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文學精讀: 文字禍

イントロダクション

    

井口正俊

    

    

    

中島敦(1909年5月5日-1942年12月4日)は,大正から昭和初期(1910〜1940年代)の日本文學黄金時代後期に登場した輝かしい星であった。彼の生涯は僅か33年で,未完成のものも含めて20篇未満の小説を出したに過ぎないが,學校の教科書に採用された作品もあって,その藝術性は高く評價されてをり,幾つかの作品,就中,「山月記」,「名人傳」は,それぞれ “The Moon over the Mountain” ならびに “Legend of the Master” といった譯題で英語に,また他の言語にも翻譯されて,海外に紹介されてゐる[1]

    

以下は,文献,就中『評伝・中島敦 -家学からの視点(2002)』[2] ,ならびに田鍋幸信(編),『写真資料中島敦(1981)』[3]から抽出した彼の略歴である。

    

中島家は傳統的に江戸時代に榮へた駕籠製造業者であったが,敦の祖父撫山(1829-1911)[4] は儒教學者となり,私立學校を設立して,父田人(1874-1945)を含む6人の息子全員を,後に英國國教會の司祭になった伯父の一人を除き,漢文學者になるやう教育した。[5] 敦は明晰な頭腦を半ば士族出身で才能ある學校教師であった母親の千代子(旧姓・岡崎,1885-1921)[6] から継承したと言はれてゐるが,彼女が息子の誕生日前に離縁され,彼を殘して中島家を去ったことは,敦にとって運命的であった。

    

敦の人生はその後,中學教師であった父の任地が東京から奈良,静岡,京城(ソウル),旅順などに移り,また二人の継母との折合いが惡かったため,波乱に富むものとなった。然れど,彼の才能は開花し,中學時代に四書五經を讀み,後年には佛僧玄奘が經書を求めて三人の供を連れて西域に旅したことを誌した西遊記の全話を空んずることができた。彼の興味はさらに西洋文學や日本の古典に擴大した。彼は,彼の作品から感得されるように,彼自身が何であるか,または人間が何であるかを形而上學的に追求した。彼に會った人は悉く本や記事で回想してゐる如く,彼の並外れた才能に驚嘆した。

    

東京の第一高等學校の學生のとき,彼は幾篇かの小説を書き,校友會誌に寄稿した。彼は英語が非常に得意であったが,周囲の驚きをよそに,1930年東京帝國大學の國文學科に入學したと言はれてゐる。森鷗外,永井荷風,谷崎潤一郎,エドガー・アラン・ポー,シャルル・ピエール・ボードレール,オスカー・ワイルド等の殆ど全ての作品を讀むことに没頭し,そして學士論文のために「耽美派に關する研究」を書いた。彼は伯父の斗南(1859年-1906年)についての小説「斗南先生」を書いたが,それは彼の死後に出版された。當時の學界では古典文學の研究が一般的であって現代作品は無視されてゐたに拘らず,森鷗外を研究するために大學院に進學したが,翌年に退學した。

    

1933年,撫山(敦の祖父)の弟子で,横浜學園高等女學校の校主であった田沼勝之介に招かれて,同校の教師になり,英語と國語を擔當した。2年後,敦はタカ(旧姓・橋本)と,様々な困難を乘り越へて結婚した。彼にとって,横浜での生活は最も満足のいく,享樂できるものであった。彼は,積極的に教育に携り,様々な現代語のほかラテン語ならびにギリシャ語の習得に努めた。同時にアナトール・フランス,ヨハン・ウォルフガング・ゲーテ,ラフカディオ・ハーン等の數多の本を読んだが,取分け,ロバート・ルイス・スティーブンソンの美しい夢に酔いしれたとされる。また,プラトンに刺激を受けて古代アッシリアやエジプトに關する書を讀み漁った。猶,1934年,中學時代の半島人同級生との關係を描いた小説「虎狩り」を執筆し,『中央公論』に投稿した(結果は選外佳作)。その後,「山月記」などの草稿を書いた。

    

その頃,中學生時代に始まった慢性喘息が惡化した。病弱のスティーブンソンが温暖な南洋の島に移住したのに倣って,彼は轉地療養のため,1941年6月,當時日本の統治下にあったパラオ諸島への移住を決行したが,抱薪救火,彼はアメーバ赤痢とデング熱に苦しめられた。彼は南の島々での經験について幾つかの小説を書いたが,1942年3月に疲れ果てて東京に戻った。彼は遂に1942年11月に入院し,12月4日に他界した。

    

中島敦の作品のうち,「山月記」と「文字禍」は『古譚』として一括し,パラオからの歸國直前の1942年2月に,『文學界』 第二號に掲載された。5月には,『古譚』に「狐憑」と「木乃伊」を追加,それに「斗南先生」,「虎狩」,「光と風と夢」をも包含した單行本が『光と風と夢』の名のもとに筑摩書房から出版された。「名人傳」は,三笠書房の月刊誌『文庫』12月号に掲載された。遺作「李陵」は死の翌年,1943年7月に『文學界』に掲載された。殘りの作品は太平洋戰爭後の1948年以降に出版された。

    

古代アッシリアのアシュルバニパル王の命で文字の靈を探究した老學者ナブー・アヘ・エリバを語った小説『文字禍』は,著者が様々のソースから得た知識に基づく創作であって,唐代に李景亮が著した小説『人虎傳』の翻案である『山月記』,ならびに列子の書の中の幾つかのエピソードを編纂した『名人傳』とは対照的である。主要な文献源として,バビロニアおよびアッシリアに關する4冊の本が彙報記事に擧げられてゐるが[7] ,著者が他の數多の本をも參照したことは,次項(試譯)で言及される如く,明白である。また,彼が本小説のために,詳細な覚書とプロトタイプの原稿(彼の死後に書斎で發見)を準備してゐたことは[8],注目に値する。

    

猶,文字と音の關係について,文献に,著者は恐らくアナトール・フランスの「エピクロスの庭」,取分け「エピクロスが彼の圖書館で仕事をしていたとき,カドムスの影が現れ,彼が22個のエジプトの象形文字を選んで,それらを單一の音を持つ22個のフェニキア・アルファベット文字となし,文字の組合せでもって凡ゆる音聲を忠實に描寫する手段となしたことを告げたシーン」[9] に觸發されたであらうとの指摘が文献[10] にある。また,文字の機能について,プラトン著「フェドロスとソクラテスの對話」の一節,「テーベのダマス王は,文字および多くのアイテムを發明したテムスを招いて『貴下の發明は,それを學んだ者に記憶を怠らせ,彼等の心に忘却を齎す。彼等が書き物をするのに,自身の内的能力をでなく,外的な記号の助けによる想起によって自信を持つのも同様である』と豫言した。」[11] とのソクラテスの談話が作者に影響を與へたと思はれるとの説[12] もある。

    

この小説の翻譯に關して,David Boyd によって 「The Curse of Writing」として英譯され,2021年に東京大學現代文藝學部の内部雜誌 “Renyxa” に寄稿された一点[13] がインターネットで見つかった。この翻譯は,小説の筋書きを滑らかに辿るべく,随所に語句の追加削除が施されてゐて,作者が追求した藝術性を殆ど氣に掛けずに行われたやうに見受けられる。

    

スペイン語譯には, La Catástrofe del as Letras という名の翻譯が,Makiko Sese and Daniel Villa Gracia (譯), El Poeta que Rugió a la Luna y se Convirtió en Tigre”,2017[14] の題名で出版された本に含まれてゐる。現筆者(井口正俊)はスペイン語の原稿にコメントする能力を持合せないが,翻譯は元の日本語文に照らして非常に正確であるやうに見られる。

    

この小説の翻譯に關する一つの問題は,タイトルである。David Boyd による“The Curse of Writing”の他に,“The Curse of Graphs”[15],“The Curse of Glyphs”[16],“The Curse of Letters”[17] が修士論文,博士論文に見られる。これら譯題は,ナブ・アヘ・エリバ,即ち文字の秘密を暴いた者を呪った文字の靈の側に立ったものであるが,「呪い」に對應する語は,元のテキストの最後の文,「夥しい書籍が——數百枚の重い粘土板が文字達の凄まじい呪の聲と共に此の讒謗者の上に落ちかゝり,彼は無慙にも壓死した。」に一度だけ現れただけである。おそらく,スペイン語のタイトル “La catástrofe del as letras” の方が客観的である。本ウェブ記事のタイトル “The Calamity of Letters” は,元題の直譯であって,ナブ・アヘ・エリバが被った災難または破滅を象徴する。

    

中島の早逝は眞に殘念である。とりわけ,讀者諸兄は,「若し,彼の作品が彼自身によって英語や他の外國語に翻譯され,それらが入手できたなら。」と欲するかも知れない。

    

この小説を讀んで,私(井口正俊)は,文字の靈だけでなく,コンピューターの靈にも難を被ってゐることに氣付いた。50年前にテレタイプに繋いだ PDP-8 なるマシンに初めて出會って以來,先天的に非常に惡い記憶力が徐々に惡化し,今や,常に單語のスぺルや漢字を手元のコンピュータで調べねばならない程となった。コンピューターの被害者は私だけではないと思ふ。

    

2022年4月,

    

井口正俊。

    

     

    

参照文献およびノート


[1] Atsushi Nakajima, Nobuko Ochner (trans), Paul McCarthy (trans), The Moon Over the Mountain, and Other Stories, Autumn Hill Books, 2011; Atsushi Nakajima, Reiko Kane (trans), Doc Kane (trans), Legend of the Master, Maplop, 2020; Atsushi Nakajima (au), Makiko Sese (trans.), Daniel Villa Gracia (trans): El poeta que rugió a la luna y se convirtió en tigre, Hermida Editores S.L. 2017

[2] 村山吉廣, 『評伝・中島敦 - 家学からの視点』, 中央公論新社, 2002. 9. 15.

[3] 田鍋 幸信 (編), 写真資料中島敦, ‎ 創林社, 1981.12.1.

[4] 中島家の遠祖は戦國時代,尾張・中島庄に由来し,江戸時代初期,第11代・淸右衛門(寛永14年没)が京都より江戸に來たと傳はる。

[5] 漢文は,ヨーロッパにおいてラテン語がさうであったと同様に,日本の教育において教養科目の重要な一つとされ,筆者の高校時代(1950年代)においても必須科目であった。

[6] 女性の大多数が家族のために家に留まった時代,千代子は,1874年に設立の,最初の女性のための官立高等教育機関たる東京女子師範学校で教育を受けた。離婚について,タカ(敦の未亡人)は,千代子の交遊関係が原因であったと聞いたとの由:千代子も田人も復縁を望んだが,周囲の家族の者が許さなかった(田鍋幸信(編); 『中島敦・光と影』, 新有堂, 1989)。

[7] 松村良,中島敦『古譚』: 〈声〉と〈文字〉をめぐって,学習院大学国語国文学会誌 (38), 76-85, 1995-03-15. リストアップされている4点の書は, (1) A. T. Olmstead, History of Assyria, Charles Scribner’s & Sons, New York, 1923, (2) Morris Jastrow, Jr., The Civilization of Babylonia and Assyria, J. B. Lippincott Co., 1915, (3) Phillip van Ness Myers, Ancient History (2nd Revised Ed.), Gin and Co., 1904 and (4) James Henry Breasted, Ancient Times - A History of The Early World (2nd Revised Ed.), Gin and Co., 1935。

[8] 安福智行, 『中島敦「文字禍」論: その成立過程について』, 仏教大学京都語文 (07) 2001.05.11.

[9] Anatole France (au), Frederic Chapman (trans), The Garden of Epicurus, The Bodley Head, London, 1908。Evelyn Huang, “Nakajima Atsushi Influences of Romanticism and Taoism (文学修士論文, Seton Hall University)”, 2009. https://core.ac.uk/download/pdf/151532218.pdf に引用。但し,原典不詳。本イントロダクションの引用部分は, Evelyn Huang の修士論文の引用部分と異る。

[10] Evelyn Huang, “Nakajima Atsushi Influences of Romanticism and Taoism (文学修士論文, Seton Hall University)”, 2009. https://core.ac.uk/download/pdf/151532218.pdf。但し,引用部分は,本イントロダクションの引用部分と異る。

[11] J. Wright, The Phædrus, Lysis, and Protagoras of Plato, John W. Parker, London, 1846, p.85。

[12] Evelyn Huang の論文(Ref.9)に Mitsuru Sasaki の名があるが,典拠不詳。少なくとも, Sasaki の成書,佐々木充,『中島敦の文学 (近代の文学 10)』,桜楓社,1970, には指摘がない。

[13] David Boyd, “The Curse of Writing: Atsushi Nakajima (1942)”, Renyxa, Department of Contemporary Literary Studies, 2020. renyxa01002004-3.pdf (David Boyd. れにくさ No.10, 東京大学現代文芸論研究室, 2020).

[14] Atsushi Nakajima (au), Makiko Sese (trans.), Daniel Villa Gracia (trans): El poeta que rugió a la luna y se convirtió en tigre, Hermida Editores S.L. 2017.

[15] Evelyn Huang, “Nakajima Atsushi Influences of Romanticism and Taoism (文学修士論文, Seton Hall University)”. 2009. https://core.ac.uk/download/pdf/151532218.pdf.

[16] Christopher J Lowy, “At the Intersection of Script and Literature: Writing as Aesthetic in Modern and Contemporary Japanese-language Literature (博士修士論文, University of Washington, 2021)”. https://digital.lib.washington.edu/researchworks/bitstream/handle/1773/47189/Lowy_washington_0250E_23070.pdf

[17] Scott Charles Langton, “The Works of Nakajima Atsushi: War is war and literature (MA Thesis, Ohio State University, 1992)”. https://etd.ohiolink.edu/apexprod/rws_etd/send_file/send?accession=osu1208532046&disposition.