序章   

ジャワ史概観   

   

     トーマス・スタンフォード・ラッフルスは,200年前,自著「ジャワの歴史」第1章冒頭に次のように書いている[1]。   

     「ヨーロッパ人の間でジャワまたはジャワ・メジャー(Java Major)の名で知られ,地元でタナー・ジャワ(ジャワの地)またはヌサ・ジャワ(ジャワの島)と呼ばれる国は,現代の地理学者がスンダ諸島と呼ぶ中の最大の島の一つである。それは時にマラヤ諸島(Malayan Islands)の一つと見做され,最近アジア諸島と名付けるよう提案されたオリエンタル列島の一部を形成し,グリニッジ東経105°11′から133°114′へ少し南に偏って伸び,南緯5°52′と8°46′の間に横たわる。南と西はインド洋に,北西はこの島をスマトラから一地点で僅か14マイルの距離で隔てるスンダ海峡に,南東はバリの名の島との間を僅か2マイルの幅で隔てるバリ海峡に面する。」   

     本書が対象とするジャワは,このジャワであって,今時ポピュラーな「異なるコンピュータシステムを横断して動作するよう設計されたプログラミング言語」に付された商標名の Java[2] は含まれない。   

     ジャワの語源は幾つかの文献で触れられているが定かではない。ラッフルスは上記の書に,アジア大陸から離れた遠いという意味のジャウ(jau,現代インドネシア語では jauh)またはサンスクリット語で大麦を意味するヤワ(Yava)に由来すると述べている。ラッフルスの第2候補のヤワは古代インドの有名な叙事詩ラーマーヤナの中に誘拐されたシータ妃の探索のためにラーマの軍勢が派遣された島,ヤワドゥウィパまたはジャワドゥウィパ(Yavadvipa or Jawadwipa,dvipa or dwipa,ドゥウィパは島の意)として登場する[3]。東晋の仏僧・法顕の旅行記「佛國記」にある耶婆提(Yavana),彼がセイロンからの帰路に難破漂着して暫く滞在した島は,このジャワドゥウィパの音訳に相違ない。ジャワの古文学,西暦879年詩人エンプ・サトゥヤ(Empu Satya)によって書かれたマハパルワ物語(Serat Mahaparwa)には,次のような話がある。   

     「太古の昔,天界から降りた神が,現在のスマトラ,ジャワ,マドゥーラ,バリが未だ陸続きであった島を見て,長いという語に因んでダワ(dava)と呼んだ。後にインドから送られたイサカ王は,全土を歩いて確かに長い島であることを確認,また,この島の其処此処にジャワウット(jawawut,稗(ひえ))が生えているのを見たので,その意味も兼ねてジャワと名付けた。」[4]     

     アジア大陸南東に存在するマレー列島(Malay Archipelago)または上記のラッフルスの文節に書かれたマラヤ諸島(Malayan Islands)は,19世紀には他に様々に呼称されていたと見られる[5]。例えば,この地域を同世紀半ばに訪れた自然科学者アルフレッド・ラッセル・ウォーレスは,1863年のロンドン王立地理学会誌への寄稿で,この用語そのもののみならず,その地理的な定義を議論し,1869年刊行の彼の有名な著書[6]に「マレーアーチペラゴ」のタイトルを付したものの,インド・オーストラリア列島(Indo-Australian Archipelago)が彼の選択であると述べている。しかし,それ以前の1850年,英国の著名な法律家であり民族学者であったジェームズ・リチャードソン・ローガンは,インド諸島(Indian Islands)またはインド列島(Indian Archipelago)に代る純地理学的述語として「インドネシア(Indonesia)」が,インド列島民(Indian Archipelagians)またはインド島民(Indian Islanders)には「インドネシアン(Indonesian)」が相応しいと述べた[7]。爾後,インドネシアの用語は遍く普及し,現在のインドネシア共和国が,1949年に旧蘭領(オランダ領)東インド[8]の領域を継承して成立したとき,その名に採用された。当時域内に共通言語として普及していたマレー語(Low Malay)は国語として採用され,インドネシア語と名付けられた。   

     ラッフルスの書では,ジャワに対応するジャワ・メジャーに加えて,スマトラに対応するジャワ・マイナー(Java Minor)なる用語が用いられているが,これらの簡潔な表現が当時またはそれ以前に一般的であったか否かは定かでない[9]。1292年(?)シナからの帰途スマトラに立寄ったマルコ・ポーロは,ベニスに帰国後に著した旅行記,イル・ミリオーネ(Il Milione)の中で,スマトラを「イャワの小さい島(Della piccola isola di Iava),ジャワは単に「イャワの島 (Dell'isola di lava)」と呼び,後者は大きな島(un'isola grandissima)であると述べている[10]。彼のジャワに関する記述を以下に引用する。   

     「此処でジャワという偉大な島について話そう。貴君ら,チャンバの国を離れて南南東に1500マイル航海すると,ジャワという非常に大きな島に着くと知り給え。事情を熟知する経験豊かな船乗りによれば,それは世界で最大の島で,周囲3000マイルもある。それは偉大な王に帰属する。彼らは偶像崇拝者で,何処にも朝貢しない。この島は無限に豊かである。彼らは,胡椒,ナツメグ,甘松,ガリンゲール,クベバ,丁子(ちょうじ)などの考えうる全ての香料を持つ。多数の船が往来して,貿易業者は雑貨を商い,彼らは莫大な利益を得ている。この島には斯様な富があり,世界の何人もそれを計算したり数え上げたりすることができない。大カーン(クビライ)は,長距離で航海が危険であるために,決してその島を分取ることができないことを,私は付け加えよう。ザイトゥン(刺桐=泉州)とマンジ(蠻子=南宋)の商人は,この島との貿易で過去に多大の利益を得,今も得ている。世界で売られている香料の大部分は,この島から来ている。この島についての話は以上で,他に言うことはないので,次に進もう。」[11]   

     この中で,多分正確な知識が欠如していたために間違って実際の2倍以上に誇張されたジャワ島のサイズは大航海時代に至るまで物議の対象となり,また島の事情に関する船乗りの話が通商に偏している嫌いが否めないが,国状に関する記述は略々真実である。その頃のジャワはシンガサーリ王国の絶頂期にあって,クルタネガラ王(在位1268-1292)の統治のもとで国は栄え,国威は周辺の島々に及んでいた。彼らが偶像崇拝者であったとの記述は,彼らがヒンヅー教を奉っていたことを意味する。朝貢を求めてクビライ・カーンが送った使節が3度クルタネガラ王によって拒否されたことも事実であった(第6章参照)。   

     マルコ・ポーロの記述はヨーロッパ人にとって文字通りの意味で実に目覚しいものであったが,ジャワ島の存在および状況はアジア,就中シナでは以前から知られ,最も古くは,後漢時代に編まれた「後漢書・南蠻西南夷列傳」[12]に,「永建六年(西暦131年),越南海岸域外の葉調(Ye tiao)の王が朝貢し,皇帝が金印及び紫綬を下賜した」ことが記録されていた。この王国に関する物的証拠は現地に存在しないが,王国は太古の昔からの口伝が後世に成文化された文書の一つ,「列島列王記」とでも訳すべき書(Pustaka Rajyarajya i Bhumi Nusantara)[13]に書かれたサラカナガラ王国,王はその頃インドからジャワ島西部に移住して同王国を建てたデワワルマン1世であると見做される。以下,現代に至るまでのジャワ島に興廃した王国の歴史を,多少なりとも文化面に光を当てつつ,筆者なりに簡単に概括してみようと思う。   

     西ジャワ[14]でサラカナガラに次いで栄えた王国は,物的証拠として数個の石碑を遺すタルマナガラ王国で,4世紀半ば(西暦358年)に成立,その絶頂期は第3代プルナワルマン王の時代にあったと考えられている。同時代の宋書南史「列傳」には「呵羅單國」に関する記述があって長らく論争の的になっていたが,筆者自身は「呵羅單」は,チ・アルトゥン(アルトゥン川の意)のアルトゥンの音訳であって,呵羅單國はタルマ国を指し,その都は2個の石碑と多数の礎石が発見されたボゴール郊外チアンペア村チアルトゥン地区にあったと推定する(第3章に詳述)。   

     タルマナガラは西暦7世紀後半(669年)まで存続し,スンダ王国と名を変えるが,王族の一部は7世紀始めに分家して西ジャワ東部にケンダン・ガルー(Kendan/Galuh)王国を建てていた(852年まで存続)。スンダ王国自体の王都は恐らく現在のボゴール付近にあったと考えられるが,14世紀の前半(1333年),第29代リンガデワタ王の女婿リンガウィセサは,西ジャワ東部,上記ガルー近くのカワリ(Kawali)に別の国を興した。スンダ,カワリ両国は約1世紀半の間,姉妹関係にあったが,西暦1482年にカワリ王国第6代デワニスカラ王の女婿,スリ・バドゥガによって統一され,パクアン(現ボゴール)を都とするパジャジャラン王国が成立した。スリ・バドゥガ(渾名シリワンギ)は西ジャワ史上最も光輝に満ちた王で,その偉業は彼の息子スラウィセサ王が建立したバトゥトゥリス(石碑)に刻まれ,彼に纏わる数々のエピソードはスンダの人々の間で今も親しまれている。   

     しかし好事魔多し,中部ジャワに根差して勢力を増し,領内チレボンに拠点を構えたイスラム教徒によって,ポルトガルが貿易拠点として既に保有していたマラッカとの交易で栄えた外港,就中,主要なバンテンおよびスンダクラパ(現ジャカルタ)を1526-27年に奪われて陸封され,終に1579年には首都パクアンが陥落して,パジャジャラン王国は消滅,西ジャワ最後のヒンヅー教を奉ずる王国となった。チレボン王国の建国者はスリ・バドゥガの孫のシャリフ・ヒダヤットであったが,少なくとも筆者自身の見解では,イスラム教徒であった彼の興したチレボンは必ずしもスンダの伝統を継ぐ国であったとは言い難い。パジャジャラン王国のプサカ(国宝)はパクアン陥落の際,難を逃れた貴族らによって領内東方(現在のバンドンの北東)のスメダンララン王国に運ばれて秘匿された(プラブ・グサン・ウルン・博物館に現存)。   

     上のパラグラフの中のスンダ(Sunda)の語には若干の補足を加えておくべきかと思われる。この語は,王国の名称のほかラッフルスの記述にもあったようにスンダ諸島,スンダ海峡といった地理的名称に用いられているが,タルマナガラ時代に海岸近くに築かれた町の名スンダプーラ(恐らく現在のジャカルタ北部のスンダクラパ)に由来して,一般にジャワ島西部を意味するようになり,その地をタナー・スンダ,原住の人々をオラン・スンダなどという。スンダ人はジャワ島中部および東部に住むジャワ人と,人種的には同じ南方モンゴロイド系でありながら近世に至るまで交渉が薄く,言語も習慣も異なっていた。両者は土地の言葉で,オラン・スンダ,オラン・ジャワと呼ばれる。   

     スンダとジャワの関りを語るとき,カワリ朝第3代リンガブアナ王の御代(1350-1357)に起きた「ブバトの悲劇」ついて触れない訳にはゆくまい。1357年,当時東ジャワに興隆した強国マジャパヒトの若き王ハヤム・ウルクから娘のディア・ピタロカ姫への求婚を受けたリンガブアナ王は,婚礼のため王妃,姫以下の一統を伴ってマジャパヒトに向い,都の郊外プランタス河畔のブバトに着いたが,姫との結婚を切望したハヤム・ウルクを差し措いて,スンダを属国にしたいと企てた宰相ガジャ・マダから,思い掛けずも,「姫は主君への貢たるべし。」と告げられた。リンガブアナは「恥辱を受けるよりサトリア(武士)として果てるべし。」と宣言,王以下の全員が劣勢を承知でガジャ・マダ軍と闘ってブバトの野に果て,王妃も姫も女官たちもその後を追った。この悲話は,後に書かれた叙事詩「キドゥン・スンダ(スンダの詩)」[15]に詠われ,また史書「パララトン」[16]にも書かれている。カワリ朝は大打撃を受けたが,留守を預かっていた王弟スラディパティが王位に就いて,辛くも国体を維持した。   

     中部ジャワに最初に文明を齎したのは西暦1世紀にインドから到来したアジ・サカの一行で,その年(またはアジ・サカの没年)の西暦78年が,西暦が普及するまで広く使われたサカ暦の元年と定められた。アジ・サカの立てた王国の末期は不明である。中部ジャワで最も確かな初期の王国はヒンヅーを奉じたサンジャヤ王国で,732年に,西ジャワ・スンダ王国第2代の王サンジャヤ・ハリスダルマ(Sanjaya Harisdarma)が移って建国した。サンジャヤは偉大な王で中部ジャワ全域を平定し,王国は所謂マタラムの地で10世紀前半まで続くことになる。同時代,中部ジャワにはサイレンドラなる富裕な仏教国が併存し,有名な仏教寺院ボロブドゥールはサマラトゥンガ王の御代,西暦824年に完成されたとされている。サイレンドラ王国はサマラトゥンガの娘のプラモダワルダニ(即位名スリ・カフルナン)が西暦832年(頃)にサンジャヤの王子ラカイ・ピカタンと結婚したのを機にサンジャヤと合邦化され,事実上ジャワにおける存在を終えた。プラモダワルダニの弟のバーラプトゥラデワは,母親ターラの生国スマトラのスリヴィジャヤに移ってサイレンドラ王を名乗った。ボロブドゥールと規模において並ぶヒンヅー寺院ロロ・ジョングラン(通称プランバナン寺院)は西暦856年にラカイ・ピカタンが建てたとされているが,筆者自身は,妻のプラモダワルダニが継承したサイレンドラの富に与ること大であったと揣摩(しま)する。   

     ボロブドゥールやプランバナンなどの壮麗な寺院,ならびに,それらの壁面に彫られたレリーフ,龕(かん)に据え置かれた彫像などは,それら自体,王国が高度に洗練された文化を持っていたことの証しである。ジャワ独特の芸術や文学が萌芽を見せたのもこの時代で,10世紀の初め,ラカイ・ピカタンとプラモダワルダニの孫に当るバリトゥン王の時代の銅版には,ある祭礼の際に色んな舞踊や詩歌の詠唱のほか,ワヤンの名で知られる影絵芝居が演ぜられたことが書かれていた。ここで披露されたラーマーヤナはインド語テキストの直訳でなく,古ジャワ語の韻文詩で書かれ,後に文学のほか史書や年代記にも用いられた詩文形式「カカウィン」の嚆矢と見做されている。   

     なお,シナで10世紀に編纂された舊唐書「列傳」[17]には7世紀に南海にあって,悉莫(しま)なる名の女王を戴いた「訶陵國」なる国のことが書かれていて,過去にはその実体が議論され,サイレンドラと同定されるのではないかといった臆説もあった。筆者は,「訶陵」は,上述の「列島列王記」等に書かれたケリン国であって,悉莫の血統はサイレンドラ朝,サンジャヤ朝ならびに東ジャワに興ったカンジュルハン朝にも連なったと解釈する(第5章に詳述)。   

     ジャワにおける王国の歴史は,西暦929年にサンジャヤ朝のムプ・シンドク王がジャワ島東部を流れるプランタス河畔のメダンに遷都してイシャナ朝を開いたのを機に東ジャワに移った。彼らがマタラムの地を放棄した理由には今も活発に活動するムラピ山(火山)の噴火による大地の荒廃,仏教徒との宗教的軋轢などが思量されるが,詳しくは本編(第5章)に譲る。1006年,バリのワルマデワ家のウダヤナ王子に嫁いだムプ・シンドクの曾孫娘マヘンドラダッタが産んだアイルランガが,伯父のダルマワングサ王の娘ディア・スリ・ラクスミ姫との婚約のために母の里メダンを訪問中,メダンはスマトラのスリヴィジャヤの攻撃を受けて炎上し,王も殺害された。姫を連れて森に逃れたアイルランガは,雌伏すること10余年,伯父王の死後乱れていた国を統一し,乞われてジャワの王となり,1037年に,都をカフリパン(クディリ)に移して新王国を建てた。アイルランガの善政のもと,治水が進められ,対外貿易も栄えて国は潤ったが,アイルランガは芸術文化にも意を用いた。ムプ・カンワが著し,数多のカカウィンの中でも最も美しいものの一つとされる「アルジュナウィワハ(アルジュナの結婚)」は,アイルランガ王の生涯をマハーバーラタの一部に重ねた彼のための賛歌であるといわれている。ヴィスヌの化身と謂われた彼のイメージは現代に残る複数の彫像に見ることができる。   

     1041年,アイルランガは引退に際して2人の王子のために王国を西のパンジャル(またはクディリ)と東のジャンガラに二分したが,パンジャルが安定を保ったのに対してジャンガラは経営が上手くゆかずに沈滞し,12世紀初めにクディリに併合された。クディリ朝は第3代ジャヤバヤ王(在位1135‑1157)の時代に大いに繁栄,その模様は南宋の地誌「嶺外代答」[18]に,「諸外國の中でジャワは大食(タージ)國(サラセン)に次ぐ富める國」と記されていることに窺われる。神格を持つと崇められたジャヤバヤは文学を庇護し,ジャワ文学史を飾る「バーラタユッダ」,「クリシュナヤーナ」,「ボーマンタカ」などのカカウィンは彼の御代に著された。(所謂「ジャヤバヤ王の予言」につき,古典の和訳と筆者の見解を第6章附録に記す。)   

     クディリ王朝最後の王となるクルタジャヤ(1185-1222)は専横かつ残虐で,宗教指導者と対立,当時嘗てのジャンガラの都トゥマペルの領主であったトゥンガル・アメトゥンもまた横暴な男で ,意に沿わぬ僧侶を迫害し,農民には重税を課していた。そこに現れたのが,ヒンヅー・カースト最下層スードラから身を起したケン・アロック(またはアンロク)なる若者で,彼はトゥンガル・アメトゥンをクーデターで斃(たお)して,アメトゥンが拉致して妻としていたケン・デデスを娶り,終にはクディリにも勝利して,現在のマランにシンガサーリ朝を開いた(即位名ラジャサ)。彼の生涯は,前出の史書「パララトン」前半に詳しく書かれて,ジャワ史上最大の立志伝中の人物として語り継がれている。ケン・アロックは在位の間(1222-1247)善政を敷いたが,ケン・デデスが宿していたトゥンガル・アメトゥンの忘れ形見アヌサパティによって暗殺された。以後も王族内では骨肉の争いが繰返されたが,王国自体は維持されて,幾つかの立派な寺院(王廟)を遺した。シンガサーリ寺院コンプレックス跡で発見され,仏教聖者プールヴァの娘で完璧な美女と謳われたケン・デデスを完璧な智慧を求めて行をせらるる観音菩薩に見立てたと伝わるプラジュナパラミタ(般若波羅蜜多(はんにゃぱらみた))像はインドネシア国立博物館のマスターピースの一つであって,今も拝観することができる。同像は,少なくとも筆者の見方では,ジャワ彫刻の最高傑作であるといって過言ではない。   

     シンガサーリ朝第5代の王クルタナガラは国を繁栄に導き,マルコ・ポーロが記述した通り,朝貢を求めて到来した元のクビライ・カーンの使節を3度拒否したが,1292年5月,クディリの再興を企てたシンガサーリ支配下クディリ代官ジャヤカトゥワンによるクーデターによって殺害された。しかし,ジャヤカトゥワン自身,同年11月に,クビライ・カーンが1000隻のジャンクを仕立てて派遣した元軍によって殺害された。この機に乗じ,元軍に対して忠誠を装いながら,それを討って駆逐したのが,クルタナガラの女婿で,ケン・アロックとケン・デデスの子孫に当るラデン・ウィジャヤであって,1293年,彼はジャワ史上最強と謳われるマジャパヒト王国の礎を築いた。   

     マジャパヒトの第4代ハヤム・ウルク(即位名ラジャサネガラ)の時代に起きたブバトの悲劇については前に述べた。彼は,事件の数年後,従妹のパドゥカ・ソリを娶り,王妃とした。ハヤム・ウルクの治世下(1350-1389),国は宰相ガジャ・マダの功績もあって大いに発展し,その覇権はスマトラ,カリマンタン(ボルネオ島),スラウェシ(セレベス島),バリ以東の島々,西部ニューギニアを包含する現在のインドネシア国全域のみならず,マレー半島にまで及んだ[19]。当時の国内の状況は,彼の視察旅行に随行した詩人ムプ・パラパンチャがカカウィン詩文で著した「デサワルナーナ(別名ナーガラクルターガマ,1365年著)」のほか,明(みん)の鄭和の大航海に随行した馬歡が著した「瀛涯勝覧(えんがいしょうらん)(1416)」[20]にも見られ,同国の威勢は首都マジャパヒト(現在のトゥロゥラン),クディリ,パナタランなどに遺された寺院等の立派な建造物や彫刻からも窺知することができる。   

     ハヤム・ウルクの没後,王国は叙々に凋落に向った。一つの原因は王族内における王位継承争いであったが,それに輪を掛けたのがイスラム教の伝播であった。上述の「瀛涯勝覧」には,「この國には3種類の人あり,一つは西方諸國から商いのために流れてきた回教徒,一つは廣東,漳州,泉州などから逃避してきた唐人(シナ人)で,多くは回教を受戒,一つは鬼教(異教=ヒンヅー教)を崇信する土人(現地人)。」とあって,15世紀初頭にはイスラム教が相当に普及していたことが窺知される。実際,15世紀半ばになると,ドゥマック,ジュパラ,グレシク,トゥバンなどのジャワ北岸の港湾都市の領主はイスラムに改宗,マジャパヒトから離反して貿易を牛耳るようになり,1475年前後にラデン・パターがジャワ最初のイスラム王国,ドゥマックを建国した。   

     ドゥマックはマレー半島のマラッカ王国との交易で栄えたが,後者が1511年にポルトガル・インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケの攻撃を受けて陥落したのを境に力を失った。この間の事情は,ポルトガル人トメ・ピレスの書[21]にも詳しく書かれている。マジャパヒト王国の終焉は,一般にブラウィジャヤ6世(別名ギリンドゥラワルダナ,1478-1498)の御代とされている。この頃,ジャワの貴族たちは大量の文物を携えてイスラム勢力の及ばなかったバリ島に亡命した。実のところ,マジャパヒト期あるいはそれ以前にジャワで書かれた文学書や歴史書で後世の我々が目にすることができるものは,全てバリ島またはその東のロンボク島に遺されていたものである。   

     1584年に至って,マジャパヒト王家の子孫と伝わるパネムバハン・スノパティは,ドゥマック王国第3代のトゥレンガナ王(1522-1548)の崩御以降割拠していた小国を平定し,スルタンを名乗ってパジャン(現在のソロ近郊)に,現在に続く新マタラム王国(Kesultanan Mataram=マタラムスルタン国)を建てた(在位1587-1601)。斯くして,ジャワの政治文化の中心は中部ジャワに戻った。第3代のスルタン・アグン・ハニョクロクスモ(Sultan Agung Hanyokrokusumo,在位1613‑1645)は偉大な王で,西ジャワ西半分と東ジャワの一部を除く全ジャワ島を征服して支配下に収め,1628-1629年,2度に亙ってオランダ東インド会社(VOC(フェー・オー・セー)=Vereenigde Oost-Indische Compagnieの略)が1619年にバンタム・イギリス連合軍を破って建設したバタフィア(現ジャカルタ)にも遠征し,占領を企てた(結果は失敗)。   

     マタラム王国は18世紀半の1755年にソロのススフナン家とジョクジャカルタのスルタン家に二分された。この分割は同世紀前半に起きた王位継承を巡る内紛,所謂,ジャワ継承戦争の果てに,VOCの調停[22]によって行われたもので,以降,オランダのジャワにおける権勢が拡大したというのが歴史の一面であるが,他面,治世が安定して王侯も貴族も軍事に関る必要がなくなったことも事実であって,彼らは後顧の憂いなく芸術文化に意を注ぐことができるようになったと筆者は考える。影絵芝居のワヤンが今日見られるような高尚な形に進化したのも,ワヤン・ウォング(人間の演ずるワヤンの意)と呼ばれる華麗な舞台劇や,スリンピ,ブドヨといった上品な宮廷舞踊が生れたのも,更には史書の編纂が盛んに行われたのも両王家に於いてであったし,工芸の分野でバティック(臈纈染(ろうけつぞめ))が洗練されたのも,それ以降のことであった。   

     1744年,VOC総督グスターフ・ウィレム・ファン・インホフ男爵は,1579年に滅亡したパジャジャラン王国の旧都パクアン(現ボゴール)に別荘を設け,その地をバイテンゾルフ(無憂郷)と名付けた(同別荘は1870年に東インド総督公邸となる)。   

     欧州におけるナポレオン戦争の波はジャワにも及んだ。1808年,フランス統治下のオランダから派遣されたヘルマン・ウィレム・デーンデルス総督は予想されるイギリスの攻撃に備えて海辺のバタフィア砦を放棄,急遽,市の中心を南方数キロのウェルテフレーデン(現在のジャカルタ中央)に移すとともに,これより更に南のメーステル・コルネリス(現ジャティネガラ)に防衛線を設け,更にはジャワ島西端のアニェルから東端のパルナカンまでを縦貫する大駅馬車道路(De Groote Postweg)を建設した。彼はまたバイテンゾルフ東南東200キロメートルの四方を山に囲まれた盆地に要塞都市,現在のバンドン市を築いた。デーンデルスはこれらの事業を夥多の犠牲者を出しながら僅か2年間で成し遂げたが,彼の性格の激しさゆえに彼の統治は上手くゆかずに更迭され,1811年,現実に英国インド総督ミント卿率いる英軍にジャワが占領されたとき降伏文書に調印したのは後任のヤン・ウィレム・ヤンセンス将軍であった。ジャワの統治に当たったのは,ミント卿麾下の,後にシンガポール建設の祖となる英領インド副総督スタンフォード・ラッフルスであった。英国流を強いる彼の政策には問題があったが,ボロブドゥール寺院を含む古代ジャワの歴史遺産に目を向けて自らをバタフィア芸術科学協会会長に任じ,大著「ジャワの歴史」を著した彼の業績の偉大さは計り知れない。   

     1815年のウィーン平和条約で東インドがオランダに返還されたとき,国王ウィレム1世は統治をVOC(実質的に1799年に破産)の如き民間会社に委ねることなく国王直轄で行うよう決定した。1825-30年にはディポネゴロの反乱(所謂ジャワ戦争)があったが,東インドは着実に発展し,アジア随一の繁栄を誇るに至った。現在のインドネシアは世界有数の資源国として知られるが,当初の経済基盤はオランダが育んだプランテーション産業にあった。その効果は,「オランダ人はジャワから利益を得ているが,原住民にも利益を得させている。」[23] の文言に象徴される。1900年代初頭,ウィルヘルミナ女王の命によって東インド全域に「倫理政策」が布かれ,住民の福祉,教育は著しく向上した。1922年,蘭領東インドは,蘭領ギアナ(スリナム)およびキュラソー島とともに,憲法上,ネーデルラントと同格となった。   

     ジャワ島における歴史を省みるとき,その特徴は,この島には少なくとも過去2000年間,同じ民族が住み,其処に興廃した王国が,初期西ジャワのサラカナガラおよびタルマナガラがインドからの移住者によって建国されたのを除いて,全て原住民のものであったこと,その後の過程でシナ人,イスラム教徒などの移民はあっても,それらは大規模なものではなく,彼らが持込んだ文化や習慣が原住民の中に吸収され,同化されたことではないかと思われる。ヒンヅー仏教時代の文化が維持されたことを証す象徴的な例は,マハーバーラタやラーマーヤナが,イスラム教が普及した後も,現在に至るまでジャワの人々によって愛し続けられている事実に見ることができる。現在の王朝(ソロのススフナン家およびジョクジャカルタのスルタン家)の血統は,13世紀シンガサーリ王朝のケン・アロックとケン・デデスに遡る。   

     17世紀初めに貿易拠点を築き,19世紀初めにジャワの宗主国となったオランダ人は,ヨーロッパ文明を持込みはしたものの,彼ら自身の文化を押付けることはせず,寧ろジャワの伝統文化に敬意を払い,その保護に努めた[24]。このことはスペインの植民地,中南米は言うに及ばず,例えばアジアのフィリピンで起きたこと,コンキスタドール(征服者)がその地に存在した富を収奪したに留まらず,土着の文化を破壊し,原住民の心性までをも変えようと最大限の努力を払ったのと極めて対照的である。大東亜戦争中1942年2月-1945年8月の日本占領下,国土は疲弊し住民は塗炭の苦しみを強いられたが,ジャワを含む東インドは能く「日本化」を免れた。   

     戦後,ジャワを取巻く政治環境は著しく変化した。戦争終結直後の1945年8月17日に発せられたインドネシア独立宣言から1945年12月27日にハーグ円卓会議で独立が合意されるまでの所謂「インドネシア革命」の期間,国は再びオランダの統治下にあったが,中部ジャワを拠点とする独立軍はこれに抵抗した。初代スカルノ大統領はナショナリズムを鼓舞し,1957-58年にオランダ資本企業の国有化を行ったが,ナサコム(Nasionalisme=ナショナリズム,Agama=宗教,イスラム教,Komunisme=共産主義)を足場とする彼の「指導された民主主義(Guided Democracy)」の時代は1965年の9月30日事件,国軍幹部6名の暗殺とその首謀と目された共産党勢力の一掃をもって終焉した。翌年3月11日に権力の委譲を受け,3年後に大統領に就いたスハルトは所謂「新体制(New Order)」を布き,経済的発展に一定の成果を挙げたが,次第に独裁の色を強め,スハルト体制は1998年アジア通貨危機に伴う経済危機の中で崩壊するに至る。   

     斯かるインドネシアの現代史には様々な解釈があり,筆者自身,書物に書かれていない背景や側面をもインドネシア在住の経験を通じて学び,自分なりの見解を有してはいるが,それは本書の対象ではない。但し,筆者の理解する限り,ジャワおよびスンダの人々の伝統を重んずる心性は,国情の激変にも関らず,一貫して変ることがなかったと申し述べたい。人々は今もソロおよびジョクジャカルタの王家を崇敬し,長幼の序を尊び,ワヤンなどの伝統文化を愛して止まない。   

     

     本章を閉じる前に,以下の章に含まれる主な内容を以下に列記する。

   

     第1章 お春の渡ったジャガタラ(17世紀,現在のジャカルタ)   

         ・歌謡曲「長崎物語」に紹介されたジャガタラお春伝説   

         ・西川如見著「長崎夜話草(ながさきやわぐさ)」の記述   

         ・オランダ国立公文書館に遺る記録   

         ・お春の渡った17世紀のバタフィアの様子   

         ・オランダ人総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンの活躍   

         ・パジャジャラン王国の末裔タヌラガ姫とムル・ヤンクン(クーン)の伽話   

         ・ジャカルタ地図(北部および中部)   

     第2章 ジャガタラ異聞(17-20世紀,現在のジャカルタ)   

         ・ジャカルタに遺る17世紀頃の有名な大砲,シ・ジャグールに因む伝説   

         ・未遂に終った18世紀,ピーター・エルベルフェルドのクーデター   

         ・シナ人の大暴動   

         ・戦前のジャワのインフラストラクチャー   

         ・ジャカルタにあってアジア最古を誇るインドネシア国立博物館   

         ・ジャカルタの穴場(往時を偲ばせるレストラン,喫茶店)   

         ・ジャガタラに因む日本への渡来物(じゃがいも,じゃがたら縞など)   

     第3章 太古の石碑―タルマ国のプラサスティ(4-7世紀,西ジャワ)   

         ・西ジャワに4-6世紀に栄えたタルマ国が遺した数個の石碑   

         ・宋書「列傳」夷蠻の項にあって未解明の「呵羅單國」に関する考察   

         ・ボゴール郊外に遺る古代の遊技場跡と大型建造物の礎石の紹介   

         ・古代にあったクラカタウ火山の大噴火に関する考察   

         ・[第3章附録(1)] サカ暦(ヒンヅー暦)の解説   

         ・[第3章附録(2)] 西ジャワの王統   

     第4章 パジャジャラン国―スンダの人々の心の古里(7-16世紀,西ジャワ)   

         ・現在のボゴールに遺るパジャジャラン王国のバトゥトゥリス石碑   

         ・石碑に書かれたパジャジャラン王国建国者スリ・バドゥガ王の業績   

         ・スリ・バドゥガ王(通称シリワンギ王)に纏わる2~3編の伝承文学   

         ・イスラム教徒の侵攻によるパジャジャラン王国滅亡の過程   

         ・スメダンラランの博物館に遺るパジャジャランのプサカ(国宝)   

         ・西ジャワ東部に興ったガルー王国   

         ・スンダの王家一行が東ジャワ・マジャパヒトで果てた「ブバトの悲劇」   

         ・ボゴール植物園沿革   

     第5章 マタラム―神仏の坐す母なる地 (8-11世紀,中部ジャワ)   

         ・サイレンドラ王国の建立したボロブドゥール寺院を含む仏教寺院   

         ・サンジャヤ王国の建立したプランバナン寺院を含むヒンヅー寺院   

         ・中部ジャワに遺る他の宗教的建造物の記述   

         ・未だ定説のない「訶陵國」とサイレンドラ,サンジャヤ王朝の関係考察   

         ・[第5章附録] ロロ・ジョングラン伝説 (巷説と原典の和訳)   

     第6章 ジャワの文華―詩歌と演劇 (11-19世紀,東ジャワ,中部ジャワ)   

         ・ジャワ独特の影絵芝居(ワヤン)とそれから派生した様々な演劇   

         ・上記演劇の台本に供された詩文(カカウィン)文学数篇の紹介   

         ・東ジャワに遷都して栄えた王国とその遺産   

         ・現王朝の祖となった革命児ケン・アロックと妻ケン・デデスの物語   

         ・元の来寇とジャワ史上最強と謳われたマジャパヒト王国の成立   

         ・イスラム教の普及とマジャパヒト王国滅亡   

         ・東ジャワにおける文学の興隆   

         ・[第6章附録] ジャヤバヤ王の予言(巷説の誤りへの警鐘,原典和訳)   

  

 

   

    

参照文献および註釈

[1] Thomas Stamford Raffles, The History of Java, London 1817 (Vol I & II, Reprint with an introduction by John Bastin, Oxford University Press, Singapore 1988). ナポレオン戦争の時期,英領インド副総督トーマス・スタンフォード・ラッセルスは英国が占領した「ジャワおよび属領」の統治を任され,1811-1815年の間,ジャワに滞在した。

[2] この場合の Java はコーヒーを意味する米語の俗語であって,コーヒーがジャワ島で算出されることに由来する(OED2)。コンピューター言語の名称は,それに因む。

[3] ラーマーヤナの原典(Valmiki Ramayanaと呼ばれる)は西暦前5-4世紀に起源するとされる。9世紀にジャワでジャワ語独特の詩文形式カカウィン(Kakawin)で書かれたラーマーヤナは,6-7世紀に由来する Bhatti kavya版 または Ravana vadha版 の ラーマーヤナに基くとされる。

Kodaganallur Ramaswami Srinivasa Iyengar, Asian Variations in Ramayana: Papers Presented at the International Seminar on Variations in Ramayana in Asia: Their Cultural, Social and Anthropological Significance, New Delhi, January 1981 の論文集(Google Books)に依る。誘拐されたシータ妃(Sita,ジャワではSinta)が最終的に発見されたのは,ランカ島(Lanka または Alengka)である。

[4] Purwadi, Sejarah asal-usul tanah Jawa, Persada, 2004 [In, http://javanologi.blogspot.jp/2009/05/asal-mula-tanah-jawa-dr-purwadi-mhum.html]。

イサカ王は,一般にはアジサカの名で呼ばれ,彼の渡来年(またな没年)を元年と定めたサカ暦の創始者として知られる(後出)。

[5] 例えば, Russell Jones, “Earl, Logan and "Indonesia”[ In, Archipel. Volume 6, 1973. 93‑118]。

[6] Alfred R. Wallace, The Malay Archipelago(1869), Oxford University Press, Singapore 1985

[7] J. R. Logan, J. Indian Archipelago IV. 1850, 254 [In Oxford English Dictionary, 2nd Edition, Version 4.0]

[8] East Indies(東インド)は地理用語で,元はヒンドゥスタン(Hindustan),ファーザー・インド(Further India)および以東の島嶼が含まれたが,その使用は後にマレー諸島に限定された。この語は西インド(中央アメリカ諸島)と対語をなす。East India はイギリスおよびオランダが,それぞれ1600年と1603年にアジアでの活動のために設立した会社名(東インド会社)に付せられた。

[9] 筆者の知る限り,この語が最初に現れた例は,“The Description of Java Major, and the Manner and Fashions of the People, both Javans and Chineses, Which Doe There Inhabit,” by Edmund Scott in William Foster (ed), The Voyage of Henry Middleton to the Moluccas, 1604—1606, Hakluyt Society, London 1943 [in, James R. Rush, Java, A travellers’ Anthology, Oxford University Press 1996]

[10] イタリア語フレーズの引用元: Da'torchi di G. Pagani, Il milione di Marco Polo: testo di lingua del socolo decimoterzo ora per la prima volta pubblicato ed illustrato dal conte Gio. Batt. Baldelli Boni, Vol.1, Firenze 1827 (Google Books)

[11] Marco Polo, Aldo Ricci, Luigi Foscolo Benedetto, The travels of Marco Polo: translated into English from the text of LF Benedetto by Prof. Aldo Ricci, with an introduction and index by Sir E. Denison Ross, G. Routledge & Sons, London 1931

より筆者和訳。この版では,イタリア語の Della piccola isola di Iava は ”The island of Java the Lesser" と英訳されている。原著「イル・ミリオーネ(Il Milione)」は,日本では「東方見聞録」の名で知られている。佐野保太郎訳「東方見聞録」アカギ叢書,大正3(1914)が本邦初訳と目され,同題名は内容に照らして的確であると思われるが,原題が忘れ去られていることが否めない。英訳書に多い The travels of Marco Polo の題名も淡白であって,ヨーロッパにおいても,筆者の友人に関する限り,原題を覚えている人は寧ろ少ない。

[12] 後漢書列傳第七十六 南蠻西南夷列傳,「永建六年,日南徼外葉調王便,遣使貢獻,帝賜調便,金印紫綬」。詳細は第3章[脚注10]参照。

[13] Atja, (edit) S. Ekadjati, Pustaka rajya rajya i bhumi Nusantara, suntingan naskah dan terjemahan I 1, Bagian Proyek Penelitian dan Pengkajian Kebudayaan Sunda (Sundanologi), Direktorat Jenderal Kebudayaan, Departemen Pendidikan dan Kebudayaan, 1987。18世紀初頭,Cirebonで,Panitia Pangeran Wangsakerta (ワングサクルタ王子委員会の意)によって編纂された30点に及ぶ歴史叢書の一つ。

[14] 西ジャワ西部は,行政的には,2000年10月17日に西ジャワ州から分離してバンテン州(州都セラン)となったが,本書では地理的観点で,「西ジャワ」に含める。

[15] Wirasutisna, Haksan, Kidung Sunda I-II, Departmen Pendidikan dan Kebudayaan Jakarta : 1980, Claire Holt, Art in Indonesia: Continuities and Change, Cornell Univ. Press, 1967, P. J. Zoetmulder, Kalangwan, A Survey of Old Javanese Literature,: Martinus Nijhoff, The Hague 1974。原著は1550年頃書かれたと推定される。作者不明。

[16] Serat Pararaton atawa Katuturanira Ken Angrok (The Book of Genealogy or the Recorded Story about Ken Angrok). 1481-1600年に書かれたと目される著者不明の書。英訳版: I. Gusti Putu Phalgunadi (translated from the Original Kawi Text), The Pararaton: A Study of the Southeast Asian Chronicle, Sundeep Prakashan, New Delhi, India, 1996

[17] 舊唐書(開運2年,西暦945年)卷一百九十七,列傳第一百四十七,南蠻,西南蠻。

[18] 周去非撰『嶺外代答』(乾道八年-淳煕五年頃,1172-1178)の中,「諾蕃國之富盛多寶貨者,莫如大食國,其次闍婆國,其次三佛齊國,其次乃諸國耳。」

[19] マジャパヒトはスマトラ,カリマンタン(ボルネオ島),スラウェシ(セレベス島),バリ以東の島々,西部ニューギニアを含む領域を版図としたと一般に言われているが,それらの地に戦場の跡や武器の遺物などは遺されておらず,それらの地を軍事的に征服したというより,経済的,行政的に支配したと考えるほうが妥当であるとの指摘がある (この知識はインドネシア国立博物館 Ecowati Ssunndari文学修士から授かった)。

[20] 馬歡 「瀛涯勝覧」1416,爪哇の項。

http://toyoshi.lit.nagoya u.ac.jp/maruha/kanseki/yingyashenglan1.html

[21] トメ ピレス(会田由,飯塚浩二,井沢実,泉靖一,岩生成一訳)「東方諸国記 (大航海時代叢書V)」,岩波書店 1966 (原著:Pires, Tome; Cortesao, Armando (ed),The Suma Oriental of Tome Pires and the Book of Francisco Rodriguez Volumes 1 and 2, Hakluyt Society, London, 1944)

[22] ギアンティ条約(1755年2月13日)。その後,ススフナン家からは1757年にマンクネゴロ家が,スルタン家からは1812年にパク・アラム家が分家し,4王家が現在に続く。

[23] John C. van Dyke, In Java and the Neighboring Islands of the Dutch East Indies, Charles Scribner's Sons, New York-London 1929。アメリカの美術評論家であり学者であった著者,ジョン・C・ファン・ダイクは,次のように続けている。曰く,「オランダ人はジャワから利益を得ているが,原住民にも利益を得させている。更に彼らはこの国の開発のために巨万の額を還元している。彼らは公正で均等な統治,裕福なコロニーの樹立を試みている。その目的のため,彼らは原住民の地権を確認,改良された灌漑ならびに耕作方法を導入,森を保全し,原住民学校や大学を開き,都市,道路および橋梁を建設し,新たな交通ルートを拓き,都市および田舎の改善のために全ゆることを行っている。その結果,原住民は十分に食べ,良い家の住み,良い衣服を纏い,彼らは満足に見える。そして,ジャワは旅行者の喜びであり,熱帯の国の中で最も快適な国である。この多くのことに,オランダ人は称賛を受けねばならない。豈,無条件に斯く言う可くあらざらむや。」

[24] オランダが何時東インドを公式に植民地としたか,筆者には定かでない。倒産したVOCの資産を国が受継いだのが1800年,植民地省が設立されたのが1806年であったが,この頃はオランダがナポレオンの支配下にあった時期に当り,1811-1816年の5年間,「ジャワおよび属領」はイギリスの占領下にあった。植民地政府による施政が板についたのは,ウィーン平和条約後の1816年にファン・デル・カペレン(Godert van der Capellen)が総督に任ぜられて以降と考えられる。1922年の本国の憲法改正により,東インドは,蘭領ギアナ(スリナム),キュラソー島とともに,ネーデルラントと同等の地位を与えられた(R. B. Cribb, Audrey Kahin,Historical Dictionary of Indonesia,Scarecrow Press, 2004; Bernard Hubertus Maria Vlekke, Nusantara: a history of the East Indian archipelago, Harvard University Press, 1945)。所謂植民地支配はこの時点で終了したと見做すことも可能である(私見)。