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神々の微笑

芥川龍之介

(井口正俊・註)

イラストは原著から

    

   

(1)

    或春(ゆうべ) Padre Organtino [1] はたつた一人,長いアビト(法衣(はふい))の裾を引きながら,南蠻寺(なんばんじ) [2] の庭を歩いてゐた。

    庭には松や檜の間に,薔薇だの,橄欖(かんらん)だの,月桂だの,西洋の植物が植ゑてあつた。殊に咲き始めた薔薇の花は,木々を幽かにする夕明りの中に,薄甘い匂を漂はせてゐた。それはこの庭の靜寂に,何か日本とは思はれない,不可思議な魅力を添へるやうだつた。

オルガンティノは寂しさうに,砂の赤い小徑を歩きながら,ぼんやり追憶に耽つてゐた。羅馬(ローマ)大本山,リスボアの港,羅面琴(ラベイカ) [3] (おと)巴旦杏(はたんきやう) [4] の味,御主(おんあるじ)わがアニマ(靈魂)の鏡」の歌 [5] ――さう云ふ思ひ出は何時の間にか,この紅毛沙門(しゃもん) [6] の心へ,懷郷の悲しみを運んで來た。彼はその悲しみを拂ふ爲に,そつ泥宇須(デウス)(神)の御名(みな)唱へた。が,悲しみは消えないばかりか,前よりも一層彼の胸へ,重苦しい空氣を擴げ出した。

「この國の風景は美しい。―――」

    オルガンティノは反省した。

「この國の風景は美しい。氣候もまづ穏和である。土人は,――あの黄面(わうめん)小人(こびと)りも,まだしも黑ん坊 [7] がましかも知れない。しかしこれも大體の氣質は,親しみ易い處がある。のみならず信徒も近頃では,何萬かを數へる程になつた。現にこの首府のまん中にも,かう云ふ寺院が聳えてゐる。して見れば此處に住んでゐるのは,たとひ愉快ではないにしても,不快にはならない筈ではないか? が,自分はどうかすると,憂鬱の底に沈む事がある。リスボア(まち)歸りたい,この國を去りたいと思ふ事がある。これは懷郷の悲しみだけであらうか? いや,自分はリスボアでなくとも,この國を去る事が出來さへすれば,どんな土地へでも行きたいと思ふ。支那でも沙室(シヤム)も,印度でも,―――つまり懷郷の悲しみは,自分の憂鬱の全部ではない。自分は唯この國から,一日も早く逃れたい氣がする。しかし――しかしこの國の風景は美しい。氣候もまづ温和である。……」

    オルガンティノは吐息をした。この時偶然彼の眼は,點々と木かげの苔に落ちた,仄白い櫻の花を捉へた。櫻! オルガンティノは驚いたやうに,薄暗い木立ちの間を見つめた。其處には四五本棕櫚(しゅろ)中に,枝を垂らし絲櫻(いとざくら)一本,夢のやうに花(けぶ)せてゐた。

御主(おんあるじ)らせ給へ!」

    オルガンティノは一瞬間降魔(かうま)十字を切らうとした。實際その瞬間彼の眼には,この夕闇に咲い枝垂櫻(しだれざくら),それ程無氣味に見えたのだつた。無氣味に,――と云ふよりも寧ろこの櫻が,何故か彼を不安にする,日本そのもののやうに見えたのだつた。が,彼は刹那(のち)それが不思議でも何でもない,唯の櫻だつた事を發見すると,恥しさうに苦笑しながら,靜かに叉もと來た小徑へ,力のない歩みを返して行つた。

    

(2)

    三十分(のち)彼は南蠻寺の内陣に,泥宇須へ祈禱を捧げてゐた。其處には圓天井(まるてんじやう)ら吊されたランプがあるだけだつた。そのランプの光の中に,内陣を圍んだフレスコの壁には,サン・ミグェルが地獄の惡魔と,モオゼの屍骸を爭つてゐた [8] 。が,勇ましい大天使は勿論(たけ)立つた惡魔さへも,今夜は朧げな光の加減か,妙にふだんよりは優美に見えた。それは叉事によると,祭壇の前に捧げられた,水々しい薔薇金雀花(えにしだ),匂つてゐるせゐかも知れなかつた。彼はその祭壇(うしろ),ぢつと頭を垂れた儘,熱心にかう云ふ祈禱を凝らした。

「南無大慈大悲の泥宇須如來! [9] 私はリスボアを船出した時から,一命はあなたに奉つて居ります。ですから,どんな難儀に遇つても,十字架の御威光を輝かせる爲には,一歩(ひる)ずに進んで參りました。これは勿論私一人の,能くする所ではございません。皆天地の御主,あなた御惠(おんめぐみ)ございます。が,この日本に住んでゐる内に,私はおひおひ私の使命が,どの(かた)かを知り始めました。この國には山にも森にも,或は家々の並んだ町にも,何か不思議な力が潜んで居ります。さうしてそれが冥々の中に,私の使命を妨げて居ります。さもなければ私はこの頃のやうに,何の理由もない憂鬱の底へ,沈んでしまふ筈はございますまい。ではその力とは何であるか,それは私にはわかりません。が,兎に角その力は,丁度地下の泉のやうに,この國全體へ行き渡つて居ります。まづこの力を破らなければ,おお,南無大慈大悲の泥宇須如來! 邪宗に惑溺した日本人波羅葦增(はらいそ)天界(てんかい))の莊嚴(しやうごん)拜する事も,永久にないかも存じません。私はその爲にこの何日か,煩悶に煩悶を重ねて參りました。どうかあなたの下部,オルガンティノに,勇氣と忍耐とを御授け下さい。......」

    その時ふとオルガンティノは,鶏の啼き聲を聞いたやうに思った。が,それには注意もせず,更にかう祈禱を續けた。

「私は使命を果す爲には,この國山川(やまかは)潜んでゐる力と,――多分は人間に見えない靈と,戰はなければなりません。あなたは昔紅海の底に埃及(エジプト)軍勢を御沈めになりました [10] 。この國の靈の力強い事は,埃及の軍勢に劣りますまい。どう(いにしへ)豫言者のやうに,私もこの靈と(たたかひ),…………」

    祈禱の言葉は何時の間にか,彼(くちびる)ら消えてしまつた。今度は突然祭壇のあたりに,けたたましい鷄鳴が聞えたのだつた。オルガンティノは不審さうに,彼の周圍を眺めまはした。すると彼の眞後には白々(しろじろ)尾を垂れた鷄が一羽,祭壇の上に胸を張つた儘,もう一度,夜でも明けたやう(とき)つくつてゐるではないか?

    オルガンティノは飛び上るが早いか,アビトの兩腕を擴げながら倉皇(さうくわう) [11] とこの鳥を逐ひ出さうとした。が,二足三足(ふたあしみあし)み出したと思ふと,「御主」と,切れ切れに叫んだなり,茫然と其處へ立ちすくんでしまつた。この薄暗い内陣の中には,何時何處からはひつて來たか,無數の鷄が充滿してゐる,――それが或は空を飛んだり,或は其處此處を駈けまはつたり,殆ど彼の眼に見える限りは鷄冠(とさか)海にしてゐるのだつた。

「御主,守らせ給へ!」

    彼は叉十字を切らうとした。が,彼の手は不思議にも萬力(まんりき)何かに挾まれたやうに,一寸とは自由に動かなかつた。その内にだんだん内陣の中には榾火(ほたび)明りに似赤光(しやくくわう),何處からとも知らず流れ出した。オルガンティノは喘ぎ喘ぎ,この光がさし始めると同時に,朦朧とあたりへ浮んで來た,人影があるのを發見した。

    人影は見る間に鮮かになつた。それはいづれも見慣れない,素朴な男女一群(ひとむれ)つた。彼等は皆頸のまはりに()ぬいた玉を飾りながら,愉快さうに笑ひ興じてゐた。内陣に群がつた無數の鷄は,彼等の姿がはつきりすると,今までよりは一層高らかに,何羽も鬨をつくり合つた。と同時に内陣の壁は,――サン・ミグェル()(ゑが)た壁は,霧のやう(よる)呑まれてしまつた。その跡には,――

    日本の Bacchanalia [12]呆氣(あつけ)とられたオルガンティノの前へ,蜃氣樓のやうに漂つて來た。彼は赤(かがり)火影(ほかげ),古代の服裝をした日本人たちが,互ひに酒を酌み交しながら,車座をつくつてゐるのを見た。そのまん中には女が一人,――日本ではまだ見た事のない,堂々とした體格の女が一人,大きな桶を伏せた上に,踊り狂つてゐるのを見た。桶の後には小山のやうに,これも亦逞しい男が一人,根こぎにしたらしい榊の枝に,玉だの鏡だのが下つたのを,悠然と押し立ててゐるのを見た。彼等のまはりには數百の鷄が,尾羽根や鷄冠をすり合せながら,絶えず嬉しさうに鳴いてゐるのを見た。その叉向うには,――オルガンティノは,今更のやうに,彼の眼を疑はずにはゐられなかつた。――その叉向うには夜霧の中に,岩屋の戸らしい一枚岩が,どつしりと聳えてゐるのだつた。

    桶の上にのつた女は,何時までも踊をやめなかつた。彼女の髮を卷い(つる),ひらひらと空に飜つた。彼女の頸に垂れた玉は,何度も霰のやうに響き合つた。彼女の手にとつ小笹(おざさ)枝は,縱横に風を打ちまはつた。しかもその露はにした胸! 赤い篝火の光の中に艷々(つやつや)浮び出た二つ乳房(ちぶさ),殆どオルガンティノの眼には,情慾そのものとしか思はれなかつた。彼は泥宇須を念じながら,一心に顏をそむけようとした。が,やはり彼の體は,どう云ふ神祕(のろひ)力か,身動きさへ樂には出來なかつた。

    その内に突然沈默が,幻の男女たちの上(くだ)た。桶の上に乘つた女も,もう一度正氣に返つたやうに,やつと狂はしい踊をやめた。いや,鳴き競つてゐた鷄さへ,この瞬間は頸を伸ばした儘,一度にひつそりとなつてしまつた。するとその沈默の中に,永久に美しい女の聲が,何處からか嚴かに傳はつて來た。

「私が此處(こも)てゐれば,世界は暗闇になつた筈ではないか? それを神々は樂しさうに,笑ひ興じてゐると見える。」

    その聲が夜空に消えた時,桶の上にのつた女は,ちらりと一同を見渡しながら,意外な程しとやかに返事をした。

「それはあなたにも立(まさ)た,新しい神がをられますから,喜び合つてをるのでございます。」

    その新しい神と云ふのは,泥宇須を指してゐるのかも知れない。――オルガンティノはちよいと(あひだ)さう云ふ氣もちに勵まされながら,この怪しい幻の變化に,やや興味のある眼を注いだ。

    沈默少時(しばらく)れなかつた。が,忽ち鷄の群が,一齊に鬨をつくつたと思ふと,向うに夜霧を堰き止めてゐた,岩屋の戸らしい一枚岩が,徐ろに左右へ開き出した。さうして其裂け目から言句(ごんく)に絶した萬道(ばんだう)霞光(かかくわう) [13] が,洪水のやう(みなぎ)出した。

    オルガンティノは叫ばうとした。が,舌は動かなかつた。オルガンティノは逃げようとした。が,足も動かなかつた。彼は唯大光明の爲に,烈し眩暈(めまひ)起るのを感じた。さうしてその光の中に,大勢の男女の歡喜する聲澎湃(はうはい)と天に昇るのを聞いた。

大日孁貴(おほひるめむち) [14] ! 大日孁貴! 大日孁貴!」

「新しい神なぞはをりません。新しい神なぞはをりません。」

「あなたに逆ふものは亡びます。」

「御覽なさい。闇が消え失せるのを。」

「見渡す限り,あなたの山,あなたの森,あなたの川,あなたの町,あなたの海です。」

「新しい神なぞはをりません(だれ)皆あなたの召使です。」

「大日孁貴!大日孁貴!大日孁貴!」

    さう云ふ聲の湧き上る中に,冷汗になつたオルガンティノは,何か苦しさうに叫んだきりたうたう其處へ倒れてしまつた。………………

    そ()三更に近づいた頃,オルガンティノは失心の底から,やつと意識を恢復した。彼の耳には神々の聲が,未に鳴り響いてゐるやうだつた。が,あたりを見廻すと人音(ひとおと)聞えない内陣には,圓天井のランプの光が,さつきの通り朦朧と壁畫を照らしてゐるばかりだつた。オルガンティノ(うめ)呻き,そろそろ祭壇(うしろ)離れた。あの幻にどんな意味があるか,それは彼にはのみこめなかつた。しかしあの幻を見せたものが,泥宇須でない事だけは確かだつた。

「この國の靈と戰ふのは,……」

    オルガンティノは歩きながら,思はずそつと獨り語を洩らした。

「この國の靈と戰ふのは,思つたよりもつと困難らしい。勝つか,それとも叉負けるか,――」

    するとその時彼の耳に,かう云ふ囁きを送るものがあつた。

「負けですよ!」

    オルガンティノは氣味惡さうに,聲のした方を透かして見た。が,其處には不相變,仄暗い薔薇や金雀花の外に,人影らしいものも見えなかつた。

     

(3)

    オルガンティノは翌日の夕も,南蠻寺の庭を歩いてゐた。しかし彼の碧眼には,何處か嬉しさうな色があつた。それは今日一日(いちにち)内に,日本の侍が三四人,奉敎人の列にはひつたからだつた。

    庭の橄欖や月桂は,ひつそりと夕闇に聳えてゐた。唯その沈默(みだ)れるのは,寺の鳩が軒へ歸るらしい中空(なかぞら)羽音(はおと)り外はなかつた。薔薇の匂,砂の濕り,――一切は翼のある天使たちが,「人の女子(おみなご)美しきを見て,」妻を求めに降つて來た [15],古代の日の暮のやうに平和だつた。

「やはり十字架の御威光の前には,穢らはしい日本の靈の力も,勝利を占める事はむづかしいと見える。しか昨夜(さくや)た幻は?――いや,あれは幻に過ぎない。惡魔はアントニオ上人 [16]にも,ああ云ふ幻を見せたではないか? その證據には今日になると,一度に何人かの信徒さへ出來た。やがてはこの國も至る所に天主(てんしゆ)御寺(みてら)建てられるであらう。」

    オルガンティノはさう思ひながら,砂の赤い小徑を歩いて行つた。すると誰か後から,そつと肩を打つものがあつた。彼はすぐに振り返つた。しかし後には夕明りが,徑を挾ん篠懸(すずかけ)若葉に,うつすりと漂つてゐるだけだつた。

「御主。守らせ給へ!」

    彼はかう呟いてから,徐ろ(かしら)もとへ返した。と,彼(かたはら)は,何時の間に其處へ忍び寄つたか,昨夜の幻に見えた通り,頸に玉を卷いた老人が一人,ぼんやり姿を煙らせた儘,徐ろに歩みを運んでゐた。

「誰だ,お前は?」

    不意を打たれたオルガンティノは,思はず其處へ立ち止まつた。

「私は,――誰でもかまひません。この國の靈の一人です。」

    老人は微笑を浮べながら,親切さうに返事をした。

「まあ,御一緒に歩きませう。私はあなたと少時の間,御話しする爲に出て來たのです。」

    オルガンティノは十字を切つた。が,老人はそ(しるし),少しも恐怖を示さなかつた。

「私は惡魔ではないのです。御覽なさい,この玉やこ(けん)。地獄の炎に燒かれた物なら,こんなに淸淨ではゐない筈です。さあ,もう呪文なぞを唱へるのはおやめなさい。」

    オルガンティノはやむを得ず,不愉快さうに腕組をした儘,老人と一緒に歩き出した。

「あなたは天主敎を弘めに來てゐますね,――」

    老人は靜かに話し出した。

「それも惡い事ではないかも知れません。しかし泥宇須もこの國へ來ては,きつと最後には負けてしまひますよ。」

「泥宇須は全能の御主だから,泥宇須に,――」

    オルガンティノはかう云ひかけてから,ふと思ひついたやうに,何時もこの國の信徒に對する,叮嚀な口調を使ひ出した。

「泥宇須に勝つものはない筈です。」

「所が實際はあるのです。まあ,御聞きなさい。はるばるこの國へ渡つて來たのは,泥宇須ばかりではありません孔子(こうし)孟子(まうし)老子(らうし)莊子(さうし)――その外支那からは哲人たちが,何人もこの國へ渡つて來ました。しかも當時はこの國が,まだ生まれたばかりだつたのです。支那の哲人たちは道の外にも,呉の國の絹だの秦の國(たま)の,いろいろな物を持つて來ました。いや,さう云ふ寶より(たふと), 靈妙な文字さへ持つて來たのです。が,支那はその爲に,我々を征服出來たでせうか? たとへば文字を御覽なさい。文字は我々を征服する代りに,我々の爲に征服されました。私が昔知つてゐた土人に,柿の本の人麻呂と云ふ詩人があります。その男の作つた七夕の歌 [17] は,今でもこの國に殘つてゐますが,あれを讀んで御覽なさい。牽牛織女はあの中に見出す事は出來ません。あそこに歌はれた戀人同士は飽くまで彦星(ひこぼし)棚機津女(たなばたつめ)です。彼等の枕に響いたのは,丁度この國の川のやうに,淸い天の川の瀨音でした。支那の黄河や揚子江に似た,銀河の浪音ではなかつたのです。しかし私は歌の事より,文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記す爲に,支那の文字を使ひました。が,それは意味の爲より,發音の爲の文字だつたのです(しう)云ふ文字がはひつ(のち),「ふね」は常に「ふね」だつたのです。さもなければ我々の言葉は,支那語になつてゐたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも,人麻呂の心を守つてゐた,我々この國の神の力です。のみならず支那の哲人たちは,書道をもこの國に傳へました空海(くうかい)道風(だうふう)佐理(さり) [18]行成(かうぜい)――私は彼等のゐる所に,何時も人知れず行つてゐました。彼等が手本にしてゐたのは,皆支那人の墨蹟です。しかし彼等の筆先からは,次第に新しい美が生れました。彼等の文字は何時の間にか王羲之(わうぎし)もなけれ褚遂良(ちよすいれう)もない,日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝つたのは,文字ばかりではありません。我々の息吹きは潮風のやうに,老儒の道さへも和げました。この國の土人に尋ねて御覽なさい。彼等は皆孟子の著書は,我々の怒に觸れ易い爲に,それを積んだ船があれば,必ず覆ると信じてゐます科戸(しなと)  [19] の神はまだ一度も,そん惡戲(いたづら)してゐません。が,さう云ふ信仰(うち)も,この國に住んでゐる我々の力は,朧げながら感じられる筈です。あなたはさう思ひませんか?」

    オルガンティノは茫然と,老人の顏を眺め返した。この國の歴史に疎い彼には,折角の相手の雄辯も,半分はわからずにしまつたのだつた。

「支那の哲人たち(のち)來たのは,印度の王子悉達多(したあるた) [20] です。――」

    老人は言葉を續けながら,徑ばたの薔薇の花をむしると,嬉しさうにその匂を嗅いだ。が,薔薇はむしられた跡にも,ちゃんとその花が殘つてゐた。唯老人の手にある花は色や形は同じに見えても,何處か霧のやうに煙つてゐた。

「佛陀の運命も同樣です。が,こんな事を一々御話しするのは()退屈を增すだけかも知れません。唯氣をつけて頂きたいのは本地垂迹(ほんぢすゐじやく) [21]の事です。あの敎はこの國の土人に大日孁貴(おほひるめむち)大日如來と同じものだと思はせました。これは大日孁貴の勝でせうか? それとも大日如來の勝でせうか? 假りに現在この國の土人に,大日孁貴は知らないにしても,大日如來は知つてゐるものが,大勢あるとして御覽なさい。それでも彼等の夢に見える,大日如來の姿(うち)印度佛(いんどぶつ)面影よりも,大日孁貴が窺はれはしないでせうか? 私は親鸞や日蓮と一しよに沙羅雙樹(さらさうじゆ)花の陰も歩いてゐます。彼等隨喜渇仰(ずゐきかつかう) [22] した佛は,圓光のある黑人ではありません。優しい威嚴に充ち滿ち上宮太子(じやうぐうたいし) [23] などの兄弟です。――が,そんな事を長々と御話しするのは,御約束の通りやめにしませう。つまり私が申上げたいのは,泥宇須のやうにこの國に來ても,勝つものはないと云ふ事なのです。」

「まあ,御待ちなさい。御前さんはさう云はれるが,――」

    オルガンティノは口(さしはさ)だ。

「今日などは侍が二三人,一度御敎(おんおしへ)歸依しましたよ。」

「それは何人でも歸依するでせう。唯歸依したと云ふ事だけならば,この國の土人は大部分悉達多の敎へに歸依してゐます。しかし我々の力と云ふのは,破壞する力ではありません。造り變へる力なのです。」

    老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思ふと,忽ち夕明りに消えてしまつた。

「成程造り變へる力ですか? しかしそれはお前さんたちに,限つた事ではないでせう。何處の國でも,――たとへ希臘(ぎりしや)神々と云はれた,あの國にゐる惡魔でも,――」

「大いなるパンは死にました [24]。いや,パンも何時かは叉よみ(かへ)かも知れません。しかし我々はこの通り,まだ生きてゐるのです。」

    オルガンティノは珍しさうに,老人の顏へ横眼を使つた。

「お前さんはパンを知つてゐるのですか?」

「何西國(さいごく)大名の子たち [25] が,西洋から持つて歸つたと云ふ,横文字の本にあつたのです。――それも今の話ですが,たとひこの造り變へる力が,我々だけに限らないでも,やはり油斷はなりませんよ。いや,寧ろ,それだけに,御氣をつけなさいと云ひたいのです。我々は古い神ですからね。あの希臘の神々のやうに,世界の夜明けを見た神ですからね。」

「しかし泥宇須は勝つ筈です。」

    オルガンティノは剛情に,もう一度同じ事を云ひ放つた。が,老人はそれが聞えないやうに,かうゆつくり話し續けた。

「私はつひ四五日前,西國の海邊に上陸した希臘(ギリシャ)船乘り [26] に遇ひました。その男は神ではありません。唯の人間に過ぎないのです。私はその船乘と,月夜の岩の上に坐りながら,いろいろの話を聞いて來ました。目一つの神 [27]につかまつた話だの,人(ぶた)する女神[28]の話だの,聲の美しい人魚 [29] の話だの,――あなたはその男の名を知つてゐますか? その男は私に遇つた時から,この國の土人に變りました。今で百合若(ゆりわか) [30] と名乘つてゐるさうです。ですからあなたも御氣をつけなさい。泥宇須も必ず勝つとは云はれません。天主敎はいくら廣まつても,必ず勝つとは云はれません。」

    老人はだんだん小聲になつた。

「事によると泥宇須自身も,この國の土人に變るでせう。支那印度(インド)變つたのです。西洋も變らなければなりません。我々は木々の中にもゐます。淺い水の流れにもゐます。薔薇の花を渡る風にもゐます。寺の壁に殘る夕明りにもゐます。何處にでも,叉何時でもゐます。御氣をつけなさい。御氣をつけなさい。…………」

    その聲がとうとう絶えたと思ふと,老人の姿も夕闇の中へ,影が消えるやうに消えてしまつた。と同時に寺の塔からは,眉をひそめたオルガンティノの上へ,アヴエ・マリアの鐘が響き始めた。

   

(4)

    その夜オルガンティノは蠟燭の光に, De Imitatione Christi [31] を讀んでゐました。狹い南蠻寺の方丈は最後の晩餐 [32] の圖を描いた,色どりの拙いフレスコの外に,何もない一室だつた。しかしそれも机を据ゑた,高い窓のある 壁とは,反對の側面になつてゐたから,たった一つともつた蠟燭の光も,其處にへはかすかにしか當らなかつた。窓の外の木立の戰ぎ,彼の飜す頁の音,――彼を取り圍んだ靜かさ(ほとんど)しい位だった。

    春の夜は次第に更けて行つた。オルガンティノは机(すは)ながら,時々さつき見た老人の姿が,心の底から浮び上るのを感じた。が,この紅毛の沙門の眼は,その度に一(たわ)なく,細かい活字を追つて行つた。「忙はしければ惡魔來らず。努めて忙はしきをこひ願ふべし。」――彼はどうかすると,口の中にイエロニモ上人の金言 [33]さへ,呟かずにはゐられないのだった。

    しかし何時か倦怠は,そつと彼の上へのしかかつて來た。彼は何時間かの讀書(のち)とうとう頰杖をついた儘,ぼんやり空想に耽り出した。

「この國に住んでゐる靈と云ふのは,パンや半人半馬神と,少しも變らない惡魔であらうか? アントニオ上人の御傳記の中には,天主の御敎に從つた半人半馬神の話がある [34] 。しかし今日遇つた老人は,天主の御敎に從ふ所か,泥宇須さへ――そんな事はある筈がない。が,兎と角昨夜からの,怪しい幻の荒ましだけは臥亞(ゴア)本山へ知らせる事にしよう。東洋へ來てゐる自分たちの中でも,目のあたりにかう云ふ不思議を見たのは,多分は自分,――おや,叉鷄が啼いてゐはしないか?」

    オルガンティノは身震ひをしながら,蠟燭の心をつまみ捨てた。すると光が明るくなつたせゐか,壁耶蘇(やそ)弟子たちの顏が急に晴れ晴れとなつたやうに見た。

「しかしこのフレスコを眺めてゐれば,惡魔の誘惑も恐ろしくはない。窓の前に座つた耶蘇様の御顏,その窓の外の無花果の,――おや,無花果ではなかつたかしら。」

    オルガンティノはもう一度,狼狽したややうに口(つぐ)だ。壁畫には彼の云つた通り,眞向になつた耶蘇の後に,細長い窓が描いてある,――その窓の外には今夜見ると,薄日の光を受けたらしい鬱金櫻(うこんざくら)咲いてゐるではないか? のみならず耶蘇その人の顏も(かしら)めぐつた圓光の中に,何か表情が變つたやうに見えた。彼は少時ためらつ(のち)机の上の蠟燭を取ると,そつと壁へ歩み寄つた。さうして惡どい色彩の畫面へ,丹念に眼を通して見た。

「どうも可笑しい。このペテロの顏などは,さつきの老人によく似てゐる。が,いくらこの國の靈でも,まさかかう云ふ耶蘇樣の御姿へ,――」

    今度の變化は急激だつた。彼れが顏を近づけるが早いか,そのペテロは微笑しながら,こちらへ皺だらけの顏を向けた。オルガンティノは我知らず,二足三(うしろ)下つた,と思ふと冷や汗が,一時に背中へ流れ出した。が壁の中の人物は,微笑を浮べたペテロの外に,誰一人睫毛も動かさなかつた。

    これに勇氣を得たオルガンティノは,もう一度壁に近よると,高々と蠟燭をさし上げながら,嚴かにペテロに聲をかけた。

「天地の御主,泥宇須の御名によつてお前に問ふ。お前は一體何ものだ?」

    すると圓光を頂いた耶蘇は,突然御經にあるやうな答を吐いた。

「彼は我影,我は彼が光なり。」

    オルガンティノは彼自身の言葉が,冒瀆ではなかつたかと思ひ出した。が,その途端にほほ笑んだペテロが,横合ひから耶蘇へ話かけた。

    ペテロ「主よ。如何にして自らを我等に(あらは),世には顯し給はざるや?」 [35]

    耶蘇「人もし我を愛さば,我言葉を守らん。我來りてその人と共に住むべし。我誠に汝等に告げん。幼子よ。我なほ少時汝等と共にあり。汝(かならず)を尋ねん。されど我汝等孤子(こじ)せず。叉汝等に來らん。」 [36]

    ペテロ「主よ。何處へ行き給ふや?」 [37]

    耶蘇「我行く所へは汝今從ふ(あた)ず。されど心に憂ふる事勿れ。我行くは汝等をも,我居る所に居らしめんとてなり。少時せば世を我を見る事なし。されど汝等は我を見る我生くれば汝等も生きん。汝等安かれ。」 [38]

    十二人の弟子たち,「主大日孁貴(おほひるめむち)。我等主と共にあらん。…………」

    この言葉がまだ止まらない内に,蠟燭は火の尾を引きながら,オルガンティノの手を離れた。彼はその刹那に耶蘇の顏が,美しい女に變つてゐるのを見た。 「ホザナ [39] よ。ホザナよ。大日孁貴の名によりて來るものは幸なり。いと高き所にホザナよ。」――そんな鬨の聲が闇の中に,どつと擧がつたのを聞きながら。…………

(5)

    南蠻寺のパアドレ・オルガンティノは,――いや,オルガンティノに限つた事ではない。悠々とアビトの裾を引いた鼻の高い紅毛人は黄昏(たそがれ)光の漂つた,架空の月桂や薔薇(なか)ら,一双の屏風へ歸つて行つた [40]南蠻船入津(なんばんせんにふしん)圖を描いた三世紀以前(ふる)風へ。

    さやうなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と,日本の海邊を歩きながら,金泥の霞に旗を擧げた大きい南蠻船を眺めてゐる泥宇須(デウス)勝つか大日孁貴(おほひるめむち)勝つか――それはまだ現在でも,容易に斷定は出來ないかも知れない。が,やがては我々の事業が,斷定を與ふべき問題である。君はその過去の海邊から,靜かに我々を見てゐ給へ。たとひ君は同じ屏風の,犬を曳い甲比丹(カピタン),日傘をさしかけた黑ん坊の子供と,忘却(ねむり)沈んでゐても,新たに水平へ現れた,我々の黑船石火矢(いしびや)音は(かならず)めかしい君等の夢を破る時があるに違ひない。それまでは,

――さやうなら。パアドレ・オルガンティノ! さやうなら。南蠻寺のウルガ伴天連(バテレン) [41]

大正11(1922)年1月

   

校註:


[1] グネッキ・ソルド・オルガンティーノ(1530 – 1609)は,ポルトガル時代に日本にやってきたイエズス会の宣教師の1人。イタリア北部のカスト・ディ・ブレシアで生まれ,22歳で司祭になった。ゴアで幾年か奉仕した後,1570年にマラッカ經由で京都に到着した。彼は日本語を學び,日本の習慣に適合して,パンの代りに米を食べ,和服を着用した。彼はまた佛教の教え,特に法華經を研究した。彼は日本人に友好的で「宇留岸伴天連」と呼ばれた。彼の前任者であるルイス・フロイスが1577年に京都を去ったとき,彼は地域の布教區を任された。3年の間に畿内の信者は1,500から15,000に増加した。彼の流儀は,日本全体の布教區の長であり,傳統を重んじたフランシスコ・カブラルのそれとは眞逆であった。彼は織田信長の信頼を勝ち得,京都に新しい南蠻寺(正式には聖母被昇天教會)を,また安土城下にセミナリオを建設した。豊臣秀吉が権力を掌握し,外国人宣教師追放令を出した後,オルガンティーノの活動は困難になったが, 1605年に長崎に移り,他のイエズス會士達のやうに殉教させられることなく,1609年に病を得て76歳で没した。

[2] 南蛮=ポルトガル。キリスト教傳來數年後の1551年以降に多數の南蠻寺が全國各地に建てられたが,ここでは京都のものを云ふ。禁教令の施行(最終1639年)とともに廃棄された。

[3] 羅面琴(rabeca)。室町時代に,ポルトガルから傳來した三弦の弦樂器。馬の尾を張った弓で彈く(精選版 日本国語大辞典)。

[4] 巴旦杏:①スモモの一品種。果実は大きい。熟すと赤い表皮に白粉を帯びて,甘い。食用。 [季] 夏。②アーモンドの別名(大辞林 第三版)。ここでは,①と思はれる。

[5] 引用の出典は定かでないが,この歌に關聯するかも知れないと目される詩がGoogleBooks, “C. F. Morse, “A Grammar of the Bulgarian Languages: With Exercises and English and Bulgarian Vocabularies”, D. Zankoff, 1859, p.110”で見付かった。

“The song of the nightingale is pleasant, Honour is the reward of virtue, The eyes are the mirror of the soul, The branches of the trees bend under the burden of fruits, ... (ナイチンゲールの歌は楽しい,名誉は美徳の報酬,目は魂の鏡,木の枝は果實の重みで曲れり...”

[6] (梵) Śramaṇa。佛敎・ジャイナ敎などの男性修行者を指す。「つとめる人」の意。後に佛敎では比丘と同義になった(Wikipedia)。

[7] ポルトガルは15世紀初め以來,エンリケ航海王子の海外進出政策のもと,アフリカ西海岸のギニア,コンゴ,アンゴラ,東海岸のモザンビークに貿易據點(植民地)を築き,アジアに至った。ここに云ふ「黑ん坊」は,これらの地域の住民を指すと思はれる。

[8] 新約聖書。ユダ書 1-9御使(みつかひ)(をさ)カエル惡魔と論じてモーセの屍體を爭ひし時に,敢て罵り(さば)ず,唯『ねがはくは主なんぢを戒め給はんことを』と云へり。

[9] 芥川は,日本に長く住んで土地の宗敎に親しんだカトリックの神父が,デウスを呼稱するのに,佛敎の奥義を極めた者の尊號である「如來」を附し,一般に「菩薩」を修飾する「大慈大悲」の語句を添へたと思はれる(私見)。

[10] 舊約聖書。舊約聖書。出埃及記 15章3-5: 3ヱホバ軍人(いくさびと)して其名はヱホバなり。 4彼パロ戰車(いくさぐるま)とその軍勢(ぐんぜい)海に投すてたまふパロの勝れた軍長等(かしらたち)紅海に沈めり。 5大水かれら(おほ)て彼等石のごとくに淵の底(くだ)

[11] 倉皇・蒼惶(さうくわう):落ち着かないさま。あわてるさま(大辞林 第三版)。

[12] バッカス祭,どんちゃん騒ぎ。ローマ神話のワインの神,バックス(英:Bacchus,ギリシア神話のディオニューソスに対応)を稱へる祭祀で,アペニン半島中部および南部で廣く行はれた(Wikipedia などから抄録)。

[13] 萬道の霞光:雲間から差す色とりどりの太陽光線。霞光萬道/色とりどりに輝く無數の光芒(字典網/漢日字典,www.70thvictory.com.tw/hanri/)。

[14] 日本書紀の太陽神。古事記では天照大神。

[15] 舊譯聖書「創世記」第6章 6:1人地の面に繁衍はじまりて女子之に生るるに及べる時 6:2神の子等人の女子の美しきを見て其好む所の者を取て妻となせり。

[16] アントニオ上人: ここでは,多數存在する同名の聖人のうち, Saint Anthony the Great (251-356 AD)を指す。彼は Anthony of the Desert, Anthony the Abbot, Anthony the Anchorite などとも呼ばれる。彼はコンスタンティヌス大帝のキリスト教承認(313 AD)以前のローマによるキリスト教徒迫害中にエジプトに生まれ育った修道士で,50代に弟子たちと一緒に修道院を開いたが,暫時の後,隠者として砂漠に隠遁した。彼は105歳で他界した。彼がテーベに棲む聖パウロ(Saint Paul of Thebes,ca. 227-341 AD)を訪ねたときのエピソードは,『聖パウロ,最初の隠修士』に書かれてゐる。筋書きは以下の通り*) 。長く人里離れた砂漠に住んで90歳に至ったアントニオは,自身は完璧な修道士であると思ってゐた。しかし,ある晩,彼は啓示を受け,パウロと云ふ名のより完璧な修道士がテーベにゐると聞いた。翌朝,アンソニーはテーベに向かふ決心をし,暑い砂漠をさまよった。半人半馬の生き物(ケンタウロス)が現れて方向を示した。その後,アントニオは半人半羊の生き物(サテュロス)に出遭ひ,ナツメヤシの實を貰った。次にアントニオは,雌狼に遭遇,それに導かれてテーベの聖パウロの洞窟に着いた。パウロは113歳であった。パウロは最初はアントニオに會ふのを拒否したが,遂には笑顔でドアを開けた。彼らは互い抱擁し,神に感謝し,共に坐した。ワタリカラスがパンを一斤運んできた。パウロは,それは彼が60年間毎日受取ってゐる主からの贈り物である,通常は半斤だか,今日はアントニオがゐるので丸一斤であると話した。パウロはアントニオに最後の時が來たと告げ,アレクサンドリアの司教アタナシウスがアントニオに與へた法衣を修道院から取ってくるやう懇願した。彼が法衣を携へて引返すと,彼はパウロは祈りの姿勢であったが,生命は絶へてゐた。彼は死体を法衣で包み,2頭のライオンが掘った墓穴に葬った。アントニオは,ヤシの葉で織られたパウロのローブを修道院に持歸って,弟子たちに見せ,爾來イースター(復活祭)とペンテコステ(聖霊降臨祭)の日にそれを着た。 *)Benedict Baker, De Vitis Patrum, Book Ia, by Jerome, presbyter, and various others , http://www.vitae-patrum.org.uk/page5.html, Mrs. Constance, The Vitae Patrum in Old and Middle English Literature, Rosenthal, 1936, etc. から抄録。芥川は,ギュスターヴ・フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』(Gustave Flaubert, La Tentation de saint Antoine, 1874)をも讀んでゐたと思はれる。

[17] 天の川揖の音聞こ彦星(ひこほし)織女(たなばたつめ)今夜逢ふらしも(萬葉集,集歌2029 「天漢 梶音聞 孫星 与織女 今夕相霜」)。

[18] 藤原佐理。平安時代中期の公卿・能書家。藤原実頼の孫。藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書で有名(Wikipedia)。

[19] 風の神。「日本書紀‐神代上」に書かれた級長戸辺命(しなとべのみこと)に由来する。「あまがつに つくともつきじ うき事は しなとの風ぞ 吹きもはらはむ/和泉式部集」(大辞林 第三版)。

[20] (梵) Gautama Śiddhārtha。

[21] 本地である佛・菩薩が,救済する衆生の能力に合わせた形態をとってこの世に出現してくるという説。日本では神道の諸神を垂迹と考える神佛習合思想が鎌倉時代に整備されたが,その發生は平安以前にさかのぼる。垂迹である神と,本地である佛・菩薩との対応は必ずしも一定していない(大辞林 第三版)。

Cf. Kosuke Nishitani, Understanding Japaneseness: A Fresh Look at Nipponjinron through “Maternal-filial Affection” , Rowman & Littlefield, 2016.

[22] 佛語。心から喜び,厚く歸依し,信仰すること(精選版日本国語大辞典)。

[23] 聖徳太子。「法起寺塔露盤銘」には上宮太子聖徳皇, ... の銘(Wikipedia)。

[24] ギリシア神話の獣性をもつ豊饒の神。古代の没落を意味する表現として傳承。ローマ第2代の皇帝ティベリウスの治世に,イオニア海のパクソス島付近でなぎにあった船のタムスといふ名の舵取りに〈大いなるパンは死せり〉と叫ぶ声があり,これを聞き及んだ皇帝は學者たちに命じてこの神の調査にあたらせた,とプルタルコスが傳へてゐる(https://www.britannica.com より抄録)。英語パニックの語源。

[25] 天正年間,九州のキリシタン大名,大友義鎮(宗麟),大村純忠および有馬晴信の名代としてローマへ派遣された天正遣歐少年使節(伊東マンショ,千々石ミゲル,中浦ジュリアン,原マルティノ)。イエズス會員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが發案引率し,1582年(天正10年)に出發,1590年(天正18年)に歸國。

[26] この船乘りは,ホーマーの叙事詩オデュッセイアのヒーローであるオデュッセウスに相違ない。この記事の讀者の多くはオデュッセイアについてよく知ってをられると思はれ,また多くの梗概が其処此処ありはするが,翻訳者自らが要約したサマリーを以下に示す。

    トロイ戰爭は,イサカの王オデュッセウスによって發明された「トロイの木馬」の導入によってアカイア側の勝利で終ったが,オデュッセウスのイサカへの歸郷は,一連の豫期せぬ難儀のため,十年を要した。

    (1)オデュッセウスと彼の部下は,12隻の船隊でトロイを出航した。

    (2)船團は風によって北のキコネスの地(ダーダネルス海峡北側)に送られた。オデュッセウスと彼の部下は町を略奪し,彼らの妻を弄んだ。此処を直ぐに去るようにとのオデュッセウスの命令に反して,一部の部下は家畜とワインの略奪を続け,ビーチに座して食べた。キコネスは彼らを攻撃して殺した。船團は荒狂ふ風の中,その場を離れた。

    (3)船團はロータス・イーターの島の海岸に漂着した(現在のリビア沖)。ロータスの花を食べた數人の部下は,その藥効で家や家族を忘れ,島に殘った。

    (4)船團は片目の巨人,キュクロプスの地(シシリア島)に到着した。そこではオデュッセウスの部下の幾人かが洞窟のモンスターに喰はれた。オデュッセウスはポリフェモスといふ名前のキュクロプスを盲にしたが,加害者は不明であると言った。オデュッセウスと殘りの部下は巨人どもの羊の腹の下に隠れ,翌朝その地から逃れた。ポリフェモスの父である海の神,ポセイドンは激怒した。

    (5)オデュッセウスの船團はポセイドンによって誤った方向に導かれ,アイオロス島(エオリア)に到着した。彼は親切に風袋をオデュッセウスらに與へた。船は東向きの風に乗って(イサカ方向に)出航したが,オデュッセウスの部下が誤って他の風の袋を開けていたため,亂氣流に巻込まれた。

    (6)船團はリストリゴン人の島(サント・ステファノ島?)に流され,彼らの船着場に入った。オデュッセウスは部族が巨人のような,強力な人喰人種であることを知らなかった。オデュッセウスの部下が泉の近くで王の娘に會って宮殿を訪れたところ,彼らの一人が殺されて食べられた。オデュッセウスの船團は,船着場で,岩の投擲に襲はれた。12隻のうち11隻が破壊されて部下と共に沈没し,埠頭を離れて碇泊してゐたオデュッセウスの乘った船一隻だけが外海へ脱出し得た。

    (7)オデュッセウスの船は,魔女「キルケー」の島(コルシカ島のアイアリア?)に到着した。彼女はオデュッセウスの部下の多くを豚の姿に變へた。彼女はオデュッセウスにも魔法を掛けようとしたが,彼は抗魔剤を飲んでゐたので助かった。豚になった男たちは,後に元に戻された。彼と彼の部下は,キルケーと彼女の女たちと共に,其処に一年間滞在した。

    (8)以後の航海についてキルケーから助言を貰ひ,オデュッセウスは,盲目の預言者テイレシアスから預言を受けるため,また,幾人かの死者の霊に會ふために,船を「死者の地」(フランス沿岸?)に向けた。會った死者は,アキレウス,アガメムノン,オデュッセウスの母アンティクレイア等。

    (9)彼らが,船乘りを死に誘ふ美声の人魚,シレーン,の海域(カプリ島の南方近くのシレヌム・スコプリ島付近)を通過したとき,オデュッセウスは部下に耳を塞ぎ,彼自身を海に飛込まぬようマストに縛付けるよう命じた。 “Siren” は「サイレン(警笛)」の語源。

    (10)次に,オデュッセウスと彼の部下は,狭いチャネル(メッシーナ海峡)の脇で,スキュラとカリビュディスといふ2人の恐ろしい女怪物に遭遇した。部下の2人はスキュラに喰われたが,船はカリビュディスが引起した巨大な渦から辛うじて逃れた。

    (11)その後,彼らは太陽神,ヘリオスの島(小アジア西海岸)に上陸した。其処では家畜が飼はれてゐた。オデュッセウスの部下の一人が,空腹を満たすべく,テイレシアスとキルケーの警告を無視して,牛を食べて殺された。彼らが出航したとき,怒った神はオデュッセウスの船を破壊し,オデュッセウス以外,すべての男を海中に引込んだ。

    (12)オデュッセウスは,獨り十日間海面を漂った後,女神「カリプソ」の島(マルタ島)に上陸し,直ぐに彼と恋に落ちた女神に,其処に7年間引留められた。その後,彼女は,オリンポスの女神アテネに促されて,彼を手放した。

    (13)オデュッセウスは再びポセイドンによって海に漂流させられたが,シェリア(イオニア海コルフ島)のナウシカ王女によって救出され,兩親のアルキノス王とアレテ女王のもとに案内された。彼らはオデュッセウスを娘の婿にしたいと欲したが,遂には彼を故郷に送った。

    (14)オデュッセウスが歸國すると,アテネ神は彼を老乞食に變装させた。また,アテネは,オデュッセウス探索のためスパルタに渡り,其処に留ってゐたオデュッセウスの息子,テレマコスを連れ戻した。

    (15)オデュッセウスの不在の間,オデュッセウスの領土は,妻ペネロペとの結婚を志向した一部の家臣によって荒らされてゐた。オデュッセウスが状況を把握せんとしてゐる間,窮境のペネロペは肉体能力コンテストの勝者に配すると宣言した。求婚者どもが失敗した後,オデュッセウスは彼の古い弓を取って一箭を放ち,十二枚の斧の孔を通過させた。彼は僞装を外して自身を名乘り,テレマコスや數人の忠臣と協力して,全ての求婚者を殺害した。オデュッセウスは妻のペネロペと再會した。斯くして,オデュッセウスの復讐は達成された。

[27] キュクロプス。ホメロスの叙事詩オデュッセイアに登場する單眼の巨人。註26を參照。

[28] キルケー。ホメロスの叙事詩オデュッセイアに登場する魔女。註26を參照。

[29] シレーン。ホメロスの叙事詩オデュッセイアに登場する美声の人魚。註26を參照。

[30] 百合若(百合若大臣)といふ名の武者にまつわる復讐譚で,大分ほか日本各地に傳はる。以下に文献*) にある一説を抄録する。「宮廷に仕へ,博多の代官でもあった百合若は,博多を襲った蒙古軍討伐の為,大将(兼,海将)に任ぜられ,神託によって携へた8尺5寸の鉄弓と363箭の矢を持って戰に臨み,臺風で損害を被って撤退する元船を追ひ,敵の4人の船長を討って勝利を果たすが,歸路,寄港した玄海島で,部下の別府と云ふ名の兄弟の裏切りよって島に置去りにされる。別府兄弟は百合若は戰死したと報告して百合若の職を簒奪した許りか百合若の妻(春日姫)に言寄った。しかし苦境にある彼女が放った鷹の緑丸が,百合若が自らの指の血で木の葉に書いた文を持帰った。詳細を知るべく彼女から筆と硯を託された緑丸は,荷重に耐へ兼ねて海中に没した。妻が宇佐神宮に祈願すると壱岐の漁師が島に殘された百合若を發見して連れ歸った。苔丸を名乗った窶(やつ)れた百合若を別府は彼と認め得ずに,召抱へた。彼は重臣の娘が,別府が我物にしようとした百合若の妻に變装して身代りに池に身を投じて犠牲になったことを聞いた。百合若は宇佐神宮で開かれた弓道大會で本名を名乘り,謀反者を射て,死に至らしめた。斯くして百合若と妻は再會した。

*) 柿元言雄『大分県郷土史料集成: 戦記篇. 下巻, 1938』,山中耕作ほか(著)『日本伝説大系,第13巻(北九州),みずうみ書房 1987.

(註の註) 坪内逍遙教授が1906年(明治39年)に提唱した「百合若傳説は,何時の時かに日本に傳へられた古代ギリシアの詩人・ホメロス作の叙事詩『オデュッセイア』の翻案である」とする説 *2) は學界に賛否兩論を惹起した。芥川は學者ではなかったが,本小説の中で肯定する立場を表したものと思はれる。反対派の主たる論点は, 百合若を題材とする幸若舞の京都大内屋敷での初演が1551年2月10日,假にオデュッセイアがフランシスコ・ザビエルの1550年11月初めの大内領山口訪問時に齎されたとしても,その間3ヶ月で臺本の書下し可能であったか否かという點にあった。James T. Araki は「百合草若の物語」とラテン語版ユリシーズ「ウリクセスの物語」の内容を比較して前者が後者に倣ったものである,タイトルについてはウリクセスまたはフランス語音のユリクスが百合草に転じたと断じ,ザビエルの優秀な通訳が伝えた話の内容を短時日の間に舞の台本に書き下ろすのは困難でなかったと結論した。 *3), *4) ドナルド キーンは, オデュッセイアが早い時期にアジア大陸を横断して中國に傳はり,更に日本に至った可能性を擧げている。*5) 大分の百合若伝説に関しては,16世紀後半に北九州一帯に勢力を擴大した大友宗麟(1530-1587)がイエズス會士フランシスコ・ザビエルに1551年に面會して領内でのキリスト教布教を許可した経緯あり,幸若舞のケースとは無関係に,オデュッセイアなどの文學が, 諸聖典とともに,ポルトガル人によって,この地に持込まれた可能性が否定できまい(私見)。

*2) 坪内逍遥,「百合若傳說の本源(Jan. 1906)」, in: 坪内雄藏(著)『文藝瑣談』,春陽堂 1907.

*3) Araki James T, “The origin of the story of Yurikusa-waka (百合草若の物語の由来)”, Proc. Int'l Conf. on Japanese Literature (国際日本文学研究集会会議録) (6) , 1983-03-01, p.203-216.

*4) James T. Araki, “Yuriwaka and Ulysses. The Homeric Epics at the Court of Ōuchi Yoshitaka”, Monumenta Nipponica, Spring, Vol. 33, No. 1, Sophia Univ. (1978), pp. 1-36

*5) ドナルド キーン(著),『日本文学の歴史 (6) 古代・中世篇』,中央公論社 1995/ Donald Keene (Au), Seeds in the Heart: Japanese Literature from Earliest Times to the Late Sixteenth Century (History of Japanese Literature), Columbia Univ. Press 1999.

*5) ドナルド キーン(著),『日本文学の歴史 (6) 古代・中世篇』,中央公論社 1995/ Donald Keene (Au), Seeds in the Heart: Japanese Literature from Earliest Times to the Late Sixteenth Century (History of Japanese Literature), Columbia Univ. Press 1999.

[31] Thomas a Kempis によって1418–1427(頃)に編纂された。Cf: B.J.H. Biggs (Ed), The Imitation of Christ: The First English Translation of the Imitatio Christi , Early English Text Society, 1997。

[32] 云ふまでもなく,レオナルド・ダ・ヴィンチが,1490年代,ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁に描いた「最後の晩餐」。

[33] イエロニモ上人=St Jerome は Eusebius Sophronius Hieronymus の名でも知られるキリスト教世紀初期の聖者。「惡魔來らず(no evil shall befall you)」の文言は,Psalm(詩編)91:10: “No evil shall befall you, Nor shall any plague come near your dwelling.”に見られるが,註釋者は著者が引用した原典を特定し得てゐない。

[34] 半人半馬の神は「ケンタウロス)」を意味。註16を參照。

[35] 本行以下の問答は,ヨハネ傳第13および14章からの引用と目される。

[14:22]イスカリオテならぬユダ言ふ『主よ、何故おのれを我らに顯して、世には顯し給はぬか 』,からの引用。但し,本文ではペテロが尋ねたことになってゐる。

[36] [14:23]イエス答へて言ひ給ふ『人もし我を愛せば、わが言を守らん,わが父これを愛し,かつ 我等その許に來りて住處を之とともに爲ん』;[13:33]若子よ,我なほ暫く汝らと偕にあり,汝らは我を尋ねん ,然れど曾てユダヤ人に「なんぢらは我が徃く處に來ること能はず」と言ひし如く今,汝らにも然か言ふなり。;[ 14:18]我なんぢらを遣して孤兒とはせず,汝らに來るなり,からの引用。

[37] [13:36]シモン・ペテロ言ふ『主よ,何處にゆき給ふか 』イエス答へ給ふ『わが徃く處に,なんぢ今は從ふこと能はず。されど後に從はん,からの引用。

[38] [13:36]シモン・ペテロ言ふ『主よ,何處にゆき給ふか』イエス答へ給ふ『わが徃く處に,なんぢ今は從ふこと能はず 。されど後に從はん』;[14:2]わが父の家には住處おほし,然らずば我かねて汝らに吿げしならん。 われ汝等のために處を備へに徃く;[ 14:3]もし徃きて汝らの爲に處を備へば,復きたりて汝らを我がもとに迎へん,わが居るところに汝らも居らん爲なり ;[14:19]暫くせば世は復われを見ず,されど汝らは我を見る,われ活くれば汝らも活くべければなり,からの引用。

[39] Hosanna。「ホサナ」とも譯される。元来ヘブライ語で「救い給へ」の意。キリストがエルサレムに入ったとき,歡喜した民衆が叫んだ。のち,「ホザナ(ホサナ)」は,神を稱へる言葉として典禮に用いられた(大辞林 第三版)。新約聖書。マルコ傳 11章9-10節:「ホサナ,讃むべきかな,主の御名によりて來る者」。讃むべきかな,今し來る我らの父ダビデの國。「いと高き處にてホサナ」。

[40] 歴史では,オルガンティノは日本に留まり,長崎で生涯を全うした。註1を參照。

[41] ウルガン(宇留合無)=オルガンティノ(Organtino)の日本訛。伴天連=Padre の日本訛。