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芥川龍之介『きりしとほろ上人傳』 – 注釈者による前書き

     

     

1919(大正8)年,「新小説」第三號及び五號 [1] に發表された本小説は,著者が1926(大正15)年1月に出版した随筆『風變りな作品二點に就て』 [2] の中で述べてゐるやうに,レプロボス,聖名聖クリストフォロスの傳記を材料にして書かれた半フィクションであって,文體は16世紀末に日本に紹介され,江戸時代に普及した『伊曾保(イソツプ)物語』の倣ってゐます。

    

著者は『きりしとほろ上人傳』の小序で「傳中殆ど滑稽に近い時代錯誤や場所錯誤が續出するが,予は原文の時代色を損ふまいとした結果,わざと何等の筆削(ひつさく)をも施さない事にした。」と述べ,原著が恰も存在したかのやうに匂はせてゐますが,それはカムフラージュでありました。

    

著者が參考にした聖クリストフォロス傳が収められた原典が何れであったかは定かでありませんが,恐らく Jacobus de Voragine (1230 –1298 AD) によってラテン語で書かれた聖人傳を集成して15世紀に印刷された Legenda Aurea または,その英譯版 [3] であったと推定されます。原典と比較すれば『きりしとほろ上人傳』が芥川の想像に満ちてゐることが明白です。

    

実際,小説には、聖人傳には存在しなかった話が随所に見られます。第一に,レプロボスが仕へた王はアンチオキア王ではなく,カナアン王でありました。武將として隣國との合戰に參加する行は芥川のフィクションであって,その様子は,その中に引用されてゐる『サムエル前書第17章』の「ペリシテ人の巨大戦士ゴリアテの記述」を模したと想像されます。第二に,レプロボスがアンチオキアからエジプトの砂漠まで惡魔に抱えられて宙を飛ぶ行,これはゲーテの『ファウスト』に中で「ファウストがメフィストフェレスに連れ出される行」にヒントを得たのかも知れません。聖人傳には,レプロボスは王のもとを離れて歩いて砂漠に行き,そこで騎士のなりをして部下を引連れた惡魔に遭遇したとありました。老隠者が惡魔の奸計で遊女に誘惑される挿話も元の傳記にはありませんが,これは「聖アントニウスの誘惑」の一場面を連想したものかも知れません。物語の中でレプロボスが渡守として奉仕した流沙河は西藏の拉薩を想起させますが,實際には近東の何處かと思はれます。

    

「フィクションの中のフィクション」としては,以下の例が擧げられませう。第一に,アンチオキア軍と隣國軍との合戰で,貝金陣太鼓の音を立てて兵が旗差物を背に戰ふの様子は,さながら日本の戰国時代の合戰に似てゐます。第二に,老隠者が惡魔の奸計で遊女に誘惑される場面の描写は嘗て存在した日本の廓を彷彿とさせます。細かな點では,日本の武家装束の漆紋の麻裃や,ポルトガル時代に日本に輸入された南蠻鐵や珍陀の酒も登場します。レプロボスの葡萄蔓のやうな髪に巢くった四十雀は“アクセサリー”ではありますが,これは小説の構成に一定の役割がを演じてゐます。

    

キリストを肩に擔いで河を渉る行は略々原典の通りです。原典には,その後,聖クリストフォロスが異教徒の國リシアに赴いて布教に努め,最後には拷問を受け,刎首されて殉教することが記載されていますが,この部分は『きりしとほろ上人傳』では省かれてゐます。用語に関しては,キリスト教の聖人,聖典,呪文に佛敎用語の上人,經文,眞言が使はれてゐますが,これは芥川の洒落でありませう。

    

本小説にも現在では稀にしか使はれない語彙が多く見られ,延いては,その時代の讀者の日本語力の高さが窺知されます。

    

話の面白さと云ふ意味では,本小説は芥川の作品中でも上位に属すると思はれます。

    

本小説の文體が模倣された伊曾保物語が出版された16世紀末は,英國ではエリザベス朝の時代に相當します。小説に盛られた雰囲気を表現するには,Elizabethan English または その時代の方言を採用するのが良かったのでありませうが,それは私の手に餘りますから,翻譯には「現在の英語」を用ひました。

    

翻譯者は本小説の英訳を添削して呉れた彼の孫娘・華菜子に謝意を表する。

    

猶,大正8年「新小説」初出のコピーは,日本近代文学館の好意に依って取得した。

    

2020年12月

    

井口正俊

    

    


[1] 『新小説』,春陽堂,1919(大正8)年第廿四年第三號,p.2-11,及び同第五號,p.1-8。

[2] 『文章往來』, 春陽堂,大正十五(1926)年1月発行)

[3] Jacobus de Voragine, Englished by William Caxton 1483 “The Golden Legend (Legenda Aurea).