

   17世紀当時の「鎖国後ジャカルタに残留した日本人キリスト教徒」を描いた1枚の肖像画が遺っています。これは前出アンドゥリエス・ベークマンの「カリ・ブサール西からみたバタフィア砦」の中に配置された異なる民族の人物の元絵と目される10数枚の作品の中の一枚で,スカリエ博士の論文には,「キリスト教徒であることは聖職者用の帽子に示されている」とあります[34]。彼の顔貌は混血でない純粋の老齢の日本人風,着物をアレンジした衣服を纏い,足には草履を履いて,腰に大小2本でないものの日本刀一本を差しています。この衣装がこの男性常用のものか画家の要望によるものかは不明,況して彼が誰であるかは全く不明ですが,著名な画家がモデルに選んだほどですから,バタフィアに在住した実在の人物であったと思われます。描かれた年次はミヒール・ディアス・惣兵衛の遺言書の認められた数年後の1661年(推定),孤老の雰囲気漂う人物はミヒール・ディアス・惣兵衛本人であったかも知れません。

 

 

「ジャカルタの日本人クリスチャン」

アンドゥリエス・ベークマン(Andries Beeckman) ca. 1656作。

Marie-Odettte Scallie, Archipel 54, 1998より転載。同論文には他に以下13枚の肖像画が収録されている。

混血のヨーロッパ人,

シナ人の商人,

シナ人労働者,

シナ人芸人,

明朝衣装のシナ人,

マレー人

ジャワ人,

マルダイカー(自由奴隷の子孫),

野菜商人,

米搗き女,

アルビノ(混血白人),

アンボン人兵士,

アルフール人(Alfour,筆者に不明)。

  

バタフィアの今

   カリ・ブサールの河口近く,パサール・イカン(魚市場)の名の残るところに来ると,3階建てレンガ造の物見櫓が目に入ります。1839年に旧造船所の跡に建てられたもので,港に出入りする船を監視するためのもの,謂わば現代の空港のコントロールタワーのような役割のものであって,敷地の海に面する側に置かれている数門の大砲は,いざ危険な船が迫ってきたときのための備えであったに相違ありません。今は空っぽの建物内部の狭い階段を上った上階からは,旧港が一望できますが,辺り一帯は荒れるに任されているといった感じで,水面には塵や芥が漂っています。スンダクラパの埠頭は右手に見えて,カリマンタン(ボルネオ島)から材木を運んできたブギス船[35]が何10隻も碇泊しています。カリ・ブサールの河口付近はチリウン川から運ばれる土砂の堆積が激しいために大型の近代船の接岸には適さず,代替の港として19世紀の後半に東方数キロメートルのタンジュンプリオクにオランダ本国のロッテルダム港に模った新港が建設されました。客船の時代は終ったものの,今もジャワ島東部スラバヤのタンジュンぺラクと並ぶ貿易港として賑っています。

   

オールド・バタフィア地区パサール・イカンの一風景。右にシティウォールの一部,その右に現在海洋博物館となっているVOC時代の倉庫,遠方に物見櫓が見える。 2012年2月,筆者撮影。

   

   物見櫓の近くには,VOC時代の倉庫の建物が残っていて,一つは海洋博物館になっています。2階建ての大きな長い建物で,中に入ると先ず柱や梁の太さに驚かされます。1652年定礎,18世紀の後半まで幾度か増改築が行われたといいますが[36],木材は現在ではジャングルの中にも見出せないチークの巨木から製材したもので,建物自体が博物館といった印象を与えます。こういった倉庫は他にも沢山ありましたが,内部の棚にナツメグ,胡椒,更にはコーヒー豆や茶,キニーネなどが満載されていたことを想像すると,昔のジャワが如何に豊かであったかが分るような気がします。確か子供の頃に学校でも教わったと記憶しますが,17世紀頃のヨーロッパでは胡椒と銀の価格が重量当りで同じであったといわれています。博物館の収蔵品は古い船の模型や船具などで,一度訪れたことのある航路のオランダ側ロッテルダムの海洋博物館に見劣りしますが,それでも最近にはイリアン(西ニューギニア)伝統のチャンディックまたはカレレという名の漁労舟(本体を安定させるために3メートルほど離した位置に,本体と平行にフロートが設えられている)の実物などが加えられ,随分充実した印象を受けます。

   海洋博物館の前にはシティウォールの僅かな部分が残っていますが,対岸にあったバタフィア砦は跡形もありません。古図によればバタフィア砦は所謂稜堡式のもの(日本では後年1866年に函館に造られた五稜郭がその様式)でありました。筆者はジャカルタ西方のバンタム(現バンテン・ラマ)のスペールワイク砦,スラウェシ(セレベス島)マカッサルのロッテルダム砦を訪れる機会がありましたが,前者では野原の中に石積の堡塁が残っているのみであるのに反し,後者では,翻る旗が3色のオランダ国旗でなく2色のインドネシア国旗である以外,城壁はもとより白塗りの石造の正門から城内の芝生の中庭,赤屋根の兵舎,諸施設に至るまでほぼ完璧に保存されていて,そこここに居る人々に昔の士官や兵卒のイメージを重ねて,往時のバタフィア砦もこんなであったかと想像しました。ジョクジャカルタ市内マリオボロー通の王宮近くにあるフレーデブルフ砦も規模は小さ目ながら同じ形式のもの,内部は昔のままに保たれて,建物の一部はインドネシア独立戦争を記念する博物館になっていますが,夕暮れともなると城内には夜店が立ち並んで人々が集い,戦に備えた施設といった雰囲気は到底感ぜられません。

   バタフィア砦にあった4つの稜堡(ダイアモンド,パール,サファイア,ルビー)の一つ,ダイアモンドはそれに因む名をジャラン・インタンまたはコタ・インタン(ダイアモンド通またはダイアモンド街の意)に遺します。辺りを歩いてみたところ,城内のヤードは観光施設計画のために平坦化されていて,北にスンダクラパ港の物見櫓が望まれました。ヤード内の一部に1995年まで家のあったという地元の人に依れば,それでも1997年までは,地下壕か塹壕かの入口部分が残っていた由,筆者にとっては10数年前に訪れていたればこそと,残念に思われました。

  カリ・ブサール辺りで唯一目にする近代的建物といえば,カリ・ブサール西通44-46番地にあって1995年に開業されたザ・バタフィア・ホテル,筆者はその入口両脇の柱の凹みそれぞれに白亜の彫像を配した正面のデザインが,雰囲気的に,嘗てバタフィア砦の南に存在したアムステルダム門(De Amsterdam Poort)に似ているのに惹かれました。一対の像は左右対称のもので,写真で見たアムステルダム門のマルスとミネルヴァ[37]の像とは明らかに異なるものの,古代ローマの神をモデルにしたものと想われました。由緒はジャカルタの友人に頼んでホテルに尋ねて貰ったものの現在の支配人は存知されない由,しかし,モデルそのものは,書物を調べてみて[38],扉を司り,ジャヌアリーの語源ともなったヤーヌス神に相違ないとの確信に至りました。ヤーヌスは一般に,双つの顔を持つ単一の像として描かれていますが[37a],ここの像を製作した芸術家は体も対称的な別々の2体にしました。因みに,現在のトンコル通とチェンケイ通の接合点にあったアムステルダム門の2体の像は,大戦中1942-45年にジャワを占領した日本軍が撤去して恐らく破壊,門自体は1950年に交通の妨げになるとの理由でインドネシア政府によって撤去されました。

   

上: The Batavia Hotel 前景(筆者友人のIr. Arief Budhiono 撮影,2012年3月),

下: ヤーヌス像(筆者撮影,2012年2月)。

       

  

バタフィア砦のアムステルダム門。1920年代,徳川義親公撮影。尾張徳川家の好意による。

   

バタフィア市庁舎およびオランダ教会,ヨハネス・ラッハ(Johannes Rach) 1770 作。Max de Bruijn and Bas Kist (text), Johanes Rach 1720 - 1783: Artist in Indonesia and Asia, The Natonal Library of Indonwsia/The Rijksmuseum Amsterdam 2001 より転載。正面の市庁舎建物は明らかに旧市庁舎であるが,同庁舎は1707-1710年に現存の新庁舎に改築された筈である。また,向って右側の新オランダ教会は1732年竣工した筈である。この絵に何故旧庁舎が描かれているか筆者には不明。

 

バタフィアの変遷

   時代は下って欧州がナポレオン支配下にあった時代,オランダは1795年にフランス傀儡のバタフィア共和国に,1806年にはルイ・ナポレオンを王に戴くオランダ王国になり,終に1810年にはフランスに併合されたわけですが,もともとナポレオンを崇敬してフランス軍に寝返ったオランダの将軍ヘルマン・ウィレム・デーンデルス(Herman Willem Daendels)は,フランスの宿敵イギリスから東インドを守るべく総督に任命されて1806年にジャワにきました。先ず手掛けたのがバタフィアの改造で,港近くの砦を捨てて,8キロメートル内陸に新都ウェルテフレーデン(Weltevreden)を建設して錬兵場を置き,その南方20kmのメーステル・コルネリス(現在のジャティネガラ)に防衛線を設けたのですが,それらのための資材として旧砦に使われていた石材を転用したのでありました。錬兵場のあった場所は戦前までコーニングス・プレイン(Konings-plein,王室広場)と呼ばれ,独立後はメダン・ムルデカ(Medan Merdeka,独立広場)と改名されて独立記念塔(モナス,Monas=Monumen Nasional)が立てられていますが,建込んだ市街地の通風のために今も役立っています。

   デーンデルスはまたバタフィアの東南東180キロメートルの四囲を山に囲まれたバンドン盆地を選んで要害都市を築きましたが,その1810年5月10日は現在のバンドンの市制記念日となっています。彼の対策はこれらに留まらず,1808年ジャワ島の西端アニェル(Anyer)から東端のパナルカン(Panarukan)までを結ぶ延長約1000キロメートルもの大駅馬車道路(デ・フローテ・ポストウェフ,(蘭)De Groote Postweg=(英)The Great Post Road),インドネシア語でいうジャラン・ラヤ・ポス(Jalan Raya Pos)を,2万人もの犠牲者を出しながら,1年間で完成させたと伝えられています。彼の性格の激しさから彼のジャワ統治は上手くゆかずに1811年に更迭され,総督ミント卿(Lord Minto)率いる英軍が現実に来襲したときに応戦して敗れたのはヤンセンス将軍(Jan Willem Janssens)でありました。ナポレオン戦争後のウィーン会議の合意(1815年)によって翌年に東インドがオランダに返還されたとき[39],国王ウィレム1世は,その経営を以前のVOCのような会社に任せることなく国家直轄で行うよう決定,バタフィアも新たな時代を迎えました。因みに,VOC自体は1世紀半の長きに亙って繁栄しましたが,18世紀後半に至ると内的諸問題や株主への過大な配当のために巨額の負債を生み,記録上は1799年に破産していました[40]

   今はジャカルタ歴史博物館となっている旧市庁舎に行ってみましょう。間口50メートルもある2階建で丸屋根の塔屋のある石造建物の内部に入ると,これまた巨大なチーク材の柱と梁で構造ができていることが分ります。玄関を入り裏庭に通ずる廊下の右手のパネルに,

この市庁舎(Stadhuis)は古い建物を取除いた跡に,1707年1月23日に総督ヨアン・ファン・ホールン卿の政府のもとで建築が始まり,1710年7月10日に総督アブラハム・ファン・リーベーク卿の政府のもとで竣工した。

と刻まれています。建替え前の建物はアムステルダム市庁舎を模したデザインといわれ,当時のスケッチを見ると今のものより幾分小さ目,建築年は1627年といいますからジャガタラお春が渡る13年前,彼女が婚姻届や遺言書を届けたのもその庁舎であったに相違ありません。現在ジャカルタ歴史博物館となっている建物内部の各部屋はジャカルタに因む数々の歴史的遺物の展示室になっていて,2階の大広間では1748年に現地で作られたという巨大なガラス張りの書棚を始めとして数々の家具調度が置かれています。壁面に掲げられた絵画の中で一際目につくのはヤン・ピーテルスゾーン・クーンの特大の肖像画,現地には植民地支配の契機をつくった人物への複雑な思いはあるものの,近世オランダと東インドに経済的繁栄をもたらした偉人のひとりでありました。筆者には,滞在中に訪ねてくれたオランダの友人を案内したとき,彼の高貴の出の細君が絵の前に立ちすくんで肖像を凝視していた姿が印象に残っています。大戦中,蘭領東インドを占領した日本軍は,国中にあったオランダに因む記念物を手当り次第に破壊しましたが,この肖像画が如何してそれを免れたかは不思議に思われます。

 

 

(上) バタフィア市庁舎(Stadhuis),(下左) ポルトガル・市教会(Stadskerk),(下右) ポルトガル・市外教会(Buitenkerk)。http://en.wikipedia.org/wiki/File:Algr001disp04ill55.gif より転載。市庁舎は1627年落成,1707-1710年に現存の建物に建替えられる前のもの。市教会は1808年に消失。市外教会は,シオン教会として現存する(第2章参照)。

 

英雄ヤン・ピーテルスゾーン・クーン

   クーンは1587年にホールンで生を受けた歴としたオランダ人でありましたが,彼についてインドネシアに面白い伝説があり,18世紀にソロでジャワ語の詩で書かれた「サコンダルの書(Serat Sakondar)」では,彼の名はムル・ヤンクン(Mur Jangkung=Jan Coen)といい,彼はパジャジャラン国のタヌラガ王女とオランダ人スクムル(Sukmul)の間に生まれた息子であったそうです。原文の翻訳は入手困難,其処此処に紹介されている話は断片的で要領を得ませんでしたが,幸いに詳しい解説の書かれた本[41]が見つかりました。ムル・ヤンクンの話は原書の後半にあります。

「イスラム勢力が西ジャワに拡大してジャカルタ公[42]によってパジャジャラン王国が征服されたときといいますから,恐らく16世紀の半ばから後半に掛けての頃,山地に逃れた一人の王女が,聖者スカルシ(Ajar Sukarsi)[43] と出遭って妊娠し,驚くほど美しい女児(タヌラガ王女)を生みました。ジャカルタ公は成長した王女を勾引(かどわ)かし,ベッドを共にしようとしましたが,彼女の秘密の部分が火を噴いたので,彼女をジャカルタ湾の小島プラウ・プトゥリ(プリンセス・アイランド)に流しました。次にチレボンのサルタン,マタラムの王も彼女を己のものにしようと試みましたが,矢張り状況は同じで目的を果たし得ず,彼女は再び島に返されました。

   そこに現れたのがスペインから貿易船でやってきたスクムルなる男で,彼は3門の大砲[44]を代償として彼女を買取って,スペインに連れ帰りました。やがて二人の間にムル・ヤンクンが誕生しました。成長して立派な軍人となり,自分の誕生の秘密を聞いたムル・ヤンクンは母の国パジャジャランを潰し,王女であった母を辱めたイスラム教徒への復讐を誓い,15隻の軍船を率いてジャカルタにやってきました。彼はオランダ人居住者はもとよりジャカルタ公にも歓迎され,母から習ったマレー語[45]を話して土地の人たちとも交りましたが,その裏では密かに戦の準備を進めていました。軍事演習中に大砲の弾が誤ってクラトン(王宮)内に落ちたとき,ジャカルタ公は大いに怒ってジャカルタから退去するように命じましたが,ムル・ヤンクンは商業的損失が大きいからと容赦を乞いました。その後,ジャカルタを去ったのはジャカルタ公のほうで,オランダ人や大砲から遠ざかるため,神の意思に従ってグヌン・サリ(サリ山,現在のジャカルタ市域内)に退きました。ムル・ヤンクンはこれに喜び,クタ・タイという名の砦を築きました。オランダ人はジャカルタ公を攻めましたが,公の弟で超自然力を持ったプルバヤ王子の働きもあって,戦況は一進一退の状況にありました。スペインでこれを聞いてジャワに来たスクムルは,一計を授けました。ムル・ヤンクンが砲弾の代わりにコインを大砲に装填してグヌン・サリに向けて放つと,ジャカルタ公の兵は我先にとそれを拾いに出てきました。そこへ実弾が放たれ,兵の多くが斃れました。恐れをなしたジャカルタ公は,南方のプリアンガンの山中に逃れましたが,やがて彼の兵は彼の元を離れました。ジャカルタ公は一介の謀反者に成下り,超能力を持つ土地の連中とともに修行に励みましたが,失地を回復することは到底叶いませんでした。彼は悲愴な気分で,嘗て聖者スカルシの娘をオランダ人に売渡したことが間違いであったと気付き,自分の生涯に対する神の意思は何かと自問しつつ,スルタン・アグン(マタラムのスルタン)からはお咎めを受けるに相違ない,自分は罰を受けて死ぬであろうなどと嘆きました。バタフィアのオランダ人は数を増して,チリウン川が市中に取込まれて,運河に囲まれた市街ができていました。」

   この中でスクムルやムル・ヤンクンがやってきたのがスペインとなっていますが,詩の前半にはスクムルの家系やヨーロッパの様子が書かれていて,スペインはオランダの支配下にあったという前提になっています。それによれば,オランダの最初の支配者はナコダ(Nakoda,船長の意)といい,彼は母親の胎内から切開によって出生しました。彼は孤児でありましたが,武人として功を上げ,商人として豊かになって,12人の王の娘を妻に娶っていました。彼女らに子が生れないので,ナコダが隠者ミントゥナに縋ると,その魔力によって11人は男子を産み,その息子らは後に東インド会社重役会のメンバーとなりました。このとき子を産まなかった妻はガベサー(Ngabesah)のレトゥナ姫(Sang Retna)といい,夫に疎まれて厨房に追いやられていましたが,14年経って貝を生み,その貝から双子の息子,ラデン・バロン・スクムルと物語のタイトルとなったラデン・バロン・サケンデルが誕生しました。14年後,サケンデルはミントゥナに招かれてミントゥナの隠れ家に行き,危うく喰われそうになりましたが,辛くも相手を討ち,危機を逃れました。サケンデルはスペインに行って王の信頼を得て王女と結婚,武勲を立て[46],スペイン王が父ナコダの生別れになっていた兄弟であることも分って,サケンデルは王位を譲られ,彼の統治の下でスペインは大いに繁栄しました。その後,彼は商業の栄えるジャワに行きたいと欲し,王位をスクムルに譲ってスペインを出立,マタラム王の家来となりました。

   サケンデルの冒険は,魔王シングンカラ(Singgunkara)の魔力に支えられ,また彼の誕生と同じ頃に,母の侍女が産み落としたマンゴの核(さね)から誕生した双子兄弟の一人カセベル(Kaseber,他の一人スフルマン(Suhuruman))に加えて,サケンデルの兄弟であるというスンブラニという名の駿馬,カセベルの兄弟であるというガルーダという名の怪鳥が家来として活躍,さながらアラビアンナイトを髣髴とさせます。

   サケンデルの書からは次のような系図が導かれます[47]

   

  

  これによれば,ムル・ヤンクン,すなわちヤン・ピーテルスゾーン・クーンは,パジャジャランの血を引き,征服のためにジャカルタに来たというより母の国に帰還したということになります。この書の書かれた頃といえばジャワ人がオランダ人に接して既に2世紀,ヨーロッパの歴史に関して正しい知識を得ていた筈であるにも拘らず舞台設定が現実離れしているのは,フィクションのフィクションたる所以といえましょう。

   ムル・ヤンクンの話は西ジャワ伝統のワヤン・ゴレック(木偶を操る人形劇)にもなったそうですが,今日上演されることはないようです。

    

左:「ヤン・ピーテルスゾーン・クーン肖像」 ジャック・ワーベン(Jacques Waben) 17世紀初期作 (http://commons.wikimedia.org/ より転載),右 ムル・ヤンクンのワヤン・ゴレック用の木偶(http://indonesia.elga.net.id/wayang/ より転載)。

     

旧オランダ教会余情

   ジャカルタ歴史博物館の正面広場は,その昔,閲兵式や犯罪人の公開処刑などの行われた場所で,現在タマン・ファタヒラー(ファタヒラー公園の意)と呼ばれていますが,広場の左手(西側)に今はワヤン博物館となっている建物があります。ワヤンというのはジャワ独特の人形芝居で,水牛の革(クリット)で作った人形をスクリーンに写すワヤン・クリット(影絵芝居),木偶を操るワヤン・ゴレック,人間がキャラクターに扮するワヤン・オランなどがあって,何れもガムラン音楽に合せて演ぜられます(第6章参照)。館内2階の陳列室には,マハーバーラタ,ラーマーヤナといった古典劇用のもののほかにも様々の人形が並び,中にはヤン・ピーテルスゾーン・クーンとパジャジャラン王国のプラブ・シリワンギ王が面会している木偶がありました。パジャジャラン王国はクーンの来る40年も前に滅亡していましたから,二人が実際に会ったことはなかった筈ですが,両者ともに歴史上の英雄でありましたから,2人が対面したという架空の話がつくられていたと考えられます。残念ながら館員の方も詳しくは御存知ありませんでした。

    

ワヤン・ゴレック用の木偶(左:シリワンギ王,右:J. P. クーン)。ワヤン博物館にて,2007年11月,筆者撮影。

     

   この建物の中で異様に映るのは1階廊下脇に並ぶ数枚の墓碑で,中でも巨大なヤン・ピーテルスゾーン・クーンのものが目を引きます。それもその筈,この敷地には嘗て教会がありました。当初のものは1632年から1640年に建立された十字教会(Kruiskerk=クライスケルク,別名 Holllandsche Kerk)で,当時の絵には信者の男女が集う姿[48]が描かれています。宗派は申すまでもなくプロテスタント,オランダのスペインからの独立の原動力ともなったカルヴィン派の流れを汲むオランダ改革派でありました。

   ジャガタラお春が長崎で洗礼を受けたときの宗派はカトリックであった筈ですが,バタフィアは改革派 (Gereformeerde Kerk) 一色でしたから,彼女も転向してこの教会に日曜日毎に通った,結婚式を挙げたのもここであったと想像されます[49]。バタフィアでの結婚披露宴の様子については,お春より100年以上もあとのスケッチしか筆者は知りませんが,それには大広間の正面壇上の中央に新郎新婦が,その両脇に親族と思われる人々が立ち,招待客はその前を巡りながら挨拶する光景が描かれています。察するに,恐らくお春の結婚の時もこんなであったと思われます。と申すのは,筆者はバンドンやボゴール在住中,偶々交誼を得たスカルノ家の姪御さんをはじめ多くの友人の子弟や若いスタッフの結婚披露宴に招かれましたが,形式は300~400年後の今も家の格式の上下を問わず全く同じ,このオランダ式の披露宴はオランダ人がやってきた初期の方式に倣ったものと考えられるからであります。

    

 

「バタフィアの結婚式」 ヤン・ブランデス(Jan Brandes) ca. 1778-85作。アムステルダム国立博物館藏(Identification Code: NG-369)。許可を得て同博物館のウェブサイトから転載。

  

 

新オランダ教会模型 (現在ジャカルタ歴史博物館に陳列されている)。Haan, F. de Oud Batavia - Gedenboek uitgegeven Genootschp van Kunsten en wetenschappen naar aanleiding van het driehonderdjarrig bestaan der stad 1919 (Eerste Deel), G.Kolff & Co., Batavia 1922 より転載。

    

 

「十字教会(De Kruiskerk)」 ヨハン・ニューホフ(Johan Nieuhoff) 1682作。 http://commons.wikimedia.org/wiki/File:De-Kruis-Kerk-op-Batavia-1682.jpg より転載。 

   

   お春の夫,シモンスの地位から推して彼女等も十字教会の墓地に葬られたのでないかと想像しましたが,それらしきものは見当たりません。十字教会は,1732年に新オランダ教会(Nieuwe Hollandsche Kerk)に改築され,多くのお墓はタナーアバンの現在石碑公園博物館になっている場所に移されたそうですが,其処にもお春の時代の日本人の墓碑はありませんでした。

   バタフィアの中心的教会機能は,1839年に新都心ウェルテフレーデンに建てられたウィレム教会 (Willemskerk,現イマヌエル教会) に移りました。

    

ジャカルタ独立広場東(旧・バタフィア・ウェルテフレーデン)のイマニュエル教会(Gereja Immanuel,旧名・ウィレム教会) 2000年12月,筆者撮影。

    

ジャカルタ地図     

 

ジャカルタ北部コタ地区(旧バタフィア地区)。Google Earth を基に作図。

      

ジャカルタ中心部。Google Earth を基に作図。

   

   

   

     

第1章註

[1] ジャガタラは Jayakarta の訛。本文中に後述。

[2] 長崎海岸の人工島,面積僅か1.31ヘクタール。1636年完工,1639年までポルトガルが,1641年から1859年までオランダが商館を置くのに供せられた。

[3] 竹越與三郎「南國記」,二酉社 1910

[4] 徳川義親 「じゃがたら紀行」, 郷土出版社 1931(十字屋書店 1943,中公文庫1975);英訳: Marquis Tokugawa (translated by M. Iguchi), Journeys to Java, ITB Press, Bandung 2004;インドネシア語訳:Marquis Tokugawa (diterjemahkan oleh Ririn Anggraeni dan Apriyanti Isanasari), Perdjalanan Moenoedjoe Jawa, Penerbit ITB 2006

[5] ポルトガル語 Capitaõ の訛で商館長を指す。オランダの商館長にも,オランダ語の Opperhoofd でなく,この語が用いられたのは,15世紀以来ポルトガル語がアジアの lingua franca(共通語)であった事情による。

[6] 三島才二編「南蠻稀聞帳」,潮文閣 1929。西川如見「町人嚢・百姓嚢・長崎夜話草」,岩波文庫1942 では若干異なるが,元本(写本)の違いに依ると思われる。

[7] オランダ人,時にイギリス人をも指す。因みにポルトガル人,スペイン人は南蛮人と呼ばれた。

[8] 金井圓「日蘭交渉史の研究」,思文閣 1986

[9] 竹越與三郎「實生活」第ニ號,大正5年11月。引用文中の新井白石は江戸時代中期の学者で幕僚。切支丹禁教の掟を破って1708年に渡来したイタリア人宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti)を尋問し,後者から得た知識をもとに「西洋紀聞(1715)」を著した。また,「古賀君」とあるのは竹越と同時代の長崎学者,古賀十二郎で,「長崎洋学史(上下)」長崎文献社 1969,「丸山遊女と唐紅毛人(上下)」 長崎文献社 1968/69 等の著作がある。

[10]岩生成一「続・南洋日本町の研究」,岩波書店 1987

[11] 脚注8

[12] 藤城かおる「長崎年表」 http://www4.cncm.ne.jp/~makuramoto/

(移動先 http://f-makuramoto.com/01-nenpyo/)

[13] 打橋竹雲選並蔵「長崎年暦兩面觀」,文政十一戊子(1828)發行の慶長19年(1614)の欄に,「切支丹寺十一ヶ寺破却」の記録がある。同書該当箇所のコピーは,香川大学付属図書館の好意によって提供された。

[14] http://www.vocsite.nl/schepen/detail.html?id=11501 によれば,1637年竣工,1638-1657年就航,積載量1,050トン,船員300名とある。

[15] 現在の台南市西の海岸に位置。1662年,鄭成功(別名:国性爺,和藤内)の攻撃を受けて陥落。新宮正春「ゼーランジャ城の侍」,新人物往来社 1989 の小説あり。

[16] 脚注8

[17] 原文「加留巴,下港屬國也,半日程可到。」 http://www.world10k.com/blog/?p=1210

[18] 6月22日は現在のジャカルタの市制記念日と定められているが,根拠として曖昧であるという意見もある。例えば,日刊紙 The Jakarta Post の記事:Alwi Shahab, “Jakarta anniversary date must be changed: Historian”, The Jakarta Post, June 23 2004

[19] 例えば,岩生成一「朱印船と日本町」,至文堂 1962。1612年にシャムに渡り,アユタヤ王の傭兵となった山田長政(1590-1630)が有名な例。

[20] 例えば,M. Cooper, They came to Japan: An Anthology of European Reports on Japan, 1543-1640, University of California Press 1965。

[21] C. R. Boxer, The Dutch Seaborne Empire 1600-1800, Penguin Books-Hutchinson, London 1990

[22] K. Zandvliet, et al., The Dutch Encounter with Asia 1600‑1950, Rijksmuseum Amsterdam ‑ Waanders Publisher, Zwolle 2003。コルネリアの生年は1629とある。

[23] Leonard Blussé, Strange Company: Chinese Settlers, Mestizo Women and Dutch in VOC Batavia (KITLV Verhandelingen Ser No, 122), Foris, Utrecht 1988 の中の,“VIII Butterfly or Mantis? The Life and Times of Cornelia van Nijenroode”(邦訳:レオナルド・ブリュッセイ(栗原福也訳)「おてんばコルネリアの闘い」,平凡社 1998)

[24] 正延哲士「小説じゃがたらお春」,三一書房 1996

[25] 白石広子「じゃがたらお春の消息」,勉誠出版 2001

[26] 脚注8,脚注10,脚注19,和田正彦「近現代の東南アジア」,放送大学教育振興会 1991

[27] Abdrurrachman Surjomihardjo, Pemekaran Kotas Jakarta/The Growth of Jakarta, Penerbit Djambatan, Jakarta 1977。チリウンは1627年の地図では蛇行しているが,1635年の地図では真直ぐになっているから,その間に工事されたものと思われる。

[28] F. de Haan, Oud Batavia―Gedenboek uitgegeven Genootschp van Kunsten en wetenschappen naar aanleiding van het driehonderdjarrig bestaan der stad 1919 (Eerste Deel), G.Kolff & Co., Batavia 1922 の附録地図を参照して同定。白石広子女史の著書(脚注25)には「ロママラカ通」とあるが,仮にロア・マラカの誤りであるとしても,失当である。

[29] 発見者キング師の報告は次に所在: Rev. A. F. King, "A gravestone in Batavia to the memory of a Japanese Christian of the Seventeenth Century",Transactions of the Asiatic Society of Japan Vol. XVII,Hakubunsha,Tokyo 1889 p.79-101(GoogleBooks)。

[30] 脚注4

[31] 碑文の拓本は国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に存在する由。

[32] 脚注28の Oud Batavia

[33] 脚注8

[34] Marie-Odette Scalliet, “Une curiosité oubliée: le Livre de dessins faits dans un voyage aux Indes par un voyageur hollandais du marquis de Paulmy”, Archipel 54, 1998

[35] スラウェシ(セレベス島)ブギス族伝統の船。彼らは古来航海を得意とし,有史前にアフリカ東岸のマダガスカルに渡って住み着いたのは彼等とされている。

[36] A. Heuken SJ, Historical Sites of Jakarta, Cipta Loka Caraka, Jakarta 1982

[37] マルスは軍事と農業の神,ミネルヴァは詩歌,医学,知恵,商業,芸術の女神。それぞれギリシャ神話のアレス(Ares)およびアテナ(Athena)に相当。

[37a] 双頭のヤーヌスの描かれた例。複写元:Sebastian Münster, Cosmographia, Heinrich Petri, Basel 1550 (Duplicated from: Wikimedia commons)。

[38] C. Scott Littleton, Gods, Goddesses, and Mythology, Vol. 6, Marshall Cavendish, 2005, Christopher Irving, A Catechism of Mythology: Being a Compendious History of the Heathen Gods, Goddesses, and Heroes (1822), Kissinger Publishing 2010

[39] ケープ植民地とセイロン島は占領したイギリスが領有。南ネーデルラントはオランダが得たが,同地域は1830年にベルギー王国として分離独立。

[40] 金井圓「近世日本とオランダ」,放送大学,1993; 科野孝蔵 「オランダ東インド会社の歴史」,同文館出版,ほか。

[41] M. C. Ricklees, Jogjakarta under Sultan Mangkbumi 1749-1792, Oxford University Press, London 1974

[42] 原語は Pangeran。英語の Prince または Lord に相当。

[43] Ajar Sukaresiの名は,スンダの詩歌調伝説「チウン・ワナラ」に,Sang Perman Kusumah王(Ciung Wanara の父)が隠遁して聖者となった後の名前として現れる(第4章参照)。綴りは酷似しているが,Ajar Sukarsi と同一人物であったか否か筆者には不明。

[44] Guntur Geni (グントゥール・ゲニ),Ki Pamuk (キ・パムック),Njai Setomi (ニャイ・ストミ)の3基。それぞれ,マタラム,バンテンおよびチレボン王家の家宝として伝えられたとある。

[45] 所謂 Low Malay。古くから地域のlingua franca(共通語)で,インドネシア独立後,国語となった。

[46] 戦の相手は何故かサケンデルとスクムルの祖父に当るナベサー王で,スペインの王女を欲したのが原因。ナベサー(Ngabesah) はアビシニア(=エチオピア)でないかとの推定がある。敵方には,イギリス,フランス,チャイナなどが加勢していたとある。

[47] 脚注41。系図左側,パジャジャラン子孫のラトゥ・キドゥルはサケンデルの書とは無関係。彼女は南海の女王と呼ばれる伝説のヒロインで,諸説様々の中,一説では,「彼女はドゥウィ・スレンゲンゲという名のムンディンラヤ・ワンギ(シリワンギ)の娘であったが,自分の息子を世継にしたいと欲する第二王妃ドゥウィ・ムティアラが雇った魔女の呪いで皮膚病に罹って王宮から放逐される。南海(インド洋)の浜に至って海水に浸ると,病が癒えて以前にも増した美女となると同時に超自然的な力を得て,ラトゥ・キドゥル,即ち南海の女王となった。」(Argo Wikanjati,Kumpulan Kisah Nyata Hantu di 13 Kota,Penerbit Narasi 2010)。中部ジャワで18世紀に編まれた Babad Tanah Jawi によれば,パネムバハン・スノパティは彼女と契りを結んで力を授けられたと謂われ,その関係は以来のマタラムの歴代の王にも引継がれているとされる。(Nancy K. Florida,Indonesia,No. 53 (Apr.,1992),pp. 20-32,Published by: Southeast Asia Program Publications at Cornell University)

[48] 80年戦争(1548-1648),ウェストファリア平和条約で終結。北部7州は1600年頃までに実質的に独立していた。

[49] VOCは1622年,「国教を支持し,教会の聖域を護り,全ゆる邪教と偶像崇拝を破壊し,反キリスト教徒ち戦い,イエスの王国に栄光あらしめよ」の指示を受け(James J. Fox (ed.), Indonesian heritage Vol. 9: Religion and ritual, Periplus, Singapore 1998),ジャワおよび外島でポルトガル時代以来カトリック教徒であった者を改革派に転向させた。東インドで宗教の自由が与えられたのは,ヘルマン・ウィレム・デーンデルスが総督であった時期(1808-1811)であった。