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夜窓鬼談下卷

果心居士(くわしんこじ)黄昏艸(くわうこんさう)   

ロバート・キャンベル教授による漢文和讀 [1]

    

2022.03.06.

本文中の新漢字は正漢字に置換。

註の幾つかは省略または抄録。

2022.12.28. 修正,再フォーマット。

    

天正年間[2],洛北に果心居士 [3]なる者有り。年六十余, 葛巾(かっきん)道服[4] 鬚髯(しゅぜん)[5]雪の如し。祇園の祠[6]に在り。樹下に地獄變相[7]の圖を掲ぐ。舂磨割烹(しょうまかっぽう)[8] 。慘酷の諸刑,歴々として眞に逼る。人をして戰慄(ヲノゝキ)()へざらしむ。居士,(ニョイ)[9]()って之れを論示し,因果應報の理を説く。善を勧め惡を懲し,以て仏道に誘導す。老若群集し,錢を(なげう)つこと山の如し。時に織田信長[10] ,畿内を治む。其の臣荒川某[11] ,覩て之れを奇とし,還って 右府(うふに告ぐ。右府,人[12]をして之れを召さしむ。 (ふく)を座傍に展ず[13]。彩繪精密[14]閻羅(えんら)鬼卒[15] ,諸罪人等,殆んど活動するが如し。觀ること之れを久しうして,鮮血迸り(ほとばし)()で,叫號(けうごう)(かす)かに聞こゆ。試みに手を以て之れを拭へば,傅着(ふちゃく)する者無し。右府大に怪しむ。乃ち其の筆者を問へば,曰く,「小栗宗丹(おぐりそうたん)[16] ,清水觀世音[17]に祈って 齋戒(モノイミ)百日,遂に之れを作る」。右府,之れ欲す。荒川氏をして意[18]を達せしむ。居士曰く,「我,是の幅を以て 續命(しょくめい)の寶と ()[19]。若し之れを(なく)せば,簞瓢 (ケイ)[20],生を(まった)うすること能はざるなり。然れども强ひて之れを欲す。請ふ,百金を賜へ [21] 。以て養老の資と爲さん。然らざれば,愛を割くこと能はざるなり[22]」と。右府喜びず。荒川,其の(どん)を怒り,且つ右府に (へつ)らひ()さに(はか)(とこ)ろ有らんとす。 (ひそ)かに其の意を告ぐ。右府,之れを(がん)す。乃ち錢を賜つて之れを反す[23] 。居士去る。荒川,居士を追って往く。日,()さに(こん)ならんとす。漸く山麓に遇ふ。前後人無きを時として居士を捕へて曰く,「汝,一畫を(おし)み百金を(むさぼ)る。我,三尺の鐵[24]有り,以て汝に與ふべし」と。言未だ(をは)らざるに刀を抜いて路傍に(たふ)す。幅を奪って還る。明日右府に進む。右府喜ぶ。之れを展ずれば,(すなは)ち白紙(のみ)[25] 。荒川愕然として,流汗衣に(とほ)る。主を欺くの罪を以て,門を閉ぢて蟄居(ちっきょ)す。居ること十日。一友人來り告げて日く,「(きのふ),北野祠[26]を過ぐ。老樹の下,一道士,幅を掲げ捨財[27]を集む。容貌衣服,居士と異なること無し。居士に非ざるを得んや」と。荒川大に怪しみ,前罪を(つぐな)はんと欲し,卒を(ひき)ゐて北野に到る。到れば則ち(べう)たり[28]。荒川,益々怒る。然れども之れを如何(いかん)ともすること()し。既にして盂蘭盆會(うらぼんゑ)[29]に及ぶ。諸寺佛會(ぶつゑ)を修す。或るひと曰く,「居士,清水寺に在り,場を設けて俗を誘ふ」と。荒川喜ぶ。急に徒を従へて到る。往來紛雑[30]憧々(どうどう)として織るが如し。而して其の在る所を見ず。馳驅索搜(ちくさくさう),相ひ似たる者無し。悒鬱[31]として望みを失ふ。歸路,八坂[32]を過ぐ。居士,一 酒肆(しゅし)に在つて(こしかけ)に坐して飲む。卒,之れを認め荒川に告ぐ。荒川,之れを窺ふ。果して居士なり。(すなは)(みせ)に入り居士を捕る。居士曰く,「暫く待て」と。飲み了り()さに往かんとす。數十碗を傾け𩟖(てつさん)[33] 漸く盡く。曰く,「足れり」と。卽ち縛に就いて[34] 去る。直ちに庁前[35]に坐す。之れを(そし)って曰く,「汝,幻術を以て人を欺く。罪[36]大に惡(きは)まる。若し眞物を以て上に獻ぜば[37](よろ)しく其の罪を (ゆる)すべし。若し(かく)して言(いつは)らば,()さに以て重刑に處すべし」と。居士,呵々として(おほい)に笑って,荒川に()ひて曰く,「我,本より罪無し。汝主に媚び,我を殺して幅を奪ふ。其の罪,至重なり。我幸ひに(きずつ)かず,今日有るを致す。我()し死せば,汝何を以てか罪を(つぐな)ふ。幅の如きは汝が奪掠に(まか)す。我有る所ろは其の稿本[38](のみ)。汝反つて之れを匿し,主を欺くに白紙を以てす[39] 。而して其の罪を(おほ)はんとし,我を捕へて幅を求む。我,(いずく)んぞ之れを知らん」と。荒川,奮怒拷掠して實を得んと欲す[40](しか) るに上官,荒川を疑ふ。因って荒川を詰責す。兩人の紛爭,判すること能はず。(すなは)ち居士を一室に囚す。嚴に荒川を鞠訊(きくじん)[41]。荒川,口(にぶ)し。冤を辯ずること能はず。 (すこぶ)苦楚(くそ)を受く[42]。肉(ただ)れ骨折る,殆んど死に(なんな)んとす。居士,囚に在り之れを聞き,獄吏に()ひて曰く,「荒川,姦邪の小人,我之れを懲さんと欲す。 (ゆゑ)に一時酷刑を與ふ。子,上官に告げよ,實は荒川の知る所ろに非ず,我 (あきら)かに之れを告げ」と。上官,居士を召して之れを()ふ。居士曰く,「名畫靈有り[43] 。其の主に非ざれば,則ち留らず。昔し法眼元信[44] ,群雀を畫く。一二脫し去る。襖,其の痕を遺す。馬 [45] を畫けば馬,夜出て草を喰ふ。是れ皆な衆人知る所ろなり。 (おも)ふに右府,其の主に非ず,故に脫し去る(のみ)。然れども初め百金を以て價を約す。若し百金を賜はば,或いは原形(モトノスガタ)に復すること有らんか。請ふ,試みに我に百金を賜へ。若し復せずんば,速かに返し奉らん」と。右府,其の言を奇とし,則ち百金を賜ふ。幅を展ずれば,畫圖現然たり[46]。然れども(これ)を前畫に比すれば,筆勢神無く,彩澤 (はなは)(つたな)[47] ()って居士を(なじ)る。居士曰く,「前畫は則ち無價の寶なり,後畫は百金に價する者, (いづく)んぞ相ひ同じきを得んや」と。上官諸吏 (こたふ) ること能はず。遂に二人を免す。荒川の弟武一は,兄の苛責に遇うて筋骨摧折するを悲しみ,居士を讎視して之れを殺さんと欲す。 (ひそ)かに跡を追って往く。又た一 酒肆(しゅし)に飲むを見る。躍り入って之れを()る。衆皆な驚き散る。居士,牀下に (たふ)る。乃ち其の首を斷じて帛に(つつ)[48] ,併せて金を奪って去り,家に還って兄に示す。兄喜ぶ。帛を解けば,則ち一 酒壜(さかどつくり) 。二人愕然たり。其の金を見れば則ち土塊(のみ)[49] 。武一切齒し,右府に告ぐ。物色して之れを (もと)む。(べう)として知るべからず。之れを久しうして,門側に一酔人有り。横臥鼾き雷の如し。諦視すれば,則ち居士なり。急に之れを捕へて獄中に投ず。醒めず。 𪖙(コウコウ)[50] 四隣を驚かす。十余日に至る,猶ほ未だ覺めず。時に右府,安土[51]に在り,将さに西征せんとす。軍を率ゐて本能寺[52]に館す。光秀[53] 反し,右府を弑して洛政を執る。居士,仙術有るを聞き,獄を開いて之れを召す[54] 。居士漸く覺む。乃ち光秀の館に至る。光秀,酒を勧め之れを饗す。曰く,「先生,酒を好む。飲むこと 幾何(いくば)くぞ」と。曰く,「量無く,亂に及ばず」[55] と。光秀,巨盃を出して侍臣をして酒を盛らしむ。随って飲み,随つて盛る。數十盃を傾け,(ほとぎ)已に罄きたり[56]。一坐(おほい)(おどろ)く。光秀曰く,「先生未だ足らざるか」と。曰く,「少し實するを覺ゆ[57]。請ふ,一技を呈せん」と。屛に近江八景[58]を畫ける有り,舟の(おおい)さ寸余。居士,手を揚げて之れを招く。舟,揺蕩として屛を出づ [59]。大さ數尺に及ぶ。而して坐中,水溢る。 衆() 惶駭(くわうがい)す。袴を (から)げて()な立つ。 俄然として股を没す[60]。 居士,舟中に在り(かうこう) [61](しゃう)(うご)かし,悠然として去る。()く所ろを知らず。

    

   

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絵: 画工署名は「米憾」。米倦久保田寛(?)。京都生まれの日本画家・舞台芸術家(1852-1906)。『夜窓鬼談』下巻挿絵全点を担当(補注略)。屏風の画は「矢橋帰帆」の風景。

   

    

嘗て聞く,西陣(にしぢん)に片岡壽安[62] なる者有り。醫を業として頗る仙術を好む。一道士有り。壽菴を見て曰く,「子,仙骨有り,宜しく道を修すべし」と。(すなわ)ち一仙藥を授く。(おおい)棗核(ナツメノミ)の如し。之れを服すれば,身輕く神爽なり。復た穀食を(おも)はず[63] 。一日奴と爭ふ。怒ること甚だし。杖を以て之れを撃つ。(たちま)ち道士有り。「汝,俗心未だ脫せず,道に入ること能はず」と。(すなは)(にょい)を挙げて背を打つ。服する所ろの仙藥,口より出づ。道士,取って去る。是れより()た食を貪ること常の如し。或るひと曰く,「道士は則ち果心居士なり」と。

    

    

    

    

校註

[1]  『夜窓鬼談』は,明治初期の作家石川鴻斎の漢文小説80篇を収録した書であって,上下2巻からなり(石川鴻斎: 『夜窓鬼談 上巻・下巻』, 東陽堂, 東京1889 (明治22)),「果心居士黄昏艸」は下巻に含まれる。『夜窓鬼談』の和讀には,ロバート・キャンベル教授が蘊蓄を傾けた校註付の勞作があり(池澤一郎, 宮崎修多, 徳田武, ロバート・キャンベル: 『新日本古典文学大系 3 - 明治編』, 岩波書店, 2005), 本記事の「果心居士」は,その抜粋(p.307 - 312)である。但し,本文中の新漢字は正漢字に置換,註の幾つかは抄略または省略させて頂いた。

   

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書斎の鴻斎。『夜窓鬼談 上巻』口絵

   

[2] 正親町・後陽成天皇朝の年号,西暦一五七三年一九二年,織田信長・豊臣秀吉が政権を握った安土桃山時代に当たる。

[3] 戦国時代の幻術師,生没年および行状ともに未詳。

[4] 葛布の頭巾。野人,隠者の服装。「誰とはしらず異相なる老翁,葛巾野服さびくとしたていにて来り給ふ」(林義端『玉箒子』「清水寺詩事」元禄9年1696年刊)。

[5] 「アゴヒゲトホホヒゲ」(『新編漢語辞林』)。

[6] 京都の祇園社。現京都市東山区祇園町の八坂神社。祇園会(六月)とその前後の御輿洗いで知られ,都下随一の賑わいを誇った。「...至於織田氏裁定近畿,畢復旧典。於是八坂神会頗極其壮麗云」(『西京伝新記』初編「八坂神会」明治八年刊)。

[7] 地獄の種々相を図示したもので,地獄変とも言う。鬼形の獄卒による堕獄罪人の責め苦を現実味豊かに描く。「見地獄変相図,閻羅之下吏亦謂之鬼。其形額生双角,口露両牙,蛇眼獅鼻,手足皆三指,県身青赤着虎皮之褌」(『夜窓鬼ー談』上「鬼字解」)。『往生要集』等を典拠とし,中世後期から専門の絵解 (えとき)がこれを民衆に示しながら,奇談を交えて因果応報を説法した。

    

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円山応挙画,平福穂庵写「地獄変相図」 (『絵画叢誌』6号)

井口註: 彩色原図は,東京都杉並区眞盛寺に所在。「参考画像」にコピー収録。

    

[8] 「(等活地獄)或は獄卒,手に鉄杖鉄棒を執り,頭より足に至るまで,遍く皆打ち築くに,身体破れ砕くること,猶し沙瑞の如し。或は極めて利き刀を以て分々に肉を割くこと,厨者の魚肉を屠るが如し」(『往生要集』大文第一厭離穢土)。

[9] 「ニョイ」(如意)は説法・法会のときに講師が携える棒状の法具。談義の場では絵図を指したり,拍子を取るのに使う。

[10] 戦国・安土桃山時代の武将(1582)。信長が室町幕府を倒すのは天正元年(1573),近江安土の築城入部は同4年のこと。天正5年に右大臣(右府)に叙任。この話は,信長の安土入城から本能寺の変,明智光秀が自害する天正10年までの間に展開する。なお,石川鴻斉に信長の傲慢と盛衰を論した「織田信長論」(『鴻斎文鈔』三)がある。

[11] 当時の信長臣下では,荒川新八郎,天正2年9月長島攻めの最終戦に討死したと伝わる人物がある(『信長記』)。ここは虚構の人物と考えるべきか。

[12] 鑑識眼のない信長家臣が,一徹の画人狩野元信(註略)の許を訪ねる,という逸話が自習斎『扶桑名公画譜』にある(補註略)。

[13] 座っている側で,地獄変相図を掛けてみた。

[14] 「傅彩緻密」。鴻斎は自ら画家を名乗って一見識を持ち,人物画の本格的政策には緻密な画法が必要であると主張した(原註抄)。

[15] 堕獄した人間の生前の善悪を審判し,懲罰を振り充てるという冥界の主神。閻魔大王(註略)。

[16] 小栗宗湛。室町時代中期の画家(1413-81)で,足利義政時代の御用絵師として活躍。地獄変相図の作例は未詳。「小栗宗丹,足利の家臣なり。後に薙髪して相国寺に居り,周文を師とす。又牧谿を慕ひて,自牧と号す。山水人物,皆神 妙とす...」(白井華陽『画乗要略』天保3年刊)。

[17] 京都東山の名刹清水寺。十一面観音像g本尊。清玄桜姫説話の所化淸玄が修行した寺でもあり,男女が出会う機縁の場としてもたびたび用いられる。(是亦道人『桜清伝奇」文政12年(1820)刊。

[18] 一幅を献上するように,との御意。

[19] 大切な生活の元手である。「続命,イノチヲッナグ」(『雑字類編』)。

[20] 生きるのに欠かせない稼ぎが底をつく。

[21] 金百両を恵んでください。

[22] 一幅を手放すわけにはいかない。

[23] 多少の心付けをやって,居士を返した。

[24] 三尺もあるほどの刀剣。三尺の剣,三尺の秋水とも言う。

[25] 開いてみると画幅はただの真っ白い紙であった。

[26] 菅原道真を祀る北野天満宮のこと(現京都市上京区馬喰町)。

[27] 祇園社の時と同じく,説法を聴かせた人々から集めた浄財。

[28] いつの間にか行方知れずになった。果心居士説話に度々登場する奇術の一つ。

[29] ようやく七月のお盆になって。お盆のころ,人々は大寺院に雑踏するので,居士は東山へ場所替えて絵解を続けた。人々が雑踏する大寺院へ移り,絵解きをする。

[30] 往来が人や荷車でごった返す。洛中繁昌の体。「車馬憧憧諸道路,市朝滾滾共埃塵」(宋秦観「秋興九首」その七)。

[31] (註略)

[32] 京都東山西側のふもと,祇園社(八坂神社)一帯の称。江戸期以降祇園新地(維新後は八坂新地)の遊里があった。「鴨東の煙華は,祇園廟下の通備を最と為す。即ち是れ,祇園街なり。其の北に六街有り,之れに次ぐ。又板橋南北,岸に沿ふるの諸楼,各々盛んなり」(画家居士『鴨東四時雑味』文政九年(1826)序,原漢文)。

[33] 「跡ヲカヘリミズムサボルナリ」(『訳文須知』三「餐饗」)。

[34] 捕らえられ,縄を懸けられる。

[35] 罪人を裁く京都の評定所。

[36] 「此外左慈道人,我朝の果心居士,これらが技術の法は乱のもとひ,年月修錬して,何か世のたすけ身のためにもならず」(『西鶴織留』巻三の二)。

[37] もしここで本物を上様に差し出せば。

[38] 後からこしらえた粉本にすぎない。

[39] 何も描かれない,真っさらな画幅をもって主人を騙した。

[40] 拷問にかけて,事実を吐き出させてやろうとした。

[41] 逆に信長の近臣荒川氏を厳しく追求した。

[42] ひとい責め苦に遭った。

[43] 入魂の絵画が霊験を呈する説話,和漢に多い(『琅邪代酔編』十八「名画霊異」等)。霊妙の働きで絵画の画面が一瞬にして消えたり,色褪せたりするという話は,「画美人」にみえる(註略)。

[44] 古法眼狩野元信(註略)の群雀図については未詳。ただし狩野信政が京都知恩院大方丈に描いた襖絵で,雀数羽が画面から飛び去ったという「抜け雀」の伝説は有名で,これと混同したか。なお落語「抜け雀」は,相州小田原宿で無一文の狩野派画家が投宿して,宿代の代わりに雀の絵を衝立に描き残したが,その雀が毎朝抜け出ては元に帰るという咄である。

[45] 禁裏の渡殿に描いた馬が夜抜出て,萩の戸の萩を食べ,また田に出ては稲を食べたという説話が『古近著聞集』巻11にある。

[46] 目の前に現前した。

[47] 「画美人」で,主人公藤子華が結納を交わした日の,「画美人,是れより生気無し。彩工艶なりと雖とも,尋常の俗画,甚だ賞すべき者に非ざるなり」(註略)というくだりと呼応する。

[48] ふろしきに包んで。

[49] 与えられた金品が土塊に化するとは,ふだん狐狸等の業である。「僕楼に登れば,果して紙妻有り。啓いて之れを見れば,木葉耳。筐を開けば,土塊と馬矢と耳」(「狐証酒肆」190頁15行)。

[50] 大音量のいびきで近所もびっくり。「鼻事齁齁」(『雑字類編』)

[51] 307頁注一八。

[52] 京都四条坊門西洞院にあった法華宗本門流の寺院(現在は移転して京都市中京区寺町通)。信長は天正10年(1582)5月29日に安土を発ってここに投宿。

[53] 信長に仕え,丹波亀山城主となった安土時代の武将・明智光秀(1528?-82)。右同年6月1日夜,一万三千の軍を率いて出陣し,翌朝本能寺を襲撃,信長を自刃させた。本能寺の変。光秀自身,山崎での敗戦後,同月13日に小栗栖(現京都市伏見区内)で襲撃され自刃。「若光秀(松永)久秀殺親弑君者,謂之何耶,然則如二人者,勝餓虎貪狼百倍焉,右府養之不怪,嗚呼亦右府同其性者欺」(石川鴻斎「明智光秀論」『鴻斎文鈔』三)。

[54] 牢獄から引き出させて。

[55] 「惟だ酒は量無し,乱に及ばず」(『論語』郷党)による。酒は決まった量は無く,乱れない 程度に飲むことにする,という孔子の言。「此はこれ聖人,心の欲する所にしたがへとも,矩をこえざるによりて,をのづからかくの如し,常人は必(ず)ふかくいましめて,その気血をみだるにも至るべからず」(中村楊斎『論語示蒙句解』)。

[56] 瓶の酒はもう底を突いていた。

[57] 少しは落ち着いたと思う。

[58] 琵琶湖周辺の景勝地を,中国の瀟湘八景に擬して選んだもので,詩歌や画題として有名。絵画の作例は近世に入ってからのものが多い。粟津晴嵐・瀬田夕照・三井晩鐘・唐崎夜雨・矢橋帰帆・石山秋月・堅田落雁・比良春雪である(『類聚名物考』)。この前後の話,類話に『玉箒子』「果心居士幻術の事」がある(補注略)。

果心居士幻術の事」 『玉箒子』巻3

[59] 「画美人」が絵画から滑り出して主人公の前に出現する趣向と共通する。ラフカディオ・ハーン「果心居士の話」,この船のシーンを丁寧に潤色(補注略)。

[60] 突然股のあたりまで水に浸かった。

[61] 「フネノサヲサシ」(『雑字類編』)。船頭。この趣向,船中「櫓を推して」海上へ消え去ろうとする「続黄薬」の三人義兄弟の悪夢に似ている。

[62] 未詳。次行「寿庵」は底本のまま。

[63] ご飯を食べたいと思わなくなる。