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きりしとほろ上人傳

芥川龍之介

(井口正俊・註)

イラストは第2版から

    

    

小序

    これは予が ( かつ) て三田文學誌上に掲載した「奉敎人の死」と同じく,予が所藏の切支丹版「れげんだ・おうれあ」の一章に,多少の潤色を加へたものである。但し「奉敎人の死」は本邦西(せい)敎徒の逸事であつたが,「きりしとほろ上人傳(しやうにんでん)」は古來(あまね)く歐洲天主敎國に流布(るふ)した聖人行状記の一種であるから,予の「れげんだ・おうれあ」の紹介も,彼是(ひし)相俟(あひま)つて始めて全豹(ぜんぺう)彷彿(はうふつ)する事が出來るかも知れない。

    傳中殆ど滑稽に近い時代錯誤や場所錯誤が續出するが,予は原文の時代色を損ふまいとした結果,わざと何等の筆削(ひつさく)をも施さない事にした。大方の諸君子にして,予が常識の有無を疑はれなければ幸甚である。

    

一 山ずまひのこと

    遠い昔のことでおぢやる。「しりあ」の國の山奥に,「れぷろぼす」と申す山男がおぢやつた。その頃「れぷろぼす」ほどな大男は,御主(おんあるじ)の日輪の照らさせ給ふ(あめ)が下はひろしと云へ,絶えて一人もおりなかつたと申す。まづ身の丈は三丈あまりもおぢやらうか。葡萄蔓(えびかづら)かとも見ゆる髪の中には,いたいけな四十雀(しじふから)が何羽とも知れず巢食うて居つた。まいて手足はさながら深山(みやま)の松檜にまがうて,足音は七つの谷々にも(こだま)するばかりでおぢやる。さればその日の(かて)(あさ)らうにも,鹿熊なんどのたぐひをとりひしぐは,指の先の一ひねりぢや。又は折ふし海べに下り立つて,すなどらうと思ふ時も,海松房(みるぶさ)ほどな(ひげ)の垂れた(おとがひ)をひたと砂につけて,ある程の水を一吸ひ吸へば,(たひ)(かつを)尾鰭(おびれ)をふるうて,ざはざはと口へ流れこんだ。ぢやによつて沖を通る廻船さへ,時ならぬ潮のさしひきに漂はされて,水夫(かこ)楫取(かんどり)(あわ)てふためく事もおぢやつたと申し傳へた。

    なれど「れぷろぼす」は,性得(しやうとく)心根(こころね)のやさしいものでおぢやれば,山ずまひの(そま)獵夫(かりうど)は元より,往來の旅人にも害を加へたと申す事はおりない。(かへ)つて(そま)()りあぐんだ樹は推し倒し,獵夫(かりうど)の追ひ失うた獸物(けもの)はとつておさへ,旅人の負ひなやんだ荷は肩にかけて,なにかと親切をつくいたれば,遠近(をちこち)の山里でもこの山男を憎まうずものは,誰一人おりなかつた。中にもとある一村では,羊飼のわらんべが行き方知れずになつた折から,夜さりそのわらんべの親が家の引き窓を推し開くものがあつたれば,驚きまどうて上を見たに,()ほどな「れぷろぼす」の(たなごころ)が,よく眠入(ねい)つたわらんべをかいのせて,星空の下から悠々と下りて來たこともおぢやると申す。何と山男にも似合ふまじい,殊勝な心映えではおぢやるまいか。

    されば山賤(やまがつ)たちも「れぷろぼす」に出合へば,餅や酒などをふるまうて,へだてなく語らふことも度々おぢやつた。さるほどにある日のこと,(そま)の一むれが樹を伐らうずとて,檜山(ひやま)ふかくわけ入つたに,この山男がのさのさと熊笹の奥から現れたれば,もてなし心に落葉を()いて,徳利の酒を暖めてとらせた。その(しづく)ほどな徳利の酒さへ,「れぷろぼす」は大きに(よろこ)んだけしきで,頭の中に巢食うた四十雀にも,杣たちの()み殘いた飯をばらまいてとらせながら,大あぐらをかいて申したは,

「それがしも人間と生れたれば,あつぱれ功名手がらをも致いて,末は大名ともならうずる。」と云へば,杣たちも打ち興じて,

道理(ことわり)かな。おぬしほどの力量があれば,城の二つ三つも攻め落さうは,片手業(かたてわざ)にも足るまじい。」と云うた。その時「れぷろぼす」が,ちともの案ずる(てい)で申すやうは,

「なれどここに一つ,難儀なことがおぢやる。それがしは日頃山ずまひのみ致いて居れば,どの殿の旗下(はたもと)に立つて,合戰を(つかまつ)らうやら,とんと分別を致さうやうもござない。就いては當今天下無双の強者(つはもの)と申すは,いづくの國の大將でござらうぞ。誰にもあれそれがしは,その殿の馬前に()せ參じて,忠節をつくさうずる。」と問うたれば,

「さればその事でおぢやる。まづわれらが料簡にては,今(あめ)が下に『あんちおきや』 [1](みかど)ほど,武勇に富んだ大將もおぢやるまい。」と答へた。山男はそれを聞いて,(ななめ)ならず悅びながら,

「さらばすぐさま,打ち立たうず。」とて,小山のやうな身を(おこ)いたが,ここに不思議がおぢやつたと申すは,頭の中に巢食うた四十雀(しじふから)が,一時にけたたましい羽音を殘いて,空に網を張つた森の(こずゑ)へ,(ひな)も余さず飛び立つてしまうた事ぢや。それが斜に枝を(のば)いた檜のうらに上つたれば,とんとその樹は四十雀が實のつたやうぢやとも申さうず。「れぷろぼす」はこの四十雀のふるまひを,(いぶか)しげな眼で眺めて居つたが,やがて又初一念を思ひ起いた顔色(かほいろ)で,足もとにつどうた(そま)たちにねんごろな別をつげてから,再び森の熊笹を踏み開いて,元來たやうにのしのしと,山奥へ獨り()んでしまうた。

    されば「れぷろぼす」が大名にならうず願望がことは,間もなく遠近(をちこち)の山里にも知れ渡つたが,ほど經て又かやうな(うはさ)が,風のたよりに傳はつて參つた。と申すは國ざかひの湖で,大ぜいの漁夫(れふし)たちが泥に吸はれた大船をひきなづんで居つた所に,怪しげな山男がどこからか現れて,その船の帆柱をむずとつかんだと見てあれば,苦もなく岸へひきよせて,一同の驚き呆れるひまに,早くも姿をかくしたと云ふ噂ぢや。ぢやによつて「れぷろぼす」を見知つたほどの山賤(やまがつ)たちは,皆この情ぶかい山男が,(いよいよ)「しりや」の國中から退散したことを悟つたれば,西空に屏風(びやうぶ)を立てまはした山々の峰を仰ぐ毎に,限りない名殘りが惜しまれて,(おのづか)らため息がもれたと申す。まいてあの羊飼のわらんべなどは,夕日が山かげに沈まうず時は,(かならず)村はづれの一本杉にたかだかとよぢのぼつて,下につどうた羊のむれも忘れたやうに,「れぷろぼす」恋しや,山を越えてどち行つたと,かなしげな聲で呼びつづけた。さてその後「れぷろぼす」が,如何なる仕合せにめぐり合うたか,右の一條を知らうず方々はまづ次のくだりを讀ませられい。

    

二 俄大名のこと

    さるほどに「れぷろぼす」は,難なく「あんちおきや」の城裡(じやうり)に參つたが,田舎(ゐなか)の山里とはこと變り,この「あんちおきや」の都と申すは,この頃(あめ)が下に並びない繁華の土地がらゆゑ,山男が(ちまた)へはいるや否や,見物の男女(なんによ)(おびただ)しうむらがつて,はては通行することも出來まじいと思はれた。されば「れぷろぼす」もとんと行かうず方角を失うて,人波に腰を()まれながら,とある大名小路の辻に立ちすくんでしまうたに,折よくそこへ來かかつたは,(みかど)御輦(ぎよれん)をとりまいた,侍たちの行列ぢや。見物の群集(ぐんじゆ)はこれに先を追はれて,山男を一人殘いた(まま),見る見る四方へ遠のいてしまうた。ぢやによつて「れぷろぼす」は,大象の足にまがはうずしたたかな手を大地について,御輦の前に頭を下げながら,

「これは『れぷろぼす』と申す山男でござるが,唯今『あんちおきや』の帝は,天下無双の大將と承り,御奉公申さうずとて,はるばるこれまでまかり上つた。」と申し入れた。これよりさき,帝の同勢も,「れぷろぼす」の姿に(きも)をけして,先手は既に(やり)薙刀(なぎなた)(さや)をも払はうずけしきであつたが,この殊勝な(ことば)を聞いて,異心もあるまじいものと思ひつらう,とりあへず行列をそこに止めて,供頭(ともがしら)の口からその趣をしかじかと帝へ奏聞(そうもん)した。帝はこれを(きこ)し召されて,

「かほどの大男のことなれば,一定(いちぢやう)武勇も人に超えつらう。召し抱へてとらせい。」と,仰せられたれば,格別の詮議とあつて,すぐさま同勢の内へ加へられた。「れぷろぼす」の悅びは申すまでもあるまじい。ぢやによつて帝の行列の後から,三十人の力士もえ()くまじい長櫃(ながびつ)十棹(とさを)の宰領を承つて,ほど近い御所の門まで,鼻たかだかと御供仕つた。まことこの時の「れぷろぼす」が,山ほどな長櫃を肩にかけて,行列の人馬を目の下に見下しながら,大手をふつてまかり通つた異形(いぎやう)奇體の姿こそ,目ざましいものでおぢやつたらう。

    さてこれより「れぷろぼす」は,漆紋(うるしもん)麻裃(あさがみしも) [2] に朱鞘の長刀(なががたな)を横たへて,朝夕(あさゆふ)「あんちおきや」の帝の御所を守護する役者の身となつたが,(さいはひ)ここに功名手がらを(あらは)さうず時節が到來したと申すは,ほどなく隣國の大軍がこの都を攻めとらうと,一度に押し寄せて參つたことぢや。元來この隣國の大將は,獅子王をも手打ちにすると聞えた,萬夫不當(ばんぷふたう)の剛の者でおぢやれば,「あんちおきや」の帝とても,なほざりの合戰はなるまじい。ぢやによつて今度の先手(さきて)は,今まゐりながら「れぷろぼす」に仰せつけられ,帝は御自(おんみづか)ら本陣に御輦(ぎよれん)をすすめて,号令を(つかさど)られることとなつた。この采配を承つた「れぷろぼす」が,悅び身にあまりて,足の踏みども覺えなんだは,毛頭無理もおぢやるまい。

  やがて味方も整へば,帝は,「れぷろぼす」をまつさきに,貝金(かひがね)陣太鼓 [3]音も勇しう,國ざかひの野原に繰り出された。かくと見た敵の軍勢は,元より望むところの合戰ぢやによつて,なじかは寸刻もためらはう。野原を(おほ)うた旗差物が,(にはか)に波立つたと見てあれば,一度にどつと(とき)をつくつて,今にも懸け合はさうずけしきに見えた。この時「あんちおきや」の人數の中より,一人悠々と進み()いたは,別人でもない「れぷろぼす」ぢや。山男がこの日の()で立ちは,水牛の(かぶと)に南蠻鐵 [4](よろひ)着下(きおろ)いて,刃渡り七尺の大薙刀(おほなぎなた)()みじかにおつとつたれば,さながら城の天主に魂が宿つて,大地も狹しと揺ぎ(いだ)いた如くでおぢやる。さるほどに「れぷろぼす」は両軍の唯中に立ちはだかると,その大薙刀をさしかざいて,(はるか)に敵勢を招きながら,(いかづち)のやうな聲で(よば)はつたは,

「遠からんものは音にも聞け,近くばよつて目にも見よ。これは『あんちおきや』の帝が陣中に,さるものありと知られたる『れぷろぼす』と申す剛の者ぢや。(かたじけな)くも今日は先手の大將を承り,ここに軍を(いだ)いたれば,われと思はうずるものどもは,近う寄つて勝負せよやつ。」と申した。その武者ぶりの凄じさは,昔「ぺりして」の豪傑に「ごりあて」と聞えたが,鱗綴(うろことぢ)の大鎧に(あかがね)(ほこ)(ひつさ)げて,百萬の大軍を叱陀(しつた)したにも,劣るまじいと見えたれば,さすが隣國の精兵たちも,しばしがほどは(なり)を靜めて,出で合うずものもおりなかつた[5]ぢやによつて敵の大將も,この山男を討たいでは,かなふまじいと思ひつらう。美美しい物の具に三尺の太刀をぬきかざいて,龍馬(りゆうめ)に泡を()ませながら,これも大音に名乗りをあげて,まつしぐらに「れぷろぼす」へ打つてかかつた。なれどもこなたはものともせいで,大薙刀をとりのべながら,二太刀三太刀あしらうたが,やがて得物をからりと捨てて,猿臂(ゑんぴ)をのばいたと見るほどに,早くも敵の大將を鞍壺(くらつぼ)からひきぬいて,目もはるかな大空へ,(つぶて)の如く投げ飛ばいた。その敵の大將がきりきりと宙に舞ひながら,味方の陣中へどうと落ちて,亂離骨灰(らりこつぱひ)になつたのと,「あんちおきや」の同勢が鯨波(とき)の聲を轟かいて,帝の御輦(ぎよれん)を中にとりこめ,雪崩(なだれ)の如く攻めかかつたのとが,(かん)(はつ)をも入れまじい,殆ど同時の働きぢや。されば隣國の軍勢は,一たまりもなく浮き足立つて,武具馬具のたぐひをなげ捨てながら,四分五裂に落ち()せてしまうた。まことや「あんちおきや」の帝がこの日の大勝利は,味方の手にとつた兜首(かぶとくび)の數ばかりも,一年の日數よりは多かつたと申すことでおぢやる [6]

    ぢやによつて帝は御悅び斜ならず,目でたく凱歌の(うち)(いくさ)をめぐらされたが,やがて「れぷろぼす」には大名の位を加へられ,その上諸臣にも一々勝利の宴を賜つて,ねんごろに勲功をねぎらはれた。その勝利の宴を賜つた夜のことと思召(おぼしめ)されい。當時國々の形儀(かたぎ)とあつて,その夜も高名(かうみやう)な琵琶法師 [7]が,大燭臺の火の下に節面白う(げん)を調じて,今昔(いまむかし)の合戰のありさまを,手にとる如く物語つた。この時「れぷろぼす」は,かねての大願を成就したことでおぢやれば,(よだれ)も垂れようずばかり笑み傾いて,余念もなく珍陀(ちんた)の酒[8]()みかはいてあつた所に,ふと酔うた眼にもとまつたは,錦の幔幕(まんまく)を張り渡いた正面の御座にわせられる(みかど)の異な御ふるまひぢや。何故と申せば,檢校(けんげう)のうたふ物語の中に,惡魔(ぢやぼ)と云ふ言葉がおぢやると思へば,帝はあわただしう御手をあげて,必ず十字の(しるし)を切らせられた。その御ふるまひが()しからずものものしげに見えたれば,「れぷろぼす」は同席の侍に,

「何として帝は,あのやうに十字の印を切らせられるぞ。」と,率爾(そつじ)ながら尋ねて見た所がその侍の答へたは,

「聰じて惡魔(ぢやぼ)と申すものは,(あめ)が下の人間をも(たなごころ)にのせて(もてあそ)ぶ,大力量のものでおぢやる。ぢやによつて帝も,惡魔(ぢやぼ)障碍(しやうげ)を払はうずと思召され,再三十字の印を切つて,御身を守らせ給ふのぢや。」と申した。「れぷろぼす」はこれを聞いて,迂論(うろん)げに又問ひ返したは,

「なれど今『あんちおきや』の帝は,(あめ)が下に並びない大剛の大將と承つた。されば惡魔(ぢやぼ)も帝の御身には,一指をだに加へまじい。」と申したが,侍は首をふつて,

「いや,いや,帝も,惡魔(ぢやぼ)ほどの御威勢はおぢやるまい。」と答へた。山男はこの答を聞くや否や,大いに憤つて申したは,

「それがしが帝に随身し奉つたは,天下無双の強者(つはもの)は帝ぢやと承つた故でおぢやる。しかるにその帝さへ,惡魔(ぢやぼ)には腰を曲げられるとあるなれば,それがしはこれよりまかり出でて,惡魔(ぢやぼ)の臣下と相成らうず。」と(わめ)きながら,ただちに珍陀の盃を(なげう)つて,立ち上らうと致いたれば,一座の侍はさらいでも,「れぷろぼす」が今度の功名を(ねた)ましう思うて居つたによつて,

「すは,山男が謀叛(むほん)するわ。」と異口同音に(ののし)り騒いで,やにはに四方八方から(から)めとらうと競ひ立つた。もとより「れぷろぼす」も日頃ならば,さうなくこの侍だちに組みとめられう筈もあるまじい。なれどもその夜は珍陀の(ゑひ)に前後も不覺の(てい)ぢやによつて,しばしがほどこそ多勢を相手に,組んづほぐれつ,()み合うても居つたが,やがて足をふみすべらいて,思はずどうとまろんだれば,えたりやおうと侍だちは,いやが上にも折り重つて,怒り狂ふ「れぷろぼす」を高手小手に(くく)り上げた。帝もことの(てい)たらくを始終殘らず御覧(ごらう)ぜられ,

「恩を(あだ)で返すにつくいやつめ。匇匇(そうそう)土の牢へ投げ入れい。」と,大いに逆鱗(げきりん)あつたによつて,あはれや「れぷろぼす」はその夜の内に,見るもいぶせい地の底の牢舎へ,禁獄せられる身の上となつた。さてこの「あんちおきや」の牢内に(とら)はれとなつた「れぷろぼす」が,その後如何なる仕合せにめぐり合うたか,右の一條を知らうず方々は,まづ次のくだりを讀ませられい。

 

三 魔往來のこと

    さるほどに「れぷろぼす」は,(いま)だ繩目もゆるされいで,土の牢の(やみ)の底へ,投げ入れられたことでおぢやれば,しばしがほどは赤子のやうに,唯おうおうと聲を上げて,泣き(わめ)くより外はおりなかつた。その時いづくよりとも知らず,()(ころも)をまとうた學匠(がくしやう)が,忽然(こつねん)と姿を(あらは)いて,やさしげに問ひかけたは,

如何(いか)に『れぷろぼす』。おぬしは何として,かやうな所に居るぞ。」とあつたれば,山男は今更ながら,瀧のやうに涙を流いて,

「それがしは,帝に(そむ)き奉つて,惡魔(ぢやぼ)に仕へようずと申したれば,かやうに牢舎致されたのでおぢやる。おう,おう,おう。」と歎き立てた。學匠はこれを聞いて,再びやさしげに尋ねたは,

「さらばおぬしは,今もなほ惡魔(ぢやぼ)に仕へようず望がおりやるか。」と申すに,「れぷろぼす」は(かうべ)(たて)に動かいて,

「今もなほ,仕へようずる。」と答へた。學匠は大いにこの返事を悅んで,土の牢も鳴りどよむばかり,からからと笑ひ興じたが,やがて三度やさしげに申したは,

「おぬしの所望は,近頃殊勝千萬ぢやによつて,これよりただちに牢舎を(ゆる)いてとらさうずる。」とあつて,身にまとうた緋の袍を,「れぷろぼす」が上に蔽うたれば,不思議や聰身の(いまし)めは,(ことごと)くはらりと切れてしまうた。山男の驚きは申すまでもあるまじい。されば恐る恐る身を起いて,學匠の顔を見上げながら,慇懃(いんぎん)に禮を()いて申したは,

「それがしが繩目を赦いてたまはつた御恩は,生々世々(しやうじやうよよ)忘却つかまつるまじい。なれどもこの土の牢をば,何として忍び出で申さうずる。」と云うた。學匠はこの時又えせ笑ひをして,

「かうすべいに,なじかは難からう。」と申しも(はて)ず,やにはに緋の袍の袖をひらいて,「れぷろぼす」を小脇に(かか)いたれば,見る見る足下が暗うなつて,もの狂ほしい一陣の風が吹き起つたと思ふほどに,二人は何時(いつ)か宙を踏んで,牢舎を後に飄々(へうへう)と「あんちおきや」の都の夜空へ,火花を(とば)いて舞ひあがつた。まことやその時は學匠の姿も,折から沈まうず月を背負うて,さながら怪しげな大蝙蝠(おほかはほり)が,黑雲の翼を一文字に飛行(ひぎやう)する如く見えたと申す。

    されば「れぷろぼす」は(いよいよ)膽を()いて,學匠もろとも中空を射る矢のやうに(かけ)りながら,(をのの)く聲で尋ねたは,

「そもそもごへんは,何人でおぢやらうぞ。ごへんほどな大神通(だいじんづう)の博士は,世にも又とあるまじいと覺ゆる。」と申したに,學匠は忽ち底氣味惡いほくそ笑みを洩しながら,わざとさりげない聲で答へたは,

「何を隠さう,われらは,(あめ)が下の人間を(たなごころ)にのせて(もてあそ)ぶ,大力量の剛の者ぢや。」とあつたによつて,「れぷろぼす」は始めて學匠の本性が,惡魔(ぢやぼ)ぢやと申すことに合點(がてん)が參つた。さるほどに惡魔(ぢやぼ)はこの問答の間さへ,妖靈星の流れる如く,ひた走りに宙を走つたれば,「あんちおきや」の都の燈火(ともしび)も,今ははるかな闇の底に沈みはてて,やがて足もとに浮んで參つたは,音に聞く「えじつと」の沙漠でおぢやらう。幾百里とも知れまじい砂の原が,有明の月の光の中に,夜目にも白々と見え渡つた。この時學匠は爪長な指をのべて,下界をゆびさしながら申したは,

「かしこの藁屋(わらや)には,さる有驗(うげん)の隠者が住居(すまひ)致いて居ると聞いた。まづあの屋根の上に下らうずる。」とあつて,「れぷろぼす」を小脇に抱いた(まま),とある沙山(すなやま)陰のあばら家の(むね)へ,ひらひらと空から舞ひ下つた [9]

(『新小説』,春陽堂,1919(大正8)年第廿四年第三號)

    

(承前)

   

こなたはそのあばら家に行ひすまいて居つた隠者の(おきな)ぢや。折から夜のふけたのも知らず,油火(あぶらび)のかすかな光の下で,御經(おんきやう)讀誦(どくじゆ)し奉つて居つたが,(たちま)ちえならぬ香風が吹き渡つて,雪にも(まが)はうず櫻の花が紛々と(ひるがへ)(いだ)いたと思へば,いづくよりともなく一人の傾城(けいせい)が,鼈甲(べつかふ)(くし)(かうがい)を円光の如くさしないて,地獄繪を()うた(うちかけ)(もすそ)を長々とひきはえながら,天女のやうな(こび)(こら)して,夢かとばかり眼の前へ現れた。翁はさながら「えじつと」の沙漠が,片時の内に室神崎(むろかんざき)(くるわ)に變つたとも思ひつらう。あまりの不思議さに我を忘れて,しばしがほどは惚々(ほれぼれ)傾城(けいせい)の姿を見守つて居つたに,相手はやがて花吹雪(はなふぶき)を身に浴びながら,につこと微笑(ほほゑ)んで申したは,

「これは『あんちおきや』の都に隠れもない遊びでおぢやる。近ごろ御僧のつれづれを慰めまゐらせうと存じたれば,はるばるこれまでまかり下つた。」とあつた。その聲ざまの美しさは,極楽に()むとやら承つた伽陵頻伽(かりようびんが) [10] にも劣るまじい。さればさすがに有驗(うげん) [11]隠者もうかとその手に乗らうとしたが,思へばこの眞夜中に幾百里とも知らぬ「あんちおきや」の都から,傾城(けいせい)などの來よう筈もおぢやらぬ。さては又しても惡魔(ぢやぼ)めの惡巧みであらうずと心づいたによつて,ひたと御經に眼を(さら)しながら,専念に陀羅尼(だらに)()し奉つて居つたに,傾城はかまへてこの隠者の翁を落さうと心にきはめつらう。蘭麝(らんじや) [12]

薫を漂はせた綺羅(きら)の袂を(もてあそ)びながら,嫋々(たよたよ)としたさまで,さも恨めしげに歎いたは,

如何(いか)に遊びの身とは申せ,千里の山河も(いと)はいで,この沙漠までまかり下つたを,さりとは(きよく)もない御方かな。」と申した。その姿の(たへ)にも美しい事は,散りしく櫻の花の色さへ消えようずると思はれたが,隠者の翁は遍身(へんしん)に汗を流いて,降魔の呪文を讀みかけ讀みかけ,かつふつその惡魔(ぢやぼ)の申す事に耳を借さうず氣色(けしき)すらおりない。されば傾城もかくてはなるまじいと氣を(いらだ)つたか,つと地獄繪の(もすそ)(ひるがへ)して,斜に隠者の膝へとすがつたと思へば,

「何としてさほどつれないぞ。」と,よよとばかりに泣い口説(くど)いた。と見るや否や隠者の翁は,(さそり)に刺されたやうに躍り上つたが,早くも肌身につけた十字架(くるす)をかざいて,霹靂(はたたがみ)の如く(ののし)つたは,

業畜(ごふちく)御主(おんあるじ)『えす・きりしと』の下部(しもべ)に向つて無禮(むらい)あるまじいぞ。」と申しも果てず,てうと傾城の(おもて)を打つた。打たれた傾城は落花の中に,なよなよと伏しまろんだが,忽ちその姿は見えずなつて,唯一むらの黑雲が湧き起つたと思ふほどに,怪しげな火花の雨が(つぶて)の如く亂れ飛んで,

「あら,痛や。又しても十字架(くるす)に打たれたわ。」と(うめ)く聲が,次第に家の(むね)にのぼつて消えた。もとより隠者はかうあらうと心に()して居つたによつて,この間も秘密の眞言(しんごん)を絶えず聲高(こわだか)()し奉つたに,見る見る黑雲も薄れれば,櫻の花も降らずなつて,あばら家の中には又もとの如く,油火ばかりが殘つたと申す。 [13]

   

なれど隠者は惡魔(ぢやぼ)障碍(しやうげ)(なほ)もあるべいと思うたれば,夜もすがら御經の力にすがり奉つて,目蓋(まぶた)も合はさいで(あか)いたに,やがてしらしら明けと覺しい頃,誰やら柴の(とぼそ)をおとづれるものがあつたによつて,十字架(くるす)を片手に立ち出でて見たれば,これは又何ぞや,藁屋の前に(うづくま)つて,(うやうや)しげに時儀(じぎ)を致いて居つたは,天から降つたか,地から湧いたか,小山のやうな大男ぢや。それが早くも(あけ)を流いた空を黑々と肩にかぎつて,隠者の前に頭を下げると,恐る恐る申したは,

「それがしは『れぷろぼす』と申す『しりや』の國の山男でおぢやる。ちかごろふつと惡魔(ぢやぼ)下部(しもべ)と相成つて,はるばるこの『えじつと』の沙漠まで參つたれど,惡魔(ぢやぼ)御主(おんあるじ)『えす・きりしと』とやらんの御威光には叶ひ難く,それがし一人を殘し置いて,いづくともなく逐天(ちくてん)致いた。自體それがしは今天が下に並びない大剛の者を尋ね出いて,その身内に仕へようずる志がおぢやるによつて,何とぞこれより後は不束(ふつつか)ながら,御主『えす・きりしと』の下部の數へ御加へ下されい。」と云うた。隠者の翁はこれを聞くと,あばら家の門に(たたず)みながら,俄に眉をひそめて答へたは,

「はてさて,せんない仕宜(しぎ)になられたものかな。聰じて惡魔(ぢやぼ)の下部となつたものは,枯木に薔薇の花が咲かうずるまで,御主『えす・きりしと』に知遇し奉る時はござない。」とあつたに,「れぷろぼす」は又ねんごろに頭を下げて,

「たとへ幾千歳を經ようずるとも,それがしは初一念を貫かうずと決定(けつぢやう)致いた。さればまづ御主『えす・きりしと』の御意(みこころ)に叶ふべい仕業の段々を敎へられい。」と申した。所で隠者の翁と山男との間には,かやうな問答がしかつめらしうとり交されたと申す事でおぢやる。

「ごへんは御經(おんきやう)の文句を心得られたか。」

生憎(あいにく)一字半句の心得もござない。」

「ならば斷食は出來申さうず。」

如何(いか)なこと,それがしは聞えた大飯食ひでおぢやる。中々斷食などはなるまじい。」

「難儀かな。夜もすがら眠らいで居る事は如何あらう。」

「如何なこと,それがしは聞えた大寢坊でおぢやる。中々眠らいでは居られまじい。」

    それにはさすがの隠者の翁も,ほとほと(ことば)のつぎ穂さへおぢやらなんだが,やがて(たなごころ)をはたと打つて,したり顔に申したは,

「ここを南に去ること一里がほどに,流沙河(りうさが) [14]申す大河がおぢやる。この河は水嵩(みづかさ)も多く,流れも矢を射る如くぢやによつて,日頃から人馬の渡りに難儀致すとか承つた。なれどごへんほどの大男には,容易(たやす)徒渉(かちわた)りさへならうずる。さればごへんはこれよりこの河の渡し守となつて,往來の諸人を渡させられい。おのれ人に(あつ)ければ,天主も亦おのれに篤からう道理(ことわり)ぢや。」とあつたに,大男は大いに勇み立つて,

「如何にも,その流沙河とやらの渡し守になり申さうずる。」と云うた。ぢやによつて隠者の翁も,「れぷろぼす」が殊勝な志をことの外(よろこ)んで,

()らば唯今,御水(おんみづ)を授け申さうずる。」とあつて,おのれは水瓶(みづがめ)をかい抱きながら,もそもそと藁家の棟へ這ひ上つて,(やうや)く山男の頭の上へその水瓶の水を注ぎ下いた。ここに不思議がおぢやつたと申すは,得度(とくど)の御儀式が終りも果てず,折からさし上つた日輪の爛々(らんらん)と輝いた眞唯中から,何やら雲氣がたなびいたかと思へば,忽ちそれが數限りもない四十雀(しじふから)の群となつて,空に(そび)えた「れぷろぼす」が(くさむら)ほどな頭の上へ,ばらばらと舞ひ下つたことぢや。この不思議を見た隠者の翁は,思はず御水を授けようず方角さへも忘れはてて,うつとりと朝日を仰いで居つたが,やがて(うやうや)しく天上を伏し拝むと,家の棟から「れぷろぼす」をさし招いて,

勿體(もつたい)なくも御水を頂かれた上からは,向後(かうご)『れぷろぼす』を改めて,『きりしとほろ』と名のらせられい。思ふに天主もごへんの信心を深う(よみ)させ給ふと見えたれば,萬一勤行(ごんぎやう)懈怠(けたい)あるまじいに於ては,必定(ひつぢやう)遠からず御主『えす・きりしと』の御尊體をも拝み奉らうずる。」と云うた。さて「きりしとほろ」と名を改めた「れぷろぼす」が,その後如何なる仕合せにめぐり合うたか,右の一條を知らうず方々はまづ次のくだりを讀ませられい。

   

四 往生のこと

    さるほどに「きりしとほろ」は隠者の翁に別れを告げて,流沙河のほとりに參つたれば,まことに濁流滾滾(こんこん)として,岸べの靑蘆(あをあし)(そよ)がせながら,百里の波を翻すありさまは,容易(たやす)く舟さへ通ふまじい。なれど山男は身の丈(およ)そ三丈あまりもおぢやるほどに,河の眞唯中を越す時さへ,水は僅に(ほぞ)のあたりを渦巻きながら流れるばかりぢや。されば「きりしとほろ」はこの河べに,ささやかながら(いほり)を結んで,時折渡りに(なや)むと見えた旅人の影が眼に觸れれば,すぐさまそのほとりへ歩み寄つて,「これはこの流沙河の渡し守でおぢやる。」と申し入れた。もとより並並の旅人は,山男の恐しげな姿を見ると,如何なる天魔波旬(てんまはじゆん)かと(はじめ)は膽も()いて逃げのいたが,やがてその心根のやさしさもとくと合點(がてん)行つて,「然らば御世話に相成らうず。」と,おづおづ「きりしとほろ」の(せな)にのぼるが常ぢや。所で「きりしとほろ」は旅人を肩へゆり上げると,毎時(いつ)(みぎは)の柳を根こぎにしたしたたかな杖をつき立てながら,逆巻く流れをことともせず,ざんざざんざと水を分けて,難なく向うの岸へ渡いた。しかもあの四十雀(しじふから)は,その間さへ何羽となく,さながら楊花(やうくわ)の飛びちるやうに,絶えず「きりしとほろ」の頭をめぐつて,嬉しげに(さへづ)(かは)いたと申す。まことや「きりしとほろ」が信心の(かたじけな)さには,無心の小鳥も随喜の思にえ堪へなんだのでおぢやらうず。

    かやう致いて「きりしとほろ」は,風雨も厭はず三年が間,渡し守の役目を勤めて居つたが,渡りを尋ねる旅人の數は多うても,御主「えす・きりしと」らしい御姿には,絶えて一度も知遇せなんだ。が,その三年目の或夜のこと,折から凄じい嵐があつて,神鳴りさへおどろと鳴り渡つたに,山男は四十雀と庵を守つて,すぎこし方のことどもを夢のやうに思ひめぐらいて居つたれば,忽ち車軸を流す雨を壓して,いたいけな聲が響いたは,

「如何に渡し守はおりやるまいか。その河一つ渡して給はれい。」と,聞え渡つた。されば「きりしとほろ」は身を起いて,外の闇夜へ揺ぎ(いだ)いたに,如何なこと,河のほとりには,年の頃もまだ十には足るまじい,みめ淸らかな白衣(びやくえ)のわらんべが,空をつんざいて飛ぶ稲妻の中に,頭を()れて唯ひとり,佇んで居つたではおぢやるまいか。山男は稀有(けう)の思をないて,千引(ちびき)の巖にも劣るまじい大の體をかがめながら,慰めるやうに問ひ尋ねたは,

「おぬしは何としてかやうな夜更けにひとり歩くぞ。」と申したに,わらんべは悲しげな瞳をあげて,

「われらが父のもとへ歸らうとて。」と,もの思はしげな聲で返答した。もとより「きりしとほろ」はこの答を聞いても,一向不審は晴れなんだが,何やらその渡りを急ぐ容子(ようす)があはれにやさしく覺えたによつて,

「然らば念無う渡さうずる。」と,双手(もろて)にわらんべをかい抱いて,日頃の如く肩へのせると,例の太杖をてうとついて,岸べの靑蘆を押し分けながら,嵐に狂ふ夜河の中へ,膽太(きもふと)くもざんぶと身を(した)いた。が,風は黑雲を巻き落いて,息もつかすまじいと吹きどよもす。雨も川面(かはづら)射白(いしら)まいて,底にも(とほ)らうずばかり降り注いだ。時折闇をかい破る稲妻の光に見てあれば,浪は一面に湧き立ち返つて,宙に舞上る水煙も,さながら無數の天使(あんぢよ)たちが雪の翼をはためかいて,飛びしきるかとも思ふばかりぢや。さればさすがの「きりしとほろ」も,今宵はほとほと渡りなやんで,太杖にしかとすがりながら,(いしずゑ)の朽ちた塔のやうに,幾度(いくたび)もゆらゆらと立ちすくんだが,雨風よりも更に難儀だつたは,(けし)からず肩のわらんべが次第に重うなつたことでおぢやる。始はそれもさばかりに,え堪へまじいとは覺えなんだが,やがて河の眞唯中へさしかかつたと思ふほどに,白衣のわらんべが重みは(いよいよ)()いて,今は(あたか)大磐石(だいばんじやく)を負ひないてゐるかと疑はれた。所で遂には「きりしとほろ」も,あまりの重さに壓し伏されて,所詮(しよせん)はこの流沙河に命を(おと)すべいと覺悟したが,ふと耳にはいつて來たは,例の聞き慣れた四十雀の聲ぢや。はてこの闇夜に何として,小鳥が飛ばうぞと(いぶか)りながら,頭を(もた)げて空を見たれば,不思議やわらんべの面をめぐつて,三日月ほどな金光が燦爛(さんらん)(まる)く輝いたに,四十雀はみな嵐をものともせず,その金光のほとりに近く,紛々と躍り狂うて居つた。これを見た山男は,小鳥さへかくは雄々しいに,おのれは人間と生まれながら,なじかは三年(みとせ)勤行(ごんぎやう)を一夜に捨つべいと思ひつらう。あの葡萄蔓(えびかづら)にも紛はうず髪をさつさつと空に吹き亂いて,寄せては返す荒波に乳のあたりまで洗はせながら,太杖も折れよとつき固めて,必死に目ざす岸へと急いだ。

    それが凡そ一時(ひととき)あまり,四苦八苦の内に續いたでおぢやらう。「きりしとほろ」は(やうや)く向うの岸へ,戰ひ疲れた獅子王のけしきで,(あへ)ぎ喘ぎよろめき上ると,柳の太杖を砂にさいて,肩のわらんべを抱き下しながら,吐息をついて申したは,

「はてさて,おぬしと云ふわらんべの重さは,海山(うみやま)(はか)り知れまじいぞ。」とあつたに,わらんべはにつこと微笑(ほほゑ)んで,頭上の金光を嵐の中に一きは燦然ときらめかいながら,山男の顔を仰ぎ見て,さも懐しげに答へたは,

「さもあらうず。おぬしは今宵と云ふ今宵こそ,世界の苦しみを身に(にな)うた『えす・きりしと』を負ひないたのぢや。」と,鈴を振るやうな聲で申した。……

―――――――――――――――

    その夜この方流沙河のほとりには,あの渡し守の山男がむくつけい姿を見せずなつた。唯後に殘つたは,向うの岸の砂にさいた,したたかな柳の太杖で,これには枯れ枯れな幹のまはりに,不思議や(うるは)しい(くれなゐ)の薔薇の花が,(かぐは)しく咲き誇つて居つたと申[15]されば馬太(またい)御經(おんきやう)にも(しる)いた如く「心の貧しいものは仕合せぢや。一定(いちぢやう)天國はその人のものとならうずる。」

(『新小説』,春陽堂,1919(大正8)年第廿四年第五號,大8.4.15)

    

    

    

校註


[1] Jacobus de Voragine の聖人傳に依れば, レプロボスが仕へたのは カナアン(Canaan)の王であった。Cf. Jacobus de Voragine, Englished by William Caxton 1483 “The Golden Legend (Legenda Aurea)”.

[2] 云ふまでもなく,日本の武家の正装。

[3] 貝=法螺貝,日本傳統の樂器。陣鐘および陣太鼓とともに合戰に使はれた。法螺貝は密教僧にも用いられた。

[4] 室町時代末期から江戸時代初期にかけて輸入された精錬鐵。和鋼に比し炭素量がやや高く,またリン,硫黄などの不純物も多く,決して良質ではないが,舶来品ということで珍重されたらしい。原産地は中近東方面と推察されている。(ブリタニカほか)

[5] ペリシテ人は、紀元前12世紀から紀元前604年にバビロニアのネブカドネザル2世に敗北するまで、カナンの南海岸に住んでいた古代の人々。ゴリアテはペリシテ人の巨大な戦士。 彼らが紀元前950年頃(?)にイスラエル人と合戦した場面は、「サムエル前書第17章」に書かれてゐる。「17:4 時にペリシテ人の陣よりガテのゴリアテと名くる挑戰者いできたる。其身の長六キユビト半。17:5 首に銅の盔を戴き身に鱗綴の鎧甲を着たり。其よろひの銅のおもさは五千シケルなり。17:6 また脛には銅の脛當を着け肩の間に銅の矛戟を負ふ。17:7 其槍の柄は機の梁のごとく,槍の鋒刃の鐵は六百シケルなり。楯を執る者其前にゆく。17:8 ゴリアテ立てイスラエルの諸行伍によばはり云けるは,汝らはなんぞ陣列をなして出きたるや。我はペリシテ人にして汝らはサウルの臣下にあらずや。汝ら一人をえらみて我ところにくだせ。 17:9 其人もし我とたたかひて我をころすことをえば我ら汝らの臣僕とならん。されど若し我かちてこれを殺さば汝ら我らの僕となりて我らに事ふ可し。17:10かくて此ペリシテ人いひけるは,我今日イスラエルの諸行伍を挑む一人をいだして我と戰はしめよと。 17:11サウルおよびイスラエルみなペリシテ人のこの言を聞き驚きて大に懼れたり。」 因みに,1キユビト=約50cm,1シケル=8.36g。

[6] 合戦のは聖人傳にはない。

[7] 吟遊詩人。

[8] (葡)vinho tinto。大航海時代にポルトガルから傳來した赤ぶどう酒。日本では「珍陀(チンタ)」と轉化。

[9] 聖人傳には,レプロボスは王のもとを離れて歩いて砂漠に行き,そこで騎士のなりをして部下を引連れた惡魔に遭遇したとある。

[10] (梵) Kalavinka。佛教で説かれる想像上の鳥で極樂浄土に棲み,妙聲をもって法を説くといはれ,人頭鳥身の姿に表される(ブリタニカ)。

[11] 祈禱などの効驗があること(大辞林)。

[12] 蘭と麝香。

[13] 老隠者が惡魔の奸計で遊女に誘惑される話は聖人傳にはない。「聖アントニウスの誘惑」の一場面を聯連想したものかも知れない。

[14] 西藏の拉薩を流れる河を想起させるが,實際には近東の何処かの河であったと思はれる(調べはしたが,筆者には依然不明)。

[15] 聖人傳には,その後,聖クリストフォロスが異教徒の國リシアに赴いて布教に努め,最後には拷問を受け,刎首されて殉教するとある。