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[美術考]葛飾北齋の浮世繪,就中「神奈川沖浪裏」の獨創性についての疑問

(畫像追加,本文修正 2022/10/25,パラグラフ追加改訂 2023/01/15)

    

    

    

(1) 序

葛飾北齋(1760 - 1849)は,世界で最も有名な畫家のひとりであると言っても過言でなかろう。彼の作品は19世紀後半,折から印象派が興隆したヨーロッパに渡って,所謂「ジャポニズム」を喚起し,フィンセント・ファン・ゴッホ,ポール・ゴーギャン,エドガー・ドガ,ギュスターヴ・クールベらに少なからぬ刺激を与へたとされる。エドモン・ド・ゴンクールは,1896年刊の名著,『北斎:18世紀の日本美術』[1] の冒頭に次のように述べてゐる。

    

「地球上には,過去に決別したあらゆる才能に對する不公平な評價といふものが存在する! ここに,自國の繪畫をペルシャや中國の影響から奪ひ返し,いはば宗教に向かふやうに自然を探究することで若返らせ,刷新し,眞に日本的なものにした畫家がゐる。彼は非常に生き生きとした素描で,男を,女を,鳥を,魚を,木を,花を,草木の枝など,あらゆるものを表現する畫家であった。三万枚の素描ないし色彩畫を描いた彼は,浮世繪の眞の創作者つまり通俗繪畫の流派の生みの親であった。すなわち,この人物は,土佐派の官学派的畫風を眞似て,高尚とされる傳統に則って宮廷の榮華や高位の貴人たちの生涯,わざとらしい贅澤な貴族生活などを描くことに満足せず,かの國の繪畫の高雅を求める畫風には欠如してゐた現実感をもって,自國のあらゆる人々を作中に描き込んだ。ここには,自分の畫業に夢中になるあまり,素描の狂人「畫狂」と作品に署名した情熱の畫家がゐる。

    

 そして,弟子たちが彼に抱いてゐた崇敬の念を別にすれば,この畫家は同時代の人々から,下層民相手のおどけた繪描きないし日出づる帝國の眞面目な趣味人に認められるには相應しからぬ作品を描いた下品な藝術家と見なされてゐた。つい昨日もアメリカの畫家ラ・ファージ(1835 - 1910。1886年に訪日)が,日本の理想主義の畫家たちとかつて日本で交わした会話についてしゃべっていて証言したが,かうした彼への輕蔑の念は,我らヨーロッパ人とりわけフランス人たちが,彼の母國に一人の偉大な藝術家[北斎その人]を發見した最近まで續いてゐた。彼の祖國は半世紀前に藝術家北斎を見失ってゐたのだ。そうなのだ。北斎をこの地球上で最もユニークな藝術家の一人としてゐるのは,その生涯を通じて彼に値する榮光を享受することができずにゐたということである。そして日本の著名人物事典は,北斎は,もっぱら庶民生活を描いたため,日本の大畫家たちが受けたような尊敬の念を公衆から向けられることはなかったと記してゐる。しかし,事典は續けて,もし北斎が狩野派や土佐派を繼承してゐたなら,おそらく圓山應挙や谷文晁をもしのいでゐただろうとも述べてゐる。」[2]

    

日本では,北斎の作品の藝術的價値は,ヨーロッパでの評判を受けて,明治20年代以降に認められるやうになった。近年においては,彼の浮世繪畫集『富嶽三十六景(1831)』の中の「凱風快晴(通称・赤富士)」は1970年開催の大阪萬國博覧会の記念100円硬貨裏面にデザインされ,また,2020年以降發行のパスポート表紙裏に印刷されてゐる(Fig.0)。「神奈川沖浪裏」は2024年發行予定の新1000円紙幣裏面に刷られることになってゐる。

    

    

   

Fig.0 左:葛飾北斎作「凱風快晴(赤富士)」,『富嶽三十六景』,初版天保2年(1831)の中[3]。中: 同畫がデザインされた 1970年開催・大阪萬國博覧会の記念100円硬貨の表面および同硬貨の裏面[4]。右: 同畫が印刷される2020年以降發行の日本國パスポート表紙裏[5]

    

内外で北斎に関して書かれた書籍・論評は無數に存在し,彼の作品の藝術性は,全てにおいて絶賛されてゐると言って良い。然れど,本稿では北齋のオリジナリティについて筆者の感じたことを述べてみたい。

    

   

(2) 問題と解答

筆者が表題の疑問を抱いたのは數年前に東京上野の國立博物館を訪れたときのこと,目的は,望月玉泉筆『岩藤熊萩野猪圖屏風』を觀ることにあったが[6] ,傍らに掲げられた圓山應擧筆「波濤圖」に瞠目させられた。葛飾北齋の「神奈川沖浪裏」に似てゐるではないか? 早速調べたところ,應擧「波濤圖」の制作年次が天明8年(1788)であったのに對して,「神奈川沖浪裏」の所収された畫集『富嶽三十六景』初版の發行年は天保2年(1831)であって,北齋の圖の方が應擧の圖より40餘年後の作であるらしいことが判った。兩圖を Fig.1 に示す。

    

    

   

Fig.1 左:圓山應擧筆「波濤圖」5幅,天明8年(1788),京都・金剛寺蔵 のうちの中央3幅。2017年11月,東京國立博物館にて筆者撮影。右: 「神奈川沖浪裏 (Under the Wave off Kanagawa)」,1831. 複写元:オランダ・アムステルダム國立博物館ホームページ[7]

    

    

また,「神奈川沖浪裏」には2点の前驅作,1803年作の西洋畫風版畫「賀奈川沖本杢之圖」ならびに1805年作の「おしおくりはとうつうせんのづ(押送船波濤通船圖)」が存在したことを知った。更に1831年作の「神奈川沖浪裏」の後の1834年に発表された「海上の不二」と題するものがあった(Fig.2)。

    

    

         

Fig.2 (1) 木版畫「賀奈川沖本杢之圖」 1803,すみだ北斎美術館蔵[8] ,(2) 木版畫「おしおくりはとうつうせんのづ」 1805,東京國立博物館蔵[9] ,(3) 繪本『富嶽百景』二編(1834)のうち,「海上の不二」,東京國立博物館蔵[10]

    

    

これら四点の繪を觀察すると,波頭の描寫が初期の二作と後期の二作では異ってゐることに氣付く。具体的には,1803年および1805年の作では,寧ろ眼に映ったであらう儘に素朴に描かれてゐるのに對し,1831年および1834の作では,應擧1788年の「波濤圖」と同様に,恰も渚に打上げられて變形したヒトデの腕さながらに圖案化されてゐる(Fig.3)。

    

    

Fig.3 2021年11月30日,Storm Arwen によってスコットランドの浜に打上げられたクラゲの群。BBC News(部分)[11]

    

    

斯様な波頭の描寫は應擧(1733-1795)の若い頃の作,東福寺塔頭・勝林寺の『七難七福圖巻(1768)』の中の大水難之圖(Fig.4)に見られ,恐らくそれが原型である。

    

    

Fig.4 圓山應擧(1768)筆『七難七福圖巻(1768)』の中の大水難之圖(部分),京都国立博物館藏。ブログ記事[12] より複写。

    

    

斯様な波頭の圖案は應擧が影響を受けたといふ狩野派傳統のもののやうで,典型例は狩野常信(1636 - 1713)筆の「波濤圖屏風」(推定 1706~1713頃[13] )に見られる (Fig.5)。

    

    

Fig.5 狩野常信筆「波濤圖屏風」(部分)。複寫元: 出光美術館『日本の美・発見 VI』 2011 よりカメラで接寫。

    

    

猶,北齋は,信州小布施に滯在した晩年(1844 - 48),折柄建造された上町祭屋台の天井繪「怒濤圖」に「男波」,「女波」を描いたが,それらにも「神奈川沖浪裏」同様の波頭が描かれてゐた(Fig.6)。

    

    

  

Fig.6 小布施上町祭屋台の北齋肉筆天井繪「怒濤圖」,「男波」および「女波」。複寫元:信州小布施・北齋館ホームページ[14]

    

    

上記の事實は,北齋が應擧の繪をから強く影響を受けたことを窺はせる。

    

「神奈川沖浪裏」に見られるもう一つの特徴は,浪裏から波頭の前方にかけて飛沫がドットで描かれてゐることである。北齋に先立つ數多の畫家の作品をインターネット上で調べたところ,斯様なドットの描かれた作は意外にも稀ではあったが,伊藤若冲(1716 - 1800)の「旭日鳳凰圖(1755)」および「象と鯨圖屏風(1795)」に類例がみられた(Fig.7,Fig.8)。何れも「神奈川沖浪裏」より遥か以前の作,但し北斎がそれらを模倣したかどうかの證據は見付からなかった。

    

    

  

Fig.7 伊藤 若冲 「旭日鳳凰圖」(1755),全体圖(左)および左下部分擴大(右)。複寫元:伊藤若冲の作品の紹介[15]

    

    

  

Fig.8 伊藤若冲 「象と鯨圖屏風」,紙本墨畫 六曲一双 (1795)。全体圖(左)および鯨圖左下擴大圖。複寫元: 文化遺産オンライン[16]

    

    

北齋の「神奈川沖浪裏」は,同時代の安房の名工,伊八(武志伊八郎信由,1751 - 1824)が無量壽院・行元寺の要請を受けて1809年に制作奉納した欄間彫刻「波に宝珠」(Fig.9)に觸發された,明らさまに云へば同彫刻を模倣したと疑はれてゐる[17];[18]

    

    

Fig.9 武志伊八郎信由作,東頭山・行元寺,舊書院欄間彫刻「波に寶珠」(部分)。複寫元:いすみ市觀光ポータルサイト[19]

    

    

左様な見方は其処此処に書かれてゐるが,夙に北齋と同時代の文人で繪師でもあった奥村政信編纂「武江年表」の「寛政年間記事」[20] の項に嚴しい批評があった。該當部分を下に引用する。

    

    

「每月晦日上野兩大師遷座の時,參諸群集する事寬政の頃より始れり。此時代名家△儒家:山本北山,龜田鵬齋,細井平洲,服部栗齋,柴野栗山,古賀精里,新井白峨,易術に詳し。△畫家:高嵩谷,谷文晃,董九如,長谷川雪嶺,鈴木芙蓉,森蘭齋。△狂歌師:唐衣橘洲,尚左堂俊滿,又浮世繪をよくす。 狂歌堂眞顏,六樹園飯盛,蜀山人,芍藥亭長根。△浮世繪師:鳥文齋榮之,勝川春好,同春英,九徳齋,東洲齋寫樂,喜多川哥麿,北尾重政,同政演,京傳同政美,(鬼)蔦齋齋,窪俊滿,尚堂と號,狂歌師なり,葛飾北齋,狂歌の摺物讀本等多く畫て行はる,歌舞妓堂,艶鏡,榮松齋長喜,蘭德齋春童,田中益信,古川三蝶,堤等琳,金長。

    

(喜多村)筠庭云,儒家には市河寛齋,葛飾健藏,柏木如亭,佐藤捨藏,尾藤良助,歷々たる名家なほ多かり,狂歌には三陀羅法師,淺草庵市人,二世桑揚庵干則又多し△俊満は只職人をよくつかひて,誂への摺物を請取て,巧者に注文したるみのなり,政演も畫は自分には其志あるまでにて,書ことはならず,大方代筆をたのめり,俊滿は左手にて手は達者にかきたり,よきにはあらず△北齋は畫風癖あれども,其徒のつはものなり,(北尾)政美は薙髪して,狩野の姓を受けて(鍬形)紹眞と名乘る,これは彼等が窩崛を出て一風をなす,上手とすべし,語って云,北齋はとかく人の眞似をなす,何でも己が始めたることなしといへり,是は畧畫式を蕙齋が著して後,北齋漫畫をかき,又紹眞が江戸一覧圖を工夫せしかば,東海道一覧の圖を錦繪にしたりしなどいへるなり(後略)。」 (括弧内,筆者補註)。

    

要点は,江戸後期の考証家・喜多村筠庭が,北齋は畫風に一癖あるが「不埒なつはもの」と評したこと,ならびに一家をなした畫家・北尾政美(鍬形蕙齋)が,北齋に憤怒して,「北齋はとかく人の眞似をする,己が始めたことは何もない。」と非難したことである。畫才のみならず商才にも長けて世間で持て囃された北齋に對する嫉妬の表れとみられなくもないが,斯かる批判は,以下に例を示すやうにあながち的外れでないと思はれる。

    

北尾の「畧畫式」と北齋の「北齋漫畫」の抜粋を Fig.10 および Fig.11 に示す。

    

    

  

Fig.10 鍬形蕙齋『人物畧畫式』,1795[21] ,抜粋 p.28, 29。

    

    

  

Fig.11 『北齋漫畫二編』,1814 (スミソニアン協会図書館蔵)[22] ,抜粋 p.7-8, 9-10。

    

    

「江戸一目圖屏風」は,縦176cm,横353cm の六曲屏風で,江戸全体を一望した鳥觀圖であるが,描畫は例示する4枚の部分圖に見られるやうに極めて繊細である(Fig.12)。他方,「東海道名所一覧」は,1818年刊,44×60 cm の木版錦繪(Fig.13),「江戸」から「京都」までが地形的に歪んだ形で俯瞰され,ラベルを立てて要所々々の景色が描かれてゐるが,それらは北尾政美の「江戸一目圖屏風」と比べれば可成り大まかである。

    

    

全体圖

  

九段坂 江戸城

  

津山藩邸 日本橋

Fig.12 鍬形蕙齋筆 「江戸一目圖屏風」,1809。津山郷土博物館蔵[23]。全体圖および4ヶ所の擴大圖。

    

    

Fig.13 葛飾北齋筆,錦繪「東海道名所一覧」 1818,神戸市立博物館蔵[24]

    

    

猶,『富嶽三十六景』(1831)は,河村岷雪の畫集『百富士』(1767)からヒントを得たといふ指摘もある[25]。後者の一部を Fig.14 に示す。

    

    

  

Fig.14 河村岷雪『百富士』の抜粋。(左):序最終頁および扉,(右)「橋下」[26]

    

    

(3) NHKの北齋に関する番組へのコメント

2022年12月,筆者はNHKの歴史探偵シリーズ「葛飾北斎 天才絵師の秘密」[27] の再放映を偶々見た。内容は概ね以下の如くであった。

    

調査①「赤富士」と「黒富士」の描かれた場所

富士山を周辺25ヶ所で撮影し,「富嶽三十六景」の中の「赤富士(凱風快晴)」および「黒富士(山下白雨)」のスケッチされた場所を特定しようと試みた。「赤富士」は殘雪の逆Y字形から富士川河口付近から見たものと推定,富士市役所にカメラを設置して,富士山を時間を追って撮影した。日の出の頃,山頂付近が赤く染まったが,以下の陽の當らぬ部分は暗かった。日が昇るにつれて山頂付近の赤色は失せたが,山容全体が次第に明るくなった。番組は,北齋は時間の經過を一枚の繪に凝結したと解釋した。「黒富士」は,左裾に描かれた御坂山地から富士宮付近から見たと推定し,確認のためヘリコプターを飛ばしたが,その日の天候は晴であって,裾野の雷雨は見られなかった。

    

調査②北齋の波の正体を突き止めよ

神奈川港からボートを出して沖に出が,「神奈川沖裏浪」のやうな巨大な波(三角波)は見られなかった。番組は實驗水槽で發生させた三角波を表示した。

    

上述の3枚の繪を Fig.15 に示す。

    

    

   

赤富士 黒富士 神奈川沖裏浪

Fig.15 番組で取り上げた3枚の富士図[28]

    

    

調査③ゴーストライターの謎を解く

晩年の作の多くは,娘の「お榮」の手を借りたとものと結論した。

    

項目③は扨ておき,①,②の調査は,北齋が實地に赴いて寫生したことを前提としてゐるが,私は,この前提に疑問を持った。「富嶽三十六景」は河村眠雪の「百富士」の焼き直しとの説[29]があるので,「百富士」[30] の中で「赤富士」および「黒富士」に見られるような冠雪のある圖を調べたところ,Fig.16 に示す5圖が該當した。

    

    

   

95 高原(富士宮市星山) 104 大宮(富士宮市中心部) 108 阿毛山(場所不詳)

 

109 宮原(富士宮市宮原) 111 傳㳒(富士市伝法)  

Fig. 16 河村眠雪の「百富士」[31] の中,冠雪のある5枚の図。何れも「駿州」とある。(番号はページ番号であって,図の番号ではない)。

    

    

北齋の「赤富士」および「黑富士」は,河村眠雪の圖と比較したところ,それらは多かれ少なかれ「宮原(富士宮市宮原)」と「大宮(富士宮市中心部)」に似てゐるやうに見へ,見當としてはNHKプログラムの結果に一致した。

    

NHKの調査項目②の「神奈川沖裏浪」については,前に述べたやうに,武志伊八郎信由作の欄間彫刻「波に寶珠」の模倣でないかとの疑念が掛けられてゐる。[32];[33]

     

インターネットを調べたところ,『CD版 富嶽三十六景 - 葛飾北斎 46枚』[34] に,概ね以下のような解説があった。「發表當時の北齋の年齢は,何と72歳。場所,季節,氣象条件によって刻々と表情を變へる富士山の姿を,類ひ稀な想像力と演出の妙によってさまざまに描き分けた浮世繪であるが,實は,作品のすべては,彼が實際の風景を見て描いたわけではない。北齋は,傳統の画題や過去の名所圖繪に見られた構圖を巧みに再構築して,この46か所から見た風景画を描き出した。」 筆者は匿名であるが,商品価値を下げ兼ねないこの解説は彼の正直な見解を表したものとみられる。

    

NHK が番組企画の段階で上述の事柄を何故に調べなかったのか,或いは意圖的に無視したのか? 何れにせよ,番組は立案者による歴史の恣意的な捏造であると言っても過言ではない。

    

NHKの番組は過去においては一定の権威を具へてゐたが,近年は劣化が激しく,「歴史探偵」は,人氣俳優による抑揚あるナレーションと相俟って,最早,エンターテイメント番組と化してゐるといふのが,私の所感である。問題は,筆者ほかの他の少数を除く殆どの視聴者が偽の歴史が恰も眞實の歴史であったかのやうに誤解させられることである。

    

   

(4) 北齋の作品の特徴

北齋は浮世繪作家として有名であるが,彼は89年の生涯の間に様々な技を身に着けた。1760年生れの北齋は,子供の頃,本屋で働いた彼は繪本に興味を持ち,16歳から3年間,版刻を修行した。次いで繪師になる野望を抱き,18歳で勝川春章に師事し,挿繪を描くとともに自ら繪草紙を出し,戯作も手掛けた。しかし29歳で出奔して獨立,數多の挿繪を描き,1793年,33歳の時に最初の摺り物(版畫)を出した。1795年,俵屋宗達を慕って,宗理を名乗った。數多の版畫連作,繪草紙を出した。オランダ人医師,カピタンと交流し,註文を受けた。遠近法,陰影法を学んで版画に取入れた。また銅版畫も作った。1810年代には「北齋漫畫」を出版した。晩年には,肉筆畫集も出版した。

    

北齋のレパートリーは,斯様に版刻から始って,挿繪,繪草紙,浮世繪,繪本(版畫集),肉筆畫,寫生指南書に至るまで多岐に亙る。對象はと云へば,巷の人物,身近な静物,動植物,街中や山河の風景,歴史上の人物や事件,日本の古典詩歌文學や唐詩に係る人物や場面などに及び,自ら詩歌散文も書いた。

    

然し,筆者の感想ではあるが,北齋は並外れた才能に恵まれてゐたが故に彼の行動は常に放埓であって,版畫なら版畫に集中して頂点を目指すといったタイプでなかったやうに思はれる。取巻きの版元の註文の所爲もあったであらうが,「量産」が優先し,晩年には,門人・柳々居辰齋の翻案までも作った[35] と言はれてゐる。

    

北齋の作品の最大の特徴は,「構圖」にあったと思はれる。『富嶽三十六景』の中では,「尾州不二見原(通称:桶屋の富士)」や「深川万年橋下」(Fig.17)が典型例であらう。後者には「たかはしのふじ」と題する似た構圖の西洋風版畫(Fig.18)もある。

    

    

 

Fig.17 左:「尾州不二見原(通称:桶屋の富士)」,右:「深川萬年橋下」。葛飾北齋,『富嶽三十六景』(1831-34)より。[36]

    

    

Fig.18 西洋畫風「たかはしのふじ」,葛飾北齋作,制作年不明[37]

    

    

これらの繪は,奇抜に見えても遠近法に叶ってゐる。要は「視点」の問題であって,寫眞にも共通する。意識して撮った譯ではないが,筆者のアルバムの中の“北齋的構図”の一葉をFig.19 に示す。

    

    

Fig.19 信貴山赤門から大寅と朝護孫子寺を望む。筆者撮影 Nikon Z6, F=24.0 mm, 2021/11/13[38]

    

    

    

参照文獻


[1] Edmond De Goncourt, Hokusai: L'art japonais au XVIIIe siècle, 1895. Grégori Coudert, Hokusai: Original text by Edmond de Goncourt (English Edition), 2019.

[2] 和譯は,エドモンド・ド・ゴンクール著,隠岐由紀子訳,『北斎 - 十八世紀の日本美術』,平凡社 2015 に依る。但し,正漢字・正假名に修正。

[3] https://ja.wikipedia.org/wiki/赤富士

[4] https://古銭価値情報.com/kinen_coin/japan_coin/osaka_expo

[5] https://www.mofa.go.jp/mofaj/ca/pss/page23_002803.html

[6] 筆者の“年賀状2019”に採用。

[7] https://www.rijksmuseum.nl/en/collection/RP-P-1956-733

[8] http://hokusai-museum.jp/modules/Collection/collections/view/40

[9] https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0027072

[10] https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8942998?tocOpened=1

[11] https://www.bbc.com/news/uk-scotland-highlands-islands-59463744

[12] https://twitter.com/shourin_ji/status/1103785640393494528?lang=bg

[13] 宗像晋,「狩野常信筆「波濤圖屏風 - 探幽,長谷川派との関連をめぐって」,出光美術館研究紀要17号,2012年1月31日。02.idemitsu-No17_2012.pdf.

[14] https://hokusai-kan.com/collection/kanmachi/

[15] https://paradjanov.biz/jakuchu/colored/1551/

[16] https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/168651

[17] 吉岡勅,「北斎と富士と濤」,浅野 秀剛(編),吉田 伸之(編),『浮世絵を読む 4 - 北斎』,朝日新聞社 1998,p62-63。

[18] 渡辺惣樹,「北斎の『波』の謎」,Voice, 2021年10月号, PHP研究所

[19] http://www.isumi-kankou.com/isumi-kanko-tousyu/gyouganji.html

[20] 廣谷雄太郎(編),『増訂武江年表』,國書刊行會 1925。

[21] https://mag.japaaan.com/archives/36775/an01485150_001_l, https://mag.japaaan.com/archives/36775/an01485151_001_l

[22] https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/HokusaiManga/02/index.html

[23] https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/3320315200/3320315200100020/hitomezu-v3/#

[24] https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/39d3218a-d186-485a-a62c-3337770764f4

[25] 磯 博,「河村岷雪の「百富士」と北斎の富嶽図」,『美学論究 』,関西学院大学美学芸術学会,1961-09

[26] https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a0415/bunko31_a0415.pdf

[27] https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/X724RY65WN/ (初放映:2021/4/21)

[28] すみだ北斎美術館ホームページから複写。https://hokusai-museum.jp/

[29] 磯 博,「河村岷雪の「百富士」と北斎の富嶽図」,『美学論究 』,関西学院大学美学芸術学会,1961-09。

[30] 河村眠雪「百富士」,〔江戸〕西村源六 1767 版。 https://multi.tosyokan.pref.shizuoka.jp/digital-library/detail?tilcod=0000000028-SZK0003020

[31] 河村眠雪「百富士」,〔江戸〕西村源六 1767 版。 https://multi.tosyokan.pref.shizuoka.jp/digital-library/detail?tilcod=0000000028-SZK0003020

[32] 吉岡勅,「北斎と富士と濤」,浅野 秀剛(編),吉田 伸之(編),『浮世絵を読む 4 - 北斎』,朝日新聞社 1998,p62-63。

[33] 渡辺惣樹,「北斎の『波』の謎」,Voice, 2021年10月号, PHP研究所

[34] https://aucview.com/yahoo/1065768112/

[35] 吉岡勅,「北斎と富士と濤」,浅野 秀剛(編),吉田 伸之(編),『浮世絵を読む 4 - 北斎』,朝日新聞社 1998,p62-63。

[36] https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai057/

[37] https://www.adachi-hanga.com/staffblog/000989/

[38] 筆者の“年賀状”2022に採用。