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文學精讀 木乃伊(みいら)

イントロダクション

   

 井口正俊  

   

   

    

「文字禍」へのイントロダクションに述べたやうに,本小説は,1942年7月,筑摩書房刊の『光と風と夢』 [1]に「古譚」の中の一篇として掲載された。

   

昭和期の著名な作家,井上靖は昭和51年版『中島敦全集』のリーフレット [2] に寄稿したエッセイ「木乃伊ー讃」の冒頭に以下のやうに記してゐる。「中島敦に木乃伊(ミイラ)という作品がある。『李陵』のように完成度の高い作品ではないが,中島敦の作家としての特異な資質を示している,或いは暗示している作品で,私には『李陵』や『山月記』より寧ろこの方が興味深い。短篇らしい短篇で,十二,三枚ぐらいのものであろうか。(原文のまま)」

   

話は以下のやうに始る。「主人公パリスカスはエジプトに侵入した頃から,何となく落着きを失ひ,エジプトとは無關係なのに,エジプト軍の捕虜の言葉の意味が判るやうな氣になる。古都メムフィスに入城した時には,彼の沈鬱な興奮は更に著しくなり,屡々,癲癇病者の發作直前の様子を思はせ,オベリスクの面に刻まれている文字を讀んだりする。周囲の者も氣味惡くなるし,當のパリスカス自身も奇妙な,不氣味な氣持になる。」この記述によってこの物語が何時の時代を取り扱っているか,また物語の主人公が如何なる性情の人物であるかが分る。ペルシャ軍のエジプト侵攻は紀元前525年,今から二千五百年程前のことであった。主人公のパリスカスは,明らかに著者によって創造された架空の人物である。 [3]この書き出しのあと,話は物語の核心部に向ふ。

   

ペルシャ軍がエジプトの地に入った頃,パリスカスは内向的になって落着きを失ひ,何かを思ひ出さうとしたが,出來なかった。彼はエジプト人の捕虜がす言葉を理解できるように感じた。彼らがメンフィスに到着したとき,彼はオベリスクに刻まれた象形文字を讀んだ。

   

その頃から,カンビュセス王も癲癇に苦しみ始めたようであった。彼は残酷な方法でエジプトの王プサメニトスを殺し,それに飽き足らず,嘗て彼を騙した前王アメシスの死体を辱めたいと欲し,部下にアメシスの墓地を探出して死体を掘出し,己の前に持ってくるように命じた。恐らくこれを豫期した敵はアマシス王の墓地の所在を巧み(くら)してゐたため,ペルシャの將校がサイス市の内外にある多数の墓地を一つづつ檢査せねばならなかった。

   

パリスカスも,此の墓所搜索隊の一員であった。他の連中がエジプト貴族の墓に納められた寶物の掠奪に夢中になってる中,パリスカスだけは,ひたすら,墓から墓へと歩き廻ってゐた。或る日の午後,彼は,たった一人,或る非常に古い地下の墓室の中に立ってゐた。パリスカスは無意識に五六步進み,床に横たわってゐた木乃伊に躓いた。彼は,その木乃伊の顔を見つめた途端に,冷熱何れともつかぬものが,彼の脊筋を走るのを感じた。そしてエジプトに入って以來,彼を惱ませてゐたものが何であったかを悟った。彼は本能的に聲に出して言った。「俺は元々この木乃伊であったのだ。」

   

木乃伊から抜出た魂が,曾て宿っていた肉体の形骸と對面したのである。パリスカスのの魂は木乃伊と一体になってゐた。当然主人公はパリスカスではなく,嘗て木乃伊となった男となった。遠い昔に見た凡ゆる情景が一度に甦り,記憶の奥底で,前世の彼自身が薄暗い小室の中で一つの木乃伊と向き合ってゐる場面が思ひ出された。

   

翌日,他の部隊のペルシャ兵がパリスカスを発見した時,彼は固く木乃伊を抱いて,古墳の地下室に倒れてゐた。彼は介抱されて息をふき返しはしたが,狂氣の徴候を見せて,あら 譫言(うはごと)言った。その言葉は,ペルシャ語ではなく,エジプト語であった。

   

この小説のクライマックスについて,井上靖は次のやうに述べてゐる。「古代エジプトでは,人が死ぬと,魂は肉体からはなれるが,いつかまた肉体に返ってくると信じられていた。そしてその魂が返ってくる時のために,肉体をそのままの形にして保っておこうとした,それが木乃伊である。中島敦はその魂が木乃伊に戻る時のことを小説で描こうとしたのである。(原文のまま)」

   

中島敦がこの小説の草稿を何時書いたかは不明であるが,横浜學園高等女學校在勤時代に,プラトンに刺激を受けて古代アッシリアやエジプトに關する書を讀み漁った,と文献にある。 [4]

   

筆者は,この小説を研究して,彼は以下に列記するような多数の原著を讀んでゐたと想像する。

(1) History of Herodotus Vol. II, .by George Rawlinson, 1862, [5]

(2) Plutarch's Lives. Third Ed, Vol. VI, John Langhorne and William Langhorne (trans), 1819[6],

(3) The Tomb of Thoutmosis IV, by Howard Carter and Percy E. Newberry, 1904,[7]

(4) The Tomb of Tut-Ankh-Amen, by Howard Carter, 1922[8] ,ほか。

   

筆者の想像ではあるが,書出しからナイル下流のメンフィスおよびサイス占領に至る部分については明らかに History of Herodotus (ヘロドトスの歴史)を参照したものの,地下墓室内のイメージは,多分,ナイル上流にあって,近代まで荒されることなく保たれてゐた The Tomb of Thoutmosis IV (トトメス4世の墓) や The Tomb of Tut-Ankh-Amen (ツタンカーメンの墓) の中のイラストおよび本文から得たと思はれる。

   

「木乃伊」について日本語で書かれた數篇の學術論文[9] があるが,この小説の著者・中島敦が,恐らく上に列記した原書から知識を得てゐたのに反し,それらの論文では日本語で書かれた書,或ひは日本語に翻譯された書のみが参照されてゐて,筆者には物足りなく感ぜられた。

   

然し,その中の一篇 [10] は注目に値すると思はれる。著者はパリスカスの魂の移動をサムサラ(輪廻轉生)の一相と考察してゐる。但し,筆者には上述の,古代エジプト人の死生觀を表すとする井上靖の解釈の方が受容れ易いかと思はれる。實のところ,天才作家・中島敦の深遠な思考を理解することは,特にこの場合,假に彼の魂が甦って説明して呉れない限り,容易ではない。

   

「木乃伊」の英譯に關して,筆者は草稿を書き終へた後に,既に大家に依ってなされた英譯が “Seven Stories of Modern Japan”, edited by Leith Morton, 1991 [11]に含まれてゐることを知って,急遽,古書1冊を abebooks.com から取寄せた。譯者は,1961年にオーストラリアに渡って日本文學を教へ,谷崎潤一郎の作品等の翻訳も手掛けられたシドニ―大学文學部教授・松井朔子女史,流石原作を十分に理解された上でなされた翻譯に甚く敬服させられた。本ウェブサイトに載せる私(井口正俊)による英譯は、原稿の仕上げの段階で多くの語句を參照させて頂いたといふ点において,彼女の翻譯に多くを負うてゐる。

   

2022年5月,

   

井口正俊。

   

   

参照文献


[1] 中島敦(著), 「光と風と夢」, 筑摩書房,昭和17年7月15日.

[2] 中島敦全集(筑摩書房 昭和51年度版) 内容見本.

[3] 田鍋 幸信 (編), 写真資料中島敦, ‎ 創林社, 1981.12.1.

[4] [パリスカス」の名は『プルターク英雄傳』にアルタクセルクセス王の宦官の一人として書かれてゐるが,『木乃伊』の主役とは無關係と思はれる。Thomas North, Plutarch’s Lives, Englished by Sir Thomas North in Ten Volumes, Vol. Nine , J. M. Dent and Co., London, 1910, p.139-140. 「扨,サイラスが死んだ時,アルタクセルクセス王の宦官の一人で,宮廷で王の目と呼ばれたアルタシラスは,其処を馬に乗って通り掛り,サイラスの宦官が非常に哀れに嘆き,主人の死を嘆いたこと(以下の会話で)を知った。彼はサイラスが最も愛してゐた宦官のパリスカスに尋ねた。「死者は誰か。嗚呼,パリスカよ。汝何故斯く激しく哀哭するや。」と。パリスカは答えた。「嗚呼アタシラス殿、此処に死せるはサイラスなると認められぬか?」と。 アルタシラスは彼を見て疑問に思ひ,彼を慰めて,如何なる場合も死体から離れるなと命じ,戰で全てを失ったと思ひ,また胸に受けた傷による渇きのために苦しんでゐる王のもとに馳せた(サイラスの死を告げるため)。」これと略々同じエピソードは,以下の書にも見られる。Jan P. Stronk, Ctesias' Persian History. Part I: Introduction, Text, and Translation, Wellem Verlag, Düsseldorf, 2010, p.367

[5] George Rawlinson, History of Herodotus Vol. II, .John Murray, London 1862.

[6] John Langhorne and William Langhorne (trans), Plutarch's Lives. Third Ed, Vol. VI, Francis Wrangham, London 1819.

[7] Howard Carter and Percy E. Newberry, The Tomb of Thoutmosis IV, With an essay on the king's life and monuments, by Gaston Maspero, and A Paper on The Pilysical Cilaracters of the mummy of Thoutvôsis IV, by G. Elliot Smith , Archibald Constable & CO., Westminster, 1904.

[8] Howard Carter, The Tomb of Tut-Ankh-Amen: Discovered by The Late Earl Of Carnarvon and Howard Carter, Vol. I, II and III , Cambridge University Press 1922

[9] (1) 佐々木充, 「中島敦『木乃伊』の特質について」,千葉大学教育学部研究紀要 第24巻 第1部, 1975, p.170-182; (2) 奴田原諭, 「夢想家のカタストロフィ-中島敦『木乃伊』論」,二松学舎大学人文論叢,2001-10-10, p.158-176; (3) 永井博, 「中島敦『木乃伊』論-同化の論理と抵抗の論理」,四日市大学論集 第24巻 第2号,2012, p.148-159; (4) 石井要, 「中島敦『木乃伊』における転生の語り」,早稲田文学大学院教育研究科紀要 別冊27-2, 2022年3月, p.1-14

[10] Ref.9 の (4)。

[11] Leith Morton(ed), “Seven Stories of Modern Japan”, University of Sydney East Asian Series Number 5, Wild Peony PTY Ltd., 1991